羽崩

鷺沢 歩

何がしたいのかがわからなくなった。
道が無く、道がどこかへと消えてしまい、進めずどこかへ逸れて草叢へと進んでしまうのだ。何かが違って、何かが進んでいくその現実にまるで、暗闇の中を永遠に落ちているような感覚だった。
逸れてしまっているという感覚に焦りを覚えているのだった。
どうしていいのかわからないでいる。
趣味の小説でさえも苦痛に成り代わるのだ。
それへとなりたかった像が、ただの靄だと知った今、行く道が途端になくなってしまったようにも覚えた、いやそういうよりずっと道を道と勘違いをしていたようなものだった。
何をしていたのだろうか。
何がしたかったのだろうか。
そこには、確実性も手に持つような具体性もない。
夢というものは、手に取れない雲に映ったホログラムをまるで現実と捉えているようなものだ。
大きな夢を抱くべきではない。それがただの夢だと知った途端に自身が崩壊するから。
人に夢を与えるべきではない。それは呪いになるのだから。
創作と言うのは、呪縛のようなものだった。
憧れと言う名の呪縛に、逃げても逃げても、それは苦痛と化けて、私に向かってくるのだ。逃げることは許されない。誰かから言われないからではない。自分で自分の首を絞めているようなものだ。
しかし、それからは逃げられない。自分を苦しめてまで、その苦悶へと身を放り投げるのだ。
憧れは、まるで悪魔のような鬼畜だった。
評価されないものにとってはそれが、尚更に、苦しみの全てなのだ。嗤う声に耳を傾けねばならない。その苦痛を、人はそれを知らないのだ。
それを知らないから、笑顔で、それを受け取れる。
皆、結局は自分勝手なのだ。だからみんなして生きていけるのだ。
皆、道を外さないのだ。それが普通だと安心できるのだ。
自らが、己が、「普通」だという免罪符を手に入れているから、道を逸れることなく幸福に生きていけるのだ。
反対に、堕落に突き落とされた、私を慰めるものは誰としていないのだ。
だって、人は醜悪を嫌うのだから、醜悪を創り出したにも関わらず、人はその事実さえも知らずにその醜悪を嫌うのだ。
誰も知らないし、誰もしることなどないのだ。
だから幸福に生きることができるのは自分勝手な人なのだ。
故に、創作をする人間は、その苦痛を自動で受けることになるのだ。
人の評価に気になるのではない。
自分の中で、自分という別の他者を作り上げ、彼らに罵倒される日々を送るのだ。
それを評価するのは、他人ではなく、誰でもない自分自身なのだ。
負の自我が、今を生きる現実の私へと醜悪な私へと成り、醜悪を作り上げ、醜悪を嫌う別の自分を作り上げるのだ。
理解者などいない。理解されようとして理いるのに、それさえも理解されないのだ。

そしてまた現実でも醜悪となった自分自身を理解できないものとして排除されるのだ。
自分の害なるからと、人は簡単にも優位な立場を利用し、人を洗脳に近いその用法で他人を鎮めるのだ。
誰のためだろうか、一体それは何のためになるものだろうか。
何故私は、居もしない他人の誰かのために、苦痛を受けねばならないのか。何故、私は誰かのために生きねばならないのか。
その苦痛に今日も生きているのだ。
誰からも理解されず、疑問を提示しようものなら、世の中の言う正論なら倫理的というような、私の視点ではない、他の誰かの視点で私を異端と嗤うのだ。
それを、皆は普通と願い、私を醜悪に誘うのだ。

羽崩

羽崩

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-04-03

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