十つの春に

地名などの名称は時代背景に沿った表記をしています。
『雪と花の狭間に』の番外編。蘭と一哉の出会いを綴りました。
時代背景は1997年。ポケモン、ハイパーヨーヨーの人気が出始めた時代です。

プルシアンブルーの少女

――桜の木の下にいるはずなのに――

ただ川縁に咲く桜を見たいだけだった。
プルシアンブルーの少女の頑とした眼差しに見据えられ、立ち尽くすほかなかった。
春を告げる雪柳の香りに包まれているにも関わらず、飛鳥川一哉は全てを純白に埋め尽くす雪の清らかさに当てられた心持ちにさせられた。

「父ちゃん父ちゃん、信号機が横向きだよ?」
「そりゃそうだよ」
「福島も雪国だって聞いてたんだけどなあ。来年は修学旅行で本間達と福島行くと思ってたのによぉ」
隣でお菓子を頬張る花梨を尻目に一哉はため息をついた。普段ならば花梨と同じくらいお菓子に食らい付いているというのに。
無理もなかった。
この春、父親の転勤で福島に転校が決まったので友達と生き別れにさせられた気がして気落ちしていたのだ。
現在、引っ越しの最中で高速道路を下りたところだ。
「本間達が修学旅行来たら会えるかな……」
「バカだな、修学旅行の行き先は会津だろうが。会津と福島は別物だ。ほら見ろ、建物が違うから」
花梨をはさんで座っている姉の清子が毒づいた。

◇◇◇
「よろしくお願いいたします。上のお嬢様も今年中学生でしたか」
「まあ。清子さん、本当に素敵なお嬢様ね。娘とお友達になれると良いですわ」
いかにもな貴婦人らしい風情の女性が発した台詞に、あの凶暴な姉のどこがだ……と一哉はげんなりした。

清子の見てくれは眼鏡の似合う清楚な少女。
4歳になったばかりの花梨とは年齢が離れていることもあり髪を結ってあげたりお菓子を分け与えるなど面倒見の良い優しい姉の姿を見せる。
しかし、車内でのやりとりのように一哉に対しては当たりが厳しくきつい口調で毒づいてくる。
年齢が近いがゆえの気安さと無意識下のやっかみもあるが、清子は筋金入りの男嫌いであった。

新潟に住んでいた頃の清子は女子大の附属小学校に通い、中学はエスカレーター式で寄宿舎があり成績も素行も問題ないのでそのまま内部進学しても良かったはずだ。
しかし、まだ幼い娘を引き離すことを忍びなく思うのが親心かもしれなかった。両親の判断で清子も福島行きに同行したのである。

清子はというと新居のはす向かいにある橋本家の長女と話し込んでいた。
「サヤコっていうんだ。清楚でかわいい名前。サーヤと呼んでいい?」
「うん、いいよ」
清子ははにかみながら礼儀正しく応じる。

姉の激しい二面性にげんなりしていると「ねえ」と声をかけられた。橋本家の長女、慧子だった。
いつの間にか清子は先に自宅に入ったらしい。
清子と同い年だが慧子は背が高い。
見たところ清子の頭のてっぺんが慧子の眉の高さにあった。
なおかつ、慧子は顔つきとスタイルが大人びているので中三ぐらいに間違えられてもおかしくはないだろう。

「一哉君といったよね。あんた何歳? いや、今年何年生と聞いた方がいいか」
モデルみたいな姿の少女だと一哉は思った。ジーパンの長い脚を組んで壁にもたれて問う慧子からは年上の余裕を感じる。
「俺? 五年生になるけど?」
「へえー。蘭と同い年じゃん」
慧子は独り言のように言う。
らん。
花の方か藍色の方かは定かではないにしても美しい名前であると同時に漫画のヒロインのような名前だと一哉は思った。
「らん?」
「私の又従妹だよ。隣町に住んでてしょっちゅう私ん家に来るんだ。あー……だけど蘭は男嫌いで男の友達なんかいらないって断言してたからなぁ。男子に対して苦い思いしたみたいで。美人だけど難攻不落の城だ」
「難攻不落の城って……」
「口説き落とすのが難しいってこと。あんた、蘭のこと気になったみたいだからさ」
図星を刺されて一哉は狼狽えた。確かに気になった。
引っ越し先にいる同い年の子供、しかも女の子だ。
「無理ないわ。引っ越し先で同い年の異性がいると聞いたら気になるべ。私も引っ越した経験あるからなんとなくその感情がわかるよ」
「何て呼べばいい?」
ははっ、と笑う慧子は気さくで人当たりの良い性分なのがうかがえる。目元のキリッとした綺麗な顔だが、きつそうな人という印象を抱いたのは否めない。
きつい印象を覆す笑顔に、口調のがさつさや馴れ馴れしい態度はさておき、とりあえずこの人はいい人だと一哉は認識する。
「慧ちゃんでいいよ。みんなにそう呼ばれてっから」
「慧ちゃんはどこから来たの?」
「ドイツから。ハンブルクっていう海をはさんで北欧と隣り合ってる大都会の港町」
事細かに説明をされてもドイツの都市ではベルリンとミュンヘンしか知らないので一哉は「外国っすか……」と相槌を打つしかなかった。
ただ、都会の港町と聞いて新潟港を懐かしく思うのも否めない。

それからの数日間は慌ただしかった。
清子の制服の採寸に福島駅前の百貨店に行き、一哉も小学校の制服を誂えた。
新潟市内ほどではないが、そこそこ栄えている街だ。
果樹栽培が盛んで、夏は傷みかけの桃が安く手に入り、秋は梨とブドウ三昧、サクランボは無人販売がリーズナブルな値段で狙い目だ、桃は傷みかけが一番うまいと慧子から聞けばワクワクした。

