熱帯。
砂漠を夢見て、買い物袋を肩から下げた。閉店間際の喧騒。手洗い場のしずけさ。
夜が歩いて、駆けて、転ぶその瞬間のような今を私は立っていた。鏡の前で電気を消して、着けて。影をつぶして。
眼鏡を外せば、目の前の大鏡には一人の影が浮かんでいた。
「こんばんは。」
「…すいません。」
「謝ることなんて、ないよ。」
その影は子供くらいの背丈だった。顔も、手も頭も見えない。でも溢れている。ただそこから、例えるならとめどない涙を流す寝室の魚みたいな存在。
「変なの。」
「僕は、変かな。」
「君が変な訳じゃない。私の夜更けがおかしいだけ。」
今夜は温かい。生暖かい。真冬なのに。
これじゃまるで熱帯夜だ。
「君は、」
言いかけた時、影の少年が飛び出した。
「待って。」
手洗い場、恥じらいもなく腕を絡める恋人、異国語、フライドポテトの匂い。夜の温度。すべてを超えて少年は走る。
その後をただ追いかけている。
コンクリの大地が花畑になる。
少年の香り。
「水槽の街だから。」
「え?」
「僕らは哀れな熱帯魚さ。」
横を夜景が流れていく。終電の車窓を外からスコープで覗くみたいな時間。
「空を飛ぼうよ。」
「飛べないよ。私はもう子供じゃない。」
「魔法も、夢もいらない。神様は想像だから。神様を想像できたなら空だって飛べるはずだよ。」
階段を上がる鈍い音が古いアパートに響く。
夜景が淡く丸くなった。蛍の光みたいに。
「行こう。」
そうして私は空を飛んだ。
空を飛んだ後のことは何も覚えていない。買い物袋が重かったこと。財布の中身が空だったこと。朝捨てたゴミ袋が、いつの間にかカラスのランチになっていたこと、アパートの手すりは夏に似ていた事以外はもう何も覚えていなかった。
熱帯。