典子の夢 全文
典子の儚 全文 筆者 草也
1️⃣ 初恋
玄関を開けると、八月の午後の始めの、高い日射しを背に、青紫の風呂敷包みと白いハンカチを手にした、青いワンピースの豊潤な女が佇んでいる。
一陣の涼風が、肩までの黒髪とワンピースの裾を揺らして、薔薇だろう香りと共に草也に届いた。女の桃色の首もとに、数滴の汗が浮かんでいる。菩薩顔の女の、しっかりとした視線が草也を射ぬいた。
その瞬間に草也は確信し、自ら女の名を挙げて尋ねた。女は安堵の笑みで頷く。そして、深々と折った身体を、挨拶を納めながら起こして、濡れた瞳で草也を見つめ直した。
典子はその面影を微かだが、しかし、目や口許の慈しみの表情に、確かに映し出していた。だが、二三年の時の移ろいは、草也の脳裡で密かに息づいてきた少女を、墨絵が彩色された如くに、現身の爛熟した女に変容させていた。
だから、草也はその妖麗な変化を納得するのには、鈍重に足踏みしたのである。利発な少女が、円熟した女に脱皮するのに辿った軌跡を、草也はこの数日夢想したが、想像を遥かに越えていたのだった。
脈打つ動揺を押し包みながら、草也は典子を玄関の中に静かに招き入れた。
風の吹き通る居間で、二人はソファで向き合った。再び挨拶を交わし、草也は女に冷たいコーヒーを運び、自らはオンザロックを口にする。
そそくさとタバコをくゆらしても、突然に訪れた軽い躁は、未だ、治まらない。
足を組み、太股を僅かに覗かせる典子も、暑さのせいだけではない、自分もそうだと、コーヒーを飲んだ。
典子からの思いがけない手紙が届いたのは一週間前だった。電話で連絡を取り、今日の日を約したのだ。典子から手紙が届いたのは、二度目だった。
2️⃣ 手紙
草也と典子は、かって、一度だけしか話してはいない。だが、それは話したというには余りにも稚拙で、愚劣な出来事だった。
中学三年になって、典子と初めて同じクラスになった。初夏の朝、典子からの短い手紙が机に入っていた。
「高校受験を競って勉強しよう」「先生とも話した」と、綺麗な文字であった。先生とは二人の担任で、草也の義母のことだ。
模擬テストは、いつからか、彼女が二位、草也が三位の成績で、父母が勧める学区外の進学校合格には、草也は少し点数が足りなかった。小学校の時には、草也が児童会長、典子が副会長で、中学も半ばまでは、草也の成績は全校一だった
。だが、草也は、取り立てて受験勉強はせずに、本をよみ漁っていた。受験校は学区内一校でいいとも考え、それよりも、陰湿な家や狭い村をいかに抜け出すかばかりを、思案していたのである。
或いは、突然に、少女の心の内を吐露された、恥ずかしさの反動だったのかもしれない。少女が、勝手に義母に相談したことへの、動揺だったのか、それとも、怒りだったのか。
草也は、即座に、その手紙を突き返したのであった。何も言わない典子の悲しい表情が、草也を突き刺した。若いという事ことはこんなにつまらないものなのか、草也は、一日中、悔いた。
だが、初恋は愚かに終幕したのであった。この顛末の慙愧は、永く草也を呪縛していたのだ。この事をいつ切り出して詫びようか、草也は反問していた。
この頃「罪と罰」を、繰り返して読んだ。主人公の女性と少女を重ねていたのかも知れない。その後に、恋愛小説をいく通りも構想したが、純白なこの記憶には及ばないのである。
3️⃣ 追憶
空が高かった。川は底まで澄み、採石場の王国で銀色の砂利の迷路に、光の化身の小魚を追い込んだ。
胸を騒がす南風が、異国から、しばしば吹き渡ってきた。
田んぼの水路の水草に潜む、遠い昔に魔法をかけられた様々な小魚達。熟れたトマト。胡瓜。味噌握り。冷えた井戸水。
