戯れ言 1️⃣1️⃣~2️⃣0️⃣

草也

戯れ言 1️⃣1️⃣~2️⃣0️⃣
 
1️⃣1️⃣ 毒虫

 「一応、消毒はしたけど」「有り難う」と、答えた女は、ところが、優しい声音には酷く不釣り合いな、あられもない姿態なのだ。刺された局所が太股だったから、女の青いスカートが無造作にまくり上げられているのである。草吾は、妖艷で豊満な、実に自分好みのこの女は、いったい幾つなんだろうと、脳裏を騒がせながら、「でも、毒虫だといけないかな?」と、試みに呟いてみた。「毒虫?」「そう」「どんな?」四〇くらいか、などと推理しながら、「例えば、キタノハナドクムシとか…」と、男の話しは、全くの出鱈目なのだが、「猛毒なの?」と、女が食いついてくる。「そうじゃないけど。酷く肌をやられるらしい」と、ある物語が始まってしまったが、そんな戯れ言を、女が本当に信じているか、どうか。「念のために、吸いとりましょうか?」「だったら、そうしてちょうだいな」

 草吾は、最前から、ふしだらに開いた女の股間に佇んでいたのである。だが、この半裸は、ついさっき、初めて見た女なのだ。いったい、忽然と草吾の庭先に現れたこの女は、何者なのか。

 草吾は半年前に離婚していた。そして、休日の今日、朝から庭仕事をしていたら、通りすがりの女が、暫く、咲き誇る薔薇に見入っていたが、突然に、蜂に刺されたと、騒ぎたてたのである。

 草吾が女に覆い被さって、「だったら、ここから」と、今ほど消毒を終えたばかりの右の太股を吸い始めた。女が低く呻く。「強く吸うから。痣になってもいいですか?」「それが治療なんでしょ?」「だったら、仕方ないわ」
 「でも、これって、凄く淫らな治療なのね。あなたも××先生のような、不埒千万な医師なのかしら?」「…先生?」「私のかかりつけの医師なの」「男?」「そう」「その先生が、どうかしたんですか?」「そうね。あちこちで名医だとは聞くんだけど、時折、酷く卑猥なの」「卑猥?」「そう。大して意味もないのに、長いこと、聴診器を当てたり…」「突然に、近くまで来たから、なんて言って。訪ねて来たりするのよ」「それで?」「必ず、聴診器を当てるわ。それに」「ん?」「夢の話を聞きたがるのよ」「夢?」「私がみた夢だわ」「他人の夢に興味を示すなんて、不可思議でしょ?何故かわかるかしら?」草吾には答えようがない。「あの人は、密かに小説を書いているんだわ」「小説?」「私の夢の小説なのよ」「それって、まるで、夢泥棒じゃない?」「今日のこの出来事だって、夢みたいなんだもの。きっと、聞きたがるわ」「教えるんですか?」「どうしようかしら。そうね。あなた次第だわ」

右の太股の刺し傷を吸いながら、左の太股に、草吾は恐る恐る手を置いてみた。女は無防備なのである。すると、左を蹂躙しながら右をいたぶる。もはや、完璧な性戯ではないのか。
その時、草吾は、ふと、紫子という女を思い起こしたのである。一〇年前に、一月ばかりの因縁の交錯の果てに、別れていたが、似たような事件があった気がしたのだ。

あの時、紫子と草吾は、初夏の海岸めがけて遠出をしたのだった。紫子は、勤めている会社の経営者とのただならぬ煩悶を、草吾に告白していた。二人は微塵の展望もあり得ない爛れた感情を、茫々と漂流していたのだった。
その海岸で、紫子の二の腕が蜂に襲われたのだ。刺し跡の赤い斑紋を草吾が吸ったのだ。

そして、今、あの時の、紫子が蜂に刺された事件は真実だったのかと、ふと、草吾は思い至った。その直前には、その経営者の気まずい会話をしていて、草吾をはぐらかすために、紫子が仕組んだ演出だったのではないか。その証には、蜂の毒を吸い出す儀式を契機に、二人は激しく抱擁したのであった。
だから、この眼前の、突然に紛れ込んで来て、名前も知らない女も、あの時の紫子に似た脚本を隠し持ってはいないか。草吾は、ふと、そんな疑念に陥ったのである。

 その時に つけ放したラジオから臨時ニュースが流れてきた。
 『臨時ニュースを申し上げます。臨時のニュースを申し上げます。先ほど××市の××精神病院から、男女数名の入院患者が逃走した模様です。調理場の包丁が不明になっているといるとの、情報もあります。××市の付近の皆さんはご注意ください。

賢明な読者諸兄なら、『ピリカの儚』などに登場する、あの風子をご記憶だろう。この日、草吾の庭先で蜂に刺されたと申告した女は、その風子だったのではないか。筆者は、訳もなく、何故か、そのように思えてならないのである。


1️⃣2️⃣ 殺意

 この朝は二〇二一年三月九日だ。昨日、実におぞましい事件を知った。七八歳の妻が八三歳の夫の首をノコギリで引いたと、言うのである。あげくに、断末魔の数時間を夫に股がっていたというのだ。生活費を入れなかったのが原因だという。
筆者はこの世代には先達も多かったが、交遊も絶え、鬼籍に移った者もある。生き残った人達の凄惨な結末なのだ。文字通り、背筋が冷えたのである。筆者は五月で七二になるが、幸いに、妻はいない。
 さて、以下は、数年前に書いた拙文だが、骨肉の犯罪は、一段と高齢化しているように思えてならない。


