さくら色の夢に焦がれて
ふふって笑った彼女は無垢な天使のよう。そんな君に恋をした私は愚か者だ。
来たことがないだろうなぁとぼんやりと思う。少し灰色がかった壁に囲まれた廊下。木目がはっきりとわかる小麦色の床。見上げると目の前に階段があって、私の三段上に見たことがありそうでなさそうな制服を着た女の子が1人立っていた。前髪がふわりと巻かれた艶やかな黒髪。長さは……肩を少し通り越したくらい。私が一段階段に上がったらきっと目線が同じになるだろう、とわかるくらい小柄で清楚な女の子。でも残念ながら、どんな顔をしているかがわからなかった。それは階段の踊り場に光を届ける窓のせい。まわりを淡くしてしまう。曖昧な世界に引き込まれてしまったみたいだ。
「来ないでって言ったら、怒っちゃう?」
頭上から聞こえる、可愛らしい声。どうだろう、と言いながら私は苦く笑った。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「うーん、わかんないや。ごめんね、来たいなら来てもいいよ」
声が少し高くなって無邪気な印象に変わる。私が来たら、嬉しくなってくれるのかな。
一歩を踏み出して階段を一段上がる。ほら、やっぱり。彼女と視線が同じになった。鼻が猫みたいにまるくて、まつげが長い。目は一重だけど大きい。
「来ちゃった」
まるで「待て」って言われたはずなのに飼い主が好きで好きでたまらなくてついてきてしまった子犬みたいに。
「来ちゃったか」
まるでそれを愛おしいと笑って許してくれる飼い主みたいに、彼女は口角を上げた。
「じゃあもう、離せないなぁ」
そう言って彼女は小さな歩幅で私に近づいて、私の前髪に手を伸ばす。ふわりと持ち上げて、彼女の顔が近づいた。その顔を凝視する。避けることもその手を払うこともできたはずなのに。
そっと愛おしそうに唇を私のおでこに寄せる。その唇はさくらみたいな淡いピンク色に染まっていた。すぐに離れてしまったから、私の脳はまだ足りない、と指令を出し始めた。
もっと彼女のことが知りたくなって、もっと彼女のことが欲しくなって、また一段階段を上がる。彼女を見下ろす高さになった。
「離れないでよ」
彼女の耳元に両手を伸ばして、顔を引き寄せた。彼女の唇に自分のをそっと重ねる。柔らかくてもちもちなクッションみたいだった。可愛らしい唇だから砂糖みたいに甘い味がするかと思ったけれど、何も感じられなかった。
───
桜の木の蕾が膨らみはじめた4月上旬。昇降口前のガラスに貼られた名簿を見て、私の名前を探す。私の苗字はあ行だから先頭の方から目で追っていくと、B組にあった。
一緒に来た両親と別れて、廊下を歩き始める。1年生の教室は3階にある。色褪せた赤色の階段を駆け上がってB組を探した。あまり目立ちたくないから後ろの戸口から入ると、何人かが私を見るために振り返った。中は緊張からか静かな空気に包まれていた。
「出席番号順?」
扉の近くにいた男子に声をかけ、自分の席に向かう。私の出席番号は2番目。廊下側の前から2番目の席だ。そこはもちろん誰も座っていない。窓側の席たちにはまだらに誰も座っていない席があった。廊下側はもう埋まっていた。私の隣の席には肩まで伸びたきれいな髪の女の子が座っていた。
おはよう、と小さな声で声をかけてみると私に気付いてくれた。おはよう、と返してくれた。その子はマスクをしていたから目を細めてはいたけど、本当に笑っているのかはよくわからなかった。
机の上に空っぽなリュックを置いて一息ついた。挨拶はしたものの隣の子と何を話したらいいかわからなくて前の席の女の子の髪が艶やかで綺麗だなぁとぼんやり眺めながら静かな時間をやり過ごそうと思った。
私の視線が痛かったのかな。前の席の女の子がこちらを振り返った。顎の高さまでの髪から白い頬が覗いた。丸い鼻に、一重にしては大きな目。ある日見た夢に現れた女の子にそっくりで、私の頬が勝手に熱くなる感覚を覚えた。