密かに作った隠れ家の秘密。胡桃、グミ、柿、桑の実、無花果、巴旦杏、グーズベリー、筍。
麦畑の模型飛行機。蓮華草。楮。
同級生の母親が自裁して沈んだ池。都会から疎開して居着いた工場主の妾と、そのスピッツという飼い犬。線路脇の半島人のバラック。薬局の女主人の乳房。教師達のあからさまな性。茶殻を乞う乞食の家族。旅芸人の一座。蛇の見世物。イナゴ取り。薪割りと風呂炊き。台風の予感。小さな戦争の数々。
それらのお伽噺だけで創られた世界に、あの少女がいた。
小学六年、草也が児童会長、典子は副会長であった。暗幕を張りめくらした教室で映画鑑賞の時、暗闇の中で、隣り合わせに座った二人の足の、指先が触れ合った。だが、彼女は避けなかった。何故、避けないのか。酷く不思議だったが、草也はその秘密に耽溺した。最早、大人と同等の情欲を知っていたのだろうか。それとも、淡い恋心というものですら、その程度の肉感は まとっているのか。あの時の、あの足の指先の感覚が、草也の脳裏に鮮明に残っているのだ。それ以外の少女の記憶はない。一ニ歳であった。
中学一年の初夏、少女への思いを二人の友達に洩らすと、告白しろと言う。すると、ある日の放課後、少女は友達と二人で、自宅に続く田んぼ道を歩いて行く。私達三人は随分と間をあけて追った。だが、最後までその距離はつまらなかった。満開の蓮華草の中を歩く私のためらいは何だったのだろう。
運動会の合同練習だったのか、クラスの違う少女とフォークダンスで、あわや手をつなぐ状況になった。一気に鼓動が暑くなって、草也は踊りの列から離脱した。中学二年の秋だったろう。
高校二年の夏休みのある夜に、草也は集落の盆踊りを見に出掛けた。そこに、中学の同級だったある少女がいた。結核を患って長く入院していて、親の転居で転校してきたのは中学の二年の中途で、大柄で長い入院と聞いていたから、大人びた不思議な魅力があった。
草也に気付いたその少女が、素早く踊りの輪を抜け出してきて、「典子もいるわよ」と、言った。
「関係ないだろ?」「あら?そうなの?二人は相思相愛だって。あの頃は、随分と噂だったのよ」不意をつかれて、男が曖昧に首を振ると、「だったら、私、つけ文をすればよかったわ」と、言う。そんな話をしながら、二人は、いつの間にか、踊りの会場を離れていた。少し行くと一帯が田んぼだったから、黄金の満月の月明かりを受けて、黄金の海の如くに稲穂が波打っていた。その先には大川が流れている。どちらかが誘ったのか、何も言わずとも、若い情念が暗黙に合意したのか。やがて、二人は月明かりの堤防で、大川の流れを聞いていた。盆踊りの囃子や唄がかすかに聞こえてくる。あそこに典子はいるんだ。また、裏切ってしまったと、草也は思った。
あれから、恋というものをいくつかしたのかも知れないが。もてたとか惚れられたとかの実感は全くない。むしろ、硬派を良しとして喧嘩に明け暮れて、そのままの延長で、労働組合の専従役員などで暴れまわっていたのだから、殆ど、敬遠されていたのではないか。
4️⃣ 氷
だから、典子との実質の会話は初めてなのであった。それは典子も同じだ。
幼い頃から見知っている初恋の二人が、初めて話す倒錯が二人を包んでいる。
そして、言葉と表情のすべてから、互いの心情と心根を汲み取ろうと、二人は格闘し始めた。
ひとしきり、お互いの越し方の概括を独白し、典子もウィスキーを飲み始めながら、肝心な数問を尋ねあい答えあうと、二人はだいぶ落ち着いたのであった。
一九××年の八月一五日。酷暑の午後である。