🎆 トリカブト

 ある年の盛夏の昼下がりである。不定期で暫くぶりの休日の草吾が、ウィスキーを飲んでいると、沐浴を済ませた紫子が、居間に入ってきた。大判のバスタオルで豊満な身体を隠して、小さなタオルで髪を拭きながら、真向かいの肘掛けに腰を落とすや、けたたましいテレビに目をやった。
「最近の事件で、トリカブトで、夫を殺害したというのがあっただろ?」「これもそうね?」「テレビは、連日、大騒ぎだ」「何か新しい事でも、解ったのかしら?」「同じことの繰り返しだ。それにしても…」「ん?」「犯人の妻は六三、殺された夫は七一だった」
 すると、「喉が乾いたわ」と言う紫子に、草吾が、黙って、水割りを作った。一口飲み干して、「あんな歳になっても、殺人ができるくらい、元気でいられるのかしら?」と、呟いた。「俺達も、もう少しだけど。あなたは大丈夫だよ」「あら?どういう意味かしら?」「純粋だよ。健康だろ?」「そんなんじゃないわ。肩は凝るし。頭痛だって…」女の言葉の端端には、未だ、些かの険が残っているのではないか。草吾は、ふと、疑った。
かつて、二人の、ある爛れた交情は一月ばかりで破綻したが、十年後に再開して、更に八年が経過していた。
月に数度、遠距離を通い会う関係だが、最近ではいさかいも多い。夕べも、訪ねてきたばかりの女を相手に痴話が発展して、険悪になった。夜半に女の夜具に忍び込んで、和解したばかりなのである。
だが、いさかいの果てに何度も和解を繰り返す内に、この頃では、あるしこりが、体の一部になってしまった気配がするのであった。
だからなのか、「俺が倒れたらどうする?」ふと、そんな言葉が草吾の口をついた。「ん?」「脳溢血、とか?」女は反応しない。「半身不随、とか?」「誰だって、明日の事なんか、解らないんだわ。あの夫婦だって。きっと、そうだったんでしょ?」紫子が巧みに答えをはぐらかした。

 「数年に渡って、毒薬を盛り続けたと言うんだ。あの歳で、だよ」「私達だって、目の前だわ」「それ程までに、何が許せなかったのかな?」「四〇年の結婚生活だって、言っているけど。歳月の積み重ねなんて、無価値なのかしら?」紫子の物言いは、いかにも意味ありげに聞こえる。
「この二人は、どれ程の夜を共にをしたんだろ?」「子供が二人、いたんでしょ?」「だったら、互いを狂おしく求めたこともあったろうに」「そうかしら?」「どうして?」「閨房なんて。闇の中の秘密なんだもの」「当事者すら、何をしているか、解らないかも知れないな?」「相変わらずに、皮肉屋なのね?」「事実かも知れないだろ?」「私の事なんでしょう?」「だって。茫茫と漂流して。殆どは夢幻を漂流してるんじゃないか?」「女なんて、誰だってそうじゃないのかしら?そして、そんな女を、誰かは克明に観察しているんだわ」「それだって、立派な快楽なんだ」「あげくに、小説は産まれるしね?」

 テレビには血縁や近隣の証言者が現れて、いっそう無意味にけたたましい。「こんな事だと、男女の身体の交わりなんて、微塵の意味もないのかと、思ったりするよ。どう思う?」「難しくて、私には、良くはわからないわ」「人の心は浮き雲の如しか。気持ちが変われば、自ずと身体も変わる。性愛の絆など、幻なんだな」草吾は自分を諭す如くに呟くのである。

 「別れた旦那に、殺意を抱いた刹那はなかった?」「…なかったわ」紫子の性根は嘘つきだが、その感情の動きは正直で、時折、無防備に表情に表すから、草吾が、「あるんだな?」と、追い討ちをかけた。「ないわよ。そんなことが、あるわけがないでしょ」
 紫子は生まれ育ったK市にある、某大学の学生と恋に落ちて結婚していた。男の実家のある西の国の小島で、五年間を暮らして、女児も設けたが、離縁していた。だが、その詳しいいきさつは、決して、話さなかったし、草吾も聞く事はなかった。 
だが、ある寝物語に、ある男とその叔母の姦通話を、紫子がしたのであった。草吾は、その男というのは、かつての夫に違いないと、確信しているのである。そして、草吾は、俺には殺意を抱いたことはないのかと、質す誘惑にかられたが、危うく飲み込んだ。
 その時、何故だか、紫子の姿態が乱れて、本人が知ってか知らずか、太股が露なのである。股間の闇で、微かに陰毛が覗いている気配すらする。すると、遠い昔に、初めて会った頃の、とびきりの破顔で、「どうかしたの?」と、女が言うのであった。


1️⃣3️⃣ 写真家

 草吾が話し始めた。「あの忌まわしい戦時下の話だ。首府に、ある若い写真家がいたんだ。北の国の出だよ。才能に溢れていて、嘱望もされていた。その男が、ある女と出会って恋に落ちたんだ。人妻で歳上だよ。やはり、北の国の豊潤な女で。女との抱擁は今までに味わったことのない、狂おしい程に官能に満ちたものだった。だから、男はその陶酔を、カメラで写し取れないかと考えたんだ。そして、二人の交接そのものを撮ったら、二人の法悦の瞬間を、そのままに表現できるのではないかと、思い付いたんだ」「どうしたの?」「女との同衾を撮ったんだよ」「まあ。でも、どうやって?」「自動シャッターだよ。その頃のこの国は、カメラそのものも満足に作れなかったが、外国製のカメラには、既に、この仕組みがあったんだ。だからこそ、他人の手を借りずに、男女の秘密の営みを写し出すという男の試みは、画期的だと思えたんだ」

 「後に、最晩年のピカソが、恋人と交接している性器を描いて波紋を呼んだが、同じ事を写真でしようとしたんだろう」「ビカソの絵は見たわ。こんなのが芸術なのかって。ただ、それだけ。気味が悪くはなかったけど。子供の悪戯描きの様な気がしたり。裏をかいた計算があるのかと、思いついたりしたわ」と、紫子が言う。「計算?」「画商のだわ。老人がどんな風に性を感じているのか。それって、禁忌の一つじゃない?そんな関心に奇をてらった商法かな、って。谷崎の老齢の小説だって、そうだわ。若い時に読んだけど。あの女主人公の心情なんて、殆ど理解が及ばなかったもの」「今は?」「だんだん、あんな歳に近づいてきたのかしら」「谷崎の女が解るのか?」「どうかしら?あなたは?」

