akatuki
もっと自由に生きたいと叫んでも何も変わることはないと知っていて、それでもあまりに空が澄み渡っているから両腕いっぱい広げてそう叫ばずにはいられなかった。私と君は他に誰もいないことをいいことに秋の涼しい風を肺に溜め込んで、自由になりたいと大空にむかって叫ぶ。自由とは本当は何か知らないまま大きな夢だけを抱いて。冷たい石の上に裸足でたって、風がビュウビュウ私達を掠めていった。地平線の先にはもう明日が待っているのだろうか。その時が訪れても、君は私の傍にいてくれますか。
時計の針が十二で重なり当たり前のように明日が今日にすり替わって、それでも誰もがそうだと実感しないのは明日と今日の境界線はほんの一秒も無い事に現実味を感じることができないからだろう。誰も時間など気にすることなく自分を中心に生きていて、でもそれは悪いことでもなんでもなくそれこそ当たり前に我が物顔で眩しくて進めない未来へと歩いていく。自分の前にひかれた路は何処に続いているのかなんて誰も知らないから、立ち止まるのが怖くて、傷つけられるのが怖くて目を閉じて自分は一生懸命なんだと言い張って、必死になるしか他に方法がみつからない。一人ではその路を歩むことができないから誰もが共に歩んでくれる人を探している。
茜はふいに立ち止まった。人の波が迷惑そうに、たが顔には出さずに無言で彼女の傍を通り抜けていく。立ち止まる瞬間は凪だと、茜は思った。歩いている時に感じる僅かな風もそこには無くて他の通行人達も一瞬だけ流れを乱す異物の出現に戸惑う。他人は他人に興味がないものだから自分は道を邪魔する障害物にしか見られていないのがあからさまに分かって所詮他人は他人だと確認すると茜はまた歩き出した。仰いだ空は墨汁を垂らしたような色だった。六本木の空はいつもこの調子で無愛想に地上の人間たちを見下ろしている。もしこの町に神様がいるのだとしたら、その神もこんな風に無愛想で善人の願いも悪人の乞いも裁くことなく無関心そうに、あーそうですか、とでも言うのだろう。
「・・神は我々を救い・・・」
茜は交差点に差し掛かって、騒音を耳にしてその音源の方を眺めた。どこかの宗教団体なのだろうか、原価はさほどかかってなさそうな旗が小さめのバンを取り囲むように立っていた。誰もが興味を示すことなく通り過ぎて行く光景は中々滑稽で、無駄なことに労力を消費しているのかと思うと彼らを哀れむような気にもなってきた。
神様なんていないのにね・・・
誰かその事実を彼等に教えてはあげないのかと茜は不思議に思った。
ここから見る空が一番好きだから茜は学校の屋上で寝転んでいつもそうしているように空を仰いだ。ごく稀に天気のいい日には雲ひとつなくて気持ちいいほど空気が澄んでいる。本当、手を伸ばせば届きそうな、とかいうベタな表現がぴったりな空がそこにはあるから、それを独り占めしたくて腕を空へと伸ばしてみる。触れられたものは何もないけど、代わりに誰かの手が私の伸ばした手をそっと手に取ってくれて、そのぬくもりを確かめるように手を握り返す。いつもの感触に安堵して瞼を閉じたら君は私の傍に屈んでいて、私の世界は君だけのものになるんだ。
「なんで、泣いてるの?」
いつもと同じ声が聞こえた。
でも、目を開いたらすぐそれが現実のものではないと気付くから流れた涙は止まらなくなるんだよ。
新学期はあまり気持ちのいいニュースで始まらなかった。同じ学校の生徒が自殺したのだそうだ。
また・・・
他の生徒達もきっとそう思ったに違いなかった。前の学期に受付の先生が自殺したのだった。
「何かあるんじゃないの、この学校。」
今度ははっきりと誰かがそう他の誰かに囁くのが聞こえた。唯の噂だと思っていたことが本当は事実だと知って寒い学校の教会堂がますます寒く感じられる。きっと死んだ彼女はまだこの学校に来ているのかもしれない。辺りを見回してみたが、死んだ亡霊を見つけることは当然のことながら、なかった。
その日も私は屋上に昇って、君が居た頃のことを思い出してみた。君が居た頃は私の世界観は今のそれとはちょっと違ってもっと、明るくて色鮮やかだったような気がする。君の一言一言に一喜一憂していた時期もあって、それはそれで幸せだったと言える。でも君が背負う影は私が思ったより暗くて重くて、また明日と言って君は去ってしまったから、行き場の無い想いを抱えて私はいまだに何をしていいか分からず立ち往生しているんだよ。
休み中に亡くなった子は、神様に手を引かれてしまったけど君はまだ母に手を引かれたわけじゃないよね。
