きんきらきんコースト

水野れいこ

  1. *
  2. 1
  3. 3
  4. 5
  5. 7

「人生は不思議」

「信じるな、ただ見てくれよ」

「耐えられない」
「あなたのいない人生なんて」

「耐えられそうにないの」

*

 ゴールドコーストの海の美しさを目の当たりにしたことがあるだろうか。なに、かくいう私も自分のこのまん丸い瞳で…まだ何も、汚れを知らなかったあの頃とはもう違うこの目で見たことはない。ただの一度も。きっかけは一番上の兄が何気なく発した一言だった。あの「彼女の言う事はいつも正しいって俺は思うんだ」とか「河童ぁ」とか、「開けたら閉めろ」ハイご苦労さん・クソッタレ…といったたぐいのいつものやつではない。ちなみに『彼女』とは歌手のマドンナの事を指している。啓一兄は80年代の洋楽、とりわけ金髪の美しく派手な女性を好んで聴いていた。私はそれがなんとなく気に入らなかった。絵に描いたような誠実さを持つ兄のイメージにそぐわないことならなんでも嫌だった。

 月日が経ち私は一枚の写真を見つけ出した。オーストラリア…ゴールド・コースト。写真を通してとっさに脳裡に浮かんだ絵は、右手の指先のあいだの楽園とは違っていた。よく晴れた日の午後、お高くとまっていた太陽がゆっくりと地平線に降りてくるあの瞬間…ちょうど午後15時あたり、川の水面に近づいてまばゆい光をきらきらと乱反射させるあの光景。まるで太陽へと誘うような道。コーストは海岸の意だが、子供だった私はコースとコーストを一緒くたにし短絡的にこう名付けた。きんきらきんコースト。口から自然にこぼれ落ちたその名前と、走ってもいないのに熱い頬、心にひとつ増えた部屋だけが私を少女だと認めていた。こっちへおいで。怖くないから。こっち…へ。ノートを、それに本を。閉じた方がいいと思った。そしてそれは、ほとんど違わないといってもいいほど、限りなくほんとうのことだった。どこかで誰かが歌っている。泣きたくなるようなやさしい声で。

1

「名前の由来?」 「うん」

父親の前に正座をし、鉛筆とメモ用紙を握りしめながら凛子は小さく顎を引いた。子どもの真剣な眼差しとは裏腹、彼の方は片膝を立てたままテレビの野球中継を見ているだけだった。手が上がる。持っていた煙草を口元にあててひと吸いしたあと、部屋の中央の白い二重丸めがけ煙をすぅっと吐いた。

「何やったかの」

仕方ないと思った――なにせ最後に名付けをしたのはもう、十年も前なのだ。心の中でふぅ、とため息をつく。テレビの中の人間はきまってそうする。そしてこうも思った、「仕方ない」、とはなんて素敵な言葉だろう。シンクからの水音とテレビの実況中継、元々の声量がでかいせいで機械による音量調節がまったくもって機能していないそれらにかき消されぬよう、凛子はまた喋った。
「明日の朝の会で発表するから」
 父親が、彼女の方を向いた。笑ったのは目の前の娘が記者さながらにお行儀よく自分の返事を待っているからなのだろう。顔はすぐ、元に戻った。

子どもにとって十年は長い。気の遠くなるほど。凛子は待つあいだ、自分が二十歳になるまでに一体どれほどの写真を撮る必要があるのだろう、などと考えていた。そしてその隣にひとつひとつ心を込めて添える文章のことについて…雑誌の切り抜きをいくつも使ったところでそんなの、全部表現しきれるのか、なんてことは、全然分からなかった。

おぉ、と思い出したように父親がつぶやいた。
「あれよ。清永三兄弟」
「キヨナガ」
 凛子は構えていた手を下ろし、メモ用紙を下敷にし畳に指先をつけた。いつだったか駿次がぼろぼろにした場所、ちょうどそこだった。畳の端の布部分、紺だか緑だかわからない色した線に醤油っぽい染み。これは去年のもので、凛子がこぼしたやつを一番上の兄が必死こいて落としてくれたものだ。

「昔、面白い話がありよっての」上から啓一郎・駿次郎・凛太郎。父親が指折り数える。「お前はその三番目から取ったったい」立ち上がり、すぐそばの台所で皿を洗っていた母の隣で冷蔵庫から氷をグラスに入れた。彼は鼻唄混じりで機嫌よくこちらに戻ってきたあと、ちら、と凛子に視線をくれた。日焼けして乾いた肌のごつごつした手が、少女の柔い頬を上向きにつねった。

「前髪切れよ。鬱陶しい」

 凛子はそれきりメモも取らずに、ただ手の平で自分の前髪を撫でつけていた。外と後ろの襖の向こうで音がする――でかいバイクの音、駿次の雄叫び、同じ棟に住んでる誰かの声。テレビの実況中継をやってるアナウンサーがかなり興奮していた。とどめに誰も引き留めやしない廃品回収のトラック。皿と水と皿がぶつかるサウンド。自分の部屋に戻ろうと思った。父親から聞いた事を、編集したかったのだ。立ち上がるのを見ていたかのよう、洗い物をしていた彼女の母親が首だけをこちらに向け、こう声をかけた。「――凛子」 うん? 「風呂、入り」。

うん、ともう一度同じ口がこたえる。そして軽く微笑んだあとこう返した、はにかむよう。

「わかった」

家は死ぬほど狭かった。人口六万五千人ていどの狭い街の狭い集合住宅、団地に十年前生まれ落ちた凛子の視野もまた狭く、彼女のすべてはあと二年、小学校を卒業するまで、家から学校までの道のりとこの団地に取り囲まれるよう存在していたコンクリと土の地面――僅かな雑草が繋ぎ目に生えた、この中央の広場だけだった。べつに道がないわけじゃないし、地図を知らないわけでもない。けど誰かのお家に遊びに行くとなったら母親が必ず車を出してくれるし、凛子の母や一番上の兄からの無言の圧力も(これは心配からくる健全なものに間違いはなかった)あった。それに、あちこち出歩かなくても満足できる理由を凛子は持ち合わせてもいた……生まれながらにして。楽しみはたくさんある。ベランダ側の建物のふもとには、つくしだって死ぬほど生えるのだ。毎年凛子たち兄妹の行う春の伝統行事、『バッタ狩りをかねた土筆の採集』は、一階に住む歯のない老人が、カーテンの引かれていない自室の窓から微笑みを浮かべながら鑑賞するショート・フィルムでもあった。痩せっぽっちの身体と少しだけ栗色をした短い髪。母のトリートメントを黙って使うようになるまで凛子の毛先はいつも、外側を通りこし空中を見上げていた。本当は、同じクラスの真紀みたく背中の真ん中まで伸ばしたい。が、鏡を見るたび少年がかつらを被ってるなんてことは思いたくないし、はっきり言ってすぐ邪魔になるだろう。《ふたつ》を除いてしまえば凛子としては、自分はまったくもって普通の子どもなのだという感覚を持っていた。ふつうの、小学校4年生の女の子。「凛子ちゃんは将来美人になりそうやネ」という近隣住民の言葉に、照れつつもうきうきとした胸の疼きをちゃあんと覚えるような。

 家の窓からは中央の遊具ひとつない広場が見える。真ん中に何の為についているのか分からなかった排水口がひとつあって、天気の良い日はいつもそれのアルミ部分がきら、と光ってみえる。学校の手洗い場についてるようなやつが洗面器くらいの大きさになったものだ。中を覗いてみた事があるけど、暗いばかりで何も見えなかった。このブラック・ホールはいつも、凛子たち家族が出掛ける際に車の後を追いかけてくるゾンビの群れが現れる穴となる――しかも、それに気づいているのはわたしだけ……凛子一人だけ。秘密をひとり占めするということは、本屋さんで気に入った本ばかりが並んでいるコーナーでぼぅっとする感じと似ている。そわそわするけどここから一歩も動きたくないというようなあの感じ。トイレに行きたくなったのにわざと我慢するときとも少し似ている。そして大体その白昼夢から目覚めるきっかけは、母が自分を何度も呼ぶ声だった。

他にもある。啓一兄が通学する時に使う、団地からまっすぐ――言葉通り、ストレートの直線を地図の上からぽとんと落としたような水路脇の長いあぜ道。自宅のボットン便所の暗闇。凛子にとってこれらは異世界への入口で、しかも絶対に良いことなんか起こらない場所だった。

 こんなにおもちゃの要らない子どもも珍しいなと凛子は思っていた。自分で。それでも、流行っているゲームや顔にお化粧をしてあげられる金髪のお人形があれば、それはそれで楽しいのだろうが。自分の愛しているものと違って友達とか――とにかく自分以外のほかの人と、きゃあきゃあはしゃぐためのアイテム。女の子に生まれてよかったと思うのはそんな時……まぁ、それも鏡を見るまでの話だが。けど、お人形の世話を焼くのは、朝食を作り食べさせ、リボンのついたプラスチック製のくしで長い髪を梳かしてやる、なんてのは悪い気分にはならない。決して。似合う似合わないにかかわらずだ――けど、それも凛子にとってはちっとも重要なことじゃない。重要であるはずがなかった。彼女は自分でものを書きたがった、それもいつも。

凛子は部屋でふぅ、と鼻から少しため息をついた。隣の布団で寝転びながら漫画を読んでいた駿次が近づいてきて、顔を突き出し凛子の手元を覗き込んだ。

「お前さっきから何書きよるんか」

六畳のこの和室に学習机と呼ばれるあれは無かった。部屋の壁際にぴたりと寄せられたローテーブルが二つあるだけ。右側は傷だらけで、シールを貼ったあと乱暴に剥がした跡があり、家族の誰もがどちらが駿次で凛子の机なのかは、教えて貰わなくてもわかった。

「スピーチせないけんの。出席番号順なんよ」
「ふうん」
 自分から聞いておいて彼はつまらなさそうに返事をした。

凛子の髪からはまだ湯気が上がっていた。家族が続けて風呂に入ると、この部屋はいつも黴臭くなった。

「駿次、キヨナガ三兄弟て映画憶えとる?」
「おぉ」と、彼はまたつまらなさそうに返事をした。

「俺だちの名前のやつやろ――憶えとるちお前、一年前に、観ちょろうが」

「そうやったっけ」、とメモ用紙に目を落としたまま凛子が答える。聞いてもいないのに駿次はこんなふうに続けた。

「あんま好きやないねぇ、俺は。どうせならケイイチロウ――啓一のやつが良かった」
 凛子は後ろを振り返った。
「なんで?」
「だって一番上で、一番初めに死ぬやろ。俺は死ぬち言っても、誰か助けるとかやなくて、ただやられるだけやもんね」

彼の話はこうだった――映画の中で駿次は、駿次郎は、敵の黒幕の送り込んだ凄腕の刺客(蜉蝣)により惨殺される。ケイイチロウ、つまり一番上の兄の名にあたる啓一の、村人を何百人も背負った捨て身の行為とそれとを比べてしまい、納得いかないのだという。清永三兄弟の男達は二つずつ年齢が空いており、凛子たち兄妹も、それにそっくり当てはまっていた。自分の分身としてとらえることは自然なことだ。小学四年生に小学六年生の拘りがわかるものか、と駿次は手短に説明を終えた。彼は少し変わった少年だった。野球が好きでそこそこ上手い癖に、通っている小学校の無料で入れるクラブチームに所属するのを頑なに拒む子どもだった。入れ入れと言われるほど、褒められれば褒められただけ、彼の野球に対する情熱はたちまち白けてしまう。

「凛太郎が二人の仇を討つんよ」
 間を空けて駿次がまた喋った。
「お前それ、発表するんか?」

凛子は首を横に振り、ううん、と答えた。二番目の兄はちょっとの間ぷすぷすと笑い、それから布団の向きに対し横に倒れるよう寝転び、「よなぁ」とだけ言った。

その時彼らの父親が、寝るぞ、と低い声で呟きながら部屋に入ってきた――畳んで隅に置いたままの布団を敷き身体の右側を下にして横になる。駿次は読んでいた漫画を閉じ、凛子はスピーチ用のメモをさっと筆箱の中にしまった。それから二人は布団に入り、ただちに眠る素振りをしてみせた。ここは魔法の場所だった。遊ぶ、宿題や勉強をやる、家族ほぼ全員の寝室。啓一は居間を挟んだ四畳ほどの部屋を一人で貰っていた。橙色の豆電球をしばらく見つめたあとで凛子は眠りについた。夢はなんにも、見なかった。

3

 早くも遅くもない時間に凛子は目覚めた。
もうとっくに家を出ていた父親抜きで朝食を食べ、兄妹順に家を出た。団地のゆるやかな下り坂……3mほどを降りきったあたりで映画のワンシーンを頭に思い浮かべる。凛太郎が長い髪を振り乱し、狂気を感じさせるほど怒りのこもった眼で刀をゆっくりと抜くシーン。長い沈黙――間違ってくしゃみでもしようものなら即座に首を斬り落とされるような恐ろしく張り詰めた空気だった、画面越しの子供にもわかるほど――の後、彼の科白はたった一言、こうだった。

《来い》

どうして父は自分の子の名にかかわる重要な事柄を忘れてしまっていたんだろう、頭の中からすぐに取り出せないほど。凛子はなんともいえない気持になって、なんだかそれが初めての感情だったが為に、すぐにそれを無視することにした。《切ない》を好むには、凛子にはまだ、48週間ばかり早かった。

大人がどうして、ささやかだが大切なことを憶えておけないのかという質問に答えてくれる相手がいなかったので、凛子は学校へとすすめる足をさらに前へ前へと押しやった。駿次とは入学してから一ヶ月ほどしか一緒に登校したことがなく、本人いわく《サンシン取られるよりお前と仲良く学校行く方が恥ずかしい》らしい。新入生の黄色いランドセル・カバーの少女の面倒は長男が見るはめとなり、啓一は凛子が信号無視をしかけようが(交通安全教室は年長の春頃、遠足で動物園に行った帰りに一度あった)、新品の靴でまだ温かった犬のウンチを踏んでしまおうが怒らなかった。啓一はまるで、凛子のもう一人の母だった。彼を思い出すときの表情がいつも微笑んでいるところにその理由はある。が、そんな兄にも無邪気な一面があった事を凛子は知っている――父親が、よく講義をひらいてくれるのだ。毎回同じ内容の講義を。

「お前が産まれたとき、お前の兄貴がどんなふうやったか知っとるか凛子――手がつけられんほど、暴れて帰ったんぞ」

啓一はそれを、もう良いけん、とたじろぎ笑い、駿次はまた始まったとそっぽを向いて「げぇ」の顔をした。凛子はというと、揺らめく煙のむこうで赤ら顔で笑う父親の話を、なんともいえない表情で真剣に耳を傾けていた……それも、講義がひらかれる毎回。凛子はなぜか妊婦検診の39週目まで男の子だと言われていた。最後の最後まで、担当医と凛子たちの母親とお喋りが人生のメイン・テーマの助産師たちは何の疑いも持っていなかったし、証拠といえるエコー写真の赤ん坊の股には、確かにぼんやりとだがそれはあった。が、いざ産まれてみると一転――あっれえ――「おっかしいねぇ」、てなわけである。

 凛子の父親は含み笑いをしながら、汚れた仕事着のまま幼い啓一を迎えに行った。当の本人は保育園のホールの窓際でひとり、ダンプトラックの玩具を効果音つきで床に擦り続けている最中だった……父親を宣告の代理人とし、悪魔が自分の運命の書の《弟の誕生》部分ページを勢いよく破いたとも知らずに。啓一はおい、と声を掛けられた。聞き覚えのある声――母親のお腹があれ以上でかくならない事も、新しい家族がひとり増える事もわかっている。それぐらいに啓一は賢く、なおかつ自身がまだ同じ部類に属していながら、小さな子どもが好きだったのだ。
 あらぁ、と水色の割烹着を着たこの保育園で主任を努めている、4歳児クラスの先生が声をかけてきた――お父さんが来たちことは――産まれたんやね、啓一くぅん!よかったねぇ――そうしたら、駿次ちゃんとも、あたらしい《弟》とも、一緒にここでも遊べるねえ!
啓一は笑いながら主任の右ポケットについているチューリップのアップリケに目をとめた。それから入り口のガラス戸の方から近づいてくる紺色の作業着の男に視線を移した。啓一はこの時父親のことを、《すてきな三にんぐみ》に出ていてもおかしくないなと思った――「ちょっと髪はみじかいけど」。跳びはねるボールのよう父に近づいた。そして次の瞬間にはもう静止していたのだった、ハリケーンの前日の夜。

「女の子やったぞ」

うわあああっと、甲高いわめき声が高い天井にまで轟いた。それからダンプトラックがつるつるのフローリングに叩きつけられた音がした。ニ、三度、地団駄を踏む音もした――網にかかり、息ができずに苦しむ魚のごとく啓一は父親の逞しい身体と腕のあいだで回転を加えながら跳ねた。啓一くん――啓一くん、どうしたと?落ち着いて!主任が親子に駆け寄り手を掲げたところであぁ、大丈夫よと浅黒い顔の父が笑顔を返した。
「こら、いい加減にせんか。皆見よるぞ」
うふふと手を振る保育士たちが見守るかたわら、啓一は涙の跡の線を頬いっぱいにつくりながら声をあげずに笑うまだ若い父親と一緒に、駿次と母、そしてこの世に産まれたばかりの凛子の元へと帰っていったのだった。

 

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きんきらきんコースト

きんきらきんコースト

内向的な少女が運命の馬車から振り落とされた場所は暴力的なほどひらけた世界。したいならしろ、したくないならするな。そんな場所にも天使はいて、しかも全然そんなふうな見た目をしていなくて、凛子はただただ危険な魅力を放つうねったその波の中へと、何かとくべつ意気込むわけもなく、ただ流されるままに、その身体を放り込んだ。

  • 小説
  • 短編
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更新日
登録日 2021-04-08

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