ナポリタンごっこ

飴屋かおる子

  五月九日(日)

「ねえ、リエちゃん、わたし、死にたいなあ」
 ばかみたいに青すぎる空には似合わない台詞をモモカは言った。土手の草原を走るさわやかな風があたしの前髪を惜しみなく崩したけれど、あたし、それを気にする心を全て、モモカに奪われていた。
 その言葉を聞く限り、モモカはどうやら死にたいらしかった。あたしも死にたいって思ったことくらいはある。例えば小学生のときに授業中に気持ち悪くなっちゃって教科書の上に嘔吐したときとか、今年の出来事で言うと、四月に推してるバンドのライブのチケットが当たったときとか。でも、死にたいって思っても人に言うことはなかった。だってそんなの口に出さなくたって、いつか死ぬし。
「モモカは、死にたい、んだ」
 やっと前髪を手ぐしで弄いながら、無意味にモモカの言葉を反芻する。生きるとか死ぬとかって、たしかに万人につきまとうものだ。でもその言葉たちが、「空は青い」ぐらいにしか世間のことを捉えられていないばかな高校生の、さらにその端くれのあたしが無闇に扱えるような代物ではないということは分かっている。なのに、モモカはさらりと、あたしに向かって「死にたい」って言うん、だ。
「リエちゃんは?死にたい?」
 台詞には似合わないくらい、モモカは明るい笑みを浮かべる。いや、五月の空には、似合うか。あたし、さっきから変な世界にいるのかなあなんて、証拠も何もないけど、そう考えたくなちゃっう。強いて言えば、空にしては空が青すぎるとか、かな。あたしはきらきらしたモモカの笑みに、結った髪の毛先を弄りながら、どうしようもなく答える。
「まあ、いつかは、ね」
「いつでも死ぬ覚悟はあるの?」
「生きるってことは自動的にそういう――覚悟ができるっていうか、つきまとうことになるって、前、モモカが言ってたんじゃん」
 モモカはどうしてこういうことを聞くんだろう。なんとか笑っているけれど、なんだか泣きたくなってきた。土手に座って泣いている女子高生のなんともいえない姿を自分で想像しながら、すぐそばに咲いていたシロツメクサの茎をぷちりと切る。ぽんぽんした白い花を親指で手のひらに押し付ける。まるい花を手で転がしているだけで生きてていいにんげんになりたいな。花に逃げたあたしを見て、モモカもそこらへんのシロツメクサを手折って、花を転がすようにぎゅむぎゅむつぶした。
「じゃあ、できてるってこと?」
 できてるとかできてないとか、わかんない。そんなこと聞かないでほしい。ただ、あたし、少なくとも死んでない。ぎゅ!とシロツメクサを親指でつぶすと、花弁がばらばらになって崩れた。
「あたしはまだ死んでない」
 モモカの目をじっと見た。モモカの目に映っているあたしを見た。モモカはうっとりするみたいに目を細めて、青空に、あたしに、やわらかいボブカットの髪を揺らした。
「じゃあ、一ヶ月後にわたしと死のう」


  五月十七日(月)

