【サンプル】はじまりは百代の記念日

しずよ

【サンプル】はじまりは百代の記念日
  1. 一、再会
  2. 二、鯉登の誕生日
  3. 三、引っ越し
  4. 四、月島の誕生日

月島基軍曹お誕生日おめでとうございます話です。
転生パロ。明治時代の記憶なし会社員の月島さんのところに、鯉登くんがお客さんとしてやって来ます。それをきっかけに次第に思い出して同居したりするのですが、時間軸の不明な謎の記憶があるせいで、彼との関係性がよく分からずモヤモヤ悩んでいる月島さんのお話です。

※月いご前提、一行だけ記述があります。本人は出ません。
※単行本に収録されていない内容にも少し触れています。
※R18タグをつけていますが、月島さんがひとりでいたしているだけです。

個人的な話、昨年末に原稿中だったために少尉殿のお誕生日祝いができませんでした。なので鯉登くんのお祝いも含まれています。都合により昔と今の誕生日が一緒になっております。ご了承ください。

この話はこれで一応完結しておりますが、これに残りの伏線(主にR18的な意味合い)回収した一章を加えたのが本の内容になります。

一、再会

 昔、明治に生まれて明治に死んだ。
 今、昭和に生まれて令和になり、俺は昔の享年手前となった。今のところ、くたばる気配はない。そんな俺にはひとつ、不思議な経験がある。それは明治時代に死んだ後から鯉登少尉に誕生祝いを受け続けている過去だ。夢か現実か、それともただの願望か。自分でも判然としない。それとも現代にこうして人に生まれ変わる前に、少尉殿の飼い犬か猫にでも生まれた過去があったのだろうか。



「目が覚めたか」と鯉登に声をかけられる。俺は汽車に乗っていた。いや、様子が違う。窓を開けているのに煙たくない。車内にある路線図を確かめると浅草の文字。窓から顔を出す。「危ないぞ」と注意する鯉登を無視して、車体の様子を可能な限り確かめる。先頭車両を目指して移動してみれば、石炭庫や煙突のある機関車ではなく、仕切られた運転室があった。扉を叩いてそこへ押し入る。車体の外をガラス越しに観察する。先頭には、造花や色とりどりの電燈が施されているのが見える。
「おい、あんた突然なんなんだ」と運転士が困惑顔だ。ガタンゴトン、下町を電車がゆっくりと進んでいる。追いついた鯉登が「お前の誕生日だから特別に用意してもらった列車だ」と晴れやかな表情をする。いや、いくらなんでも個人の誕生祝いに花電車を走らせないだろう。普通は祝祭日に走る電車だ。というよりも。
 変だ。俺は「電車」に乗ったことがあったんだろうか。それも東京の。そんな疑問を思い浮かべていると、海が見えてきた。あれ? 下町だったのに、もう海か? 俺は再び窓を開けた。潮の匂いが鼻腔をくすぐると、真っ先に思い浮かんだのは小樽だった。でも記憶の中の港の風景とはどれとも違い、何もかも洋風だ。帆を張った客船が停泊している。潮風の香る公園には大型のテントが設置されていた。独特な三角屋根の付いた円柱形の派手な縞柄だ。
「獨逸〇ーゲンベツク猛獣大サーカス」という大きな看板がテントの入場口の両脇に掲げられている。獨逸からやってきたサーカス団の巡演だった。テントには屋外に向けたスピーカーも設置されており「サーカスがやって来たぞ」と歌うレコードが繰り返しかけられている。公演内容は異色で、他のサーカスように人がメインではなかった。演者はほとんどが動物たちだ。
『獅子がシーソーに乗る』『虎が火の輪をくぐる』等の曲芸に、人々は度肝を抜かれて熱狂していた。連日黒山の人だかりで、今日も切符は即日完売したのだそうだ。
「奥、迷子になるなよ」と鯉登に手を引かれる。
「お、……」
 月島はつられて復唱しそうになり、慌てて口をつぐんだ。奥だなんて、恥ずかしい、往来で一体何を言うんだ。鯉登は気まぐれに月島をこう呼んでいた。反応を楽しんでいるのかもしれない。赤くなった頬を隠そうと、ソフト帽の鍔を下げた。が、軍帽と比べたら短いので、顔が隠せない。視線を感じて隣を見る。
目が合った。すると「ふふ」と顔をほころばせる。
月島は恥ずかしまぎれに強がる。「杖があるから平気ですよ」
「なに、遠慮はいらんぞ」
そうして「足元に気を付けろよ」とますます気遣う。
 テントに入場して座席を探す。すると一番前の特等席だ。時計を見ると、開園まで三十分だ。「月島、ここで待っていてくれ」と言い残して、鯉登は席を離れた。十五分ほどすると、両手に紙袋を抱えて戻ってきた。「日本公演の記念品だ」とその場で広げて見せる。写真集や手ぬぐい、鉛筆やぬいぐるみ等がわんさか出てきた。
そうして開園前の諸注意が放送後、満を持してショーが始まる。二人で見入った。
 しかし、本番はこの後だった。
 公演中、ふと気がつけば鯉登がいない。お手洗いかと思ったが、その割には長い。迷子にでもなったのか。探しに行こうかと席を立ったところ、本日のメインショー・象の樽乗りが始まった。
「まず樽の上に子象が乗ります。そして象の上に猛獣クズリ、そして何と人も乗ります!」
 歓声が上がる中、月島は目を凝らした。司会の声がさっきまでと変わったからだ。やけに聞き覚えのあるその声の主は……。
「あっ!」
司会進行の男は、山田曲馬団の山田に交代していた。渡米したんじゃなかったか? どうしてあの男がここに。月島が度肝を抜かれていると、子象と樽が出てくる。人が固定する樽に象が乗って、動き出す。その背にクズリが飛び乗った。さらにその猛獣の後ろに乗ったのが、鯉登音之進だった。
「いやあなたなんでそこにいるんですか!」
 月島は思わず立ち上がり、叫んでしまった。樽は二頭と一人を乗せて、場内を一周した。拍手喝采に鯉登は手を振って応え、それから月島を見つけて投げキッスとウィンクをした。驚くやら呆れるやらで、脱力して座り込む。でも成功して良かったな。この席に戻ってきたら、一言ちくりと諌めて感謝の意を伝えよう。こんな祝い方は鯉登にしかできない。死んだって覚えていられる自信がある。月島はうっそりと微笑む。素直になることは怖くて、恥ずかしいのだけれど。



 終演後、月島は待った。鯉登が自分の元に来ることを。ここからまた次の一年が始まるのだと、明るい予感にそわそわしていた。ここを出たらまず腹ごしらえだ。レストランもいいけれど、やっぱりいつもの釜の飯が一番好きだと思った。白い湯気とそこはかと糠の匂いのする部屋で、あたたかい人と卓を囲む想像を膨らませる。そのうち客席が掃けてきて、若い団員──長吉に似た男が「閉園です。お帰りはあちら」と指をさす。「まだ連れが戻らないのです」と言ったけど、団員はすぐさま片付けに戻って行き、月島の訴えには誰も耳を貸さなかった。
 仕方なく外で待つ。薄暮にたった一人で佇むのは、いつでも月島を心細くさせた。こんなに時間が経っても尚、二十歳頃の記憶に影響されるのか。不安で地に足がつかなくなり、体が消えてしまいそうだった。
──月島!
 張のある声に名前を呼ばれて、振り向くとそこに笑顔の鯉登が手を振っている。そんな想像を何度も繰り返した。四半刻後、月島の前に車が急停車する。窓が開き、そこから顔を出したのは山田座長だった。
「月島さん、迎えにあがりました」
「……。あなた、スパイの他に送迎の仕事もやってるんですか。至れり尽せりだ」
「はは、存外似合うと思いませんか?」と言って、髭と帽子を整えた。
「もうちょっと待ってもらえませんか。待ってるんです」
「鯉登音之進くんですか」
「ええ」
 山田は車のエンジンを切る。月島の訴え通り、待ってくれるようだ。観客たちはすでにほとんどが帰ったようだ。人影はまばらだった。雑音が少なくなると、レコードがやけに耳につく。
『空は青々と晴れ渡り 海はからからと鳴く この港街にもサーカスが来たぞ来たぞ〜』
 月島は考えた。今日の晩飯は何にしようか。こうして普段と変わらないことを考えていたら、すぐに鯉登が戻ってくるような気がしたからだ。
「彼が戻ってこないんじゃないよ。アンタが迷子になったのさ」
 ふと気が付けば、助手席にフミエがいた。月島はカチンときて「何を知った風なことを」とぼそりと言い返そうとした。あれ。月島はそこでようやく違和感に気付く。山田座長とフミエは老けてない。昔、樺太で見た姿のままだ。背筋が寒くなった。
 今は明治何年だ? いや待て、明治はもう終わったのだ。
 それでは、今日で俺は何歳になった?
 その時に月島を何かが照らした。光の方に目をやる。すると東の空から月がのぼり始めていた。何だかやけに眩しい。閉じたまぶたを月光が照らし、それに月島の意識は白く溶かされていった。



♪♪♪
 メロディが耳に入り目を開ける。月島はベッドサイドに置いているテーブルに手を伸ばし、スマホのアラームを急いで止めた。そしてベッドの反対側を見る。隣のベッドでは鯉登が眠っている。良かった。起こしていない。顔を見る。あ、眉間にしわが寄っている。鯉登は時々眠りながら苦悶の表情を浮かべている時がある。暗い室内でも見えるくらいに。
 悪夢でも見ているのか。月島は人差し指でそっとそこを撫でる。すると絡まった糸がするすると解けていくように、眉間が平らになった。穏やかな寝顔になり安堵する。そして月島はそっと寝室を出た。居間にはカーテンの隙間から薄日が差し込んでいる。今の月島が鯉登にできるのは、しかめ面にかこつけて眉間に触れる、ただそれだけ。彼から接触してきたことは一度もない。今の関係はただの同居人だ。しかも期間限定の。
 月島は顔を洗った後、紅茶を淹れる。普通、友達とルームシェアすると仲違いするものだがな。同居して半年、そんな気配はない。俺たちは普通に仲が良い。ただ、ふつうの同居人とは異なる点がある。
 かつて、上官とその部下だった。本当にそれだけだったのか、それ以外に何かがあったのかは判然としない。あの奇妙なサーカス観覧中の鯉登が思い浮かぶ。髪には少し白いものが混じり、髭があった。月島がよく知る彼の容姿より、年齢が上だ。その辺りの事情を、はっきりと思い出せない。俺自身は早くに死んだと思っていたが、記憶違いだったのかな。
記憶の中の鯉登は、自分を妻だと呼んで手をつなぐ。彼はその手の冗談を言わないから、夫婦同然の間柄だったのかもしれない。それとも、プラトニックだったのだろうか。というのも、今の鯉登は性にまつわることを、明らかに避けていた。アダルトサイトを眺める姿など皆無だし、恋人がいるのかどうかも一切明らかにしない。それはまるでテレビドラマのキスシーンを小学生に見せないように、必死に目隠しするかのような緊張感があった。月島は距離感を確信できずに、実はずっとモヤモヤしている。
カチャ、と寝室のドアが開いた。鯉登が起きてきた。
「月島、おはよう」
「おはようございます」
 そして目下の悩みの種は、そんな鯉登への誕生日プレゼントだ。贈り物選びは当人との関係性が大事なのに、肝心なところが曖昧だなんて。その上、自分よりはるかに裕福な家に生まれているから、今更ほしい物なんて無いんじゃないか。せめて俺の誕生日が先に来ていたら、何を贈れば喜ばれるのか予想できたかもしれないのに。



 鯉登との再会は今から半年前、季節外れの彼の部屋探しがきっかけだった。
 月島は分譲マンション・戸建てのディベロッパーに勤めている。だから上司から「早く家を持った方がいいよ」と言われ続けて、昨年ようやくマンションの一室を購入した。2LDK。自社が建てた物だから相場より三割も安かったけれど、頭金で貯金は消えた。それでも持ち家があると、親との縁を切っている自分でも、きちんと自立できた達成感を感じた。クソ親父を見返してやった、と清々した。
そんな生活を送る月島に転機が訪れたのは、今年の六月だった。
 とある賃貸物件の見学の申し込みがあったと、仲介をする不動産屋から連絡を受けた。その部屋は、月島が販売を担当したマンションの一室で、持ち主が転勤になるから賃貸にしたいと連絡のあった1LDKだ。
「あいにくですが、その物件はすでに申込済みです」と不動産屋である若山輝一郎に電話する。ネットに掲載されているものは客寄せパンダだ。契約済み物件が多い。
 なので、その部屋と似たような物件をメール送信した。さっそく翌日返事があった。そのうちの一件を、客が見学したいらしい。それで若山が、部屋の案内をするから鍵を取りに来ると連絡をしてきた。
 そこで月島は思案する。普通の手順だったら、仲介業者にお任せだ。こちらは鍵を貸し出すだけで、彼らが客を案内してくれる。だが月島は、自ら鍵を持って部屋の案内へ出向くことにした。と言うのも、二つの懸念があったからだ。
 一つ目、若山は今でこそ堅気だが、先代まではあこぎな商売をしていたと評判のある人物だ。今でも裏で何をやっているか分かったもんじゃない。事故物件だと知らせずに、いわくつき物件を紹介するかもしれない。
 二つ目、大っぴらにできない危険性──若山のある行動に大いに問題があった。
 そして見学当日、鍵を持って物件前で月島は待っていた。十五分ほどして男が二人やって来た。若山に連れられてきたその若者を見た瞬間に、月島は「昔のこと」を思い出した。
 ああ、俺はこの人を知っている──鯉登少尉殿。
 不思議な経験だった。何だこれは。目で見てないのに映像が一瞬で流れた。走馬灯か? 白昼夢か? そして時間の流れが逆なのか、物語の内容が理解できない。でも色や音、匂いや痛みが月島の体の中にあふれて、どうしてか胸がいっぱいになった。
「こ、こい……」
 思わず名前を呼んで、手を差し伸べそうになった。月島は慌てて引っ込める。不審がられても困るので、すぐに部屋に上がって一通りの説明を始めた。鯉登は澄まし顔で聞いている。表情に変化はない。それどころか部屋の説明をする間、むっつりとして口数少なく愛想笑いすらしなかった。
 部屋の見学が終わり、月島は会社へ車を走らせる。走行中、様々なケースを想定してしまった。人違いか……? いや、そんなはずはない。ならば彼は俺のことを何も覚えてないのか。まるで冷たい対応をされたようで、胸が痛む自分に気がついた。でも彼が思い出したとして、その先をどうすると言うのだ。親交を深めて友人にでもなるのか? 友人になって時々一緒に食事や映画を? そんな馬鹿な。月島は自嘲する。昔の知り合いだからといって、また親しくする義務などない。──それならば。最後まで他人の振りをし続ける。いずれにしろ、彼がこの物件を気に入らなければ、それきりなのだから。



 一週間後。
「回収に行ってくる」
 月島は営業部へ声をかけて外出した。これから販売終了したモデルルームに向かう。室内を飾りつけた美術品を取りに行くのだ。作家本人からレンタルしているから、展示が終了すると作家宅へ返却する必要があった。宅配業者は使わない。というのも昨年一度だけ、別の家に作品が届けられたことがあったから、それ以来NGなのだ。
 モデルルームに到着すると、すでにダンボールに入れられて運び出すだけになっていた。中に収められているのは彫刻だ。しかも材料が木や石ではない。なんと革を加工して作られた、非常に珍しいものだ。彫刻家の名前は江渡貝弥作という、二十二歳の若い作家だ。本部長の鶴見が彼の作品の大ファンで、個展へ出向いて江渡貝本人と会ったことがあると言う。するとなぜか、逆に彼が鶴見に夢中になってしまったそうだ。そんな経緯があって、モデルルーム展示用として常に数点借りている。
 月島は回収したそれを、車のトランクに積み込む。そして運転席に乗った瞬間に、着信音が胸ポケットから聞こえた。取り出して画面を見てみると、表示されているのは知らない番号だ。
「はい」
「こんにちは。先日、賃貸物件を見せてもらった鯉登と申します」
「ああ、鯉登さん。お電話ありがとうございます」
 努めて冷静に礼を述べながらも、月島はかなり動揺していた。あれきり会わないだろうと、思い込んでいたからだ。見学日に名刺を渡しておいて良かった。それでも他の物件を探すなら、月島の会社ではなく町の不動産屋へ行くだろうと思っていた。そっちが物件数が多い。自分の予想が外れて嬉しかったが、少々問題がある。わざわざ電話をかけてくれた鯉登には言い難いが、見栄を張ることはできない。だから、最初にそれを伝える。
「賃貸物件が一番多いのは、一〜二月です。そして五月以降は、優良物件を見つけるのが厳しいです。うちはもともと賃貸物件の取り扱いが少ないこともありまして、鯉登さんのご希望エリアから遠くなるかもしれません」
「構いません。よろしくお願いします」
「承知いたしました」
 それで通話が終わると思ったら、月島の予想はまた外れた。妙な間が開いた後、鯉登がためらいがちに切り出す。
「……あの、月島さん」
「はい、何か気になる点がありますか?」
「実は少々困っていることがあって、それで月島さんに直接お電話したんです」
「え、困っていること?」
「はい、実は若山不動産が少々しつこくて」
「しつこい? 営業がですか?」
「営業だけではなく」
「……だけじゃない、と言いますと」
 以前の鯉登からは考えられない歯切れの悪さだったが、次の瞬間困惑しきった声で、
「あの不動産屋の親父、やたらと私の手を握るんです。あそこ、あまり評判良くない業者じゃないですか?」と聞いてきた。
 月島は唖然とした。ああ、そういうことか。懸念が的中してしまった。
「……あの、こんな話をするのは本当は差し控えたいところですが、実は私もあの親父から、何度かケツを撫でられました」
 月島は思い出して鳥肌が立つ。
「やっぱり! だから『部屋はもう見つかった』と言ったんです。するとどこのどんな部屋か聞いてくるので、あなたの会社で紹介してもらったと言ってしまいました」
「なるほど、そういう事情でしたか……」
 月島は大いに同情した。若山不動産の社長の男へのセクハラは、同業間では有名だった。まったくあの親父は。月島は大きくため息をつく。今度会ったら「仲沢に言いつけるぞ」と脅しておかなければ。秘書の仲沢が社長の弱点なのだ。それも同業者では公然の秘密だった。よし、そういうことならば、自分が親身になって探そう。
「では鯉登さん。少し条件を広げて探してみます。今日中にメールで送ります」
 そうして提案した中に、希望に近い物件があったようだ。後日、事務所に来てもらう約束を取り付けた。



