地縛霊

 つかの間の夏休みが終わると、やってくるのは文化祭の季節。

 もう本番は二日前に迫り、それに伴って校内のボルテージはますます高まっていく。必然、模擬店のクオリティアップにも熱が入る。表向きは自主参加とはいえ、クラスの大半が居残りせざるを得ない。まあ、別にそれが嫌ってわけでもない。自由な時間は削られていくけれど、俺たちはその対価として、この機を逃せば二度と噛みしめられない時間の一片を享受しているのだと思う。  

実際、クラスメイトたちとあれやこれや言い合いながら準備するのは楽しかった。真剣に、それでも時にはふざけ合って、一つの目標へ足並み揃えて突き進んでいく。カラフルな看板をデザインしたり、ひたすら段ボールを持ち寄って工作に励んでみたり、数十人いる仲間たちを役割分担しつつ、当日のシフト表を組んでみたりする。日常的な空間のなかで、非日常的な作業に没頭することの楽しさ。そういうのも含めて、俺はこの文化祭の準備期間が好きだった。

それに、だ。文化祭と言えば、もう一つ楽しみにしているものがある。

二日目の夜に計画されている、校庭でのキャンプファイヤー。時間になればどこからともなくぞろぞろと、生徒たちが炎の周りに集まっていく。やがて音楽が流れ始めると、それぞれ思い思いに手をつなぎ合い、作法も知らぬダンスを踊る。傍から見れば、それはとんでもなくぶきっちょなものだ。格好の笑い種になるに違いない。でも、それでいいのだ。流れるひとときが楽しければ、美しければ、そんなことはどうだっていい。むろん、誰にとっても。

むせ返るような湿気をはらんだ夏風にそそのかされて、俺はポケットからスマホを取り出した。慣れた指先を画面に滑らせて、ラインを開く。

一時間ほど前。同じクラスの祐希から、メッセージが届いていた。

『もちろん! 慧くんと一緒に踊るの、楽しみだな!』

可笑しいところは何もないのに、俺はふっと相好を崩さずにはいられない。 

 付き合ってはいない。いや、そんな前提を据えること自体がおこがましいか。いやしかし、公私ともども祐希とはよく話をする。ふとしたときに、にこりと笑顔を向けてくれる。たまたま居合わせることも多い。手探りながら、こっちのことを知ってくれる、知ろうと思ってくれている……そんな気もする。

 だから、誘った。特別な日の、特別な時間。そこに祐希を招待することを決意した。

 それが先ほど受諾されたのだ。俺の喜びようときたら、筆舌に尽くしがたい。いま手を伸ばして跳躍したら、夜空に浮かぶ月まで届くかもしれなかった。

なんにせよだ。薄幸の高校生諸君に与えられる、たった二日間の大イベント。それを締めくくるにまさしく相応しい、焦がれる異性と舞い踊るぶきっちょダンスが待っている。あとはなんだ、そうと決まれば周到な準備が要る。俺にもできるようなサプライズはないものか。俺にも送ることができる、けれども決して安価ではない言葉はないものか。五十パーセントを九十九パーセントに、九十九パーセントを百パーセントにするようなやり方は――。

などと思案していた矢先のことだった。通学路と呼ぶにはあまりに殺風景な、田園のさなか。そこに一筋走る舗道を行く俺が目にしたものは――水路のほとりに設えられたガードレールへ柔らかく腰を預けて空を見上げる、一人の少女の姿だった。

夜風をはらんだ長髪が、天の赴くままに右へ左へ揺れ動いている。汚れ一つない真綿のような肌をまとう彼女の輪郭は、月影に照らされてぱっきりと縁どられていた。どこから調達したものか、そんな肌よりも純度の高いスノーホワイトのキャミソールワンピースを閃かせながら、ただただ思いを馳せるように空の一点を見ている。誰かを待つのにくたびれてぼうっと遠くを眺めている、まるでそんな雰囲気だった。