休み時間、友達と話す取り留めの無い会話。それももちろん大切だけど君と話している時間の方が私にとってどれほど貴重だったか君は知っているのかな。君は私との約束を果たすために帰ってくるよね。今日の空は、どんよりだよ。晴れそうにはないね。
茜は学校の帰りの電車に揺られ、その片手には友達から、メチャメチャ現実的でチョウー面白いと称された小説が握られていた。半分程のところでしおりが挟まれて、茜はため息をついてまた小説を開いた。年頃の女の子が逆境を乗り越えて何か確かだと思えるものを手に入れる話。泣ける話なのに何の感情も浮かばないのは私が自己中心的な人間で何かに感情移入する方法を忘れてしまったから。現実的な話は苦手で、私が今いる現実より現実的なことなんて何もないのに、非現実の中にありもしない現実を求めて一体何になるのだろうか。それに、この人らは嘘をつくんだ。私が運命の別れを体験したのは寒い冬ではなかったし、いくら嘆き悲しんだって雨は一滴だって降りはしないから。
あの日だってそうだった。
これ以上に好きだと思えて慕っていた祖父が他界した日。普通の休日でもない平日の昼に、携帯に訃報が入った。今流行りのバンドの着メロが楽しげに歌って、仲間と笑い転げてた最中で、確かに冬で寒かったが何も悪いことなんて起こらないと保障してくれそうな美しい冬の空がどこまでも広がっていたんだ。皆が良い日に亡くなったと言ってもちっとも嬉しくなくて、死に目に会えなかった自分が惨めだった。随分白くなって帰ってきたおじいちゃんの頬はきれいだった。でも、どうしてか御通夜でもお葬式でも一回でも泣くことができなかった。おじいちゃんの居たところに穴が開いたみたいで、でも現実味がなくて全てが空々しい。何か大事なものを失くしたのに、何を失くしたかは分からなくて穴が空いた場所もいまいち理解していなかった。
久々に登校したあの日も、彼は屋上でいつもように音楽を聴いていた。多少雲は出ていたが雨は降る予報ではなかった。
「誰にも泣いて欲しくないと思うよ、じいちゃん。でも、茜が泣きたいなら泣いたらいい。思う存分泣いて、その後笑えるようになれればいいんだ。」
彼はそう言った。
「・・じゃないと、面影ばかり追うことになるから。」
抱き寄せられて聴いたその言葉は正しいのに受け入れたくない気持ちで一杯だった。いまでもどこかでおじいちゃんは自転車で散歩にでも出かけているのだろうとか、大好きなパンを買いにお洒落して銀座まで行っているのだとか、気がつくとそういうふうに根拠もなしに信じているからで、もうこの世の何処にもいないなんて信じることができなかったから。今は白い粉になって古びた墓の下にいるなんて考えられないし、私の中でのおじいちゃんは大きくなったね、と嬉しそうに言ったあの日から先には進んでいない。
茜は結局一行も読むことができなかった小説を閉じると、開いた自動ドアから滑り降りて家路についた。
家族と夕食を摂りながら、茜は、自分はつくづく幸せ者なのだなと思った。ずば抜けて裕福だというわけではないが、貧乏ではないしテレビだってあればエアコンもあって何より快適な家に住んでいて家族仲も悪くない。当たり前の幸せは単調過ぎて飽き飽きさせられ事もあるがいまさらになって、ここに生まれて良かったと、親に話したら熱でもあるのかと尋ねられそうなことを思った。
茜は自分の部屋のベッドに横になってカーテンから差し込む月明かりが美しくて目を細めていた。やがて眠気に襲われて深い眠りについた。
「アカネ・・」
茜は聴きなれた声を探して闇の中を走っていた。全速力で走って肺が痛くてしょうがない。一体何処まで走ったのなら彼のもとにたどり着くのだろうか。言いようのない不安に襲われて茜はさらに早く走ろうとした。
ふいに視界が開けたそこは学校だった。行くべき場所は声が導いてくれてその先には彼がいた。地面にへたり込んで自分の体を抱くように腕を回して、一目でいつもの彼とは違うと分かって不安が一層募って、一体どうしたの、と声にしても彼は私の存在に気がつかないように何かを呟いて片手で顔を覆って何かを恐れている。彼が私にそうしたように彼を抱きしめたかったが、彼は私に何か伝えようともう片方の手を前方へと翳すのだ。真っ直ぐに古い校舎をさしていて、私はそれに従った。恐る恐る校舎に近づくと、パトカーが何台も近くに停まっていることに気付いてよくテレビドラマで見かける黄色いテープが円を描くように張り巡らされていた。
一体何があったんですか・・?