 次の土曜日。
 月島が仲介事業部の一角で賃貸の資料を準備していると、前山に声をかけられた。「あれ、物件の紹介ですか? 月島さん僕がやりますよ」
 月島は実は今年度は人事部に異動している。「いいんだ、先日俺が案内したお客様だから。もう少し探してみる」
「そうですか、何かあれば呼んでくださいね」と言い置いて、前山はデスクに戻った。あれ。月島は再び、先日と似たような郷愁におそわれる。そうか、前山も昔俺と関わりのあった男だ。月島は前山の横顔を眺める。そうだ、昔の記憶の映像に、前山もいた。これまでの日常が、違って見え始めた自分に気がつく。
 午前十一時。約束の時間通りに、鯉登が事務所にやって来た。改めて話を伺う。就職で北海道に赴任して二年、その後関東に戻ってきたという。が、実家のある神奈川県からは通勤時間が長くなるから、部屋を借りることにしたのだそうだ。
「先日ご紹介したゴールデンコート○○ですが、退去日が二ヶ月後です」
「二ヶ月後か……」
「隣町にある同じシリーズのマンションなら空室があります。なので、そちらを参考までに見学なさいますか?」
「そうですね。ぜひ見てみたいです」
「入居はできるだけ早い方がご希望ですよね?」
「そうです」
「即入居が可能なもので、今ご案内可能なのが……、そうだな、築五十年の戸建てがあります」
「五十年」
「広いです。5LDK+Sです」
「広いな」
「こちらも見に行きます?」
「……そうですね」
 そうして次の土曜日に、鯉登と戸建て見学へ向かった。しかしその戸建ても却下された。「また新しい情報が入ったら連絡いたします」
 鯉登を事務所まで連れ帰ろうとして、車に乗り込んだところだった。
「ところで月島はどこに住んでいる?」
 鯉登が呼ぶ。月島。そう呼び捨てにして。さっきまでの丁寧語で話していた時とはまるで違う、どこか古めかしくて形式ばった気風が、鯉登の周囲を纏う。顔つきも、全然違う。
「……は、あの……」
 動揺した月島は、息を吸うのを忘れてしまった。言葉が続かない。その視線は、口調は、まさかまさか。やっぱりあなたは昔の上官の……。彼の名前を呼ぼうとした。が、喉がひりつき声がうまく出ない。胸を軽く叩く。咳払いをしてみる。何度か試しても喉がつっかえて、額を汗が一筋流れ落ちる。動揺しすぎだろう。月島は自分が情けなくなった。気落ちして鯉登の顔を見ると、ふてぶてしく口角を上げている。
「月島基、だろう?」
「はい、少尉……殿」
「反応が遅いぞ、月島軍曹!」
 快活な声が辺りに響き渡る。そして思い切り破顔する鯉登が、眩しいと思った。
「知ってたんですか?」
「すまん。唐突に昔の話をしても、怪しまれるだけだと思ったのだ」
「確かに。ではどうして、今日打ち明けたのですか?」
 月島が疑問を口にすると、ふふ、と鯉登は笑みを深める。「歩き方が懐かしくてな」
 今日みたいに客を案内するケースなら、普通なら月島が率先して歩くはずだ。
「それなのに、物件に到着してからも、この車に戻る時も、月島は私の斜め後ろを歩いておったぞ。意識してなかったか?」
 指摘されて月島は目を瞬かせた。してやられた。なぜか鯉登とのゲーム対決に負けてしまったような気がした。月島がうなだれると、鯉登はポンと肩をたたいた。顔を上げると目を細めた。
 二人で車に乗り込む。走り出すと、助手席の鯉登はこれまでの経緯を語り出した。彼は、兄とずっと暮らせるのがなぜか不思議だった、と話す。明治時代は音之進の自我が芽生えるかどうかという幼い頃に、平之丞は東京へ行ってしまったからだ。その幸せな違和感をふと口にしたら、兄が教えてくれたのだと明かした。
「家族や親類以外には、前世を共有する旧知がいるとは考えたこともなかったんだ。それが北海道に赴任した時に変わった。時計台の前で色々と思い出した」
「……」
「でもそれらはすべて済んだことだ。思い出せたのは、単純に嬉しいと思った。もし小隊のみんなに会えるのなら、と胸を膨らませた。それがまさか、東京にいるとはな」と口を尖らせる。
「北海道には誰もいませんでしたか?」
「いや、杉元やアシリパとは会った」
「そうだったのですか」
「ああ、それで他の者は知らんかと聞いても、なんの手がかりも持たん奴でな。もっと使える男だと思っておったのだがな、私の買い被りだったようだ」と昔のような不遜な態度をしている。軍服を着ていない鯉登にはその居丈高が似合っておらず、くすりと小さく笑った。
「む、何がおかしい月島」
「失礼しました。実は俺のマンションは、ここからすぐ隣の駅です」
「どうして黙っておるのだ! 早く案内するんだ」
「え、案内ですか」
 戸惑いながらも楽しんでいる自分がいた。こんなに心が浮き立つ気分は、何年ぶりだろう。ついでだから、少しだけ寄っていこう。月島は自宅に向かって方向転換した。五分ほどして到着する。
「私の自宅はここです」
 車を路肩に停める。JRの駅から十五分ほど離れた住宅街だから、自宅前の道路は交通量が少ない。外から眺めてすぐ帰るつもりだった。建物を見上げたまま、鯉登が尋ねる。
「ここは分譲だろう? 買ったのか?」
「ええ、こういう仕事なんで、早く家を持てと上司からせっつかれまして」
「家族と暮らしているのか?」
「いいえ、一人暮らしです」
「そうか、それを聞いて安心したぞ。参考までに部屋を見せてほしい」
「えっ」
 驚く月島をよそに、鯉登はすたすたとエントランスに向かう。賃貸が見つからないとなると、買うつもりなんだろうか。まさか。しかし鯉登が探している家賃の上限を聞く限り、それなりに裕福な暮らしぶりだと推測できる。そんなことを考えていたら、背中が見えなくなった。急いで後を追う。追いつくと鯉登が「部屋番号は?」と聞いてくる。オートロックを解除しようと、ボタンを押すポーズを取る。
 ごねたら逆に手間取りそうなので、月島は鍵を出して素直に解錠した。エレベーターを降りてから、部屋に一直線に向かう。部屋を開けると月島は「車を来客用駐車スペースに停めてきます。中で少しお待ちください」と告げる。
 部屋に戻ると、鯉登はソファでくつろいでいた。どうやら勝手に全ての部屋を見て回ったようだ。一部屋余っていることに気がつき「ルームシェアはどうだ?」と聞いてきた。唐突な提案に困り果てて、月島は黙ってしまった。すると煮え切らない態度に痺れを切らした鯉登が、追加条件を提示する。「来年の三月末まで、九ヶ月間だけだ」
 指を九本立てて見せた。
「その頃にまた引っ越すのですか?」
「ああ、フランスへ渡ろうと考えている」
「フ、フランスですか?」
 相変わらずずいぶん突飛なお人だ。聞けば、それは家業を継ぐための修行だと説明する。
 鹿児島市にある鯉登を本家とする彼の一族は、占領時代にフランスからワインの輸入卸の会社を立ち上げたのだと言う。それでフランスのワイナリーへ実際に足を運び、自分も葡萄栽培や醸造方法を学びに行く計画を立てているのだ、と話をした。
溌剌と現代を生きる姿が、とても鯉登らしいと思った。そこに少し疑問を感じた月島が、率直に尋ねる。
「鹿児島といえば芋焼酎だと思っていました。どうしてフランスのワインなんですか?」
「それはな、戦後の食料不足の最中に輸入販売を提案して助けてくれたのが、かつての父の友人であるフランス人の孫だった」
「あ、ひょっとして」と月島まで前のめりになる。鯉登は訳知り顔でうなずく。
「そうだ。私に三輪車をくれた友人だ」
 敗戦後、GHQによって軍部や内務省が解体・廃止されたから、元軍人や内務官僚だった鯉登一族の多くは職を失った。再就職も国際法に反して制限を受けている。だから使用人らと共に農作業を始めたそうだ。まずは自分たちの食い扶持をなんとかするためだった。稲や小麦や大豆に芋、柑橘類などを植えて糊口をしのいだ。しかし種苗も法外に高い闇市での入手が主で、戦前までの蓄えも次第に底をついた。
 窮地に立たされたその時、平二の友人だったフランス人の孫から「こちらでワインを買って、米軍将校相手に売ればいい」と助言を受けたという。
 一念発起、邸宅を抵当に入れ借金をし、その金で香港から船を手に入れた。そうして、平二の兄の子供──音之進の従兄弟が代表取締役となって、商売を始めた。
 そんな状況だったから、当初は同業者に嫌われたと言う。地元の農産物で作った焼酎ではないし、しかも商売相手がGHQだ。それでも元使用人だった従業員の数は少なくなかったから、地元での雇用の一端を担う役割もあった。それで商売を次第に認められていった、と結んだ。
 昭和二十年辺りの状況を聞くと、月島の胸はちくちくと痛む。様々な苦労があったのだろうと思う。それでも鯉登の話ぶりは、そんな苦労も笑い話に変えてしまう明るさがあった。彼の明るさに救われたと思った。



 それから七十と余年の時が過ぎて現代。鯉登は二年前に大学を卒業して、今は他社に勤務している。が、いずれ自社へ戻るらしい。
 話が一息つくと、日が陰りはじめていた。リビングの窓から夕日が差し込む。鯉登に出した飲み物が空になり、テーブルに置かれている透明なグラスが夕日を透かす。
「月島はワインを飲むか?」
「飲まないことはないのですが、いつもついビールを頼んでしまいます。詳しくなくてすみません」
「なに、謝ることはない。ビールを飲む方が月島らしい気がする。我々はサッポロビールをしこたま飲んだ仲だしな」と屈託なく笑った。
 言われて月島もビール工場の辺りを思い出した。そうだ、あの時は鯉登を助けて「馬鹿すったれ」と叱られて。そんなこともあったな。顔を見合わせて苦笑いした。「その後」のことを口にするほどは、まだ割り切れない。ましてや、自分が死んだ時期との整合性が取れない、例の誕生日の記憶なんて。
 記憶の擦り合わせをすれば何か判明するかもしれないが、それは今じゃなくていい。今はただ、この人が笑顔でいてくれたらそれでいいと思った。
 月島は鯉登との同居を決心した。



 月島の家は2LDKだ。八畳のリビングダイニングに約六畳の居室が二つある。高校を卒業するまでは父親と1DKのボロアパートに暮らしていたから、新築マンションは自分には贅沢品だと思った。持ち家なんて分不相応、自分には必要ないと思い込んでいたのに、その頑な価値観が一変する要素が一つあることに気がついた。
 風呂の広さが賃貸の二倍もある。
「マンションを売っているんだから、自分も買って住んでみるのも仕事の一環」であると購入に踏み切った。もっとも、鶴見や尾形らには動機はバレていたが。



「お前の家には物がないな」
「鯉登さんは物が多すぎです」
 引越し初日、荷物の搬入中の会話だ。かつてのやり取りを彷彿させ、どことなく感慨深くなるのも束の間。鯉登に割り当てた物置だった部屋に、荷物を入れたらベッドを置くスペースがなくなったと訴える。
「荷物を送り返してください」と月島が迫る。
しかし彼はどこ吹く風で、考えを巡らしている。「……あ、そうか!」
 何かをひらめいた様子で、ポンと手を打ち翻る。引越し業者に指示し、鯉登は月島の寝室に自分のベッドを運び入れるよう業者に指示した。
「ちょっと鯉登さん、やめてください」
「なんだ、一緒の寝室だと何か都合が悪いのか?」
「いや、それは……」
「誰か泊まりに来るのか?」
「そういうことではないのですが……」
「ふん、では問題ないな」
 鯉登は広角を上げる。が、なぜかあごを上げて見下す目線をして、どことなく楽しそうだ。なぜそんな勝ち誇った顔をするんだ。俺とは違い、自分はモテるという自慢か? なんだか面白くない。月島は口を真一文字に引き結ぶ。胸のあたりが騒つくような。動悸か? 月島は胸に手を当てる。鯉登はと言うと、そんな複雑な心境はいざ知らず、寝室に運ばれたベッドに腰掛けていた。
 いや、本当に何だこれは。
 友人同士がルームシェアするにしたって、寝室が一緒だなんて話は聞いたことがない。それともあれか。寝室を同じにするということは、そういう意味なんだろうか。
 月島は頬が火照ってきた気配がして、熱を逃すように小さく息を吐いた。前世で恋仲だった記憶はない。でもなぜだか頭の中に存在する、長い年月を寄り添って過ごす日々。
 月島は実はサーカスを調べてみたことがある。すると例のサーカス団は、昭和初期に実際に来日公演していた。ということは、少なくとも二十五年は一緒にいた計算になる。自分が覚えていないだけで、体の関係があったのだろうか。
 月島の胸は再びざわついた。まるで畑の麦穂が風に煽られる時のような音がしそうで、そのうえ体の奥が発火したように熱くなる。病気か?
 鯉登はベッドの弾力を確かめるように、上下に弾みをつけて遊んでいる。そうしてスプリングを確かめた後、寝そべった。ひとしきり堪能してから起き上がり、寝室の隣の居間へ出て行った。気ままに振る舞う鯉登を目で追いながら、月島は値踏みでもするかのように彼を見ていた。背は高い方だ。百八十あるだろう。細身の割には筋肉がありそうだ。姿勢が良い。今生でも剣道をしているのかも知れない。顔の造作は言わずもがな。それになんだかいい匂いもする。
女から見て魅力的な男ならば、男から見ても魅力があるのだ。色気のある中年俳優や男性ミュージシャンに対して「この人になら抱かれてもいい」とうそぶく同性ファンは、珍しくない。……俺は、一体何を考えているんだ。
 激しく後悔した。心の中で鯉登に懺悔して、見透かされないようにキッチンへ避難した。
 業者が荷解きを終わらせるのを見届けてから、鯉登は居間のソファに体を沈める。
「いい部屋だな」
 作業が終わったのは午後六時。居間の掃き出し窓から茜色に染まる空が見えた。南西向きのマンションの前は道路を渡れば公園で、遮る建物が少なく見晴らしは中々のものだ。空が広く見える。二人分のコーヒーを運ぶ月島を見て、鯉登は目を細める。
「ありがとう、月島。コーヒーを飲むのは、実は五年ぶりだ。トイレが近くなったらすまない」
「好きじゃありませんでしたか? 飲む前に言ってくだされば良かったのに」
「嫌いじゃない。むしろ好きな方なのだが、ワインの味が分からなくなるから避けている」
 寸暇、月島は言葉を忘れて呆けてしまった。数秒して目を丸くする。すごい。こうして努力を重ねる姿は尊敬できると感動した。でも月島は素直にその気持ちを表すことができずに、淡々と受け応える。
「なるほど、以後気をつけます。他に避けている食品はありますか?」
「カレーも食べていないんだ。香辛料で味蕾が鈍る」
 月島はいっそう驚く。カレーはよく作るメニューだ。参ったな。でも次の瞬間、なんだかやる気が漲ってきた。こんなに努力している鯉登のサポートが自分にもできるのなら、それは自分自身の糧にもなると感じた。
 他人と暮らすのは煩わしいばかりではないのだ、きっと。



 六月から突然始まった鯉登との同居生活だったが、実は奇妙なほど問題なく続いた。彼のペースに振り回されて少し苛つくことはあっても、素直に謝ったり反省する姿も以前と同じだった。札幌で二年間単身生活をしていたから、身の回りの自分の世話もできるようになっていた。それに寝室を同じにした件も、誤算があった。眠る前、一日の終わりに「おやすみ」と鯉登が笑顔を向ける。すると月島はほんわかと穏やかな気持ちになって、眠りにつくことができた。ああ、家族とは本来こういうものなのか。こんなふうに鯉登から教わることも多々あった。これが続いていくのは、悪くない。
 二人の共同生活は、清く正しく美しく、寝室が一緒でもセックスすることはなく。
「……」
──よく思い出せ、俺。そもそも電話で若山不動産社長のセクハラ被害者同士、意気投合したのがきっかけだったじゃないか。今はもう男だけの集団生活をしている訳でもなし、そもそも同性は恋愛対象ではないのだ。
 正直いうと、肩透かしを食らった気がしていた。月島はそんな自分を戒めた。知らぬうちに浮かれていた。馬鹿だった。俺たちはそう、ただの旧知なんだ。



