愛華薔薇学園恋事情
愛華薔薇学園には容姿端麗な三人の生徒、通称『三王子』が存在している。
一人目は氷雪王子と呼ばれる根岸(ねぎし)優(ゆう)。眼鏡が似合う銀髪のイケメンだ。
二人目は姫王子と呼ばれる津田(つだ)芹香(せりか)。中性的な男装の麗人。
最後の一人は宇宙(コスモ)王子と呼ばれる宇田川(うたがわ)玲音(れおん)。黒髪に黒い瞳、そして王者の風格漂うイケメン。
玲音と幼馴染で隣の家に住む田崎(たざき)真愛(まな)。
真愛は玲音を幼馴染の友人としてしか認識していなかったのに、ある日突然玲音を意識し始めてしまう。
それと同時に妙な声が聞こえるようになって不安を感じている中、クマのぬいぐるみである『冠クマちゃん』に悪魔が取りついて……!
『前世の魂』を探しに来た悪魔・フィードとの奇妙な生活が始まった!
プロローグ
きらきらと輝きを放つ、麗しい容姿の三人。
誰もが羨む容姿に、話しかけられたときの神対応を備え付けているのだから、多くの生徒を惹きつけるのも頷ける。
三人は多くの生徒に囲まれているのが常であり、簡単に近づくことはできない。
今日も真愛は、そんな三人を少し遠くから眺めていた。
「いいの? 話しかけなくて」
友人ののばらが真愛に聞くと、真愛は黒い髪を揺らして頷いた。
「いいの、いいの」
そして心の中で言葉を付け足す。
(ほんっとよくやるなぁ、三人とも)
放課後。
西日が校内を照らす中、真愛は呼び出された教室をスマホの画面で確認しながら歩いていた。
「あ、ここだ。私――真愛だよ」
目的の教室の前で立ち止まり、ドアをノックして名乗ると、数秒で中から人が出てきた。
「どうぞ入って。さ、さ」
人懐っこい笑顔で対応するのは姫王子の芹香その人だった。
空き教室の中に足を踏み入れると、もうひとりの王子である優もそこにいた。読書中の優は真愛は一瞥しただけで、すぐに手元の本へと視線を落とす。
「玲音はもうすぐ戻ってくると思うよ」
「玲音ってばちやほやされると調子に乗っちゃうタイプだからね~。なかなか抜け出せないでいるんじゃないの? まぁ、いつものことでしょ」
人に囲まれている時よりも冷めた様子の優と砕けた口調で話す芹香。これは二人が友人の前でだけ見せる素の姿だ。
主に芹香が話す形で三人で談笑していると、教室のドアがノックされた。
「俺だ」
ドアの向こうから聞こえた声に、真愛たち三人は顔を見合わせて笑い声をあげた。
「さっすが玲音くん」
「ここまで『俺だ』の一言が似合う男もそうそういないね」
「ほんっと、自信家だよね~。はいはい、今開けるよー」
確かに声をよく聞けば玲音だというのは、ここにいる三人ならすぐに分かる。しかしだからといっていっさい名乗る様子がないのはすごい。声だけで絶対に玲音だと伝わる確信があるのだ。
芹香が小走りにドアに向かい、開けるとそこには想定通り玲音の姿があった。
中に入ってくるなり玲音は真愛に話しかける。
「早いな。もう来てたのか」
真愛は玲音に呼ばれてこの教室へとやってきた。
「待たせて悪かった。それじゃあ帰るか」
「ひゅー、ほんっと二人ってお似合いのカップルって感じ」
芹香がそうはやし立てると、真愛はため息をひとつ。
「芹香はいつもそう言うけど、私と玲音くんがカップルとかありえないから」
「そうだ。友情をすぐに恋愛感情と解釈しようとするな」
真愛と玲音がそろって否定すると、芹香は口元に手をやり優の肩を叩く。
「聞きました、優さん? あの二人あんなにも自然に一緒に行動するのにいまだに認めませんことよ」
「言葉の解釈の違いだろうな。なんならカップルどころかつがいと言ってもいいくらいだ」
冷静な口調ではあったが、内容はふざけた態度の芹香に同意する。
そんないつものやりとりを経て、四人は教室を出た。
不安定なバランスの上に成り立つ四人の友情。
その形が変化する瞬間が、刻一刻と近づいていた。
1.胸は期待に膨らんで
――魔界。
この日、魔界では成人の儀が執り行われようとしていた。
金糸と銀糸による刺繍が入った特別な服に身を包み、フィードは低い空を見上げた。分厚い黒雲が果てなく広がっている。
「すごく綺麗な雲だ。まるで闇みたいじゃないか?」
子供のようにはしゃぐフィードに、隣を歩く友人――ラックも釣られて笑う。
「あぁ」
空が光った。ラックの声をかき消すように、化け物のうめき声によく似た轟音が辺り一体に響く。
フィードは一層無邪気に笑った。
「良い天気だな。こんなに真っ黒な空の日に成人の儀を迎えられるなんて、なんか良いことがありそうだ」
「そうだな」
「なんだよ。もっと他に言うことないのか?」
短い返事ばかりの友人に不満を感じたフィードがラックに視線を移すと、その横顔には微かに笑みが浮かんでいた。
「もっとその感動を言葉に表せよ」
「君が表に出しすぎるんだ。大人になるんだから、もう少し落ち着きを持ったらどうだ?」
「……ジジくさ」
「うるさい、ガキ」
互いが互いを見つめたまま黙り込む。ゴロゴロと獣が喉を鳴らすような低い音だけが二人の間を通り抜けて行った。
「はっ」
「ぷっ」
堪えきれなくなって同時に吹き出す。それがまたおかしくて、二人の笑い声はますます大きくなった。
「よーっし!」
笑いを収めぬまま、フィードはだだっ広い道を横断し、小さな丘に向かって一直線に駆けていく。
「お、おい転ぶなよ。式に出る前に服をダメにしたんじゃ幸先悪すぎるだろ」
「へーき! へーき!」
後ろから母親みたいな小言を言ってくるラックに手を振りながら、フィードは一気に駆け上がった。
「負けないからな!」
顔ごと空を向き、両の拳を高く突き上げる。視界の端にラックを捉えて、そのまま言葉を続けた。
「大人になっても、絶対にラックに負けないからな!」
「なんだそれ。まさか今までも負けてなかったつもりなわけ?」
「そ、そりゃあ……」
頭の中を思い出が駆け巡る。
(基礎的な魔力のテストではあと一歩ラックに及ばなかったし、魔法の詠唱ではラックの方が三つ多く覚えていたし、魔力技術ではラックがクラス一位だったし、魔界史はオレがクラス最下位で……)
敵わなかった場面ばかりが思い出され、返す言葉が見当たらない。
「えーっと、えーっと……そうだ! 体力テストはオレの方が成績良かったよな!」
勝っている部分をなんとか探し出し、うんと頷く。完敗ではなった。
フィードとは違いゆっくりとした歩調で歩いていたラックが、ようやく傍までやって来る。
「というか、そういうことは空じゃなくて俺の顔を見て言えよ。面と向かって言えないなんてすでに結果が」
「負けないからな!」
ずいっと顔を寄せ、今度は視線をぴったり合わせて誓う。
一瞬目を見張ったラックは、すぐに笑みを浮かべた。その笑い方はなんとも挑戦的だ。
「望むところだ」
変わらない友情を確信し合って、フィードたちは再び成人の儀会場への道を歩き出す。
ちょうどその時、一際大きな雷鳴が轟いた。
その音がフィードには、福音のように聞こえた。
福音だと信じていたのだ――この時はまだ。
「……というわけで、彼は今でも英雄として私たちの心に深く刻まれているのです。皆さんも彼にならい――」
二千強の椅子が向く先の壇上で、ベルベット生地の上質な上着を羽織った男性が荘厳な声を響かせている。
今年五百歳を迎える者たちが招かれる成人の儀。
フィードはその成人の儀第一部の真っ只中にいた。
成人の儀は大きく二つの行程に分けられる。お偉方のありがたいお話と、前世の記憶の授受だ。
平均寿命が一万年を超えるのが悪魔という種であり、そうなると当然『偉い』とされる人間も増えていく。そのせいでありがたいお話の時間は年々増加し、今も成人の儀の参加者達を眠りへと誘うのに一役買っている。フィードの周りの参加者達も、椅子に腰を預けたままこっくりこっくりと船を漕いでいた。
「ふぁっ……長いな」
あくびを噛み殺しながらフィードがそう言うと、隣の椅子に座るラックも深く頷いた。
「成人の儀のメインはこれじゃないだろうに。……さっさと終わらせろよ、何人出てくるんだまったく」
壇上のお偉方は、儀式の主役達が飽きているのに気づいているのかいないのか、未だに長々と話を続けている。
ラックと話しているうちに、いつの間にやら壇上の人物が交代していた。
「今日この後、君たちは前世の魂をその身に受け記憶を取り戻すことになるが、それだけで大人になったなどとは思わず、グレイグルンドのように英雄といわれるよう技を磨き――」
「二十二人目だ」
うんざりしたような声色でラックが言った。
「何が?」
「英雄の話を持ち出した人数」
「おまっ……そんなの数えてたのかよ。っていうか、二十二人って……」
「ちなみに祝辞に登壇した人数は二十五人な」
「……それだけ凄い悪魔ってことか」
祝辞の中に登場する英雄・グレイグルンド。
もう何十万年も前の悪魔であり、彼の生きていた時代を知る者はいない。しかしまた、現在の魔界で彼の名を知らぬ者もいないだろう。
――グレイグルンドが英雄と呼ばれるようになったのは、成人の儀に起こった事件がきっかけだった。
成人の儀の二つ目の行程である前世の魂の授受をもって、悪魔は大人と認定される。
逆に言えば、授受なくして成人にはなれない。成人には結婚や政治に関わる仕事に就くことが許されているが、成人できなかったものには永久に縁のないものになってしまうのだ。
その重要な儀式が前世の魂を持たない者たちに襲撃され、参加者たちの前世の魂が強奪されそうになった。それを迎え撃って前世の魂を守り、参加者たちの人生を救ったのがグレイグルンドである。
前世の魂は元々個人が持って生まれたものを取り出して五百年間保管しているだけであり、それぞれの悪魔に適合する前世の魂はこの世に二つとない。つまり失われれば二度と成人することができなくなる。それを阻止したグレイグルンドの功績は大変大きなものだった。
この時の戦いで、巨大な魔力の衝突によって生じた時と場所の亀裂にグレイグルンドは吸い込まれ、帰らぬ人になった。その悲劇的な顛末も彼を伝説的英雄たらしめているのだろう。
「――これをもちまして、祝辞を終了します。続いて前世の魂の授与に移ります」
司会者のあっさりとした声が会場に響く。どうやらお偉方全員の話が終わったらしい。
今まで眠りに落ちていた参加者たちも、ひとりまたひとりと顔を上げて前を向き始める。そうして全ての頭が上がったのと時を同じくして、壇上に縦に大きな箱が五つ用意された。
視線が、集まる。
――あれだ。
フィードも例に漏れず、箱に収められている前世の魂を思い、一心に箱を見つめた。
いよいよだ。五百年前に別たれた魂が、もうすぐ戻ってくる。不完全な自分が完全になる。
胸に熱が篭るのをフィードは確かに感じていた。
「嬉しそうだな」
ラックの笑みを含んだ声に、「あったりまえだっ!」と大声を出しそうになるのを堪え、代わりに大きく三度頷いた。
「ラックだって嬉しいだろ?」
「あぁ。……でも不安もある。自分が自分でなくなる可能性だってゼロじゃないからな」
五百歳まで前世の魂を切り離すのにはそうしなければならない理由がある。
強すぎる前世の記憶は現世の成長に多大な影響を与え、最悪の場合、前世が肉体を乗っ取るような事態になるのだ。
だから自我を成熟させるための期間として五百年間は前世を取り除き、前世に飲み込まれることのない個人に成ってから元の肉体に魂を戻す。
しかし五百年というのは根拠のある数字ではなく、「多分大丈夫だろう」という推定値だ。しかも「大丈夫」というのは、前世が肉体を乗っ取らないという意味であり、現世の個性に微塵も影響を与えないということではない。
フィードもその話を知らないわけではないのだが、不安よりも期待の方が大きかった。
「大丈夫だって」
「……だといいんだがな」
「ラックは心配性なんだよ」
「フィードは楽天的すぎる」
「皆さまこちらをご覧ください」
エスカレートしかけたフィードとラックの言い合いは、司会者の発した声によって阻まれた。二人とも指示に従い前を向く。
ラックに小さなコンプレックスがあることも影響して、フィードの心に一抹の不安が生まれた。けれどそれも大きな期待の前に、あっけなく吹き飛ばされた。
心配したところで前世の魂を受け取ることは変わらない。そう考えて、フィードは悩むのをやめた。
2.絶望、不安そして希望
五つの箱はみな同じデザインをしている。手前に開くその箱の扉には、古くから伝わる魔界の紋章が細やかに彫られており、取手は龍の爪を模して作られている。
中央の箱にスタッフが二人寄り、龍の爪に手を掛けた。ゆっくりと扉が開かれる。
――ゴクリ。
喉が鳴る。
「……あ」
複数段に分けて収められていたそれは、ぼんやりとした光を発していた。光りの強さや色がひとつひとつ異なっている。風もないのに揺らめくその神秘的な様子に会場内が水を打ったように静まり返る。
――前世の魂。
そう意識しているからか、懐かしさを感じる。
「今から皆さんにこれを順番に受け取っていただきます。招待状に書かれている番号の部屋に移動して下さい」
前世の魂の授受は個別に行われる。二千人をそのまま並ばせると日付が変わっても儀式が終わらないので、事前に五グループに分けられているのだ。
参加者に見せるためだけに開かれた扉は閉じられ、他の四つの箱にと共に壇上からはけて行こうとした、その時――。
ガシャン! ガシャン!
音と同時に砕けたガラス片が降り注ぐ。
「なんだっ?」
非常事態なのは本能で理解した。誰かが「上だっ!」と叫ぶ。
見上げると、割られた会場の窓から次々に黒い影が飛び込んで来るのが見えた。
大きな破片がフィードに向かって落ちる。
「うわっ!」
紙一重でかわしたものの、バランスを崩してたたらを踏む。
「怪我はないか?」
「……なんとかな」
心配そうな顔をした友人に、引きつった笑顔を返し、その流れで会場内に視線を走らせ――絶句した。
前世の魂が収められた五つの箱。そのどれもが横倒しにされ、淡い光を放つ魂たちは無防備に転がっていた。それを目にした瞬間、肝が縮み、目眩さえした。
「なんなんだ貴様らは!」
先ほど壇上で祝辞を述べていたお偉いさんの一人が魔力で形成した剣を手に、今にも前世の魂に触れようとしていた侵入者に詰め寄った。
「……お前、英雄になりたいか?」
侵入者がそう問うたのが合図となり、侵入者たちは一斉に動いた。一カ所に魔力を放ち、誰かが声を発する間もなく、壇上に闇が現れた。会場に着く前に見た闇のような雲ではない。不吉な前触れを思い起こさせる本物の闇。
それを目にした数人の顔色が変わる。その中には隣に立つ友人も含まれていた。
「あれはまさか……っ!」
「どうした、ラック」
瞠目したまま顔をこわばらせたラック。発せられた声は上ずっている。
「させるかっ!」
フィードの問いかけを無視して、ラックは床を蹴り空中に身を踊らせた。そのまま猛スピードで壇上まで飛んで行く。
「おい! 待てって!」
わけも分からずフィードは後を追った。
壇上にたどり着いたラックが、大きな魔力を闇に向かって立て続けに放っている。
「ラック!」
フィードの声は今回も無視され、ラックは息を弾ませながらも魔力を放出し続けている。
「無駄だ、無駄だ。その程度の魔力などで、時と場所の亀裂を閉じられると思うな」
侵入者が嘲笑を含んだ声で言った。
「時と場所の亀裂だってっ?」
瞬時にグレイグルンドの最期が頭に浮かんだ。
確か彼は時と場所の亀裂に飲み込まれて……。
フィードは今この場所が非常に危険なのだと、ようやく理解した。時と場所の亀裂に飲み込まれてしまってはどうなるか分からない。そんな死の危険が目の前にあるのだ。
「ラック、危険だ! ここから離れよう!」
「馬鹿を言え、前世の魂はどうするつもりだ!」
「っ!」
どうしよう。命は惜しいが前世の魂も重要だ。前世の魂が時と場所の亀裂に吸われれば、もう二度と成人になれる見込みはなくなる。
そうしているうちにも、闇は水がシミを作るように広がっていく。
「あ」
放り出されていた前世の魂が一つ、闇に吸い込まれた。それから間をおかず、一つまた一つと頼りない光は闇にかき消されていく。
会場を侵食する闇は、ついにラックの足下に及んだ。彼の身体を支えていた床が消える。
「ラック!」
傾ぐラックの腕を全力で引く。
「放せ!」
「無理だ!」
恐怖がフィードの行動を支配する。目の前で跡形もなく消える魂たちに数瞬後の自分が重なっていた。その恐怖は、成人できない恐怖とは比較にならない異質のものだった。
ラックの抵抗を力でねじ伏せ、時と場所の亀裂から距離を取る。
「離れるぞ!」
「……ックソ!」
ラックはもう抵抗しなかった。彼ももうどうすることも出来ないと悟ったのだ。
あまり感情を出さないラックが、珍しく怒りとも嘆きとも取れる悪態をついた。
ほどなくして、ラックが立っていた床が消えた。……周りに散乱していた魂も、全て飲み込まれた。
悪魔、悪魔、悪魔。フィードの前には悪魔で形成された列が伸びている。まだまだ自分の番は回ってきそうにない。首を回し後ろに目を向けると、そちらにもうんざりするほどの長い列ができていた。
(……なんでこんなことに)
こんな順番待ちをする原因となった成人の儀襲撃事件を思い出し、奥歯を強く噛んだ。
時と場所の亀裂は全ての魂を葬った後、徐々に勢いを落として嘘のように消えてしまった。時と場所の亀裂とはそういうものだ。突然生まれて、突然消える。今回は意図して魔力の摩擦を起こして生み出した者がいたが、本質は変わらない。
成人の儀を襲撃した連中は全員捕まった。予想していたことだが、犯人の大部分はなんらかの理由で前世の魂を失った未成人者だった。ほかに金で雇われた成人たち……その中には会場の警備も含まれていた。襲撃者側の手際の良さと、主催者側の手際の悪さを思い返すと、なるほどと頷ける。
襲撃事件はひとまず解決となったが、成人の儀参加者たちにとってはそこから先の方が重要だった。
――喪失した前世の魂はどうするのか。
前世の魂の代わりはない。しかし、前世の魂の授受をもってのみ成人の儀は完了する。
そこで魔界政府は一つの提案をした。
時と場所の亀裂に飲み込まれた魂は、いつかの時間のどこかの場所に存在している。時空転送でその座標に向かい、自分で探して来いと言い出したのだ。
その発表から成人の条件を変えない方針だと知り、成人の儀で前世の魂を失った者たちは、否を唱えることも出来ずにこうして時空転送の順番待ち行列を作ることになった。
自分は時空転送でどこに向かわなければならないのだろう? そんな疑問が頭をよぎる。未知の先にあるのは希望か絶望か。悲喜こもごも渦巻く胸の内が苦しくてしょうがない。
前の人が減ったな、と思ってから順番が回ってくるまではあっという間だった。
個別に部屋に入れられ、さらに人ひとり入る程度の箱に押し込められる。そこで青紫の光を全身に当てられた。上から下へ、下から上へと、二往復。身体の情報をスキャンしたのだ。
フィードを箱から出るように促した後、転送係の女性がフィードの情報を解析していく。コンピュータが操作される無機質な音だけが部屋を支配する。
「人間界ですね」
落ち着いた声に、手持ち無沙汰で椅子に座っていたフィードは頭を上げた。解析が終わったらしい。
「人間界……」
「はい。人間界の日本という国です。時代は平成だそうです」
日本の平成時代。そこに前世の魂がある。
グッと拳を握り込むフィードに、女は表情を変えずに取り決められた質問をする。
「命の保証はしませんが、希望であれば転送を行います。平成時代の日本への転送を希望しますか?」
「もちろん!」
フィードの熱い声が小さな部屋にこだました。
「分かりました」
女はコンピュータをカタカタと操作しながら口を動かす。
「良かったですね。フィードさん、あなたまだ人間界へ行ったことは無いようですから」
はい、と簡潔に答えたフィードは、本当に良かったと安堵していた。
因果律の掟というものがある。時空転送で様々な場所、様々な時へ行くことはできるが、一度行った場所の別の時代に行くことはタブーとされている。未来の技術や歴史を過去に持ち込むことで本来の流れから外れてしまう可能性があり、それは世界の意志によって許されておらず、破るとどんな罰を受けることになるか分からないないのだ。
人間界へ行ったことのないフィードは、転送先に人間界を選ぶことを許可された。
「それでは転送しますので、こちらに横になってください」
女が示した先にはあるのは、ベッドの形をした転送装置だ。言われたとおりにフィードは装置に横たわる。
「では、いきます」
いよいよ人間界へ向かう。大人になるために。不安と緊張を覚悟で相殺し、腹に力を込める。
「お願いします!」
頭上でピピッと音がした。グンと天井が遠くなる錯覚を覚えた。
「あぁ……言い忘れてましたが、未成人は実体で人間界に行くことは禁止ですので、魂だけを転送することになります。向こうで適当な身体を見繕ってください」
薄れゆく意識の中、とんでもないことを言われた気がした。
ちょっと、待て。あ……声が出ない。
すでに肉体との切り離しが始まっていたらしい。
んな大事なことは早く言えぇぇぇ、というフィードの魂の叫びは誰に届くこともなく虚しく消えた。
3.微かな予兆
昇降口をくぐって外へ出ると、薔薇の香りが鼻孔をくすぐった。愛華薔薇学園はその名に相応しく、今日も薔薇の香りが溢れている。
甘い香りに胸を満たし、真愛は軽やかな足取りで正門へと向かった。正門まではまだ距離がある。
愛華薔薇学園は都内の一等地に立つ、私立の学校だ。
幼稚舎から大学院まで揃っている超マンモス校。有数の学者や有名企業の社長を輩出している。
人材育成の実績もさることながら、愛華薔薇学園が一目置かれている理由には、学園内のいたるところにある薔薇の生け垣が挙げられる。見る者の心を華やがせる、美しく咲き誇る薔薇。外部の人間にとってはまさに地上の楽園と言えた。
しかし、現在の愛華薔薇学園にはもう一つ、華麗な薔薇よりも人々の心を惹きつける存在があった……。
「キャアアアアアアアァァァァァァァァァ――――ッッ!」
鋭く甲高い悲鳴の束が空気を震わせる。慣れているため「なんだろう」とは思わない。
(誰だろう?)