 モモカはときどきおかしい。自分で自分のコントロールが出来なくなることがある。モモカは家庭で色々あるってことは随分昔から知ってたし、ストレスが溜まりすぎるとそういうことがある。だから今回の「一ヵ月後にわたしと死のう」宣言も、モモカがちょっと、精神的に不安定になっちゃったのかなって思った。あたしは純粋にモモカを心配してた。だってあたしはモモカに生きててほしいから。勝手な思いかもしれないけど、その思いでわたしは生きていた。
 でもモモカは本気みたいだった。みたいだった、じゃない、本気だ。遊びに行ったときに「死ぬときはこれをつけてようかな」ってヘアピンを買ってたし、普段本なんて読まないのに「死ぬ前にはこれを読んでおきたい」って星の王子さまを学校の図書室で借りてたし、「あのビルから飛び降りたら死んじゃえそうだね」とか言ってビルを指差すし。
 あたしはそれらに「やめてよ」って言えないまま一週間を過ごした。「一緒に死のう」って土手で言ったあの日の前は、結構疲れてそうな顔の日が多かったのに、最近はモモカはずっと生き生きしていた。モモカは生きてた。それ自体はたしかに、あたしの本望。だからなのかなんなのか、「やめてよ」って言いたい気持ちはどこかあったのに全然言い出せない。
 やっぱり、モモカのことしか考えられなくなっている。ざわざわしている教室の中で、わけもなく前髪をいじってみる。授業が全然身に入らなくて、ぼうっと板書するだけで四時間目までを終えてしまった。手元のノートに目を落とす。寝てるよりはマシ、かな。色ペンを使う気力がなくて黒っぽくなったノートを見つめる。ちょっとぐにゃっとした赤ボールペンの下線がナポリタンみたい。
「リエちゃん、ご飯食べよ」
 ナポリタンにぼうっとしていたら、モモカがやってきてあたしの肩をぺちぺち叩いた。あたし、あ、ああ、とナポリタンから顔をあげる。
「食べる食べる」
 生きることは食べることだ。食べることは生きることだ。ノートのナポリタンを喰らって生きる、なんてねえ、――。
 あたしは笑った。それと同時に、モモカはあたしの隣の席の矢沢くんの椅子を勝手に借りて、あたしの席の方に寄せた。あ、と一瞬思ったけど、矢沢くんは放送部だし、放送室でご飯食べるだろうから、大丈夫でしょ。あたしは広げていたノートと教科書を机に突っ込んで、机の横にかけてたお弁当を取り出した。あたしのお弁当箱は丁度今日の空の色みたいなシアンで、蓋に八分音符が散ってて、ちょっとチープで、あんまり好きじゃない。でも、好きじゃないくらいが、毎日鞄の奥に沈めて学校に持ってくには丁度いい気がする。それはたぶんこれからもきっと、そうだ。少なくとも今月中は、梅雨に入る前までは。
「あのね」
 モモカは、購買で買ったと思しきメロンパンの袋を開けながら言った。あのね、のね、が跳ねていて、今日もモモカはるんるんらしい。この、あたしのお弁当箱の八分音符みたいに。それにうん、と相槌を打ちながら、あたしはお弁当の蓋を開ける。なんと、今日の昼食はナポリタンだった。ぐにゃぐにゃに絡まっているナポリタンが、シアンの、空色のアウシュビッツのガス部屋の中でもつれあいながら死んでいる。
 え、と自分が思わず口の端をゆがめたとき、モモカがさわやかに息を吸う音がすぐ隣でした。
「死んでもわたし、リエちゃんのこと思い出すよ」
 メロンパンをもぐもぐしながら、モモカは笑った。お昼休みのがやがやした雰囲気に、「死」というワードは意外にもよく溶け込んだ。あたし、ナポリタンを食べるためのお箸をゆるく握る。
「死んでも一緒だよ、じゃないんだ」
「死んでも一緒は重すぎだよ、死ぬまで一緒だよ」
「そっちも重たいよ」
「とにかく、わたしはリエちゃんのことずっと覚えてると思うの」
「……ありがとう?」
 あたし、なんだかよくわからないまま、箸でナポリタンを口につっこむ。ケチャップがべちょべちょしてて、あまりおいしくなくなってたけど、なんか、モモカの話がよくわかんないから、どうでもよくなった。ナポリタンを食べながら息は吸えなくて、モモカが「それでね」とまた別の話を始めたのに、うんと相槌を打つことができなかった。


  五月二十八日(金)