 そうして半年が過ぎ、十二月に入った。ふたりはベッドに入る。月島がライトを消そうとしたところで、鯉登がおずおずと切り出した。
「月島、私の誕生日を祝ってほしい」
「え、いつですか?」
「知らなかったのか。十二月二十三日だ」
「クリスマスの前々日なのに、省略されなかったんですね」
「省略とは何だ?」
「十二月二十三日ではなく二十五日に纏めてお祝いされたんじゃないか、という意味です」
「月島……、我が子の誕生祝いを、イエス・キリストの誕生祭と一緒にする親がいるのか?」
 鯉登は心なしか青ざめている。そう来たか。やはり彼の親と自分の親はまったく違う人種のようだ。「俺なんか何のイベントも近くはありませんが、すべて省略されましたよ。……あ、エリプリルフールがあったか」
 月島が投げやりに暴露すると、鯉登は眉を歪める。
「……月島、そげん悲しかことは言わんでくれ」
 自分のことでもないのに、鯉登は今にも泣きそうに目を赤くしている。
「すみません、あなたの誕生祝いの話をしていたのに」
「いいんだ、話してくれてありがとう。今度の月島の誕生日は盛大に祝うぞ」
 鯉登は気を取り直して笑顔を向ける。しかし月島は笑えなかった。忘れもしない、半年前。この部屋に上がり込んだあなたは、ルームシェアする条件として、こう言ったじゃないか。
『来年の三月末まで、九ヶ月間だけだ』
 俺の誕生日は四月一日だ。その日、あなたは日本にいないじゃないか。
 俺の誕生日は四月一日だ。その日、あなたは日本にいないじゃないか。

二、鯉登の誕生日

 はあ、と月島はため息を吐く。夜の電車の扉の窓には、自分の顔が映っている。気疲れしているな。この二週間、何度ため息を吐いただろうか。自分は生まれたことを祝われない人生だったと告白したら、なぜか互いに祝い合う運びになってしまった。
 昔の記憶を手繰り寄せる。ボンボンだったということしか思い出せない。
 そして現在の彼の持ち物を観察しても、欲しい物がちっとも分からない。スーツは当然オーダーメイドだ。昔馴染みの店──その昔、軍服を仕立ててもらっていたらしい店の服だ。革靴・鞄・傘にジーンズも、それぞれの専門店に注文しているという。それから腕時計は祖父の形見だ。よくある既製品しか買わない月島とは、別物の人生を送っている。異世界の住人ではないかとちょっと思う。
 要するに何が欲しいのかさっぱり分からない。そこで直接聞いてみることにした。晩ご飯の最中だった。
「鯉登さん」
「何だ?」
「二十三日のプレゼ……」
「聞くな! 後生だから聞かないでくれ!」
「え……」
 月島は呆けた。後生だからって、そんな殊勝な台詞が鯉登の口から出てくるなんて予想もしなかった。でも、なぜ聞いたらいけないんだろう。一番ほしいものをもらうのが、一番嬉しいだろうに。こんな調子で質問されることをあまりに強く拒むので、月島はこれ以上何も聞けなかった。
 食事の後片付けが終わり、鯉登は一時間ほど動画を見ていた。それが終わると、先に入浴するように伝えた。さて本人がいない隙にプレゼントを検索してみるか。まず二十代男性に適したプレゼントだ。
キーケースやベルトの写真が掲載されている。が、それらは間に合っている。変わり種ではマッサージクッションだ。椅子の背もたれに置いて、腰に当てて使う簡易的なマッサージ機だ。これならまあ、悪くはなさそうだ。しかしまだ若いから、腰の不調を訴えるような様子なんかない。却下だ。参考にならない。
 次に検索結果に出てきたのが、夫婦間の贈り物だった。金婚式だとか銀婚式、あるいはスイートテンダイヤモンド。なぜあんなしきたりがあるんだろうと不思議だったが、やっと分かった。決まり事があった方が、贈り物をする方としては便利だ。確か結婚一年目から何を贈るか決まっていたはずだ。月島は調べた。すると一年目は紙婚式──アルバムや手帳を贈ることが習わしだ。そして二年目は藁婚式――。
「藁?」
 月島は思わず声に出して驚く。真っ先に思い浮かんだのが藁人形だったからだ。が、それは「質素倹約をしましょう」という意味合いらしい。なるほど。明治時代に鯉登が官舎の月島の部屋にやってきた時、官給品の藁布団を珍しがっていたな、と思い出した。そこでふと我にかえる。「そもそも恋人でもないんだが」
 誰も見ていないのに、焦ってアプリを閉じてしまった。目を閉じて目頭を指で押さえる。長くスマホを見ていたせいで、目が疲れた。ソファの足を背もたれにして、床に座り直す。
 ローテーブルに置くタブレットでは、動画の続きが再生されている。さっきまで鯉登が見ていたフランスのドキュメンタリーの関連番組だ。番組の途中でCMが挟まれる。ひと頃は怪しげな頭髪用サプリメントばかり流れていたが、今はテレビと同じCMを見るようになった。スマホに生命保険、それからシャンプー。月島は見るともなしに見ていたら、ふと思い出した事柄があった。
『物より思い出』
 とある自動車のCMだ。そうか、品物以外だとすると、何かの体験をプレゼントする、だよなぁ……。
 月島はつらつらと考える。まず旅行。これはあらかじめ「有給取ってください」と伝えておかなければならないから、当日のサプライズにはならない。第一、あと半月後だ。ホテルや旅館の予約はもう無理だろう。次に考えたのは、スポーツだ。スキーやスノボを一緒にやるのは楽しいかもしれない。が、これも旅行と同じで宿泊先の予約が必要だ。却下だ。映画鑑賞は誕生日という気がしない。じゃあクラシックのコンサートとか? 話をしたことはないが、鯉登はクラシックも嗜んでいるかもしれない。それに年末はそういう演奏会が多そうだ。「でも、俺が眠ってしまうな……」
 月島はまったく未知の分野だ。隣でいびきをかいて眠っていたら台無しだ。止めておこう。美術館やプラネタリウムにしたって普通のデートだ。
「ああ、もう何も思い浮かば……。そうか、年末だからイルミネーションか」
 近年、十二月の恒例となったクリスマスマーケットというイベントがある。期間中はホットワインが振る舞われる。鯉登のお勧めを一緒に飲むのもいいなと思った。思い返せば、鯉登からワインについて詳しく聞いたことがない。自分には縁のない分野だと思い込んでいたからだ。ちょうど良い機会だ。月島は再びスマホを取り出して検索する。この辺りで大規模な飾り付けをしている場所はどこだ? 六本木ヒルズに日比谷公園、それからスカイツリー。他にも有名どころが数箇所あるが、さてどういうのが好みだろう? 細かい違いを較べているうちに、月島は訳が分からなくなり、あの口癖が出かかった。「……」
 ああ、これだけは言いたくなかったんだがな。月島は心の中で言い訳した。俺はやっぱり誰かを祝うことに慣れていないし、選択肢が多過ぎてめんどくさい。
 月島は背伸びをして、そのままの姿勢で後ろにばたんと倒れた。仰向けに寝そべる。天井の蛍光灯が眩しい。イルミネーションか。この星々の再現は、明治時代にも都会でなされていた記憶がある。
「……あ! 本物」
「どうしたんだ? 本物?」
 風呂から上がってきた鯉登が、月島の独り言を問い返す。
「い、いや、何でもないです。さっきの動画の感想ですよ。本場は違うなと思って」
 誤魔化すために、先程の動画の感想を述べると、鯉登は「ふふふ」と嬉しそうに笑った。
「いつか月島にも私が作ったワインを飲んでもらいたい」
「……ワインを?」
「そうだ、月島はワインは好みではないか?」
「いいえ、そんなことはありません。六月に出席した結婚式で、スパークリングワインが出されたんですよ。あれは本当に美味しかったです」
「どこのやつか覚えているか?」
「いや、覚えてないです」
 苦笑いでごまかした。それでも鯉登は笑みを深める。それにしても、そんな企みがあったのか。月島は感心してしまった。それより何より、突如ひらめいたこと。
 本物の星空を見に行こう。鯉登へのプレゼントが閃いた瞬間だった。



 どこまで行けばきれいな星空が見られるだろう。明くる日、月島は昼休みに検索に勤しむ。千葉や神奈川でも大丈夫だろうか? 福島や山梨だと名所が確実にありそうだな。
「山梨、……精進湖か」
 掲載されている写真を見ると、湖の奥に青木ヶ原樹海、その奥に富士山がある。そして、それらの上空に星空が広がっている。富士五湖の中では一番小さく、付近にはスキー場以外の目立つレジャー施設は無いと書いてある。夏はキャンプや釣り客がそれなりにいるようだが、冬の夜は混雑しない様子だ。あまり大袈裟すぎず、かといって日常とは違う。決めた、ここにしよう。
 車だと中央道を走って約二時間。当日は定時で上がって車を借りて、鯉登が帰宅したらすぐに出よう。無料の駐車場はあると書いてあるから、飽きるまで眺めてそのまま車の中で一眠りして。毛布か寝袋を積んでおこう。そして早朝に帰れば、始業時間には間に合うだろう。
「いや、車を返しに行かなきゃならんな」
 レンタカー店が朝八時に開くから、返してからだと始業時間に間に合わない。俺だけ二十四日は休むか。それに慣れない道の運転で疲れているだろうから、ゆっくりしようと決めた。鯉登が予約したと言っていた、クリスマスケーキやチキンを受け取りに行ってもいいだろう。我ながら良いアイディアだと思った。
 社会人になり二十四〜二十五日に休んだことはなかった。小さい子供のいる社員や若い者に譲りたかったからだ。それに「恋人と甘い夜を過ごします」とアピールしているようで恥ずかしい気持ちもあった。恋人ではないけれど、記憶に残る日にしたかった。せっかく縁があって一緒にいるのだから。「まあ、九ヶ月間だけの同居人だけどな……」
 ハッとした。なんと恨みがましいのだ。月島は一人で恥入る。これは見返りのためではない。鯉登がこの世に生まれてきてくれたことを、純粋に祝う行事なのだ。
 翌日。
「二十四日に有休取りたいんですが」
 終業直後、課長の菊田に許可を願う。すると菊田はカレンダーやタスク管理アプリをざっと見て「来客とか会議の予定ないんだろ? 構わねえぜ」とあっさり承認してくれた。
「ありがとうございます」
「でもさー、月島もかわいいところあるじゃん。いつから付き合ってんだ?」
 菊田は頬杖をついて、にやにやしながらこっちを見ている。
「いや別にそういうのとは違いますから」
「またまた〜、月島もいい年なんだし、別に隠す必要ないだろ?」
 努めて平静に言い返したつもりだったのに、菊田にまで心のあやを読まれてしまい、決まりが悪くなる。何も悪い事をしていないくせに、交番の前だと緊張する輩のようだ。何はともあれ休日をもぎ取った。月島はその日、帰宅してからレンタカーの予約と冬用の寝袋を二つ注文した。そして何度となく行き先をストリートビューで確認した。決して鯉登には見られないように。



 十二月二十三日。
「前山、帰るぞ!」
「あっ、はい」
月島は前山の腕を引っ張り、定時きっかりにタイムカードを切る。
「じゃ、後で」と月島は手を挙げる。
「ええ、待ってます」と前山はにこやかに答えた。
 会外に出ると月島は駅とは反対の方へ走って行った。駆けて行った先はレンタカー店だ。車を借りて、前山の自宅へ向かった。注文していた冬用シュラフを回収しに行くのだ。自宅に置いておくとすぐに見つかりそうだったので、前山の自宅に送ってもらったのだ。
「迷惑かけたな」
「気にしないの」
 ニコニコと前山に見送られて、月島は車で帰宅した。鯉登が会社から帰るのを待つ間に、ペットボトルの水や毛布、簡易トイレを積み込んだ。さっとシャワーを浴びて準備万端だ。そわそわして見るともなしに二十四時間天気予報チャンネルを見る。
カチャ、とドアの開く音が聞こえた。玄関へ向かう。
「お帰りなさい」
「ただいま。月島、今日は早かったな」
「あなたの誕生日ですから。さあ、手短にシャワー浴びてきてください。山梨まで出かけますよ」
 月島の言葉を聞いて、鯉登の表情は蕾が開いていくように華やいだ。



「夜のドライブは楽しいな」
 鯉登の声は弾んでいる。今日のミッション『鯉登に喜んでもらう』は、どうやらクリアできそうだ。月島は胸を撫で下ろす。我ながら妙案を思い付いたものだな、とほくそ笑む。それに開演時刻があるでもなし、到着時刻も気にしなくていい。また好きな時間に帰っていい。ここで一般道から中央自動車道に乗る。浮き立つ気分の月島は、速度制限いっぱいまでアクセルを踏んだ。
「月島、眠くなったら運転を変わるからな」
「あなたペーパードライバーだと言ってたじゃないですか」
「キエッ」
 車は加速する。まるで自分たちを縛り付ける日常から、逃避行をしているかのように。しかし縛りつけているのは他でもない、自分の中にある過去の記憶だ。不意にサーカスを観に行ったあの日の出来事がよみがえる。俺の誕生日、か。
 俺は、彼に見返りを要求しているのか。それに思い至ると、自分に嫌気がさした。もっと純粋な気持ちで祝えないのはどうしてだ?



 高速を走ること約一時間、時刻は午後八時。談合坂サービスエリアに寄ることにした。ここで腹ごしらえだ。レストランの入り口にあるメニューには、味噌ラーメンが一際大きく載っていて目を引く。味噌の種類は「甲州」か「北海道」から選べるようだ。思えば、鯉登と暮らし始めてラーメンをほとんど食べなくなった。なんとなく、彼が食べ慣れていない気がしたからだ。
「俺、味噌ラーメンにします」
「私も」
 食券を店に差し出す。しばらくして出来上がるとカウンターに取りに行く。味噌はそれぞれ別の地域を選んだ。鯉登は甲州、月島は北海道だ。
「実は俺、北海道へは行ったことがないんです」
 月島は子供の頃から、家族旅行や帰省にも縁がない。
「そうだったのか」
 鯉登は相槌をうつ。が、それは珍しく感情がこもっていない。
「はい。いつか行ってみたいです」と話を結ぶ。「鯉登さんと一緒に」と本当は言ってみたかった。でもそんなのは、とうてい無理だ。伝えたい本心を飲み込んで、腹の底に澱のように積もらせて。そうすることが増えてきた。出会ったばかりの頃が、遠慮なく伝えていた気がする。それはどうしてだ?