代わりにそんな疑問を持ち、両手で耳を押さえ、視線を声のした方を見やると、そこには人だかりができていた。
(根岸くんか)
女子が円形の群れを作るその中央に、頭ひとつ高い人物が見える。三王子の一人、根岸優その人だった。
三王子とは、現在愛華薔薇学園の生徒たちを夢中にさせている三人の生徒を指している。
真愛の視界で女子に囲まれている優は、王子の称号に相応しい、涼やかな様子でファンの生徒たちと談笑していた。さらさらと揺れる銀髪は陽の光を受けて宝石のように輝き、細いフレームの眼鏡をかけた目元は知性を感じさせる。神秘的で近寄りがたい美しさから、彼についた二つ名は『氷雪王子』だ。
氷雪王子は真愛の友人の一人ではあったが、人の群れに突っ込んで行ってまで別れの挨拶をする気にもなれず、真愛はそのまま正門の方へ顔を戻す。
薔薇の生け垣に沿って歩いていると、門が見えてきた。が、それ以外のものも同時に視界へ飛び込んできた。
正門付近で、先ほど優が作っていたものに近い群れができている。規模は同等、違うのは人の種類だ。優のファンは八割女子なのだが、今度は女子生徒と男子生徒が半々の割合でその群れを形成していた。
男子生徒の頭が邪魔をして中心にいるのが誰だか確認は出来ない、けれど男女半々のその特徴で推測は可能だ。
(玲音くんかな?)
首を伸ばして彼の顔を探すが、人が多すぎて全然見えやしない。声でも聞こえればいいのだが、歓声が大きく、期待するだけ無駄だろう。
別に玲音に挨拶する必要もない。そう、色々な意味で、玲音に挨拶をする必要はないのだ。そして、いつもなら挨拶せずに群れの横を通り過ぎている。
――だが。
(会いたい)
なぜだか今日は、玲音の顔を一目見たかった。声を聞きたかった。そんな自分の気持ちに、はてどうしたのだろう、と疑問が募る。
未練がましくも真愛が群れの一員になった時、スピーカーから可愛らしいメロディが流れてきた。メロディが終わるとプツリとマイクが入る音がする。
『みんなー! 下校の時間だよー!』
高くなく低くなく、耳に優しいクリアな声が学園を包んだ。
生徒が、薔薇が、学園内に存在する全ての生物が、息を止めて耳を澄し、その美声を一言も聞き漏らさないように一切の音を立てない。
『部活のある生徒は部活に向かってね! 応援してるよ! 用事のない生徒は早めに家に帰ってね! 気をつけて帰るんだよー! じゃあまた明日ね!』
放送が終わった。しかしほとんどの者がその余韻から抜け出せず、恍惚とため息を吐くばかり。真愛も玲音を探すのを忘れて聞き惚れていた。
短い言葉を数個並べた帰りの放送は、決して長いとは言えない。その短い時間に声だけで生徒たちを魅了したのは三王子の一人・津田芹香である。三王子の一人として数えられているものの、芹香はれっきとした女だ。『姫王子』と呼ばれ、男女の人気を集めていた。
女にしては高身長、女にしては低めの声、女にしては胸がない。それらの男性寄りな特徴にプラスして整った美人顔と中性的で不思議な響きを持つ美声。話題にならないはずもなく、噂を聞いた先輩たちの手によってスカートの代わりにスラックスを穿かされ、王子様が出来上がったわけだ。自由な校風の愛華薔薇学園では全ての生徒がスラックスとスカートのどちらもを着用できるため、芹香がスラックスを穿くことに問題は何一つなかった。
「聴覚は芹香にくれてやるよ……けどな、視覚は俺のものだ! そうだろう!」
誰も彼もが夢心地に固まっている中、投下された自信を多分に含だ声。声に操られて、群れは揃って同じ場所を向く。
何対もの視線を群れの中央で受け止めるのは、艶やかな黒髪とそれと同色の力強い瞳を持つ一人の男子生徒だった。口元にはやんちゃな笑みが浮かんでいるのだが、その様子はどこか艶っぽい。
本人が断言した通り、周囲の人間は彼に釘付けとなった。
後頭部と後頭部の間から、やっと玲音の姿――それも悩殺スマイル付き――を拝めた真愛の心拍数はドドドッと跳ね上がった。うるさい心臓を抱えて、真愛は首を捻る。
(何これっ? こんなの初めて……!)
呼吸が苦しくなるほどの胸の高鳴りに、経験少ないながらも真愛は一つの仮定にたどり着く。
もしかして……これが恋……? しかし。
――そんなわけないでしょ。
頭の冷たい部分が即座にそれを否定した。
――真愛は玲音に恋をしない。
真愛自身のものなのか別人のものなのかはっきりしない声が頭の中で響き、騒がしかった胸が落ち着きを取り戻していく。いつの間にか握りしめていたブラウスの胸元を放すと、じわっとした感覚が指先に起こった。
(私は玲音くんに恋をしない)
胸のうちで復唱すると、ファンに混じって玲音に熱視線を送っていた自分が馬鹿馬鹿しく思え、彼から視線を外し踵を返した。真愛の瞳は冷静というよりももっと冷めた目をしていた。
群れを迂回し、正門へと歩み始める――と、その時。
「あたしは全部玲音様のものです!」
一つのうわずった声が群れの中心に近い部分から上がった。一歩踏み出しただけで再び足を止め、真愛は顔を人込みへと向ける。
「視覚だけじゃありません! あたしは……聴覚も嗅覚も触覚も味覚も、五感の全部が玲音様のものです!」
声の主である女子生徒の近くにいた別の生徒が、「ちょっと貴女」と非難した。
『三王子不可侵の掟』なるものが暗黙のうちに存在する。三王子はみんなのもの、抜け駆けをして告白などしてはいけないという、ファンの間で決まっているルールだ。それが今、破られようとしている。
「だって、こんなに好きなのに! あたし……玲音様の、かの」
その先は言葉になることを許されなかった。
興奮して暗黙の掟に抵触している彼女の唇に、玲音はそっと手を添えた。瞬間、きゃあともぎゃあとも聞こえる悲鳴が正門付近一帯を覆い尽くす。
――ズキン。
声こそ上げなかったものの、真愛の右手はまたも胸の辺りでブラウスをきつく握りしめていた。先程とは違う胸の音。今度のそれは痛みを伴っている。
(本当に、まるで恋みたい)
玲音が他の女子に優しく触れたのを見て傷つくだなんて、これを恋と言わずになんと言うのだろう。
――真愛は玲音に恋をしない。
脳裏にまたも浮かぶ声。その声は暗示のように真愛の感情に響き、安心感を与えてくれる。その言葉に悪いものを感じられず、声に身を預けた。
(私は玲音くんに恋をしない)
先程したように不思議な声を心の中で復唱する。
妖艶な笑顔を女子生徒向ける玲音を意図して視界から外し、真愛は今度こそ群れを脱して正門へと向かう。歩く速度は、いつもよりも速い。
(私は玲音くんに恋をしない)
言い聞かせるように重ねて復唱する。何度も繰り返しながら、正門を通り抜けた。
「私は玲音くんに恋をしない」
正門を出てしばらくして、真愛は小声ではあるもののついに声に出して言い聞かせた。声に出したり胸の内でだったり、何度もしつこく復唱しているうちに真愛は平常心を取り戻しつつあった。家に着く頃には、もうほとんどいつもの真愛だった。
4.胸の奥の小さな違和感
井形に並ぶ住宅街。バス通りから一本奥に入った通りに真愛の家はある。
電車とバスを乗り継いで帰ってきた真愛は夕食後、二階にある自分の部屋でぬいぐるみの手入れをしていた。
手入れとはいっても、糸が出ているところを切ったり、ほつれているところを縫ったりする程度だ。
裁縫道具を広げた机に向かい、ぬいぐるみの身体をチェックする。
頭に王冠を乗せ、白地に金の刺繍と薔薇のアップリケの施されたベストを着たクマのぬいぐるみ――真愛は冠クマちゃんと呼んでいる――を手に取った時、コンコンと音がした。
その音で真愛が反射的に振り向いたのは、左側にある扉ではなく、すぐ右にある窓の方だった。カーテンを開けると曇りガラスの向こうに人影が見える。
一部のためらいもなく窓を引き開けると、自室側の窓のへりに両腕を重ねて乗せさらにその上に頭を置いた玲音の姿あった。
「よっ!」
「玲音くん。こんばんは」
自然な笑顔を目の前の幼馴染に返した。胸が刻むテンポに変化はない。
(やっぱり勘違いだったんだ。……あり得ないよね。幼馴染がいきなり恋愛対象になるなんて)
真愛が宇田川玲音に出会ったのは十二年前――五歳の時だった。引っ越してきたこの家の隣に玲音が住んでいたのだ。
それから長い時間を過ごし、情が生まれた。しかしそれは恋情ではなく友情に過ぎない。
いくら幼馴染が人並外れた美貌に成長し、学園の王子様になったとしても、それは変わらないはず……なのだが。
むむと小さく唸りながら、真愛は腕の上で変形している玲音の顔を見つめた。腕の上で潰れた顔すらも美しい、それどころかいつもと違うリラックスした状態によって色香がにじみ出ている。
意味あり気な視線をよこす真愛を一瞥し、玲音は頭を傾けたままの体勢で目を細め、見る者を魅了する笑みを浮かべた。
「そんなに俺の顔が好きなのか? じゃあ存分に眺めるがいいさ。好きなだけ見てろよ」
顔、声、仕草、表情、そして視線。その全てに価値がある。
もし時を止めて保管することができたなら、玲音が作り出した今この瞬間は後世に残る芸術作品となりえただろう。
――キュン。
胸が小さな音を立てたのには気づかない振りをして、真愛は幼馴染として友達として適切な言葉を返す。
「そのセリフ、玲音くん以外が言ったら寒いやつだ」
「なら、なんにも問題ないじゃないか」
一般的には自信過剰な言葉でも玲音が言えば過剰ではなくなり、玲音の姿をより魅力的に見せるものへと変化する。
「すっごい自信家」
「真愛だって俺なら似合うって思ってるんだろ?」
「……まぁね」
肯定するのは癪だが、否定はできない。
(そういえば……)
ふと玲音に付けられた二つ名が頭に浮かんだ。優しさとクールさを併せ持つ優に付いた氷雪王子、男装の麗人である芹香に付いた姫王子。他の二人と同じく、玲音にも特別な名前があるのだ。
人の目を引き魅了する神秘的な性質と、艶やかに輝く黒髪と星を宿した様に煌めく黒の瞳。その素晴らしさを讃えて、玲音は『宇宙王子』と呼ばれている。
「それ、懐かしいな」
「え?」
意識が逸れていて玲音の言う『それ』が何か分からず、真愛は一瞬狼狽えた。いつのまにか腕から頭を持ち上げていた玲音は、自信よりも優しさを感じる微笑を浮かべていた。玲音の視線を追い、真愛は首を傾げ自分が手にしているぬいぐるみの名前を呟く。
「冠クマちゃん?」
「そうそう。そんな名前付けてたな。……まだ持っててくれてたのか」
「うん」
返事と同時に、真愛は冠クマちゃんをキュッと柔らかく握り直した。
冠クマちゃんは真愛が七歳の誕生日を迎えた時に玲音から贈られたものだ。幼い頃は腕で抱えて持っていたが、今では両手に収まる。
「真愛は物を大切に扱うよな」玲音の視線が真愛の後へと伸びる。「なんでも物持ちが良いし」
他のぬいぐるみのこと言っているのだと分かり、真愛は緩く首を振った。
「冠クマちゃんは特別だよ」
貰った時の暖かな気持ちが蘇り、笑みを浮かべた真愛は冠クマちゃんの王冠にキスを落とす。
「……そ、うか」
見ていた玲音は瞠目し頬を朱に染めたが、真愛の目は冠クマちゃんのみを捉えていてそれに気づかなかった。玲音はその隙に素早く身を引き完全に自室へ身体を戻し、そのままの流れで身を反転させた。
「玲音くん?」
真愛が冠クマちゃんから目を上げると玲音は背を向けていた。その背中から拒絶を感じ、戸惑い声を背中へぶつける。しかし玲音がこちらに顔を向けることはない。
「暇してんだったら一緒に授業の予習でもしようと思ったんだけど、忙しそうだから今日はやめとくよ」
「……私、何か玲音君を怒らせるようなことした?」
心当たりがない不安から、言った真愛自身も驚いてしまうほどに悲しげな声になった。
「違う!」
慌てた声と顔で玲音は振り返る。珍しいその様子に、不安は霧散したが疑問は残ったままだ。その上――。
「? 玲音くん、なんか顔が赤い?」
「ッ!」
指摘により自らの失態に気付き、掌を真愛に向けて顔を隠した玲音だったが、過剰に反応しさらに墓穴を掘ることになった。
「赤くない!」
焦った玲音の口から飛び出したこの言葉は、自らの顔が赤いと思っていないと出て来ない言葉だ。赤面している理由に心当たりがなければ、赤いと言われたことに反論するのではなく疑問を抱くはずだ。
その矛盾から、幼馴染が見せる態度が照れであると気付き、真愛の疑問はまたも姿を変えた。
(え? なんで照れてるの?)
玲音が態度を変えた瞬間まで記憶を遡り、真愛はその正体に行き着いた。
「あ……あぁ!」
貰ったぬいぐるみにキスをしたら、それがどんな意味を持つか。無意識でしてしまった自身の行為を玲音がどう受け取ったかを想像して、真愛まで顔を染めた。
「ち、違うからね。あれは深い意味とかじゃなくてただ懐かしく思ってついしちゃっただけだから!」
「知ってるっつーの、そんなこと」
「知ってるならなんでそんな顔してるのっ?」
「そんな顔もなにも、普通のイケメンだろ! いつもとなんら変わりない!」
そう言っても顔を見せることに抵抗があったらしく、真愛に見せるのは艶めく黒髪の後ろ頭ばかりだ。
「とにかく、今日はもういい! じゃーな、また明日!」
玲音が後ろ手に窓を閉めたせいで、もう一度顔を見ることは出来なかった。
冠クマちゃんを左手で抱え直し、真愛も自室の窓を閉めた。
玲音と話していたのが幻だったかのように、時計が時を刻む音だけが部屋を満たす。
――真愛は玲音に恋をしない。
突然響いた声にギクリとして、真愛は後ろを振り返った。そこには見慣れた部屋の扉があるだけで、誰の姿もない。この声が実体を持たないことは知っていたはずなのだが、反射的に身体が動いてしまった。
昼間と同じように胸の辺りで拳を握ると、平時とは比べ物にならない速さで脈打つ心臓の動きが伝わってくる。
玲音と共有した時間に幸せを感じ、友情が別のものへと変化しようとしているのを、声に見抜かれたような気がした。
――真愛は玲音に恋をしない。
言いつけを破った子供に念を押すように、もう一度そう言われた。
「私は玲音くんに恋をしない」
頷き、帰り道でしたように噛み締めながら声をなぞる。
同じようにしたはずなのに。
――しかし、今度は真愛の胸に残る違和感が消えなかった。
5.冠クマちゃんは動き出す
「あなたは玲音を好きじゃないでしょ?」
景色のない、上下も分からない不思議な空間を漂っていた真愛は、目の前の真愛にそう言われた。
自分自身を目にして、ここが現実世界とは別の場所――夢の中なのだと気が付いた。
夢は夢だと見抜かれると風にさらされたロウソクの火のようにふっと消えてしまうものだが、今日の夢はなかなかしぶとく覚める気配がない。
「ううん。あなたは玲音が好きなんだよ。愛してると言ってもいいくらい好きなんだよ」
真愛がもう一人増えていた。
「好きじゃないでしょ?」
「好きなんだよ」
真愛本人を差し置いて、別の真愛たちが同じ声で言い合いを始めた。壁などないにも関わらず大きく反響して、二つの主張が真愛に迫る。
鼓膜を通って脳みそを直接揺さぶってくるのだ。
好き。好きじゃない。花占いでもしているように、真愛の中でうごめく正反対の二つの言葉。
(私は……)
玲音を好きなのか否か。
自分の気持ちのはずなのに、答えが出せない。言い争う二人の自分のどちらもが正しいと思うし、どちらもが間違っていると思う。出口のない思考の迷路にはまってしまった気分だ。
二人の真愛の声はどんどん大きくなり、耳と頭に肉体的な痛みをもたらし始めた。
(やめて!)