小学校では早速友達ができた。
合田康範といい、同じ日に同じクラスに茨城の勝田市から転入してきた彼とは校長室での挨拶の時には既に意気投合した。

「しっかしお前の苗字って言いにくいよなぁ。前の学校にカズヤって名前のやつがいて紛らわしいしさ、お前んこと飛鳥と呼んでいいけ?」
小学生ながらに合田は野太い声である。
転校生にして合田はクラス一の大柄な体躯を誇ることになった。
まだ男子小学生の制服にハーフパンツが普及していない時代。
短パンの制服は合田の立派な太ももを強調させ、見ているだけで寒々しさを覚える。
「あ、うん。俺、前の学校でも飛鳥って呼ばれてたよ。ゴウダ、この辺で川ってある?」
「えー。川なんて知らねえよ」
「悪い。ゴウダも来たばっかだよな。俺さぁ、川が見たいんだ。新潟って日本一長げぇ信濃川って川が街ん中を流れてるのよ。今頃は桜がきれいなんだ。桜咲いてる川縁が恋しいのよ」

通りすがりの男子が足を止めて「川?」と聞く。
クラスの男子で最も背が低いこの少年の名は浜津陽一郎といった。
「それなら荒川と松川があっぺした。えーと、飛鳥とゴウダ? 川でお花見したいのかい?」
浜津の雰囲気は小猿、またはリスに似ていた。小柄な男子特有のキィキィした声で浜津は耳寄りな情報を提供する。
「うん」
「行くなら松川の方が近いよ。放課後一緒さ行くべ」
「えー、いいの? ありがとね浜津君」
「どういたしまして。ハマちゃんでいいよ」

◇◇◇
「橋の上から見る感じでいいかい?」
「オッケー」
その日の放課後に一哉は早速合田と浜津と松川の桜を見ることにした。
桜がまだ残っていたら週末に宴会ごっこでもするかと浜津が提案し、一哉と合田は即決でオッケーを出す。
「隣の小学校だよ。ずいぶん古いべ? あ、ここのシュークリームが旨いんだ」
隣町の駅を通りすぎるとレンガと鉄筋コンクリートを組み合わせた古びた校舎が見え、浜津が隣の校区の小学校だと教えた。
道路をはさんだ真向かいには洋菓子店があり、歴史のある洋菓子店だと浜津は言う。

『隣町に住んでてしょっちゅう私ん家に来るんだ』

数日前に交わした会話を思い出した。
「ハマちゃん。うちの学年に『らん』って名前の女子いねえよな?」
「『らん』なんて名前の女子はいねえよ?」
「慧ちゃんの又従姉妹いねえのか。じゃあこの学校にいるのかな」
あくまでも独り言のつもりだったが突然糸目をかっ開いて血相を変える浜津に一哉は驚く。興奮気味に浜津は早口でまくし立て始めた。
「慧ちゃん!? 慧ちゃんって言った!?」
「慧ちゃんって橋本さん家の? 俺ん家の斜め向かいに住んでるけど?」
「そうだよ! 慧ちゃんってうちの学校じゃ有名だよ。ただでさえ外国から来たってだけで注目の的なのに美人だからうちの学校のやつらはみんな知ってるの。慧ちゃんかー、女だけどマジでかっこ良かったよなぁ」
俺の感心は『らん』にあるんだけど……各々、異なる少女に感心を向ける一哉と浜津。
その様子を面白そうに眺めるは合田だった。

◇◇◇
まだ桜が咲いている。

時点で桜の花が満開の一歩手前に差し掛かっているのが見て取れる。
宴会ごっこの下見だと口実をつけ、一哉は松川の川縁に沿って歩くことにした。
元々運動神経は良い方で、毎年春になると学校の遠足で角田山を登っていたからか長距離を歩くのは苦ではない。

福島って桜は多いけど雪割草はないよなぁ。
あの山には雪割草があるのかな……と一哉は信夫山を見た。
アニメでは学校の裏山として街中に山がある情景を見てはいたが、現実に街中に山が鎮座するなど甚だ珍しい話であろう。

合田と浜津と桜を見に歩いた際に通りすぎた隣町の小学校から、更に東側にある隣の小学校区まで差し掛かり、学習センターの手前にまで行き着く。
学習センターの手前には野球場らしき運動場と、芝生の生えた広大な河川敷がある。橋で途切れている箇所はあるものの、松川沿いには桜並木が東西にずっと続いていた。
ソメイヨシノに混じり、白い小さな山桜と八重の雪柳もある。
女々しいと言われるから公言はしないが、花を見るのは好きだ。
帰りに隣の小学校前の菓子店で噂のシュークリームも買っていこう。
そう意気込んで土手を上った一哉は足を止めざるを得なかった。

桜の木の下に少女がいた。
膝丈のかっちりとしたワンピースを着ており、何をするわけでもなく桜の木の下に佇んでいた。
辺りを包み込むは雪柳の香り。
制服調のワンピースは一見して紺色だが、紫と灰色味がかったその色は少女の肌の白さを引き立てる。

この色の名はプルシアンブルー。

小難しい名前を知っていたのは、持っているコミック用のアルコールマーカーの中で最も気に入っている色だったからだ。
数ある青の中でも渋めの、硬派で貴族的な青。
真っ黒い髪の毛に色白な肌の者はクラスに必ず複数人いるが、少女の肌はただ白いだけではない。
白にうっすらと紅を掃いた、もうすぐ花開こうとする百合の蕾のような可憐な色をしていた。
桜の色、萌木の色、春の空、そしてプルシアンブルー。
この上ない、色彩の美しさを目の当たりにした。
桜の花々の隙間から差し込む陽光を背景に少女は一哉を射るように見据える。「誰?」と言いたげな、警戒心の混じった訝しげな顔に気の強そうな眼差し。
気の強そうな眼差しとはいえ、威圧的な強さではない。
ならぬことはならぬ、を地で行くような頑とした強さを宿す眼差しだ。
もし目の前に娘子隊やジャンヌ・ダルクがいるならば同じ目をしているに違いない、一哉はそう思った。