 腹が膨れると、鯉登は土産品を物色し始めた。まだ目的地に到着してもないのに、と月島は苦笑する。数分して「甲州ワインだ」と白ワインを手に戻ってきた。
「買います?」
「ああ、帰ったら開けよう」
 ワインなら、クリスマスの食事にも合うだろう。早くも明日が楽しみになってきた。単純だな。月島はこっそり苦笑いした。車に乗り込む。「迷わなければ、一時間後に着くはずです」
 それからしばらくは会話が途切れた。月島はラジオを聞くともなしに聞いていた。鯉登が珍しく黙っている。眠ってしまったのか。ルームミラー越しに様子をうかがうと、窓の外を見ている。鯉登はおもむろに問いかけてきた。
「なあ、月島ぁん。さっきから5296というナンバーの車を何台か見かけたが、何かの縁起担ぎか?」
「ああ、それ私も疑問に思って会社で聞いたことがあります。○ブ○ロというアーティストのファンがそのナンバーにしているそうですよ」
「なるほど、語呂合わせか」
「ええ、だから車をよく見ると、リアウィンドウにステッカーも貼ってあります。それと二〜三年前から、0808や0358もよく見かけます」
「それも誰かのファンか?」
「アーティスト名ではなく、エンジェルナンバーと言うそうです」
「エンジェル?」
「私も詳しくはありません。会社で聞いただけなので。要はラッキーナンバーです」
「ふむ」と気のない返事をして以降、鯉登は黙りこくってしまった。ミラー越しに彼を見ると、視線は窓の外に向け口をへの字に曲げて、不機嫌そのものだ。どうしたんだ、急に。ヘソを曲げるようなことをしたか? 皆目見当がつかない。こういう場合、触らぬ神に祟りなしで放っておくのだが、今日は彼の誕生日なので月島から折れる事にした。
「鯉登さん」
「……」
 一分待っても返事がない。珍しい。本当に拗ねているらしい。だから心を砕いて聞いてみる。
「鯉登さん、急にどうしたんですか」
「……その、エンジェルナンバーとやらを聞いたのは、女子社員か?」
「違います。尾形ですよ」
「はあ? 尾形とそのような話をしているのか?」
 鯉登はさらに機嫌を損ねた様子だ。しくじった、と月島は後悔した。どこぞの女子社員より、鯉登にとっては尾形の方が気に食わないらしい。
「尾形は勇作殿からエンジェルナンバーを勧められたと聞きました」
 月島がさらりと事の経緯を話す。同時にミラーで彼の様子を確認する。すると彼の表情はパアッと変化した。「なるほど! 勇作殿からか」
 腕組みしてうん、うん、と大袈裟に頷くのを横目で捉える。納得したのか、それきり尾形の話をしなくなった。鯉登家は花沢家と親交があるだろうから、尾形と勇作も切っても切れない関係性だと承知しているのだろう。作戦成功だ。尾形とは砕けた話をすることはあるが、それはあくまでも後輩として、だ。友達とは違う。それは月島の方から尾形と親しくするのが嫌なのではなく、彼が誰に対しても壁を作りたがる性質だからだ。そうして、自分で築き上げた壁を乗り越えてやって来る人間を待っているのが尾形だ。
鯉登に昔の記憶があるなら、尾形の複雑な心境も知っているはずだ。妾の子という出自以外で、相容れない性質があるのかもしれない。出自なら俺だって褒められたもんじゃない。でも、現にこうして懐かれて、あまつさえ嫉妬とか……。月島は唇を噛む。俺たちは別に付き合ってもないのに、と。
 正直言うと、こういうどっちつかずの態度を取る、鯉登のことが少し面倒くさい。いっそのこと、独占欲丸出しにしてくれたらいいのに、とすら思う。犬も食わない話になるが、月島は束縛されるのが実は嫌いではない。ただ嫉妬や独占欲は、恋とはイコールではないことも知っている。微妙な距離感は微妙なままで、半年が過ぎた。
 すっかり気を取り直した鯉登が、車のナンバーに話を戻す。
「それらの番号はいまいちピンとこないな。……私ならそうだな、1が良い」
「1ですか」
「どういう理由か分かるか?」
「さあ? 何でしょうか」
「全く気のない返事をしおって。聞いて驚け。『はじめ』だ!」
 勢いよく正解を披露する。きっとドヤ顔をしているに違いない。見なくても声の調子で見当がつく。それにしても俺の名前を車に付けたいだなんて、勘違いしそうになるじゃないか。頬が緩んで声が上擦りそうになり、咳払いで誤魔化した。そうして困った振りをして、自分自身に対しても言い訳をする、本当に面倒な男が俺だ。面倒くささ加減では、鯉登どころではない。
 本心を隠して、落ち着き払っている演技で、至極一般的な意見を述べる。
「1番は競争が激しいでしょうね。希望番号は抽選だから、取得に時間がかかりそうです」
ところで「音之進」は数字に変換できるだろうか? 月島はひとしきり考える。けれど、数字に当てはめようとしても、四桁じゃ収まらない。
すると鯉登も同じように思考を巡らしたようで「鯉登なら5110か? 510でもいいな。それなら我々の車のナンバーは5101だな!」と屈託なく宣言する。
それを聞き、月島は口から心臓が飛び出しそうになった。え、ちょっと待て。それだと「鯉登基」になるんだが。聞き捨てならないフレーズに、月島の耳は激しい鼓動でいっぱいになる。俺の心臓、うるさい、落ち着け。耳や頬も熱を帯びてきたから、今が夜で良かったと月島は安堵する。友人としてもっと打ち解けていたならば「それだと鯉登基になるじゃないですか」と突っ込みを入れられるのだが、こういう時に冗談として流せなくて困り果ててしまう。どういうつもりで言ったんですか。本心を聞きたいのに聞く勇気が持てない。多分最後まで、きっとこのまま。来春の別れを想像すると、胸が締め付けられた。そうして浮つく心を引き締めた。



 サービスエリアを出発して、四十五分が経過した。河口湖インターチェンジで高速を降りる。さてここからが本番だ。月島は気を取り直して気合を入れる。運転に集中するのだ。カーナビは家々が密集する狭い路地を案内することがあるし、目的地手前でなぜかナビを終了することが多々ある。しかし迷子になるのは今日だけは避けたい。お祝いが台無しだ。ナビの案内を勘違いしないように、道路標識にも目を凝らす。
「富士山がすぐそこだな」と鯉登が感嘆する。闇の中でも雪帽子が見える。そして青木ヶ原樹海の看板の次に、精進湖の案内が見えた。右折して数分すると湖が広がっているのが見える。
「湖だ!」
 鯉登は子供のようにはしゃいだ声を上げた。近くのスキー場の灯りが湖を照らしている。そこから周りを約半周。ついに精進湖駐車場へ到着した。
「着きました」
「運転ご苦労だったな、月島。ありがとう」
 降りて辺りを見渡す。車は数台停まっており、無人ではない。が男同士であっても気兼ねしなくて良さそうだ。空を見上げる。天気は上々だ。ゆっくり移動する薄い雲があるだけで、細い三日月が見えるだけだ。あのか細い光なら、他の恒星の妨げにはならないだろう。そして月島は、ここへ来た理由を説明した。
「都会のイルミネーションも綺麗ですが、どうせなら本物をと思いまして」
「ありがとう、月島。長く都会に住んでいたから、星を見ることも忘れていた」
 鯉登が弾けるような笑顔を見せるから、月島は照れてしまった。だから照れ隠しに空に視線を移した。鯉登もつられて見上げる。車に背をもたれかけ、しばらく無言で見ていた。
「あッ、流れ星だ!」
 鯉登が沈黙を破る。彼の指さす方を見たが、すでに消えた後だった。
「十二月はふたご座流星群だったな?」と鯉登が聞いてくる。
「詳しいですね」
「そんなことはない。昔の知識はもう使わないから、だいぶ忘れてしまった」と苦笑いする。車の中からスマホを取り出して調べてみる。流星群の一番の見頃は先週で、それでも今月中ならば普段よりは流星が多く見られるようだ。十五分も経たないうちに、また流れていく星があった。今度は月島も見ることができた。実際に目にするのは何十年ぶりだろう。それから鯉登は、滔々と星座の見つけ方を手解きする。
「オリオン座のベテルギウスがあの赤い星だ。その下におおいぬ座のシリウス。一番明るい星だ。そしてそれらの上にあるこいぬ座のプロキオンを結ぶと冬の大三角形だ」
 それら目立つ星を足掛かりに、他の星座を探していく。オリオン座の斜め上にある星の集団がおうし座にあるすばる、その近くにあるぎょしゃ座。そこから左隣にあるふたご座も見つけやすい。双子といえば──。
「二階堂」
 二人同時に声に出した。鯉登と月島は顔を見合わせて笑った。懐かしい。月島はかつての仲間の顔を思い浮かべる。
「そういえば浩平にも洋平にも、俺は会っていません。この時代に生まれていないんでしょうか?」
「杉元が会ったと話していたぞ」
「そうなんですか?」
「ああ、高校生だったそうだ」
 今から二年前、彼らが修学旅行で北海道を訪れていて、会ったらしい。
「二年前に高校二年なら、今は大学生ですかね?」
「多分そうだろうな。私の方が奴らより歳上というのは、なんとも妙だなと思った」
 年齢は明治時代と比べると、各々微妙に違う。鯉登と月島も十歳差だ。
「私の記憶が正しければ、我々は若干年が近くなりましたね」
「……ああ、そうだな」
 鯉登の返事が遅れたのが、少し気になった。
 そうして三十分間、空を見上げた。そして首が疲れたから休憩を挟む。自動販売機でホットドリンクを買う。それからまた一時間ほど眺める。東の空から西の空、北も南も網羅して、鯉登が満足気な表情をしたから今夜の天体観測はお開きとなった。
 時刻は午後十一時。運転席と助手席のシートを倒してシュラフを置く。氷点下でも寝られる冬用だ。今夜はこれに包まって眠る。
「月島ァ、いつの間にシュラフなんて用意していたんだ」
「実は購入してから前山の家で預かってもらっていました」
 そう種明かしをすると、鯉登が困ったような顔をする。だから月島は「前山を覚えていませんでしたか?」と上目遣いに聞く。
「いや、覚えているぞ。今でも仲が良いのだな」
「はい、私は友人が少ないですから、貴重な仲間の一人です」
 ふと鯉登がシュラフから腕を出して身を捩る。何をするのかと思ったら、ドアポケットに入れていたスマホを取り出した。やがて音が聞こえ始めた。ピアノの音だ。続けて男性の歌声。何かのアプリを起動したのだ。
「音楽なんて久しぶりに聞きます」と月島がつぶやく。
「電車では何も聞かないのか?」
「はい、寝てます」
「ハハ、月島らしいな。社用車では? 時々は乗るんだろう?」
「ええ、車だとラジオは聴きますが」
「そうか、私もそんなに聞く訳ではないが、昔の曲をふと思い出してな」
 今流れているのは、車の中で恋人と手をつないで眠る曲だと言う。名曲だというが、月島には聞き覚えのない曲だった。「疎くてすみません」
「いや、月島の世代よりは上だ。たぶん私の両親が若い頃に流行ったのだと思う」
 それきり話はせず、二人で静かに聞き入った。終わると次の曲が始まった。声が違うから、違うアーティストの曲のようだ。
 いつも家では寝室は真っ暗にして、無音じゃないと眠れない。でも今夜は子守唄に聞こえてきて、目を閉じると深い眠りが訪れそうな気配が忍び寄る。このまま、朝まで──。
何かが腹に当たる。パッと目を開ける。何事だ?
 鯉登だった。「手はどこだ?」と言いながら、月島のシュラフの上から探り当てようとして、めくらめっぽうに触る。
「ちょ、ちょっと止めてください。ふ、く、くすぐったい」
 でも艶っぽさはまるで無く、犬が地面の下にいるもぐらを必死に探しているのに近かった。月島は観念して左手を差し出す。「はいどうぞ」
 鯉登の右手と左手をつなぐと「ふふ、歌と同じだな」と彼が微笑む。そうか、さっきの曲の歌詞と似たシチュエーションだ。ただ、つないでいると言っても、そっと重ね合わせているだけ。握っているとは言い難い、幼い触れ合いだ。なんでこんなことをするんだろう。歌詞の真似事をしたかった、それだけなんだろうか。
「すみません、鯉登さん。さっきの曲をもう一度聞かせてもらえますか?」
「ああ」
 歌はこう続いた。車で眠ったその瞬間が、ニ人にとって一番幸せだった、と男が思い出している風だ。不思議だ。二人で眠ったのは「昨日」だと歌っているのに、懐かしい過去を振り返るような雰囲気を醸し出している。──それとも、別れの予感がすでにあったのだろうか。月島は自分たちに重ね合わせて切なくなる。
「月島、起きてるか?」
「……ええ、起きてます」
「寝言、なんて言ったんだろうな?」
 彼女の寝言を聞いたと男が歌う。それが何となく気になっていたと鯉登は話す。
「なんでしょうね……、名前を呼んだんでしょうか」
 好きだったらきっと、名前を呼ぶと思う。月島の夢に鯉登はよく出てくる。それは好き嫌い以前に単なる日常の延長で、二人で家事をしていたり日曜日に買い物をしていたり。
 ふと月島は思う。鯉登と寝室を共にして六ヶ月。俺は、眠っている間に何か取り返しのつかないうわ言をもらしていないだろうか。例えばそう、昔の有名な小説の一説のように、こんなに思っているから、きっと秘密を口にして──。
「……」
 すう、と冷えた空気が撫でていった気がして、月島は正気に戻る。重ねていた手を離して、月島はシュラフに戻そうとした。その瞬間に、手が動いた。
 指の間に鯉登の指がぐいと食い込んで、月島の手をぎゅっとシートに押さえつける。ああ、恋人つなぎだ。意外と指の間が痛い。男同士だからだろうか、と月島はことさら色事とは違う方向に思考を向けた。でも鯉登がそれを許さなかった。大きな手で包み込む。包容力を示すかのように、また、月島の迷いや憂い、期待の何もかもをなだめるように。
 月島はまるで心臓を鷲掴みにされた心地がした。胸をぐらぐらと動揺させながら、鯉登に目をやった。すると彼は隣から身を乗り出して、ゆるりと顔を近づける。月島の半身は彼の影と重なる。暗がりになるから一際大きく見開き、彼のまなじりを見つめた。いつも横に分けている前髪が、目にかかっている。その下にある両の瞳は、外からの心細い灯りを僅かに照らしている。いつも感情を豊かに語る、その切れ長で大きな双眸。そこには今、自分だけが映っている。それならば、いま彼の気持ちを独り占めしているのは、俺なのか。まさか、そんな。
 月島は鯉登の瞳に映る自分の姿に、懸命に目を凝らす。──眉をひそめた困惑顔に近いと思った。どうしてこんな、今にも逃げ出したそうな表情をしているんだ。本当は、ずっとこの瞬間を待っていたくせに。彼が誤解しないように、早くこの気持ちを伝えなければ。
 額や背中にどっと汗が滲み、月島の全身を血がどくどくと駆け巡る。何か言おうとして口を動かそうとすると、唇に射るような視線が刺さる。言葉を発するために口を開くこと、指の一本すら動かすのを許さない。そう言わんばかりの鯉登の真剣さが、まるで野生の肉食獣の狩りだと感じた。何時間でもこのままの姿勢で待ち、獲物が精魂尽き果てた後に喰らい尽くす──そんな無残な己を想像した。
 こんなに睨まなくても逃げないのに。だから月島は同じくらいの力で手を握り返すと、鯉登の瞳が僅かに揺れた。俺も、きっとあなたと同じ気持ちです。そう伝えるつもりだったが、ひょっとしたら動揺したのかもしれない。
 そうか、怖いんだ。こんなに祝福された人なのに。
 空気が動いた。鯉登の顔が近づく。じきに焦点が合わなくなりぼやける。ずっと、彼の呼吸の熱さを知りたいと思っていた。長いまつ毛が自分の瞼をくすぐって──。
コンコン。
 外から音がして心臓が止まりそうになる。勢いよく鯉登が上体を起こす。何だ、一体何の音だ。月島も半身を起こすと、運転席ドアの外に、人影がふたり見えた。目を凝らすと制服姿だと分かった。エンジンを切っていたから、月島はロックを解除してドアを開けた。
「おやすみ中すみません、○○署の捜査官です。昨日この時間帯にあちらの県道で人身事故が発生しまして、検問と同時にこちらの駐車場でも情報収集をしております。少しお話聞かせてもらってよろしいですか?」
 警察官だった。この駐車場に何時頃来たか、逃走車両と思われる車を見なかったか等の質問に答える。しかし鯉登と月島の乗る車は品川「わ」ナンバーだから、詳しい事情は知らないと判断されたようだ。形式的なやり取りのみで、すぐに終わった。
 警察官は「ご協力ありがとうございました」と言って、停車している別の車へ向かっていった。チラシも手渡されたから、室内灯を点けて見てみる。事件の起きた日時、逃げた車の特徴と連絡先が書かれている。
「早く見つかるといいな」と鯉登がぽつりと告げる。
「ええ」と月島が答える。チラシはダッシュボードに置いて、すぐに室内灯は消した。気持ちがざわつく。体を外灯の光から隠すように、シートに沈み込む。でも暗闇に身を潜めても、気持ちが落ちつかない。本当なら、お互いを遮るものなど何もない状態で、触れ合っていたかもしれない。皮膚とか粘膜とか体液とか、あなたのものや俺のものが一緒くたになって。それなのに、敏感で濡れそぼる粘膜に砂をかけられてしまったようだ。ざらざらして不快で、すぐには払い除けられなくて。
 月島は必死に模索した。警官が運んできた外の空気は、どうすれば一気に元に戻せるのだろう。さっきまであんなに濃密に気持ちが溶けている空間だったのに。
 ここまで近づくのに六ヶ月かかった。彗星の軌道と一緒で、交差するのはほんのひと時かも知れないと思った。これを境に次第に離れていくのか。
 窓の外に目をやり、空を見る。窓越しに星を見るのは難しいけど、月の光なら分かる。はるか昔から地球の周りを回り続ける衛星。けれど実は、月はだんだん地球から離れていると聞いた。星の引力すら永遠ではないのだ。地球から放たれたら月はどうなるのだろう。開放されて独り立ちして惑星の一つになるのか、それとも見放されて宇宙の塵になるのか。
 自分から鯉登に手を伸ばす勇気などあるはずもなく、ただ静かに時が流れるのを待つだけだった。小さく鯉登が息を吐く。ああ、時間切れだ。
「おやすみ」と鯉登が言って、シュラフのファスナーを上げる。
「おやすみなさい」と月島は答える。
 シュラフのファスナーと共に、開け放していた心も閉じた。