一目見ただけで、その異様さが肌身に伝わってくる。

もしかして。いや、もしかしなくても……。

幽霊、なのだろうか。

だとすれば、あれはいわゆる「地縛霊」というやつなのかもしれない。

考えてもみろ、普通の人間がこんなところで物思いに耽るわけもない。心なしか寒気が込み上げてきた。まさか自分が「視える」たぐいの人種だとは思ってもみなかったが、こういった能力は得てして後天的に、それも突発的に身に付く場合も少なくないと聞く。せっかくならばもっと実用的な異能力を備えてみたかったが、こればかりは運否天賦。

俺はなるべく見て見ぬふりで、その場を通り過ぎようとした。

「どこにも行けないのに。どこへ行こうとしているの」

 ――それが空耳であれば、どれだけ良かったことだろう。

 しかし悲しいかな、少女は確実に、俺に向けて言葉を放ったのだ。

それまでは虚空に向けられていたはずの視線が、もはや清々しいまでの直進性をもって、俺の顔をじいっと捉えていた。

「……どういう意味だ、それ」

 声が震えてしまう。仮に少女が血の通った人間であろうと、怖いものは怖い。少女が発する言葉の意味も、俺が今置かれている状況も、何もかもが理解できない。理解の及ばないものに恐れを感じてしまうのは、至極当然の心理だろう。

「そもそも誰なんだ。こんな夜に、こんな辺鄙な場所で、まるで待ち伏せみたいに」

「君があんまりしつこいからよ」

 とん、と少女は預けた体重を引き戻して、自前の両足で消えかけの白線を踏みしめる。

 人工的な街明かりは、その瞳のはるか向こうに映るだけだった。俺と少女は、互いになんとなく表情が読み取れるぐらいの薄暗さで、微妙な距離を保ちながら対峙している。

「しつこい? 悪いが、さっきから言っている意味が一つも分からない」

 非難がましく言うと、あろうことか少女は呆れ顔になって、ほうとため息をついた。

「どうすればいいのかしら。ここから逐一説明しても、やはり結果は変わらない。また朝がきて、いずれは夜になる。すると君はまた、最初から始めてしまう。終わらないループを始めてしまう。君だけの、君だけを閉じ込めた九月十日が、際限なく繰り返される」

「なんだと?」

 薄く浮かび上がる少女の瞳はぬるりとした神妙な光を帯びて、まっすぐに俺を射止めたままだ。

「きちんと現実を見て。今は十二月。もうあれから百日近く経過しているわ。田んぼだって、このとおり」

 そう言うと、彼女はためらいもなく駆け出して、雄々しく背丈を伸ばす稲たちのなかに身を投じた。度を超えた言動に理解が追い付かず、文字通り目を白黒させながらも、その行方を追う。

「何がしたいんだ、お前は」

 せっかくの白が台無しじゃないか……と、そんな思考を一瞬抱いた俺ではあったが。

「気づいて。長い夢から醒めるときが来たのよ」

 訥々と言葉を紡ぎながら、ゆっくりとこちらに向きなおる少女。

その衣服には、わずかな泥はねさえ見当たらない。

 田園には水が一面に張られ、底には泥濘が横たわっているはずだ。そんな場所に飛び込めば、たちまち白は汚される。そのはずなのに。

「……どういうことだ。なぜ汚れない?」

「君にとっては信じられないかもしれないけれど、今はもう冬。稲刈りも終わっているし、水もすっかり引いているわ。ここにはひび割れて乾燥した地面があるだけ」

 その言葉を耳にした瞬間。

豊かに米を実らせていたはずの稲は、またたきのうちに消え失せえしまう。途端、寒々とした貧しい景色が、遠く彼方まで刹那に広がりを見せた。不快だったはずの湿っぽい空気は、たちまち乾ききった寒風となって、突き刺すがごとく身体じゅうにひゅうひゅうと吹き付けてくる。

「なんだ、これは⁉ どうしてこんなことが……⁉」

 驚きのあまり硬直してしまう。それを好機と捉えたらしい少女は、一も二もなくこちらに歩み寄ってきた。それから間髪入れずに、俺の右手をとんでもない剛力で引っ張る。思わずぐらりと身体が前のめりになる。が、どうにか左足で踏みとどまった。