 ウィスキーを作り終えた紫子が、「どんな風に撮ったのかしら?」と、質すから、その琥珀を含んだ草吾が、「色々と撮った。ところが、信頼するグループの写真家達に見せたら、彼らの批評は散々だったんだ」「彼の作品を支持する者は一人もいなかった。こんなものを、どこで発表するんだ。地下出版で発表しても、そんなことに何の意味もない、と、悉くに言う」

「だが、絡みを評価するものが一人だけいた」「絡み、って?」「性器を巧みに隠した抱擁のポーズだ。キスもある。でも、知り合いのある出版社に掲載を頼み込んだら、叱責された。こんなものを掲載したら、会社がとり潰されてしまう、と言うんだ」「どうしてかしら?」「その頃は、戦意高揚のために、国が軟弱な文化を禁止して、取り締まりを強化し始めていたんだ。それでも、男は諦めきれない。発表されることのない写真を撮り続けた。だが、直に、二人の姦通が発覚して、女は離縁された。男の収入は激減していたから、女がその妖艶な容姿を活用して、稼ぐしかなかった。いかにも怪しげな仕事も、忌んではいられない。そうして、二人の関係は、酷く荒んでいったんだよ」

 「それでも、あの撮影だけには執着した。ところが、撮れば撮るほど、強い刺激を求めるようになる。終いには、その刺激がないと、女は快感を得られない。男も一寸ばかりの刺激では、勃起が難しくなってしまったんだ」「どうなってしまうのかしら?」「聞きたい?」「聞きたいわ」「二人の最後の壮絶な場面だ。驚かないで」


🎆 トマト

 「男の撮影は、ただ交接すればいいというものじゃない。究極の官能を引き出すために、様々な試行をした。その結果、二人は、普段の交接では、駄目になってしまったんだ」「どうするのかしら?」
 「しかし、性交の写真などは発表の場すらない。男は次第に自分の選択に疑問を抱くようになったんだ。ある時、こんなことがあった」


✳️(注)
 以前は、ここには、ある事実を草吾が話し、紫子が反応した叙述があったが、全てを削除した。著者の現在只今の気分には、全くそぐわないからである。また、発表の場の空気も配慮した。このように馬齢を重ねたことを、表現の自由と比して、堕落や恥とは感じない。ただ、自然な摂理なのではないか。

 だが、女がトマトを使った自慰の、ある提案を写真家にした話を、草吾がして、紫子が実に興味を示した事だけを、書き残しておこう。


「そんな撮影を通じて、女もすっかり変わってしまった。まるで、性だけの権化のような。いわば、最早、肉慾の依存の化物なんだ。こうして、男は自分の挑戦の限界に気づいた。ピカソの絵と同じように、性器や性交そのものは、芸術には昇華しなかったんだ」「それから、どうなったの?」「それでも、男は女の虜だった。だから、彼女の普通のヌードさえ撮れなくなってしまった。

男は悩み続けて麻薬と廻り合い、たちまち堕ちていった。男は写真界からも見放された。だから、生きるためには、意に添わない、エログロ写真を撮り続ける以外になかったんだ。そして、戦後の地下社会で、エログロ写真の大家になり、ある秘密組織で暗躍したんだ」「随分と、そういう世界に詳しいのね?」「『異人の儚』は読んだんだろ?」紫子が頷く。「あの戦後の混乱期に、淫靡な写真で生計を立てる、三人の男女がいただろ?」 「背景に秘密組織があるんだわ」「そう。写真家はその一味なんだ」


1️⃣4️⃣ 和解

 二〇年に迫る不安定な関わりが原因なのか。そんな関係に、ただ飽いただけなのか。実は、互いの質の本元に不満だったのか。或いは、性愛の必然なのか。先に、近頃はとみに草吾と紫子にいさかいが頻発して和解の工夫も増えたと、書いた。だから、その和合のある一場面を書き留めおくのも、一興ではないか。
 ただ、付言しておかなければならないのは、この二人の関係は直感的な性愛から出発して、少なくとも草吾は、紫子の裸体を、未だ、気に入っているという事実である。一昔前は執着した時節すらあって、丹念に書いた程なのである。
 その上、事実上の内縁の男女の和解の儀式を明かすのだから、当然に秘密の暴露なのであり、赤裸々な叙述も避けられない。だが、取り立てての禁忌の告発でもないのだから、意に介する必要もないのだろうが、いかんせん、筆者は古稀を越えた。性の描写には殆ど飽いてはいるが、気まぐれにもなっているから、暴走するやも知れない。読者諸兄は、賢明に判断を頂いて、拝読を止めるなり、不快に陥らない対処を願いたい。予め、断っておく次第だ。
 物語は、ある年の異様に蒸し暑い日が続く盛夏。二人とも四九歳である。

🎆 停電

 雷の光と音が、同時に大爆発した。地鳴りと共に家が揺れ、紫子が叫声を発した。平生なら何かまわずに、草吾にしがみついてくる場面だが、二人は最前から痴話喧嘩の最中なのであった。
 「落ちたな」と、草吾が呟いた。やや間があって、背後で、「ここに?」と、背中合わせの、怯えた紫子の息が乱れている。

