降花祭の起源

風もよう

 ある冬の日の朝早く、彼女はひどい寒さに震えながら目を覚まし、継ぎだらけの薄っぺらい布団をはいでベッドから出た。カーテンもない窓のそばに寄っていき、どんよりと暗い空が木々の間に透けているのを見て、深いため息をついた。
「きょうは雪が降るかもね。ねえ、お兄さん」
 兄のベッドを振り返ったが、返事はない。一間しかない小さな家の中は薄暗く、横たわる彼の表情もわからなかった。
「今度大雪になったら、この家はほんとに、つぶれてしまうね」
 彼女は明るくそう言うと、窓のそばを離れ、マッチをすって薪ストーブに火をつけ直した。
 森の深みに建つこの家はぼろぼろで、すでに人が住むのに望ましい状態ではなかった。崩れかけた壁と裂けかけた屋根でもって、かろうじて人家のかたちを保っていた。長い間、彼女は修繕を依頼することをしてこなかった。兄がいるからだ。
 兄は、病者だった。なんという病者なのか、彼女も、生前の両親も、町の人たちも正確には知らない。彼はいつも眠っている。ものすごく長く眠るのだ。そうして三日に一度目覚めたときには、少しの他人の気配にも驚き、憔悴し、激しく取り乱してしまう。そんな兄は町の人たちに恐れられ、また同時に、一家は兄と他者が接触することを恐れ、やがて自分たちそのものを恥じるようになり、いつしか町には住めなくなっていた。
「きょうの献立はどうしようか」
 眠る兄のベッドを見やって、明るい声で彼女は言った。この日にはまだ、起きてくるはずもない兄なのだったが。
「朝と昼は軽いものにして、夜は少しだけ、いいものにしましょうか」
 役人であった父の残したたくわえが、彼女たちにはまだいくらかある。そのため、彼女たちの食事は家の粗末さに比較すればまっとうである。以前はもっと立派な家を森の中に持っていたが、両親の死後、町のものたちにうまく言いくるめられ、捨て値で売ってしまった。それからは、このぼろ小屋に移り住んでいる。
 食材と簡単な生活用品は、町の青年が三日に一度届けにきてくれる。寒さに赤らむ顔を、いつも火の色をした毛糸の帽子にくるんだ青年は、ここに来るたび、ごみを捨てるように(と、彼女には感じられた)据え付けてある籐かごの中へ新鮮な食材を置いていく。お代は月に一度まとめて渡すことにして、極力、彼女は青年と顔を合わせないようにしていた。布団や、衣類や、大物の生活用品も、頼めば彼が持ってきてくれるだろうが、彼女がそうすることはなかった。すっかり人を恐れるようになっている彼女は、火も、水も、ごみの処理も、煙突掃除も、なんでも自分の工夫でまかなった。そのように、たくましくなっていかざるを得なかった。
 家の修繕も、やろうと思えば自分でできなくはなかっただろう。そうしてこなかったのは、日々の疲弊のためでもあったし、彼女の破滅的な気分のせいでもあった。そして、今ではもう、このことは彼女ひとりの手には負えなくなっていた。
 今朝もまた、青年が品物を置いていく音がする。リヤカーが去っていくのを聞き届け、彼女は外に出た。かごの中身を確かめる。牛肉と、肉と、野菜と……けれども何かに気づいて、はっとして振り向くと、まだかすかに聞こえるリヤカーの音に向かって怒鳴りつけた。
「ちょっと! 卵が少ないんだけど? のけ者にはくれてやらないってか」
 声が、少し離れたところから帰ってきた。
「今回はいつも通りに用意できなかったって、詫びの手紙が入ってるだろ」
「そんなの、すぐには気づかないわよ。あんたらが普段から信用ならないから、疑わなきゃいけないんだ」
「少しは立場を考えてものを言ったらどうだ」
「考えて言ってるわよ、客という立場をさ。いやならもう来てくれなくてけっこう。あんたらの世話になるくらいなら、餓死したほうがよほどましだわ」
 勢いよく戸を立て切ると、自然と涙がこぼれた。どうということはないと思ったが、涙は止まらなかった。
 落ち着くと、朝食のパンとかぶのスープをひとりで食べた。週一回届けるように頼んである新聞を、読みもせず床の一角に投げ捨てようとして、しかし、天気予報だけは確かめることにした。予報によれば、今夜の雪は、この地にとってかつてない規模の大雪になる見込みだという。
 彼女は雪がこわかった。雪は、彼女の住まいを損ないにくる。森の中の家だとは言っても、木々に守られるようなかたちには建っていない。それに、雪が降ったときはいつも、それを口実に何日も、御用聞きが仕事をサボる。来たとしても、妙に品数が減らされていたりする(と、彼女は解釈した)。雪は、隔たっている彼女と世界とを、さらに隔てるものでしかない。
 朝食を終えると彼女は外に出て、家の南側に回った。その空間を彼女は庭と呼び、洗濯を干したりしている。が、きょうは洗濯は怠けることにする。ただ、大切に育てている黄色いプリムラと、クリスマスローズの鉢を軒下に移動させることだけは、しておいた。
 夕方になり、夜になった。雪雲はかたくなに、沈黙を続けている。夕食はスープの残りと、野菜をたっぷりつめこんだミートローフにした。兄は起きてはこなかったが、彼女はいつも通り兄のぶんも取り分けて、ささやかながらも華やかな料理を楽しんだ。
 それから、入浴や兄の衛生管理をすませてベッドに入り、彼女は物思いにふけった。
 彼女が十歳に満たないころ、一家は町からこの森の奥へと移り住んできた。両親は彼女が十七、八のころに相次いで病没し、以来、この女は町に足を踏み入れることもなく、二十年兄と暮らしている。
 自分が兄を愛しているかどうか、彼女は自分でもわからない。そんな薄情を、しばしば自責したくもなる。小さいころは、心から兄が好きだったはずだ。彼女にとって、兄は兄だった。ほかの人間と兄と比較したりなど、一度もしたことがなかった。しかし、今はもう、うとましさがふくれ上がるのをごまかせはしない。
 しかし、惰性で面倒を見る日々の中で、それでも愛に似た何かが、新たな深まりを得ながらいつしか形作られてきているのを、確かに感じはじめてもいた。兄との生活に何か意味があるのだとしたら、喜怒哀楽のどれでもない、この感情を見つけたことなのではないか。そのようにも思った。
「雪が降るんだ」
 だれにともなく、彼女は言った。「雪解けのあとには、必ず希望の春が訪れる」。そんな慣用表現も、思い起こされてきた。わたしのところにも、希望はやってくるのかしら。でも、わたしの希望ってなんだろう。そんなもの、あるわけもないのに。
 ……ああそうだ、ひとつだけあった。
 町の女として生きること。
 そんなことを考えて、身震いした。無理だ。遅すぎる。町の人と心を通わせるための言語さえ、きっともう忘れてしまっているに違いない。それにわたしには、お兄さんがいる。
 起き上がり、兄のベッドに歩み寄った。うめき声を上げはじめたその片腕をさする。すると兄は彼女見つめ、あえぎあえぎ、珍しく意味のあることばをつぶやきはじめた。
「……おまえが今、いちばん叶えたい希望はなんだ?」
「急にどうしちゃったの」
「いいから」
「わたしの希望は、お兄さんがずっと元気で」
 兄はさえぎった。
「おまえの、希望が聞きたいんだよ。どんなに難しいことでもいい、おまえのいちばんの希望を」
 見透かされている。当惑を感じつつ、彼女はもはやとりつくろわずに答えた。
「……そうだね。街の中心に、火の塔っていうのがあったでしょ。町の心臓って言われてた。四角い石を積み上げた塔のてっぺんに、不思議な火が、絶えることなく燃え続けているの。迷い人の道を照らし、悲しい人の心をあたため、虫一匹の命さえ焦がしたことはないというわ。とても高い塔だけれど、このあたりからは見えなくてね。子どものときに見ていたあの火をもう一度見られたら、これ以上のことはないと思うわ」
「それは……」
 兄は目を見開いて天井を見つめ、絶句した。それから、感心したように言った。
「なんと簡単で、なんと難しい願いだろう」
 そして、彼女優しく眺めた。
「町のすべての人にとっては、それは朝目覚めればすぐに叶う望みだ」
「そうだね」
 彼女は微笑した。
「でも、お前にとっては、この世でいちばん難しい」
「そうかもしれないね」
「町に帰りたいか」
 とんでもない。彼女は首を横に振った。
「……今まで、すまなかった」
 深い苦痛のにじむ目で、兄は静かに言った。
「やめて。それは言わない約束でしょ」
 彼女は顔を赤くして、声を荒げた。兄はそれ以上何も言わず、目を閉じた。窓辺に寄り、彼女は外を覗き込んだ。雪雲は厚くふくれ、今にも、希望か、絶望か、いずれともつかないけれども、とにかく何か巨大な思いを、こぼそうとしているかに見えた。