「なんだよ⁉ 一体なんの真似だ⁉」

「やっと動いたわ。あと一押しってところね」

 顔色一つ変えないで、少女は手荒く俺のポケットからスマホを抜き出す。

「おい、勝手に人のものを……」

「この機器の実態は、君の妄念が生み出した虚像に過ぎない。でもこのメディアは勝手がいいの。君の魂の根幹部分に、逃げ場のない事実を突きつけるためにはね」

 少女から示されたスマホの画面。俺はそれを、おそるおそる確認する。

そこには、揺らめく炎の前でしゃがみ込み、顔をうずめている祐希の姿が収められていた。

「ゆ、祐希……⁉」

 なんだ、これは。意味が分からない。なぜ祐希が……いや、それよりも。

「なぜ、キャンプファイヤーは行われている……?」

どのような経緯であっても、この写真は未来に存在すべきものだ。

今ここに、この瞬間にあるべきものではないはずだ。

「これは正しい、過去の出来事よ。君は文化祭に来ることができなかった」

「いや、そんなはずはない! 明後日だ……明後日に文化祭は開催されるはずだ!」

 躍起になって訴えるが、少女はただ口を結んで、首を横に振り続ける。

「いいえ。文化祭は三か月前に終わっているわ」

「……バカなことを……っ」

「言ったでしょう。君は幾度となく繰り返していると。九月十日のつもりでいるあの日の夜を、無意識のうちにリフレインさせている」

「リフレイン……なんのために?」

 風は凪ぎ、混乱していた俺の焦点は、再び目前の少女へと収斂する。静かなその表情は、ひんやりとした冬の世界とともに息づいて、ことさらその実在を露わにしたように思えた。

「君が、ここで死んだから」

「俺がここで、……」

 一つひとつの言葉が、染み入るように俺の内部へと押し寄せてくる。

「九月十日の夜。君はスマホに夢中になっていた」

「……好きな奴と踊る約束を交わしたものだから」

「気を取られすぎていたの。そのために、軽トラックの接近に気づけなかった」

「言われてみれば、ブレーキ音は聞こえていた……気がする」

「しかし、わずかに遅かった」

「そうして、俺は跳ね飛ばされた。頭部を打ち付ける直前、流転する世界の一フレームが見えた」

 定められた台本をお互いに語り合うかのように、するすると言葉が出てくる。真相を隠したままだったベールが取り払われる。明確な形を持った記憶の断片が、まるでパズルのように埋められていく。

「打ち所が悪くて、即死だった」

「……はは。それはいい。不幸中の幸いってところだ」

「ゆえに、君の魂は死を理解することができなかった。なればこそ、こうして現場に留まることを自らに強いた。そんな君を本来の場所へ送り届けるために、わたしはここにいる」

「そうか。……これで何回目だ?」

「君が死んでから、これで八十八回目」

「そのたびに『九月十日のつもりでいる俺』を相手にしてきたのか」

 こくりと頷く。

「死を理解していないからこそ、君の魂は延々と死の直前の記憶を繰り返さなければならなかった。ループを脱するための糸口を探しては、失敗に終わる。ここ三か月間、その繰り返しだったわ」

「……そうか。それは悪かったな。長らく手間を取らせてしまった」

「いいえ。これがわたしの使命だから」

 そう言った少女の、ほとんど抑揚のない声音が耳朶を震わせる。

 一度たりとも真実を知れば、後はすとんと落ちたように思われた。あるいは地縛霊というのは、元来そういう性質なのかもしれなかった。

「さあ、行きましょう。君の気が変わらないうちに」

「ああ……そうしたほうが賢明だろうな」

 そうして俺たちは、ただ黙って歩みを進めていく。

一つ俺が足を踏み出せば、少女は二歩分だけ前に進んだ。その工程が三度と繰り返された末、いつの間にか俺たちは駆け出していた。

 無意識のうちに繰り返した夜は、もはや影も形もなくなっていた。

冬空に散りばめられた星々の下を、二人一緒に馳せる。アスファルトを蹴るたび、自分が透明になっていく気がした。

地縛霊

地縛霊

佐賀大学文芸部、部誌「天長地久vol.21」掲載作品

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-06

Copyrighted
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