しばらく少女と対峙を続け、根負けしたのは一哉だった。
「あの……」
躊躇いがちに少女に声をかけたその時、一迅の風とともに少女のシニヨンを飾るリボンがなびく。
春の空を写したかの如し淡いグレイッシュブルーの薄手のリボン。
シニヨンの下に長めに垂らしたリボンの先が硬派な少女に可憐さを添えた。
「桜、好きなの?」
少女の切れ長の瞳から険しさが和らいだのが見て取れた。
引き結んでいた唇が、かすかに動く。
一哉はシュークリームを買うのも忘れて駆け出していた。

顔つきのかわいい子やきれいな子なら見たことはあるが、先ほどの少女の美しさは群を抜いていた。
全身から滲み出る、雪の如し高潔さは十つの少年に眩しすぎた。
凛々しさと気高さを併せ持つ少女など、未だかつて会ったことはない。

桜を見に来ただけなのに、全てを純白に埋め尽くす真白なる雪を見たような気がした。
少女と話したかったのに走り出してしまった。
今なら走り出した理由がわかる。照れくさいからだ。

――俺、あの子に会いたい――

少女の険のある目の光が和らぎ、ほんのりと笑みを見せたと同時に己れの心臓が高鳴ったその時、一哉は「そうなんだ、じゃ」と返すと心臓の高鳴りを合図とばかりに駆け出した。
少女の美しさに見惚れたことを、目に見えない気高さ、高潔さを感じ取り、恋を覚えたことを少女に知られたくなかった。

逃げ出したのに、会いたい。
――プルシアンブルーの少女に恋をしてしまった――

あの子は自分より頭半分ほど背が高い。
清子と同じくらいの背丈なので、たぶん中学生かもしれない。
プルシアンブルーの少女のことを清子に聞くのは気が引けた。そんな子知らないと一蹴されるか、冷やかしを喰らうかのどちらかだ。
だからといって、慧子に聞くのも気が引ける。
それなのに、あの子が、プルシアンブルーの少女がどこの誰かを一哉は知りたかった。

◇◇◇
一哉は非常にわかりやすい少年で、転校早々瞬く間に『転校生が恋煩いした!』と噂になった。
転校当初はハキハキと受け答えることができていたのに腑抜けた口調になり、休み時間の毎に頬杖をついてぼんやりするか突っ伏すように机に顔を乗せ、クラスメートに「具合悪いの?」と聞かれても上の空だった。
そのうち、人をからかうことが得意な女子が「やーだぁ~。あんた恋でもしたんじゃないのぉ?」と囃し立て、焦った一哉は顔を真っ赤にしながら全力で否定し出したのでクラスメート一同に知れ渡ることになったのだ。

「ゴウダく~ん恋したことある~?」
昼休みに外に出たは良いが一哉は校舎の壁に背をつけて座り込んだままだ。

元々、キリッとした顔つきの一哉。
紺色の真新しい折襟の学生服がよく似合い、前時代的なデザインの制服は彼の目鼻立ちの凛々しさをより引き立てた。
転校初日に校長から「男前だね」と褒められた彼が腑抜けている様は教員達からも目も当てられない有り様だと心配された。
「なんだよ君付けって。恋したことはねえよ? 飛鳥の恋煩いの噂は本当なのけ?」
「相手が他の学校の子だとか、中学生かもしれないとか他の学年のやつらにまでいろいろ噂されてるよね」
浜津の言うとおり、噂は尾ひれを広げて学年の垣根を越えて蔓延した。
昨日は知らない六年生から「頑張れよ」と応援を兼ねた冷やかしを受ける始末だ。

「たぶん中学生ぐらいだと思うけど、わかんないんだよ。あの子がどこの誰かも」
「どこで会ったんだよ?」
「松川の桜の下」
パステルカラーの春の空を見上げ、焦点の定まらない眼差しで一哉は答える。
「ずいぶんロマンチックな出会いなんだね」
「また松川さ行ってみろよ。ところで、その子かわいいのけ?」
なぜか合田が色めく。
「かわいいっつうよりは美人。しかもただの美人じゃねえぞ? 雪のような感じ」
「雪のようなって言われてもわかんないよぉ」
「降ったばかりのまだ足跡もついていない雪原を見た時、胸のあたりがスーッとならない? あの子を見たらそんな感じしたんだよ。紺色の服がすごく似合ってて、団子にした髪の毛につけたリボンがたなびいて、頭身高くてスタイルが良くてバレエやってそうな子だったなぁ」
こまっしゃくれてそうだな、と言う合田を浜津が軽く叱った。
「ゴウダ、友達の好きな女にケチつけるなで」
「それにしても飛鳥のやつ重症だわ。早くなんとかした方がいいな」
「でも、どこの誰かわかんないんだべした?」
話し込む三人に近寄る足音。まずは浜津が上を見る。続いて、合田が顔を上げた。
関わりはないが、隣のクラスの女子だとは知っている。
一哉の視界の片隅に紺色のジャンパースカートの裾がちらついている。女子が来たか……と、うっすらとわかった。
「アホ、中学生が小五のガキ相手にすっか?」
女子児童は突然きつい言葉を投げかけたので、すかさず浜津と合田が擁護に入る。
「おいおい、言い過ぎだで……」
「そうだよぉ! お前言い過ぎだよぉ!」
立ち上がりながら強気な態度に出る合田に怯むことなく、女子児童は冷たく言い放つ。
「だってそうだろ? 中学生から見たらガキでしかねえべした。じゃあ、あんたら三年のガキにときめくのかい?」
「いいえ、ないっす」
合田と浜津が自信なさげに答えると吐き捨てるような物言いで「そういうことだよ」と残して女子児童は踵を返す。

トゲトゲしい態度を取る者は男女問わず一哉は苦手だ。
普段ならばお得意の屁理屈で応戦できるが、恋煩いで弱っている今は打ちのめされるほかなかった。
合田が「なんだよあいつ。あんなきつい性格ブス願い下げだ」と憤る傍らで、半ば放心状態の一哉に浜津が戸惑いつつ気遣いの言葉をかける。
「早く見つかるといいね、君の好きな人」