 鯉登の寝息が聞こえ始めると、月島は下着の中に手を差し入れた。先ほどつないだ鯉登の手を思い浮かべる。自分よりほっそりとして長い指。しなやかそうな印象なのに、自分と変わらない力と熱を秘めていた。彼の手が月島の下半身に伸ばされて、恐る恐る触れる様を頭に思い描く。月島は黙ってそれを甘受する。指先が陰茎に触れるとぴくりと小さく跳ねる。手に包まれるとその熱が気持ち良くて、かたくなり始めた。でも彼の手もそこもまだ乾いているから、ゆっくりと揉まれる。ひょっとして彼もこんなふうに自分の性器を触るのか。そんな想像をしたらそこはより固く上を向き、先から体液がこぼれ出す。月島ァ、わいのここ、もうこげんなっちょっぞ。鯉登から少し意地悪に性器を責め立てられると、余計に興奮する自分に気が付く。わいの体はいやらしかね。ホラ、ぬるぬるした液が次々垂れてくっど。そうして指で先走り液を掬われて、その指の腹を亀頭に何度も付けたり離したり。すると粘液が糸を引きにちゃにちゃと音を立てる。あ、あん、そこばっかり捏ねくり回さないでください。気持ち良くなりたいくせに快感をやり過ごそうと、体をよじって鯉登の手から逃れようとする。すると彼はにやりとして、竿を強く擦り始めた。感じている姿を彼に凝視されると、快楽が身体中を駆け巡る。思わず「ああ……」と声をもらす。
 月島は自分の喘ぎ声でふと我に返る。快感の強さはそのまま罪悪感となって、自分に返ってくる。
 眠る鯉登さんの隣でオナニーに耽るなんて、本当に俺はどうしようもない男だ。
 射精する前から罪の意識に苛まれ、でもその背徳感にすら興奮を覚えた。すみません、俺は真面目でも純朴でもない。淫らで薄汚い男だ。
 は、は、と短く吐く息が鯉登に気づかれるといけないから、身を縮こませてシュラフで口を覆った。滑る体液が次から次にあふれる。気持ちがいい。もっとぐちゃぐちゃに濡れたい。月島ァ、ホントはここが一番好きじゃろ。裏筋を下から繰り返しなぞられて、腰ががくがくと震え始めた。シートがぎしぎしと軋み始める。
 鯉登の隣で、バレないように自慰をするのは不自由だ。声も出せないし思い切り擦ることもできない。でも月島はその不自由さにも興奮していた。だって、鯉登さんに触ってもらっているみたいで。あ、駄目、もう駄目です、鯉登さん、好……。
「き、……うっ、……あ」
 短く声をあげて達した。左手に出した精液とぬるつく陰茎は、すぐにティッシュで拭いた。まだ中に残る精液が、後で出てきて下着を汚すと困るから、間を置かずに付け根から指でしごいた。「……あっ、く……うっ」
 達した直後の敏感な性器には、過剰な刺激だ。少しだけ涙が滲んだ。後始末を終えたら、強ばっていた体が一気に弛緩する。まだ息は荒くて、それを無理に抑えると頭がくらくらしてきた。聞き耳を立てる。鯉登が気づいて起きていないか、眠っているか確かめる。
 寝息だけが聞こえる。ああ良かった、気づかれていない。ホッとした次の瞬間に激しく後悔した。俺は彼の気持ちを踏み躙る行為をしてしまった、と。友情のままで堪えきれない自分を責めた。
 でも、月島の手を握り覆い被さろうとしたあれは、一体何だったんだろう。聞きたい。でも理由を知るよりも、聞いて納得できずに関係が悪化する方が、耐え難いと思った。
 冴え冴えとしていた意識が急速にしぼむ。鯉登に手をつながれたことは、今夜限り忘れてしまおう。そうしないと、きっとうわ言をもらしてしまう。

三、引っ越し

 すうと鼻の天辺を冷気が撫でていき、月島は目が覚めた。午前五時五十分。日の出は約一時間後だから、東の空がほんのり明るくなり始めている。身じろぎすると鯉登も起きてしまった。
「おはようございます、鯉登さん」
「おはよう、月島」
 彼はひとつ欠伸をして、それからフフと意味深に笑ってシュラフを脱ぐ。それからスマホ画面をこちらに向ける。「検索したんだ。これが見れるかどうか楽しみだった」
外に出た。湖に近づくと、湖面に富士山が逆さまに写っている。
「月島! ほら、逆さ富士だ!」
 条件が整うと逆さ富士が見られると、観光ガイドに書いてあった。早朝がチャンスだというデータが多く、まさに記載の通りだった。鯉登が一緒だから、きっと幸運がもたらされるとの予感はあった。彼はそういう星の元に生まれてきている確信がある。踏みつけられた雑草のような俺とは違う。
 月島は鯉登の横顔を見た。彼の表情や精神にはどこにも翳りが無く、朝から子供のように元気そのものだ。昨晩のことは無かった。それでいい。これまで通り、期間限定の友人のままで。
 はーっと息を吐くと目の前が白くなる。自分にも温かな血潮が流れているのだと感じた。自販機へ行く途中、男性を二人見かけた。彼らは三脚付きの大きなカメラを構えている。レンズの先にあるのは富士山だ。
「おはようございます」と挨拶をすると、爽やかに返ってきた。彼らはいつもこの周辺で自然を撮影しているアマチュアカメラマンだった。「もう三ヶ月経てばこの時刻に天の川が上ってくるから、富士山と逆さ富士、朝日と天の川の共演が見れますよ」と教えてもらった。
「うふふ、見たいものが増えたな」と鯉登が笑う。
「ええ」と答える。
 車に戻ると二人で甘栗を食べた。昨夜、サービスエリアで鯉登が買ったものだ。
「実は甘栗を食べた事なくて」と月島は告白する。
「なんだと? そうだったのか……。甘栗は車の旅には付き物だ」
「そういうものなんですか? でも運転手は食べられませんよね」
 そう指摘すると、鯉登は剥いた栗の実を月島の口元に運ぶ。「ほら」と促して微笑む。戸惑う。でも断る方が不自然な流れだった。おずおずと口を開けると、押し込まれた。
「うまいか?」
 咀嚼して飲み込んでから「はい、ありがとうございます」と礼を言う。人から物を食べさせてもらった記憶なんて、皆無だ。それから鯉登が「月島」と呼び、口を開けて待つ姿勢になった。今度は俺が食べさせるのか。まだ車内は冷えているのに、額に汗が浮かびそうになる。しかし待たせたままだと、彼のプライドを傷つけることになりそうだ。意を決して鯉登の口元に栗を運んだ。「どうぞ」
 放り込んですぐに指を引っ込めようとした。それなのに鯉登は月島の手首を掴み、ぱくりと食いつく。歯や唇が指に当たり驚愕する。手を引こうとすると、それを上回る力で抑えられる。そしてあろう事か指先をぺろりと舐められた。
「な、……なんで舐めるんですか」
 鯉登はしてやったりの顔をして、もぐもぐと噛んで嚥下した後に「月島の指も甘かったぞ」とほくそ笑む。皮の黒ずみで汚れているのに。
「……洗ってきます」と言い置き、素早く駐車場内の手洗いに向かった。しばらく鯉登の顔をまともに見られそうもない。やっぱり昨夜からおかしい。だから月島は湖のそばに立ち、水鳥の様子や湖面の景色、流れる雲を見ていた。富士山は標高が高いから、山を迂回して流れていく雲があるのだと知った。じゃり、と小石を踏む足音が近づく。鯉登だろうと思ったから、振り返らなかった。
「月島」
「はい」
「昨日はほんのこてあいがと」
「はい。そろそろ帰りましょう」
「そうだな。名残惜しいが」
 月島は車を発進させた。湖をぐるりと半周して、青木ヶ原樹海の側を通る。出発して以降、車内は無言だ。寝ているのだろうか? 月島は助手席の様子をちらっと伺うと、起きていた。ずっと窓の外を眺めている。
「眠っていていいですよ」
「こんなに楽しい誕生日だったのに、眠れる訳ないだろう、もったいない」
 喜んでもらえたのが伝わってきた。そう言ってくれるだけでも、来て良かったと思った。高速に乗ると、月島は今日の予定を話して聞かせる。
「私は今日休みを取ったので、ケーキの受け取りに行きます。引換券とかありますか?」
「……。それなんだが、月島ぁん」
「何でしょうか?」
「予約はキャンセルしてしまった」
「……は? なんで」
「だって考えてもみろ。月島の誕生祝いより先に、キリストの誕生祭をする必要がどこにあるのだ?」
 鯉登は月島が「一度も祝われていない」と言ったのがショックだったようだ。はぁ、そういうことか。別に気にすることはないのに。面倒くさくて律儀な人だ。嫌いではない。それどころか嬉しい。でも月島はそれを素直に言えず「はあ」とため息をついた。それが耳に入った鯉登が「ケーキ楽しみだったのか?」と心配そうな声音で聞いてくる。
「いいえ、ケーキもチキンもいつでも食べられますから。私はあなたのそういう行動が、」
「……行動が?」
「昔と変わらずに安心します」
 言葉巧みに本心をすり替えた。そうだ、これでいいんだ。抱き合ったり触れ合ったりするよりも、精神的な絆だけの方が尊いような気がしてきた。
 指を舐める鯉登の舌の熱や滑りを思い起こして、背筋に痺れが走った。こんなの、瞬く間に溺れてしまうに決まっているじゃないか。怒りを抑えられないのと同じで、欲望にも歯止めがきかない体なら、始末に負えない。
 太陽の光や恵みの雨は生きるのに必要だけれど、与えられすぎても駄目になる。とりわけ俺は、少し飢えているくらいがちょうどいいんだ。



 年が開けて一月が過ぎ、二月一日。妙な事案があった。
 その日、月島が帰宅すると、鯉登がすでに帰っていた。
「ただいま戻りました」
「おかえり、月島」
 鯉登は台所に立っていた。夕飯にクリームシチューを作ってくれていたようだ。
「すぐに食べられるぞ」
 月島が手を洗ってうがいを済ませ、着替えてキッチンへ行く。二人ともシチューだけでは少し物足りないから、月島がスクランブルエッグを作った。その間に鯉登がシチューとサラダを配膳する。それから主食だ。鯉登はバゲットを食べるのだが、月島は白米だ。同居を始めた頃「シチューにはバターライスが合うのではないか?」と鯉登に提案されたのだが、丁重にお断りした。生まれ変わっても白いご飯へこだわる姿勢に、鯉登はいたく感銘を受けたようだった。懐かしそうに目を細めたのを折りに触れ思い出す。
「いただきます」
 二人手を合わせて食べ始める。今の時期、月島は繁忙期になりつつある。新人研修内容と入社式の段取りを詰めなくてはならない。一方、鯉登はというと、三月末で退社する意向を伝えたらしい。
「これから引き継ぎをしなくてはならない」と、ぽつりと言う。
「職場の人も残念がっているでしょう」
 すると鯉登は一瞬手を止めて「半々だな」と一言つぶやく。
「そうなんですか?」
「ああ、上司や同僚には私のことを勝手に目の敵にする奴もいる。そういう奴らからは『早く自分の会社に戻ったら?』という嫌味を常に感じていた」
「なるほど、嫉妬ですね」
 職場での男同士の嫉妬はかなり厄介だ。月島は同情した。鶴見の直属だった頃、部下の自分に嫉妬が向けられることがあった。鯉登の立場はとても理解できるものだった。
 それはともかく、鯉登を敵視しない半数の社員からは、きっと残念だとか寂しいだとか言われただろう。さっそく送別会の話があったかもしれない。
 俺はどうやってこの人を送り出せばいいんだろう。
 月島は鯉登との最後の日をどう過ごすか、ちっとも考えていないことに気がついた。すると途端にシチューの味がしなくなって、月島は申し訳なさに一人で焦る。せっかく作ってくれたのに。そんな自分の変化に鯉登は気づいていないのに、誤魔化そうと必死に余所事を考えると、もっと味が分からなくなった。自分が情けなくなった。
 食事が終わると食洗機をセットして、鍋を手洗いする。洗っている間はざぶざぶと水の音がうるさいから、普段は会話をしない。そんな暗黙の了解を破り、鯉登が月島に話しかけてきた。
「月島」
「えっ? もう少し大きな声でお願いします」
「あのな、引越し業者に見積もりに来てもらいたいんだ。今度の日曜日の都合はどうだ?」
「……ああ、はい。大丈夫です」
 いよいよだな、と腹を括る。それ以降は洗い終わるまで二人とも無口だった。洗い終わって月島はタオルで手を拭く。気持ちを切り替えたくて、普段より明るめの声で聞く。
「紅茶を飲みますか?」
「飲む! それとお楽しみがあるぞ月島!」
 鯉登がいそいそと冷蔵庫に向かう。野菜室から箱を取り出す。その形状で中身がすぐに分かった。「え、それケーキじゃないですか。一体何の……」
 今日はまだ二月一日だ。バレンタインデーにはまだ早い。
「今日は一日だ。月島の月誕生日ではないか!」
「つ、月誕生日?」
「そうだ。月島が生まれてから昨年までの分を、祝うのだ。毎月やらねば追いつかんではないか」
「いやそれ月命日みたいなんで、止めていただけますか?」
 気持ちはありがたく受け取りますと言って、月誕生日は丁重にお断りした。思い返せば先月、一月一日にもお節料理と一緒にホールケーキが用意された。月島は驚いたのだが、きっと鯉登家では正月からケーキを食べるのだろうとひとり納得した。が、それは勘違いだったようだ。あれも俺のバースデーケーキだったのか。「新年あけましておめでとう」に「誕生日おめでとう」を巧妙に隠されていたような気がする。
 月島は茶葉用スプーンで二人分を掬い入れて、透明なポットにお湯を注ぐ。一枚、また一枚と茶葉が開く様を月島は眺める。鯉登と暮らすまでは、インスタントコーヒーばかり飲んでいた。茶葉から淹れるお茶は贅沢品であるような気がしていた。花が開くのを早送りで見るような、そんな貴重な瞬間を手に入れたような気がしていた。
 三分して紅茶のカップを持ち、月島は席に着いた。ケーキを半分ほど食べたところで、鯉登が質問する。
「なあ、月島は四月一日は休めるか?」
「入社式があるので休めません」
「そうだったな、月島は人事だから無理か……」
「はい、入社式が終わったらレクリエーションとして集団歩行があります」
「な、なんだそれ?」
 鯉登が眉間にしわを寄せ、怪訝そうに尋ねる。月島は淡々と説明した。
「新入社員と人事課の者が、代々木公園から本社までの二十キロメートルを歩きます」
「二十キロ? それは行軍か?」
 ハハ、と鯉登が愉快そうに指摘する。その的確さに月島は感心してしまった。代々木公園はかつての帝国陸軍の練兵場だったから、あながち的外れではない。こんな風に日常の端々で、昔の経験で意気投合する瞬間がある。月島は思いの外、その一瞬を心の拠り所にしていた。反面、自分とのしがらみなんて、すっぱりと切ってしまえばいいのに、と手放したい気持ちに染まる時もある。
 昔の記憶だけでつながっているわけじゃない。今、俺はこの人と新たな関係を築いている最中なのだから。こうして昔と今を行ったり来たりして、揺れる気持ちに蓋をして。
「休めないなら別のプランを練らねばならんな」
 夕飯が終わると、鯉登が難しい顔をしてスマホをいじり始める。四月一日は一緒に過ごしてくれるつもりだろうか。それからフランスへ旅立つのだろうか。
 しかしそんな月島の淡い期待は、見事に裏切られることとなる。