小学校から中学校の同窓生の二人は三八歳だ。お互いが初恋の相手なのだ。二三年ぶりの再会である。
労働組合の専従役員の草也は二年前に離婚し、私立高校教諭の典子は、三年前に事故で伴侶を亡くしていた。共に子供はいない。
「人の半生なんて、こんなに短く要約できるものなのね」「それに比べたら貴方への告白は永くかかったわ」
少し酔った、でも酔いたい、良い気持ちだと言いながら、典子はオンザロックの氷を静かに揺らす。
草也はいぶかしんだ。その告白というものを、未だ、聞いていないのだ。こうしている事自体がそうなのか。だが、あえて問うこともしない。草也自身も初恋から続く典子への心の遍歴を、未だ、何一つ話していないのである。
とりわけ、不意に理不尽な離婚劇の主役になっていると気づいた時、遠い記憶に封印されていただろう初恋の甘美を、思わず手繰り寄せていた。誰にも明らかしていないその心情は、生まれたままの純白で、草也の一部だったのだ。
一人になったそれからは、その記憶を支えに生きてきた。しかし、その変わらない、ただ一つの心の履歴を語るのは、如何にも難しいのである。
典子は理解するだろうか。典子も、また、草也と同じく、いや、先んじて、長い時間の頸木から、自らを解放しようとしているのだろうか。草也を訪ねた訳がその告白なのだろうかと、草也は自問している。これに決着をつけない限りは、現実の典子とは向き合えないだろう。だが、いつ切り出すのか。それが難儀なのだ。
故郷の昔話は、いつの間にか、典子によって、ある少年と少女の恋の話になるのだった。少女が初めて詠んだ俳句だと言う。
『少年はその夏の日に痩せていた』
何故、少年は痩せていたのか、少女は知らなかった。でも、痩せている少年が好きだったと、典子は言うのである。草也はしみじみと復誦した。そして、きっと、その少年の詩だろうと、応えた。
『ビーナスを残して青龍天を駆く』
典子の瞳が柔らかく潤んだ。「青龍はビーナスが好きだったの?」と、典子が質した。草也が、そうだと答える。
「少年は少女が好きだったの?」と、典子が、再び囁いた。草也が頷いた。
典子が長く息を吐いてウィスキーを飲んだ。「少女は、もっと、とっても好きだったんだわ」
草也はあの手紙の事件を詫びた。典子は、それは違う、私は黙るべきではなかった、もっと、きちんと話すべきだった、と言う。
「いつも何かと格闘して、鋭く痩せている少年が、好きなだけだったの。私は本当に幼かったのよ。少年の格闘の深奥など、思いも及ばなかったんだもの。幼い恋の傲慢と、下らないプライドが、少年を傷つけてしまったんだわ。あなたは今でも格闘し続けている。だから、私の気持ちは、あの時と何一つ変わらないの」と、一気に告白した。
草也は聡明な女と話すのは、こんなに悦楽な事なのかと、しみじみと体感したのである。
5️⃣ 雷
遠くに雷が聞こえた。
二人は顔を見合わせた。二人が育った土地は雷が多かったのである。
「あの時もそうだったわ」と、典子が話し始めた。中学二年の夏のある放課後に、典子は、いつも以上に、雷に怯えていたと言うのである。
「どうしてだったのかしら。教室には私だけだったの」「雷は小さい頃からだけど。私は少しも慣れなくて。それに、あの時のは、特別に凄まじかったんだもの」「小石みたいな雹混じりの豪雨で。木造の古びた校舎は、まるで私みたいに震えているし。学校の裏手は桜に囲まれた池があって」典子は思いついたように、「あの池では、小林くんのお母さんが入水したんだわ」と、話を接いだ。「義理の、だ」「そうだったわ。不穏な噂は?」草也が頷いた。