◇◇◇
「カズ、あんた本当にいい加減にしてよね。変な噂出回って恥ずかしいんだけど」
清子が鬼みたいな顔で見下ろす。
頭だけ出してコタツに潜り込みながら昭和末期のアニメの再放送を見る一哉は「出たな~。セーラー服着た鬼婆」と気だるそうに応戦した。

「うちの学年で噂になってんの。あんたが知らない女の子に恋煩いして様子が変だって。
ただでさえ新潟から来たってだけで先輩から『コシヒカリ』ってあだ名つけられて珍しがられてんのに入学早々妙な噂に巻き込まれていい迷惑だ。
私が自分の意に反して悪目立ちするのが嫌いなの分かってるだろ?」
「俺なんて六年生から『信濃川』だよ。クラスメートからは飛鳥って呼ばれてんのに。奈良県だか新潟だか分かんねえ始末だよ」
「サヤちゃん」
台所から呼ぶ声に清子は従う。
「ちょっと、そっとしてあげたら?」
「お母さんは恥ずかしくないの? 転校したしりからあんな有り様なんだよ」
「別に恥ずかしくはないけど心配ね」
清子をそのまま中年にした容姿の母、寧子は様子のおかしくなった一哉を心配しながらもむやみやたらに口出しをしないことにした。
親に恋愛事に口を挟まれていい気分にならないことを寧子は理解していた。
寧子と清子は眼鏡に清楚な面差しがそっくりな母子だが、物言いは正反対だ。

「でも、宿題サボったとかの問題行動にはなってないんだし、そっとしてあげよう?」
確かに問題行動には至っていなかった。
宿題はしっかりこなしているし(終わらせるペースは通常より格段に遅くなったが)地頭は良かったので小テストは平均点をキープしている。
「サヤちゃんは……噂の女の子知らないの」
「知らないに決まってる」

なんだかんだでアニメの展開が気になる清子はリビングに戻った。セーラー服のままソファーにどっかりと腰掛けて脚を組む様は暴君そのものだ。
弟への態度はともかく顔つきは愛らしいので友達から「お前の姉ちゃんかわいいよなぁ」と羨ましがられたが、その度に反論したものだった。
「姉ちゃん身長いくつだっけ?」
コタツに寝転んだまま一哉は清子に問う。
「なんだ藪から棒に。私? 152だったよ」
「あの子もそのぐらいかぁ」
「ねえ、あんたの新しい友達、ジャイアンつったっけ?」
「ゴウダ?」
「そうそう。ゴウダ君。あの子デカいよね? 身長、私と同じぐらいあるんじゃん?」
一哉の頭に、うっすらとだがある可能性が浮かびかけるが、男嫌いな姉の声によってすぐに消えた。
「姉ちゃん、男嫌いって治らねえの?」
男嫌い。慧子の従妹だか又従妹の「らん」も男嫌いだと言っていたな……と思い出したのだ。
「うるさいなぁ。そうだよ。男は中学生でも野蛮でアホでガキで小汚ない。
あっ、でも眼鏡美男子の音澤会長は別。会長は紳士だし知的だし、ラッパ吹いてる姿がかっこいいんだよねえ。音澤会長って慧ちゃんの親戚のお兄さんなんだよ。
男は嫌いだけど、会長みたいなジェントルマンなら男でも好きだよ。慧ちゃん、うらやましいな~。
それにひきかえ、うちの学年の男子ときたらガキだし野蛮でうるさいし小汚ない。あーあ、福島にも女子中あると知ってたらそっち受けてたわ」

小学校でも中学校の生徒会長がかっこいいらしいと噂になっていたことを思い出した。
吹奏楽部の部長でトランペットを吹いている、眼鏡の似合う知的な美男子と聞く。
あの子がもし清子と同じ学校に通う中学生だとしたら、かっこいいと噂の生徒会長をどう思っているのだろう。
清子と同様に黄色い声を上げているのかもしれない。
あの子に好きな男子はいるのだろうか、そう考えた途端に一哉はコタツにもぐり込んで身悶える。
雑念により、頭にうっすらと浮かびかけた「ある可能性」は、すっかり消え失せた。

◇◇◇
今度こそはシュークリームを買うのだと一哉は再び松川へ赴いたがプルシアンブルーの少女はいない。
シュークリームはあくまでも口実で、本当の理由はプルシアンブルーの少女に会いたいがためだったので落胆した。

逃げ出したことを謝りたかった。
少女が許してくれるなら、友達になりたい。
気晴らしに浜津から聞いた噂のシュークリームを買い込む。正式にはシューパイというらしく、パイ生地のように層になっている生地が特徴的だ。

「飛鳥!」
複合型のスーパーマーケットの横を通り過ぎると合田がいた。
この地区は市街地から少し離れた郊外に位置するが、その割には栄えている便利な町だ。
合田は買い物に来たらしくマックのハンバーガーの入った袋を提げている。
「うわーマックだ! うまそう! 見て見て、やっとシューパイが買えたよ」
「いたのけ? お前の好きな人」
顔を横に振った。
「しかし、飛鳥の好きな人はなんで松川にいたんだろうな。そういやお前、バレエやってそうな子って言ったっぺ?」
「あくまでも雰囲気だよ。髪の毛団子にしてたし立ち姿がきれいだったんだ」

鮮やかに、脳裏に甦るリボンの端。
その可憐さと神々しさは天女の羽衣にも劣らない。
プルシアンブルーの少女を想うと柄にもなく次から次へと美しい喩えが浮かぶから不思議だ。