近くの警察官に尋ねると警察官は無表情に、自殺だよ、と答えた。その声に感情も何も感じ取られなくて寒気がした。見てはいけないと知りながら私はテープの近くに歩み寄った。
校舎の前には血の水溜りが広がっていた。
恐ろしいほど死の匂いが香ってむせかえりそうだった。自殺したのは、膝を抱えて「助けてほしいと」何度も呟いていた彼の母なのだと知っているのは、これは夢だからで、早く目覚めたかった。
深夜三時を回ったころ茜は起きた。一筋の涙が落ちて袖でそれを拭う。こんな体験が自分の身に起きなくて良かった、こんな体験をした彼はかわいそうだと思う自分がいて、何故か自分が許せない。
久々の三連休に茜は花束を持って祖父の墓参りに来ていた。三回忌がすんで、七回忌までの間暫く寂しい想いをするだろうからと思って。誰もおじいちゃんの事忘れてなんかいないよ、と墓標に語りかけて花束を活ける。生前祖父が一番好きだと言った、真っ白なカサブランカが風に揺れる。やがて静寂が訪れて、人の気配に茜は顔を上げた。
「・・茜。」
期待していた声が聞こえて、茜は溜息まじりに遅いよ、と告げるが、そう告げた唇にはうっすらと笑みが浮かぶ。墓標の前から立ち上がって、久しぶりに君の姿をみた。走ってきたのか、やや息があがっていたが、最後に会ったときと何も変わらぬ様子で笑っていた。墓が整然と並ぶ中、彼は暖かい日に照らされて眩しそうにしている。
「今まで、何処にいたの。」
その問いには答えずに、探したと告げられ、ふいに腕を掴まれるといきなり走り出した。
「ちょっと、何処に行くの。」
そんなの決まっているだろう、とでも言うように彼は私を見て笑みを浮かべる。共に幼いときのように駆け出したら、いつかの時のように風が二人を掠めていって他に行く手を阻むものは何もないように走ることができた。繋いだ手から伝わるぬくもりは真実で、それさえあれば疲れを知らずに何処までも走れるだろう。知らない道を駆け抜けて、方向感覚なんてもうそんなものないみたいに走っても不安を覚えることはない。
彼は約束を果たしにきたのだろう。私を彼が一番好きな場所に連れて行くと。でも一旦その約束を果たしてしまったのなら、彼はもう二度と私の前に姿を見せることは無いような気がして不安でしょうがなくて、繋いだ手を離さないでいるのが精一杯だった。
気がつくと私は見慣れた公園の一角にいた。壊れたフェンスが拉げて人一人通れる穴がそこにはあるから、二人はそこを抜けて行った。そこには幼いころ忍び込んだときと同じ光景が広がって、二人の帰りを歓迎しているように伸びっぱなしの植物が風にそよそよと揺れていた。晴れ渡った空が私たちを見下ろして、それを見上げながら両腕を広げて草の上に倒れこみたい衝動にかられて、現に君と私は手を繋いだまま草の絨毯の上に寝そべった。いつかのように笑い声が響きあって、お互い離そうとはしない手に想いを宿らせている。
好きだよ、と何回言ったならこの想いは君に伝わるのだろうか。幸せは長くは続かないと心は知っているのか、こんなに幸せを感じているのにきりきりと痛む感情があって、その矛盾を打ち消そうとすればするほど痛みは増していた。君の傍にいたい。願うのはただそれだけだからこのつかの間の時間を永遠だと思いたかった。