そう言ったつもりだったが、声にはならず口を動かしただけに止まった。
堪らず白い腕を二人の真愛へと伸ばすが、指先が黒に侵食され消えていく。
徐々に身体を失っていくと同時に、二人の声が小さくなっていることに気が付いた。
――おい。
背中に柔らかい感触が現れた。
身体が重力を取り戻し、ベッドに優しく受け止められているのを感じる。
夢が終わったのだ。
「気が付いたか?」
聞き覚えのない声がすぐ近くで聞こえ、真愛はパッと目を開けて上体を起こした。ベッドの横の暗闇に、何かが控えていた。
「大丈夫か?」
人のサイズではない。もっと小さな影が意思を感じる動きを見せている。
目を凝らすとその姿がはっきりと分かる――。
「か、かかかかか」
「おい、大丈夫かと聞いてるだろ」
「冠クマちゃんっ?」
「うわっ! 何するんだっ!」
ベッドの端に両手を着いて真愛の顔を覗き込んでいた冠クマちゃんを勢いよく抱え上げる。
「放せ! 放せ!」
モコモコした短い手足をバタつかせて抵抗するが、しっかりと握られた真愛の手の前には無意味だった。真愛の手を押したり叩いたりしていたが、やがて抵抗を諦め大人しくなった。
「冠クマちゃんがしゃべってる……?」
電気を点けてベッドに座り直した真愛は、手の中にある馴染みのぬいぐるみをまじまじと眺める。
先ほど手入れをしていた時と同じぬいぐるみのはずだが、しっかり持っていないと逃げていってしまいそうな生き物としての脈動を今は持っている。
「あなたは……何?」
握ったまま冠クマちゃんを顔の高さまで持ち上げ、目を合わせて問いかける。
「……オレの名はフィード。訳あってこのぬいぐるみを身体として借りることになった悪魔だ」
「あ、くま……?」
悪魔という単語を初めて聞いたかのようにおぼつかない発音で繰り返した。呆然とする真愛の反応に、掴まれるまま動きを止めていた冠クマちゃんが慌てたように腕を大きく振る。
「悪魔といっても別に悪い事なんか企んでないからな! 今だってオマエを悪夢から助けたくらいなんだぞ!」
「……え?」
思いもよらぬことを言われ、手が緩む。その隙をついて冠クマちゃんはスルッと拘束から抜け出した。白いシーツの上に自らの両足で立ち、困惑顔の真愛をジッと見上げる。
「オマエ、今夢を見ていたろ? どんな夢だった?」
「どんなって……」
夢の内容を思い出した真愛は自分の顔に熱が集まるのを感じ、言葉を詰まらせた。
「あ、あなたには関係ない!」
「言いたくないか。まぁ掛かっていた魔法を解いたのはオレなんだから、隠したところで無意味だけどな」
「魔法?」
「そうだ。オマエには恋をする魔法が掛けられていた」
「っ!」
真愛の顔色が変わるのを確認し、愛らしいはずのクマのぬいぐるみは悪い笑みを浮かべる。
真愛の素直な反応に機嫌を良くした冠クマちゃんは真愛の肩に飛び乗り耳元に口を寄せた。
「近くにいる人間に自然と恋心を抱いていく魔法だ。心当たりがあるだろう?」
意地の悪い声に、真愛は思わず肩に乗った冠クマちゃんを振り払っていた。
「おっと」
前触れなく飛んできた真愛の手を難なくかわした冠クマちゃんは、不安定なベッドの上にも危なげなく着地する。
今しがた聞いた現実離れした話をデタラメだと否定することも出来ず、真愛は困惑したままで冠クマちゃんを見やった。
「それって、好きじゃないとか好きとか……暗示みたいにくり返してくる声のこと?」
隠しだてしても意味がないと悟った真愛は素直にそう聞いた。
肯定されることを予想していたが、しかし、返ってきた反応は微妙なものだった。
「好きじゃない、とも言ったのか?」
「うん。どっちかっていうとそっちの声の方がよく聞いた気がする」
好きと言われたのはさっきの夢が初めてだ。対して好きじゃないと言われたのは、放課後と玲音との会話後と夢。好きじゃないと繰り返してきた回数の方が多い。
顎に手を当て考える素振りを見せた冠クマちゃんは数十秒ほど黙り込んだ後、真剣な眼差しで真愛を見つめた。
「確認がしたい。額をこっちに近付けてくれ」
「こう?」
座ったまま身を屈め、言われた通りにおでこを差し出す。そこにふわっとした布が当てられた。冠クマちゃんの手だ。
「もしやとは思うが……。……やっぱりそうだったか……」
「何? どうかしたの?」
「摂理をねじ曲げ害なす意志よ、消え去れ!」
「熱っ!」
冠クマちゃんが叫んだ瞬間、額にピリピリとした熱が走った。ベッドの上を跳ねるように後ずさり、額をさする。指先で違和感を捕らえることもなく、痛みももうない。
「なんだったの……?」
一瞬のことに戸惑いを露わにしたまま、冠クマちゃんに目をやる。
「驚くことに、オマエには二種類の魔法が掛けられていたようだ。さっきオレが解いた恋する魔法の他に、特定の人物に恋をしない魔法が掛かっていたよ」
「え……えぇっ?」
「オレの力ではその特定の人物が誰なのかまでは分からなかった。……オマエ、心当たりあるか?」
不意に自信家の幼馴染の顔がよぎる。
「……玲音くん」
真愛は玲音に恋をしない。何度もその声を聞いているのだから、恋をしない魔法の相手というのは玲音で間違いないだろう。
「人物を限定しての魔法だからな、オマエかその相手……レオンというものかが誰かに狙われている可能性がある」
「えっ!」
「このままいけば命もないかもな」
急激に室温が下がった。実際には変化していなかったが、真愛にはそう感じられた。
赤から青へと文字通り顔色を変えて自身の身体を抱きしめた真愛に、冠クマちゃんは明るい声で話を続ける。
「そこで、取引をしようじゃないか。オレにもオマエにも美味しい話だ」
恐怖を盾に取引をしようだなんて、やはり悪魔だ。いつもは心安らぐ冠クマちゃんの愛らしい顔に、今は警戒心しか湧かなかった。
「取引? そんなのするわけないでしょ」
ほいほい悪魔の口車に乗るほど馬鹿なつもりはない。
「結論を急ぐな。話も聞かないうちから雰囲気だけで答えを出すと後悔することになるぞ」
「悪魔との取引なんか……」
「悪魔差別はやめてくれ。確かに人間の命を奪い弄ぶ者がいるのは事実だが、オレは今オマエを助けたばかりじゃないか」
「……」
冠クマちゃんに取りついている悪魔――フィードの言う通り、真愛は魔法を解いてもらったばかりだ。
しかしだからといって、「そうですね」と信用できるわけでもない。
「そう警戒するなよ。オレがオマエに要求したいものは、きっとオマエにとって些細なものだ」
「死んだ後の魂の要求は些細に入らないよ」
「言ってない! そんな事は一言も言ってないぞ! オレはただ人間界にいる間の仮寓が欲しいだけだ!」
「えっ……? それってつまり、この部屋に居候したいってこと……?」
「そうだ!」
本当に些細要求であった。居候もなにも、冠クマちゃんの家は真愛のこの部屋である。しゃべる分少しは騒がしくなるかもしれないが、スペースとしては全く変わらない。
「そんなことでいいの? 後から実は追加で要求とか嫌だよ」
「そんな悪徳詐欺師みたいなことはしない!」
「詐欺師は悪徳だから詐欺師なんだよ」
悪徳詐欺師という言い回しからフィードが汚い真似を忌避しているのが読み取れた。ひとまず信用するに足る悪魔といえるだろう。ならば取引をするのもやぶさかではない。
「部屋を貸したら、私の命を守ってくれるってこと?」
しかしそれだけでは困るのだ。先ほどのフィードの口ぶりだと真愛だけでなく、玲音の命も狙われている可能性があるのだから。
できるだけ貸し渋り、玲音の身の安全も確約させなければ……という真愛の考えは次のフィードの言葉で無意味になった。
「オマエの命だけじゃない。レオンとやらも狙われているかもしれないと言っただろう。二人まとめてオレが守ってやる」
引き出そうとしていた言葉を先に出され、真愛は目を丸くした。
「ほ、本当に……ッ?」
「別に一人でも二人でも変わらん。それよりオレは住まいが欲しい。どうなんだ? 貸してくれるのか?」
「うんっ……い、いいよ」
真愛自身の命と玲音の命とこの部屋の居候。どう考えても前二つの方が圧倒的に重い。重い二つと軽い一つを天秤に掛けられれば、取引相手が悪魔であっても契約していいと思えた。
「取引成立だな。そういえばオマエの名前を聞いていなかった。名はなんという?」
「真愛。田崎真愛」
「そうか、マナか。それでは、よろしく頼むぞ、マナ」
差し出された茶色い小さな手を真愛は軽く握った。
その夜、寝直した真愛は夢を見た。一度目と同じく、二人の真愛が真愛を見つめてくる。けれど二人とも静かで、発するのはたった一言だ。
「真愛は玲音が好き?」
追い詰めるような言い方ではない、単純な問いかけだと分かった。
胸の中を一陣の風が吹き抜け、真愛の心を縛りつけていたしがらみが空間に溶け消える。たった一つの感情だけが心に残り、迷いはなかった。
「私は玲音くんが好き」
6.それぞれの思惑
心地よい眠りに身を沈めていたその人は、魔力が跳ね返ったきたことで目を覚ました。目覚めたばかりで思うように動かない身体をゆっくりと起こし、焦点を合わせようと努め目を瞬かせる。
「真愛に掛けていた魔法が解かれた……?」
魔力が跳ね返ってきた理由をぼんやりとした頭で思考して呟き、行き着いた結論に瞠目した。完全に目が覚めた。
「そんな……バカな」
わななかせた唇を痛いほどに噛む。
あり得ない。人間に悪魔の魔法を解けるはずがない。とすると――。
ある予想が頭をよぎり、目を瞑って周囲の気配を探る。近所から徐々に範囲を広げていき、己の力量の限界まで距離を伸ばす。
(……この状況は?)
人間と言い切れない生体反応が複数感じられた。周囲には複数の悪魔がいるようだ。
(一体何が起きている? …………いや)
動揺した心を落ち着け目を開けたその人は、暗闇の中頭を振って考えを改めた。なぜ悪魔が人間界にこれほどいるのかは置いておいて、真愛に掛けた魔法を解いたのは悪魔に違いないだろう。
悪魔が人間界に来た目的も、真愛の魔法を解いた理由も分からない。しかし情報が足りない中でも、一つだけ確実に言えることがある。
「もう一度かけ直す必要があるね」
真愛に魔法を掛けたのは戯れなんかではなく、魔法を掛けるだけの理由があったからだ。解かれたものをそのままにしておくわけにはいかない。
わずかに持ち上げた右手に力を込め凝視した。魔力が集まり、暗い部屋に青白い光が浮かぶ。
「……あれ?」
小さな光は少しずつ大きくなっていたのだが、ある大きさを境に弱まってしまった。
やれやれとため息を吐き出す。
「今日は想定外のことがよく起こる」
もう一度魔力を集約させようとしても上手くいかないことから、魔力不足だと悟った。額に手を当て、その勢いに任せてベッドに倒れ込む。
「……まぁいい」
口の端には微かだが笑みが浮かんでいた。
足りないなら、奪えば良い。ちょうど手頃な悪魔が人間界に複数いるようだから。
☆ ☆ ☆
フィードが冠クマちゃんに取り付いて一週間が過ぎた。特に問題が起こることもなく平穏無事な毎日を過ごしていたのだが……。
「マナ、オレを学校に連れてってくれ」
明日の時間割を頭に描きながら鞄に教科書を詰めていた真愛はその手を止め、声のするベッドの方を振り返った。冠クマちゃんが、ちょこんという擬音が付きそうな可愛い様子でシーツの上に座っている。
「学校に?」
聞き間違いを疑って生じた数秒の間の後、真愛はそう聞き返した。フィードは頭と胴の継ぎ目を折って頷く。
「最初に話したが、オレの目的は自分の前世の魂を見つけることだ。この辺り一帯は探し終えてしまったんだ」
「うーん、そう言われても……」
フィードの目的については彼が冠クマちゃんに取り付いた次の日の夜に聞いていた。大人になるために必要な前世の魂を探しているということも、大人になれないと生きる上で様々な障害があるということも。勝手に自由なものだとイメージしていたが、悪魔も人間と変わらず大変らしい。
「冠クマちゃん、かさばるしなぁ」
「そういう問題なのかっ?」
「連れて行ってあげたいのはやまやまなんだけどね」
一週間一緒に過ごして、フィードが常識的で礼儀正しいのは知っていた。そんな彼の姿に、前世の魂探しを手伝ってあげたい気持ちも生まれている。しかし鞄に入らないのだ、厚さの問題で。
「冠クマちゃんがシワになっちゃったら嫌だし」
「オレだって無理やり鞄に押し込まれての登校は遠慮したい! そうではなく、抱いて連れてってくれればいいだろう!」
「……クマのぬいぐるみ抱えた女子高生ってどう思う?」
「…………あざといな」
ぬいぐるみを持った姿が純粋に可愛く見える年齢はとうに過ぎている。今そんなことをやったら計算高いとしか思われないだろう。フィードも同じ印象に行きついたらしく、諦めて頭を垂れてた。
そんな姿を可哀想に感じた真愛は冠クマちゃんの頭をそっと撫でた。
「別のものに取り付き直せないの? 例えば……鞄とか」
「そんな酷使されるものになりたくない! あと、せめて候補を人型に限定してくれ。……どちらにせよ無理だ。よく分からないが、一度入ってしまうと移れないらしい」
「残念」
話が終わり、次の日の準備を再開させた真愛に再び声が掛かる。
「どうしてもダメか?」
フィードらしくないと感じた。
「どうしたの? やけに粘るね」
手を止めないままで話を促す。少しの間黙したフィードはためらいがちに口を開いた。
「マナに掛かっていた二種類の魔法のうち、恋を促す方の魔法は不特定多数に掛ける類のものだったんだが……この辺りで他に魔法に掛かっている人間を見かけなかった」
「それって……」
固いフィードの声音につられて真愛の声も少し上ずる。無意識のうちに手は止まっていた。
「まだ確証はないが、真愛が魔法を受けた場所は学校の可能性が高い」
「なっ!」
絶句する真愛へたたみかけるように、フィードは言葉を続ける。
「その調査もしたいんだ。おそらく人間の心を惑わしエネルギーを奪おうとしたといったところだ……。マナを守るうえで気を付けるべきは恋心を封じる魔法を掛けた者の方だろうが、そっちも放っておけない。魔法の性質からして、他にも被害者がいるだろうし」
あまり無理な主張をしないフィードが、一度断られたにも関わらず食い下がった理由が分かった。なんて人……もとい悪魔が良いのだろう。
そんな話を聞かされては真愛も意見を変えざるをえない。たとえぬいぐるみを持ったあざとい女子高生と見られることになったとしても。
「……分かったよわよ。そんな風に言われたら断れない」
「ありがとな」
「お礼を言うのは私の方でしょ。私に掛かってた魔法の調査をしてくれるんだから」
クスクスと笑みを零した真愛につられて、フィードも「ハハハ」と軽く笑った。
7.氷雪王子は微笑みを浮かべる
生垣に隠れるようにして、真愛は正方形の並んだ石畳の庭を散策する。下校する生徒の姿がまばらに見えるが、どの生徒の意識も正門に向いていて、真愛を気にしている様子はない。
少しずつ人気のない方へと足を進めていき、校舎の脇へと素早く入り込む。
校舎脇には正門付近のような舗装はなく、人が集まるような場所ではない。黒髪を揺らして周囲に目をやった後、スカートを押さえて木の根元に腰を下ろした。
「フィード、どう?」
小さめの紙袋から冠クマちゃんを手に取って外に出す。鞄に無理やり押し込むわけにもいかず、かといって抱えて歩くのにも抵抗があったので妥協案として紙袋が採用されたのだ。
短く刈られた芝の上に立ち腕を組んだフィードは瞳を閉じた。冠クマちゃんの瞳は黒いボタンでできていたはずなのだが、フィードが取り付いてからそれは本物の瞳に変化していた。
「……やはり、ここだな。数人の生徒に魔力の反応を感じる」
「そ、そんな……。私、この学校で動くぬいぐるみなんか見た事ないのに……」
「ぬいぐるみに限らない。最初に取りついた物が人形という可能性もあるからな。それに」
「そういえば! うちの学校の話じゃないんだけど、動く人体模型っていう七不思議があるって聞いた!」
「この学校の話をしてくれ! そして話を遮るな!」
柔らかい手でぺしぺしと真愛の膝を叩く。
真愛が口を閉じて静かになったのを確認して、咳払いを一つしたフィードは少し険しい顔をして続けた。
「別の世界に行くのに媒体を必要とするのは未成人だけだ。成人している悪魔なら人間界でも本体で行動できるし、見た目では分からないはずだ。もしかすると生徒や先生の中に悪魔が紛れ込んでいるかもしれない」
「えっ? 部外者じゃなくてってことっ?」
「そういうこともあり得る」
風が真愛の髪を右へ左へとせわしなく動かす。それを手でかき上げて耳にはさんだ。
頭の中を知った顔が次々に浮かんでは消える。誰も悪魔だなんて思えなかった。
「信じられない……」
呆然とそう言い放つ。
「僕も今、信じられないものを見てる気分だよ」
真愛でもフィードでもない第三者の声がいきなり降ってきた。
「誰っ?」
大きく肩を震わせた真愛は慌てて立ち上がり、つい先ほど整えた髪を振り乱して声の主を探す。
「あっ」
上を見ると緑の葉の隙間に愛華薔薇学園の制服が見えた。
頭上ばかりを気にしていて足元への意識が散漫になり、意図せず木の根に足を乗せてしまう。靴底が根の上を滑り、バランスを崩して体が傾く。
「わっ、わわっ!」
「おっと」
ガサガサと葉の擦れる音をさせながら、人が降ってきた。その人が真愛の腕を掴んで引き寄せ、間一髪で転ぶのを防ぐ。
ごく間近に人の体温を感じて、真愛はおそるおそる視線を上げる。
目に飛び込んできたのは色素の薄い、銀色をした髪。
「ね、ねねねねねねねね根岸くんっ!」
「やぁ、真愛」
「どうしてここに?」
「人に囲まれてばかりでは疲れるからね、隠れて休憩していたんだよ。玲音と幼馴染の君なら聞いてるでしょ? 王子って結構ハードなんだよ」
他の三王子である優や芹香には、玲音と真愛が幼馴染である事は伝わっている。真愛としても友人の友人として優と仲良くしているので、何度も会話をしたことがあった。
真愛の足がしっかり地を踏んでいることを確認した優は、そっと真愛との距離を取る。
(あ……)
距離ができたことで、逆に今までの近距離を意識してしまい顔に熱が集まった。それを気にしないように努めて、優に笑いかける。
「あはは……そ、そうだったんだ。邪魔しちゃってごめんね。じゃあね」
人が居たからぬいぐるみのふりをすることにしたのだろう、冠クマちゃんは芝に転がっていた。それを拾い、この場を後にしようとする――が。
「待って」
一秒でも早くこの場所からいなくなりたい真愛の気持ちを見通しているのか、掴まれた肩にはかなりの力が入っているのを感じる。
「何かな、根岸くん? こんな風に特定の女の子と居るとこ見られたら誤解されちゃうよ」
「そのぬいぐるみ、しゃべってたよね?」
(ダメか……)
あえてからかうような軽い口調で言ったのだが、優はそれに取り合ってくれなかった。
返事を待つ優の視線はまっすぐに真愛の腕の中の冠クマちゃんを捉えている。
「根岸くん、ぬいぐるみはしゃべらないよ。しゃべるぬいぐるみなんていたら怖いでしょ?」
「常識というものは時代が移れば覆るものさ」
しびれを切らしたのか、優はついに冠クマちゃんへ手を伸ばした。
「あっ、ちょっ……」
身をよじって冠クマちゃんを守ろうとした真愛だったが、肩を掴まれていて思うように動けず、あっという間に冠クマちゃんを取り上げられてしまう。
「返してよ!」
「……ただのぬいぐるみじゃないと思うんだけどな」
目を釣り上げて訴える真愛を無視して、優は冠クマちゃんをいじくりまわす。
(早く取り戻さないと)
酷使される物にはなりたくないとフィードは言っていた。恐らくぬいぐるみの今も、痛覚を含め感覚を持っているのだろう。
「ねぇ、普通のぬいぐるみでしょ? もういいよね?」
「真愛、このぬいぐるみはオス? それともメス?」
「えっ? た、多分オス……いや、そうじゃなくてさ」
現在の中身であるフィードは男だし、冠クマちゃん自体も冠とベストのデザインからして男の子を想定して作られているに違いない。だから優の問いに対する答えは「オス」で合っているはずだ。
思わず答えていたが、どうしてそんなことを……? という疑問が残る。
「そう……オスなんだね」
ふいに優の無表情が崩れた。酷薄さを感じる淡い笑みが顔を出す。
その瞬間、優に向かって腕を伸ばしていた真愛の背中を冷たいものが駆け抜けていった。
――氷雪王子。
優しさとクールさから付いたと聞いていたが、別の理由もあったのではないかという予感がしてならない。
「あ、あのー、根岸くん……?」
恐怖心を押し殺して、冠クマちゃんを取り戻そうと優の顔を覗き込む。
彼の視線は冠クマちゃんを捉えていて、真愛の方へは一瞬たりとも寄越さない。
「ねぇ根岸くん、もう…………ちょ、ちょっとぉ! 何してんのっ?」
眼球が零れ落ちんばかりに目を見開いた真愛は大きく開けた口から素っ頓狂な声を上げた。
目に見えて縮む優の顔と冠クマちゃんの距離。優が何をしようとしているのか直感的に予想できたが、信じられない。
真愛の予想が正しければ、優は冠クマちゃんへキスをするつもりだ!
