晴れた空の下で
終焉と黎明の星王
ティレア編 序章
✳︎
これは夢だ。そう思った。
自分の背丈は今よりずっと小さく、そしてあたたかい何かに抱かれており、ぼんやりとそれを受け入れている。夢にしては感覚が現実的だが、全てが感じたことのあるものだ。
だから、これは夢だ。
そして、これは過去だ。
あたたかいものの隙間から、後ろを見た。薄暗い夜の森だ。そしてその先には月に照らされた白亜の城が見える。ああ、満月だ。
「眠っていて良いよ。……いや、今は眠りなさい。ティレア」
「お前に新しい名をつけてやろうね。お前はもう愛されないティレア王子ではない、愛されるエラだ。そう名乗りなさい」
あたたかいものが、彼が言う。聴き慣れた声だ。いや、今の自分にとっては、だろう。夢の中の、過去の自分にとっては、まだ聴き慣れない声だった。
この日、自分は彼に拐われた。
しかし、なんてあたたかいのだろう。久々の人のあたたかさだった。抱かれるなんて、ほとんど無かったから。
目が潤む。城が遠ざかる。今までいた場所が。冷たい場所が。
いや、本当に全てが冷たかったのだろうか?
「にいさま」「にいさま」
声が聴こえる。いや、思い出す。
ああ、自分は、僕は。
僕は目を閉じた。潤んだ目から、雫が溢れた。
✳︎
小鳥の声で目が覚めた。
目を開ければ、日は既に昇っていた。しまった。寝過ぎただろうか、起き上がると、ぱさりと音を立ててシーツが落ちる。どうやら蹴飛ばして寝ていたらしい。
「おはよう、エラ」
首を傾げて、小柄なその姿……アイが言った。とっくに起きていたようだ。身支度は済ませており、僕が横たわるベッドの隅に腰かけていた。
エラとは、僕の名だ。
「おはよう」
「夢でも見てたのか?」
「ちょっとね……。……って、何で分かったの? 寝言でも言ってた?」
「いや? ふふ、なんとなくだけど、わたしにはお見通しだよ」
アイは小さく笑うと、僕に上着を投げて寄越した。片手で受け取り、身にまとう。窓の外を見れば、今日はよく晴れた日だ。雲ひとつ無い青空。……やっぱり少し寝すぎたかもしれない。
「今日の昼にはこの村を出よう。仕方ないとはいえ……少し長くいすぎた」
「何日歩けばファルナに着くかな」
「三日……いや、四日はかかるだろう、途中でまた泊まれる場所を見つけよう。野宿続きは疲れる」
「別に大丈夫だよ。森の中の方が落ち着く時もあるし」
ファルナ……王都ファルナ、アーシェス王国の首都だ。アーシェス王国とは、この大陸ハルモニアを二分する大国の一つ、北側の国であり、今僕たちがいるココ村も、アーシェス王国の端にある小さな村だ。
そして今現在、アーシェス王国は隣国、ユスティーア王国と不穏な空気になっている。
戦争が始まるのも、時間の問題だろうとアイは言っていた。何故戦争を起こすのか、どちらが先に仕掛けるつもりなのか、一庶民であり旅人の僕には分からない。ただ、元より二つの国はあまり仲が良くないことくらいは、分かっていた。
僕たち二人は旅の楽士だ。神話や時の勇者の詩を唄って日銭を稼いでいる。王都に向かうのも、戦争に乗じて国の情勢を歌って稼ごうというアイの作戦だった。金稼ぎに関して頭が回るのは、彼の特技だ。なんて言ったら怒られるに違いない。
「結構野生的だよな、エラって」
「それ、アイが言う?」
と、話していればコンコンと、控えめに部屋の扉が叩かれた。どうぞと言えば扉が開き、簡素な服を着た少女が入ってくる。見慣れた顔だ。一週間もここに泊まっていれば、見慣れもする。
「アマリエ」
「起きてたの? アイ、エラ。朝ごはん、できてるよ。降りてこないから心配しちゃった」
「ああごめん、エラがなかなか起きなくて」
「アイ!」
「ふふっ、まあ良いけど。私は野草摘みに行ってくるから、ゆっくり食べて」
「そうなの? わたしたち、昼には出るんだけど、村長から聞いていない?」
「ええっ! そうなの? お見送りしたいけど、トムじいさん待たせるのもなぁ」
「あはは、アマリエは自分の仕事をして。今までありがとう。歌えばタダで泊めてくれるなんて、ありがたかったよ」
「あら、二人と狩りも乳絞りも手伝ってくれたじゃない。今時、助け合わないとね」
アマリエはココ村の村長の娘だ。なんでも、数少ない若い男たちが軒並み留学や従軍のために村を出ていったらしく、若者の働き手はアマリエだけだという。実際のところはそれでもじゅうぶんらしいのだが、彼女の仕事を手伝えば、いつまでも泊まって良いと村長から笑顔で言われたのをよく覚えている。それと、歌を聞かせてくれるならとも。