 七日後の朝である。
 御用聞きの青年は新しい青い帽子をかぶり、いつもより数日遅れて、森の奥の、あの薄汚れた女の家に届け物をしにいくところだった。なぜ町の大人が彼女を遠ざけるのか、彼は知らない。あの中年女のいっさいに関心はない。ただ、町の大人の意向を最優先しつつ、彼女の要望もすり合わせて、自分の仕事をこなすだけである。
 七日前のあの日、結局、雪は降らなかった。
 その代わり、ひとつおかしなことがあった。あの朝、町にはなぜかおびただしい花びらが降り、人々は驚き、歓喜し、やがてそれが市民生活に支障をきたすレベルの量であることに気づいてくると、首長はただちに特別委員会を召集し、市民による大清掃が開始されたが、おおかた片づけのすんだ今でも、町は不思議な高揚に満ちている。
 大わらわの大人たちとは対照的に、お祭り気分を楽しむ子どもや若者たちの中で、青年はひとり沈着に、自分の労働に戻っていった。
 森の中にも当然、膨大な花びらは降ったようだった。だれにも片付けられることなく地面を厚く覆い尽くすそれのせいで、非常に前に進みにくい。ふとした瞬間、風に巻き上げられたり、木の上から舞い落ちてきて顔や体にはりついてくる色とりどりの優しいその花びらを払いながら、彼はいつもの道を行った。
 そして、リヤカーを一歩一歩引いて歩くうち、この森でどうやらさらなる変事が起きていたらしい気配に、いやでも気づかされざるを得なくなった。いや、町からでも「それ」は見えていた。花びらに気をとられている町民たちはだれも気にとめていなかったが、町からのほうが、「それ」はよく見えたほどなのだ。
 視界の先に広がる異様の光景を、それでも、間近に見るまでは現実と認めたくはなかった。遠巻きに見えていたその信じがたい光景が、まったくの現実として目の前に立ち現れても、それでもなお、彼はその意味を、けして理解したくはなかった。
 いつもの場所に、あばら屋はなかった。あるのはただ、天を衝いてそびえ立つ、異様の、うずたかい銀の塔。そしてそれが、彼の町に建つ火の塔と、とてもよく似た姿をしているのである。
 混乱する意識を必死につなぎとめ、彼は考えを整理しようとした。まさか、この地に降る予定だったすべての雪という雪が、このあばら屋に結集し、この塔を形作ったとでもいうのか。
 青年は狼狽し、後じさった。しばらくは身じろぎもできなかった。しかし次の瞬間、汗にぬめる手で梶棒をつかみ、車の向きを替え、重たいそれを全力で引いて走り出していた。花びらを蹴散らしながら一心不乱に走り、森を突き抜け、やがて出口が見えたころには、もう何も思い出せなくなっていた。なぜ森に入ったのか、だれに会いに来たのか、二度と思い出すことはなかった。
 そして雪の塔は、適切な目撃者を得たことに満足したかのように蒸散していき、はたしてその下からは、崩れたあばら屋が現れたのである。