 男が電気を点けても点かない。闇の中を手探りで、二人は階下に降りた。漸く懐中電灯を探しだした草吾が、ブレーカーを照らすと、ヒューズが飛んで焦げている。手際よく取り替えたが、電気は点かない。「停電だ。暫くかかるかも知れないな」
 その時に、男が巻いていたバスタオルが外れた。「あら?」女が見咎めて拾う。「いいんだ?」「どうして?」「裸でいたいんだ」「どうして?」「何だか、淫靡じゃないか?」「そうかしら?」「一緒に脱いでみろよ」「厭だわ」「仲直りだ。格好の機会だろ?」

 紫子も浴衣を脱ぎ払って、真裸になる。草吾が手を引いても、紫子は逆らわない。立ったままで、二人はぎこちなく抱き合った。
 「どう?」「そうね。複雑な気分だわ」「ん?」「だって、あんなに口論をしてしまったんだもの」「俺の早とちりだったんだ」「私が意地になったんだわ。それにしても…」「ん?」「最近、こんな事が…」「そうだな」「私達、意外と深刻なのかしら?」男は答えない。「どうして、こんなことになってしまうのかしら?」「嫌なのか」「そうじゃないから、苦しいの」「苦しいのか?」「喧嘩のことよ。だって、平穏が一番だし。それに、こんなことまでして。仲直りをしなきゃならないんだもの」

 その時に、再び、先程にも増す大衝撃が二人を襲った。爆音と光が轟き、辺りが揺れる。女がきつく抱きついた。
 直に、激しい雨音だけに戻ったが、男の腕の中で女が震えている。
 「やっぱり、この腕を逃したくないわ」「ん?」「一人では怖いんだもの」「雷だけだろ?」「ん?」「平生は鉄の女じゃないか?」「厭な人ね」女が重い尻を揺らす。陰毛が擦れあう。
 「何だか、情けないの」「ん?」「だって。雷の力を借りなければ、私達って、修復出来ないみたいなんだもの」「今夜が、たまたまだろ?」「そうかしら?それに…」「ん?」「最近、多いわ」「何が?」「すれ違い。…互いの気持ちの…」「単なる痴話喧嘩だろ?」「そうかしら?」「厭なのか?」「労力の問題だわ」

 「身体はどうなんだ?」「どうなのかしら?でも、今では、私の身体じゃないみたいなんだわ」「どんな風なんだ?」「別な生き物に乗っ取られたみたい」「ん?」「あなただわ」女が陰嚢を握った。
 「違うだろ?」「何が?」「それは、そもそも、お前の身体の深奥に棲んでいた、お前自身だよ」「同じ私なの?」「そうだ。お前の動物の本源だ」「ん?」「本能だよ?」「肉欲かしら?」「そうだ」「なぜ、そんなのが、現れてしまったのかしら?」「身体が熟れたんだ」「歳のせい?」「経験を積み重ねたからかな?」「だったら、やっばり、あなただわ」「そうだったら、性愛を探偵した本望だ」「それって、今まで、どこに棲んでいたのかしら?」「膣の奥に違いない」「子宮の辺りかしら?」「どうかな?」「あなたが一番知ってるんじゃないの?」

 「心の葛藤は最近だが。体の相克は、もう、色々と散々にしただろ?」「みんな、あなたのせいなんだわ」女が睾丸を握りしめる。「でも、相性は抜群だ」「そうなの?」「異議があるのか?」女は特段に否定しない代わりに、積極的な肯定もしないのである。愚かな男などが、その深淵な謎に気付く訳もない。
 「尻が好きなんだ」「私の?それとも、尻の一般なの?」「団体交渉みたいだな?」「あんな体験より、あなたとの最近の問答の方が、難解だわ」「俺はそんなに難しくない。この尻ばかりが、堪らないだけなんだ」「どうしたいのかしら?」「後ろから、その尻を味わいたい」「いいわ。ここで?」


1️⃣5️⃣ 浴室

 さて、この綺談も最終章の様相ではないか。出会いから二〇年、実質一〇年の歳月を交錯してきた草吾と紫子は、最後の局面に至っていさかいも増えた。だから、度々の和解の儀式を繰り返してきたのだが、最早、そればかりの糊塗では修復し難いばかりの亀裂が、二人の靱帯には走っていたからだ。
そもそも、直感に触発された性愛に、絆などというものが芽生えるものなのか。筆者などには、未だに、解明出来ないのである。それでも、人間などは、只の瞬時の未来の予測も出来ないから、僅かばかりの灯明にすがって、あがくのだろうか。

 豪雨が激しく叩きつけ、時おり、稲光が走るる闇の中である。
「蝋燭は要らないわ」雨音で紫子の声も満足には聞こえない。女が完熟した裸体を揺らして、タイルの床にタオルケットを敷いた。
二人はそこに座って、停電しているから、水しか出ないシャワーを掛けあい、痴話から和解に向かう情念で火照る身体を、洗いあうのであった。

 「仰向けに寝てちょうだい」と、言われるままに草吾が横たわると、泡をまとった紫子が覆い被さった。豊満な裸体を妖しく上下させる。「どう?」「絶賛だ。こんな事を、どこで覚えたんだ?」「長く生きてるのよ。厭らしい雑誌だって読むわ。こんなの、嫌いなの?」「随分としたのに、こんな趣向は初めてだな?」「その雑誌を読んだのが、最近なんだもの」「だったら、もっと早くに色々を読んで欲しかったな」

 「どう?」「おっぱいが凄い。ぬるぬるだ」「おっきくなったでしょ?」「さっきよりも、張ってるみたいだ」「興奮すると、こうなるのよ。乳首も膨れて、立ってるわ。淫乱な女でしょ?」「改めて、目眩がしそうだ」
「あなただって、ただ者じゃないわよ。だから、和解の前に、私を罰するんでしょ?」「約束だろ?」「確かに、したわ」「だから、厳しく罰してやる」「どんな罰なのかしら?」「陶酔の局地で、苦しめてやるんだ」

 男に命じられて、女が仰臥した。男がその足首を手にとって、足の指を舐め始めた。「あなた?」女が甲高く叫ぶ。身体をよじる。「心底の陶酔だわ」遂には、足を引いて逃れようとする。「だって、酷く重い罰なんだもの」途切れ途切れに、「もう苦しいわ」「厭なのか?」「そうじゃないの」「何なんだ?」「狂うぐらいなの。意識が行方不明に、なりそうなのよ。どんなことをしてもいいから、別な罰に変えて?」「情欲に溺れてるな?」「どっぶり、浸かってるわ」「尻をぶって欲しいか?」「いっぱい、ぶって」「あの叔母さんみたいに、だな?」「そうだわ」「叔母さんは、坊主の前で、どうしていたんだ?」「四つん這い、だわ「それを見ていたんだな?」「終いまで見たわ」「それで、刷り込まれてしまったんだよ」「何が?」「資質だよ」「資質?」
草吾が紫子の尻をしたたかにぶって、「痛くないだろ?」「気持ちがいいのよ。もっと、ぶってちょうだい」

 「なぜ罰を受けているか、わかるか?」「私が欲情したからだわ」「違う」「ん?」「お前がマゾだからだ」「図星だろ?」「どうして解ったの?」「これだけ、あからさまに反応しているんだ。解らない訳がない」

 「本当の事を教えてやろうか?」「ん?」「二〇年前に、あの会社の団体交渉に、初めて入った時だ」「私が組合担当だったんだもの。鮮烈に覚えているわ」「衝撃だった、んだ」「どうして?」「噂には聞いていたが。お前が実に妖艶だった」「だが、お前の評価は一様ではなかった。人によっては、あからさまに否定する者もいたから、お前の魅力は特異なのかも知れない」「特異?」「昔風に言えば、妖婦かな。でも、俺は初対面で関心を持ったんだ」「私もだわ」「何故、そんな、一見、不可解な事象があるのか。ある時に、ある小説を読んでいたら、同じ様な設定の場面があった。それはフェロモンのせいだと、いうんだ」「フェロモン?」「そう。動物の体内で分泌される不思議な物資だよ。フェロモンには誘引物質と拒否物質があって、生殖活動の根源の一つらしい。お前が出すフェロモンは、俺には誘引だったが、他の組合員には拒否物資でしかなかったんだ」「私があなたに感応したのも、そのフェロモンのせいだったのかしら?」「だが、フェロモンも退化するだろ?」「私達のいさかいが、そのせいだって、言うの?」

 「あの組合は過激派で、手を焼いていたんだ」「本当に酷かったのよ」「会社も会社だ。無用な挑発を連発していただろ?」「あの社長は右翼で。両者は右と左だったけど、極端では似たり寄ったりだったわ。だから、決して交わらなくて。些細な事で争って。そして、最後には、私に丸投げするんだもの」「貧乏クジを引かされたんだな?」「労働組合担当役員なんて、肩書きだけ。体のいい小間使いだったんだわ」下の世話までしたんだろうと、言いかけたが、さすがに、草吾は慎んだ。紫子は、その経営者の女だったのである。二人とも独り身だから、不義などではなかったが、経営者には凄まじい程の女の噂があり、紫子はその一人に過ぎなかったのである。
 「あの過激な組合員に罵倒されてたろ?」「酷い侮辱だったわ」「苦難だったか?」「ん?」「全然、こたえてなかったろ?」「そうかしら」「むしろ、陶酔の表情すら浮かべる時があったんじゃないか?」
こうして、例えようもない陶酔に包まれながら、この二人は、互いの恥部を陰湿に侵略し始めていたのである。
 

1️⃣6️⃣ 氷

 十年ぶりに再会して、それから九年目に同居した草吾と紫子の二人の契りの形態は、一年にも満たずに破綻したのである。何とも呆気ない幕切れだったろう。事実は小説より奇なりと言うが、筆者などの愚には思い付く筈もない脚色だ。だから、凡としては、事実を丹念に写生する以外にはないのである。

 あの離別の修羅から半年。何かの記念日で、たまたま休みだからと、紫子が忽然とが訪ねて来たのである。ここに至って、如何にも安直に、再び、会う契機かあろうとは。何という猥雑な関係性の二人なのだろうか。そして、こんな二人だからこそ、時折、無闇で無防備な情欲が頭をもたげるのだろうか。それとも、一対の男と女などというものの普遍なのであろうか。

 すると、そんな二人の行く末を規定するばかりに、女が着いた途端に、けたたましい雷雨になって、近くに落雷したかとみるや、忽ちに停電してしまった。

 かつてなら、極め付きの雷嫌いの紫子だもの、草吾にしがみついて離れず、そこから自ずと和合の時に耽溺したものだが。こんなにも混乱した気象に弄ばれながら、申し合わせた如くに何事も起こらないのである。
 
 「何の記念日なんだ?」と、男が質すと、「あら?忘れたの?相変わらず、儀式や儀礼には不実なのね?」と、女には棘がある。「でも、革命を自認するんだから、日常の些末なんかには無頓着で、当たり前なんでしょ?私の記憶なんか、女のつまらない戯れ言なんだわ」
 
 激しい風雨の爆音だから、二人の声も満足には交わらないのである。だから、この二人が、今さら互いを理解するなどというのは、不可能なのだろうか。折しも、雨は大粒の雹になっていた。午後も半ばだというのに薄暗い。

 すると、女が絵蝋燭を用意して、テーブルに灯した。この人魚の蝋燭には、男は淫靡な記憶があった。それを承知で女は持ち出したのか。あの箱には様々な小道具が詰まっていた筈だが。だが、最早、秘め事の過去を、安直に話せる距離ではないのか。

 二人は生涯分ほどに閨房に籠って、秘め事の数々を共有した筈で、男の脳裏には忘れ難い場面も、未だに鮮烈なのだが。あれは特異な状況設定で、ある種の異常だったのか。だとすると、この女と心底からの純情で抱擁したのは、いつだったのだろう。男は記憶をたぐってはみたが、思い付かないのである。
 「どうせ、溶けちゃうんだものね」冷蔵庫の氷を全部取り出して、女がオンザロックを作っついる。

 「痛っ」珍しくウィスキーを飲みながら、蝋燭の火で人魚の絵を眺めていた紫子が叫んだ。「どうしたんだ?」「氷をかじったら。割れて。舌が…」「痛いのか?」「僅かだけど…」草吾が、「見せて」と、促すと、紫子が舌を出した。濡れて紅い。「もっといっぱい」女が鮮やかな舌を伸ばす。まるで異界のな生き物だ。男が唾を飲み込む。舌を収めた女の濡れた唇が、「どうだった?」と、掠れた声で男の思案を急かす。「傷ついてるみたいだ」「どこ?」「右の脇の辺り」「どれくらい?」「ほんの僅かだ?痛いのか?」「少しだけど」
 男が沈黙して、その沈黙を女の沈黙が包み込む。この二人は何を期待しているのか。

 「消毒しようか?」と、何かの綺談の幕開けの如くに男が呟くと、「どうするの?」と、躊躇いながら、女の声音は掠れている。「唾が一番だろ?」「あなたの?」「嫌か?」「改めて質されても…」「昔は散々したじゃないか?」「嫌だわ」「だったら、よそう」「でも、怪我だもの。仕方ないわね」

 再び現れた女の舌を、男の唇が滑らかに包み込んだ。熱い舌を持った女が、森の奥深くに潜む獣のように、低く呻く。女が男の肩に腕を回すと、男は欄熟した乳房を手のひらで支える。それは癒しの行為なのか、それとも偽られた色情の発露なのか。呆れるくらいに執拗な消毒が続く。二人ともが時間を忘れてしまったのだ。二人は白日夢の狂った最中で痴戯を演じる、真夏の亡者の有り様だ。
 やがて、「息が止まりそうだったわ」「しっかり消毒しないと」「すぐに直るかしら」「大丈夫だよ」「口だもの。どうしよう。怖いわ」「完治するまで消毒してやるから」「やっぱり、頼もしいわ」「今の気分は?」「驚いたからかしら。少し休みたいわ」

 女が豊かな尻をこれ見よがしにくねらせて、階段を上がって行く。
 男が冷たいタオルを作って、後を追った。

 一年余り夜を共にした寝台に、女は仰臥していた。濡れタオルを額に乗せると、「有難う。ちょっとだけ休ませて」と、無防備に瞼を閉じた。
 ウィスキーを含む男を、改めて、疑惑の思索が駆け巡る。いったい、けたたましいこの事態は、何かの三文小説にあった筋立てではないのか。


1️⃣7️⃣ 療治

 あの頃、即ち、一〇年ぶりに、草吾と紫子が二人の関係を再開したばかりのあの時節、互いが互いの身体への情念を押さえ切れない日々といっても、二人とも四二の同い年で、いわゆる厄年という習俗を気にかけてもいた。二人は後厄だったのである。
 だから、この再開は災厄の予知なのではないか、既に、このこと自体がその現れなのではないのか。と、だから、狂おしく、或いは艶かしく抱擁しながらも、脳裏の片隅で、二人はそれぞれに疑念を反芻していた。だから、そもそもが、この二人は何と危うい関係であったのだろう。

 再会を連絡したのは、離婚して半年ばかりを独り身で暮らした草吾だった。 紫子は、くだんの経営者と、八年ばかりの展望のない閨房を共にしたあげくに、破綻して二年ばかりだったから、さしたる虚飾も交えずに応じたのである。紫子の空洞の飢餓に、草吾は如何なる価値があったのか。

 再会して間もないある日。紫子が草吾の家を訪ねていた。酷く蒸し暑い盛夏の昼下がりである。
 コーヒーを飲み終えた紫子が、これ見よがしに肩を気にする素振りに、「肩が凝るのか?」と、草吾が優しかった。「そう。最近はとみに酷いの」すると、紫子の肩に手をかけて、暫く確かめていた草吾が、「これは重症だ。揉んでやろうか」「お願い」

 暫く揉むと、女が、「いい気持ちだわ。溶けてしまいそう」と、吐息の甘味が濃い。
 さて、この時節のこの二人の、如何にも睦まじい睦言の背景は何だったのか。二人の情は真に通じあっていたのだろうか。筆者などの傍目からも、そう見える気分すらある。だが、読者諸兄よ。事実の見極めは、真に賢明な慧眼をもってしなければならないだろう。果たして、この二人に、情ばかりをもって、強靭な靭帯を結ぶ共通の体験などはあったのだろうか。拙文、『戯れ言』を、しかと読み込んで欲しいのである。この叙述のなへんに、この二人の純情、純愛があったろうか。否である。 四十を越えた二人は、互いの何を愛したのか。執着したのか。匂い立ち、際立つのは、いわゆる性愛ではないのか。

 揉み続けながら、男が、「肩凝りは結果なんだ。だから、肩よりも、むしろ、足の裏が全神経の基なんだ。そこが異常をきたしていると、全身の健康が保てないんだ」「そんな話、聞いてはいたけど…」「古代、ヤマト王朝のフンヌ憤怒帝。この男は半島からの渡来人で、御門になる前は針灸を武器にした詐欺師だったんた。この男が伝えたのが『渾然法』という医学だ」「渾然法?」「そう。施術者と患者が一体となって、治療し治癒するんだ」「東洋医学なのね?」「いや。宇宙医学だよ」「宇宙?」「そうヒトの大本は宇宙じゃないか?」「塵埃が飛来した、あなたの学説ね?」「受け売りだよ」「ますます、深淵なのね?」「『気』って、あるだろ?」「昔、ある人に教えられたけど。さっぱり実感できなかったわ」この女は誰に、どの様に教授されたのか、男の神経に嫉妬の亀裂が走った。そんな衝撃を覆い隠して、「特に肩凝りに特効なんだ」「お願いするわ」「足を洗ってきた方がいいんでしょ?シャワーを浴びてくるわ」

 女が戻ってきた。石鹸の香りが漂う。久方ぶりに最終審査に残った、かつて一世風靡した女優の面持ちに似せた女が仰臥した。すると、男の眼前に女の足が現れて、存在感を誇示するのである。「でも、あなた?これじゃあ、裾が乱れたら…」と、台本の台詞をなぞる如くに呟いた。草吾は聞こえないふりをして、鏡の設定をしている。
 「あなた?正面のあなたから、私の股間が見えちゃうわ?」と、何かで覚えた場面を思い起こしているのか、女は、もう、主演の女優なのだ。だから、男も助演の男優に変化して、「治療なんだから、仕方ないだろ?」と、二人の遊戯が始まるのである。「そうなの?」「だったら、止めようか?」女は台詞を忘れた素振りで答えない。
 「俺のは?」「バスタオル1枚なんだもの。すぐにでもお披露目、したいんでしょ?」「もう、勃起してるんじゃないかしら?」

 女の足の指を男が舐め始めた。一本ずつ、丹念にしゃぶる。「私の見えてるでしょ?」「丸見えだ。俺のは?」「とっくに見えてるわ」  初めは会話もし、時おり、唇を噛んで耐えていた女が、あまりの快楽をこらえきれずに、やがて、本能の趣に任せて嬌声を発し始めた。足を振り、尻を揺すって逃れようともする。男が、渾身の力で逃がさない。足の指を丹念にしゃぶり続ける。女には、偽りなく初めての性戯なのだ。狂喜の果てを迎えた女が、「大声で叫びたい」と言う。
 紫子の浴衣の裾は千千に乱れて、股間が見え隠れするのである。繁茂する陰毛手を伸ばすと易々と届く。「雨の音で何も聞こえないんだ。思う存分に叫べばいい」と、草吾が言い終わらない内に、紫子が絶叫した。

 すると、さて、ここから先は、いわゆる、自己規制による閲覧禁止なのである。さしたる意味のない公接の描写などは、表現の自由には該当しないのではないかと、最近の筆者などは、つくづくと実感するからである。


1️⃣8️⃣ 天狗

 「これなんだ」と、草吾が、漸く絞り出すと、待っていた如くの、腕の中の紫子が、「何が?」と、応える。「この身体だ」

 草吾と紫子は、つい十日前の深刻ないさかいのあげくに、紫子が家を出たのである。十年ぶりに再会して、それから九年目に同居した形態は、一年にも満たずに破綻したのであった。妹を頼っていると聞いた。今日は、取りあえずの荷物を取りに来ていのだ。
 隣のクローゼットに紫子がいる。草吾は谷崎の『痴人の愛』を反芻していた。あの主人公に倣って、女に全面的に屈服するしかないのか。では、その端緒を如何に切り開くのか。やがて、草吾の脳裏も心も、紫子の芳醇な、慣れ親しんだ裸体で征服されてしまうのである。
 意を決した草吾がクローゼットに、思いきって名前を呼ぶと、思いがけずに、紫子が、「はい」と、答えて、言われるままに寝台に潜り込んできたのであった。

 そして、「これを見てると、決まって思い出してしまうんだわ」と、口を開いた。相変わらず吐息が甘いと、何日かぶりに、漸く腕の中に収まった女の重量感に、草吾は安堵する。
 紫子はある箱を持っていた、「これよ」それは避妊具の箱だった。「どこにあったんだ?」「タンスの奥だわ」その避妊具は紫子と使った物ではない。紫子は、草吾と出会った時には、既に、膣に装着していたのである。その時は質しもしなかったが、紫子が堕胎を二度していたことが、かなりの後日に判明したのであった。
 いったい、いつの、誰との残骸なのか、草吾には、皆目、思い当たらない。紫子も質さない。実に気まずい雰囲気を振り切る勢いで、草吾は紫子の熟れた身体を抱き締めた。

 「これに似た、強壮剤のCMがあったでしょ?」「ん?」「北の国の、天狗印の、よ。知らない?」「『勃起丸ボッキガン』か?」「そう。赤い天狗の面を着けた水着の男が…」「鼻が、まるで股間に…」「そう。そっくりなんだもの…」「髭を生やしてるだろ?」「そう」「…アイマスをした豊満な、やっぱり水着の女と…」「そう。その水着から陰毛がはみ出ていたでしょ?」「私もそんな場面があったんじゃないかと、ハッとするんだわ」

 「『不全の男と、不信の女が、ある海岸で遭遇した』って、陳腐なコピーが入るだろ?」「」女が頷いて、「強壮剤を飲んだと思ったら、男の股間が膨らんできて…」と、継ぐ。「どう思った?」「あれじゃあ、勃起を見せているのと変わりないわ」「女が頬ずりをしたろ?」「そればかりじゃないわ」「舐めたのよ」「あれを見て、自慰をする主婦がいたそうだ」「我慢できなくなって、行き掛かりの神社で抱擁した夫婦とか…」「最後に、これは効能を保証したものではない。『天狗と里のある女の個人的な感想に過ぎない』って、コピーが大写しになるんだ」「あれには大笑いしたわ」


1️⃣9️⃣ 強姦 

 ある晩秋に、草吾と紫子の二人が遠出の途上で、休息のためにだけにと、ある初めての海岸に下り立った時の出来事だ。
 二人は松林に佇んで、辺りの景色を眺めていたが、紫子が、何の脈絡もなしに、「私が嫁いだ島もこんな景色だった」と、呟いたのである。草吾は驚愕した。こんな、何の意味もない場所で、この女は何を関連付けるのか。俺と二人きりでいながら、一五年も前の破綻した結婚生活を思い浮かべていたのか。その回想には離縁した夫は浮かんではいないのか。すると、草吾に言い知れぬ怒りが湧き始めたのである。俺は、こんなに無作法な片言は、決して漏らさないし、意識しては尚更、口にはしないだろう。だが、この女には、以前にも似たような仕打ちがあったではないか。

 一〇年ぶりに再会して間もない頃の、やはり、車で遠出の途上に、あるホテルを遠目に見ながら、湖水を周遊する観光道路を運転していたら、助手席の紫子が、「あのホテルには泊まった事がある。処女をなくしたんだわ」と、只今、書いている現在でも空耳だったかと疑うばかりなのだが、確かに呟いたのを聞いたのだった。この時は、車を止めて叱責するか、或いは、このまま別れようかとまで憤怒したが、それよりも呆気にとられたのか、口を閉ざすのが精一杯だったのである。

 草吾に、改めて、あの時の屈辱が蘇って、重複して怒りが拡張したのである。一体、この女の不用心、無礼は度が過ぎているではないか。
 一度ばかりか、だ。今こそは、こんな女は裁いて罰しなければならない。それは思い巡らすこともなく、直ちに判決は出た。
 草吾は背後から紫子を抱き締めて、無言のままでスカートをまくり、下着を引き下げたのである。紫子は、「ここで?」と、何か言おうとした様だったが、草吾は無視した。そして、日頃ならあり得ない仕儀だが、こんな状況で草吾は勃起したのである。怒りを根元にして、陰茎が反応するなどとは思ってもいなかったのだ。これには草吾自身が驚愕したが、もっけの幸甚ではないか。 即ち、草吾は、初めて、強姦というものをしたのである。だが、一向に無自覚な女が男の勃起の根元を察知する訳もなく、無論、草吾の犯意を知る由もなく、紫子は、いつも通りに、乳房と股間を膨張させて、慌ただしく射精を受け入れたのである。
 そして、射精を済ませた草吾は、罰を下した満足を噛み締めなから、この女との交接などは一抹の意味も価値もない、何れは必ず離反しようと決意をしていたのだった。

 一体、この時の性交は何だったのか。過ちを犯していたのは、軽率な紫子だったのか。それとも、言葉尻を捉えたばかりで、無闇に嫉妬したばかりか、強姦まがいに交接した草吾の罪なのか。或いは、性愛だけて引かれあって、肉欲の虜になっていた二人の、必然の現象だったのか。未だに、判然としないのである。

2️⃣0️⃣ アダルトビデオ

 戯れ言の極みは閨房にあるという一つの公理には、読者諸兄の大方には同意頂けるだろうか。
 だから、草吾と紫子の戯れ言も、禁忌の極限は、形態上は閨房にあったのである。だが、果たして、それは戯れ言ではありながら、筆者が指摘したい真の戯れ言ではない。何故か。閨房のそれは、他は知らず、少なくとも草吾と紫子の二人は、同意の上だったからである。淫乱から湧き出る愉楽を更に高めるために、二人が意図して、脚本や台詞を巡らして工夫したのだ。
 果たして、それも、大意では戯れ言には違いはないのだろうが、情欲が爛熟した果ての痴戯や遊戯とでもいうべきものではないか。

 だが、筆者の興味は、思わず知らずに発せられた、真意を潜ませた過ちの、それも、女の一言なのである。
 しかし、閨房の戯れ言も戯れ言には違いない。そして、それは草吾と紫子の実話なのであるが、それをここに書き置くのはいささか憚られるのである。
 実話を書けないというのは、如何なる訳なのか。人目を憚る闇の睦言だったからか。そして、草吾と紫子の睦言ばかりが際立って異様だったのか。だが、そうではない。巷に溢れている私小説紛いの性愛小説や、いわゆるアダルトビデオなどを検証すれば、明らかではないか。
 それでも、筆者は書けないのか。実に難儀な課題だ。

 実際、紫子はアダルトビデオを見ながらの行為に、一時、馴染んだのである。紫子は草吾と別れた今でも、新しい相手とその類いの趣向に、或いは、耽っているかも知れない。

 始めは草吾が提案して、紫子はおずおずの風情だったが、観始めると直に、身体が反応したのだった。これには草吾が驚いた。
 「凄いな?」「何が?」「濡れ方が?」「そうでしょ?」「気持ちがいいのか?」「とっても」これは実際の会話であった。二人はビデオを観ながら交接して、こんな会話を交わしていたのである。この後は言わずもがなだ。

 草吾は、何故、あの時節にビデオの活用を思い付いたのか。思い起こせば、幾つかの訳があったろう。
 それまで重ねてきた交接の有り様に、飽いたのかも知れない。有り体に言えばマンネリというところか。紫子の身体は歳相応に、爛熟し崩壊しかけた豊満さで、それは草吾の好みだったが、紫子は、いわゆる床上手ではなかったのである。本性がフェミニストの草吾が求めたのは、性の世界でも自己主張する女だった。禁忌を解放したいと試行される小説や映画、絵画にさえ、そうした女達は、あまたいた。
 そして、紫子は、一時は、ある会社の経営まで上り詰めていたから、この男社会の矛盾と閉塞を、嘆き批判していた。
 だが、閨房の紫子は、実に保守的な姿態しか現さなかった。草吾は不満だったのである。

 草吾の提案を聞いた紫子が、戸惑う風情を見せながらも、瞳が煌めいた刹那を、草吾は見逃さなかったのである。むしろ、煌めきが本心の発露で、風情は演技ではなかったのか。即ち、紫子も同じ姿態で積み重ねる行為に、やはり、倦いていたのではないか。

 そして、閨房の紫子は変わったのである。

(続く)

戯れ言 1️⃣1️⃣~2️⃣0️⃣

戯れ言 1️⃣1️⃣~2️⃣0️⃣

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更新日
登録日 2021-04-06

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