「ま、ま、ま」
待ちなさいと言いたいのだけれど上手く舌が回らない。
止めあぐねているうちに、どんどん近付いていく。
五センチ、四センチ、三センチ……。ついに見ていられなくなり、真愛はきつく目を閉じた。
「ッ――――!」
声と音の間の悲鳴が上がり、ハッと目を開いた真愛は状況を理解しようと優と冠クマちゃんへと視線をやる。
「あ……」
冠クマちゃんもといフィードが優の手の中でもぞもぞと身をよじっていた。
必死になるフィードを、冷ややかな笑みを口元に浮かべた優が満足そうに眺めている。
――バレた。
その光景を受けて、真愛は肩を落とし額に手をやった。
8.二人の王子と真愛の関係
「放せ! 気持ち悪いんだよ! オレに男とキスする趣味はない!」
「そう。それは良かった」
動くぬいぐるみに嫌悪を示すこともなく、それどころか愉快気な様子である。作戦が上手く運び、真愛の隠し事を暴き立てたことに喜びを感じているようだ。
「キスを嫌がらせに使うなんて、王子と呼ばれる人のすることじゃないと思うんだけど」
恨めしさを前面に押し出した声音だというのに、優はそれに堪えることもなく普段の無表情に戻った。
「嫌よ嫌よも好きのうちっていう言葉知ってる?」
「言葉は知ってるけど、使いどころは今じゃないよ!」
「そうだぞ! オレは本気で嫌がっている! っていうかいいかげん放せ!」
「嫌? そう嫌なのか」
再びフィードに優の顔が近づく。ポリエステルボアでできた体が微妙に毛羽立っているのは、人間の身体でいう鳥肌が立っている状態だろうか。
「うわあぁぁぁ――――ッ! やめろぉぉぉぉ――――ッ!」
「嫌なんでしょ?」
「分かってんならやめろ!」
暴れもがいて優の拘束を抜けようとするが、優も優で冠クマちゃんを強く握っていて状況は変わらない。
「根岸くん、もう勘弁してあげて。フィードは本気で嫌がってるから。好きを素直に言えなかった時の嫌じゃないから」
ピタリと距離が縮むのが止まる。分かってくれたのだろうか。
冠クマちゃんをしっかりと握ったまま真愛に向いた優はうんと頷いた。
「知ってるよ。嫌がってるヤツにやるから楽しいんじゃないか」
「サディスティック!」
真愛は叫んでいた。氷雪王子はドSであった。
「え、何? さっきの嫌よ嫌よも好きのうちって言ったのは何だったの?」
「知ってるかどうか聞いただけさ」
さらりとそう答え、視線を冠クマちゃんへと戻す。
「もう! やめなって言ってるでしょ!」
華奢に見えるが案外筋肉の付いている優の腕を掴み、真愛は実力行使にでた。力が強く、優の手を解いてフィードを助け出すには至らなかったが、ひとまず距離が縮むのを防ぐことはできた。
――その頃、真愛と優が争いを繰り広げる校舎脇に跳ねるように近づく影がひとつあった。
地面が土に変わり、足音が消える。
優から冠クマちゃんを取り戻そうとする方にばかり意識がいっていた真愛は、声を掛けられるまでその人が来ていたことに気づかなかった。
「何やら面白そうな揉め事はっけーん!」
特徴的な声をすぐ近くで聞き、真愛は煉瓦色のチェックのスカートを翻し身体ごと振り返った。
目に飛び込んできたのは爽やかな笑顔。見知った顔を認めて彼女の名を呼んだ。
「芹香!」
「よっ!」
にっこりと美しい顔を崩して笑うのは、真愛の友人であり三王子の一人でもある芹香だった。
細身の身体に白いワイシャツを身に付け、すらりと長い足には真愛のスカートと同じ柄のスラックスを履いている。襟足まであるこげ茶色の髪が彼女が笑うのに合わせて揺れた。
「なーにしてるのかな~、こんなところで~」
芹香の笑顔の種類が変化する。顔の作りが変わったはずはないのだが、爽やかな雰囲気が一転、いやらしい笑みになった。
半眼になった真愛がペチンと小さな音を立てて芹香のおでこを叩く。
「なんて顔してるの、ファンの子が見たら泣くよ」
「エヘッ。いいじゃん、ここには真愛と優しか居ないんだしー。このメンツの前でくらい素でいさせてくれよ」
すでに真愛が叱った顔ではなく、無邪気な笑顔になっている。ころころと変わる表情がなんだか微笑ましく、一緒になって真愛も淡く笑んだ。
「いったい何の用なんだい、芹香」
「……んにょ?」
真愛がマヌケな声を漏らしたのは、優の言葉に対してではない。散々いじめていた冠クマちゃんを、前触れなく真愛の手に押し付けてきたためだ。
「ねぎ」
「わざわざこんなところまで来たってことは、僕を探してたんでしょ?」
優に掌で口を覆われ、途中までしか言葉を発することは許されず、仕方なく真愛は上目遣いで優へ疑問を示す。しかしそれすら取り合ってもらえない。
「うん。玲音も帰るって言ってたから、三人で帰ろうと思って呼びに来たんだけど……もしかしてお邪魔だったかな~」
言葉の後半に含み感じ、口元に伸ばされていた優の手を振り払い、真愛は勢いよく首を横に振った。あまりの勢いに、乱れて揺れる髪が視界をチラつく。
「ぜんっぜん! 芹香が思うようなことはないから!」
「だろうね~。真愛は玲音と相思相愛だもんね~」
真愛と玲音が幼馴染で、高校生になった今も昔と変わらず仲が良いと知った芹香は度々真愛や玲音をそのネタでからかうのだ。
真愛たちが「はいはい」と軽く受け流すまでが一連の流れとして定着していた。
――確かに定着していたのだ、ついこの間までは。
「え、え? そ、そ、そう見える?」
いつもの返答が出来ず、顔を赤くした真愛はしどろもどろでそう返すのが精一杯だった。
言った芹香も見ていた優も真愛の様子に表情が固くなる。
動揺を隠せず素直に反応した真愛だったが、優と芹香の顔から何を思っているか読み取ることは出来た。
「ち、違うから!」
反射的に嘘を吐いた。
つつけば壊れる脆い嘘で否定して、隠して。
そうしないと、みんなで築いた関係が壊れてしまう気がしたのだ。
どうにかこの場が上手く過ぎますように、と祈らずにはいられない。
「……というわけで」
訪れかけた沈黙を押しとどめたのは優だった。
「僕と真愛は芹香が考える下世話な関係じゃないよ」
「あ……。そうなの~。あーやーしーいーぞー」
顔をこわばらせていた芹香は、やや遅れたものの優の言葉に反応した。
優と同じく気づかなかったフリを貫くことに決めたようだ。
「冗談はこれくらいにして……玲音を待たせてるんだ。行こうよ、二人とも」
微妙な空気に耐えられなかった芹香は逃げるように歩きだした。
特にこの場に留まる理由もないので、冠クマちゃんを紙袋に丁寧に入れて芹香の後を追って足を進める。
二歩、三歩と進んだ時、肩に手が置かれた。
「そのぬいぐるみのことは黙っていてあげるよ」
低くそう呟いた優は何事もなかったかのように真愛を追い越していった。
9.学園の異変と真愛の決意
「やっと来たか、遅かったな。……ん? 真愛も一緒だったのか」
校舎一階にある一番端の日当たりの悪い教室で、机に突っ伏したまま顔だけをドアへ向けた玲音が、呑気にそう言った。
部活や委員会でもないのに生徒が空き教室を勝手に使用するのは、本来禁止されている。
しかしそこは学園のアイドル三王子。教室の鍵を借りる際に先生に報告すれば空き教室を使っても良いという特別許可が下りているのだ。
部活の活動場所のように一つの場所に決めてしまうと、生徒が集まってしまうため日々移動できるこのシステムは三王子からも好まれている。
残っている生徒に見つかって騒がれることを警戒し、三人とも室内に入りドアを閉めた。そう長居するつもりもないのでそのまま出入り口付近に立ち止まる。
眠たそうな目をして気怠げに身を起こした玲音は緩慢な動作で帰り支度を始めた。エネルギーが迸っているのが玲音の常なので、そんな彼の姿を見せられては心配になる。
「玲音くん、何かあったの?」
「んー……」
鼻に籠った曖昧な声を聞かされ心配は増すが、疲れているらしい玲音に重ねて質問するのも憚られた。
そうした二人のやり取りを見て、芹香が説明を始める。
「お疲れおんに変わって、うちが答えてあげようじゃないか!」
「なんだお疲れおんって……」
「うちが異変に気付いたのは最近のことなんだけど、玲音はもっと前から感じてたみたいなんだよな」
呆れた様子の玲音による小声のツッコミは芹香によってかき消された。一瞬不満気な顔を見せた玲音だったが、続けて言葉を発することもなく帰り支度を再開する。
「ファンの子たちの間には抜け駆けを禁止する約束事があるらしいんだ」
「知ってる。三王子不可侵の掟でしょ?」
「そうそう、そんな名前のやつ。んふふ」
掟名がツボに入ったらしく、声に笑いが混ざる。
「その、ふふっ……三王子ふっ不可侵のおほっ……掟があったから、今までこっちが困るような想いを告げられることはなかったんだ」
「前半が不真面目だから後半の言葉が軽く聞こえる。やり直し」
非難めいた優のダメ出しに、芹香は肉づきの少ないすっきりとした頬を膨らませた。普段は大人っぽい印象の芹香だが、こうして見ると少年のようにも見える。
「しょーがないじゃん! 変な名前なのが悪い! ……でね、その掟のおかげで今までは特に問題が起こらなかったんだけど、ここ一週間くらいで状況が変わったんだよ。うちらに本気で告白してくる生徒が出始めたんだ」
「あ……」
魔法に掛かり玲音を追いかけた自分を思い出し、そのついでに一人の女子生徒が脳裏に浮かんだ。見ていられなくなって帰ってしまったので顛末は知らないが、周りに注意されながらも玲音に気持ちを伝えようとしていた女子生徒が居たではないか。
「真愛も知ってるよな、あの時珍しく俺のところにいたみたいだし」
「え、気付いてたの?」
まるで真愛の思考を見透かしたようなタイミングで、鞄に荷物を入れ終えた玲音から声が飛んできた。ギクリとしてぎこちなく顔を向けると、幾分かシャッキリした顔つきになった玲音が目を細めてククと笑う。
「当たり前だろ。何年一緒にいると思ってるんだよ、近くにいれば気配で分かる」
「あー……ごめんね」
「なんで謝る?」
群れていた人物が男女半々だったことで、性別に関係なく人気のある玲音が群れの中心にいるのではないかという予測は出来ていた。しかし玲音だと確証が持てたのは彼の顔を確認してからだ。
元気のない時なら敬遠したくなるような人数に囲まれていた玲音が、取りたてて目立つわけでもない真愛に気付き、真愛の方が中央の人物が誰なのかに確証を持てなかった。気付くのが当然といった態度をされては申し訳なくなってしまう。
「知ってるなら話は早いよ」
疑問を乗せた視線を送る玲音とそれに対して困ったように笑う真愛の間に身体の位置を変え、芹香はピンと人差し指を立てて説明を続けた。
「いわゆる告白ってやつが頻発してるってこと。その度に周りの空気を読みつつ断らないといけないから、精神的に疲弊しまくりなの」
そう言った芹香の目元にもうっすらと隈が出来ていることに気がついた。
「そっか、三人とも大変なんだね。モテすぎるのも困るものなんだ」
別次元の容姿を持つ三人の苦労は真愛には想像することしかできない。
「そうでもないよ」
振り向くと、ドアに背中を預けた優が腕を組んでこちらを見ていた。
「モテるのは純粋に気持ち良い」
グッと親指を立てた拳を突き出してくる様子だけを切り取ると熱を感じるのだが、顔の方は相変わらずの無表情でレンズ越しの瞳は涼やかなままだ。
そのチグハグな様に、真愛は「はぁ」と曖昧に返すことしかできない。
「モテるのは純粋に気持ち良い」
「あぁ、やっぱりそう言ったんだ」
二回言われてようやく内容を飲みこめた真愛は驚きを込めてそう言った。
氷雪王子と呼ばれる優がそんな俗っぽいことを言うなんて想像していなかった。
己が耳で聞いた今でも、隙のない美男子代表のような優を視界に入れると、自分の脳みその方を疑いたくなる。それほどまでに優には似合わない言葉だった。
支度を整え肩に鞄を掛けた玲音は椅子を机に押し込み、真愛たちの立つドア付近に合流する。宇宙を彷彿とさせる黒髪を揺らして笑っていた。
「そうか真愛は知らなかったんだな、優が生粋の変態だって」
「…………」
(へ、変態?)
真愛としては素直に聞き返したかったところだが、正直その話を聞きたくなくもあった。
「人聞きの悪い言い方はよして。大体女子にモテたいと思うのが変態なわけ? なんのひねりもない健全な嗜好でしょ。僕から言わせると男子にモテたいって言う方が変態……あぁ」
淡々としていたが普段の口調よりわずかに早口で話していた優は、突如言葉を切り大きく頷いた。
「確かに男子からモテたいと思ってる玲音から見れば、僕が変態に見えるのかもしれないね」
ハラハラしながら見守っていた真愛は氷雪王子の口元が弧を描くのを見逃さなかった。先程フィードに対して発揮されたSっ気が思い起こされる。
どうやら優が笑うのは相手をいじめたい時が多いらしい。
今まで知らなかった優の一面を目の当たりにして絶句していると、肩をトントンと指で突かれる。
後ろを向くと、真愛の耳元に顔を寄せて悪戯っぽく笑う芹香の顔があった。
「面白くなりそうでしょ」
「……慣れてるんだね」
二人を止める気配を見せず、むしろもっとやれと言わんばかりの態度を取る芹香に幾分か安心した。
ふむと考えた玲音は顔を上げて視線を優のそれと交わらせる。
「俺は男子にモテたいと思ったことも、女子にモテたいと思ったことも一度もない。ただモテるだけだ」
「ぶふっ!」
我慢しきれなかった芹香が噴き出した。唾液の被害を受けた真愛がじろりと睨んでそででそれを拭う。「ごめん、ごめん」と悪気なく謝る彼女を一瞥し、目を玲音たちへ戻す。
「なにそれ、自慢?」
「いや、事実を単に述べてるだけだ」
幼馴染である真愛は、どう聞いてもナルシスト発言にしか取れないその言葉を玲音は大真面目に言っているのだと知っていた。
小さい頃から人を惹きつける才能を発揮し、真愛の知る普通とは異なる人生を歩んできた玲音にとってみれば、人に好かれることは日常生活の中に当たり前に組み込まれているのだろう。
「にしては男子にもちやほやされて喜んでるよね」
「なにが言いたいんだ、優。別に男子相手だからってわけじゃないし、女子相手でも喜んでいるだろう」
「喜んでるんだ……あ」
つい本音が零れ落ちていた。
「え?」
真愛が二人の間に挟んだ声はか細いものだったが、二人ともそれをしっかり拾い言い合いを止めた。
しんとなる教室に、しまったという思いが真愛の胸に溢れてくる。
これではまるでちやほやされて喜んでいる玲音を責めているみたいじゃないか。いや確かにその通りではあるのだが。
しかしそれをこうもストレートに表現するつもりなどなかったわけで。
「あ、いや、そのさ……玲音くんってどんなに褒められても当たり前みたいなところあるじゃん」
「嫌な奴みたく言うなよ」
「あー、えーと。褒められて当然にかっこいいし、優しいし、頭もいいし、運動神経だっていいじゃない。そんな人だから嬉しいなんて思ってると思わなくて驚いちゃったよ。あはははははは」
自分でも強引な誤魔化し方だったと感じていた真愛は次の追求に備えて、動揺しないよう、そして余計なことを口走らないよう身構える。
けれどもそれは杞憂に終わった。
「そ、そんなに褒めるなよ」
口元を腕で隠し、細めた目元だけをのぞかせている。褒められ慣れているはずなのに、その照れ方は初々しい。
(玲音くん……可愛いなぁ)
しかし愛おしさと同時に不安も感じた。
現在、愛華薔薇学園にはおかしな魔法が掛けられているのだ。褒められただけでこんな風に照れるのであれば、なにかの弾みで玲音は告白に応じてしまうのではないか。
――あたしは全部玲音様のものです!