「バレエ教室を見てみたらどうだ?」
突拍子もない提案に一哉は真っ赤な顔で却下する。
偏見だが、一哉にとってバレエ教室といえば女の子が華麗に舞う花園。
がさつな自分には噛み合わない優雅な世界。
そういった場所に『姉のセーラー服を拝借し流行りのハイパーヨーヨーで懐かしのスケバン刑事になりきり、ゲームボーイとポケモン、時々バドミントンで過ごす純情な男子小学生』が乗り込む勇気はない。
「いやいやいや! 恥ずかしいっつーの! それなら姉ちゃんの忘れ物届けに来たことにして中学校さ乗り込む方がいい」
それほどセキュリティの厳しくない時代らしい案である。
「おー、ナイスアイデア。お前頭いいな」
合田が手を鳴らして褒めたところで一哉は「いや、しかし」と思い直している様子だ。

「どうかしたか?」
「ゴウダも姉ちゃんと身長変わんねえからさ、もしかしたらあの子もたまたま背が高い小学生っつう可能性があるんだよ」
「あー、そうだよな。ますますわからなくなってきた。思いきってさあ、慧ちゃんって人に同じ学校にそれらしい人がいないか聞いてみろよ?」
「聞いてみるか……」

◇◇◇
基本的に良い人なのは知っているが慧子は悪乗りしやすいタチであるので冷やかしを受けると思うと気が乗らない。
だいたい中学生なら部活に出ていて帰りが遅い……とはいえ慧子は帰宅部(その代わりバレエと声楽教室に通いづめ)だったので自宅にいるかもしれない。

合田と鉢合わせたスーパーからさほど離れていない所に橋本家の生け垣が見える。金持ちなのか立派な門構えで薄紫のライラックの生け垣が家の周りを囲っているのだ。
ちょうど、ガードの固そうな門構えから少女が出るところだ。
紺色のセーラーカラーが見え一哉は早足で踏み出すが、足を止めた。

少女は慧子ではない。
中学校のセーラー服だと思った服は膝丈のワンピースだった。
第一、紺色は紺色でも勝色と呼ぶべき黒みを帯びた中学校のセーラー服とは色調が違う。

紺色に、紫と灰色がかった、知的で硬派なプルシアンブルー。

「あっ!」
一哉が声を上げる前に少女が声を上げる。
あの日、シニヨンに結っていた髪をその日は結い上げていない。
代わりに春の空に似た淡いグレイッシュブルーのカチューシャを付けている。
そしてプルシアンブルーのワンピースも。

少女は物怖じせずに一哉に向かってずんずんと歩を進めた。女王様の如し堂々たる振る舞い。
間違いなく、プルシアンブルーの少女だった。
いかにもなお嬢様風のエナメルの靴がセーラーカラーのワンピースに似合っている。

「やっと会えた! 探していたんだよ。だって、私に質問したのに答えようとしたら走り出して行ったんだもん」
足を止めると同時に少女はハキハキとした口振りで言った。
責めているニュアンスはない。
探し物を見つけたような、驚きと安堵が入り交じった表情だった。
「ごめん……なんか恥ずかしくなってさ」
一応、正直に答える。
少女は全然と言って首を左右に振る。
「私、男子の友達はいらない主義だけど、あなたとなら仲良くなれそうだと思った。スレてなくて素直そうな面構えだったから。だから、あれ以来ずっとあなたを探してたの」
「そうだったんだ……。本当にごめん」
俺も探してたよ、そう言いたいのを堪えた。
少女に執心していることを悟られることが恥ずかしかった。

「この前の質問に答えるね。桜は好きだよ。でも一番好きなのは蘭の花。派手な洋蘭よりは春蘭や朱鷺草みたいな控えめな蘭が好き」
耳触りの良い、落ち着いた声だ。
桜について聞いたはずが蘭の花の話題に飛躍したので、一哉は藪から棒にと面喰らう。
「桜の話をしたのになんで蘭の話になるの?」
それまで静かな少女の声色が明るさを帯びた。
「私、蘭っていうの」
弾んだ口調で名乗る蘭の口元が微笑む。

「あなたの話を聞かせて?」

あの子に会いたい

――桜を見に来ただけなのに――

あの子はどこへ行ってしまったのだろう。
「桜、好きなの?」
そう聞かれたから答えようとしたのに、あの子は顔を真っ赤にして走り出してしまった。
音澤蘭はため息をついた。
あの子となら仲良くなれそうだったのに。

「慧ちゃん、又小にこんな子いなかった?」
蘭は又従姉である橋本慧子の部屋に入るなり桜の下で出会った少年の話を切り出す。
「なんだ、いきなり?」
「バレエ教室が始まるまで時間あったから松川で桜を見てたら会ったの。附属の制服に似てたけど紺色の制服は又小だべした。あのさ、背格好からしてたぶん同い年なんだけど、つり目気味で猫みたいな大きな目をしてた。眉毛が変に凛々しい……男子にしてはきれいな顔」
回転椅子に腰掛けた慧子は、くるりと蘭のいる方へ向きを変え、ロダンの『考える人』のポーズそのままに膝の上で頬杖をつく。

この美貌の又従姉は一挙手一投足がモデルさながらに決まっているので、蘭は身内ながらに彼女に見惚れてしまうことが多々ある。
向き合っている今でも、言葉には出さないが高い鼻と白磁の如し肌、キリッとした目の形を美しいと感嘆していた。
「きれいな顔って、川縁で美少年と会ったのかい? 男嫌いのあんたもついに新たな恋の始まりが来たか?」
冷やかすつもりはない慧子だが、蘭の色白な頬が真っ赤に染まる。
「違うって!」
「じゃあ、なんで早口でまくし立てる? いつもの蘭じゃないみたいだよ」

蘭はムスッとして一旦黙り込む。
元々紺色は好きな色であったが、少年との邂逅から、蘭は意識して紺色の洋服を着るようになった。
少年に『桜の下にいた女の子』だと分からせるためである。
この日も紺色のアンサンブルカーディガンに深緑のチェック柄のスカートを身に付けている。スカートと同じタータンチェックのカチューシャも髪に飾った。
「質問しておいて逃げ出すんだもん」
「怒ってんの?」
違う、と首を振る。
「仲良くなれそうだったのに……」
「何を根拠に仲良くなれそうだと言い出す?」
「桜を見てたら気配したから何だろ? と思ったらあの子がいたの。知り合いならともかく全く知らない人だからこういう時って悩むじゃん?
しかも男子だし。私、男子嫌いだから嫌なことしてきたらやだな~って警戒したんだよね。
でも、あの子もどうしたらいいか悩んだと思う。そしたら『桜、好きなの?』って。きれいな顔してるだけじゃなくて、素直そうな面構えしてた」