「その脇に神社があって、杉の大木が林立していたでしょ?」「あそこに雷が落ちたんだわ。何度もよ。あんなのは初めてだった」「その度に、心臓が締め付けられて」
「そしたら、廊下を行くあなたが見えたの」「余程、声をかけようかと思ったんだわ」と、言うのである。「知っていたんだ」と、草也が言った。
暫くすると、生暖かい風が吹き通り、瞬く間に陽光が翳った。そして、雷鳴が響いたかと思うと、にわかに掻き曇り、大粒の雨が落ち、忽ち、どしゃ降りになった。一気に暮色の様相となり、冷気を帯びた強風が吹きつのる。
草也はすべての窓を閉め、典子の声に従いカーテンを引くと、二人きりの空間が現出した。
二人はウィスキーを飲み、次の変化を待つ風情だった。
暫くすると、最早、叩きつける雨音で、声が聞き取れない。自然に、典子が長椅子の草也の隣に移った。
切り裂く様な雷鳴の瞬間に、典子が草也の手の上に手を置き、そして、身体を預ける。草也は典子を抱き寄せた。
互いの実存を確かめる為の長い口づけが終わった。
草也はウィスキーを含む。タバコを手にした。草也の掌に手を置いたまま、「ずうっと、こうしたかったの」と、典子が呟いた。
薄明かりの中で、立ち上がった典子が青いワンピースを脱ぎ落とした。無言だ。桃色の豊潤な身体にまとう青紫の下着が秘処を隠す。茫茫と、しかし、確かに、典子の肉体がそこに息づいているのだ。
こういう恋人は草也の幻想には住んでいなかった。しかし、眼前の女は紛れもなく現実な生身の典子なのだ。それが、草也には未だに信じられない。あり得ない光景なのである。
性とは全く無縁な、典子は観念の少女なのだった。それは、最早、草也が作り出したものだ。草也の脳内で息づいてきた永遠の少女なのだ。目の前にいる典子と少女は、同一人物でありながら別人なのである。
典子が膝まずいて草也の股間を撫で、ジッパーを外そうとする。草也はズボンと下着を下ろした。股間は、未だ、不全だ。典子はそれをおもむろに咥えた。
ソファに座り直した典子が言う。「こんな事になるなんて。でも、私がどんな事をしても、決して驚かないでね」「私はもう三八の女なのよ。あの日の少女じゃないの。貴方だってそうでしょ?」「一度きりの人生だもの。大事な事はし忘れたくないの」「だって生きているって、素敵なんだもの」
その通りだと草也も思う。しかし、僅か数時間前に二三年ぶりに会った、しかも初恋の少女だった女と、まして、今さら交接するなどというのは、草也には不条理な事だった。
先の大戦で、特攻で飛び立った青年たちが、恋人を抱く者、そうでない者、結婚する者などに分かれた逡巡と躊躇を、草也も実感していたのである。
6️⃣ 創作の儚
草也は初恋の人、典子とのその後の叙事詩を、何編、創作したことか。
ある病院の広い待ち合いロビーで、二人は、偶然というには余りの衝撃に打たれて、不可思議とも思える邂逅をするのであった。
女の名を告げる放送に男の鼓動が反応して、ふと見渡すと精算カウンターに歩むのは、僅かだが核心の面影を明瞭に残した、幾度か反芻してはみたがまさにその人だったのである。
声を掛けると、女の凝縮した瞳が、スローモーションの映像の微動で潤んで溶けた。
男は頸椎の手術の後遺で歩行が不自由だったから、病院内の喫茶店でコーヒーから軽食を挟んで、またコーヒーに移るまで話し続けると、やがて、あるたぎる情念を二人は共有しようとした。
典子は長い間、同じ街の私立高校の教師だった。独身だと言う。そして、いくらか疲弊している様にも見える。
あの頃の世界に戻りたいと呟き、幼い頃の幾つかの光景を克明に描写してみせた。
映画教室、高い太陽と蓮華草、クワイ川マーチ、そしてあの手紙。追憶がたった今時の出来事のフィルムで早回りする。