 三月に入ると雨の日が多くなった。そして降るたびに気温が上がっていった。
 その日は月島が帰りの電車に乗っている時に、雨が降り始めた。窓を打つ雨粒で、横殴りに激しく降っているのが分かる。しまったな、折り畳み傘も持ってないのに。
 駅に着き改札をくぐると走り出す。近くのコンビニへ寄ってビニール傘を買った。しかし小さめの傘では防ぎきれない勢いで降っている。腕や膝から下はずぶ濡れになり、ようやく自宅が見え始めた。すると玄関に大型のトラックが横付けしていた。引越し業者だ。こんな雨の中、引っ越しか。大変だな。
 月島はエントランスからエレベーターに乗り、降りて通路を歩く。そこで、自宅の前が普段とは違う様子だと気が付く。ドアは開け放たれており、毛布やダンボールが見える。人とすれ違った。その男性は月島の自宅から、ダンボールを二箱重ねた台車を押していた。
 何だこれは。これはまるで……。
 玄関に到着する。まるで他人の家をのぞいているようだと思った。玄関や廊下や壁には青い養生がなされており、鯉登がここに入居してきた日と同じ光景が広がっていた。
「こんばんは、作業に取り掛かっております」と作業者から声を掛けられる。
月島も「こんばんは、お疲れ様です」と穏やかに労う。あの人はどこだ? 各部屋を見て回る。寝室で見つけた。「鯉登さん」と声をかける。
「月島……。その、済まない」
 鯉登の口をついたのは「おかえり」ではなく謝罪だった。なぜこんな騙しうちのように姿を消そうとするんだ。しかし恨みを言える立場でもないから「私は外で食べてきますから」と言って、着替えてすぐに家を出た。鯉登はエントランスまで追いかけてきた。が、業者だけ部屋に残す訳にもいかない。すぐに踵を返したようだった。
三十分して電話が鳴る。鯉登からだ。
「月島、今どこにいる?」
「……」
「怒っちょるんか」
「……いえ、そうではないのですが、突然だったものでびっくりして」
「本当に申し訳ない。都合で引越しが早まってしまったのだ。月島に」
「いつ発つのですか?」
「……明日だ」
「じゃあ、家の鍵はポストに入れておいてください」
「なんで鍵の話を……、月島は今晩帰らんつもりか?」
「……」
「やっぱり怒ってるじゃないか! 月島、私の話を」
「鯉登さん、九ヶ月間楽しかったです。体に気をつけて頑張ってください。俺はあなたをずっと応援しています」
「つ、つきしま」
 月島はスマホの通話終了ボタンをタップした。そして電源もオフにする。鯉登が何か言いたげなのは気づいたが、何を言われても今更だと思った。鯉登はふだんから月島に何でも話す男だったから、裏切られた気持ちがことさら強かった。
 嘘をつかれるのだけは耐え難い。どうしても拒否反応が出てしまう。彼の言うように嘘ではないのだろうけれど、もう少し早く話してほしかった。それが例え「四月一日には側にいられない」という内容であっても。
 ファミレスを出てオールナイト上映をする映画館へ向かう。月島はたまにこの映画館に足を運んだ。初めはちよと別れた日で、約十年前だ。その後も心が疲弊した日には、思い出して足を運んだ。それでも鯉登と一緒に暮らし始めてからは、すっかり足が遠のいていた。おおよそ一年ぶりだ。
 ロビーで本日の上演内容を確認する。四十年前の邦画の三本立てだ。午後十時に開始して、終演は翌朝午前五時。一本目は『原子炉からプルトニウムを盗んで兵器を自作し、政府を脅す』という男の話だ。
 言ってみればクーデターだ。どうしても金塊騒動を思い出す。しかし見終わってから「何だこれは」と脱力した。実は男には「要求したい事柄が特になかった」のだ。大きな野望を実行したのに中身は伴わず、あったのは虚無感だけ。奴の人生は一体何だったんだ。悲しくなった。しかし月島はそこではたと気付く。目的がないんじゃない、手段が目的化してしまったのだ、と。
「鶴見劇場を最後まで見届けたい」と言えば聞こえはいいが、映画の男と同類ではないのか?
 昔を思い出すと月島の精神は鬱屈していく。ため息をつく。上映内容をちゃんと調べてくるんだった。気をそらすために手洗いへ行き、通路のベンチでコーヒーを飲んだ。九ヶ月振りに、禁忌を破った。
 一息ついて座席に戻る。二本目が始まり、一時間が経過した。うとうとしてはっと目が覚める。首が少し痛む。実は新人研修の作成が最終段階で、今日は昼飯を食べる時間もほとんどなかった。ビジネスホテルに泊まった方が良かっただろうか。でもしんと静まり返った部屋だと、横になった途端に延々と今日の鯉登との対話を繰り返しそうで、結局朝まで眠れない気がした。
 足元が見える程度の非常灯に、誰も俺のことなんか気にかけない希薄な他人同士の中で。世間との繋がりは、これくらいが心地いいと月島は思った。俺の情は重たい。そういう愛し方しか知らない。鯉登にも同じ重さを求めてしまいそうだから、他人に戻るべきだと月島は決めたのだった。
 そうして月島はスクリーンの声を子守唄にして、二時間ほど浅く眠った。
 明けて土曜日、ファミレスで朝食を食べて自宅へ戻った。
 ポストをのぞくと鍵があった。鯉登の持っていた物だ。部屋にも彼の姿はなかった。当たり前だ。会わないように、遅い朝帰りをしたのだから。
 がらんとした室内を見渡す。この景色は俺の心模様そのものだ。鯉登がいなくなって心に隙間ができて、それを何で埋めたらいいか分からない。こんな歳なら埋め合わせる方法の一つや二つ、見つけているのだろう。たとえば別の誰かを好きになったり、仕事や酒だったり。
 しかし月島はどの手段も持たなかった。空いた部屋は空いたまま。日にち薬すらも効果がない。こんな性分だから、百年も昔の想いを引きずるのだ。

四、月島の誕生日

 四月一日、入社式が終わり参加した保護者が帰宅してからが、月島の会社の入社式はある意味本番スタートだ。昼食と休憩の後、新入社員と人事課はトレーニングウェアに着替えた。これから代々木公園から五名ほどのグループになって徒歩で本社を目指す。月島はマイクロバスを運転して、本社から代々木公園へ社員たちを数名ずつ運ぶ役を担う。
 全員を連れて行くと社へ戻り、新人たちの帰りを待つ役割だ。本当は自分も歩きたかった。ヘトヘトになった方が鯉登のことも考えずに済むのに「あの大きさの車を運転できる社員が、他にいないんだ」と鶴見に微笑まれて引き受けたのだった。月島は自家用車を持っていないにも関わらず、なぜか運転が達者だった。
 午後二時、全員の移動が完了し、公園内の中央広場の一角に集まる。今日はとても春らしい陽気だ。ここは都内のお花見スポットのひとつだから、レジャーシートを広げた親子連れが多い。ただ、ソメイヨシノの見頃は過ぎ、ほとんどが葉桜になっている。今はウコン桜が満開だ。
新入社員らも桜が気になる様子だ。そんな中、準備体操を済ませて第一陣が出発した。続けて第二陣。そうして、月島は彼らが全員出発するのを見届けた。例年、新人たちが戻ってくるのに、おおよそ二〜三時間かかる。会社に戻る前に、月島は公園の隣にある明治神宮へ向かった。今年も無事にイベントが完遂しますように。祈願してから車で戻った。
 一時間後、男子が数名帰ってきた。当初の予想通り、学生時代に陸上やサッカーで鍛えていた者達だった。それから更に一時間が経った。するとほとんどの社員が戻ってきた。みんな「こんな距離歩いたのは生まれて初めて」「暑い」と言いながらも楽しそうに談笑している。さらに三十分が経過して、残りの女子数名も帰ってきた。これで全員だ。何事もなく終了し、月島は安堵した。着替えてみんなが会議室に集まったところで、鶴見から締めの挨拶をしてもらう。そして記念の紅白饅頭とドリンクを渡して、入社式とオリエンテーションはすべて終了した。



「車を返してきます」
 月島は鶴見に断りを入れて、レンタカー店へ向かおうとした。
「月島、終業後に何か予定があるか?」
「いいえ、特にありません」
「そうか、良かった。急で悪いが、社用車で江渡貝くんの家に向かってくれるか?」
「作品を預かればいいんでしょうか?」
「ああ、それもあるが、いつもの問屋から、また差し入れがあったそうだ」
「承知いたしました。作品とビールの回収ですね」
「よろしく頼む。レンタカーの返却は私が宇佐美に頼んでおく」
 月島は会社の車で出発した。都下にある江渡貝の自宅へ向かう。鶴見からの回収依頼は二つ。彼の彫刻作品とビール1ケースだ。江渡貝は酒を飲まない。飲めないのか、はたまた尊敬する鶴見を真似ているのか知らないが「僕はお酒を飲みません!」と公言している。それなのに会う度にビールをくれる皮革問屋がいると言う。
「お中元と言えば素麺でしょう! ね、そうでしょ月島さん!」
「……そう……めん?」
 昨夏、初対面の会話がこれだった。芸術家だからやっぱり変わり者だな。そんなに素麺が好きでビールが憎いのかと思った。こうしてアルコール類の処分に困った時には、鶴見に直接連絡をしていると知った。取りに行くのは鶴見の場合もあるが、月島か前山が多かったのだが。
 会社を出発して一時間、集合住宅より戸建ての多い地域に入る。家と家の間に田畑や雑木林が増えてきた。窓を開けていたから、木や草のにおいがしてくる。月島はこの辺りの風景が好きだった。潮風が吹いてないから佐渡島とは印象が重ならないせいか、何か理想的な心の故郷であるような錯覚があった。だから何かと注文の多い江渡貝の自宅へ行くのも、やぶさかではなかった。
 到着してインターホンを押す。すると返事ではなく数秒後にいきなりドアが開いた。
「鶴見さんは?」
 出てきた江渡貝が辺りをきょろきょろ見回す。そして月島以外に誰もいないと知ると、がっくりと項垂れ「どうぞ……」と入るように促された。江渡貝は居間を通り過ぎ、奥の部屋へ消えた。月島は居間で待とうとしたら、人影があるのに気が付いた。
「お、尾形? いたのか……」
 尾形百之助が居間のテーブルについている。「ええ、新作の契約書類を郵送しますって連絡したら『直接持ってきてください』って言われて」
 鶴見さんを呼び出すつもりだったんだな、と月島は思った。そして二度目も撃沈したのだ。というかこの状況はいったい何なんだ。
 元ターゲットと狙撃手。尾形と江渡貝が昔の記憶を持っているのか確かめたことはない。が、どこかピリピリとした緊張感が張り巡らされているように見えるのは、気のせいか。作品とビールと一緒に、尾形も回収してさっさと帰ろう。月島が気合を入れたところで、カチリと音がした。尾形がタバコに火をつけたのだ。
「お前、」と月島が注意しようと口を開きかけたその瞬間、
「うっ、うちは全室禁煙です!」
 室内の何もかもを破壊しそうな江渡貝の悲鳴が炸裂した。足元には台車で運んできたビールがある。これには月島も同情して、尾形にさっきの続きを告げる。「お前な、作品の置いてある部屋で喫煙なんて、非常識だろう……」
 居間にはあちこちに作品を置いてあるのだ。しかし、なにぶん数が多すぎて、趣味で既製品を飾っているのか、江渡貝の自作品置き場なのか、まったく判然としないのだが。
「すみません。居間は大丈夫かと思いました」
 尾形は月島の忠告の直後、そばにあった空き缶にタバコを押し付けて火を消した。そしてポイと缶の中に吸い殻を入れた。
「わああああっ! 空き缶を灰皿にしたッ! キタナイ! 洗う方の気持ちを考えてください!」
 江渡貝はまた泣きそうな顔をしている。尾形はその様子にも慌てるそぶりはない。こういう時、妙に図々しいというか、人懐こいように振る舞う瞬間がある。それは自分が好かれていないのを逆手に取る戦略で、要するに嫌がらせの一種だ。性質が悪くていっそ清々しいとすら思う。
 すっかりしょぼくれた江渡貝が「今度お貸しする作品を取ってきます……」と言い置き、踵を返した。居間に二人になったところで月島が呆れた視線を尾形へ向けると「月島さん、まあここに座ったらいかがですか」と椅子を引かれる。
「取引先でくつろぎすぎだ」と注意すると「ハハッ」と声に出して笑う。やけに上機嫌だと思ったら、酒の匂いがした。手元に背の高い器がある。湯呑みに見えたその中身をのぞき込むと、液体の上に泡が浮かんでいる。「飲んでるのか」
「ええ、月島さんもどうぞ」
 尾形は席を立ち、キッチンへ行ったかと思うとすぐに戻ってきた。手には缶ビールと同じ形をした陶器のコップ。それらを卓上に置き、プシュと開けてコップに注いだ。しゅわしゅわと泡の盛り上がる音がする。「はい、どうぞ」
「あのなぁ、俺は車で来たんだ」
 ひとまず受け取り、口はつけずにテーブルに置く。尾形は大袈裟に驚いた顔をして見せる。「代行呼べばいいじゃないですか」
「そこまでして何で飲まなきゃいけないんだ」
 自分の家のようにリラックスして振る舞う尾形に感心してしまった。「直帰する予定か?」と尋ねると「そうです」とぶっきら棒に答える。そこに江渡貝が別のダンボールを抱えて再び居間へ入ってきた。
「月島さん、この人早く連れ帰ってください!」
 江渡貝が半泣きで叫んだ。そこにピコンと音がした。SMSの受信音だ。すかさず尾形がテーブルの上のスマホを見る。その音には江渡貝も反応してみせた。尾形に向き直り、「ホラ二度目! おうちの人が心配してますよ、早く帰って!」と捲し立てる。
「江渡貝、迷惑かけたな。ほら尾形、飲み食いしたもの片付けろ」
 月島が空き缶を持って促すと、尾形は頬杖をつき口を尖らせる。
「一缶くらい飲んでいったらいいじゃないですか。月島さん、今日が誕生日なんでしょう?」
「そうだが、なんで知ってる?」
「なんでって、俺は元総務部なんで分かりますよ。『へえ、月島さんは入社式に生まれたんだー』と思いました。実に覚えやすい」
「わざわざ覚えていてくれたことには感謝するが、それとこれとは別だ。好意に甘えて、取引先で飲んだくれるんじゃない」
 尾形だって書類を渡したのなら、用件は終わりだろう。だから改めて帰りを促すと「代行が嫌なら前山を呼びますから大丈夫です」と笑顔で言い放つ。
 なんで前山まで巻き込もうとするんだ。月島は想像した。尾形に江渡貝に前山に月島が一堂に会する。方々にけしかけてほくそ笑む男、からかわれて泣き叫ぶ男、マイペースに飲み食いする男、それらをなだめすかして汗をかく男……。何なのだ、このメンバーは。祝うふりをして、実はしっちゃかめっちゃかにして波乱を楽しむつもりなのか。
「ハッピーバースデートゥーユー  ハッピーバースデートゥーユー ハッピーバースデーディアツキシマさーん ハッピーバースデートゥーユー おめでとうございます!」
 高い歌声と低い歌声の主が、パチパチと拍手をしている。江渡貝はにっこりと笑い、尾形はいつもの澄まし顔だ。
 何だこれは。この二人に一体何があった。ついさっきまでとの落差に、月島は茫然とした。すると二人がこちらを見て、こそこそ話す。
「月島さん、固まっちゃいましたね」
「こういうの慣れてないんでしょうな」
 月島は彼らの打ち解けた様子にも驚いて、すっかり言葉を忘れた──。
次の瞬間、はっと我に返る。ちゃんと感謝の意を伝えなければ。でも何と言えばいいのかすぐには思い浮かばず、咳払いをして間を持たせる。
「……コホン。すまんな、ありがとう江渡貝、尾形。こんなのは初めてだ」
「どういたしまして。さあどうぞ、前山さんも来るんでしょ?」と江渡貝が着席を促す。素直に席に着くと、尾形がつまみの皿を寄せてくれた。焼き海苔にチーズと冷奴だ。
 誕生会らしくないあり合わせのメニューに、普段から頻繁に会うこともないメンバーで。こんなぎこちない誕生会もあるんだな。月島はなんだかおかしくなって、まなじりに涙が浮かんだ。それを気取られないように、指でさっと拭う。
「お前らふたりして、さっきはいがみ合う演技してたのか?」と月島が尋ねると、即座に江渡貝が反論する。「違いますよ! 僕は本当にこの人にここでくつろいでほしくないんです!」
「成り行きですよ。わざわざ書類を届けに来たのに『鶴見さんじゃないなら月島さんの方がマシでした』なんて憎まれ口をたたくから『でも月島さん今日誕生日だから、予定があってきっと来れなかったんじゃないですか』って言いました」
 それで江渡貝は鶴見に連絡したのだ。あわよくば、鶴見が来てくれることを願って。
「乾杯」と尾形が広角を上げる。ふたりはコップを合わせた。江渡貝はグラスとペットボトルを手に戻ってきた。席に着いて炭酸水を注ぐのを待ち、月島が「乾杯」とコップを差し出すと「お誕生日おめでとうございます」とにこりと笑った。
 明らかにぎこちない演出だったけれど、それが逆に月島の気持ちの垣根を低くした。即興なら恐縮する必要もないか。幸いビールは山ほどある。月島が持ち帰るのとは別に、1ケース冷やしてあると尾形が言う。宅飲みの気安さから月島はついペースが早くなり、ものの一分で一杯目を飲み干した。二本目を開けると、やや呆れ顔の尾形が目に入る。
「本日の主役なのに、二杯目から手酌ですか」
「俺はこれでいいんだ」
「あんたもうやばそうじゃないですか」と尾形がクスリと笑う。そこに江渡貝も加わる。「あ、そうだ月島さん。そのカップ、実は僕が作りました」
「えっ、そうなのか?」
 月島は手に持つコップを目の前に掲げる。細身で背の高い陶器のビアカップだ。色は朱から黒へのグラデーションになっている。
「知り合いの陶芸家から粘土をもらったんです。なので鶴見さんをイメージして、マグカップを作ってみました。そのビアカップは、取っ手が付いてないバージョンです」
「贈るのか?」
「ええ、奥に二つあります」
「何でも作れるな」と月島は感心する。
「でも僕はやっぱり革の加工が好きです」と江渡貝は目を輝かせる。月島は射抜かれた心地がして口元を手で覆う。
 江渡貝は俺なんかよりずっと強いな。二十にして天命を知るなら、それは何より強力な生きる力となるのだろう。俺は三十も半ばになるのに、実は迷ってばかりだ。決断は早い方だと思っていたのにな。優柔不断か要領が悪いのか、それとも意気地がないんだろうか。本当の俺は、うじうじした男なのだ。弱い中身を強くする術を知らないから、鎧ばかり強くした。
 二杯目を飲み干す。続けて三杯目も手酌で飲む。頭がくらっとした。酔ってアルコールに鉄面皮が溶かされて、月島は普段しないようなことを始めた。コップを目の高さに持ち上げて、くるくると回す。全体を観察して下からも見上げる。するとそこに江渡貝の名前を発見した。これまで陶器に興味を持ったことはなかったが、ふと頭に疑問が湧いた。
「なあ江渡貝、これでワインを飲んだら変か?」
「ワイン? どんな飲み物でも良いですよ。確か陶器入りのワインを作っている国があります」
「へえ、飲まないのに物知りだな」
「月島さん、だいぶ目が座ってますよ……」
 江渡貝が呆れている。続けて尾形も「月島さんがそんなに赤くなってるの、久々に見ました」と、にやりとする。
「……。そんなに?」
 頬にぺたぺたと手のひらを当てるが、顔が赤らんでいるかどうかなんて、触って分かる訳がない。二人とも手鏡を貸してくれる気配もない。さっきからずっと、頭がふわふわする。頬杖つくだけでは足りなくて、テーブルに突っ伏した。「酔った」
「見りゃ分かりますよ」と尾形が呆れている。
「いつもこんなだらしないんですか?」と江渡貝が月島を指さして、尾形に質問する。
「いや、月島さんがこんな酔い方するのは初めて見たな」
「そうなんだ。ねえ月島さん、本格的に潰れる前に、ちゃんと帰ってくださいね!」
「そうだ、前山に連絡しないとな」
 スマホの操作をする尾形を、他人事のように月島は見ていた。先月まで思い描いていた誕生日とは違う、不思議な夜だ。――鯉登がいたならば、どんな一日を過ごしたんだろう。考えずにはいられなかった。そうして彼の誕生日、十二月二十三日を思い出していた。言うならば、あの日は幸せな一日だった。ただし、友情をあたためたと表現するならば。あの夜、警官が来なければ俺たちはどうなっていたんだろう。二人の間の距離は、ほぼゼロだった。キスをするつもりだったんだろうか? それならば、友情とは別の気持ちがあったんだろうか? 三ヶ月間、その堂々巡りが頭を離れなかった。でも確かめる勇気がなかった。鯉登はそれ以降、全くそんな素振りを見せなかったし、現に月島には事前に知らせずに出て行った。だから結局、友達同士の距離感が一番心地いいんだ。でも──。
 こうして堂々巡りするだけだった。