耳によみがえるのは、玲音に迫っていた女子生徒の声。あの時以来玲音と一緒にいるのを見ていないので、おそらく玲音は断ったのだろう。だから、現在は平気だ。だが、未来は――。
――ズキン。
胸が痛む。
魔法に掛かって恋をしていた時よりも、もっと激しい痛みだった。
玲音とその横に立つ誰かを想像するだけで、心の中に黒い靄が渦巻くのだ。
駄目だ。
「特別褒めたつもりはないよ。ホントのことを言っただけだし」
何気ない普段の顔を作って会話をしつつ、真愛は密かに決意を固めた。
――この魔法、絶対に解いてみせる。
10.姫王子の憂い
雨の日の屋上というのは、多くの場合人気がないものだ。物好きな人間でもない真愛は、今日まで雨の日に屋上に出るようなことはなかった。雨の日の屋上事情など知らない。
「……うわぁ、予想以上に寂しい」
灰色の濃淡で作られた雲が近くに見える。そこから細い雨がポツポツと屋上に降り注いでいた。足元に気をつけながら屋上を一周するが、誰もいないようだ。
「フィード、出てきていいよ」
水色の生地に寒色系の水玉模様の入った傘を右手首と肩で支え、紙袋を胸の位置まで持ち上げた。そこからひょこっと冠クマちゃんが顔を出す。
「屋上か。確かにここからなら一気に魔法を掛けられるな」
フィードによると、標的を特定せず不特定多数に掛ける場合には広い範囲に効果が出る位置で魔法を使うのが常識らしい。学園内を一気に見下ろせる場所として頭に真っ先に浮かんだのが屋上だったのだ。
ピシャピシャと水を踏みつつ柵の近くに歩み寄った。そこから柵に沿って屋上を一周する。その間フィードは気を張っているのが目に見えて分かるほどにキョロキョロとせわしなく周りを観察していた。
出発地点に戻ってきても、未だにフィードは難しい顔をしたままだ。
「……どう?」
遠慮がちに尋ねる真愛に、フィードは首を横に振った。
「ここに魔力の痕跡は感じられない。おそらく魔法を掛けたのはここではないな」
「そう」
無意識のうちに溜め息が出た。露骨にがっかりした真愛の腕を、フィードが優しく叩く。
「そう落ち込むな。魔法を掛けた者がいることは事実なのだから、どこから掛けたのかは必ずはっきりする。それにマナとレオンのことは守ってやると約束しただろう」
「……うん」
自分や玲音の命は、フィードが助けてくれる。その点は信用している。玲音への恋心を自覚した真愛が不安に感じているのは、命の方ではなく、玲音の気持ちの方だった。魔法に掛けられるのはフィードが防いでくれるにしても、魔法に掛けられた生徒に告白されて揺れる心までどうにかしてくれるわけではない。
玲音の気持ちの向く先を考えると、今の空模様のように薄暗い気分になるのだ。
――早くこんな汚い気持ちを拭い去りたい。
その気持ちが真愛を突き動かし、早い解決のための原動力になっていた。
念のためもう一周したがやはり手掛かりは得られず、雨の屋上を後にしようとした時のことだ。
「やっぱり真愛だ」
屋上と校内を隔てる引き戸が開けられ、そこから芹香が顔を出した。人と会うなど思っておらず、真愛の背中に緊張が走る。
不自然にならないようあまり顔を動かさずに手元の紙袋に視線を落とし、冠クマちゃんが出ていないことを確認する。すでに彼は紙袋の中に身を隠していた。
「どうしたの? こんな雨の中屋上に用事?」
幾分か安心した真愛は、芹香が手に持っている傘に目をやりながらそう聞いた。わざわざ傘まで用意しているのだから、屋上に出るためにやって来たのだろう。
――もしかすると生徒や先生の中に悪魔が紛れ込んでいるかもしれない。
フィードの言葉が真愛の小さな思考の中で大きな存在感を見せる。疑いたくなどない、信じていたい。
「渡り廊下から屋上にいる真愛が見えたから、何やってんだろうって思って来ただけだよ」
けろりとそう答えた芹香に変わった様子はない。
「え、見てたの?」
「うん。だってこんな日に屋上に人がいたら目立つからね」
「……そりゃそうね」
屋上に誰もいない日を選んだのだが、それがかえって目立つ要因になってしまったらしい。とはいえこの雨ではそんなにはっきりと姿が見えることもないだろうし、声も聞こえるはすがない。
「ところで真愛は何してたの?」
当然の疑問だろう。けれどまさか、魔力の痕跡を探してましたとは言えまい。
「別に、ただ雨雲を近くで見たかっただけだよ」
「ハハッ、なんだそれ~」
陽気な芹香は笑ってくれたが、つくづく自分はごまかし方下手だと痛感した。
雨が強くなり、真愛は芹香を促して校舎へと入った。しっかりとドアの鍵まで閉めて、階段を降り始めた……のだが。
「芹香、戻らないの?」
「最近うちらに特別な好意を伝えてくる人が増えたって話したよね」
まったく予想をしていなかった話題に、真愛は困惑しつつ足を止める。振り返ると、彼女はあまり見せることのない真剣な眼差しでこっちを見ていた。強い視線に射抜かれた真愛は言葉を失ってしまう。
「告白してくれた子の中には、ショックで学校を休むようになっちゃった子もいるし、その場で髪を切ったりとかもあったな」
「芹香?」
「今はまだ大きな怪我をしたって話は聞いてないんだけど、もしも……」
ヒュッと芹香の喉が苦しげに鳴った。
「もしも自殺とか……する子が出たらって思うと……」
絞り出された言葉。痛切な瞳。
なぜ芹香は真愛を見かけたからといって、わざわざ屋上まで来たのだろうか。真愛は今、その答えを知った。
「うちのせいで人が死ぬなんて……」
「芹香のせいじゃないよ!」
好きな人にフラれて、その後どうするかは個人の勝手だ。フッた側の責任にはならない。
「……うん、そう……だね」
芹香は笑顔を作ろうとして失敗していた。きっとどんな慰めの言葉を掛けても芹香の心の奥には届かないのだろう。
恋をする魔法と聞いて差し迫ったものを感じなかったが、真愛が思っていたよりもずっと危険な状況だったらしい。
(早く魔法を掛けた場所を見つけないと)
みんなに掛かった魔法を解きたいという気持ちはさっきとまったく同じだというのに、今度はもっと前向きな気持ちでそう思えた。
未だ顔に陰りをのぞかせ、芹香はボソリと呟く。
「ごめん、変なこと言ったね。真愛は別にうちらの誰かに告白したわけでもないのに」
「私は三人とも好きだよ」
冷や水を浴びせられながらも、芹香に玲音を好きだと悟られるわけにはいかず、真愛は精一杯笑顔を作った。それに合わせて芹香もようやく笑顔を見せる。
「ありがと。……うちらの誰か、なんて言ったけどさ、真愛が本気で好きになる相手は玲音なんだろうな」
軽い口調で言った芹香。彼女がそう言うのであれば、真愛の返答も一つに絞られる。
「あー、はいはい」
今度は上手く言えたが、内心ひやひやしている。
「あら、クールな反応。玲音が見たら傷つきそうだな」
「っ……んなわけないって!」
「んー、そうかな。だって真愛が玲音を好きなように、玲音だって真愛のこと好きだと思うし」
今まで何度も経験しているちょっとした雑談なのにも関わらず、ひとつひとつの言葉に反応してしまう。答える時に「ただの幼馴染ならこう答える」と逐一考えなければならず、真愛は自分の心が変わってしまったのだと改めて実感した。
「もー、別に私と玲音くんはただの幼馴染だって」
幼馴染でなくなりたいと願いながら、真愛は言う。
屋上のドアの前で立ち止まっていた芹香はようやく歩き始め、階段を数段降りたところにいる真愛のところまでやって来た。
「いっつもそればっかり。でも二人を見てるとお似合いだな、って思っちゃうんだよね。他の子にはそんな風に思わないのに。玲音に告白しにくる子とかには、この子に玲音はあげられないって思うほどなのにさ」
「娘を持つ父親みたいなこと言うね」
「……っぷ」
細身をくの字に曲げた芹香は小刻みに震え、犬のように荒い息の音を立てる。
「っはっはっは、面白い! いいね、うちが玲音ちゃんの親父」
完全復活を遂げた芹香に一切の遠慮を感じない強さで背中を叩かれ、数発のうち一発が胸に響いてむせる。
「痛っ! 痛い! 芹香!」
「あはははは、ごめん、ごめん」
「もう!」
目の前で大口を開けて笑う姿に、先程の陰りは見えない。心配して駆け付けてくれた友人の笑顔を見て心底ホッとした。
11.悪魔探索、優の協力
一番有力だった屋上に手掛かりを見つけられず、仕方なくしらみつぶしに校内を上から順番に回ることにした。手掛かりがないことに加え、放課後になるまでは生徒が多くフィードとの会話が実質不可能になるため、探索時間は放課後に絞られる。
今日は音楽室や視聴覚室といった特別教室のある棟を探ることになっている。鍵がかかっていて中には入れないが、フィードが集中して探知をすることによって中に魔力の反応があれば分かるとのことだ。
「どう?」
「……ここも違う」
本日四つ目のハズレに、真愛とフィードは同時にため息を吐いた。茶色い毛むくじゃらの横顔には疲れが見える。
「今日はもう止めて帰ろうか」
窓の外に目をやると、ちょうど生徒たちが部活の片付けを終えてちらほら解散しているところだ。カバンからスマホを取り出して見てみると、最終下校時刻である六時半まであと三十分ほどだった。
「もうこんな時間だったんだ」
六月の空は青く澄み渡り、夜の訪れを感じさせない。窓の向こうから微かに聞こえる声が、部活動が活発に行われている時間のそれとは違うことで真実味があるくらいで、空だけ見ていたらスマホの方が狂ったのではないかと疑ってしまう。
「もう一ヶ所くらいならいけるぞ」
真愛が抱える紙袋から頭だけを出したフィードは、振り返ってそう言った。真愛は首を横に振って答えた。
「多分もうすぐ放送も入るし、それに」
柔らかな冠クマちゃんの頬をつつく。最初だけ丸く見開かれた目は、すぐにくすぐっそうに細められる。
「なんだ」
「フィード、疲れてるでしょ」
人間の真愛には、フィードがしている魔力の探知がどれほど体力や精神力を使うのかは知ることができない。しかし、彼の調子をうかがい知ることはもうできる。
体調を見抜かれたフィードはむっつりと口をへの字に引き結んで顔をそらした。拗ねた子どものように見えて、なんだか可愛らしい。
「帰ろう」
クスリとひとつ笑みをこぼして真愛は言った。
「じゃあ駅まで一緒に行こうか」
その声と同時に今まで調べていた教室のドアが開き、鞄を肩に掛けて帰る準備万端な優が姿を現した。驚き、声にならない声を上げた真愛は身体をこわばらせた。その際に握りしめた紙袋がくしゃりと音を立てる。
「ね、ぎし、くん」
「やぁ」
「やぁじゃない。なんでお前がここにいるんだ」
すでにぬいぐるみでないと知られているのでフィードも堂々と話すことができる。優に対する悪印象が強く、どうしても攻撃的な口調になってしまう。
ひしゃげた紙袋から身を乗り出すフィードを笑みを浮かべて見下ろした優は、そのまま教室から出て来てカードキーで施錠した。
「なんでって聞かれても、偶然としか言えないな。今日はこの教室に隠れていた。それだけだからね。カギを返しに職員室寄りたいんだけど、いいかな?」
呆気にとられて棒立ちする真愛の横に並び、歩き出すのを促すようにひねった半身を真愛に向ける。どうやら本気で駅まで一緒に帰るつもりらしい。
「なんでオレたちがオマエと一緒に帰らないといけないんだ! 一人で帰れ!」
「僕と真愛は友人だ。ちょうど二人とも下校しようとしているのだから、一緒に帰るのはいたって普通のコミュニケーションだろう」
「マナはオレと一緒に帰る。部外者には遠慮してもらおう」
「一緒に帰るといっても、君たちは人のいる場所で話すことはできないじゃないか。しゃべるぬいぐるみ……いや、悪魔であることを隠そうとしているんだろう?」
真愛とフィードの背中に緊張が走る。誤魔化すべきなのか、なぜ知っているのかを問うべきなのか、どちらにすべきなのかの判断がつかず、真愛はうろたえてフィードへと視線を落とした。
「……いつどこでそれを知った?」
フィードは優がなぜ自分を悪魔だと知っているのかを追求することに決めたようだ。声のトーンが一層低くなり剣呑さを帯びる。
「ついさっき、この教室で」
手の平でカギを掛けたばかりの教室を指し示した優は素直にそう答えた。そしてポカンとしている真愛に向かって言葉を続ける。
「電気も点けてなかったし、中に誰もいないと思っていたんだろうね。随分と不用心に話してたのが、僕にはずっと聞こえていたよ。……悪魔の魔力が残っている場所を探しているんだろう?」
「……ッチ」
悔しさをにじませたフィードの舌打ちが廊下に反響した。
「お願い! このことは黙ってて!」
真愛がそう言うと、優は深い笑みを浮かべた。嫌な予感が真愛の頭をかすめる。確か優が笑う時はその直後にサディスティックな言動が待っていたはずだ。
「いいよ」
「本当っ?」
「ただし、条件がある」
「条件……?」
警戒を浮かべた真愛の黒い瞳が、優の細められたグレーの瞳を捕らえる。
(やっぱり来た!)
笑顔の優がタダでお願いを聞いてくれるとは真愛も思っていなかった。問題はその条件の内容だ。あまり無茶な内容でないことを祈り、固唾を飲んで優の言葉を待つ。
フッと優が笑い声を漏らす。
「そんなに脅えなくてもいいのに。ただ僕にもその魔力探しを手伝わせて欲しいだけさ」
「えっ?」
そんなこと? と、心の中で付け加える。もっと想像を絶するようなハードな条件を提示されると覚悟していたのだが。
「簡単すぎるっていうならもっと色々上乗せするけど?」
「いえいえいえいえいえ! それで! 根岸くんにも手伝ってもらうということで手を打ちましょう!」
「そう。残念」
言いつつもそれほど残念そうでもない様子の優。本当に手伝いだけが条件ということらしい。
真愛の腕の中で複雑そうな顔をしているフィードに目を向け一応確認を取る。
「こうなっちゃったから根岸くんにも事情を話して手伝ってもらうけど、いいよね」
「……仕方ないな。他の人間にバラされるよりははるかにマシだ」
若干のためらいも感じられたが、諦めたのかフィードは優と手を組むことを承知した。その返答に満足そうに頷く優。
「決まりだね」
「じゃあ早速だが、ネギシの意見を聞かせて欲しい。この学園に魔法が掛けられているのは確かなんだが、悪魔がどこから魔法を掛けたのかが分からなくて困っているんだ。ネギシはどこから悪魔が魔法を掛けたと思う?」
あまり乗り気でなかったはずのフィードだが、簡単に説明を済ませるとすぐに優に意見を求めた。唐突さを意外に思い、真愛は首をひねる。
「ふぅん。随分僕のことを気に入ってくれているんだね」
「……?」
にこにこと普段見せることのない笑みを顔に乗せた優に、真愛の中の違和感は膨れ上がるばかりだ。言葉と顔は友好的なのだが、どうも裏になにかある気がしてしょうがないのだ。
「まぁ、してやられて……こうして僕に事情を話さざるを得なくなって、腹が立つのも分かるけどね。でも自分達が時間を掛けても分からないものを、加わったばかりの人間に意見を言わせ、それを扱き下ろそうなんて考えはみっともないんじゃないかい」
「……そんなつもりはないが、そう感じたのなら謝ろう。ネギシに意見を聞くのはまたの機会にしてもいいぞ」
バチバチとはじけ飛ぶ火花が二人の間に見えた気がした。笑顔のままのこう着状態は、優がゆっくり首を横に振ったことで、真愛が考えていたよりも早く解けることとなった。
「いいや、構わない。二人が話していたことを総合すると、つまりその悪魔は不特定多数の人間に同時に魔法を掛けた。それを根拠に広範囲に魔法を掛けられる場所をさがしている、と。こういう場合、一か所に人が集まった時に掛けると考えるのが常識的だ。朝会や特別集会といったものがあげられる……けど」
「愛華って朝会ないよね?」
不特定多数に掛ける魔法と聞いて、一度は真愛も場所ではなくイベント単位で考えたのだ。しかしこの愛華薔薇学園に集会はない。生徒数が多すぎて時間が掛かるためだ。
「そうだね、うちの学校は集会を行わない。でも代わりに放送で月に一度学園長先生のお話を聞くだろう」
「……っ! まさか!」
無意識のうちに真愛の声は大きくなり、それを優が自らの唇に指を当ててたしなめた。少ないとはいえまだ校舎に生徒は残っているのだ。
冷静な顔をした優は長い脚をゆっくりと動かして歩き始めた。
「さぁ行こうじゃないか。僕の仮説が正しいか確かめに」
12.対面、変質者!
中央棟の一階、昇降口横の放送室。防音式の為他の教室とは異なり、引き戸ではなく重い開き戸の扉になっている。
「どう、フィード」
扉の前でフィードは精神を集中させて中の魔力を探る。
「……ここだ」
悔しげにそう呟くと、優はフンと鼻を鳴らした。眼鏡の奥のグレーの瞳は得意気である。
険悪な雰囲気に気付きながらも、真愛はそれに気付かないふりをしてフィードに次の言葉を掛ける。
「この扉開けられる?」
放送室にも当然カギがあり、それは今ここにはない。職員室に借りに行くにしても正当な理由もない上に、最終下校時刻の放送をするために放送委員の誰かがカギを持って移動しているかもしれないのだ。フィードがカギを開けられないのなら今日は諦めるしかない。
明日になれば放送委員である芹香に頼んでカギを借りることも出来るのだから、今日無理して中に入る必要はないかと真愛は考えていた。
「いや、その必要はなさそうだ」
「え……」
フィードの声に応えるように、誰も触れていないのに放送室のドアが開いた。
「なになになに! 学校の怪談っ?」
「騒ぐな、マナ! こっちが向こうの魔力を検知できたのと同様に、向こうにもこっちの魔力に気付かれたらしい」
「それってこの中に悪魔がいるってことっ?」
足元に立つフィードの身体は背筋がピンと伸びていて、緊張が伝わってくる。それが答えだった。
(ほ、本当に悪魔がいるの……?)