娯楽が少ないのよ、とアマリエが耳打ちしてきたのも覚えている。
「それじゃ、私は行くから。二人とも今までありがとうね」
「うん、アマリエ……気をつけてね? 最近穏やかじゃないし、この辺でももしかしたら盗賊とか出るかも」
「あはは! こんな隅っこの村、何も取るもの無いって! ……じゃあね!」
片手をひらりとさせ、アマリエは出ていった。元気の良い人だと思う。
旅をしていると色々な人に出会う。今アマリエに言った通り、賊に襲われることももちろんあったのだが、大半は優しい人たちだ。
以前そうアイに呟いたことがある。アイは微笑み、そりゃよかったと返してきた。
そういえば、アイと旅をしてもう何年になるだろう。
「さて、わたしたちも行こう。朝食が楽しみだ」
「うん。女将さんのご飯、美味しいものね。アイもあのくらい料理が上手ければなあ」
「おいおい」
笑いながら二人で部屋を出ていく。今日も良い日になりそうだ。
朝ごはんは野菜のポタージュスープ、麦のパンにはチーズが乗っていた。
✳︎
「エラ、準備できた?」
「うん、できたよ」
「ちょっと待った、右の裾が捲れ上がってる」
「あ……またやっちゃった。ありがとう」
そう言ってぱぱっと直す。
僕は昔から右目が見えない。気をつけてはいるものの、右側が色々とおろそかになりがちだ。
「さて、準備もできたしそろそろ行くか」
「うん、そうだね」
何故見えないのか、というと長い話になるのだが、あまり話したくはない。少なくとも、良い思い出ではないからだ。失明が良い思い出である人の方が貴重なのだろうが、とにかく、思い出そうとすると胸がちりちりと痛む話だった。今もなんとなく、ちりちりする。
「ああ、旅のお方!」
僕の胸のちりちりは、老人の声にかき消された。焦り声だ、どうかしたのだろうか。
「じいさん、どうかしたのか? とりあえず落ち着いて」
アイの言葉で、老人は息を整える。そして、とんでもないことを言い出した。
「アマリエが……アマリエが賊に連れて行かれたのです……! わしを庇って……」
「なんだって」
「お二方とも、剣を持っていらっしゃる。その剣であの子を助けてはくれませんか」
アイは困ったように顎をさする。……いや、実際困っているのだ。この剣はあくまでもお守りのようなものであって、護身用の細身のものだ。僕たちの剣技は、舞には使うことはあるが、実戦で使ったことはほとんど無い。
だけど、僕の体は跳ねるようにその場を飛び出していた。
「参ったな。わたしたちも大して強いわけでは……って、エラ!? ちょっと!」
アイの声を背に、走り出した。片目が見えない僕は、走るのも正直得意ではない。だけど、走らずにはいられなかった。
✳︎
力を誇示するためだろうか、木々に傷がついていた。それと、草を乱暴に踏み分けた足跡。
さらに、耳をすませて走れば、見つけた。耳と勘には自信がある。
アマリエの手首を引くのは、片手で斧を担いだ屈強な男だった。周りには同じような男があと二人。つまり三人だ。
「離しなさいよ! このっ!」
どこかに連れていこうとしているのだろうか。アマリエはそれを拒むが、力では大の男に敵わない。
木の影に息を潜め、そっと剣を抜いた。
人を斬った経験は、無い。
「強情なガキだな! けど体つきはもう女だぜ」
「アジトに連れ帰っちまおう。この間捕まえたシスターみてぇに、二、三度ヤっちまえば言うことも聞くようになるだろうさ。ジジイは見逃したが、そのうちこいつが村の場所も吐いてくれるぜ」
「なっ……! このっ、けだもの! ……っ!?」
我慢できなかった。アマリエを掴んでいる男の背後を狙い、駆け出す。アマリエが僕の姿に一早く気づき、目をぎゅっと瞑った。
「なんだぁ? おいガキ……、……う、ぐっ!?」
ぐ、ぎゅっと肉を突き刺す感覚がした。剣は深く深く男に突き刺さり、そして貫通する。
「や、ああああっ!」
半ば悲鳴のような叫び声を上げ、僕は両手で剣の柄を掴み、渾身の力で横に払った。肉を斬る生々しい感触と共に、ぴ、ぴっと周りの木々に血飛沫が飛んだ。
偶然だ。偶然急所を刺したのだろう。男は呻き声を上げ倒れる。後の二人がどよめいた。
「や……やりやがった……! 何だてめぇ……!」
「エラ……!」
「アマリエ! こっちへ!」
叫ぶと、アマリエは頷き僕の方へと走った。残りの二人に斧を構えられる。一対二だ、戦いに慣れていない僕には分が悪い、かもしれない。
「おい! こいつの髪の色……!」