 ふわりとぶどうの香りがして、月島はむくりと起き上がる。
「あ、起きた。月島さん、お水飲みますか?」と江渡貝が聞いてくる。時計を見ると、どうやら三十分ほど眠っていたようだった。テーブルにはワインがあった。先ほど江渡貝の話に出てきた陶器入りのワインだ。これも贈られたから知っていたのだ。月島はそれを手に取ると、自分のコップにどぶどぶと注いだ。
「うわっ、それさっきまでビール飲んでたやつじゃないですか! 月島さんやっぱり育ちが悪くて引きます!」
「育ちが悪いっていうより、ただの酔っ払いだろ?」と言いながら、尾形もワインを注いでいる。
「江渡貝、このワインうまいな」と月島は感嘆する。
「本当に味わってるんですか?」
「ハハ、今日の月島さん面白えな。失恋でもしましたか」
 冗談めかす尾形に、月島は固まった。
「えー。それ、ひょっとして当たりですか?」と江渡貝が目を輝かせる。
「へえ、それでヤケ酒か。詳しくお聞かせ願えませんかね」と尾形は口の端を上げた。
「お前ら人の色恋沙汰なんて、ホントは興味ないだろ」
 月島は不貞腐れて、またワインをあおった。
──ピンポン。インターホンが鳴った。
「前山さんかな?」と江渡貝が立ち上がる。 
「別の客だろ? いくらなんでも前山の家からだと、三十分じゃ着かない」と尾形が意見する。
「はい」
江渡貝がインターホンに応える。
『夜分遅くすみません、月島を迎えに来ました』
 壁のモニターに映った男は、鯉登だった。その声に月島は一気に酔いが覚めた気がした。急に立ち上がるから、ガタンとイスが倒れた。なんでここに?
「なんでボンボンが来たんだ」と尾形が苦々しくつぶやく。江渡貝は三人の関係性を知らないから、やけに慌てる態度の月島に、首をかしげる。そして鯉登を招き入れるべく、玄関へ向かう。
 穴があったら入りたい。月島はそんな心境に陥った。でも他人の家で好き勝手に振る舞うこともできず、その場に立ち尽くした。
 数十秒後、江渡貝に伴われて鯉登が居間に入ってきた。
「月島」
「鯉登さん、あなたどうしてここに」
「勇作殿から聞いたんだ」
 種明かしを聞いて、尾形がスマホにチラッと目をやる。「なるほどね」
 一時間ほど前、月島も耳にした受信音は、花沢勇作から尾形への質問だった。
「月島、帰るぞ」
 そう言って鯉登が手を引くと、月島は顔を背けて踏み留まる。
「社用車で来ているんです」
「本当か? それなのに飲んだのか」
 鯉登がやや困惑した顔を見せる。
「……はい」
「仕方がないな、代行を呼ぼう。尾形百之助、車に乗って帰ってくれ」
 鯉登はつい昔の口調で話してしまう。尾形はそれを聞き咎めて「口の聞き方」と注意する。すると鯉登はしかめ面をした。悔しそうに歯をぎりぎりと食いしばる。歯が折れるんじゃないかと月島は青ざめる。自分が頼もうと思い「尾形」と呼ぶと、鯉登がそれを遮った。
「お……尾形……さん。車を……よろしくお願いします」
 絞り出した声は、土下座でもしていそうに聞こえた。
「ハイハイ、了解」
 けしかけてみたものの案外つまらなかった。尾形の返事は、そうしたあっさりしたものだった。それを合図に鯉登は月島の腕を強く引いた。そうして二人で江渡貝の家を後にした。門前には月島の乗ってきた車ともう一台、小型普通車の白いバンが停まっている。後ろに荷物をたくさん積める車だ。およそ鯉登の乗る車のタイプではない。と思ったが、それは彼が乗ってきた車だった。ドアに手を触れると解錠された。鯉登が助手席のドアを開ける。「月島」
「は、はい」
 月島はこの後に及んでも、ついて行っていいのかも決められないでいた。すると立ち尽くす月島に痺れを切らしたのか、鯉登がぐいっと背中を押した。助手席に押し込まれると、彼は運転席に乗り込んだ。すぐに発進した。
「あの、いつ帰ってきたんですか」
「今日だ。月島の誕生日だろう? 私は約束を違えんぞ」
「……。はい、ありがとうございます」
「ちっとも嬉しそうに見えないが」
 そう言うからミラーを見ると、鯉登とミラー越しに目が合った。
「……そうではなく、驚いているんです」
「迷惑だったか」
「……」
「月島?」
「……う、」
 口元を押さえる。新車のにおいがする。普段なら嫌いではないのに、今はやけに鼻につく。胃から喉が焼けるように熱くなる。
「気分が悪いか」
 鯉登は速度を落として路肩に停まった。江渡貝の自宅から、まだ十分ほどしか進んでいない。
「すみません」
「少し我慢できるか?」
 鯉登の指差す数十メートル先に、コンビニの看板が煌めいている。月島が「はい」と返事をすると、ゆっくりと発進した。一〜二分ほどで駐車場に到着する。店内に入ると、月島はお手洗いへ向かった。出てきて店内を探しても、姿が見えない。外に目をやると、車の隣に立っていた。「すみません、お待たせしました」
「落ち着いたか? ほら」
 ペットボトルの水を手渡された。
「ありがとうございます」
 少し口にすると、胃や胸が大分すっきりとした気がした。いくぶん酒が抜けたから体温も元に戻る。ひんやりとした空気が首元を撫ぜるから、月島は身震いして首をすくめた。
 この辺りは郊外の住宅地だ。マンション等の集合住宅より戸建てが多く、このコンビニにも広めの駐車場がある。それから店の裏手には、小さい公園があるのが見えた。鯉登が無言でそちらに歩き出す。月島もついて行く。公園に着いてぐるりと見渡す。整備されたばかりなのか、ベンチや遊具が真新しい。そして周囲を取り囲むように植えられている木々の背も、まだ低かった。桜の木があった。月島以上、鯉登以下の高さのそれは、若い枝にちゃんといくつかの蕾があり、花が開いていた。
「かわいらしい桜だな」と鯉登は穏やかに慈しむ。まるで忘れていた宝物を偶然見つけたような相好をする。彼の態度は少し軟化している。それとは対照的に、月島は「ええ」と神妙に答えた。次第に頭の中が冷えて、状況を見極めた。
 この人は春の嵐のようだと思った。いつだって突飛で、しかし風はあっても木の芽は散らさず、雨で草木を育む。ただ、俺にはそんな清明をもたらさないでほしかった。雨あがりに促される開花がいっとう恐ろしい。なぜなら、満開の桜花は狂気との境界線だ。ふだん抑え込んでいる欲望を、一気に花ひらかせる。その魅力の中にある、鬼にこの人は気付いていないのだ。
 一歩退いた所にたたずむ月島を、鯉登が見咎める。
「月島、浮かない顔をしてどうしたんだ。まだ気分が優れないか?」
「いいえ、お陰様でずいぶんスッキリしました」
「顔色は良くなった。が、言ってることと態度が一致しておらんじゃないか」
「……」
 月島が黙りこくると、鯉登は一瞬絶望した目をした。「……私では役不足か」
「え? 何をおっしゃっているんですか。そうではありません。あまりにも突然、あなたが現れるから驚いたんです」
 前もって教えてもくれずに去って行き、そして前触れもなく現れる。いくら俺の誕生日と言ったって、まさかフランスから帰国するとは普通は考えないだろう。本当は、俺は臆病な男だから、予期しない幸運を前にすると身構えてしまう。
 幸運か。鯉登と会えたことを「幸運」だと思っているのだと、たった今気づいた。
「突然来てしまったのは謝る。連絡したら、引っ越した日のように逃げられると思ったんだ」
 言われて思い出した。自分だって突然逃げたのだ。お互い様だった、と反省する。
「……ごめんなさい」
 うつむき加減に謝ると、鯉登が息をのむのが分かった。
「月島……」
 名前を呼ばれて、彼の目を見たその時、月島のスマホがピコンと音を立てる。内ポケットから取り出す。尾形からだった。『代行が見つかりました』と書いてある。無事に車と共に帰宅できそうだ。月島は胸をなでおろす。それからスマホを素早く仕舞った。尾形からのメッセージだと知ったら機嫌が悪くなりそうだ。鯉登は今でも尾形が気に食わないのだと、江渡貝宅でまざまざと実感した。昔を細部までよく覚えていて感心する。
でもそこで一つ疑問が浮かんだ。鶴見のことだ。
なぜ鯉登は鶴見の名前を、一度も口にしないのか。実はそれにずっと引っかかっていた。昨年六月、月島の家に初めて上がり込んで昔の話をした際にも「小隊のみんな」と表した。そこに鶴見は含まれていない口振りだった。
「それはそうと、鯉登さん、鶴見さんには会いましたか?」
「いや、会っていない。先ほどは鶴見中尉からの連絡だったのか?」
「いえ、そうじゃないのですが……。お会いするなら、私が明日にでも取次しましょうか?」
「結構だ」
 きっぱりと断るから驚いてしまった。なぜ、と聞こうとして言葉に詰まる。そもそも、明治時代だって鯉登と鶴見は「偶然」出会った訳ではないのだ。誘拐は鶴見劇場の一場面だった。だから今生でも、鶴見からきっかけを作らなければ、二人の人生は交差しないのか。そうか、そういう事か……。
 月島はそこまで考えて、ハッとした。もしそうなら、自分だって同じじゃないか。
鶴見がいなければ、出会うことなどなかったのだから。
それならば、どうして俺はこの人と出会ってしまったんだろう。出会いに意味を見出そうとしている俺が、面倒くさい奴なだけなんだろうか。
「月島、もう帰ろう。四月一日が終わってしまう」
「は、はい」
 鯉登が手を取るから月島は隣を歩く。どちらともなく歩調を合わせる。不意に郷愁にかられる。ああ、例のおかしな夢でもこうして手を引かれたな。
「ずっと前から祝いたかった。月島、私の願いを叶えてくれて、ありがとう」
「そんな、あなたから感謝されることは何もしてませんよ」
「こうして元気でいてくれたではないか」
「そ、それはそうですが……」
 月島はどこか釈然としない。そんなの当たり前だと思っていたからだ。足を止めて考えてしまった。そんな月島の胸中を察したのか、鯉登がこう解きほぐす。
「お前は『誕生日の何がめでたいんだ?』などと考えていそうだな。しかし、そういう哲学や反抗は生きているからこそできるんだ」
「生きているからこそ……」
月島には重く響いた。
「そうだ、だから誕生日はめでたいんだ」と鯉登は笑顔を見せた。
昔に聞いた『役目なしに降ろされた物はひとつもない』という言葉を思い出した。ならば、昔の俺はちゃんと役目を終えたのか?
「あの、ずっと不思議だったんです。鶴見さん達に会っても昔のことなんて思い出さなかったのに、なぜあなたに会って思い出したのか」
「なぜだろうな? 私もずっとそれを考えていたんだ。だから、これから過去と今との話をしよう」