魔力の痕跡を探していたのであって悪魔本体を探している自覚はなかった。ここにきてようやく真愛は恐怖を覚えた。恐怖にすくむ真愛の手が横からそっと握られる。
「え?」
血の気の失せた顔の真愛が横を向くと、そこには無表情でも冷たい笑みでもない優しい顔をした優がいた。
「真愛って考えなしで間抜けなんだね」
真愛の精神状態を的確に見抜いた上での辛辣な言葉であった。
「台無し! え、今すっごいいい顔してたのになんで出てくるのはそんな言葉なのっ? どこでねじ曲がっちゃったのっ?」
「……さぁ、入るよ」
慌てふためく真愛の手を握ったまま、優は中途半端に開かれた扉をくぐって中へ行こうと歩みを進める。心の準備ができていない真愛は重心を後ろに掛けて必死で抵抗する。
「待って待って待って! まだ待って! 悪魔と対面する準備をさせて」
「なにを今さら。悪魔腕に抱えて歩きまわれるんだから平気でしょ」
「それもそうか……って無理! 人にもいろんな人がいるように、悪魔にもいろんな悪魔がいるでしょ。フィードは常識的で私に優しいから平気だけど、人間に魔法掛けるような悪魔に対面するには勇気がいるから! 待ってってばー!」
男女の力の差は無情にも真愛に襲いかかり、抵抗空しく放送室の中に強引に連れ込まれた。
放送に必要な機材が部屋の中に置かれていた。ガラス戸の向こうには動画放送用のブースが用意されているのが確認できる。しかしそれらをじっくりと眺める余裕は真愛にはなかった。ガラス戸の前に無視できない存在感を放つ人型の生物が突っ立っていたのだ。
「きゃあ……ムグッ」
「うるさい」
悲鳴をあげかけた真愛の口を無理やり塞いで、優はそう言い捨てた。そして今ままで引いていた手を離す。
「ここまできたら逃げられないだろうからね」
「なんで仲間に悪役混ざってるんだろう……った!」
優に蹴られた脛を抱えてうずくまっていると、ちょこちょことフィードが駆けてきた。
「オマエら、先に行くな!」
「行きたくて行ったわけじゃないよ!」
痛みと恐怖で込み上げてきた涙を拭い、真愛は立ち上がって悪魔を見据えた。視界の暴力に目を覆いたくなる。
そこにいたのは露出過多な男性の姿をした悪魔だ。深緑の髪からは角が生え、背中からは同色の羽が生えている。しかし真愛を驚かせ……もといドン引きさせたのはその異形な姿ではなく、彼のファッションセンスだった。
上半身裸でありながら下半身は体のラインが出るピッチリとしたズボンを履き、上から布をスカートのように巻いているという、真愛には理解できないセンスをしていた。
「へ、変質者……」
その言葉が真愛の中では一番しっくりくるのだ。
「変質者とは失敬な。この麗しいワタシを捕まえて言う言葉ではありませんね」
「ひぃ……口調もなんかキザったらしくてキツイ」
「なんて失礼で、美に理解のない女なんでしょう」
あまりの気持ち悪さに、本能的に優の後ろに隠れた。目の前の悪魔の悪趣味さと比べれば、どんな性格であれ優に近づく方がマシに思えたのだ。
逃げ腰の真愛とは対照的に、フィードは一歩前に進み出た。意志を持った強い瞳で、真っ向から悪魔を睨む。
「おい、無駄だとは思うが、とりあえず言っておく。この学校のやつらにかけた魔法を解け」
「分かりきってることを聞くんじゃありません。……まぁでも話し合いって大事ですよね」
ちゅっぱぁぁぁ、としつこい水音とともに変態風悪魔から投げキッスが放たれる。それを優の背中越しに見てしまった真愛は口を覆ってしゃがみこんだ。
「……吐きそう」
「大丈夫、真愛?」
振り返った優が親切そうに背中をさすってくれる。その行為を厚意として素直に受け取るのは難しかったが、それでも幾分か吐き気は収まった。
「僕が消毒してあげようか?」
見上げるとすぐ近くに優の綺麗な顔がある。性格を考えず、容姿だけを見れば王子様そのものだ。
意地悪い笑みを一切感じさせない顔の優が、状況についていけずに固まっている真愛の顎に手を掛けた。
(これって……)
優の言う消毒がなんなのか察した。悪魔の投げキッスを相殺するために、優がキスをしようというのだろう。そうして優の狙いに気付いた真愛の脳裏に一つのことわざが浮かんだ。
「……毒をもって毒を制す」
近づいていた優の顔が止まり、ピクリとこめかみが震えた。それを見た真愛は自分が失言したことに気が付いた。
「そこの美に狂ってる悪魔さん」
真愛に背を向けた優は悪魔に対してそう呼びかけた。
「なによ」
「この女にもう一度投げキッスを」
「やめて! 根岸くん、裏切らないで! ごめん! 謝るから!」
「冗談だよ」
そう言って優は笑う。
(絶対に冗談じゃなかった)
優が笑っているのが何よりの証拠である。
「なんなんですか。人の投げキッスを、まるで悪臭や汚物のように扱わないでください」
「どっこいどっこいだよ! ……うぷ」
この悪魔、まるで自分が分かってない。あまりにも間違った自己認識に、勢いよくツッコミを入れてしまい。何かがこみ上げてきそうだった。
口を押さえて立ち上がった真愛を一瞥した優はスススッと当然のように距離をとる。
「なに、なんで離れるの?」
「なにって……避難してるんだよ。今ちょっとヤバかったでしょ」
「な……」
「落ち着いて。あんまり喋らないで」
真愛の言葉を遮り、無理やり話を切った。労わるような言葉と表情。しかしその本心は絶対に自分にかかって欲しくないからだろう。
(吐くときは絶対に根岸くんに吐いてやる)
残った力で拳を握り、真愛はそう決意した。
「で、元に戻すのか? 戻さないのか? どっちなんだ」
「戻さないよ!」
吐く時は優に、と決めたが吐くつもりになったわけではない。華の女子高生が人前でおう吐など、避けて通れるのであれば避けて通りたいものだ。
「いや、違う。マナに言ったんじゃなくて……」
フィードはコホンと咳払いをして仕切り直す。
「お前だ、そこのキザったらしい悪魔。ここの生徒の魔法を解いて元に戻すのか? それとも力づくで言うことをきかせて欲しいか?」
「怖いことを言いますね。ですが、それは無理というものでしょう。力づくでワタシに勝てると思っているのですか? それともワタシとの魔力の差が分かりませんか?」
その瞬間室内に強い突風が吹いた。
13.成人悪魔の圧勝
「きゃ」
咄嗟にスカートと髪を押さえ、身を守ろうと床にしゃがみこんだ。直後に少し風が弱まる。見ると、真愛の隣で片膝を付き悪魔に背を向けた優が風除けになってくれていた。
「根岸くん」
「なに」
「……ありがとう」
久しぶりに優が三王子の一人であることの実感が湧いた。無表情だったからかもしれない。これが笑顔だったら素直にお礼を言えなかっただろう。
フィードに魔力を見せつけるための行為だったようで、風は徐々に弱まりやがて完全に元の無風状態に戻った。
「これでワタシとの力の差が分かりましたか?」
腰巻を揺らしながらホホホと笑う悪魔に、フィードが唇を噛み締めるのが見えた。
「疲れてさえなければこんな奴……っ!」
「負け惜しみを聞くのは愉快ですねー」
声高く笑う悪魔の姿を真愛は嫌悪を堪えて観察し、なにかフィードの役に立てないかと考える。悪魔を見ていてふと疑問が頭をよぎった。
「あの悪魔は成人してるの?」
「あぁ、あれは悪魔の身体でオレのような仮初の器じゃない。本体で来られるのが成人だけである以上あいつは……」
「――いいえ、彼は未成人です」
狭い室内に現れた黒い穴。そこから意志を持っているかのようにロープが伸びてきて悪魔の身体に巻き付き、あっという間に自由を奪う。
「な、なんなんですか、これは!」
首から足先までを隙間なく巻かれ身動きを取れなくなった悪魔は、派手な音を立てて床に転がった。困惑と動揺を顔に浮かべながら、悪魔はみの虫のごとき動きで暴れる。
放送室にいた誰もが状況を理解できない中、ロープの出ていた穴から人影が現れた。視線がその人物に集まる。
出てきた男は警察を思い起こさせる制服を身にまとっていた。満面の笑みを浮かべ恭しく頭を下げる。
「やぁ、諸君。こちら魔界公安局のスタージと言います。別にお見知りおかなくて結構ですけどぉ」
「こ、公安局ですってっ?」
一番大きな反応を見せたのは床に転がる悪魔だ。
「公安局がなぜ人間界に?」
フィードも訝しげな様子でスタージと名乗った男を見やる。
身動きの取れない悪魔を担ぎあげ腰に付いているチェーンを揺らしながらスタージは真愛たちの方へと顔を向けた。満面の笑みが場にそぐわず、落ち着かない気持ちにさせる。
「おんやぁ、知りませんでしたか? 公安局は魔界だけでなく、人間界でも取り締まりをしてるんですよ。それに今は未成人が大量に人間界に行っていますからね、こういう事件が頻発するのでいつもより多めに回っております」
「こういう事件だと?」
「はい、この方は貴方と同じく前世の魂を追って人間界に来たのですが、前世の魂を別の者に奪われ永遠に成人できなくなってしまったようです。成人できないと確定した者が、法を破って本体で人間界へ行きエネルギーを集めて魔界転覆を考えるというのはよくある話ですので」
担がれた悪魔の身体がわずかに反応したのが、真愛の目にも見えた。
「いやぁ、残念でしたね。前世の魂を失ってしまって。同情しますよ、心から」
ぺらぺらな嘘を平気で吐いたスタージは、ずり落ちた悪魔の身体をもう一度持ち上げる。
「同情なんていりませんよっ。どうせ成人にこの苦しみが分かるはずもありませんから」
「それもそうですね。私は成人。貴方は一生未成人。この差は現世で埋められるものではありませんからね」
手錠を服のポケットから出しながらスタージが言った何気ない言葉に、フィードの身体が震えるのを、真愛はしっかり見ていた。
(フィードも前世の魂を探してるって言ってた。それがないとこんな風に……)
人間に悪い魔法を掛けたりはしないかもしれない。けれど成人との差に苦しむ時が必ずあるのだ。フィードの事情をよく知らない真愛だが、彼が今感じている恐怖を思うとなにか言葉を掛けずにはいられなかった。
「フィード……」
「スタージさん」
気遣わしげな真愛の声を避けるように、フィードはスタージの元へと寄る。
「なんでしょう?」
「この悪魔はこの学校の生徒に大規模な魔法を掛けているんだ。解かせてから連れてってくれないか?」
「あぁ、そうでしたね」
パチンとスタージが指を鳴らした。
「はい、解けました」
「は……?」
なにが起きたのか分からずスタージに視線で説明を促すフィード。
「なにを驚いているんです? 公安局の一員たるもの、未成人のかけた魔法を解除することくらい朝飯前ですよ。まぁご飯より仕事を優先せることなんてありませんけどぉ」
では、と最後に短い挨拶を残して黒い穴の中へと引き返していった。そのまま姿を消し、穴のほうも何事もなかったかのように塞がり、残ったのは二人の人間と一人の悪魔が作る沈黙だけだった。
「これで、この一件は片がついたな。認めたくはないがオレひとりでは解決できなかっただろうから、公安が来てくれて助かった。もう生徒たちに掛かっていた恋する魔法も消えているだろう。よかったな、マナ」
スタージとのやり取りを感じさせない普段通りの態度を見せるフィードに安心していいのやら、無理をさせている心配をすればいいのやら。それが真愛には判断できなかった。
まごまごしているうちに、放送室の扉が外側から開かれた。音と同時に動きをやめ、ぬいぐるみのふりをして横になった冠クマちゃんを抱き上げ、ドアの方を向くと、そこには芹香がカードキーを片手に立っていた。
「あれ? 何してんの二人とも、こんなところで」
「せ、せ、芹香こそ」
危なかった、と内心ヒヤリとした。もしも悪魔が去る前に彼女が入ってきていたらと考えると、気が気じゃない。
「うちはこれから放送。もう最終時刻だから、二人も帰りなよ。……ていうか、本当二人してなにしてたの? あ、え……まさか、本当に二人はそういう仲で……」
「ち、違う!」
勘違いしひとりで盛り上がっていく芹香。彼女の誤解をなんとか解いた真愛は、その日ぐったりとした状態で帰宅することになった。
14.窓の向こうはバスルームッ?
愛華薔薇学園に掛かっていた魔法が解けたことで生徒たちの告白ラッシュも収束し、学園生活は平穏を取り戻した。その立役者は今真愛の手の中で成すがままにされている。
「マナ、くすぐったい」
「あ、ごめん。ちょっと我慢してて、ここの糸出てるから切りたいの」
「切るっ? 待て、マナ! やめてくれ!」
大人しく真愛に身体を預けていたフィードは一転、素早い身のこなしで手の中から逃れ出た。机に降り立ち、真愛の顔に小さな腕を突きつける。
「この身体は確かにぬいぐるみだが、五感は全部有しているんだ。切られるのなんかたまったもんじゃない!」
「別に身体自体になにかするわけじゃないんだけどな……」
フィードが嫌だというのならしょうがない。気になるが諦めよう。
空も高く澄んだ、初夏の日曜日。真愛とフィードは穏やかな時間を過ごしていた。真愛は悪魔との同居に慣れ、フィードはぬいぐるみの身体と人間界での生活に慣れ、日々にリズムが生まれつつある。
「あ、そうだ。フィードの手入れが出来ないなら、宿題やっちゃおう」
鞄の中から教科書とノートを取り出し、ペンを持って窓際へ寄る。玲音が暇しているのなら一緒にやるのが常になっていたので、染みついた習慣が無意識に真愛の身体を動かしていた。
玲音の部屋の窓をノックするために、まず自分の部屋の窓を開ける。
「……へ?」
そこは真愛が予想していた光景ではなかった。驚きのあまり手からノートなどが全て滑り落ちる。
広がる湯けむり、鼻に香るシャボンのにおい。疑うまでもなく室内。窓の外にあるはずの青空ではなく、乳白色のタイルが一面に張られている。
(バスルームッ?)
部屋の窓を開けた先は外だ。バスルームであるはずがない。しかし、間違いなく目の前の空間はバスルームそのものなのだ。
「誰?」
奥から聞こえた声には聞き覚えがある。反射的に頭に浮かんだ人物の名前を呼んでいた。
「根岸くんっ……?」
湯気が晴れていき、室内の様子を露わにしていく。真愛が考えていたよりもずっと奥行きのある広い空間が姿を見せた。その中に人影が浮かびあがり、はっきりとした輪郭を形成する。
銀の髪から真珠のような水滴を滴らせ、眼鏡がない分いつもよりもまろやかな印象の優が不思議そうにこちらを見つめて立っていた。タオルを腰に巻いただけの格好に、真愛は必死で視線を優の顔に集中させる。
「その声は……真愛? なんで、こんなところに?」
なんでというのは真愛の方が聞きたい。あたかもこちらが覗いたかのような言い方だが、真愛からしてみたら人の部屋のすぐ外で男性が風呂に入っていたことになるのだ。通報ものだ。
「真愛、聞いてる?」
「し、失礼しました!」
なんだか手を伸ばしてこちらに来そうだったので、その前に窓を閉めてしまった。想像を絶する事態に頭が追いつかない。
「マナ、どうした。レオンに用事があるんじゃなかったのか?」
ベッドの下に隠れていたフィードが異常を感じて、顔の上半分をのぞかせた。彼ののん気な声に一気に現実に引き戻される。
目の前にあるのは窓。見慣れた窓である。それ以外のなにものでもないはずだ。
「フィード、この窓がバスルームに通じてるって言ったら、信じる?」
「はぁ? なにを言ってるんだ。窓の外はレオンの家に面してるだろう。見て分かるぞ」
確かにフィードの言う通り、窓越しにカーテンの掛かった玲音の部屋が見える。だから当然窓の外がバスルームにつながるはずはないのだ。
「だよねー」
乾いた笑いを残し、真愛は現実から目を背けるように窓に背を向けた。
直後に、ガラガラと窓の開く音が真愛の耳に届く。
(まさか)
半ば諦めつつもう一度窓に目をやると、そこには予想通り想定外の状況があった。
「やっぱりさっきのは真愛だったんだ。なんでうちにいるの?」
窓の前にタオル一枚の優が当然のように立っている。恥じらうでもなく淡々とした様子だ。
「ネギシッ! オマエなんて格好でいるんだっ?」
よっこいせとベッドから這い出てきたフィードは優の姿を見て声を上げた。
「ん? 君もいるってことは……」
ほぼ全裸のまま顎に手を当てて、真愛の部屋に一周視線を走らせる。
「ここ僕の家じゃない?」
「ここは田崎家の私の部屋です、根岸くん」
「なんで風呂からあがったら真愛の部屋なんだ……」
なにが起きているのか分からないといった様子で、彼は極めて常識的な呟きを落とした。
優は自らの肩をさすると、真愛に顔を向けた。見つめられた真愛は顔から視線を外したくとも他に目を向けることもはばかられ、非常に居心地の悪さを感じながら下手くそな笑顔を浮かべる。
「ど、どうしたの?」
「タオルと服を貸してくれない? 風呂場の出入り口はここ一か所で、戻ったとしても自室にはいけないから」
「そ、そうだよね! ごめんね、気付かなくて」
とりあえず椅子にかけてあったタオルを渡し、優が着られる服がないかとクローゼットを開いた。パーカーかなんか、ゆったりとしていて優でも着られるものがあったはずだ。
「……あ、れ?」
普段のクローゼットの中よりも明るい。中にあるはずの服がなく、代わりに見覚えのある部屋が目に入った。青が基調の洗練された私室だ。
「ここ、玲音くんの部屋だ」
窓の次はクローゼットが玲音の部屋に繋がってしまったようだ。
15.水も滴る宇宙王子
「なにが起きてるの……?」
「ふむ、これも悪魔の悪戯の一種だな」
「フィード?」
いつの間にか足元に茶色い身体が寄ってきていた。真愛が開けたクローゼットを覗きこむように身体を傾ける。
「扉が別の空間につながるように変化させられている。厄介な」
「また悪魔の仕業か」
背後に人の体温を感じて振り返ると、思いの外近くに優の顔があった。概ね身体を拭き終えた優が突っ立っていたのだ。眼鏡がない分距離が近く感じる。視界をちらつく肌色に、真愛の喉の奥に悲鳴が込み上げた。
「ね、ねね根岸くん!」
「困ったな。さすがにこのままいるわけにもいかないし」
腰に巻いたタオルと肩に掛けたタオルだけが優の身体を隠す役割を担っていて、なんとも心許ない。
現状を打破すべく優が思案し始めた時、玲音の部屋に背を向けていた真愛になにかがぶつかった。
再び玲音の部屋へと視線をやると、そこには――。
「玲音くんっ!」
「……今度は真愛の部屋か。さっきよりまともだな」
奇妙な格好の玲音がいた。奇妙といっても裸ではない。優とは違い上下とも洋服を着ているのだが、ただなぜか頭からつま先までひどく濡れている。ひと目で分かるほどに変色した洋服を上から下までしっとりとまとわりつかせ、髪からは雫がしたたっていた。
「やぁ玲音。こんなところで会うなんて珍しいな」
「……それには同意だ。まさか真愛の部屋で優に会うとは思ってもみなかったが……」
言葉を詰まらせた玲音は、不審なものでも見るかのように目を細めて、口元を引きつらせた。
「それよりも、優の格好の方が珍しいよ。他人の家でそこまで脱ぐとは……正気か?」
「ここで脱いだわけじゃない。脱いだままここに来たんだ」
「それは尚更おかしいだろ!」
「玲音こそ、なにその格好。服がビショビショじゃないか」
まったく他人に指摘をできる格好ではないのだが、優はそんなことを気にせず、玲音の格好を疑問視する。
(どっちの格好もおかしいんだけどね)
ともあれ優の方は事情を把握している。真愛は玲音に話を促した。
「玲音くん、なにがあったの?」
「……聞きたいか?」
玲音はうんざりと顔をしかめた。
「十分くらい前のことだ。俺は出掛けようとして自室のドアを開けたんだ。普段ならすぐ右手に階段が見えるが、その時は違った。まったく知らない光景が広がっていたんだ。それからすぐに、そこがどこか分かった。千葉さんちのバスルームだ」
「千葉さん……あぁ、のばらのことね」
千葉のばら。一年生の時に出席番号が近く、真愛と芹香とのばらでよく話していた。芹香は別になってしまったが、今でも真愛とは同じクラスで仲のいい友達だ。
三王子の中で、のばらは玲音が好きらしい。それを知った時、後ろ暗くなった真愛は、幼馴染であることを打ち明けた。
――なにその美味しい設定! 詳しく話して!
身を乗り出したのばらは興奮気味にそう言ってきた。その反応は少し予想外で安心したのを、真愛は今でも覚えている。
(バスルームに侵入されても許しそうな気がするんだけどな)
普通なら許さないところを、嬉々として受け入れてしまえるのがのばらの長所だ。しかし玲音が頭から服からずぶ濡れになっているところを見ると、許さなかったのだろう。予想外だが、予想外のことをするのがのばらだと思えば、ある意味予想通りだ。
「なるほどそれで『きゃあ、宇田川くんのえっちー』というセリフと水が飛んでくる展開になったわけか。羨ましい。僕も玲音の立場が良かった」
のばらのセリフを想定した部分を裏声で言った優。表情は涼し気なもので、言葉と顔がまったく一致していない。
玲音が首を振った。いつもは羽のように軽やかな黒髪が、水を吸って重たげに揺れる。
「その想像はハズレだ。あの女はなぜか濡れた身体のまま不躾に俺に抱きついてきたんだ。そのまま湯船に引きずり込まれてこのありさまだ」
心底疲れたといった様子で溜め息を吐いた玲音は、その漆黒の瞳にタオル二枚の優を映した後、眉間にしわを寄せた。
「で、おまえらはなに? なんなんだ、その格好は」
心なし低めの玲音の声を聞いて、優は涼やかな表情のまま目を細めた。またか、と思うと同時に、そんな姿をしていて一体どうして他人をからかう気になれるのかと疑問にも思うのだった。
「気になる?」
「そりゃあ、な。どんな状況を辿ったら同級生の家でそんな姿になるのか気になるだろう」
「真愛が相手だから気になったとかじゃなくて?」
その言葉に反応したのは玲音だけではなかった。
(な、なに言ってんの?)
まるで玲音にとって真愛が特別な人のようだ。
玲音の返事が聞きたくて……正確に言えば、玲音に特別だと言ってほしくて、真愛は固唾を飲んで成り行きを見守った。
「……いや、優がタオル二枚で女子と二人きりだったら真愛じゃなくても気になるな。芹香や千葉さんでもどうしたのか聞いたと思うが」
「そう、残念だ」
肩を落とした優が一瞬真愛へ視線をくれた。
「残念」
「……っ!」
それが一度目の自分の気持ちを発した「残念」とは違い、真愛に対する「残念だったね」というメッセージであることはすぐに分かった。優の態度に対する怒りと羞恥で顔に熱が集まる。
「質問に答えろよ、優。なんでそんな格好で真愛の部屋にいるんだ」
真愛の部屋と玲音の部屋の中間地点にいた玲音は完全に真愛の部屋に入り、優と対峙して真剣な眼差しで射抜く。それをいなすように、優はもう一度笑った。
「答え難いから答えてないんだけど、察してくれない?」
「はぁ?」
「僕と真愛の秘密なんだ。だから答えられない。……いつもだったら察して必要以上に迫ってこないのに、真愛が絡むと周りが見えなくなるんだね」
苛立ちからだろう、玲音の眉間にしわが深くなった。
「ふざけるなよ。別に俺は真愛のことじゃなくたって……」
優に向かって放たれた玲音の言葉は震えていた。玲音の態度を目の当たりにして、どこか期待してしまう気持ちを押さえられない。
――もしかして。
(もしかして玲音くん、私のことを……って違う! 今はそんなこと考えてる場合じゃない)
図々しい思考を無理やり切り上げ、二人の間に割って入る。
「根岸くん! なんでそう誤解を与える言い方を」
「いいの? バレても」
愉悦に細められた視線で足元に横たわる冠クマちゃんを示す。真愛は狼狽えた。フィードのことはあまり人に話したくない。特に冠クマちゃんをプレゼントしてくれた玲音には知られたくなかった。
「よくはない。けど……」
「真愛、なんなんだよ。俺には話せないことなのか?」
「玲音くん……」
誤解をされたくないけれど、話すこともできない。部屋着のズボンを両手で握り唇を軽く噛んで、真愛は手詰まりなこの状況を打破しようと言い訳を模索する。
真愛の言葉を待つ間に訪れた沈黙。それはさほど長い時間ではなかったはずだ。しかし、玲音の機嫌を完全に斜めにするには充分だった。
16.真愛の友人・千葉のばら
「もういい」
「待って!」
冷たい声に、誤解されたままではいけないと直感した真愛は叫んだ。しかし玲音は無視して顔を逸らし、踵を返そうとする。
「待っ……」
玲音へと手を伸ばし、逃げるように去る玲音の身体を掴もうとした真愛。もう一度呼びかけようと口を開いた時、目の端を影がチラついた。
「れーおーんー、くんっ!」
影は玲音に襲い掛かり、玲音の身体が大きく傾く。驚いた真愛は引こうとしていた玲音の身体を逆に押すことになった。
三人の視線が、新たに現れた人物へ一気に注がれる。
「のばらっ?」
玲音にべったりとくっついていたのは、つい先ほど玲音が話していた千葉のばらだった。
柄もののタンクトップに紫のショールを羽織ったのばらは、豊満な胸を押し付けるように玲音に密着している。動揺した玲音が引きはがしにかかるが、中々しっかりと腕をまわしているようで上手くいかない。
「千葉さん、どうして……。あぁ、そういうことか」
自室に視線をやった玲音は納得してひとつ頷いた。玲音の部屋のドアがのばらの家のバスルームに繋がっていてたというのなら、なぜここに彼女がいるのか合点がいく。
「千葉さん、ちょっと……離れろ」
「いやぁ、私玲音くんのこと大好きなのよぉ。離れたくなぁい」
「のばら……?」
(なにか……変)
のばらの態度が真愛が知るのばらとは違うのだ。のばらは突拍子もない行動を取るし、真愛の理解が追いつかないくらいの変態性も有しているが、憧れである玲音にべたべたと触るような感じではなかった。
「千葉さん」
そう彼女を呼んだ優の手には、いつの間にか冠クマちゃんが握られていた。
「優くんもかっこいいんだけどぉ、やっぱり玲音くんの方が私は」
「なんで服を着てるの?」
「……羞恥心があるからじゃない?」
のばらの黄色い声を遮ってされた優の質問には、真愛が答えた。
半眼の真愛は優に向けた視線をつま先から徐々に上げていく。問題になりそうなので特定の部位では速度を上げておいた。
そうして顔まで視線を上げた時、首を傾げることになった。
(無表情……?)