典子が、「懐かしい少年が今でもいるのよ」と、声を震わせる。
男の結婚生活は一〇年前に呆気なく破綻していた。
男が紙に短い詩を書いて示すと、紅潮した典子が短詩を書き足し、男に返して深く頷く。
男の痺れる指先を招き寄せ、日向の両手で包んだ。
次の休日に、典子は草也を、温泉を活用して運動機能を向上させる設備を備えた、ある施設に誘った。温泉水の中を歩き、体操をして、小さなプールで泳ぐのである。
草也は気に入り、自由な身だから、殆んど毎日通う。休日には典子が一緒だ。
あの純白の光の中にいた少女が、水着で五五歳の熟した身体を隠している。時折、男は目眩を覚える。
あの聡明な少女がこんな爛熟した、むしろ崩れ始めた姿態に変容しようとは、男には未だに虚ろに惑う心地もある。こんな現実が来ようとは、男は夢想だにしなかった。そして、この生身の女体を支配する、女の高潔な、あの少女の純粋に身を委ねようと思った。
運動の後に、典子は草也の痺れる四肢を丹念にマッサージをする。
それから、季節に寄り添うように、時には気後れする男を外に誘った。それは男のリハビリは無論だが、あの桃源の体験と現在を繋ぐために、二人にとっても必要な営為だと、典子は考えた。
男の体調を気遣って、近間に限ったが、桜を愛で、水面の漂いに魂を放り、蝉時雨を惜しんで小さな森をゆるやかに散策し、紅葉の兆しの風が渡り始める頃、ようやく二人はこの情況で生きる者として、互いに向き合う実感の真相を得た。
半年が過ぎていた。些かの体力は戻り、何よりも気力が回復してはいたが、男の全身に残った痺れは執拗に存在し、勃起不全も以前のままなのである。
男は予期もせぬ病魔と格闘してはいたが、思惟の末に向き合う源泉を獲得して、健全な精神を保っている自信はある。そして、寄り添う女は、生涯を見据えても、かけがいのない存在になっている。
しかし、男女が情愛だけで向き合えるのか。男の煩悶に女の答えは、端的な破顔だった。
「そうしてきたし、これからも変わらないわ」と、続けるのである。女は再会した当初から、その情愛だけで男と自分を包んでいた。
そして、まるで診察着を脱いだ女医の風情で、不全の解決の方法など、山ほどあると、男を覗き込んだ。
男の家に大きなストーブを買い入れて、二人は同居を決めた。
それから一〇年を経て男の体調が画期的に改善する事など、二人は毫も知らない。
7️⃣ 不全
刹那の夢から草也が覚めると、現実の典子はソファに横たわった草也の、未だに萎えたままの股間を、再び、静かに含むのであった。
唇の柔らかさと熱さが伝わる。典子が草也の手を握る。草也は、もう一方の手で典子の髪を梳く。
そして、典子が草也の異変に気づき始めた頃合いに、草也は頸椎の手術のいきさつの全てを話した。
その時節に限って何の魔が差したのか、多忙にかこつけて無為に診察を先送りしていたから、病気の悪化した草也は、手術前から、最早、勃起不全だったのである。そのせいだったのか、病を得た事そのものが原因だったのか、その頃の女は、それが如何にも摂理の如くに、慌ただしく去って行ったのだった。それは仕事や他の細々もそうで、草也は浮き世の無慈悲を骨の髄まで味わった。遠い彼方の過去だった典子に思いが翔んだのは、そのせいもあったのだろうか。
聞き終えた典子は、取り立てて感情を乱した風もなく、「苦労されたのね」「でも、健康や交接ばかりが確信ではないわ。だって、私を貫いていたのは、相手の見えない心ばかりだったんだもの。それは、あなただって、そうなんでしょ?」草也は頷いた。言う通り、典子への思いは、形も報いもないひたすらな思いの、只そればかりだったのである。「こうして、再会できたのが、私達の珠玉なんだわ。だから、何事も、ゆっくり、しましょう」と、言った。そして、「今日は帰らなくてもいいのよ」と、囁いて、草也の付け根を優しく揉み続けるのであった。