 鯉登は滔々と経緯を語った。事の始まりは鯉登が社会人一年目の頃、札幌に配属されてからだった。家探しで例のセクハラ社長と知り合ったという。若山不動産は北海道に本社がある。
「月島、知ってたか? あの社長は昔、刺青の囚人の一人だったのだ。杉元とアシリパから聞いた」
昔の若山が囚人だったという事より何よりも。月島はたった今、重大な因果関係に気が付いた。
「あの、鯉登さん」
「なんだ」
「俺たちが会ったの、偶然じゃなかったんですね……」
「……月島ァ、日本に人口どれくらいいると思っているんだ。偶然会えるなど奇跡だぞ」
 しれっと返す鯉登に、月島は口をあんぐりさせる。でもそうか、それもそうだな。驚きはしたが鯉登らしい気がして、妙にさばさばした気持ちになった。同居中のどこか他人行儀な品行方正さは、実は演じていたのか。だから喧嘩にすらならなかったのかと納得した。
「なるほど、それで……。それなら杉元とアシリパには、どうやって会ったのですか?」
「ああ、アシリパを探すのは比較的簡単だった。アイヌ協会があるからな。しかし、そこから先が困難な道のりだった」
 最初は月島が北海道にいるのではないかと思って、若山に協力してもらって探したのだと言う。引っかかりを感じて月島が尋ねる。「協力?」
「そう、協力だ」と鯉登は断言する。不動産屋の親父に協力を仰ぐだなんて、家を借りたり買ったりする顧客の情報を教えてもらうしか思い浮かばない。
なので月島は恐る恐る聞いてみた。「あなたそれ、個人情報保護法違反では……?」
「それは承知している。だから不特定多数の顧客情報を聞き出したのではない。私が聞いたのは『月島という人物を知らないか?』ということだけだ」
 大人か子供か、男か女かも分からない。そもそも月島という家に生まれているのかも不明だ。でも探さずにはおれなかった、と鯉登は吐露する。
 そして偶然にも東京で同業種に勤務していたから『目当ての人物らしき男が東京都内のディベロッパーにいる』と教わったのだろう。
自分に関することだけならば、特に問題ないか……。ひとまず胸を撫で下ろす。
そうしてつかの間、月島が黙って再会した日を思い返していると、鯉登の顔が正面に迫っていた。「うわっ」と声を上げて飛び退いたら手が離れた。
鯉登は眉を下げて何やら思い詰めたような表情をしている。
「月島。私の強引さが許せないなら、誠心誠意、謝罪して身を引くつもりだ。ただ、人事を尽くさず天命を待つだけの生き方は、性に合わんでな」
 拒絶したら腹でも斬りかねない彼の雰囲気に、月島はぎょっとした。大慌てで打ち消す。
「ち、違います! 謝罪してほしいとは思ってません!」
 真剣に気持ちを伝えると、パッと緊張が解けた顔をした。そうして鯉登は、
「こうして無事に月島との邂逅を果たした」と冒険活劇の終幕のような台詞を口にした。月島もそれに妙な感動を覚えた。
「が、一つ問題が発覚したのだ」
「と言いますと……」
「我々の関係性だ」と言い切った。月島は息をのむ。
そこから鯉登の話は、明治時代にさかのぼった。
「月島の知らない話も多い、心して聞いてほしい」と前置きした。
「我々は上官と部下だった。しかし、それ以外にも何かがあったのだ。互いを想う特別な気持ちが」
「何か」があったとの確信。それは樺太やビール工場で、月島が鶴見の命令より鯉登の命を選んだこと。それが運命の分かれ道だったと鯉登は話す。「この道を進んで行け、とお前に示されたのだと思った」と、ひどく大人ぶった顔を見せた。それが月島の胸に迫る。
それなのに彼の話はいきなり横道にそれた。
「だから金塊争奪が終わった暁には、正式な従卒として月島を配属してもらい、それから徐々に親交を深め……」
「え、将校の従卒は一等卒か上等兵と決まっていたでしょう」
 そこは軽口だから流せばいいのに、ついいつもの調子で冷静に反論してしまった。
「キエッ、どうしてお前は軍隊内務書の内容を事細かく覚えておるのだッ! 私と心を通わせた過去をはっきりとは覚えておらんくせに、こん薄情者め!」
「……すみません」
 確かに意地悪だったと思い直し、謝罪して目を逸らす。
「いや、思い出せないのは自分の意思ではないのに、私こそ悪かった。自分たちは死神の部下だったのに、どうして来年もその先も生きていると信じられたのか、今考えると不思議でしょうがない。あるいは、現実逃避だったのかもしれないな」
月島は相槌もできずに口をつぐむ。
 漠然と夢想した未来は訪れなかった。鯉登は打ちひしがれる。愛する人の死を過去に経験しているのに、なぜあんな能天気な未来を思い描いていたのか。どうして生きている間に何も伝えなかったのか。後悔して血を吐く思いだった、と鯉登はうなだれる。一人、またひとり、仲間が死んでも一時休戦して弔う時間はなく、それでも鶴見を信じて前に進むしか道がなかった。金塊争奪戦が収束後は後始末に忙殺されて、悲しみに暮れるいとまもなかった。あるいは、自分の心がどこにあるのかも、当時は分からなくなっていたのだろう、と鯉登は明かす。金塊がどうなったのか月島は知らないから、詳しく聞きたい気持ちはあった。けれど聞けなかった。彼の話は続く。
「二ヶ月、いや三ヶ月ほど経った頃だったか。ふと月島の墓はどこにあるのか気になったのだ」
 墓。月島は戦友の墓を守るために明治時代を生きたのに、自分自身は墓に縁のないことに今しがた気づいた。先祖の墓参りなどしたことがなく、父がどこに眠り誰から供養されているのか知ろうともしなかった。ましてや、自分の墓のことなど考えたこともなかった。
「どこかにあったのですか?」
「ああ、札幌だ」
 引き取り手不明の遺体は、死亡した場所の自治体が火葬する。そして役人は身寄りを探したが、月島の場合は見つからなかった。なので遺骨は札幌市内の寺に無縁仏として埋葬されていた。
 鯉登はその寺を探し当て、遺骨を引き取った。その時に月島が天涯孤独の身だったことを、初めて知ったと言う。
「引き取ったはいいが、どうしようか考えあぐねてな。新潟がいいのか、旭川か小樽か。しかし親族がおらんのならどこだろうと無縁仏になってしまう。旭川であれ私がいつ転属になるか分からないからな。それで最終的に、鹿児島の菩提寺にお願いしようと考えた」
「鹿児島って、あなたの家のお墓でしょう?」
「そうだ。親類がいる土地の方が確実だ。しかし月島にしてみれば、縁もゆかりもない場所だ。一人で埋葬されるのは寂しいだろうと思ってな。だから私が鬼籍に入る時に一緒に埋葬してもらうよう、郷里の親類と使用人に頼んだ」
「え……、それならあの記憶は」
 月島は例のサーカス観覧の記憶を話して聞かせた。
「それは昭和九年だな。そうだ、月島とはずっと一緒だったぞ」
 鯉登はいたずらな顔で笑った。
 彼はまず営外住居に仏壇を設えた。そうして花を活け線香をあげて手を合わせる。供物はむろん白米だ。「官舎では、一人につき一日六合まで白米を食べていい決まりがあります」と、月島は鯉登に話をしたことがある。彼はそれを律儀に覚えていて、毎日月島の仏前に六合の白米を供えていたと言う。そうしてお供えしていて、ふと思い出したことがあった。「月島、覚えているか?」
 鯉登はお椀を持つように手を丸める。そして右手でご飯を摘む仕草をして、それを首の後ろに数度運んだ。
「……えっと、確か」
「トゥレンぺだ」
 鯉登と二人で小樽のコタンにいる間、食前に行われていたその儀式。鯉登がその仕草を不思議に思って尋ねると、谷垣が教えてくれた。「ばあちゃんは自分の守り神にお供えをしているんだ」と。
 アシリパの祖母に教わった儀式を、毎日続けていたと言う。
「では例の謎の記憶は、私が幽霊になってあなたに取り憑いていた間の出来事だったんですね?」
「月島ぁん。幽霊とか取り憑くとか、いちいち自分を下げるな……」
 鯉登は眉尻を思い切り下げて、しょんぼりした顔を作った。そうして命日に法要を執り行うのではなく、四月一日に誕生日会を開いていた。月島が思い出したのは、その中の一部だったようだ。死んだ後もそばにいて。生まれ変わって再会して。
執着でも奇跡でも、どちらでも構わなかった。
こうして話は現代に戻る。
こんな、とても一言で言い表せない関係――好き好んでもつれて絡まってがんじがらめを選んだような二人が再会を果たして、まだ全部思い出していない月島にどう説明したらいいのか。新たな困難に直面して、鯉登は愕然としてしまった。
「恋仲だった訳ではない。『昔、精神的な絆があった』と説明したところで、オカルトか新興宗教だと警戒されるのが関の山だ。それに、仮にうまく伝わったとしても『では今生も昔と同じ清い関係のままでいましょう』と月島なら言いかねんからな。本当に、どう説明すればいいのか困った」と鯉登は拗ねた顔をする。
 なんだ、そうだったのか。からくりが分かってほっとする。と同時にどきりとする。
関係を進めたいと言われているも同然じゃないか、と。月島は酔いがぶり返したかのように、体中が熱くなる。
「それよりも私にとって一番の懸念だったのは、そもそも恋愛など必要ないと思っているかもしれないということだ」
 月島は指摘されて実感した。なるほど、俺は今日で三十五歳だ。この年まで独身で交際相手がいないのなら、恋愛そのものに興味がないように見られてしまうのだ。
「焦りはあったのだが、慎重に見極めねばならないと思った。同性から恋愛感情を向けられると、激しい拒否反応を示す男は多いからな。だから計画的に事を運ぼうと決めたのだ」
 きっかけは偶然を装う。ただの客の一人から踏み込む第一歩は、セクハラ被害者同盟。そして明治時代の記憶の確認を。実は百年前から知り合いだったと記憶の共有ができたなら、晴れて同居人だ。月島が変わっていないならば、押せば同居に持ち込めるはずだ。そこからは普通の友達のふり。たとえ年が離れていても仕事が同じじゃなくても趣味が違っても、友情を育むことはきっと可能だ。そうして月島の胸の中に自分の居場所を作って、陣取って他の誰の代わりにもならない存在となれば。意識していなかったとしても、かけがえのない存在だと思うようになるのではないか? と語った。
「驚いたか?」
「はい、少しは」
「うんざりしたか?」
「まさか。策士になり切れないあなたの愚直さを、私が憎めないと知っていて、全部話したんでしょう?」
「ふふ、流石の読みだな。でもそれ以前に、隠し事はしたくない」
 月島は苦笑いする。昔からそうだった。腹に一物隠していても、それは一時的で最終的には月島につまびらかにしてしまうのだ。最初は「堪え性がないのだろうか?」と危機意識を持ったものだった。樺太で尾形から満鉄の件を聞かされた時、あるいは教会に戻って鉢合わせをした時。一般的にはあまりいい思い出とは言えない場面も、二人の関係の礎となるものだ。乗り越えてきた困難に月島が胸を熱くしていると、対照的に鯉登はなぜか肩を落としている。
「しかし、ここまで用意周到に準備したのに、仕上げでしくじってしまった」と苦虫を噛み潰した顔をする。
「え? しくじりました?」
 再会してからの日々を振り返っても、思い当たる節がない。今、自分は鯉登に捕らえられているではないか。
「ああ、だってそうだろう。お前の誕生日を初めて祝うのは私になるはずだったのに、なぜ尾形や剥製職人と楽しそうにパーティーを開いておるのだ」
「今晩のは単なる成り行きですよ」
「では楽しくなかったのか?」
 楽しくなかったと言えば嘘になる。でもそれは週末の開放感と大差はなかった。その気安さから酒の回りが早くなり、挙句に鯉登のことでくだを巻いたのだから、気分を害することはないのだ。頭と心の大半を占めていたのは貴方だ。
「でもこうしてあなたは海外から駆けつけてくれたじゃないですか」
 月島の言葉に鯉登はふいと顔を背ける。ばつが悪そうにして、気もそぞろだ。
「……月島。それなんだがな、事情が変わったんだ」
「はい」
「私は今、山梨のワイナリーに世話になっている」
「え? フランスじゃなかったんですか?」
「変更したんだ。何も伝えてなくて本当に済まなかった」
 鯉登の新たな修行先が変更になったきっかけは、昨年の鯉登の誕生日だったと話した。月島と精進湖へ向かう途中──中央道サービスエリアで購入した、甲州ワインの味が印象深かった、と言った。
「甲州での葡萄栽培の歴史は古いんだ。だから老舗ワイナリーがいくつかある。けれどすでに大手飲料メーカーと共同出資していたり、昔から決まった販路があり取り入る隙がない。うちみたいに、取引実績のない卸を今さら相手にしてもらえるとは思ってなくてな。──でも、考えが変わったんだ」
 精進湖から帰宅して、鯉登の意向に添いクリスマスは祝わずにいつものように二人で夕飯を作った。しかしその日がいつもと違ったのは、白米に合うおかずではなかった点だ。ペペロンチーノと生ハムとサラダ──ワインに合うメニューばかりだった。ただし、それがフランスやイタリア産ワインだったら、の話だ。
「甲州葡萄はなかなか糖度が上がりにくい品種だが、近頃は栽培技術が向上してずいぶん改良されていると聞く。だが、さっぱりしているからこそ、もともと和食に合うんだ」
「和食に?」
「ああ、寿司やおでんにも合う」
 白米にも合うならメニューで月島に歩み寄ってもらわずとも、一緒にワインを楽しめる。それともうひとつ、鯉登の背中を押した理由があった。
「甲州葡萄の伝説は古く、養老二年にさかのぼる」
「よ、養老? 西暦だと何年ですか?」
「七一八年だ。奈良時代頃だな。ある高名な僧侶が、寺を建立して境内の薬草園に葡萄を植えた。それが甲州での葡萄栽培の起源らしい」
「一千年以上も前から……、相当古いんですね」
「ああ、その僧侶がな、誰だと思う?」
「え? 教科書に載ってる人ですか?」
「うん」
「でも俺、その辺の歴史には疎くて、見当もつきません」
 月島が正直に告白すると、鯉登は月島の手を取り手のひらに指で書き始めた。「漢字二文字だ」習字の筆のように指が動く。「ちょっと、鯉登さん。くすぐったいです」
 月島が身を捩って逃げようとする。鯉登が逃さないように力を込める。何としても僧侶の名前当てクイズにしたいらしい。月島はこそばゆいのを我慢して、彼の指の動きから推察する。「あ、最初のは分かったかも知れません」
「なんだと思う?」
「行く、ですか?」
「もう一度」
「行く」
「もう一度」
「? 行く」
 心なしか鯉登の鼻息が荒い。訝しげに凝視すると、気まずそうに目を逸らせた。なんだこれは。正解・不正解とは違うことを考えている。というか、ぶっちゃけセックスを連想しているんじゃないのか?
 ああ、今までこんなことなかったのに。性的な雰囲気なんて皆無だったのに。まるで久々に会った近所の子供が、いつの間にか自分の背丈を抜き声変わりをしていたような、そんな衝撃を感じた。決して嫌な訳じゃない。むしろ友達のままの方が中途半端で不安になる。煮るなり焼くなり好きにしてほしいくらいだ。ただ、やっぱり心の準備ができていない。海外へ行ったと思っていたのに突然現れて、江渡貝宅から奪うように連れて来られて、急にベタベタ触られて。
 黙りこくる月島が、機嫌を損ねたように見えたのだろう。鯉登がこちらをチラリと伺って「……わざとじゃないぞ月島ぁん」と拗ねた顔でつぶやく。謝罪のつもりらしい。月島は狼狽する。弱いのだ。こんな風に子供のように甘えられるのが。つい絆されてきた過去の記憶が一斉にぶり返し、頭の中が鯉登でいっぱいになる寸前だった。
 隣の道路を曲がっていった車のライトが目に入り、眩しさに目を細める。人が見ていたかもしれない。きょろきょろと周囲を見回す。誰もいなかった。月島はやや落ち着きを取り戻す。冷静な振りして名前当てクイズに戻る。
「それで? 行くという文字は、当たりですかハズレですか?」
「当たりだ」
「じゃあ次の文字をどうぞ」
 再び鯉登の指がするすると動く。くすぐったい。触られるのはやっぱりダメだ。何かを呼び覚まされそうで、つい手を引っ込めそうになる。でも悪魔の自分がささやく。
『昨年末から心の奥で欲していたのはこれだろ? 堪能しろよ』と。
 指が肌を擦る音が聞こえる。手で肌を擦るなんて、あれしかなくて。鯉登とそういう行為はしたことがないのに、まるで愛撫を受けているような錯覚を覚える。月島は目を閉じる。呼吸が浅くなり、どくどくと心臓の音が大きく聞こえてきた。絶頂が近づくと、自然と体の中心を締め付ける。早くいきたくて、極限まで自らの体を淫らにして、最大限に性感を研ぎ澄ませる。ああ、駄目だ。血が。勃ってしまう。
 月島は絶頂する時のように、頭が真っ白になろうとしていた。その直前だった。鯉登の指が離れて我に返る。彼が何を書いたかなんて、当てる余裕なんてなかった。
「どうだ? 分かったか?」
「……いえ、一文字目より画数が多くて」
「じゃあもう一回書くぞ」
「ちょっと待ってください」
 これ以上、繰り返されるとまずい。考えるふりをして、少し離れる。鯉登は「分かりそうか?」と月島の顔を覗き込む。どうにか指の動きを思い出す。書き始めは角ばっている。それから左右にはらう箇所もある。そして最後はぴたりと横棒を止める。
「……あ」何かが閃く。よく知っている文字、じゃないのか。
「月島、分かったか?」
「ひょっとして」
「そう、基だ」
 行基(ぎょうき)という名前の僧侶だった。言われてみれば、中学校で習ったことがあるような無いような。
「だから、甲州ワイン作りに行くしかない気がしてきたんだ」
 父や叔父にその話をすると、意外な答えが返ってきた。フランスでは大規模デモが頻発していて、一般人が暴動に巻き込まれるケースも多々ある。だからあちらのワイナリーも「今は渡仏しないに越したことはないよ」という返事だったそうだ。それで山梨の葡萄農家兼醸造所へ話をしてみようという運びになった。すると好意的な答えが返ってきた。一足飛びに業務提携とはいかないが、研修という形で一人受け入れなら可能──要するに、農作業をする人手が足りないらしい。
 それが今年二月の話で、鯉登はそこから諸々の手続きで慌ただしかった、とため息をつく。フランス大使館にビザ取得の申請をしたばかりだったから、それを取り消してパスポートを返却してもらうのに手間取っていたようだ。
 会社では通常業務に加えて後輩への引き継ぎ。その合間に渡仏の取り消し手続き。それから研修先となるワイナリーとの新たな労働契約の取り決め。そして三月に入り有休消化期間に入ろうかという頃「そろそろ荷物をまとめるか」と考えていた矢先だった、と振り返る。ワイナリーから「今年は気温が上がるのが早い。もう葡萄の芽がでるから、それまでに病害虫予防の作業を終わらせたい」と連絡を受けたという。
 そうか。だからあんなに突然引っ越したのか。胸の中のモヤモヤが晴れると、鯉登への気持ちが一際くっきりと浮かび上がった。
 会いたかった。今日、一番会いたかった人に、会えて本当に嬉しいと思った。月島は柄にもなく素直になると、じわりと目がぼやけてきた。そうか、嬉しくても涙は出るのか。知ってはいたが、おそらく初めての経験だ。
「月島」
 正面に立つ鯉登が両腕を広げるものだから、戸惑う。素直にその胸に飛び込んでいいのか。自分を曝け出すことは裸になるよりも無防備だと思っていたから、月島にはどうしても踏み切れなかった。でも、いま変わらなければ、また同じことの繰り返しではないか。
 一歩、また一歩とじりじり前に進む。鯉登との距離は約一メートル。入社式レクリエーションの二十キロメートルより遠い道のりに感じられる。歩幅は小さいのに緊張で息が上がりそうだ。そうして三歩目でついに、腕の中に到達した。背中に腕が回され、ぎゅっと抱き締められる。
「ふふ、酒臭い」
 そう言いながらも楽しそうな声が耳元で響く。
「情けない話です。明日は二日酔い決定です」
「任せ、味噌汁作ってやっでな」
 明日の朝ごはんの話をして、いつか白いご飯にも合うワインを作るからな、と夢を語る。そうか、今晩はうちに泊まるんだな。もうベッドは一つしかないから、そういう意味なんだろう。月島が覚悟を決めた、その時だった。抱き寄せていた腕を解いて、月島の両肩に手を置いて宣言した。
「深酒した月島を無理矢理組み敷くつもりはないからな、安心しろ」
 思わず「え?」と言いそうになり、月島は口をつぐむ。鯉登は得意満面で続ける。
「添い寝してやっで、安心して眠りやんせ」
「……はあ、ありがとうございます」
 なんか、鈍いのとは違う……、童貞なんだろうか。それとも、紳士たろうと背伸びをしているのだろうか? そういう鯉登も嫌いではないけれど、肩透かしを食らって月島はじりじりしてきた。先ほどは「いく」だなんて何度も言わせておいて、何だそれは。分かった。今度はこちらから仕掛けてやろうと決めた。なんせこちらが年上なのだ。腹が決まると早かった。
 ぐい、と鯉登の上着の襟を引く。すると彼は目を丸くして、それから自然に膝を曲げて顔を寄せた。すべすべとした彼の頬に手のひらを当てて、くちびるをそっと押し付けた。鯉登が硬直したのが分かると、唇を離して耳に優しく言葉を流し込む。
「早く帰りましょう。今夜は俺を祝ってくれるんでしょう?」
「キ、……!」
 鯉登は猿叫を上げそうになり、寸でのところで飲み込んだ。ここは静かな住宅街にある公園だから、叫び声を上げるとすぐに通報されそうだ。それでも、警察が駆けつけたとしても、どこまでも一緒に逃げる覚悟はできている。
「早く家に帰りましょう」と鯉登の手を引く。彼は今、夜目にも分かるほど赤面している。俺のことはしょっちゅう振り回すくせに、仕掛けられたら弱い。かわいい人だと思った。
 コンビニの駐車場に戻る。助手席側に回り込む直前に、月島はそれに気付いて小さく声を上げた。
 鯉登の車のナンバープレートは「5101」だった。
〈了〉

【サンプル】はじまりは百代の記念日

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  • 小説
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  • 成人向け
  • 強い性的表現
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