睡蓮の一生
それは眩いが、しかし透明性のある金の液体だった。零れながら、しかし尽きることなく、その液体がたえず流動しながら、鹿のような動物の姿をしている。
それが滴り落ちた地面は、時を与えられ、
そうして始まりと、終わりをもった花が咲いた。
生まれ落ちた睡蓮が、夢と現に浅く風に揺れた。
その夢では気の遠くなる夜の果てにそれぞれ固有の御伽噺となって内的宇宙という巡りゆくものどもはみないつしか空しくなりながら、みな懸命に生きた。ゆえに現なのだ。
しかし夢のように薄れてゆく。
そこには信仰や哀しみがそれを引き受ける物語として生まれ落ち、育まれ、それと共に生きる神話があり、やがて忘れ去られ、それでも続いていく旅の果てに、睡蓮は老いていった。
それぞれの歴史とは葉を滴る水滴のようなもの。
時を与えられ、死ぬ定めを引き受けた睡蓮の、夢と現は、いずれ、旅の終わりを迎える。他の宇宙とは常に始まるもの。あるいは、終わるもの。
それぞれの孤独に咲いていた。それぞれに夢と現があった。
そうしていつしか枯れ落ちる花を、住う鹿は慈しむように食べていた。
そうした循環を鹿だけは知っている。
それこそ、叡智だろう。
だれもが、母を知らない。だれもが、エデンに在りながら、エデンを知らない。母とは孤独である。
エデンとは、始まりを与えられるずうと、遥か彼方。過去や、現在、未来の、まだ始まりも、終わりもないこの静寂とした森を起源とした。
そこは原始の森。
睡蓮の一生