草也はあの事を質した。暗幕を張り詰めた教室の映画で、二人の足の指先が触れていた、幼い事件の謎である。
「はっきり覚えているわ。あなたの皮膚の滑らか。私より高い体温。でも、そればかりではなかった。そう。あなたの神経の、鋭敏な感受性の全ての感覚。でも、そんな綺麗事ばかりじゃなかったのよ。あれは、瞬間に作られた闇の、死角の秘め事だったんだわ。味わった事のない妖しい甘美だった。一二歳だもの。女の子は、もう大人と変わらないのよ。そんな淫靡だって、直感できたんだわ。だって、あなたが大好きだったんだもの。だから、足はよけなかったんだわ。でも、里山から迷ってしまった小鳥みたいに。鼓動が身体全体で脈を打っているみたいで。だって、あんなにも危険な、秘密の遊戯だったんだもの。ドキドキしていたわ」
さらに、草也は蓮華畑の記憶を確かめるのであった。
「もちろん、覚えているわ。あなたが、何故、話しかけて来ないのか、やきもきしていたのよ。一緒にいた友達とも話していたんだもの。あの日、本当に蓮華草が綺麗だったわね。いつか、あの時節に、二人で行きたいわ」
フォークダンスの件も質した。「忘れてないわ。もうすぐ踊れると思っていたら、突然にいなくなるんだもの。悲しかったわ。でも、あなたの性根はわかっていたもの。だから、いつもの、くすくす。ただ、恥ずかしかっただけなんでしょ?」
8️⃣ 風呂
暫くすると、草也の股間が微かに反応を始めた。僅かばかりだが、熱いのである。「不思議だ」と、告げると、典子は草也の手を握りしめて、亀頭を含んだ。だが、回復は気分ばかりであったのか。或いは、暫くぶりの強い刺激に、神経が困惑しているのか、不全は行きつ戻りつ、一向にはかばかしくない。
やがて、再び、諦めた草也が引き寄せてキスをすると、「とっても立派だわ」と、典子は囁く。
草也は、一時は、何年かぶりの隆起の兆しを確かに感じたのである。
何か知らぬが、自信のような感覚も湧いてきたから、典子の乳首を吸った。典子は感覚が鋭敏なのか、身悶えをして声を発した。
「ねえ?何ともないでしょう?普通の女でしょ」と、息を弾ませながら、典子が言う。
二人は顔を見合わせて瞳を覗き、視線を絡めた。
「あなたは、とても普通じゃない」「特別だったんだ」と、草也は絞り出す。「私もだわ。あなたは、ずうっと、特異な人だったのよ」
「あなたの言う通りにするわ。そうしたいの」「風呂がいい。汗を流そう」典子が風呂に湯を張った。
やがて、典子の後に続いて風呂に歩むと、中背だが肉付きがいい。その艶やかな肉は桃色だ。髪は肩まである。青紫の薄いパンティに覆われた尻が堂々と左右に揺れる。
脱衣で、ブラジャーとパンティをはらりと払うと、典子は初めて全貌を晒した。屈んだ瞬間の尻の割れ目が、草也の視線に反撃する。
草也は温い湯に浸った。典子は丹念に身体を洗っている。股間の草むらの繁茂を泡立てている。
すると、草也の原始の性が、再び、蘇る兆しを見せるのである。立ち上がって、泡だらけの典子にその回復を示した。
笑みながら典子が招き、浴槽を出た草也の股間を、向かい合って丁寧に洗う。
その様は、少年と少女のままごとの様だ。時折、草也が典子の口を吸った。典子も舌を絡める。
草也は大きなバスタオルを敷いた。典子を横たわらせる。桃色の乳首が豊かな乳房を従えている。