慧子は美少年、猫みたいな顔、凛々しい眉、とつぶやくと何かを確信したらしく椅子から立ち上がる
「思い当たる子なら一人いる」
「誰!?」
蘭は身を乗り出す。
「今から行くぞ」

そこは橋本邸宅のはす向かいにある新築の戸建てだった。四角いモダンな造りの住宅。
「友達の弟があんたと同い年なんだよ。いるかなー」
「飛鳥川さん? なんか、すごい苗字」
「音澤って苗字も甚だ珍しいだろうが。なんで私は橋本って平凡な苗字なのかなあ。母さまの旧姓の九条の方が富豪っぽくてよかったわ」
雑談しながらインターホンを鳴らそうとしたが、縁側から小さい女の子が顔を出す。
「こにちはー」
ぱっちりとした二重まぶたの大きな目。誰の目から見てもかわいい顔をしている。
年格好は、4歳ほどだろう。
「あらぁ、花梨ちゃん。今日もかわいいねぇ~。お兄ちゃんいるぅ?」
初めて聞いた慧子の猫なで声に蘭はげんなりした。
「兄ちゃんね、ゴウちゃんとこさ行った」
「なんだ、いないか。サーヤは合唱部の練習だしなあ。明日仕切り直そう」
「明日はバレエ」
「そうだった。明後日は私が声楽教室か……」
「しあさってはフルート教室……」
「慧ちゃん?」
澄んだ声。女の子の背後からひょこっと現れたのはショートヘアに眼鏡をかけた細身の女性だった。
「おばさま、こんにちは。一哉君いません?」
「友達の家に行ったの。ごめんねー。えーと、お友達?」
二月の末に10歳の誕生日を迎えたばかりの蘭だが、身長が150センチに届いた頃から中学生と間違えられることが増えた。
母方の家系特有の、黒目のハッキリとした切れ長の目のおかげか蘭は締まった顔つきをしているので更に大人びて見えるのだ。
友達と聞いたことから、眼鏡の似合う婦人も蘭が中学生に見えたに違いいない。
「又従姉妹。蘭といいます」
やたら感心した様子を見せる眼鏡の似合う婦人に蘭はぺこりとお辞儀をしてみせた。
「あらら……! きれいな子ねえ、目が切れ長で……。慧ちゃんのところは美人の家系なのね」

進展もなければ収穫もなく、その日は帰ることにした。
次の休日にまた慧子の自宅へ行こう、と決めた。
慧子の言う『心当たり』が蘭は気になって仕方がない。

◇◇◇
「蘭、あんたどうかした?」
「あ……」
気付けば教室は人がまばらだ。親友の鵜沼留美が椅子に腰掛けたままの蘭を見下ろす。
四年生に進級したと同時に相馬市から転校してきた彼女とは出席番号と自宅が近いことから仲良くなった。

この日の三時間目と四時間目は学区内にある幼稚園への実習だ。
主な内容は合奏と合唱の披露、そして園児との交流である。
「そっか。幼稚園訪問だったね」
「そうだよ。蘭のフルートを披露するチャンスなのに。優等生のあんたが最近ボケ~っとしてて変だよ。何があった?」
殺伐とした口調でも端々に留美なりの気づかいを感じ取れる。その証拠に、つり上がった眉をひそめていた。
「ごめん。……詳しいことは帰りに話す」
蘭はあたりを睥睨する。幸いにも厄介な人物はいない。
秘密にしたい事柄を嗅ぎ付けてはどんな秘密かを探るべくしつこく食い下がるやつがクラスに若干名は必ずいるのだ。

周りの児童がリコーダーや鍵盤ハーモニカの袋を持ち出す中で、蘭だけがボストンバッグを小さくしたような革製の黒いケースを持つ。
フルートのケースだ。
「しかし、蘭のワンピースいいよなあ。私、こういうシンプルだけどこだわりのある服好き」
リコーダーの袋を片手に、留美はまじまじと蘭の着ている服を眺めた。
「横浜のお祖母ちゃんが誕生日プレゼントだって贈ってくれたんだ」
マリンルックのワンピース。
紫と灰色味を帯びた紺色で、四角い襟のセーラーカラーにブルーグレーの細い紐を編み上げたデザインが気に入っている。
蘭は言う。「お祖母ちゃんが、この色はプルシアンブルーって言ってた」と。

桜の木の下で、少年と会った時に着ていたワンピースだった。

◇◇◇
お遊戯室という名の体育館にて合唱と合奏の披露を終えた小学生達は、園児達との交流の時間に入る。
園庭に出ると「笛吹いてたお姉ちゃん」と園児達がわらわらと蘭に集まり、まとわりついてきた。
ちびっ子は好きだし懐かれるのは嬉しい。
だが、バレエ教室以外で未就学児と関わる機会が薄いためかちびっ子への接し方がおぼつかない蘭は戸惑うほかなかった。
そんな中でワンピースの裾を引っ張られた。
振り返って見下ろすと一人の女の子が蘭のワンピースの裾をつかんでいた。
よくある二つ結びだが、飛び抜けて愛らしい顔立ちをしている。
「この前の……」
名札を見て間違いないと蘭は確信する。
慧子の近所に住んでいる、すごい苗字の家の『カリンちゃん』だった。

