執着
4、5年前に書いたものを再掲です。
やや、斜に構えておりますが、よろしければ。
『お兄さん。早く。なるべく早く小屋へお帰りなさい。風向きが変わった。なあに、人間が知らないだけさ。動物たちは皆知ってそわそわしている。人間だって動物の端くれだってぇのに。呑気なもんだ。早く逃げなければ。この辺はもうすぐ光に喰われてしまう。私も家族を連れてここから去る。お兄さんは、あの小屋の中にいるといい。くれぐれも外に出てはいけない。出なければきっと、光に喰われてしまうから。』
お互いに食われなければまた会おう。しばしの別れ。
小屋に帰るときにすれ違ったカラスのおっさんが、私を見るなり大声で言った。はて、光とは何のことですかな。
県の南をゆっくりと走る電車に乗って、終着駅までただぼんやりと、座席に座って窓の外を眺めていた。ここ最近、やけに飛んでる鳥の数が多い。普段は群れを成さぬ、孤独を好む鳥たちまで、列を組み海の方へ向かって飛んでいた。近年、気温の上昇は続いていた。昼間に入ったボロボロの定食屋で見たニュース番組では、ここ数日の動物たちの不可解な大移動について特集していた。平和ボケしたこの国のマスコミに取り上げられるくらいには、動物たちの行動はおかしい。鳥は海を渡り、獣は海を渡ろうとして溺死する。海岸で動物の変死体が多数発見されては、保健所がてんやわんやしているそうな。偽専門家は、ありもしない憶測を口にする。暑いですからねぇ、頭がおかしくなったのでしょう。会場が仕組まれ乾いた笑いでどっと沸く。私は、冷やし雑炊を大鍋から小皿に移しながら、テレビの中で汚く笑うその偽専門家に冷ややかな視線を送っていた。
本当の姿を見ようとしない。知ろうとしない。そのうえ、民衆の笑いを取るためにでっち上げの虚像を語る。ましてや、必死な彼らを馬鹿にしさえする。そんな人間を、はたして本物の専門家だなんて誰が言えるというのだろう。
本物というのは何かに心を奪われて離れられない人のことを指す。いわば、物事に執着する人間の事だ。執着しているだけで‘それ’になりうるのか?と問われれば、それは当然違う。技量と知識が伴うことが最低条件ではあるのだが。
私からしてみれば、テレビに出てくるお偉い偽専門家様方よりも、あのボロボロの定食屋で安価でうまい雑炊を出すおやじの方が、よっぽど本物の名にふさわしいように思われた。料理に対する執着と、安くてうまいを崩さぬ執念。料理の知識と技量。申し分ない。なんて、偉そうに結論づけたところで、にんまりと口角があがるのがわかった。私はいささか気持ちが表に現れやすい。
この車両の座席はかなり古くボロボロで、現代にしては硬めの作りであるが、私はそこそこ気に入っている。利用者が少ないため終着駅まで座っていられるし、がらがら故にお年寄りに座席を譲るなどという、道徳の教科書に載っていそうな人間特有のエ
ゴイズムにさいなまれなくてすむ。
座席を譲る事を利他主義ととらえるか利己主義ととらえるかは個人の解釈の自由だ。私は昔から、利他主義なんて存在し得ないと心底考えてきた人間である。だから、座席を譲るをエゴととらえてしまうのだが、それは私の主観の問題だ。思想に絶対はあり得ない。百人いれば百通りと考えていた方が、世の中を渡っていくには楽だろう。要は、寛容であれと言いたい。誰かが寛容でいられなかったゆえに、散っていった命が幾億とある。思想に絶対を設けた時点で、その思想は他者を殺してまわる兵器になりえる。残念だが他でもない。争いの火種はいつだって思想さ。昔も今も変わらない。人が考える限り。言い方を変えれば、人間が多数存在する限り、戦争は無くならないということだ。
強制された思想は人を殺すのだ。
思想の話はこれぐらいにしておく。
終着駅から、山間を歩いて一時間と少しのところに私の小屋はあった。私はそこを住まいとしている。残念ながら、マイホームというよりかは、やっぱり小屋だ。少し広めのボロボロの、プレハブの小屋のようなものと考えていただければいいだろう。しかも、このボロ屋戦時中に最新の技術を駆使して建てられたものなのだとか。この話は、先代がまだ生きていた頃に私にうっかり口を滑らせた話だ。先代はそれ以上は私に語ろうとしなかった。
この先代というのが、前のこの小屋の主で名前をハチノセと言った。先代は、木の器を作る職人だった。彼もまた何かに執着して生きていたように思う。狂ったように木を切りだし、削り、磨き、形を与える。木の奥に潜む何かを、俺に見えない何かを、彼はずっと見続けていた。だから、きっと最後は木に囲まれて行きたかったのだ。彼はこの森の中で、三十半ばで自ら命を絶ってしまった。
なあ、先代。あんたぁ、木と一緒になれたんだろうか。