目をぱちくりとしてからはじめまして、と私の目を見てそう言った。当たり前なことなのに、器用に飲み込めなかった。また会えたのね、と心の中で彼女に返す。記憶を辿るのを後回しにして彼女の言葉を繰り返した。
初めは、みんな誰と一緒になるかなんてわからないほどぐちゃぐちゃで、ただただ1つに固まっているように見えた。とりあえずみんなと仲良くなろうと明るく振る舞って、心の中で誰とこれから一緒に連もうか品定めしているみたいに。これから少しずつ、小さなグループができていくのだろう。
私のクラスには、バレー部の女の子が2人いて、その子たちと一緒にいてもよかったと思う。あの子だってクラスの中で話せるようになった友達が2人ほどいた。その子たちとこれからずっと一緒にいるのかな、と頭の中をよぎった。だけど、係や所属する委員会を決めなくちゃいけないとき、彼女が後ろを振り返って笑いかけてくれた。
「一緒に、やらない?」
その笑顔はふにゃりとしてて溶けて消えてしまいそうに見えた。可愛いなって、率直に感じた。
運命なんじゃないかって、そのとき思った。ただ彼女にとっては一緒にいる友だちがちょうど2人で組んでしまってもう一緒にできる人が私しかいなかったってことかもしれないけれど。ただの偶然だったのかもしれないけれど。それでも今、このときから、彼女を捕まえておかなければきっともう近づけないんじゃないか、と根拠のない何かが頭の中でそう囁いた気がしたのだ。
それからというもの、体育の授業は運動神経の良さの違いから別々に行動していたけど、それ以外の時間はほとんど彼女の隣にいた。
華奢な身体、顔立ち。髪の長さは違うけれど、あの子とそっくり。仲良くなった理由がそれって不純だとつくづく思う。
入学して1ヶ月経過した。授業や部活にも少しずつ慣れ始めてきたそんな時期。桜も散って新緑の木々が生い茂るようになった。
3時間目の化学基礎の授業が終わり、ふわぁとあくびをした。正直、とても眠い。もともと数学や理科系が苦手な私にとって、この授業はとてもつまらない。教科書をしっかりと読みなさい、と先生に言われても何も頭に入っては来ない。板書をただ何も考えずに写す時間を過ごすだけで何も得られていない。あとで彼女からノートを借りようかな、とぼんやり考えていると彼女の隣の席の男子、尾上とその隣の席の菊地の会話が始まった。耳を澄まして聞いてみると、どうやら彼らが好きなバンドの話をしているみたいだった。
どうしたことか突然尾上が彼女に声をかけた。彼女はまだ右手を動かしていたから授業のことをまとめていたのかもしれない。
「このバンド、知ってる?」
クラス内で誰にでも気さくに接する尾上が彼女にスマホの画面を見せる。私もその話が気になって尾上のスマホをこっそり覗くと、そこには4人の男性バンドの画像が映っていた。彼らがメジャーなのか、イケメンなのかもよく見えなくてわからなかった。
「えっと……」
授業中のペアワークぐらいしか話さない間柄だから突然話しかけられて、驚いていたのかもしれない。ペアワークのときは笑い合いながら2人ともこなしているから、てっきり仲が良いのだと思っていた。それとも、そもそもそのバンドを知らないから何も言えなかった、というのも理由にあるかもしれない。
じゃあさ、と尾上は続けて尋ねた。
「『いつか』っていう歌があるんだけど、聞いたことある?」
また彼女はうーん、と言葉を濁す。彼女の横顔は髪に隠れてどんな色をしているかわからなかった。
「……もしかして、あんまり音楽聞かない?」
見かねたのか菊地がフォローに回った。
「……え、いや、ときどき聞くよ。あの、今度、聞いてみるね」
「あ、じゃあ今日LINEするよ。オススメのやつ、URL送っとくから」
尾上の言葉にわかった、と小さく彼女は頷いた。
