九月の蝉
なんとも形容しがたい、耳障りな音が響く。
それと共に侵入してきた古時計の音で、意識が戻る。蝉の声だった。
手から力が失われていき、いつの間にか首に刺さっていた爪が抜けた。長い間、切るのを忘れていた爪先から滴るそれを認めて、ようやく事態を理解した。
白い首筋には痣が残っている。
頬に垂れた涙を上になぞっていくと、瞳孔が見開かれたそいつの目が見えた。
その瞳には、親愛、尊敬、驚愕、拒否、敵意、憎悪、軽蔑、恐怖……つい一時間前から今までの、あらゆる感情が顕著に表れていた。
だらしなく開いた口からは、涙とは別の液体が流れている。
ふと自らの両腕を見れば、何本も重なった赤い線が残っている。華奢なこいつの、最後の抵抗の証。不快感から、自然と眉を顰める。
―――朝が来る。
投げ捨てられていた制服のシャツを拾って、踵を返す。
ふと、爪先に違和感を感じてそこに目を配る。俺に踏み潰された、蝉の死骸があった。
< three years later >
「獏が実在したらいいのにな」
突拍子もないその発言に、僕は目を丸くした。
「なんで?」
「悪夢を見たからだよ」
恭平くんの視線につられて窓の外を見ると、ざあ、と生い茂る緑が風に揺れた。
同時に、全開にされた窓から熱風が飛び込んでくる。
僕等は二人きり、教室から切り離されたように、ぼーっと紙パックを啜っている。恭平くんはオレンジジュース、僕は牛乳。
「恭平くんも、悪夢なんて見るんだね」
「お前が女装をしてた。……案外似合ってた」
「恭平くん……流石の僕も怒るよ」
「冗談だ、アホ」
妙に迫力のある恭平くんに睨まれて、肩を竦める。恭平くんは視線の先を窓の方に戻すと、それっきり黙りこくってしまった。
じりじりと焼けるような日差しと、それを強調する蝉の声が騒がしい。僕等を包む教室の喧騒も、蝉の声に負けず劣らずだった。
冷房かけてても、人口密度が高けりゃ意味ねぇよなぁ。
ぽつりと呟かれた恭平くんの独り言が、水面に垂らされた黒の絵具のように、僕の脳内にじわじわと染み込んでいった。
意地汚く、牛乳の最後の一滴まで啜る。ずずっ。紙パックを振って、中身が空なのを確認する。振りながら、ふと、人影の隙間を縫って黒板を窺う。綺麗な楷書で書かれた、九月三日の日付。もう八月も終わったというのに、蝉時雨は消えやしない。
視線を目の前に戻すと、恭平くんは鞄を取り出して、今にも立ち上がろうとしていた。
次の言葉を予測する。―――俺、先帰るわ。
「わりぃ、俺、先帰るわ」
ビンゴ。恭平くんが午後の授業をサボるときの恒例の一言だ。
「そろそろ内申に影響出るよ」
「いや、今日はサボりじゃねぇんだ」
意外な言葉に、無意識に瞬きが重なる。ビンゴは取り消しだ。
「なにか、用事?」
「弟の命日。これから墓参りに行くんだ」
「あれ? 恭平くんって、一人っ子じゃなかったんだ」
「俺が高校上がる前に、死んだ。お前にそっくりだった」
「やだなぁ、縁起悪い」
「安心しろ、冗談だ」
恭平くんは目を細めて笑うと、じゃあな、と一言だけ残して、人の波の向こう側に消えていった。ドアを閉める音は、聞こえなかった。
< after a while >
そういえば、あの日も、蝉が煩い夜だった。
今となっては、本当に蝉が鳴いていたのか、それとも俺の胸騒ぎがそう錯覚させたのかどうかは、判断がつかないが。
広哉が弟と似ているというのは、冗談なんかじゃない。むしろ、弟と似ているからこそ、広哉は俺にひっついてくるのかもしれない。これはある種の天罰に違いないだろう。
弟は華奢で、病弱な奴だった。俺は弟が大嫌いだった。いつもへらへらと笑って、兄貴兄貴と馴れ馴れしいあいつを、反吐が出るほど嫌悪していた。三年ほど経った今でも、その嫌悪を拭い切れてはいない。
俺がどんなに殴ろうが、蹴ろうが、あいつは俺への親愛をなくさなかった。
気持ち悪かった。
なんで笑っていられるのか、不思議でたまらなかった。
三年前の今日の夜、俺はあいつの首を絞めた。
墓参りなんて、行かせてもらえるわけがなかった。
俺は逃げただけだった。三年後の今日の夜、あいつと酷く似た広哉の首にこの両手をかけるかもしれないという恐怖から。
―――頭上で、けたたましい蝉の悲鳴が響く。
あの日踏み潰した蝉が泣いているようにさえ聞こえてくる。
両腕に残った傷は未だ消えない。
もうどうすればいいのか、俺には判断がつかなかった。
九月の蝉