 放課後、マクドナルドの明るすぎる照明に、モモカのサイドの髪を止めるヘアピンはよくきらめいた。そう、死ぬときにつけたいなって買ってたヘアピン。それがよくあたしの目に止まるものだから、今日は心がずっと胸焼けしてて、もみ消せそうなのにもみ消せない何かの種がずっと燻り続けている。
「それで結局、モモカはどうやって死ぬつもりなの」
 なるべく他人事みたいに、あたしには関係のないことみたいに聞きたくて、あたしはフライドポテトをBBQソースにつけこんだ。それを食べると、ポテトが奥歯にぐじょってなって、スモーキーなにおいが鼻の奥につんとして、口の中と指先が一気に油っぽくなった。ポテトなんか食べるんじゃなかったな。モモカはポテトを二本一緒に食べてつやつやになった唇を開く。
「うーん、何でもいいけど、飛び降りてみたいよね」
「ビルから?」
「ビルから、リエちゃんと一緒に。せーので息吸ってね、えいやって」
「ふうん」
 窓の外に目を向けた。ビルなんて、この世に腐るほどある。誰かが飛び降りたビルも、たぶんそう。その言葉を聞くかぎり、やっぱりモモカはあたしをどうしても道連れに死にたいらしい。それとも、人間が二人飛び降りるという事実をつくることで、とあるビルを腐らせたいのかな。
 カラスが二、三羽、向かいのビルの上を横切った。窓ガラスに自分の顔が映りこんでいるのに気がついて、あたしは曇った空と町並みから、ううん、自分の不機嫌な眼差しから目を逸らした。
 モモカはポテトを次々に食べていく。一緒にLサイズのフライドポテトを買ったけど、あたしが食べた一本以外はモモカが食べていた。その油でモモカの唇はヘアピンと同じくらいに照明によく映えて、いい顔色がもっと明るくなっている。あたしはそれを勝手に喜べなくて、なんかもう、なんていうか、死にたいな、なんて軽率に思った。
「リエちゃんが嫌だったら別の方法でも――」
「それでいい」
 早口に答えてあたし、フライドポテトを三本を一気につまむ。一本だけにょろっと長かったけど、構わず口に入れた。口の中をべちょべちょにして飲み込む。べちょべちょ。十日くらい前のお弁当のナポリタンを思い出す。
「ほんとに?」
 モモカは食べかけたフライドポテトを口から落としそうだった。ちらちらって、唇とヘアピンが明かりにうるさい。思わず、床にコーラをぶちまけたみたいな声が出る。
「それでいいってば」
 あたしはびっくりした。自分の声にじゃなくて、一瞬できゅっと縮こまったモモカの首と肩に。モモカの目からさっきまでの生き生きしたつやがなくなって、いじめられて怯えてる小さな野良猫みたいに曇った。これ、ちょっと前までのモモカの目だ。「死のう」って言い出す前の、モモカ。それに気づいて、口の中の油っぽさがひゅっと消え失せる。
「……ごめん」
 あたしが言ったかモモカが言ったかわかんないけど、あたしたちの唇はどっちもつやつやしてた。マクドナルドの酸素が一気に薄くなった心地がして、あたしたちはどちらともなく席を立った。フライドポテトはまだ、三割くらい残っていた。


  六月九日(水)

