明日は晴れていますか?

烏明 糸遊

 絶え間なく降り注ぐ雨音が、少し枯れた君の聲を掻き消す。
まるで、君の涙を独り占めするみたいに。
薄紫の傘を打つ雨粒が跳ね落ちて、僕の肩を濡らしてゆく。
じんわりと侵蝕してゆく冷たさが、浅はかな僕を叱っているようだった。

 雨で泥濘んだ悪路が未練がましく靴底に絡み、あまつさえスラックスの裾までも汚そうとしている。
「やっぱり、嫌い?」
 どんよりと湿った空気に似つかわしくない澄んだ声音が、耳元で囁かれた。何が、と問おうと口を開きかけたが、遠慮がちに君の薄い肩が触れて口を噤む。ふわり、とシトラスの香りが微かに漂った。
「雨、」
「あぁ……」
 なんと答えようかと悩んでいたら、頭上を覆っていた影が消える。無防備に曝け出された僕を穿つ雨粒は、体温とともに熱をゆっくりと奪ってゆく。無慈悲にも傘を奪った悪童を睨んだ。
「なにすんだ」
 くるくると濃色の傘を回しながら、悪童は振り返る。ひらり、と翻る膝上丈のスカートとスカーフが嘲笑った。肩ほどの長さに切り揃えられた黒髪が、白魚の様な手で耳に掛けられる。露わになったその双眸は少し影を帯びていて、緩く弧を描く唇とちぐはぐだった。
「意気地なし。」
 ぼそり、とセーラー服の少女は零し、濡れ鼠の僕を置いて雨と薄霧の中へと溶けていった。僕は呆気にとれられ、暫くそのまま立ち尽くす。
「……っぃぐしっ」
 容赦なく体温を奪う雨から身を隠す為、辺りを見回した。ふと、寂れた屋根付きのバス停が目に留まった。これ以上、濡れてしまっては風邪を引きかねない、スラックスを汚してしまうのは厭だが仕方ないとバス停へと走る。
 塗装が剥げて錆び付いたバス停看板は、僕等に行き先を示す事を忘れているようだった。その脇に申し訳なさそうに佇む、苔むしたトタン屋根の軒下に身を寄せる。少し黴臭い木の匂いが、一層僕を惨めな気持ちにさせた。詰めていた息を盛大に零しながら、壁と一体化した木製のベンチに腰を下ろす。ぎしっ、と小さな悲鳴が聞こえた気がした。
「何なんだよ、あいつ……」
 傘を奪って濡れ鼠にした悪童の愚痴を吐きつつ、提げていたスポーツバッグをベンチに置いてタオルを探す。ガシガシ、と滴を垂らす髪を拭きながら辺りを見渡してみた。五時半で止まった時計、色褪せて所々読めない時刻表に置き忘れ注意のポスター。ゆっくりと移ろいでゆく僕の視線は、一つの場所で留まった。
 耳朶の下ほどの長さで切り揃えられた濡れ羽色の髪、長い睫毛に縁取られた眼に小さな鼻からずり落ちそうな黒縁の眼鏡。セーラー服に身を包んだ少女は行儀良く脚を揃えて座って読書に勤しむ姿に、綺麗だ、と見惚れた。
 僕の無遠慮に投げつけられる視線に耐えかねたのだろう。ゆっくりと手元の本から視線を上げて、足を放り投げて座る僕を遠慮がちに覗う。
「ぁ、あの……?」
「っ、わるい、」
 慌てて視線を逸らし、俯いてタオルで火照った顔を隠す。垂れたタオルの合間から覗き込む。少女は暫く視線を彷徨わせて居たが、声を掛ける事はせずに再び活字の海へと潜ってしまった。手持ち無沙汰な僕はそっと、瞼を下ろし壁に背を預ける。頁を捲る音と少し早く脈打つ僕の鼓動を伴奏にして、雨音が歌うように心地よく僕の鼓膜を揺する。こんな雨降りの日を過ごすのも好いな、冷たく張り付く制服も髪の毛も不快には思わずに居られた。
 随分と時間は過ぎ去ってしまったようで、蜘蛛の巣塗れの蛍光灯が何時の間にか光を灯していた。僕は腰を上げ、思いっきり伸びをして固まった躯を解す。未だ雨は降り注いでいて、これからの帰り道の事を考えただけで憂鬱になった。
「あの……も、もし、良かったら……」
 危うく聞き逃しそうになった程の小さな声と共に隣から、竜胆色の折り畳み傘が差し出される。予想外の事に僕は目を見張り、幾度か瞬きをしてから漸く言葉を紡いだ。
「ぇっと、なんで?」
「ぇ……ぁっ、」
 今度は少女が一瞬、瞼を瞬かせた後に俯いて視線を泳がす。差し出した折り畳み傘を引っ込め、ぎゅっと抱き締めながら少女は消えてしまいそうな声で、
「わ、私、もうすぐ来るバスで帰るので。あの、良かったら……この傘使ってください」
 少女の気遣いに気付けなかった事に嫌悪しながら、見ず知らずの人間に優しく出来るその姿に少し、何かが揺らいだ。微かに震える折り畳み傘の先を辿れば、白磁の様な肌に段々と紅みが滲んで広がってゆく。
「あ、……じゃぁ、借りる」
 はっと、我に返って少女から折り畳み傘を受け取った。勢いよく顔を上げ、ほっとしたのか少し口元を緩める可愛らしい貌に僕は、否応なく惹かれる。ありがとう、と伝えようとした瞬間、邪魔をするようにエンジン音が鳴り響く。
「ぁ、バスが来たので……」
 少女は逃げるように顔を俯いたまま、そそくさとステップへと足を乗せてバスに乗り込む。意気地なしな僕は、悠々と閉まってゆく扉と水溜まりの泥水を跳ねながら遠ざかるバスを見送った。
「っ、はぁぁ……帰るか」
 いつの間にか止めていた息を盛大に吐いて、折り畳み傘をそっと開く。晴れ渡った小さな蒼空をくるくると回しながら、泥濘む悪路で汚れてゆく裾も濡れてゆく肩先も気にならなかった。

明日は晴れていますか?

明日は晴れていますか?

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-03-30

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