瞳はまっすぐにのばらを捉えている。
優のことだからどうせ変態に基づく理由で聞いたのだと思ったのだが……。
「僕の家のバスルームは真愛の部屋に繋がっていた。だから着る物もなくこの状態だ。聞くところによると千葉さんの家のバスルームは玲音の部屋に繋がっていたらしいじゃないか。それならどうして――自分の洋服を持っているの?」
「あ……」
確かにそうだと納得し、今度はのばらの様子を伺う。
のばらは微笑みを絶やさないまま、優の顔を覗き込んでこう答えた。
「察しのいい男っていいわよね。貴方も――食べちゃいたい」
直後、空間が歪んだ。見慣れた部屋は上下も分からない別の場所へと姿を変える。
「なんだ、これは……」
「あ、マズイ」
緊張の張り詰めた玲音の声と、珍しく切羽詰まった優の声が空間に広がった。重力を失ったタオルがほどけそうになったらしい。何があってもいいように、真愛は目をそらしておく。
「うふふ。この空間は私のテリトリーなのよぉ」
空間の間を漂いながらのばらは余裕たっぷりにそう言った。滑るように玲音に近づき腕に絡みつく。
「やめろ」
「いいえ、やめないわ。だって私、貴方のことが食べたくて食べたくてしょうがないんだもの」
色気を醸し出して笑うのばらは玲音の顔に近づき、唇を寄せる。
「ダ、ダメ!」
無我夢中で手を伸ばすが、空間を上手く移動できずむなしく空を掻く。焦燥感だけが空回った。
二人の顔が近づくのを見て、真愛の中でなにかにひびが入る。
「やーめーろっ!」
茶色の塊が目にもとまらぬ速さで空間を流れ、のばらの頭に直撃した。衝撃で腕が緩み、その隙に玲音は腕から抜けて彼女と距離を取る。
「なんなのよっ!」
痛みに涙を浮かべたのばらは鋭い目つきで邪魔者を睨む。
「フィード!」
玲音が来てから大人しくしていたフィードだったが、この状況に陥ってぬいぐるみのフリを止めたらしい。空間に仁王立ちで浮かぶフィードに、真愛の不安や恐怖は一気に取り払われた。
フィードが飛んできた方にふと視線をやってみると、優が投球後の体勢だった。フィードを投げたのだろうと察せられる。
「人間を喰らう悪魔か……悪趣味な」
「ハンッ、そんなちんちくりんな格好している奴に言われたくないわ。前世の魂を探しに来たついでにいい精気を食べてるだけなんだから、邪魔しないでよね」
のばらは諦め悪く、もう一度玲音に寄ろうと動いた。それを阻止するようにフィードが対峙する。
「邪魔しないでって言ってるのにぃ。貴方だって見たところ未成人で、前世の魂を探しに人間界に来たクチでしょう? だぁったら仲間じゃないの。仲良くしましょうよ」
「オレはこの身体の持ち主と……マナとの約束がある。マナとレオンを守ると約束しているんだ。だから――」
真剣な表情のままに身体をひねり優を指し示す。
「精気を奪うならこの男だけにしてくれ」
「見捨てられた」
危機意識が欠如しているのか、優はあまり困った様子を見せずにそう言った。
「わぁ! ダメダメ!」
このままでは優が悪魔に献上されてしまう。
「こんな変態でも友達なの! お願い、フィード。約束に入ってなかったけど、ついでに根岸くんも助けてあげて!」
「ついで……酷い扱いだ」
そんなやり取りを経て、フィードは肩を竦める。その表情は穏やかだ。
「マナならそう言うと思った。いいだろう。ネギシも、あとこの女も一緒に助けてやる」
「この女……?」
「あぁ。ノバラとかいったな。この女も悪魔に取り付かれているだけで、ただの人間だな」
「え、そ、そうなの……? 良かった……」
てっきりのばらも悪魔だと思っていたのだが、そうではないらしい。友人の正体が悪魔でなくて良かった。
フィードとのばらに付いた悪魔が睨みあう中、状況についていけていない玲音が真愛に問う。
「真愛、どうしてあのぬいぐるみが話しているんだ?」
「……悪魔が取り付いちゃって。ごめんね」
「あ……悪魔、だと……? 嘘、だろ……」
目を見開き言葉を失くした玲音に、真愛はもう一度謝罪の言葉を重ねる。もらった物にそんな得体のしれないものが取り付いてしまって、申し訳なく感じていたのだ。
「せっかく真愛との二人だけの秘密だったのに、玲音にもバレちゃったのか」
緊張感など微塵もない声音で優はため息とともにそう吐きだした。
ほぼ全裸の男に免疫ができるまでには時間が足らず、真愛はそっと距離を取った。
「優は知ってたのか?」
「まぁね」
美しい顔をしかめる玲音を、美しい顔を破顔させて見守る優。顔だけ見れば悪くない光景だが、片やびしょぬれ、片やほぼ全裸である。
うめき声が三人の意識を一点に集めた。見ると、フィードがのばらを縄で絞めあげているところだった。
「見たか、オレのチカラを!」
「ごめん、見てなかった」
得意気に胸を張っていたフィードの背中が急速に丸くなる。赤子をあやすように抱きしめ、真愛はフィードの背中を柔らかく叩く。
――気が抜けていた。フィードがのばらを拘束しているのが目に見えていることで、すべてが終わったと思い込んでいたのだ。
「いい気に、なるなよ!」
17.魂の出現条件と真愛の涙
身動きを制限されたのばらの身体から閃光が放たれ、油断していた四人の目を焼いた。
足の裏が地面を踏む感触を取り戻す。悪魔が作りだしたテリトリーが解けたようだ。
「まずい。逃げる気だ」
フィードが縄を引いた時には、すでに悪魔は束縛を脱していた。気の緩みが招いた失態だ。
もう一度捕まえようにも視界は真っ白で姿を捕らえることは出来ない。下手に動けば周りの人や物にぶつかってしまう。
数十秒後に、ようやく視力を取り戻した。玲音の部屋に繋がっていたクローゼットはすでに塞がり、元通り真愛の服が掛かっているだけだ。おそらく玲音の部屋に面した窓の方も、もう根岸家のバスルームとは繋がっていないだろう。
元に戻った部屋を見回し、真愛は一つの異変に気が付いた。
「窓が開いてる」
玲音の部屋の方ではなく、通りに面した方の窓が全開になっていた。開けた覚えのない真愛は急いで駆け寄り、縁に手を置いて顔を出す。
家を囲む石垣を軽やかに下りているのばらの後ろ姿が目に入った。
「いた!」
真愛があげた声に反応したフィードは、風を巻き起こしながら飛び出して行った。一瞬見えた横顔には鬼気迫るものがあった。
どうしようなどとは考えず、一瞬の間もなく決意する。
「私達も行こう」
真愛は踵を返し、急いで部屋のドアへと向かう。二人の王子も同意し、後に続く。
ドアを開けて一歩踏み出した真愛は、はたとものすごく重要なことに気付いて足を止めた。後ろの二人を振り返る。
「どうした?」
「早く行かないと見失うよ」
きょとんとする玲音と優を見て、真愛は額に手を置いて溜め息を吐いた。
「二人は部屋にいて」
「なんで?」
「真愛ひとりで悪魔を追うなんて危険だ。俺たちが付いていたほうが」
「付いてこられたら数分で警察呼ばれるから!」
濡れ鼠とはいえ服を着ている玲音はまだいい。しかし優はパーフェクトにアウトだ。
ここで揉めている暇などないのに、と真愛が苛立つ中、ドンと物と物がぶつかる大きな音がした。
「なに?」
外に出ている暇はない。仕方なく、玲音と優の背中を押して部屋に戻り、再び窓から頭をのぞかせて様子を窺う。
三軒ほど先の家の近くに立つ電柱。そのすぐ傍から煙が上がっていた。煙が上がっていてよく見えないが、少しすると小さな点が空中に浮かぶのが分かった。冠クマちゃん――フィードである。
無事な姿にホッとしたのもつかの間、砂煙が晴れた先ではのばらが倒れていて、心臓がギシッと嫌な音を立てた。
息をするのも忘れ、彼らの様子をジッと見つめる。フィードは動かない。浮かんだまま、警戒するように視線をのばらへと注いでいた。
「どうだ?」
「フィードは無事みたい。のばらは……よく分からない」
倒れたのばらの横になにかが立っている。
「あ……」
腰まである紫色の髪を靡かせ露出度の高い服を身に付けた女性だ。ここまで香りが届きそうなほどの色気が感じられる。けれど服装の物珍しさと、角と翼が、彼女が人間でないことの証だった。
悪魔だ。頭の中でそれを認識するのと同時に、真愛は身を反転させ部屋を飛び出した。階段を転がるように下り、玄関を駆け抜けて無我夢中で走った。部屋から見えていた位置はそう遠くない。だというのに、その場所にたどり着くのに随分時間が掛かったような錯覚がある。
「フィード!」
すでに空は飛んでおらず、地面に横になっているのばらの傍にしゃがんでいた。
無防備に肢体を投げ出しているのばら。意識はないようだ。
「のばらはどうしたの? 悪魔は?」
「悪魔はノバラの身体から去った。偶然……いや、偶然ではないんだろうな」
気を失っているのばらの額に手を置き、フィードは真剣な顔で淡々と述べる。
「あの悪魔の前世の魂が出現し、それを得た悪魔は自らの身体に戻り逃げていった。……ほら、そこで猫が死んでいるだろう」
顔も腕も動かさないフィードの言う「そこ」がどこだか分からず、辺りを一周見回すと、電柱の陰に確かに猫が倒れていた。まじまじと見るのには耐えられず、真愛はすぐに視線をフィードに戻した。
「自動車にはねられたらしい。ノバラに付いていた悪魔は自分の前世の魂の出現を感じて、ここに来たのだろう」
「感じて?」
「オレたち悪魔は前世となるの生き物が死ぬ時に、魂の出現を本能的に感知することができるんだ。だからこうして前世の魂を探すことができるというわけだ」
「じゃあ、あそこで死んでる猫がのばらについてた悪魔の前世ってこと?」
「そういうことだ」
「そんな……かわいそう」
なんの罪もない動物が、前世だからといって容易く殺されてしまったことに、胸が痛んだ。
前世の魂を得るために前世を殺す。それは、もしかしてフィードにも当てはまることでは……?
それに気付いてしまい、急激に血の気が引いた。
「勘違いするな」
のばらの額に手を当てたままで、フィードが言う。
「あの猫はかわいそうなんかじゃないぞ。天寿をまっとうし、自動車にはねられて死んだんだ。あの悪魔の前世の魂となったことがいい証拠だ」
意味を理解できず黙ったままの真愛に対し、フィードはさらに言葉を続けた。
「前世というのは融通がきかないものなんだ。死ぬべき時に死んだ場合にしか前世として扱われない。もしも死期を違えた場合には、魂は出現しなくなる」
「じゃあなおさら、死ぬべき時に死ぬように手を出す人が多いんじゃ……」
「来世の者に殺された場合は天寿とはみなされず、魂はその者に受け継がれなくなる。死期を早める場合のみでなく、遅めるのもタブーだ。前世の魂を手に入れたいのなら、前世の生き物の生き死に関与してはいけないとされている」
「そう……なんだ」
心をこわばらせていた不安が拭われ、真愛はホッと息を吐いた。
「もっとも本人が手を出さなかったとしても、別の誰かが影響を与えて死期を変えてしまうこともあるからな。……本当に魂の受け継ぎというのはやっかいなんだ」
真愛に呼応したかのようにフィードも息を吐いていた。のばらに当てていた手を引いたフィードは、心なしか息が上がっているようだった。
「フィード? のばらになにをしてたの?」
「悪魔が奪っていた精気を、オレの精気から分けただけだ。あの悪魔、相当好き勝手やっていたらしい。もう少し長く取り付かれていたら、ノバラの命は保障できなかった」
「え……」
――命は保障できなかった。
頭を強く殴られた気分だ。現実味のない言葉だというのに、目の前で倒れているのばらに目をやると途端に本当なのだと突きつけられる。
「大丈夫なんだよね?」
「あぁ、オレの精気を分け与えたからな。じきに目を覚ますだろう。それにしてもあの悪魔め、随分ギリギリまで吸い取ってくれたな。おかげでこっちはくたくただ」
伸びをするフィードを真愛は抱きしめずにいられなかった。
「ありがとう。本当に……ありがとう」
精一杯の感謝を込めてそう告げた。
「私、お礼にフィードの前世の魂探しに協力するから! 絶対に見つけて、フィードを成人にするから!」
涙で濡れた顔を見てなのか、真愛の言葉を聞いてなのか、フィードは真愛の手の中で淡く笑った。
18.宇宙王子と隠し事
悪魔の空間干渉の魔法が解けて、のばらも家に帰した後、玲音は自室に戻って着替え、同時に優に貸す服を持って再度真愛の部屋を訪れた。下着は近くのコンビニまで行って買ってきたものだ。
「じゃあ、優を駅まで送ってくるな」
外に出ても通報されない姿になった優を連れた玲音はそう言って田崎家を後にした。
住宅街を歩きながら、優の横顔を見つめる。
「なに?」
「……いいや、真愛は優には悪魔のこと話してたんだな、って思ってさ」
「やっぱり気に入らない?」
からかうような言い方ではない。芹香ならこの手の話題を嬉々として話すだろうな、と考え、目の前にいるのが優で良かったと密かに思った。
「そうだな。幼馴染で、俺が一番真愛を理解してるって思ってたからな。正直驚いたよ」
「幼馴染、か。それ、本心から言ってる?」
「当たり前だ、ろ」
スッと細められた目で優に射抜かれ、言葉に詰まる。透きとおった灰色の瞳が玲音の心を責め立ててくるようだ。心の奥を暴かれまいと、フイと顔を逸らして優の視線から逃げた。
しかし優はそれを許すようなぬるい人間ではなかった。
「じゃあもし、僕が真愛と付き合ってもなにも思わない?」
「……っ!」
予想だにしていなかった優の問いに、さすがに動揺を隠せなかった。完全に言葉を失い、瞠目して逸らしたばかりの優の顔を見つめる。
駅へ向かっていた足を止め、優は小さく鼻で笑った。
「そんな顔しておいて、よく幼馴染とか言ってられるね。僕は玲音のことが好きだけど、真愛のことに関する態度だけは気に食わないな」
「……試したな」
奥歯を噛みしめて吐き出した声には、恨めしさが露骨に聞き取れた。謀った優にも苛立ちはあるが、なによりも真愛への気持ちを抑えきれなかった自分の情けなさに腹が立つ。
――真愛を好きにならないと決めていたのに。
真愛を好きだという気持ちに蓋をして、異常なほど冷静に気持ちを落ちつかせた玲音は細く長く息を吐いた。真愛のことを考えないように努め、成すべきことだけを頭に浮かべる。
己の言動を訂正する気のない玲音に対して優は盛大に溜息を吐いたが、玲音は無視を決め込んだ。
歩みを再開してしばらく、駅が見えてきた。
人がごった返す中、優を見送る。真愛のことについては、お互い何も触れなかった。
駅から家まで、来た道を引き返す。
跡をつけられていると気が付いたのは、近道のために大通りから住宅街に入った時だった。休日の住宅街ではあるが、この辺は空家が多く、人気は少ない。距離をとってつけてくる気配を感じるのも、そう難しいことではなかった。
「気付いている。姿を見せたらどうだ?」
振り返ってそう言うと、相手は案外素直に顔を見せた。
「さっきぶりねぇ。玲音くん」
紫色の髪を靡かせた異形の者。最後に見た姿とは違っていたが、話し方で誰なのか分かった。
「千葉さんに付いてた悪魔か。俺になにか用か?」
「つれないわねぇ」
悪魔は妖しく腰を揺らしながら歩み寄ってくる。見慣れていなければその姿に心酔してしまいそうなほど、危険な美しさを孕んでいた。
血のように真っ赤な唇を歪めて、彼女は笑う。
「私は貴方が欲しいの。貴方の精気、とってもいい匂いがするのよ」
「人間だけでなく悪魔をも虜にするのか。俺の魅力は本当に桁違いだな」
臆せずに余裕を見せる玲音が癇に障ったらしく、悪魔は笑顔を引っ込めた。細腕を伸ばし、玲音の首を鷲掴みにする。ぴったりと玲音に合わせてくるその視線には、憤りが浮かんでいた。
「調子に乗るなよ。人間風情……が」
見開いた目は焦点があっていなかった。声も出せず、動きも取れず、ただただ苦しげに唇を震わせていた。悪魔の動きが鈍り、玲音は悠々と声を掛ける。
「大丈夫かい?」
「……ック」
口を開け閉めするだけで、言葉どころか声にすらならない。
形勢はあっさりと逆転し、崩れ落ちた悪魔に玲音の影が掛かった。ぶざまに倒れこむ悪魔をさして興味なさげに見下ろした後、玲音は彼女の首を掴んで持ち上げた。
「俺の周りに手を出さなければ、こんなことにならずに済んだのにな」
悪魔の身体から青白い霧のようなものが溢れだし、道に沿うようにすべて玲音の身体へ吸い込まれていく。
「う……うぅ」
うめき声に眉一つ動かすことなく、玲音は悪魔が逃げないように首に力を込め続けた。数十秒後には、悪魔の顔から血の気が失せていた。
「魔力を奪っただけだ。死にはしないさ」
ゴミを捨てるように悪魔を地面に落とした後、玲音は踵を返して鼻歌まじりで帰路に就いた。
魔力を補充し、これでいつでも魔法を使えると意気揚々としていた玲音は、しかし、自室に戻って魔力の量を確かめた時に眉をひそめた。
――増えていない?