カリンちゃんこと花梨は石拾いをしたかと思えば散った桜やサザンカの花びらを集めたり、友達と土に絵を描いたかと思えば「あっ、ありんこ!」と嬉しそうに叫んでアリの観察を始める……など、気まぐれに遊ぶ。
後ろからは蘭と留美が歩調を合わせて付き添うのだった。
アリの観察を一番気に入ったらしい花梨はアリを眺めたまま口を開いた。
「あのね。兄ちゃんね、変なんだよ?」
「んー、お兄ちゃん?」
作り笑いで蘭は動揺を隠す。
あの日、慧子の言う『心当たりのある少年』は友人宅に出向いて会えなかった。名前は確か……。

「花梨ちゃん、お兄ちゃんいるんだ」
留美が花梨の顔をのぞき込みながら聞く。
肉食獣さながらの威圧感を纏う佇まいから転校早々「なんか怖い」と同級生達から遠巻きにされたまま現在に至る留美だが、子供は好きらしく花梨とその友達を見下ろす眼差しは優しいものとなる。
「うん。兄ちゃん、変なんだよ?」
「変? お兄ちゃん、どうかしたの?」
一生懸命にアリの観察をする小さな横顔に蘭は問いかけた。
「あのね、兄ちゃんね、桜を見に行くって、外に出たの。そしたらね、女の子と会ってね、ポケーっとしててね、ご飯も食べないの」

桜。
胸の中でドラムを打ち鳴らすかのように心臓が高鳴り始めた。
心臓が奏でる独奏曲は、もはや誰にも止められない。
平常心、平常心だと我が身に言い聞かせて蘭は更に花梨に問いかける。
「花梨ちゃん、お兄ちゃんの名前、何ていうの?」
ようやく、花梨はアリの巣から蘭に向けて顔を上げた。
「えーと、カズちゃん!」

◇◇◇
名札の文字数が多くて見えなかったが「一」の字が書いてあったような気がする。

少年を警戒しなかったと言えば嘘だ。
しかし、蘭を見つめる少年の眼差しには敵意など見受けられなかった。

濃紺の、折襟の制服が似合う少年。
高めの整った鼻筋と、黒目がちの澄んだ瞳が美しい。
如何なる時も少年は十つの少女の胸を離れなかった。

――あの子に、会いたい――

次に会えたら彼の質問への答えを話そう。桜は好きだと。
そして一番好きな花の名も。
少年の澄んだ瞳に、再び見つめられたい。

◇◇◇
「男嫌いの蘭にも春が来たんだねえ」
「それ、親戚のお姉さんにも言われた」
いつも慧ちゃんと呼んでいる慧子を「親戚のお姉さん」と呼ぶことに少しの違和感を覚えるものの、それが一番伝わりやすい表現なのは事実だ。
帰り道、留美に事の経緯を打ち明けた蘭。
留美は蘭を冷やかすこともなく「会えるといいよな、あんたの好きな人」とコワモテを笑顔に変えて励ました。
帰宅後、部屋にランドセルを置くなり蘭は自宅から駆け出した。

「慧ちゃん!」
玄関の引戸が開くなり蘭は転がり込む。息が弾んでいた。
又従妹の両肩を支えて「なんだ、息を切らして」と驚く慧子は中学校のセーラー服のままだ。慧子の眉下で揃えた前髪の隙間から、白い額と直線的な眉がちらちらと覗く。
とりあえず、と蘭は和室に通され慧子の母の薫が紅茶とお茶菓子を運んできた。
ベルガモットの香り。紅茶はアールグレイだ。

「今日は幼稚園の交流会だったって? 清水が丘の五年生が来る日だってサーヤのお母さんが言ってたよ」
「そう。行ってきた。慧ちゃん、斜め向かいの家の子いる?」
いつもならばアールグレイの香りを楽しみつつゆったりと飲むのに、この時はくつろぎすらじれったい
「一哉君? わかんないけど張り込んでみるか?」
「うん!」
「わかったから。まずは紅茶飲んで落ち着け。あんたの好きなルマンドとエリーゼの白もある。ほら、縁側さ来な?」

蘭は促されるまま縁側に腰掛けた。ライラックの生け垣は薄紫の小さな花を咲かせる。
10年ほどドイツで生活していた反動なのか、慧子の両親は日本風にこだわり尽くした庭と家屋を気に入っているそうだ。
例えば、敢えて苔むしさせた石灯籠に、決して大きくはないが趣のある藤棚。古伊万里らしき水盤には椿を浮かべている。

それでもドイツの工芸品やイベントには愛着があるようで、クリスマスの毎にはアドベントとして薫が作ったシュトーレンを食べ(しかし慧子はベタベタするからとシュトーレンを好まない)玄関にはくるみ割り人形を飾る。
今、縁側に置かれているお茶菓子を盛り付けた器はマイセンの器だ。

慧子の言う『心当たり』が正解かもしれないと蘭は語る。

蘭の隣に腰掛ける慧子は『心当たりのある少年』が四月の頭に新潟から越してきたこと、花梨の他に慧子と同い年の姉がいることを話した。
「あの子、新潟から来たの?」
「うん。そいつの姉……清子って名前でサーヤって呼んでるんだけど、サーヤとは同い年で友達だよ」
「素敵な名前だね。清楚で、高貴な感じ」
「サーヤも男嫌いでさ、せっかくかわいい顔してるのに男子に対して警戒心丸出しなもんだから早速男子が怖じ気付いてんの」
蘭と同じだなと笑う慧子は隣に座る又従妹を見やる。蘭はワンピースの胸元のリボンに視線を下ろしていた。
心ここにあらずとばかりにぼんやりとした蘭を気づかい、慧子は「どうした?」と顔を覗き込む。
「実はさ、このワンピース着ていた時に会ったの」
胸元の編み上げたリボンの先をつまんで、蘭は澄んだ瞳の美しい少年を思い出す。

紺色の、折れ襟の学生服を着たあの子。
あの子をかっこいいと思ったのは、凛々しい顔立ちはもちろんだが学生服が似合っていたからかもしれない。
お気に入りの、プルシアンブルーのワンピースを着た私を、あの子はどう思ったかな……。
男の子は鈍感で無頓着だとよく耳にする。
きっと、あの子は私の服など気にしていないかもしれない。