 今にも雨が降りそうで、風が冷たい日だった。やだな。いつもと同じく髪はポニーテールにしているから、頬を風が直になでる。この頬が今日からずっと、永遠に冷たくなる予定、だ。だからあたしとモモカは、学校に欠席の連絡を入れて、煤けたビルの上に来てる。じきに腐るかもしれないビルの屋上の端っこにはもちろん、あたしとモモカ以外に誰もいない。もう靴はきちんと揃えて脱いだ。はやく飛び降りちゃえよと囃しているのか、それとも死ぬのなんてあきらめて靴を履けよと言っているのか、靴下を履いていても足裏がコンクリートの地面に冷たい。
「モモカ」
 あたしが呼ぶと、モモカは学校にいるときと同じ速度で振り向いた。なに?と首を傾げたのに合わせて、茶色みを帯びたモモカのボブヘアーが揺れる。その揺れを死ぬ前に目に焼き付けようとは思わなかった。逆に、モモカの身体の一部ではないヘアピンの方が目にちらちらする。死ぬときはこれをつけるって言ってたヘアピン。本当に、今日、モモカは死のうとしているんだ。あたしはようやく意を決して、口を開く。一ヶ月前から飲み込み続けていた言葉を言うために。
「今日、梅雨入りなんだって」
「大丈夫だよ、死ぬのに傘も雨も関係ないし」
 あはは、とモモカはフェンスに身をもたげる。弱々しいフェンスはがしゃんと音をたてて、モモカの笑い声とよく合わさった。あたしもできるだけ自然な笑みをつくる。
「ねえやっぱり、梅雨が明けたくらいに死なない?」
 あたしは空気を噛むように、モモカの目の奥につながっているモモカの脳本体に届くように言った。けど、モモカの眉間はすうっと、丁度この梅雨入り日の曇天みたいに、かなしげにあたしの言葉を跳ね返す。「なんで?」
「なんでって」
「なんでは、なんで?だよ」
 冷たい風がまた吹いて、あたしは肩を竦める。モモカはフェンスに身を預けるのをやめて、あたしの方をちゃんと見た。
「リエちゃんずっと、自分が死ぬ話は口に出してこなかったのに、急にそんなこというんだね」
 笑った。たしかにモモカは笑っている。口角が上がっているのはたしかだ。モモカの目はあたしを見据えていた。あたしはもう笑えなかった。思わず喉がごくりと鳴る。たぶん、冷たい風のせいじゃ、ない。
「わたしはね、真剣に死にたいって思ってたの。願いは口に出さないと叶わないから、ちゃんと死にたいって前々から言ってたの。でもリエちゃん、あんまり、そういうこと言ってくれてなかったよね。別にリエちゃんにちゃんと言って欲しかったって言ってるわけじゃない。あんまり言ってくれなかったリエちゃんは直前になって別の日に死にたいとか言い出すなんて、卑怯だよねって」
 すうっと、モモカの目が細まった。いつもはくりくりしていて、たれ気味のモモカの目が細まって細まって、果物ナイフみたいだ。
「卑怯って、なに」
「リエちゃんは卑怯だって言ってるの」
 今から泣くのか笑うのかわからないような、感情がぐちゃぐちゃになった顔をモモカはする。目は鋭くて、でも唇の端は上げようとしているらしくて、でも下唇は甘く噛んでいて、眉は困ったように垂れている。ヘアピンが鈍く曇天にちらつく。だめだ、あ、だめ。モモカが、モモカが、モモカの器からあふれようとしている。「待ってよ」、「ちがうの」、「ごめん」、「どういうこと」、どの言葉も喉を過ぎようとしてくれなくて、あ、あ、と口を半開きにするしかない。とにかく、モモカをそこに、ここに留めたくって、どうにかしなきゃって、あたし、一歩踏み出す。だけど、モモカは鋭く叫んだ。
「リエちゃんは卑怯だって言ってるの!」
 モモカは丁寧にかかとを揃えて脱いでいたローファーの片方をつかんで、あたしの方へ投げた。ぐるんぐるんとローファーが宙を舞う。思わずひっと体を縮めて、薄目に目を開ける。けど、ローファーはあたしの右横にぽとんと落ちて、二回転するとぴたりと止まった。モモカの頬があかい。耳まであかい。こんなに冷えた風なのに?こんなに頬をなでる風が冷たいのに?あたしの頬は冷たい、よ。
 ちらりとモモカのローファーを見やった。履いてもらう主がそばにいなくて、片っぽだけで冷たい風にさらされているローファーを見ていると、なんだかもう、ここでモモカを言葉で引き止めるのは無理がしてきた。あたしは揃えて脱いでいたスニーカーを履きなおす。それに一瞬モモカは怯む。
「いいよ、別に、卑怯で」
 スニーカーのかかとを合わせながら、あたし、投げやりに言う。モモカの顔は曇っていた。さっきまでの頬の火照りは少し引いていて、ローファーを投げたときよりは幾分か冷静になっているような気がした。
「卑怯なヤツとせーので飛び降りて死ぬなんてやめた方がいいでしょ」
 あたしはモモカと忍び込んだビルの屋上をひとりで去った。ぎいと重々しい音を立ててビルの屋上への扉は閉まる。でもなんとなく、モモカは死なない気がしていた。だって、死ぬまで一緒って言ったのはモモカの方なんだから。モモカが、言ったんだ。それに今日は梅雨入りで、あの日みたいな病的に青すぎる青空じゃないし、ここはただのビルだし、腐ってないビルだし、モモカがあたしと一緒に死なないわけないし、モモカがおかしくなったら止めるのはあたしだし、絶対に屋上を出たあたしの後を追ってくれるはずだし、このビルは腐らないはずだし、またマクドナルドで一緒にポテトを食べるし、おそろいのヘアピンとか買うし、ナポリタンなんか、ナポリタンなんか作ってあげて一緒に食べて生きるし。モモカはあたしといる。だから、あたしはモモカといる。
 でもあたしがビルを出ると、なんだかやけに道が騒がしかった。あたしが出てきたビルの裏側に人が集っている。あたしも野次馬感覚で騒がしい方を覗いてみると、アスファルトの地面にナポリタンがぶちまけられたみたいになっていた。あたしはすぐにその人だかりから逃げだした。一時間ぐらい前にモモカと一緒に降りた駅まで戻って、その駅のトイレの便器に吐いた。朝に何食べたかなんて忘れちゃったけど、とても口が油っぽくて、梅雨入りにふさわしい口の中になった。今日はフライドポテトを食べてもいい気がした。
 あたしは、何もかも間違えたけど全部自分のせいじゃないみたいな顔をして、東西線に乗るつもりだったけどホームを間違えているのに気づかないみたいな顔をして、丸ノ内線に乗り込んだ。もうラッシュ時は終わっていて、人はいるけどみんな座ってて、あたしだけ制服を着てドアのすぐそばに立っていた。地下を走る列車の暗い窓には、どうあがいてもモモカはいなくて、ポニーテールのばかな高校生だけしか映らなかった。