青白い光を手に灯すが、それはすぐに消えてしまう。魔力を奪う前と変わっていなかった。なぜなのかと理由を考え、ひとつの答えにたどり着く。
「そうか……そういうことか……」
玲音は穏やかに、少し悲しげに、ひとり微笑んだ。
☆ ☆ ☆
室内の片づけを終えて、真愛はようやく腰を下ろした。背もたれに身体を預け、うんと伸びをする。
ちょこちょこと器用に机に上って来たフィードが真愛の目の前に座る。
「大変な一日だったな」
「……そうだね。けど――」
コンコンと窓が打たれた。通りに面している方ではない。
「過去形にするにはまだ早いみたい」
重い身体を動かしてカーテンを開けると、そこにはいつも通り玲音の姿があった。
「今、いいか?」
「……うん。どうぞ」
自室の窓に足を掛けて、真愛の部屋へと乗り込んでくる。軽々と着地した玲音は、他の物には目もくれずまっすぐ冠クマちゃんだけを射抜いた。それだけでなんの用件なのかが真愛には分かった。
「まさか俺があげたぬいぐるみに悪魔がつくだなんてな」
「ごめんね」
「真愛が謝る必要ないだろ。悪いのはこいつだ」
自分に向けられたわけではないのだが、厳しい目つきに気圧され間に入ることができなかった。優との時よりももっと険悪な雰囲気が漂い、肌を刺すような不快感が部屋を支配する。
「なにもしていない悪魔に対して、随分な言い様だな。礼儀を知らないのか、小僧」
「誰が小僧だ。真愛に近づいただけで充分悪いに決まっている。とにかく、真愛の家から出ていけ」
「断る。こっちにも事情があるんだ」
緩慢な動きでフィードに歩み寄る玲音。いつ掴み掛かってもおかしくない緊迫感を纏っていた。
「待って」
玲音の腕を掴んだ真愛は、首を振った。黒と黒の瞳が真剣さを伴ってぶつかる。
「フィードと約束したの。私と玲音くんを守ってくれる代わりに、部屋を貸すって」
「は?」
机の横にあった椅子を玲音にすすめ、真愛はフィードを抱っこしてベッドへと腰掛けた。
玲音の眉間からは力が抜けている。輝く漆黒の瞳に警戒心が見て取れるものの、先程よりは冷静になったらしい。
「フィードは私に掛かっていた魔法を解いてくれたの。ほら、三王子に告白が増えたって話あったじゃない。実はあれ、恋する魔法のせいだったんだ。それに気付いたフィードが解いてくれたの」
「……そうか。それは助かった。だが、もうそれは解決しただろう。これ以上そいつを置く理由はないはずだ」
「そんなことない! 助けてもらいっぱなしで追いだせないよ。それに、今日ものばらを助けてくれたし……私はフィードの力になりたいから」
優しくフィードを抱きしめると、「マナ」と小さな声が返ってきた。人間と悪魔ではあるが、そこには確実に絆が構築されていた。
二人のやりとりを眺めていた玲音は大きく舌打ちをした。真愛たちを映す瞳は冷たい。
「そうか。なら勝手にするがいい。俺はもうなにも言わない」
椅子から立ち上がると、真愛に一瞥もくれず窓枠に上った。
「待って、玲音くん!」
「俺の言葉よりもそいつとの約束を優先するんだろう」
平坦な調子の声が、真愛の胸に突き刺さった。思わず玲音の言う通りにすると言いたくなったが、それでも本心からフィードに助力したい気持ちを翻すには至らなかった。
遠くなる背中を、真愛はただただ見ていた。
19.心配する者される者
週明けの月曜日。なんてことない一日に、しかし確実な違和を芹香は感じ取っていた。
三王子仲間の玲音の機嫌が妙に悪い。彼が機嫌を損ねること自体はそう珍しいことではないが、それが一日中続くとやはり気になるのだ。放課になってすぐどうしたのかと聞いたが、「なんでもない」と一言で話を終わらせられてしまった。
もうひとり、大切な女友達である真愛の様子もいつもと違う。常に仏頂面だった玲音と違い、彼女の異変は分かりにくかったが、それでもふとした瞬間に悲しげな表情を見せていた。
友人二人の顔を浮かべながら、放送室の椅子に寄りかかる。そのままの格好で天井を見上げた。
「喧嘩でもしたのかな?」
ぼんやりと呟いた。部屋にひとり、誰に聞かれているはずもない――と、芹香は思い込んでいた。
「――それは貴女にとって好都合なのでは?」
すぐ後ろから、聞き慣れない男の声が耳に届く。
神経が逆立ち、反射的に椅子から飛びのいて臨戦態勢をとった。芹香が座っていた椅子のすぐ後ろに、見た事のない格好をした男が立っていたのだ。玲音や優と張るほどの、恐ろしく整った美形の男。腰まである、人間には珍しい真っ赤な髪、頭部に生える角。
(悪魔だ!)
すぐさまそう感じ取った。
「俺は貴女の秘密を二つ知っている」
「は?」
「恋と友情のどちらを取るか、悩んでいるのだろう?」
カッと芹香の顔が朱に染まる。その顔を見れば、誰も芹香を男と思ったりしないだろう。
「なに言ってんだ!」
精一杯の虚勢を張る芹香を気に留めず、悪魔は続きを話す。
「俺に協力しろ。そうすれば」
「断る!」相手に最後まで言わせなかった。「うちは確かに悩んでるけど、それでも悪魔に頼るほど腐ってないからな!」
揺さぶられた心を立てなおそうと、声を張り上げ否定した。勇敢にも、悪魔に対して軽蔑のまなざしを送る。
「本当に貴女は腐っていないのか?」
「なに言って……」
「俺は貴女の秘密を二つ知っていると言っただろう」
瞬きを一回している間にスーッと近づいてきた悪魔に、反応できるはずもない。固まったままの芹香の耳元に口を寄せ、悪魔はそっと囁いた。
「貴女が人間を裏切り、悪魔に手を貸したことを、俺は知っているよ」
生の心臓を握りつぶされたように、呼吸が止まる。
誰にも知られたくないと思っていたことをなぜ、赤の他人であるこの悪魔が知っている?
すべて終わったことだと思っていたのに、悪魔によって罪の意識が呼び起され、勇気や意志、理性を打ち砕いていく。
目だけ動かし悪魔を見ると、彼は大変愉快気に笑った。
「もう一度言う。――俺に協力しろ」
☆ ☆ ☆
照りつける日射しが日増しに凶暴性を帯びていき、本格的な夏がすぐそこまで来ていることを感じさせる。衣替え後しばらくはブレザーやカーディガンを羽織る生徒がちらほらいたが、今はもう見かけることがない。真愛も他の生徒同様、ブラウスの上に綿のベストと夏用スカートという装いに変えていた。
季節は着実に移り変わっていくが、真愛と玲音の関係に変化はなく、もう一週間以上玲音と口をきいていない。こんなに長く彼と口をきかなかったことは長期休暇中を除いて、今までになかったことだ。同じ学校、同じ教室。同じ空間を共有しているのに、距離が遠い。
関係が険悪になった最初の頃こそ不機嫌な様子の玲音だったが、今では普通に談笑しているのを真愛はよく見掛けていた。玲音が笑っているのを見ては話しかけに行こうとするが、彼は真愛の姿を視界に入れるとあからさまに態度を硬化させる。時間が経てば経つほど気まずくなっていくのは分かりきっているのに、玲音の近づくなと威嚇するような瞳に睨まれると、真愛の中の勇気が萎んでしまって行動できなってしまう。
しかし、そんな言い訳を続けてはいられない事態が三王子の周りで起こっていた。
優のファンはほとんどが女子。芹香のファンはやや男子多めで女子もそれなり。玲音のファンは男女半々。それが、三王子の勢力図だったのだが……。
「足りない」
疲れと落胆を感じさせてそう言ったのは、空き教室で休憩中だった優だ。声から滲み出る疲労と、長い脚を優雅に組んで椅子に座る姿には大きなギャップがある。
澄まし顔の優を眺めて、どうしてこの男と二人でいるのかと不本意に思い、真愛は腕を組んで首を傾げた。
正確には二人きりではなく、もう一人、フィードがいることにはいるのだ。三王子のファン層の変化をフィードに話したところ、調査すると張り切って付いて来た。と、そこまでは良かったのだが、久々の学校に疲れてしまったらしく、今は紙袋の中で眠っている。
久しぶりにフィードを連れていたのを目ざとく見つけた優によって、真愛は教室に引っ張り込まれ、その上フィードが眠っていることに対する不満をごちられるという迷惑かつ理不尽な目にあった。
優が憂いを帯びた顔をして息を吐く。
「女子が、足りない」
「……もう少し言葉を選んで」
顔に似合わない言葉に慣れたとはいえ、今のは聞き逃せない。いくらなんでも学園の王子様がそんなことを言ったら幻滅必至だ。それは優自身分かっているようで、他の生徒には隠し通している。それなら自分にも隠していて欲しかったと真愛は思うのだった。
「……女が欲しい」
「悪化した!」
ここまで来たら上履きでも投げつけて、己の言葉を自覚させてやった方が親切かもしれない。
とはいえ文句のひとつも言いたくなる優の気持ちも、分からなくはない。
「最近変わったもんね」
今まで女子に囲まれるのが常で、それに喜びを感じていた優が、なぜだかここ数日は男子生徒に囲まれることが増えたのだ。傍目でそう感じるのだから、当事者である優にはもっと大きな変化に感じるはずだ。一応笑顔を貼り付けて対応しているが、少し引きつっているし腰も引けていた。
その様子を思い出してふふふと低く笑う真愛の頬を、優がつねった。
「笑うな。不愉快だ」
「ひぃふふぃん!」
「理不尽」と言うつもりが、頬を摘ままれてるせいで口の端から息が漏れ、気の抜けた言葉しか発せない。
「すごく馬鹿にされている気がしたから」
(……エスパーか)
心の中で面白がっていたのだから反論できない。
再びニヤケそうになるのを押さえるために、意識を別の人物へ移す。優以外の二人の様子も思い返した。
芹香は優ほど露骨な勢力変化ではなかったが、それでも男子が減って女子が増えていると言っていた。男女ともに人気だった玲音は、今ではほとんどのファンが女子になっている。
そう、それが今真愛を一番悩ませている問題だ。
ここ数日、玲音は女子生徒と一緒にいることが格段に増え、そんな姿を見たくないのに目に入ってしまう。女子生徒に囲まれ黄色い声を浴びる玲音が脳裏に浮かんだ瞬間、止めようと意識する間もなく溜め息が出た。
「玲音のこと考えてるの?」
「だからエスパーか!」
今度は声に出していた。
脚を左右組み直し、優は表情を変えないままで真愛の顔を覗き込むように見やる。
「真愛は分かりやすいよ。そんな悩ましげな表情してるんだから、原因は玲音しかないでしょ」
グレーの瞳にまっすぐ射抜かれた真愛は、顔に手を当て首を捻る。そんなに分かりやすい表情だろうか。
「結構長いこと話してないみたいだけど、玲音と喧嘩したの? 芹香も心配してたけど」
「喧嘩っていうか……喧嘩なのかな?」
「僕に聞かれても分からないよ。でも玲音の方もピリピリしてたし、仲直りしたいんじゃないかな」
「本当にそう思う?」
最近話せていないことと玲音の態度が自信を削ぎ、考えがネガティブな方に引きずられがちになってしまった真愛は、優の言葉にすがるように問い返していた。
「玲音は真愛を大切に思ってるからね。ちょっとやそっとのことで嫌いになるはずもない。何があったか詳しくは知らないけど、玲音はまた君と普通に話したいと思ってるはずだよ」
「……」
真剣に後押しの言葉を言ってくれる優を、真愛はただじっと見つめ返した。頭の中で「良かった」と「本当?」がせめぎ合って揺れている。優の後押しを受けてなお、完全に前向きになるには至らなかった。
「玲音が」
再び優が口を開く。
「真愛を大切に思っていることは、本人である君が一番よく知ってるよね」
「……」
「他人である僕にも分かるくらいなんだから、真愛が気付いてないなんてあり得ないと思うけど」
どこか責められている様な気がして、真愛は視線を逸らした。
優の言う通り、幼い時から時間を共にしてきた真愛は自分が玲音に好ましく思われていることは知っていた。
(でも……)
それは今までのこと。今回の一件が きっかけで嫌われてしまっているかもしれない。他の誰かといる時は普通にしていて、けれど真愛が近づくと拒否するように態度を変える玲音を目の当たりにすると、そうした不安が一層強くなる。
「嫌われるようなことをした自覚でもあるの?」
「え……」
煮え切らない真愛に焦れた優がそう問うた。無意識に目を逸らしていた現実を否応なく突きつけられる。
ことの始まりは、フィードを追い出せと迫る玲音を真愛が拒否したことだ。
(じゃあ……フィードを追い出せば良かったの?)
それは違う。悪魔だがフィードは約束を違えることなく、真愛たちを守ってくれている。彼を追い出す理由が真愛には見当たらない。
「……どうすれば良かったのかな?」
自分の選択に後悔はない。だからこそ玲音に謝ることができなかった。
こちら側からは埋めることのできない溝を抱えて、真愛は身動きが取れなくなっていた。
――嫌いだ。
大好きな玲音が、冷めた顔で、嫌悪の瞳で、拒絶の言葉を吐き捨てる。……しなくてもいい想像をしてしまった。
目頭がカッと熱くなって、その熱を実感した時にはもう雫が流れていた。
突然泣き出した真愛に、優は焦りの表情を浮かべハンカチを差し出した。
「ごめん、なにか傷つけるようなこと言った?」
「ち、違……、根岸くんは悪くない」
悪いのは自分自身だ。ハンカチを借りる資格もない。差し出されたハンカチを固辞し、袖で涙を拭う。
「驚かせて、ごめん。なんでもないかんんっ!」
言い終える前に、顔に何かが押し付けられる。その何かが優のハンカチであると認識できたのは、手では拭い切れなかった涙を綺麗にふき取っていった後だった。
「なにするのっ?」
「なんでもないわけがないでしょ」
「根岸くん? え……」
――ギュッ。
拒絶する間もなく、真愛は優に抱きしめられていた。
20.乙女心はままならない
放課後恒例の生徒たちとの談笑がひと区切り付き、芹香は適当な空き教室で休憩を取ることにした。引き上げ時にちょうど玲音と鉢合わせ、休憩を一緒に過ごすことになった。
電気を点けると生徒に見つかってしまう可能性があるので、教室内は少し薄暗い。
廊下を歩いていた時には微笑みを浮かべていた玲音が椅子に座った途端、大きく息を吐いて顔を歪めた。あまりにも分かりやすい態度に、芹香から苦笑が零れる。
「まだ真愛と仲直りしてないの?」
「……そもそも喧嘩をしているわけじゃない」
「それでも顔合わせない、口きかないを続けてんなら同じじゃないか。真愛の方も気にしてるみたいだし、玲音の方から歩み寄ってあげなよ」
「なんで俺が……」
「す……大切なんでしょ、真愛のこと」
好きなんでしょ、とは言えなかった。
口を閉ざして考え込んだ玲音はおもむろに机に伏し、顔を少しだけ横に向けた。その顔は少し悲しそうに見える。
真愛を想い、悩む玲音を見ると、やはり胸がチクリと痛む。けれど略奪をしようなどとは思えない。真愛の気持ちも、玲音の気持ちも知っていて、そこに隙はないのだ。中途半端に気持ちを伝えて友情を壊してしまうくらいなら、二人の間を取り持つ最高の友人になりたかった。
仲直りの後押しのために言葉を続けようとした時、芹香が言うより早く玲音が口を開いた。
「そうだな、真愛は大切な幼馴染だ。それは互いの一番大切な人が誰であろうと変わらない」
うん、と大きく頷く玲音に安心感を抱いた。本当に本心から、二人が仲良くしていくのを祝福できる。
「そうだよ。玲音や真愛がそれぞれ誰を一番に思ってたっ……て……あれ?」
なんだか重要な台詞をスルーしていたようだ。脳内で反復して意味を捕まえた瞬間、芹香は椅子をひっくり返して立ち上がった。
「今なんてったっ?」
「なにをそんなに驚いてるんだ。こっちが驚くぞ」
「驚くよ! 驚くに決まってる! 今のどういう意味なのさ!」
興奮した芹香の声は次第に大きくなっていく。
「うるさい。……真愛の一番大切な奴が俺じゃなくなって、俺の一番大切な奴も真愛じゃなくなったって意味だ。けど、そんなの関係ないな。別に一番じゃなくたって」
「な、に、言ってんだよ」
そう言った芹香の声はもう大きくなかった、しかし怒りと悲しみに震えるそれは室内に響き、静寂をもたらした。
「なんでそんなこと言うんだよ。玲音は真愛のことが好きなんだろ。なんで、そんな……」
真愛に勝てないのは分かりきっていた、真愛が玲音の彼女になるのなら心から祝福できる。そう思っていた。真愛が相手だから諦めることができたのに!
「諦められなくなる……」
真愛が相手でなければ、もしかしたら自分でも玲音の横に立てるだろうか、と弱い希望の光に縋ってしまう。
「芹香」
温かみのある低い声で呼ばれ、顔を上げると、思いのほか玲音の顔が近くにあった。
「そんな可愛いこと言われたら、期待したくなるだろう」
真剣な顔をした玲音にそっと頬を撫でられて、芹香は思わず仰け反った。触れられた部分が熱い。
まるで逃がさないとでも言うかのように、離れた芹香を追って玲音は立ち上がった。
並の男子よりやや身長のある芹香だが、玲音と並ぶと頭半分ほど低い。少し上にある玲音の顔を見上げると、そこには今まで決して向けられることのなかった熱の籠った眼差しがあった。
鼓動が加速する。芹香の全身が喜びに震えていた。本能が雄叫びを上げている。
今なら捕まえられる。手を伸ばせば届くところに大好きな人がいる。
このままつき進むだけで、玲音が自分のものになる。だというのに――。
――本当にいいの?
一滴の理性が芹香の思考に流れ込み、猛る本能を押し止めて意志を呼び戻した。冷静な頭で、もう一度玲音と見つめ合う。
宇宙のように黒く深い瞳。熱をもって輝く瞳は、どんな高価な宝石よりも美しく魅力的に思えた。けれど。
「え……」
熱をもった黒の奥に、わずかな淀みを捉えた。よく覗き込まなければ気付かないほどの、小さな異物。
それがなんなのか、芹香は一瞬で理解した。
あの赤い髪の悪魔が掛けた魔法の証拠だった。それに気付いてしまったら、罪悪感を感じずにはいられない。芹香は彼に協力しているのだから。
(魔法の効果なんだね……)
悪魔に脅迫をもって協力を迫られた芹香は、その要求を呑んだ。とどのつまり、脅しに屈したのだ。
芹香の弱みに付け込んだ悪魔は、魔法についてこう説明した。
――一番好きな相手と二番目に好きな相手を入れ替え、この学校を混乱させる。
目の前で起こる異常な状況が腑に落ちた。玲音は魔法に掛かっている。
魔法に掛かるというのは風邪を引くようなものだ。体力の落ちた人が風邪を引きやすいように、精神的に弱っている人が魔法に掛かる。
この前の魔法の時は玲音に異変は見られなかったのに。今度の魔法の方が強力だからなのか、それとも玲音の精神が弱っていたからなのか。
「芹香」
いつもとは違う声音で呼ばれ、嬉しくて耳を塞ぎたくなった。これ以上まやかしの態度に舞い上がりたくない。
「……玲音」
どうしたら正気に戻せる? 元の玲音を呼び戻したくて呼んだ声に、なにを勘違いしたのか玲音は嬉々として近づいてくる。近すぎる距離に戸惑い、芹香は身を引こうとしたのだが。
「逃がさない」
両腕をしっかりと掴まれてしまい、それは叶わなかった。
「れ、玲音…………えっ!」
身体が重くなった。力が入らない。突然の異変に、玲音に向けていた視線を下げて己の身体を顧みて、驚きで声を失った。
「……っ!」
身体から流れ出る青白い霧。芹香の中にあった魔力が、本人の意志とは関係なく放出されていた。青白い色をした霧が一様に同じ方向へと――玲音の身体へと流れている。
(魔力が吸われてる?)
力が抜けていく中、芹香は的確に状況を理解していた。自分の魔力が玲音に吸われているのだ。
意識はどんどん白んでいき、身体からは感覚が無くなっていく。身体がどんどん動かなくなっていく中、芹香は最後の力で声を絞り出した。
「……れ、お……。あ、く……ま……?」
玲音は悪魔なのだろうか?
ほとんど動かない唇でそう残し、芹香は意識を手放した。
愛華薔薇学園恋事情