かたりと何かが足に当たって私は、それを手にとった。画面が割れた、見慣れたMP3プレーヤー。君は悲しそうに笑うんだ。気付かれたのを照れているように。急に視界が霞んで君の姿を見つめることができなくて、それでも今しか話す機会がないと分かっていてもこういうときに限って話すことが見つからないんだ。
彼は私の肩に腕を回した。亡霊の胸は暖かかくて、彼は彼のままで何ひとつ変わってないのを確かめたくて力いっぱい抱き返した。
「待たせて悪かった。ずっと傍にいたかったけど・・・」
その先は苦しい想いが言葉をかき消してしまったのを感じ取ってしまったから不満も不平も訴えることができなくて、彼は私の知らない所で散々苦しんで身も裂かれる思いだったのだろうと思うと何もできなかった自分が惨めに思えた。眠れない夜を幾度孤独に過ごして幾度誰かに助けてもらいたくて手を空に翳したのだろう。そんな時、彼の傍にいられたら何か違う結末を迎えることができたのだろうか。もう、苦しまなくていいよ、と言ってあげたかったけど、そんな軽々しいことはどうしても言えなかった。私は彼を救うことも傍にいてあげることさえもできなかったのだから。気の利いた言葉一つさえも思い浮かばなくて、彼の言葉に耳を傾けることしかできない。
「ごめん・・・俺・・」
もういいよ、と言うことが私にできる精一杯のことだった。
「茜・・辛かったら・・」
抱かれていた腕を振りほどき彼を突き飛ばした。戸惑う君に涙がこぼれる前、君の為に笑おうと思った。
「私は大丈夫だよ。・・本当・・・心配することないよ。いままで、君がいなくても生きてこれたんだから・・・これからだって大丈夫だよ。」
笑顔でそう言ったなら、君は安堵したようにそっか、と笑って大空を仰ぐ。少し悲しそうに見えたのは、私がそうであってほしいと願ったからであろう。今日もいい天気だな、と君は言って、ありがとうと付け足した。
「じゃ、またな。」
別れ際に君はまた明日、といつもそうするように片手を上げて別れを告げたから、懐かしくて、恋しくてどうしようもなくなって、誰もいなくなった公園で痛みに耐えるように泣くことしかできない。本当は一滴足りとも涙を流し無くなかったが精一杯泣かないとまた何度も面影を追ってしまいそうだったから、涙も声も枯れてしまうまで泣こうと思った。そうしたなら、いつまでも君との思い出を大切にしまっておけるだろうから。最後に、生きろよ、と君が言ったような気がして君が消えていった空を見上げた。
どれくらい泣いたのだろうか。もう君のぬくもりが全て消えてしまったから夜風が寒く感じられた。壊れた君のMP3プレーヤーを指で大切になぞったところには君の名前が几帳面な字で書かれていて、それを見て緩んだ涙腺からまた一筋涙が流れる。
暁、と一文字書かれていた。
一陣の風が吹き抜けて明日の到来を示した。この町には夜は無くて偽物のぬくもりを灯すネオンが町を照らしている。ずっと夢をみていたみたいに頭がふらふらして公園のベンチに座った。辺りは真っ暗で誰もいなかったけど、君とあの時見た地平線から新たな日が昇ってくることを知っているから君がいなくなったこの世でももう少しやっていけそうな気がした。
「また、明日。」
晴れ渡った空には幾つかの星が瞬いて君と過ごした年月を刻んでおいてくれるだろう。茜は立ち上がって歩き出した。振り返ることはなかった。
akatuki