「どれだけ拡めたいんだよ、そのバンド。俺のオススメの方いいってば。俺のは聞かないくせに」
「いやー、聞いてほしいくらいかっこいいし、あと歌詞がいい! お前のオススメより!」
菊地と向かい合ってまた暑苦しく語り始める尾上をあまり信じられなかった。本当にそのバンドを拡めたいから、なのかな。
変に詮索しないほうがいいかもしれない。
「菊池が勧めるバンドはどこがいいの?」
ここで乱入するのはまずかったかな、と言い出してそう思った。彼女もこちらを振り返った。割り込んでしまったから3人は嫌な反応をするかなと思いきや、その心配はいらなかった。菊池がニヤリと笑う。
「お。五十嵐は俺についてくれたか。んとね、ベースの音がすごい。イヤホンしてると低い音が脳を支配してるみたいで癒される」
「癒されるって何?」
「脳が喜んでるって感じるんだよ。こいつの勧めるバンドの音はぬるいから足りない」
「あー、なんかわかるかも。へなーってしてそう」
「爽やかだと言えや!」
すかさず入ってくる尾上の反応の良さに笑みがこぼれる。愛されるいじられキャラだなと席のご近所さんとしてよく思う。おかげで彼女がふわりと笑ったから。
「五十嵐も聞いてみ? アボカドが尾上のオススメで、アウトワードが俺のオススメね」
「うん、聞いてみる」
きっと聞かない。
ただこの空気を壊したかっただけで菊池を利用した、ただそれだけ。
ちょうどいいタイミングでチャイムが鳴る。黒板へ向く直前、彼女が小さく溜め息をついたのがわかった。どんな意味をもった溜め息だったかが知りたかったな。
「咲ちゃんはいいなぁ。男の子たちとすんなり話せて」
お昼休み、彼女がおにぎりを頬張る前にそう言った。席が前後の私たちは移動もしなくていいからとても楽だ。彼女が私の机に弁当箱たちを置いて向き合って食べる。
両手でそれを持つ彼女が小動物みたいで可愛いなと思いつつ、薄い笑顔で返す。
「そうかな。考えたことなかった」
「そうだよ。私なんか目を見るだけで精一杯だよ」
ふー、と彼女がまた息を吐く。きっと先ほどと同じものなのかもしれない。そんなに意識してしまうのか、と私との違いに驚いた。
「意識しちゃうの?」
「……うん」
もぐもぐと口を動かしながら彼女は頷く。口の中のものがなくなってから彼女は恥ずかしそうに、実はね、と切り出した。
「私、男子と授業以外で話さずに中学校生活を過ごしてきたんだよね。だから、慣れてなくて。どう接したらいいかわからないの」
頬張ったおにぎりの中身は梅干しらしい。かじってから彼女はきゅっと口をすぼめた。
こんな可愛い子、男子が意識しないわけがない。だから話せなかったのだと思う。
そうなんだ、とあっさりとした言葉を返し、お母さんお手製の唐揚げを齧る。カリッと良い音が口の中に転がった。
「どうしたら咲ちゃんみたいに上手く話せるかな?」
「上手く……の基準はよくわからないけど。私には2つ上の兄さんがいるし、あと部活関係で男子とも気付けば話せるようになってたなって感じだからなぁ」
無意識なことだから上手く説明できない。うーん、と口を動かしながら唸る、けれど。
本当はそんなにアドバイスを考えていない。そのままでいいと思うけどな、なんて。現状維持を強く望むのは彼女にとっては悪いことだけれど、私にとっては。
「菊池と尾上で慣れとけば? 尾上なんか男だって意識しなくていいんだよ。あんなの人懐っこい柴犬だって思えば」
昼休みになると菊池と尾上はこのクラスからいなくなる。確かA組に行っているはずだ。彼らがいないこの空間で、彼らの話をする。悪口じゃないから大丈夫。むしろ褒めているし感謝したいくらいだ。彼女への浅はかな助言を取り繕えたから。
「柴犬か……言えてるかも。練習させてもらうね」
「まずは話しかけるところからだよ」
「……それはそれで難しい、かな」