「いい色だよな。ベルリンブルー?」
慧子が口にした色名は聞き慣れない呼称。
「お祖母ちゃんはプルシアンブルーだって言ってたよ?」
「どっちも同じさ。昔のドイツがプロイセンだった頃に作られた色で、プロイセンは英語でプロシアと言ったんだ。プロシアの青でプルシアンブルーって名前がついたんだよ」
「さすがドイツ博士……プロシアの青かぁ」
蘭はワンピースのスカートを見る。
紺色といえば紺色だが、紫と灰色味を含んだ絶妙な色調。
慧子が着ているセーラー服の黒っぽい紺色とは別の紺色だ。

「このワンピース、着ていたらあの子に会えそうな気がする」
さらさらと枝のこすれる音。白い花をつける雪柳だ。
あの日も、かすかに雪柳の香りがした。
甘さと清々しさを合わせた優しい香り。

――神様。お願い――
――あの子に、会わせて下さい――

頭の中で何度も思い浮かべた、未だ目にしたことのない彼の笑顔。

――会いたい――
――あの子の、笑顔が見たい――

蘭は、一度しか会っていない少年に恋をした。
春の空を見上げて蘭は祈る。
優しいパステルブルー。
あの日はバレエ教室の待ち時間で、シニヨンにリボンをつけていた。グレイッシュブルーの細いリボンは、春の柔らかな空の青を映したかのよう。
今日は髪を結っていないのでリボンはつけていないが、代わりに同じ色のカチューシャをつけた。

「私、行ってみる」
スッと立ち上がる。
「行くのかい?」
蘭は頷くしかなかった。振り返る慧子は目を見開いている。
伏し目がちな蘭の切れ長の瞳。
顔を上げれば慧子と目の形がそっくりだと言われたものだ。
「もう、待てない。慧ちゃん家の前で張り込む」
青に藍色と紺碧を重ね、黒く染まった夜の湖にも似た黒い瞳に宿る硬質な輝き。
蘭の決意に、慧子もまた頷くしかなかった。

◇◇◇
瓦屋根のついた門を出るなり、見覚えのある学生服にドキリとした。
同じ制服を来た別人かもしれないと一瞬は躊躇うも、制帽の下から覗くさらさらの前髪と大きな瞳に蘭は確信する。
「あっ!」
驚きと安堵と喜びの入り交じった感情は、声となって表れた。

あの子だ!
桜の下で出会った、澄んだ瞳の美しいあの子。
迷わず歩を進める。
自ずと歩幅が広くなる。
善は急げ!

蘭の黒い瞳は少年をとらえる。

「やっと会えた! 探していたんだよ。だって、私に質問したのに答えようとしたら走り出して行ったんだもん」
足を止めると同時に蘭の唇が動き出す。
ハキハキとした口振りだ。
自分でも、一度しか会ったことのない少年に対して饒舌に話せたことを不思議に思う。

顔を赤らめている少年は恥ずかしそうだ。それでもハッキリと耳に届く声で話す。
「ごめん……なんか恥ずかしくなってさ」

よかった、誠実な子だ。
悪態をつかないし、素直に謝るし理由も話す。
そして純真な子。
恥ずかしそうな姿が、なんか、かわいいな。

少年の素直さに蘭はホッとした。
怒っていないと伝える為に、蘭は全然と言って首を左右に振る。

「私、男子の友達はいらない主義だけど、あなたとなら仲良くなれそうだと思った。スレてなくて素直そうな面構えだったから」
頬を染めて蘭を見つめる純真な少年を、蘭は瞼に刻んでおかねばとしっかりと見据える。

蘭は冬のイメージだ、雪が似合うと慧子と留美から言われたことがあるが、この子はどの季節が似合うだろう思い巡らせる。

初夏。
緑輝き、風薫る季節が似合う。
桜の下で見届けた走り去る少年の姿は、木々の隙間を駆け抜ける風の如し。
いや、車止めを飛び越えるアクロバティックな動作は猫かもしれない。
待って、と叫んで少年を呼び止めることもできたはずだが、軽い身のこなしでひらりと車止めを飛び越える少年に圧倒された。
見えなくなるまで、蘭は少年の姿を追った。

「だから、あれ以来ずっとあなたを探してたの」
蘭の、精一杯の告白だ。
声楽教室とフルート教室の帰りにも、蘭は少年を探した。
時間の許す限り、松川の桜並木へ出向いた。
隣の小学校区に住んでいるのは確かであるから、母の買い物について行くなど隣の校区へ用事ができれば周囲を見渡して探した。
「そうだったんだ……。本当にごめん」
少年は謝る以外に何かを伝えたそうにしているが、きっと恥ずかしくて言い出せないのかもしれない。
会えたら話したいことを、蘭は話すことにした。
「この前の質問に答えるね。桜は好きだよ。でも一番好きなのは蘭の花。派手な洋蘭よりは春蘭や朱鷺草みたいな控えめな蘭が好き」
少年の目が蘭を見つめる。キョトンとした顔だ。

瞳は黒いのに、どこか明るい。
鼻、高いんだ。
横顔、きれいなんだろうな。

「桜の話をしたのになんで蘭の話になるの?」
「私、蘭っていうの」
春を言祝ぐ清らかな花の名。
歌うような、かわいらしい響きの名を気に入っている。

あなたの名前、好きなもの、全て知りたい。
友達に、なってくれますか?

「あなたの話を聞かせて?」

十つの春に

十つの春に

1997年。父の仕事の都合で新潟から福島の小学校への転校した一哉は信濃川の桜を懐かしみ、転校先の学校でできた友達に教えられた松川の桜の下で一人の少女と出会う。 プルシアンブルーのワンピースを着た、高潔な美を纏う少女に少年は恋を覚える。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-03-27

CC BY-NC-ND
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CC BY-NC-ND
  1. プルシアンブルーの少女
  2. あの子に会いたい