典子が言った。典子は同僚の教師に求められて、三〇歳で結婚し、三二歳で筋腫で子宮を摘出した。子供はいないし、産めない身体になった。すると、夫は典子に関心を失った。無風な不毛の果てに、典子が三五歳の時に、夫は事故死した。実質、短い結婚生活だった。男性経験はそれしかないのだ、と。
「私が愛したのは、本当にあなただけなの。幼い初恋だったけど、真実の事なのよ」と、典子はむせんだ。
そして、草也はついに不全を克服した。典子は様々な表情で歓喜を表した。
典子は草也のパジャマを着た。
いつの間にか雷雨は治まっている。窓を開け放つと、涼風が吹き渡って来る。二人は並んで、再び、ウィスキーを飲んだ。
合間に、草也が準備していた食材で、典子は実に手際よく、数品の菜を作った。そして、会話は尽きない。草也は、こんな時間を、生涯に持てるなどとは、思ってもいなかった。
禍福は公平に綯われているのかも知れない。典子も同じ事を考えている。これ以上の幸せはない。だったら、このままで良いではないか。典子も草也もそう思った。
典子は草也の為に初めて夕食を作った。「これからは、できる限り一緒に食べましょうね?」と、典子は笑むのである。この笑みには救われるかも知れないと、草也は納得した。
9️⃣ 終章
草也と典子は出来る限り二人でいたいのであった。殆どは典子が草也の家を訪ねる。労働組合の専従役員の草也は自由な立場で、自宅での仕事も多かったから、その方が都合が良かった。そして、時の遅れを取り戻す様に、二人はいとおしく激しく抱擁した。
その日も、二人は逆向きに横になり互いの股間を吸いあう。典子のその蜜は甘い。草也は陰核を技巧を凝らして丹念にしゃぶる。やがて、歓喜に堪えられなくなる典子は、しばしば口から隆起を外して大きく喘ぐ。草也はそれが妙趣だ。その声は艶かしい鳥の様なのだ。そして、途切れとぎれに草也の名前を確かめる。豊かな尻がゆったりと猥褻に痙攣する。そうして、再び亀頭をくわえる。草也が教えた性技を典子は淫靡に凝らすのだ。
やがて、仰向けの草也に背中を向けて典子が股がる。二つに割れた淫潤な尻は全く無防備だ。草也はこの体勢が好きだった。未体験だった典子も自然とそうなった。そうして、やがては陰茎を手に取り、自ら膣に導く。 草也の隆起は窮屈な秘密に、淫液に潤滑されて充分に侵入する。肉壁の特殊な構造がまとわりつく。
「良く見えるわ」と、典子が答える。そして、卑猥な言葉で結合の情景を描写する。全ては草也が教えたのだ。
そして、草也の足首を掴んで身体を倒す。尻の全てが露になる。典子が聞く。「みんな見えるでしょ?」草也の答えに声をあげて身悶えする。今度は草也が描写する。そして尻を叩く。これは典子が望んだ。二人で卑猥な言葉を掛け合う。二人で作り上げた性戯はお互いを思いのままに翻弄するのだ。「生きているのね」典子は絶頂の時にしばしば叫ぶ。そしてすすり泣くのである。
一年後、草也は末期ガンで、呆気なく死んだ。末期の病床で、隠していた事を詫びる草也に、私こそ悪いのと、典子が言った。「私も末期ガンなの。すぐに後を追うわ」
草也の死後には、典子を素材にした長編と、数本の短編小説や膨大な詩が残された。
二ヶ月後に典子も死んだ。
典子は遺言通り、草也の遺骨を太平洋に散灰し、自らもそうした。
典子は草也の作品はすべて燃やした。だから、典子と草也の初恋の顛末は、未だに誰にも知られることは、決して、ないのである。然らば、筆者の筆になるこの草稿は何なのか。筆者も知らない。ある女から聞いた話を、『地下文学』に投稿したばかりなのである。その女の正体は、何れ、書く機会があるかも知れない。
-終-
典子の夢 全文