「白……いや、金か? こいつは間違いねぇ! 縛り上げて持っていけば大金持ちだ!」
「……!?」
男たちが僕を見て何か喋り出す。どうやら本当に、分が悪すぎるようだ。僕の髪の色は珍しいと、昔アイが言っていた。それがどうして、今出てくるのか! 捕まったら、どうなるのだろうか。
「エラ!」
「……っ! アイ! アマリエを!」
「お前はどうするんだよ!」
「……戦う。だから逃げて」
「……はあ!? 無茶言うなって!」
「おいおい! どんどんガキが増えていくな!」
背後からアイが追い付いてきた。そうだ、どんなに増えても戦い慣れていない楽士と、村人。それでも、アイとアマリエが逃げる時間くらいは稼がないといけない。例え、僕自体が捕まったら金になるのだとしても。
下卑た笑いと共に、斧が振り下ろされる。一人目……何とか避ける、二人目……今度は剣で受け止める。この斧で何人斬ってきたのだろう。力強い一撃は僕の剣とかち合い、ギリギリと音を立てた。
「おい! 殺すなよ! ちょっと怯ませるだけで良いんだ!」
「ああ、そうだ……なっと!」
「……!」
ぐっと力を込めて押され、思わずよろける。隙ができてしまった。腕を捕まれる。しまった、と思うより早く、もう一人に利き腕を叩かれ、剣を取り落としてしまった。
一瞬の出来事だった。二人の逃げる時間すら作れないほどに。作れないほどに僕は、弱いのか。
「エラ……!」
アイの叫び声が聞こえる。ああ、早く逃げてと言いたい。しかし腕を力強く締め上げられ、声もうまく出ない。顔をぐっと持ち上げられる。息が顔にかかるほどにじろじろと見られた。
「白に近い金の髪に……隻眼! 手配書通りのガキだ!」
手配書? いったいどういうことだ……僕はいつの間に罪を犯したのだろうか。
「どういう、ことだ……?」
「知らねぇのか? お前を血眼になって探してるやつらがいるんだよ」
「ああそうだとも! しかし、お前たちはやり方が乱暴すぎるな!」
今までいなかった、第三者の声が聞こえた。誰だ、と見つけようとする間もなく、大きな悲鳴が耳を貫いた。
僕の腕を締め上げていた男の悲鳴だ。肩に深々と、長柄の刃……槍が突き刺さっている。
「ひぃ! ひいい!」
槍を握りしめる青年は、白い鎧で身を包んでいた。彼は勢いよく槍を引き抜く、僕が解放されると共に、男の悲鳴と血飛沫が舞った。
二人の、鎧を身に纏った青年がそこにいた。緑髪と、赤髪が一人ずつ。緑髪の一人は牽制するように槍を構え、声を出した赤髪のもう一人は、柄の長い斧を肩に乗せ、
「もう大丈夫だからな。ああいや……ですから!」
と、僕に笑いかけた。
「その鎧……な、なんでお前らがここにいるんだよ!」
「さあ、なんでだろうな」
「……革命軍か!? おい!金髪隻眼のガキを連れてくれば報酬を出すって言ってたよな!
?」
「言ったさ。でもやり方が間違ってたんだよ、お前らはさ」
肩を槍で貫かれた方は、それを聞くと諦めたように逃げて行った。もう一人は待てよ! おい! と言い、唾を吐いて追うように去っていった。
「エラ……! 大丈夫か?」
「エラ! ごめんなさい、私油断してた」
アイとアマリエが僕に駆け寄る。僕はというと、二人の青年を前にして、へなへなと座り込むことしかできなかった。
「俺の出番、無かったなぁ」
「喋りすぎなんだよ、ジンジャー」
ジンジャーと呼ばれた赤髪は、振り返り僕の顔を見る。
「……待って、あなたバジル!? どうしてここに!?」
「アマリエ……いや、村に顔を出そうとしたらお前らが大変なことになってるから」
アマリエが声を上げる。どうやら緑髪の方はアマリエの知り合いらしい。
赤髪の、ジンジャーは膝を付き僕に手を差し伸べる。
「あ……ありがとう」
「……その髪、その目……やっぱり」
「貴方、ティレア王子では?」
ジンジャーの手を取ったまま、僕は固まった。
ティレアとは、僕の名だ。少なくとも十年前の。
「あ……ええと……うん? うん」
咄嗟にうんと返してしまった。
大きな舌打ちが響いた。アイのものだ。
「エラ、お前さあ……」
アイが苦虫を噛み潰したような顔をした。
晴れた空の下で、一気に喜色満面な顔になる青年二人と、気まずそうに目を逸らす僕。ため息を吐くアイ、状況がよく分かっていないアマリエがそこにいた。
何もかもよくわかっていないのは僕も同じなのだが。どうやら、口走ってはいけないことを口走ってしまったようだ。
そう、僕はティレア王子だ。……夢に出るほど前、十年前までは。
晴れた空の下で