何かに執着する人間は、早く命を落とす傾向にあるのかもしれない。きっと、一日に常人の倍は命を燃やして生きているに違いない。まことに残念なことであるが、昔から私は何かに命を燃やし執着することが難しかった。この世に対して、命が燃える上がるほどの興味というものを、まったくといっていいほど抱かなかったのである。
やはり私は、人間としてどこかが欠けている。
ぼんやりと、だが明確に。いろいろ考えてるうちに。
電車は終着駅に着いていた。
電車を降りて小屋に向かって歩く最中、黒い一つの影が私の視界を横切った。失礼。目を凝らして見てみれば、私の小屋の近所を住処としている、山ガラスのおっさんだ。
『お兄さん。』
おっさんは、大きな声で話し始めた。どうやらここにも光がやってくるらしい。動物たちのここ最近の不可解な行動はどうやら、この‘光’なるものが原因らしい。おっさんは、近所のよしみで私に注意喚起をしに来てくれたらしいのだ。おっさんはこれから家族を連れてここを去るらしい。きっと、逃げる場所などどこにもない。きっと彼らもそれを理解しているのだ。この光は影をも照らす。『しばしの別れ』と、飛び去るおっさんの後ろ姿を、私は無言で見送った。
小屋の中にて、『光』について考える。動物をも追いやるその『光』とは一体何なのか。光。ひかり。聞こえはいいが、いつだって光が味方でいてくれるとは限らない。光は正義だとは限らない。
そう考えると。闇は悪、光は善という勝手極まりない固定概念は、いったいどこから湧いて出た。思えば、我々は幼い頃からまるで何かの刷り込みのように、それらを教えられてきたではないか。悪党の色が黒であると誰が言った。白いモノは正義の使者であると。一体何で教わった。悪は、本当に悪なのか。善は本当に善なのか。我々の目の前に存在する正義は、本物だろうか。ああ、そもそも。
正義とは、何か。
考えてもみろ。これは終わらない。父も母もそう教えられてきたのだ。太古の昔。人類が生まれたころから変わらない。目の前を見ろ。正義は、飢えを満たすだろうか。君の命を救うだろうか。正義は、誰かの手を取るだろうか。
誰かのほんとの真心を正義と呼ぶこともある。金と権力と他人の血にまみれた彼らが、自分の都合がいいように、叫び、唱え、教える。どちらも正義だというのだろう。見てくれ、正義はこんなにもわがままだぞ。今の世のほとんどの正義が、俺には後者に見える。
顔には、慈悲深い笑みを浮かべておきながら、背を向ける者を撃ち殺し、それに駆け寄る女子供でさえも惨たらしく殺すのだ。
窓の外が一瞬真っ白く光って、その後大きな地鳴りのような音が続いた。きっと『光』だ。『光』がやってきた。耳をつんざく、悲鳴の嵐が一瞬聞こえて、どこか遠くに行ってしまった。
今、外に出たならば。私は私を、光に喰わせることができる。おっさんは本当に世話好きなんだから。注意喚起といいながら助言に来たに違いないのだ。彼にはきっと、私が本当に欲するところがわかっていたに違いない。
私は未だ眩しい外界に向けて足を進める。地面を踏みしめる。ドアを開けると、光が私を包み込む。暑いのか、寒いのかもわからない。私の体がどうなっていくのかも、よくわからなかった。ただ、懐かしいきがした。懐かしいところへ還る。還りながら理解した。この光は何なのか。これはきっと。きっと、この星の正義なんだろう。星も人と同じということか。星が望んだ結果だ。だからこれを『光』という。正義故に『光』という。その光が、我々の肉体を焼き、精神の髄をも溶かして、死に至らしめたとしても。この星からしてみれば、紛れもなく正義なのだ。空気や水を汚し、大地を踏みにじる我々を滅ぼしたに過ぎないのだから。人の正義と同じことをしたまで。誰も文句は言えまいよ。
私はこの星の正義は、そこまで非常なものではないと感じた。私の感覚が正しいのならば『無』になることはそこまで辛いことではない。撃たれる方がよっぽど苦しむことになるだろう。きっと、この星に生きたすべての生き物が、何も知らぬ間に還った。私の体も、ただ還ろうとしている。それだけのように気がした。じわじわと、感情が溶けだして消えていくような。そんな感じ。そんな、感じ。そして少しの寂しさと。ああ、私も執着していたのか。生きることに。
ああ、なんてさびしく安らかなのだろう。
終着。終着である。ここは世のなれの果て。幾度目かわからない終着と始まりの日を、この星は迎えた。この星も人と同じで大変欲深でわがままだ。自分が生きるのに、害となるものを殺してまわった。つまり、この星もまた、生きることに執着している。
執着は他者を殺し終着を呼ぶ。我々は、ただそれを繰り返すしかないらしい。
執着
結局、生きるのに執着してしまうのです。最後はね。
昔かいたものだから、やっぱり世の中を斜めに見ていやがりますね。まったく、俺よ。生意気なやつだ。