『椅子』

利用者M

ちょっとだけ、きみに話をしよう。
そう。その白い椅子に座って。
少し傾いでいるけれど、座れるだろ。
温かい紅茶をいれよう。
コーラが良い?
無いから諦めなさい。
飲めないわけではないでしょう、紅茶。
とりあえず、きみの分はテーブルに置いておこう。
飲みたくなったら飲みなさい。
さて、きみが居心地悪そうに座っているその椅子だけれど、もとは私のための椅子だ。
少しの間、きみに貸そう。
え、別に頼んでいない?
他人の好意はとりあえず素直に受け取っておいた方がいいよ。
お互い立ちっぱなしで話すというのも、気を遣うだろ。
椅子は、時が来たら、ちゃんと返してくれればいいから。
押しつけか。
そうか。なら、そういうことにしておこう。
まあ、きみを部屋に招いたのは私だしね。


さて、文句をぼやきながら今、きみが座っているその椅子だけれど、忘れ去られていたんだ。
私でさえ、在ることを、しばらくね。
でもね、あるひとが部屋のどこからか、引っ張り出してきた。
椅子は少し傾いで、細かい傷がいっぱい付いていて、埃まみれだった。
そして、あるひと、まあ、彼と呼ぼう。
座ってみないかと彼が私に言うわけだ。
なぜと聞けば、それが自然だからと言う。
触れれば汚れると返せば、掃除をすればいいと。
それでも私はあまり座りたくなかった。
椅子そのものが、貧相だったんだ。
なんだか私自身を現しているような気がして、気に入らなかった。
だから彼に提案したんだ。
椅子を作りかえようと。
そのうえで、綺麗にしようと。
そして、その綺麗な椅子に、座ってくれる誰かを探そう。
でも本当は、私は彼に座って欲しいと漠然と思っていた。
それは彼には恥ずかしくて言わなかったけれど。
彼は私の椅子を作りかえようという提案を聞いた途端、表情を曇らせた。
哀しませたと思った。
そして彼のその顔を見て、私も見捨てられたこどものような表情をしたのだろう。
彼は至極真面目な眼差しで、しかし私にはっきりと言った。
あなたのために在る椅子だから、あなたが座るんだよ、と。


……部屋は寒くないかい。
暑いくらいだ、か。
きみは欲求に素直だね。良いことだ。
では窓を少し開けよう。
少し冷たいが、爽やかな風だ。
もうすぐ春が来るんだな。
目覚めの季節だね。
私の椅子を見つけてくれた彼も、ずいぶん前に、春へと歩き出したよ。
きみの座るその椅子は今、真っ白いだろ。
苦労した、なんとか座れるようにするのは。
細かい傷や傾いでいることは私の力では治らなかったけれど。
ご愛嬌ってやつにしておこう。
ただ、やはり座るきみには居心地が悪いはずだ。
私には馴染むのだけれど……。
ずっとこの部屋でこの椅子に座り続けることは、きみにはできないと、私もきみも理解している。
そう。今のきみに必要なものは、きみだけの椅子が教えてくれる。
きみは、必ず呼ばれる。
なにを言っているのかわからないって。
面白い冗談を言うなあ。
これからのきみを望む人々に、呼ばれるよ。
これからのきみに必要なものは、今のきみがすでに全て持っている。
時が来たら、きみはただそれらを未来に生かせばいい。
それだけのことを、きみはやってきた。
けれども、今のきみに必要なものは。
きみの椅子はどんな椅子だろう。
私は大変興味があるよ。
私のよりは美しいだろうけれど。
きみの椅子を、きみ自身で見つける力も、私と違ってきみにはあるはずだ。


さて、話もそろそろおしまい。
私が、きみをこの部屋に招いて、居心地の悪い思いまでさせて、白い椅子に座らせた理由だけれど。
きみにこの椅子を見せてみるといいよと、言ったんだ。春へと歩き出した彼が。
そのときの彼の眼がとても優しい色をしていたから、私は、きみに会いたいと思った。
だからずっと待っていた。
きみに会うことをとても楽しみにしていたんだ。
私もまた、今のきみを呼んだ数多くの人々のひとりだね。
ありがとう。この部屋に来てくれて。椅子を、見てくれて。
あとはきみが椅子から立ち上がって、この部屋の扉を軽く押して、歩き出すのを私は見送るだけ。
大丈夫。焦らなくても、息をするように自然に、すべて動き出すよ。
きみも私も辿り着くべきところへ、辿り着く。
紅茶が少し冷めたね。いれなおそう。
きみもどう?
もう行くかい。
きみらしいね。
そうだね。すぐだもの。あたたかい季節は。


追記


『ノブナガさんへ』


まず、退職されたこと、大変お疲れ様でした。
決して短くはない時を過ごされたと思います。
文章をふたつ、退職の準備のお忙しい時期にお渡ししてしまったこと、知らなかったとはいえごめんなさい。
ただ、読んでくださって本当にありがとうございました。
なんとか間に合うことができて、安心しました。
思い返せば、ノブナガさんには様々なかたちの私の文章を読んでいただきました。
私は、私の文章を読んでくれるあなたが好きでした。
耳を傾けてくれるような気がしたからです。
この『椅子』という文章をもって、私の中のノブナガさんの支援は、ひとまず落ち着くべきところに落ち着きました。
呼ばれた道を進んでいってください。
影ながら応援してます。
私は今、自分の課題が全然うまくいかなくて驚愕してますが、なんとか、ふんばります。
いつの日か、ちょっとした良い報告ができたらここに書くかもしれません。
未定です(笑)
ちなみにノブナガさんというニックネームのイメージは黒い柴犬(子犬)です。

『椅子』

『椅子』

きみのための。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-04-04

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