  七月二十二日(木)

 意外と普通に日々は過ぎていった。なんか、モモカがナポリタンになってる世界がもとからあったみたいな、そもそも世界にモモカなんて子はいなかったみたいな、そんな感じに。お昼休みには購買のパンじゃなくてお弁当を食べる。となりの席の矢沢くんはいつもいないし、お弁当の中身はたまにナポリタン。放課後はマクドナルドとか寄り道しないで、家に直帰して、ご飯食べて、ちょっとだらだらしてから勉強してみて、時間が経ったらまただらだらする。そういう日々。土日に急にモモカに呼び出されて遊びに行くとか、そういう面白いことはないけれど、不満があるわけではない。
 でもまあ、今日は折角夏休みに入ったことだし、あたしは自転車を走らせて図書館に行くことにした。面白いことは探しに行けばいいじゃん、と思って。
 久しぶりに本棚に囲まれてみる。小学生の頃は時間がたっぷりあって、本をそこそこ読んでいたような気がする。でもどうしてか最近は読んでないし、図書館に行くこともあまりなかった。モモカは本が好きじゃなかったから、ふたりでこんなところ行かなかったのも原因のひとつかもしれない。
 借りたい本があるわけではないから、適当に本棚を眺めながらぶらぶら歩く。そうやってぼうっとしてたら、いつのまにか児童書ばっかりの本棚の群れに迷いこんでいた。さすがに児童書の方まで放浪しなくていいかなと思って、あたしは背の低めの本棚を横目に引き返そうとする。
 だけど、『星の王子さま』と書いてある背表紙が丁度視界に入り込んできて、あたしは足を止めた。そっと本の背に指をかけて本棚から引き抜く。少年がどこかの星に立っている絵の、見覚えのある表紙。モモカは図書室でこれを借りてたけど、読み切ったのかな、結局。気になってぱらぱらとページをめくってみる。そんなことしても、『星の王子さま』にはその答えは書いてない。あたしにはもうわからない。溜息がもれて、もうやんなっちゃって、その本を本棚の元の場所へ戻した。
 結局何も借りないまま、図書館をあとにする。帰り道、あの日シロツメクサをつぶした土手を自転車で走る。もう夕方になってて、ぱあっと晴れたあかい空から街の向こうへと太陽が沈んでいる。この夕日をひとりで見てる。自転車に乗って、ひとりで。やっぱり卑怯なんだな、あたし。引き止められなかったくせに、モモカがちゃんとあの本を読んだのか知りたくなっちゃって、ひとりで夕日なんか見ちゃって。
 あかいあかい夕日に、あたしと自転車の影は伸びすぎた。伸びすぎて、伸びすぎて、べちょべちょになって泣いていた。もう梅雨は明けたのにべちょべちょで、あたしもはやく、ちゃんとしたナポリタンになりたくなった。

ナポリタンごっこ

ナポリタンごっこ

2020年7月 作成 / 2021年3月 某アンソロジーに掲載

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-04-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted