二月・四

 今が、永遠に続けばいいと思う。
 いつか、思い出にぜんぶ火が点いてしまうかも知れない。どれだけ大事に仕舞っておいても、抱えて生涯を生きたとしても、葬るときにはすべてが燃えてしまうのだ。たとえばそのまま土葬をしたら、思い出ごと地に還ってくれるだろうかと考えた、でもそんなものは所詮小説の中にしか存在しえない空想に過ぎず、蟲に食われ腐食が進むだけである。広場を埋め尽くしたあのトランプの行末のように。
 そんな感じで、思い出というものを永遠に保存することはできない。不死身の人がいない限り、この空想は空想で終わってしまう。移りゆきながら季節は巡って、ついにわたしたちにも、春がやってくる。

 マリオンとリュカさんに召集命令がかかった。なんていうと、まるで軍隊かなにかの類かと思ってしまうけれど、実際はいつものカフェでの出汁談義、言い換えると出汁ワン決定戦……ほんとうにくだらない、に招集されたのである。命令したのはノラだ。しかも、命令されたのはご本人たちではなく、わたしだ。わたしが、ふたりを連れてこなければならない。なぜならノラは、持ち前の傍若無人さが影響してふたりの住所を存じないからである。ノラに従う義理はわたしにはない。けれど、協力することにした。マリオンとリュカさんに会いたいのは、わたしも同じだったからだ。マリオンには、本を返さなくちゃならない。そしてリュカさんには、早いところ二月の失踪を解いてもらわなければならない。そうでなれけば、いつになったら普段通り会えるようになるのか知らと、わたしは延々とそわそわしなければならなくなる。
 便箋を引っ張り出して、手紙を認める。リュカさんとはよくやりとりをするけれど、マリオンに書くのは初めてだ。そもそも、どうやって住所を得たのだっけ。そういえば、名刺を交換したのだった。わたしは仕事でも使うものを、マリオンはわかい女の子たちが積極的に作るちょっとしたプロフィール入りのものを、あのカフェで出会って少し話すような間柄になったときに、「ね。たまには文通でもしようよ。」とマリオンが渡してくれたのがきっかけだった。しかしながら、結局のところ文通はおこなわれなかった。名刺を差し出すマリオンなりの口実だったのかもわからない。彼女の名刺は、まるで魔女の見習いのそれだった。アンティークな模様を金の箔押しで飾り、神秘的でいてどこか洗練もされていた。「あたし、アクセサリーを作っているの。」マリオンは言った。「魔法は使えないけど、おまじないならかけられるわ。」
 わたしは、本を返すのと、まじないが欲しいから、今度カフェに来られないか、と書いた。来てくれないと困るので、出汁のことは伏せた。そして封をし、切手を貼った。
 リュカさんには、詩を書いた。同様に、出汁のことは伏せた。
 いつものベンチは いつものとおり
 飛んじゃったみたい 涙も ハートのクイーンと一緒に
 燃えちゃったみたい 思い出も クラブのみっつと ななつと ここのつと
 いつもの話し相手と ぬくもりは何処へ?
 一、二の、三 で 会いに行ってもいいか知ら
 いつものとおり いつものベンチで
 それで
 詩を交わし合う今が 永遠に続きますように

 カラン、コロン。
 わたしがマリオンとリュカさんを連れてカフェに訪れたときノラは、さすがお嬢さん、人望のある人はこれだから、と言ってカフェのドアノブのところに札をかけた。本日貸し切り。
 このカフェにこの五人が集まるのは、初めてかも知れない。そして、これが最後かも知れない。「随分変わっちゃったのね。」マリオンは耳にかけたピアスを指で揺らし、ゆっくりと店内を見回し、「前はこんなじゃなかった。もっとコーヒーの香りがしたものだわ。」と溜息をついた。そしてリュカさんはドアについたベルの様子を見て言う。「変わりないようだね。」
「もう準備はできてるよ。さあ奥に行った、行った。」
 店主はその場にいた全員を急かす。なにしろ金の発生しない貸し切りなわけで、本企画においてわりと乗り気な店主にしても、さっさと終わらせたいようなのだった。リュカさんは眉を顰め、「なに、ジャック。なにが始まるっていうの。」と問う。店主は、出汁ワン決定戦だよ何回も説明させないでくれ、とわたしから周知されている前提でリュカさんに返した。途端、リュカさんに申し訳なくなったけれど、店主とノラの組み合わせがいつもくだらないことしか引き起こさないことを知っているリュカさんは、わたしにも非があるなんてことを疑わないのだろうなと思って、呵責の中に少しの安心が生まれた。一方マリオンはすぐ終わるなら何でもよいようだった。
 透明なグラスに、黄金色の出汁が注がれている。九個。グラスの数だ。加えて、水の入ったグラスが三つ。飲み比べて、一番美味しいものに投票せよ。ノラが声高に叫びながらわたしたちの周りをくるくる回る。「邪魔よ、お莫迦さん。」マリオンはノラの首根っこを捕まえて、真鍮色の鎖を巻いた。
「それは?」
 リュカさんが訊ねる。
「あら。のろいのかかった鎖なのですよ、リュカさん。」
 マリオンはリュカさんに話しかけられて嬉しそうである。のろいなんか迷信ですぜ、と何処吹く風のノラに、どっちでもいいけど静かにして、とわたしは毒づいた。そしてそれをさらに上回る店主の毒づき、「なんでもいい、早く飲んで終わらせてくれ。」が、流水と皿の擦れる音に紛れて飛んできた。
「よくわからないけど……飲もうか。」
 リュカさんが困惑半ば諦めの表情で言ったのを皮切りに、出汁ワン決定戦は幕を切った。

 全部飲んだ感想である。
 リュカさん。全部、おいしい。どれもいいと思う。
 マリオン。全部、おいしくない。とにかく体に合わないの。
「ちょっと。消去法とかで捻り出すこともできないんですかい?」
 ノラは鎖を引っ張りながら怒った。ふたりは、そんなことを言われても……という顔をしている。ついでにマリオンは、早く帰りたい、という顔もしている。突然巻き込まれて、とんだ迷惑だよな、とわたしは思った。
 そこで何かを思い出したらしいリュカさんは、そういえば、と切り出した。
「お嬢さんは、前に、小料理店で働いていたよね。ぼくたちよりよっぽど利くんじゃないかな。」
 それを訊いたノラと店主が前のめりになる。わたしは、ひとつのグラスを指差した。みんなが、それを覗き込んだ。
「これ。ちゃんと煮出したやつですよね。」
「おお、正解だよ。」店主が驚嘆した。
「これが一番美味しかったです、やっぱり。何百年も言い伝えられて残っているやり方ですから、間違いないです。」
「ああ、そうかあ。なるほどなあ。やっぱりそうかあ。」店主は笑い、わたしを褒めたのち、こんなことならお嬢さんに何かのついでに飲んでもらって決めちゃえばよかったなあ、と言った。
「では、今日の晩ご飯からこの出汁を採用ということで……。」
 あいかわらず飄々としているノラは、早く貸切の札をおろしてこいと店主に怒られた。「じゃあ、あたし、帰っていい?」というのはマリオンで、まじない入りアクセサリーと手紙をわたしに寄越した。わたしは急いで、マリオンに返す本と代金をバッグの中から引っ張り出し、渡した。マリオンは、長い睫毛を贅沢に上向かせた綺麗な瞼で、とても可愛らしいウインクをした。
「今日も楽しかったけれど、今度はもっと素敵な用事で会いましょうね。お嬢さん。」
 マリオンにはすべてお見通しのようだった。

 わたしはリュカさんとカフェを出て、そのまま一緒に、広場に向かって暮れ始めた空の下を歩いた。
「綺麗なアクセサリーだね。」
 マリオンの手仕事を見遣り、リュカさんはそっと微笑んだ。
「おまじないがかかってるんです。」
 わたしは手紙を開いた。叶わないものが叶いますように。例えば、恋とか、夢とか。と書いてあって、リュカさんに教えるのをやめた。
「ところで、いつも二月になると行方を晦ますのは、どうしてですか。」
 話題を無理やり変える。急いだことで、いつもなら訊くのに戸惑ってしまいそうな本音の質問を、ついうっかり引き出してしまった。リュカさんは少し驚いたのち、あのね、と口を開いた。
「長寿会の、集会があるからだよ。」
 本当のことを教えてくれると、期待したわたしが莫迦だった。
「また、わたしを揶揄うんですね。」
「きみのことを揶揄ったことなんか。まあ、遠くに行っていたのさ。そして、昔のことを振り返ったり、どうして二月が短いのかを話したりしたんだ。」
「どうして二月って短いんですか。」
「さあ、どうしてかな。」
 その短い二月が、もう終わろうとしている。広場にあった山のようなトランプは、まるで魔法をかけたみたいに、綺麗さっぱり消失していた。

二月・四

二月・四

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-08

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