あはは、と照れ臭そうに笑う彼女。そのまま変わらないでよ、なんてエゴの塊を押し付けるのは今じゃない。きっとこれからも。
それから数日が経ち、彼女は小さな声で口ずさむようになった。
2人で廊下を歩いているとき。昼ごはんを食べ終わって世間話をしているときの隙間。掃除中。ふと思い出したように聞こえてくる小鳥の声はいつも同じメロディーで、そろそろ私の頭の中にも自然に流れてきそうだ。隣で歩く彼女があどけなく見えてつい頬が緩みそうになる。やめてほしいような、でもできるならずっと耳を傾けていたいような。
「いつかちゃんと忘れるからさ」
うろ覚えでときどき「ふふん」が混ざる彼女の声に紛れてほろりとこぼれた歌詞。ワンフレーズだから一概にも言えないけれど、この曲は失恋の歌なのかもしれないと勝手に予想した。
太陽の光が窓から差し込むようになって、教室中のカーテンは閉めきられる。生ぬるい風に揺られて窓の外にはみ出してしまうときもあった。
今日のお弁当には冷凍食品のエビグラタンが入っていた。甘いホワイトクリームとエビを一緒に口に入れる。幼い頃からの好きな味だ。
目の前に座る彼女はまた思い出したかのようにあの歌を口ずさんでいた。
「それ、何の歌?」
思い切って聞いてみる。すると彼女は無邪気にえへへと笑った。
「これね、尾上君が教えてくれたアボカドっていうバンドの歌なの」
そういえばその話を前にしていたような。あれから尾上はちゃんと彼女にLINEしたらしい。
「『いつか』っていう歌を教えてもらったら、他の歌も聴きたいなって思ってたくさん今漁ってるんだよね」
「さっき歌ってたのも『いつか』?」
「うん、そうなの。歌詞がね、少女マンガみたいで切ないの」
今日はおにぎりではないみたい。彼女はおかずのコロッケを齧ってからご飯を口に入れた。
「……少女マンガ?」
単語が気になって聞き返したとき、ちょうど教室の扉がガラガラと開いた。ひょっこりと顔を出した背の高い男子生徒。私と目が合うや否や「お」の口を作った。
「五十嵐、ここに村井いない……よね?」
「三笠、そういうのはちゃんと見てから聞くんだよ?」
そう言いつつ、クラスメートの村井を探すが見つからない。心当たりのある場所を教えることにする。
「あいつ、バドの人たちといるんじゃない? 小嶋って人とか」
確か一緒にいる気がした。あまり話したことはないけど村井は複数の人たちで連んでいるイメージがあった。
「あ……そうかも。ありがと」
先ほどとは異なり、戸を静かに閉めて三笠は帰っていった。
「……さっきの人、誰?」
「三笠。私と同じ中学」
そっか、と彼女は言い、ふふっと笑い出した。いいなぁ、と感嘆の声をこぼす。
「名字で呼ばれるの、憧れるんだよね」
そう言われてみれば、彼女が名字で呼ばれているのを聞いたことがない。先生になら呼ばれたことがありそうだけれど。
「先生から、じゃないよね?」
「うん、違うかな。それと私の憧れは違う」
違った。だろうなとは思ったけどね、一応聞いてみた。
「咲ちゃん、さっきも名字で呼ばれてた」
「名前で呼んでくれる人もいるよ?」
「でも、名字で呼ばれてる。いいなぁって」
「……どうしてそこまで憧れるの?」
えっとね、と頬をほんのりと赤らめながら彼女は口を開いた。その頬はさくらの花のように淡かった。
「少女マンガの登場人物みたいだから。名前で呼ばれるより、名字で呼ばれたほう親近感ある気がするんだよね」
彼女はそう思うらしい。名字で呼ばれたほうがまあ軽いような気はしなくもない。
彼女が名前で呼ばれることが多いのは、それほど彼女は軽く扱えない存在だからなのでは、と勝手に思う。彼女を名字で呼ぶのは少し躊躇しがちだ。
悪口で言っているのではない、と前置きをしておく。彼女は人を寄り付かせない雰囲気を持っているような気がする。儚げでだからこそ近づけない、悪く言えば周囲が謙遜してしまうような。あなたの隣にふさわしいのは私じゃない、と彼女に近づいた人はそう思うのかもしれない。
「それはわかるかもしれない」
言葉を濁した。思ったことをそのまま口にするのはいけない。安易な言葉が彼女を傷つけてしまうかもしれないから。
それにこの話をずっと続けていると自分が恐れている世界に着地してしまう気がして、もうやめたほうがいいと本能的にそう思った。
話をそらそうと弁当箱に入っていたタコさんウインナーを箸でつまむ。これあげる、と彼女のに引越しさせる。赤いウインナーはあまり好きじゃない。1匹食べられるだけで十分だった。ちょうど今日は2匹いた。
彼女の弁当箱は私のより一回り小さくて、私だったらすぐおなかが空いてしまうくらいの容量しかなさそうだった。
「あ、タコさんだ。じゃあ私も……」
ウサギの形に切られたりんごが私の容器にやってきた。ちゃんと目も付いていた。
ありがとう、と2人で言い合う。
「りんご、くれてよかったの?」
「うん、ちょうど2個あったから。はんぶんこだよ」
はんぶんこ、か。彼女が言うと愛らしい。自分の気持ちを誰かにはんぶんこできたらな、とふと思った。それはただでさえ簡単にはできなくて歪んだものだからきっと誰にも受け取ってもらえないけれど。誰にも打ち明けられないこの痛みをはんぶんこできたらな、なんて。
日曜の夜は歌番組が放送される。兄の翔と2人ソファに並んでチャンネルをころころ変えるが、見たいものがなくて仕方なくそれを見ることにした。
「続いては急上昇中のバンド、アボカドの登場です」
サングラスをかけた表情の読めない男性司会者の紹介で彼らはよろしくお願いします、と頭をぺこりと下げた。
アボカド……あ、彼女がよく聴いているというバンドだ。まさか昨日の今日で彼らを拝める日が来るとは。
「今日は世間で話題になっている『アボカド』を披露してもらいます」
ショートカットが似合う女性アナウンサーの声に続き、男性司会者はどんな歌なの、と質問する。
「これは僕の思い出から作った歌です。だから実際に起こったことを歌詞にまとめました」
ボーカリスト……かな? 目の細い、いわば「塩顔」の男性がそう言った。思い出をよく晒け出せるな、と皮肉に思う。それほどに綺麗な思い出なのだろうか。いや、でも彼女の声で頭の中に再生されるのは切なく聴こえる歌詞だけれど。
「それではスタンバイ、お願いします」
その声で彼らは立ち上がり、カメラのフレームから消える。
「このバンド、クラスで流行ってる気がする」
翔が唐突にそう呟いた。
「……今まで聞いたことあった?」
「いや、興味なかったから……」
「私も」
本当は聞いていたけどね、愛おしくて仕方ない声で。尾上には感謝するべきなのだろうか。
いや、もどかしいからしてやらない。
「それではアボカドで『いつか』です。どうぞ」
女性アナウンサーの声でカメラが切り替わった。薄い顔のボーカルがギターと目を合わせて、小さく息を吸う。
「僕へと届いた手紙の中の君は幸せそうでした」
歌い出しと同時にギターが奏でられた。初めは声とギターの音だけがテレビの中から溢れてきた。徐々にベースとドラムの低い地の音が混ざり出す。
ボーカルへとカメラの焦点が当てられる。彼の横顔は鼻がシュッと高い分とても綺麗だった。その横顔以外はずっと画面の下に流れる歌詞のテロップを眺めていた。
水色の照明が4人を照らす。
だんだん音が不明瞭になっていく。
あ、これは……。
歌詞がね、少女マンガみたいで切ないの。
彼女の声が頭の中に再生される。
切ないね。私も言葉でうまく言い表わせられないくらい切なくなってきた。
何も言わずに部屋に戻った。ベッドの枕元に置かれた黒いクマのモチモチとしたクッションに手を伸ばして、ベッドに腰を下ろす。
嫌なことがあったらこのクマを抱きしめて落ち着こうとする。頭が冷えるように。
でも、なんだか落ち着かない。頭の中で黒い言葉が次から次へと心の奥底から飛び出していくのだ。目を逸らしていた暗い感情が湧き出て溢れて。
彼女の本心はわからない。あの歌を聴いてどう思ったかは本人次第だし、勝手な憶測だから勝手に私がヒステリックになっているだけなのかもしれないけれど、言葉の噴火は止むことを知らない。
忘れがちだから、よく錯覚してしまうのだ。彼女ももしかしたら同じ気持ちを抱えているのではないか、と。
でも本当に忘れていた。あのちゃんとした歌を聴くまでは。
『いつか』はボーカルの失恋が歌詞になっていた。カットされた部分があるかもしれないのだが、流れを言葉にするならば。歌詞は割愛するけれど。
「僕」には好きな人がいた。もし、叶うのなら「君」と一緒にいたい。そしていつか結婚したいなと願う。結婚したら名字が「僕」と同じになる。だからそれまで、今までの「君」の名字を呼ばせてほしいと「僕」は密かに思う。いつか消えてしまう「君」の名字を。
でも「君」は、「僕」とは違う誰かに想いを寄せていた。「君」をよく見ていたからよくわかるのだ。「僕」の夢は人魚姫の最後みたいに消えてしまうのかもしれない。それでも、「僕」に呼ばせてほしい。「君」の名字を。
あれから時が流れて、「君」から手紙がやってきた。結婚するらしい。よかったね、と心の中でうまく言えなかった。
「君」の結婚式、ちゃんと行くよ。それまで「君」の名字を呼ばせてよ。「君」の名字が変わるまで、呼ばせてほしい。「君」の名字が消えるのと同じくらいに忘れられたらいいのだけれど、「僕」が抱いた「君」への想いを。
そして、彼女がよく口ずさむあのフレーズへと辿り着く。いつかちゃんと忘れるからさ、と。
彼女にだって憧れはあるだろう。歌詞のようそれほどに想われたいだろうし、名字が変わる願望だって当たり前のようにあるはずだ。
うん、私じゃないよ。彼女の隣をいつまでも歩けて寄り添えるのは。
彼女がほしいと望む人は、おしゃべりとか楽しく旅行が行ける親しい友人じゃなくて、人生の中のいろいろな節目を一緒に乗り越えて寄り添ってくれる異性の存在だ。
うん、私じゃないよ。私と一緒にいたってなにも残せないから。
異性の星から私は降りてきてしまったみたいだ。彼女にとって、私はずっと……。
私がほしいと望む夢はこの世界では叶わないかもしれない。けれど諦めたくもない。あのリリックのように「はい、そうですか」とあっさり終わりたくない。忘れたくもない。
夢の中の彼女にまた会いたい。正解を教えてほしい。あなたにそっくりのあの子は果たして「あなた」なの? 違うって言ってくれたなら私はこんなに苦しくも切なくもならないのに。
いつのまにか心の中に住み着いたあの子は、本当に私を離さないつもりらしい。離れないでと願ったけれどここまで重いものだとは思わなかった。
黒いクマを抱きしめていたらとても悲しくなって、黒いクマをベッドに叩きつけた。力強く投げてしまったから大きく弾かれた。
ばたりと倒れかかる。そのままいもむしみたいにベッドの上を這ってもう1つのシロクマのぬいぐるみに顔を埋める。もうこのまま寝てしまおう。毛布をかけてからうつ伏せの姿勢のままシロクマに左頬を寄せた。
左目から涙が溢れた。言葉にうまく消化できなかった感情がほろりと流れてシロクマを濡らしていく。黒い言葉に溺れそうだった。自分で自分を苦しめてしまっていた。決して自分自身の存在を否定しているわけじゃないから安心して、と心の中に言い聞かせる。
夢を追いかけることは良いことだと思う。ときにそれは自分を追い詰めて苦しめるほどに残酷なものだとしても。
脳裏に焼き付いた彼女の笑顔に、また涙が流れる。ボロボロと両目から流れるそれが面白くてははっと笑った。
「……あこちゃん」
彼女の名前を呼ぶ。今だけ、浸らせてほしい。明日からは友だちとしてまた隣にいたいから。深い関係になろうとしてしまったら、彼女ともう一緒にはいられないだろうから。友だちとしても、もう。
「……すき、だよ」
鼻をすする。もちっとしたクマだけが私を包み込んでくれた。
高校の最寄の駅に向かう電車に揺られながら、ため息を吐いた。今日はなんだか電車の中が人で混み合っているような気がする。月曜だから、という目の錯覚だろうか。流れていく窓の景色をなにも考えずに眺めた。
私の駅から高校の最寄駅まで40分ほどかかる。各駅停車だからそこに向かうまでいろんな人が乗ってくる。
花未駅に電車が止まった。鮮やかな緑色のリュックを背負った茜が乗ってくる。同じ部活で私の隣のクラスにいる。
「おはよう、咲」
「おはよう」
茜は私の隣に座った。電車がゆっくりと走り出す。茜は制服のポケットからスマホを取り出して弄り始めた。その数秒後に茜は口を開いた。
「A組ね、金曜日に席替えしたんだ」
「おお、早いね。誰の提案?」
「広尾って奴。あ、野球部ね。たぶんこれみんなに広まるから咲のクラスでも席替えするんじゃない?」
私のクラスの委員長は野球部の笹木野だ。野球部は各クラスに必ずいると思うから広まるに決まっている。彼なら言い出しそうだし、彼女と席が離れるのもそう遠くはない。
まるで、神様が彼女と距離を置いた方がいい、と暗示しているみたいで怖かった。
最寄の駅に着いて、駐輪場に停めてある自転車の元へ。ゆっくり漕ぐように意識した。なんだか行きたい気分になれなかったからだ。
学校に着くのは、たいてい1日の始まりを知らせる予鈴の30分くらい前。教室の中は4、5人いるかいないか。
席についてリュックの中身を取り出さずに、その上にポスンと頭を乗せた。空っぽに近い教室の中で考え込まないように、私は静かに瞼を閉じた。
寝られるわけがなかった。昨日は早く寝付いてしまって十分に寝たから。昨日の夜、電気をつけっぱなしにして寝てしまったから、お母さんに怒られた。昨日の今日で複雑な心情を抱えたまま、彼女に会うことがとても不安で気まずい。無意識のうちに平常を取り繕えない顔が出てしまったらどうしよう。無垢に笑えるだろうか。
狸寝入りをしているうちに、少しずつ教室の人口は増えていく。ざわざわと音が増えていく。もうこのまま予鈴が鳴るまで机に伏せていようか。
「……咲ちゃん」
彼女の声が聞こえた気がする。肩が不意に少し動いてしまった。むしろ都合がよかったかも、なんて心の中で言い訳しつつ頭を動かす。前の座席の椅子が後ろに引かれている。視線を上げると、私をじーっと見つめる彼女と目が合った。
「あ、起きた」
おはよう、と彼女は笑った。さくらの花のように儚げにふわりと。
「……おはよ」
何回か瞬きをする。幻じゃないかと疑ってしまった。彼女の笑顔はどこかに溶けて消えてしまうんじゃないか、と勘違いしそうになったから。
むくりと上半身を起き上がらせる。彼女は「あ」と声を漏らした。
「ん?」
「あの、ちょっとごめんね」
そう言って、彼女は私に右手を伸ばす。どうしたんだろう、とぼんやり思いながら彼女の手の行方を視界に入れた。伸ばされた先は左側の側頭部。髪をするりと梳かれる。彼女の手がくすぐったくて心地よかった。
彼女は右手を顔に近づけて、ふふっと笑った。親指と人差し指に挟まれた小さな何かを左手に乗せて、ほら見て、と私に伸ばす。
その手を覗くと、タンポポの綿毛が1つあった。どうやら私の髪の毛にいつのまにか絡まっていたらしい。きっと自転車を漕いでいるときにではないだろうか。
「あれ、いつの間に……」
「ふふっ。咲ちゃん、かわいい」
う、とくぐもった声がこぼれそうになった。頬と耳が一気に熱を帯びる。
何だろう、聞き慣れない言葉を聞いたせいか、彼女の目を細めた顔があまりにもあまくて陽だまりみたいにあたたかいものに見えたせいか、わからないけれど。それでも確信する。
私は彼女が何であろうとやっぱり好きで、誰のものにもなってほしくない、と。
「咲ちゃんの髪、ふわふわなんだね。もっと触ってもいい?」
「……どーぞ」
へへへ、と笑う彼女は私の髪に両手を伸ばす。彼女の顔を真正面から見れなくて俯く。髪を撫でやすくしたんだ、という言い訳をしたら彼女は納得してくれるかな。これにしっかりとした正当性があるのだろうか、と疑問に思いながらも用意しておこう。
今、私の顔はとても熱い。頭を撫でられたのがとても久しぶりなような気がするし、何より彼女が、撫でてくれていると思うと心臓が止まってしまうんじゃないかと心配になるくらい騒がしい。彼女の手がいなくなるまで、目を瞑っていよう。
わしゃわしゃ、という擬音がふさわしいのかもしれない。悪く言えばぐしゃぐしゃだろうか。それくらい彼女の手は髪の毛を掻き混ぜる。指をすり抜ける度に彼女の手をやはり心地よいと感じる。聞こえないようにそっとため息を吐いた。
今の気持ちを一言で表すのなら。
「しあわせだ」
聞こえたのが私の頭上からで、思わず顔を上げてしまう。彼女はお、と声を漏らした。
「……しあわせ?」
「うん。咲ちゃんの髪撫でてると、あたたかい気持ちがするんだ。幸せだなって」
どうして、そんな無邪気に笑うの?
どうしよう。衝動的になりそうだ。このまま気持ちを彼女に吐き出してしまいそうな自分がただただ怖かった。
「……そりゃあ、どうも。なかなか頭撫でられることないから、すごい照れる」
「だから咲ちゃん、顔真っ赤なのか」
「うるさいよ」
私が視線を逸らすと、また彼女はへへっと笑った。たまらなく嬉しいし、あたたかい気持ちになる。込み上げてくる感情を隠すようにまた俯いた。自然に口元が緩んで笑みがこぼれた。
「あまの」
俯いたまま、彼女の名字を呼ぶ。
「……ん? あ、へ?」
突然そう呼んだから、彼女の声は裏返っていた。わしゃわしゃと髪を撫でる手が止まった。まっすぐそう呼んだら、どんな顔をするのだろう。
「天野」
今度は顔を上げて、真っ直ぐに彼女の目を見る。その瞬間を逃さないように。
「……うん、うん」
頬を赤らめる彼女の顔は、さくらんぼみたいであどけなかった。
「私で良ければ、これからそう呼んでもいいかな?」
彼女の手がそっと離れたかと思いきや、小走りで私の席の横にやってきた。彼女の方に身体の向きを変えた途端、彼女がふわりと私の首に腕を回した。それに引き寄せられ、彼女の右耳が私の左頬を掠める。
ひぇ、と声が出そうになる。奥歯を噛み締めて出かかった声を抑えたけれど。
なんだ、本当に、この子は。
彼女の今の行動は普段見せないものだから、予測できなかった。まさか、彼女から抱きついてくるとは。
今まで、触れようとしなかったけれど、同性だからこれは許されるのでは、とふと思う。ただの友人としてのスキンシップだ、と自己欺瞞になるけれど、彼女に触れられることに変わりはない。それほどに彼女のことになるとずるくなってしまう。
夢のような出来事をこの手で確かめたくて、彼女の背中に腕をそっと伸ばす。
鼻をくすぐる甘くて美味しそうな匂いと薄っぺらで華奢な身体を包み込む。
誰かのものになるくらいならぐしゃぐしゃに抱き潰してしまいたいと、ひどい願望が頭の中を独り占めしそうになる。
持ってしまったものは仕方ないけれど、彼女の幸せを考えるのなら、いつか消してしまわなければならない。私のこの恋はあの夢のおかげで焦がれてしまった一過性のもので、さくらの花びらがいつか散ってしまうように、すんなりと跡形もなく消えてしまうかもしれない。それでも、今は。
近くていつか遠くに行ってしまう存在の背中をポンポンと撫でた。
「……そんなに嬉しいの?」
「うん、嬉しい。ありがとう、咲ちゃん」
耳元で聞こえる彼女の声に笑みがこぼれる。これからちゃんと、そう呼ぼう。
まだ、私を離さないで。
おわり
さくら色の夢に焦がれて
百合になりました。