 けれども、案ずることはない。あばら屋はつぶれたけれど、彼女はつぶれてはいない。
 七日前のあの日、彼女はその不思議な雪の塔の中で目を覚ました。
 一変してしまった家の様子に驚き、銀色の巨大な円すいのその中を、端から端まで走り回り、叫びながら兄を探した。兄はどこにもいなかった。ただひとつ気づいたのは、この塔の美しい銀色が、兄の髪の色にとてもよく似ているということだった。
 塔の壁に、らせん階段が這っている。彼女はそれをのぼっていくことにした。のぼってものぼっても、少しものぼった感じがしなかった。ずっと同じところを回らされている気がして、あきらめて降りようかと思いはじめたとき、唐突に、天井と出口は近づいてきた。ほどなくそこまでたどり着き、彼女は屋上に出た。
 屋上は、花々にあふれていた。彼女が前日に軒下に避難させたもの、これまでに育ててきたもの、幼少期に父母が育てていたもの、そのほか、彼女がむかし学校や旅先や花屋や絵本の中で見て美しいと感じたものまで、彼女に関係した草花はすべてあるようだった。冬の花も、夏の花も、この日のためにその才能をもって生まれてきたのだとでもいうように、美しく咲き誇っていた。
 花に囲まれたその屋上から、かなたの町の風景が、よく見晴らせた。
 町の中心にて燃えさかる、火の塔の先端を彼女の目がとらえた、そのときだった。
 草花の茎や葉や枝や蔓が走り出し、次から次へと結び合わされ、力強い手すりと足場からなる吊り橋を形作り、それは町をめがけてどこまでも伸びていき、あっという間に雪の塔と火の塔をつないでしまった。
 花々に押し出されるように彼女は屋上の端に進み出て、震える足をかけた。一歩踏み出すと、少しもこわくはなくなった。そして光のように軽い足でそれを渡る彼女は、しだいに娘の姿に還っていきながら、またたく間に森と町の境を越え、なつかしい町の上空を走っていた。
 町の心臓としてあかあかと拍動する塔の先端は、目の前だった。不思議と、熱くはなかった。そして、彼女へと腕をさしのべるその炎をかき抱くように、その中へと身を投じた。すると草木の架け橋も端から溶けただれて消散していき、あとにはただ、大量の花びらが、町へと降下していった。

降花祭の起源

降花祭の起源

一応メルヘンなんですかね。季節感なし。またも雪の話。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-04-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted