名前も知らない【03-05】

古瀬

名前も知らない【03-05】
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03-1

03-1

「何か、してくれたんだって?」
 翌日の夜、裕道に電話で尋ねられた。
「したってほどのことは――」
 ダンススクールを出た先にある広場で、僕はそう答えていた。

 発表会の開催日時が決定したばかりで、今日は事務作業に一日追われてしまった。会場はすでに押さえてあるものの、数か月先の本番までやることは山のようにある。その流れを数回経験している僕に麻子が振ってくる仕事の量はなかなかえげつない。バインダーを抱えて館内を飛び回る日になった。
「中上さんから電話があったから」
 今日も店舗の改装作業に勤しんでいるらしい。従兄の声のあいまに、金属同士のぶつかるような音や、何かを剥がしているような音が響いてきた。
「たまたま会ったんだよ。駅でうずくまってたから」
「あー」
 思い出した、というような声だ。
「ちょっと無茶するところあるんだ、あの人。まあ、それがたたって病気したようなもんらしいから」
「とりあえず、バス停までは送った」
 まだめまいが残っていたのかもしれない。中上さんはどこかこわばったような姿勢のまま、バスのステップを上がって行った。くるぶしの見える細身の黒いパンツに、同じ色のシンプルな靴、襟のないジャケット。性別を強調するような服装は好まない人なのかもしれない。直線的な服を着ているから、かえって小さく頼りないような雰囲気が出てしまっているようにも見えた。
「無事帰れたから、おまえにお礼言っておいてくれって」
「そうなんだ」
 あの後、駅に引き返す途中で連絡先を渡しておけば良かったかと思った。始終遠慮気味だった彼女に、それ以上踏み込んではいけないような気がしたのだった。

「可愛いだろ、あの人」
 裕道は、少し溜めてから楽しそうに告げた。
 
 へ、という間抜けな声が自分の口からこぼれていた。
「いや、顔はきれいな感じだけどさ。ちょっとつんとして見えるだろ? 気難しそうっていうか、簡単に心ひらかなさそうな」
「ああ」
「でも、実際は全然逆なんだよ。純粋っつうか、嘘つけないっていうの? 思ってること、本当にすぐ顔に出るし」
 死ぬほどわかりやすいんだ、と裕道が言い足した。
 ベンチに座って小さな声で自分のことを話す彼女は、静かに正直な人間、という感じがした。気づかない人間には気づかないのかもしれないが、反応が率直なのだ。驚いたときにわずかに大きくなる目や、瞬きの早さ、恥ずかしそうに唇をすぼめて、さりげなく俯いてしまう動きで、そう思った。おどおどとした雰囲気ではなかったけれど、彼女を驚かせたいと思ったらそれを叶えるのはきっとたやすい。
「前の職場、皆田舎の人間だったから。ああいう人見てると、構いたくてね。同じくらいの娘がいるおばちゃん達とか、休みごとに交代で病院通ってたよ。退院の時に誰のタッパーかわからん容器がけっこうあったって。差し入れで」
 裕道は電話のむこうでのんびり笑っている。
「なんか、そういう人なんだよな。人間関係いい職場だったってのもあるんだけど」
「只野さんにも世話になったって言ってたよ」
「たまに車出したぐらいよ。病院、同じだったから」
 近所にある、大学病院の名前を彼は出した。
 整形外科の外来に裕道は数か月に一度通っている。

 従兄の話を聞きながら、今更ながら思った。夢ではなかったんだ、と。
 確かにあの駅で彼女と再会し、あろうことか抱き上げてベンチまで運び(やりすぎただろうかと、その日は寝るまで落ち着かなかった)、バス停まで送ったというのに。

 電話のむこうで、従兄はちょっとふざけた調子で笑った。
「おまえもだろー?」
「は」
 突然話の方向が自分に向いて、いつものように返せなかった。
「なに」
「いや、ちょっと意外だけどね。おまえああいうタイプに弱かったんだな」
 しみじみとした口調だ。絶対に、そして大いに楽しんでいる。
「だから、何が」
 子供からの縁というのは厄介だ、とこういうときに思う。ふいに出てくる言葉が、自分でも驚くほど幼い響きになったりするから。
 従兄は無理しなさんな、と訳知り顔――声だけでも確かにそういう表情をしているとわかった――で告げてから、
「亮太じゃ無茶なことしないだろうから、別に止めないよ。ちいちゃん、付き合ってるやつとかいないはずだし」
「だから、裕道」
「そうそう、店のオープニングパーティすっから、バイトで来てよ。全部ケータリングだから料理とかいらないし。彼女ももちろん呼んでるし。あ、おまえ前パーティ系のバイトやってなかった?」
「短い期間だけど」
 言い返すのにも疲れた気分になって、そのまま返答する。
 自らのアイデアが大層お気に召したらしい。裕道は上機嫌に笑った。
「兄さんがわざわざ接点作ってやんだから、有効活用せいよ」
「人の話をこれっぽっちも聞かないねあんた」
 駅に向かって歩きながら、僕はすっかり呆れた気分になっていた。
 裕道はわざとらしくわははと声をあげ、可愛い従弟のためだからな、と恩着せがましく付け足した。
 そして半月後のギャラリーのオープニングパーティについて、思いつくままに話し始めた。

 
 いつもの郵便局で記帳を済ませてから、閉店間際のスーパーで値引きシールの貼られた弁当と一本の発泡酒を買う。家の玄関の扉に張り付いていたアシナガグモを落ちていたチラシで払い、部屋に入る。スマートフォンには、二十分ほど前にメッセージが届いていた。落ち着くまでは、中身を確認したくなかった。
『家に帰ったら連絡ください』
 母からだったが、実際に打ち込んだのは妹の絢乃(あやの)だろう。フリック入力が苦手な母は、スマートフォンに換えてから短文を入力することが大儀になったらしいから。

 最後に実家に戻ったのは、半年前だ。
 せめて東京圏からもう少し離れていてくれれば帰省の間も伸ばせると思うのに、ここから地元へは電車で数時間ほどで帰れてしまう。
 去年の秋口に戻ったときに、母はひどく気落ちしていた。父の健康診断の結果が良くなかった、精密検査が必要かもしれない、と。いわゆる自覚症状はない状態だったが、検査機関から送られてきた手紙にはそれを勧める内容が書かれていた。
 すぐに病院に行かなかったのは、結果がはっきりすることへの不安が勝ったせいだと思う。周りの言うことも聞かず、仕事だ付き合いだとだらだら先延ばしにしていたらしい。
 細かなことが分かったら連絡すると母から言われていたものの、正直なところすべてがぴんとこなかった。励ましの言葉を口にしたような気もするが、母にはそれが本心には聞こえなかったと思う。

 重いような気分で、連絡先リストから堀井公子の名前を探してタップする。母はスマートフォンをリビングの電話台の横に固定しておく人なので、離れた場所にいるときは出るまでに時間がかかる。
「はいはい」
 少し息を切らした様子で、母は電話に出た。
「ああ、公ちゃん? あたしよ」
「――母親に向かって何です」
 僕のふざけた一言に、呆れたように、それでいて小さく母が笑う。

 高校卒業後には語学の専修学校に進みたいと告げたとき、リビングのソファに並んで座っていた両親は気まずそうにそこでわずかな身じろぎをした。
 大学ではないのか、という父からの質問に、喋れるようになれればいいから別にいい、と答えたのを覚えている。正直に言えば、この先四年間も学生という身分をやる気持ちになれなかった。
 将来性がなさすぎるんじゃないか、という言葉に対して、英会話が身についていて普通のことが普通にできればどこかしらで使ってくれるところはあるはずだ、と答えた。返ってきたのは、そもそも身につかなかったらどうするんだ、という一言だった。
 それはどこで何したって同じじゃないの。そう言い返していた。彼の望む人生の形からどうしても逃げ出したくて、子供じみた言い訳だと承知で不確かな道を選んでいた。
 僕の態度に、先に動いたのは母だった。
 あなたのことじゃ言っても聞かないでしょう、と。前もって母に話をつけておいた僕に、当時すでに父子の橋渡し役を担っていた母は予定通りの反応をしてみせた。

 父はそこで、眉を寄せて黙り込んでいた。
 本当は僕を大学に行かせて、経営と中国語を学ばせたいと思っていると知っていた。いずれは自らが役員を務める会社に僕を引き入れ、むこうの工場や代理店とのやりとりに一役買って欲しいと思っていることも。
 それを表に出しすぎることで『息子に進路を強要する父親』になるのは避けたがったが、日々の中でちらちらとその願望を小出しにするのは辞めなかった。さりげなくのつもりだったかもしれないけれど、感情的な駆け引きのとことん苦手な男だった父からは自らの願望がいつもひたひたと滴っているように見えた。
 仕事だけではなく、ほぼすべての物事において。

「昼間、連絡くれたでしょ?」
「そうよ、絢乃に頼んだの」
「やっぱり絢乃か。あいつも家にいるの?」
 僕とは逆に、大人しくインドアな性格の妹だ。実家の近所のタクシー会社で事務員をしている。
「今日はもう部屋にいるの。漫画でも読んでるんじゃない?」
 厳密には、妹が好きなのは少女小説だ。表紙しか見ない母にとっては、それも漫画の一種らしい。
 母が妹の近況を話し始めたので、立ち上がって窓辺のほうへ向かう。干しっぱなしのタオルと部屋着を物干しから外してベッドの上に放り、その横に腰を下ろした。
 同じ会社に勤務する、高齢の運転手のひとりに息子と会って欲しいと言われたらしい。それまでも冗談半分で縁談じみた会話が交わされることはあったというから、妹にとってそれはまたかという感じのことだった。
 聞き流していくうちに、その息子が婚活に失敗し続けている五十前の男性であることを知らされた。絢乃ちゃんだったらうまくやってくれるんじゃないかと思って、と。
 首から両腕にびっしり鳥肌を立てて帰ってきたから何かと思った、と母は言った。妹はそのまま二時間風呂場にこもって、茹でたように全身真っ赤になって出てきたらしい。そして自ら取り寄せて冷凍庫の底に並べている、好物のメロンアイスをふたつ続けて黙々と食べた。
「ひどいな」
「あの子、ちょっと大人しすぎるからね」
 絢乃は口数こそ多くないが、気が弱い、という性格でもない。話しかければきちんと答えるし、同じ年齢の恋人がいた時期もあったはずだ。今はどうか知らないけれど。

「で、話っていうのは?」
 ひとしきり母が話し終えたのを確認してから、僕は切り出した。
 母は用心深く声音を落ち着けた。それだけどね、と。
「やっぱり、療養と検査のために数日間入院しましょうって」
「――そう」
 返事に感情がこもりすぎないように、僕も慎重に答える。

 母が病状を説明し始めたので、キッチンに向かった。
 冷蔵庫の扉に付いているホワイトボード用のペンを手にして、上部の冷凍庫の扉へ直接書いていく。腫瘍マーカー、小腸、精密検査。
「入院先は?」
「総合病院。紹介状も書いてもらって」
 そっか、と繰り返した。母は、ええ、と頷いたようだった。
「近いうちに、一度帰る」
「頼める?」
「さすがに、これは仕方ないよ」
 自分の口から、仕方ない、という言葉が出てきて驚いた。続けて思う。仕方ない。でも何に対して?
 母はやや詰まったような声で相槌を打った。そう、ね。


 高校を卒業した春、僕は都内にある小さな語学学校に入学していた。基本的には通いで、それが適わない日は友人の家に泊まるという話で両親を納得させたものの、実際に実家からその学校に通っていた期間は三か月もなかったはずだ。
 上京した高校時代からの友人やバイト仲間の家、当時付き合っていた彼女の部屋を転々としているうちに、僕は実家にはほとんど戻らなくなっていた。二年目には学生会館に部屋を借り、成人すると同時に初めて海を渡った。トロントのはずれにある日本料理屋で働き、オンタリオ湖を眺めながら毎日何時間も歩いた。ほとんどあてもなく、そこらにいる人々と拙い英会話を繰り返しながら。
 そんな道を選んだ僕のことを、生まれてから一度も地元を出ることがなかった父は親族にこう繰り返していたらしい。
 頭が悪いわけじゃないからって、けっこう期待して育ててきたのにな。いいところまで行ったのに、裏切られちゃったよ。

「あのね、亮太」
 母は少し迷った上で、静かに切り出した。正しくは、そうしようとした。
 笑って、続きを拒んだ。
「わかってるから、言わんで」
 冗談の空気を少しだけ織り交ぜて、そう答えた。
 それなりに人と交流して生きていれば、還暦過ぎの父親が何らかの病気で入院するのはそう珍しいことじゃない。どこででも起きていることなのだ、病も、事故も、家族の不仲も不調和も。
 母は渋いような声を出したものの、先ほどと同じ台詞を繰り返した。そうね。
 気を取り直して、僕は母に帰省の日を告げた。

 電話を切ると同時に、どっと疲れた、と思った。
 母や妹とのあいだに、わだかまりはない。どちらかと言えば陽気な子供だったし、母と妹を笑わせるのも好きだった。それなりに痛手を負った記憶もあるけれど、小学校から高校までの卒業アルバムに映っている自分の姿はそこそこ充実した子供のそれだったはずだ。
「――死ぬのかな」
 口に出してみたのは、その一言を実際に耳から入れて反応を確かめたかったからかもしれない。
 スマートフォンを手に、しばらくそこで感情が動くか待った。それはさすがに嫌だ、とか、してきたことの結果だろ、とか、そういう気持ちが出てくるかと思ったが、静かなままだった。
 少し前から、こうなのだ。一通り湧いてしまったのか、湧き尽くしてしまったのか、これといった強い感情が自分の中に見当たらない。

03-2

 店主の手によってすっかり改装されたその場所は、ギャラリー&フリースペース、という類の店舗になっていた。ささくれ立っていた窓辺の木枠は補修されていて、濃い灰色に塗り替えられたそれが灰白色の建物を引き締めている。内部の壁にはモールディング(というらしい)が施されていた。年齢や好みを問わず、幅広く受け容れられる色合いに仕上がっていた。
「あんなにボロだったのに、見違えたな」
「俺の目に狂いはなかった」
 従兄は、まあざっとこんなもんです、と僕の前で短い口笛を吹いた。考えていた以上にうまくまとまったらしい。
「さっそく、近所に宣伝かけてきた。フォロワーも順調に増えてるし」
 スマートフォンの画面を、僕に向かって誇らしげに突き出してくる。
 建物の奥にある勝手口を出た先には小さな庭があるらしい。そこに小さな遊具を置いて、子供達が遊べるようにもするつもりだと言っていた。どうせならとことんやりたい、と。
「あの印刷機は?」
「二階で使うよ」
 裕道の頭の中では、すでにそれも動き出しているようだ。
 レンタルでもしたのだろうか、店舗内にはすでに二つの長テーブルが置かれ、厚手のテーブルクロスがかけられていた。ケータリング業者に任せるつもりでいたものの、イタリアンレストランを営んでいる友達がデリバリーを申し出てくれたらしい。オープニングパーティは今日の夜だ。

「思い切ったよなあ」
 開店祝いの花が、すでにいくつも届いていた。公子おばさんからも来てるよ、と言われてカウンターに目をやると、紫から水色の花を中心にして作られたアレンジメントフラワーが置かれているのが見えた。
「まあ、正直奥さんの理解と経済力のおかげなんだよね」
 裕道の奥さんはいわゆるバリキャリというタイプの女性だ。生命力にあふれていて、仕事が最大の趣味だと言い切る人らしい。出会った時から裕道にぞっこんで、付き合って半年後には従兄に黙って頭の中で結婚式のプランを練っていたと以前共に食事をした日に教えられた。彼が仕事中に指を損傷したと知った時は、真っ青な顔で病院に飛んできたらしい。
 ベッドの中で、従兄は彼女を落ち着かせようとゆっくり喋った。何てことない、命には関わりだってないんだから大丈夫だ、と。パイプ椅子に座った奥さんは、それでも二時間近くしくしくと泣き続けたと言っていた。鉄の女って感じだったんだけどな、あんなに泣くとは思わなかった、とも。
 もうあんなに大きな機械の中で仕事をするのは辞めて、と懇願されたものの、就職してからずっと製造の現場に生きてきた従兄にとって別業種への転職は気が進まなかったようだ。ずるずると答えを保留にしているところで、伊丹の空き家の話が入って来たらしい。
「というわけでね、十八時からゲスト来るんで。本日はパーティホストの一員、頼みます」
 どこから手に入れてきたのか、黒のベストを手渡される。フォーマル用のシャツとスラックス持ってきて、と言っていた理由が理解できた。
 了解、と答えて、着替えができる場所を従兄に尋ねた。

 元々裕道の交友関係は謎が多かったが、それを改めて感じさせる一夜になった。
 仕事仲間、趣味の友達に、DIYを習った大工の友達、今後の取引先になるだろう相手や、前もって営業をしていた利用者見込みのお客(見学ついでにどうぞとSNSで声をかけたらしい)で、そう広くない店内はけっこうな賑わいを見せていた。
 両隣の建物も、ここと同じように放置されているらしい。右側は近所の業者が物置として使っていて、左側は閉め切られた空き家だ。多くの人が出入りしても、咎められることはないだろう。 
 僕は従兄に命じられた通り、テーブルの上に飲み物と軽食を用意して客にそれをすすめ、空いたグラスや食器をまとめて歩き回っていた。

 中上さんがやって来たのは、十九時を過ぎたところだった。
 想像していたよりも多くの人に驚いたのだろう。彼女は店の前で立ち止まって、中に入るのをややためらったみたいに見えた。
 黒の、セットアップというのだろうか。上下が同じ素材のシンプルな出で立ちで、真珠のような飾りのついた小さなバッグを斜めにかけていた。華美なものではなかったが、彼女らしいという感じがした。

 声をかけに行くか迷っているところで、彼女は僕に気が付いた。
 あ、という顔をして、それから目だけでわずかに笑った。

「良かった、知ってる方がいて」
 中上さんはひっそりと近づいてきて、僕を見上げて微笑んだ。
 知ってる方。もうそういう間柄になったのか、と思ってしまう。
「こんばんは、堀井さん。先日は、本当にありがとうございました」
 前回よりもずっと顔色が良かった。唇がつやつやとしているのは、そういう口紅を使っているからだろうけれど。
 いえ、と何とか口にできていた。彼女と正面から向かい合ってしまうと、どうしてか言葉に詰まってしまう。
「――もう、体調はいいですか」
「はい、おかげさまで」
 中上さんは、若干困ったような笑みを浮かべている。
「あんなに色々していただいて――重かったですよね、わたし」
「いえ、全然」
 抱き上げて運んでしまったことを思い出して、微妙に声がうわずってしまった。彼女の腰のあたりの感触が、突然腕に戻って来たような気がした。
 裕道はまだ談笑している人々の中にいる。先ほどから挨拶に飛び回っているから、すぐにこちらに流れてくることはないだろう。
 僕は中上さんをテーブルまで案内し、数種類あるドリンクのどれを飲むか尋ねた。アルコールは避けたいと言っていたので、カットフルーツを入れたノンアルコールワインを一杯すすめた。彼女はそれを少し目を大きくして受け取って――これ、もしかして堀井さんが作ったんですかと小さな声で僕に尋ねた。僕はもちろん頷いた――小さくグラスを傾けた。
「美味しい。それにこれ、メロンが星の型だ。これも自分で?」
「従兄の人使いが荒くて」
 内緒話のように口元に手を添えて告げると、彼女は肩をすくめながら笑った。
 中上さんは、何をしても、何を言ってもどこかで新鮮さを感じているような反応をする。

 テーブルの前に別の客人が付くと、彼女は中を一周見学してきますと言ってそこを離れた。先ほどよりも少しリラックスしたらしい。改装された壁や建具、貼りだされている利用案内やメニューを楽しげに眺めているのが遠目に見えた。
「うまいことやってたな」
 忙しそうに滑り込んできた裕道が、ミネラルウォーターを口に流し込んでから言った。そうでもない、としらを切ったが、酒も入っているせいか話は通じそうになかった。人が集まってすぐにした挨拶では緊張した様子だったけれど、すでに馴染みの人達の中で冗談が言い合えるくらいにはなっているようだ。これも縁だからなどと言いながら、知り合い同士を紹介していた。

 店を一周して戻って来た中上さんが、裕道に声をかけた。
「開店おめでとう。いい仕上がりになったね」
「おお、ありがとう」
 裕道はふざけたように姿勢を正し、改まって頭を下げた。
「そうだ、昼間お祝い届いたよ。あれ、すごい欲しかったんだ」
 会計用らしい、真鍮製のマネートレイと、レジ脇に置くメモ用のホルダーをくれたのだという。改装中も何度か足を運んでいたらしい中上さんは、従兄のイメージしていた雰囲気にぴったりのものを選んでくれたらしい。
「大したものじゃないけど」
「いや、嬉しいよ。なかなか細部まで気、まわらなくて」
 少し恥じるように、従兄は後頭部に右手を回している。
「窓の色、やっぱり茶系にしなくて良かったね」
「でしょー? 反対派が多かったから心配だったんだよな。でも、押し切って良かった」
 僕のほうを見て、
「窓枠の色さ、家族には暗めの金色がいいって言われてたんだよ。でもそれじゃちょっと女性っぽすぎるから、もう少し落ち着いた色にしたいって思ってて。たまたまその日ちいちゃん来てくれたから、相談したんだ」
「へえ」
「完全に黒だと締めすぎだから、つや消しの墨黒とかチャコールみたいな色はどうって言ったんです」
 中上さんが高い声で補足した。
「正解でしたね」
 あえて感情を込めて、僕は彼女だけを褒めた。
「ちょっと亮太、褒めるなら俺にも言ってよ」
「何? 言い方が気色悪くて聞こえなかった」
 わざと甘えたような声で称賛を求めてきた従兄に、軽く突っぱねるように言い返す。僕達にとっては、お約束みたいなやりとりだ。中上さんは、びっくりしながらもどこかで笑うのを我慢しているように見えた。
 裕道はひでえな、と苦笑してから、小さなテーブルに重ねてあるリーフレットが中上さんの制作物であることを告げた。店の雰囲気とよく合った、シンプルで品のあるものだった。従兄は彼女の仕事を称賛し、中上さんは謙遜したように首を横に振った。

「そうだ、そろそろ裏でお子様に菓子配らないと」
 裏にある小さな庭でポップコーンとマシュマロを焼く用意をしてあるのを思い出して、そうだった、と答える。
 中上さんは裕道のほうを見て、
「何か、手伝う?」
「ゲストにそんなこと、って言いたいんだけど、正直助かるな。こいつに全部教えておいたから、手貸してくれる?」
 もちろん、と中上さんは頷いた。従兄は悪いねと彼女に告げながらも、帰りはちゃんと亮太に送らせるからさ、と続けた。彼女はそんなにしてくれなくていいよと遠慮し、僕のほうを何をすべきか尋ねるような目で見上げた。

「とりあえず、裏行きましょう。廊下、まだ少し暗いです。気を付けてついてきてください」
「わかりました」
「五分後くらいにできるから、そしたらこっちで案内して」
 従兄に告げる。彼は短く、りょ、と答えた。
 そして僕は目配せしている従兄に気付かないふりをしながら、彼女を庭に向かって誘導した。

04-1

04-1

 宴の後の雰囲気はけっこう好きだ、といつも思う。
 開け放った扉のむこうから吹いてくる風に、室内にこもっていたアルコールの匂いはほとんど飛ばされていた。白熱球のあかりに照らされた室内の床には、紙製のフォークやクラッカーの中身、スナック類の破片がちらほらと落ちている。
 従兄の店のオープニングパーティはささやかな規模ではあったものの盛況で、これといったトラブルもなくお開きになっていた。

「良かったですね。お菓子、好評で」
 中上さんがコースター代わりに使っていたペーパーナプキンをそっと拾い上げながら言った。ゆったりと、静かに動く人だ。
 手伝ってくれたことへの礼を告げながら、僕はT字ほうきを使って床のごみを部屋の隅へと集めていた。すでに飲み物の空いた容器は裏へとまとめたし、テーブルも畳んでいる。
 裏庭で作ったポップコーンと焼きマシュマロは、大人の話に飽き始めていた子供達に思いのほか喜ばれた。裏庭の端で簡単に作ったそれを、中上さんは裕道の用意した紙コップいっぱいに詰めて配ってくれた。子供の前で大きくテンションが変わったり、元気になるという人ではないらしい。彼女は小さな子供相手でも物静かな大人のままだった。
 裕道はまだ店の外で人と話しているようだ。
 ほうきをつかって大きなものはまとめられたものの、何となく満足できずに僕は奥から小型の掃除機を引っ張り出した。中上さんは僕を見ながら、ずいぶん早く片付くんですねと驚いている。すでにボウタイもシャツのボタンも外しているが、さっさと終わらせて着替えたかった。
 外でにぎやかなやりとりをしていた裕道は、そのまま最後の客人の車を見送っている。車を誘導し、去っていくそれに向かって深く頭を下げているのが見えた。

「終わったああ」
 店舗に戻ってくるなりそう言い、彼は子供のように万歳をした。
 僕の勧めたスツールに腰かけて足先を小さく揺らしていた中上さんは、従兄を労わるようにお疲れ様、と笑った。カジュアルなお披露目会に近いパーティだったものの、準備にはやはり数日間が必要だったらしい。
「こんな時間まで付き合わせて悪かったね」
「わたしは何もしてないから」
「しなくていいんだって。力仕事やれるやつ、わざわざ雇ったんだから」
 僕のほうに親指を向けるので、高いよ、と答える。
 従兄は機嫌よさげにわかってるって、とジェスチャーを送ってきた。そのまま、さっきまで氷水を張った桶で冷やしていた残りの飲み物に手を伸ばす。カウンターにそれを並べて、中上さんにどれがいい? と尋ねている。
「もうお腹いっぱいだから」
「じゃあ持って帰りなよ。嫌いじゃないでしょ」
 まだ濡れている缶やペットボトルを、裕道は手拭きを使って簡単に拭い始めた。

「裕道、あとは」
 掃除機をかけ終えて奥にしまってから尋ねると、彼は少し考えたような表情を見せた。
「とりあえず、今日はここまででいいかな。最後に中上さん送ってくれる?」
 答えを待つ前に、彼はスラックスのポケットに手を入れている。
 中上さんははっとしたように背筋を伸ばした。
「只野くん、わたし普通に帰れるから」
「いいんだって。遅くまで残ってくれたし、帰りに亮太にうちの奥さん拾ってもらうことになってるから、ついでついで」
 そんな話は全然聞いていないので、従兄の作り話だ。ほとんど投げるように手渡してきたキーを受け取る。
 裕道はカウンターの中に押し込んでいたビニール袋の束から一枚を引っ張り出すと、手早く飲み物を袋の中に詰め込んだ。また相談乗って欲しいんだよ、俺やっぱりセンスって言われると自信がなくて、などとぼやいている。中上さんは押されたように頷いているみたいだった。
「場所、亮太に教えてやってくれる?」
 裕道は缶とペットボトルで形の変わったビニール袋を中上さんに手渡した。

 準備に追われていたらしい従兄の車の後部座席は、なかなか悲惨なことになっていた。
 中上さんはそれに気付いていないふりをしようとしたけれど、やはり車内の様子に面食らっているのが伝わってきてしまう。
「僕も同じ気持ちですけど――見なかったことにしてやってもらえますか」
 横に並んでそう告げると、彼女は目を大きくしたまま頷いた。

 助手席に腰を下ろした中上さんは、何となく所在なげに見えた。受け答えもきちんとしているし、髪型も服装も洗練された感じなのに、奥のほうにいる本人がそもそもどこか頼りないのだ。外に見せようとしている顔に、素があまり追いついていない。
 カーナビに触れながら、僕は彼女の家のおおよその所在地を尋ねた。
 いくら裕道の従弟だとはいえ、よく知りもしない男に自宅の場所をそのまま教えてしまうのは怖いかもしれない。近所でもいいです、と付け加えたけれど、彼女はあまり気にしていないように自宅の場所を僕に教えてくれた。
 大きな河川をまたいだ隣の市の、駅から十分ほど離れた場所にある賃貸に住んでいるらしい。住所で入力するよりも隣にある建物で検索したほうが早いと言うので、そうした。ここからは二十分もかからない町だったけれど、県境を超えた先だ。僕の借りているアパートからもそう遠くなかった。
「ちょっと急な坂を上ったところなんですけど、小さなチャペルがあって」
「ええと、結婚式場?」
 目的地に設定してから、運転席の仕様を確認しながら尋ねた。
「小さい式場がついてるレストラン、って感じです」
「じゃあ、人の出入りが多いんじゃないですか」
「うちはエントランスと駐車場とは逆側なので、そこまでは。でもお休みの日に適当な服装で家を出て、ドレスアップした人とすれ違うの、最初は戸惑いました」
 苦笑しながら彼女は言った。つられて何となく笑ってしまう。
 週末には結婚式が行われることが多いらしく、音楽や歌声が漏れ聞こえて来る日もあると言う。すっかりパッヘルベルの『カノン』が頭の中に入ってしまって、たまに外を歩きながら頭の中で口ずさんでしまう、とも。

 ひとしきりそのレストランウェディングについて話し終えると、彼女は静かに僕のほうを見た。 
「堀井さんのことも、何かお話してください」
 高くささやくような声で、彼女が言った。わたしの話ばかりでは、という意味だったのだとは思うけれど、言葉にしたぶんだけを抜き取ってしまいつい返答に詰まる。
「旅がお好きだって」
「裕道が言ってました?」
「色々な国に行ってるから、聞いてみると面白いよって」
 わが従兄ながら周到な奴だ。そうですね、と答えた。
「中高の成績で、英語だけ飛びぬけて良かったんです」
「うらやましい。わたし全然だめだった」
 小さな声で、彼女は言った。
「映画ばっかり観てたせいかなって、自分では思ってるんですけど」
「映画?」
「地元、何もないところで。暇つぶしに、近所のレンタルショップの洋画を片っ端から借りていったんです」
 好みのジャンルも監督もわからないうちは、何でも観ようと思っていたのだ。自宅のリビングに長居することのなかった僕には、自室でそうするだけの時間が充分にあった。おかげで、どのレンタルショップにも置いてあるくらいの定番だけれど実際は観たことがない、という映画が僕にはあまりない。
 中上さんは、隣で不思議そうな瞬きをしながら頷いている。
「小さい店だったから、字幕版しか選べないのも多くて。それが良かったのかもしれないですね」
 小遣いをレンタルに費やすようになってから、リスニングの成績が突然上がった。担任教師が驚いたのは、それまでの僕にはいわゆる得意科目というものがなかったからだった。
 選択肢が広がったような、風穴が開いたような感覚を覚えた。これをもう少しまともに使いこなせるようになったなら、生きていく場所の選択肢もぐんと増えるのか、と。頭の中でばらばらだったものが、ひとつに繋がったような気がした瞬間だった。
 それまでは、あの狭く退屈な田舎町と映画の舞台になっていたあらゆる外国の街が繋がっていると思うことはなかった。手続きを踏んで頭と身体を動かしていけば実は辿りつける場所だなんて、言われてもぴんとこない話だった。
 ここだけじゃない、遠くまで行けるかもしれない。
 わずかな希望みたいに思えたそれを、行動に移してみたくなったのだった。
 
「行動力があるんですね」
 驚きの入った、それでもどこか優しげな響きで彼女が言う。
「いや、けっこうびびりながらですよ。僕全然、自信があるほうじゃないし」
「見えないです」
「見えないようにしてるんです。偉そうに生きてたいんで」
 ちょっと茶化して言った。実際は、はったり半分で何とか乗り切ってきたことばかりな気がしていた。一番奥にいる自分なんて、おそろしく臆病でちっぽけだ。
「やりたいって思ってすぐに行動できるやつが羨ましいって思うこと、いっぱいありますよ」
 どこにだって、そういうやつはいたような気がする。
 普通にしているようで満たされていて、静かな、本人すら気付いていないような自信や安定感があって、していることと思っていることに矛盾が生じにくい人物。小さな失敗くらいで自らの価値が揺らぐこともない。ただゼロに戻るだけに見えて、そのゼロがやはり周囲より遥かに豊かなのがわかる人物が。
「僕はけっこう、何をするにも怖いと引き換えです」
 ぽろっと出てしまった言葉に、自分でも驚いた。
 中上さんと話していると、当たり前のように言葉が本質のほうに向かっていってしまう。見栄を張りたいはずの相手の前で、それが剥がれ落ちてしまう。どうして普段から隠したいと思っている場所を自ら晒してしまっているのか、自分でもわからなかった。

「わたしも、断然そっち側です」
 彼女は苦笑しながら言った。少しだけ、自嘲するような響きもあった気がした。
「こっちに行きたいって思っても同じくらい怖かったりして、けっこうせめぎ合っちゃう」
 わかるな、と思った。
 あそこで立ち止まらなければ良かったのに、と思うことはいくつもある。
 うやむやにして辞めてしまったこと、本心ではなかったのに引き返してしまったこと、諦めてしまったことが。

 でも、とこぼした後に、彼女はしんと黙った。
 続きを口にするか、迷っていたのかもしれない。
「その怖いで止まっちゃうと、他のことしても何かが止まったままな気がして。だから騙し騙し行くしかないっていうか。堀井さんの言う通り、本当に引き換えです」
 彼女は言った。仕方ないな、というような、その仕組みを受け容れるしか方法がないとでも思っていそうな物言いだった。
 交差点の信号が青に変わる。前の車が動くまで、少しの間があった。
 何かを考えていたらしい中上さんは、わずかに陽気な声を出した。
「堀井さんと話してると、どんどん奥のほうにいっちゃいますね」
「変だな、ふたりとも怖がりなのに」
 僕のふざけた返答に、鈴を振るような声で彼女は笑っている。
 普段は蓋をしているところに、この人といると自然と進んで行ってしまうような気がする。
 互いにそれを不思議には思わないくらい、当たり前のことみたいに。


 中上さんの住んでいる家のあたりは住所に丘の文字が入っていて、文字通りゆるやかな坂が続いている台地になっていた。
 住宅が集まる一帯のさらに奥のほうに、細い坂の入り口があった。交通量も多くなさそうな、それまでよりも傾斜が強い坂だ。大きく右カーブの形をしていて、彼女の住居はその上にあるらしい。
 車がなかったら暮らしにくいだろうと思ってさりげなく尋ねると、中古の軽自動車を一台所有していて、場所によってはそれで出かけていると彼女は言った。
「車があったら、車移動ばかりになりません?」
 質問を重ねた僕に、中上さんは「あんまり共感されないんですけど」という前置きをしてから答えた。
「公共の乗り物で移動するのも好きなんです。任せっぱなしにできるし」
「任せっぱなし」
「何も考えないで、ぼうっとバスに乗ってたい時とか――ない、ですよね」
 男性には今まで通じたことがあまりないんです、と彼女は笑った。
「気持ちは、わかる気もします」
 彼女の笑顔につられつつ、答えた。
「でも――正直僕も、自分で運転したほうが気楽ですね。時間も気にしなくていいし」
 口にしながら、少しだけ楽な気分になった。一定の緊張を感じながらも、静かに続く会話が心地よく思えた。

 最後の傾斜に、アクセルを強く踏んだ。
 反対側からも同じように登れるらしい、アルファベットのCを描いたような坂の頂上に、チャペルレストランと集合住宅がひとつ並んで建っていた。
 見晴らしが自慢になりそうな、イクイネン、という名前の小さなチャペルつきレストランと、広めにとられた駐車場。目隠しの代わりに植えたような背の高い樹が並んでいた。
「知らなかったな、こんな高いところがあったなんて」
 周囲一帯を見渡せる、広い場所だった。レストランと駐車場のまわりは舗装も整備もされていたが、少し離れたところは砂利が敷かれ雑木林がすぐそこまで迫っている。

 この裏です、と言われてぐるりと建物を迂回した。

 建物の前には『マグノリアハイツ』と書かれている看板が立っていた。
 アパートとマンションの境をどちらにも超えられなかったような雰囲気のある、L字型をした三階建ての建物だった。手前に正方形の庭があり、そこにも小ぶりの二本の樹が植えられている。敷地が広く取られていて、反対側にも何台分もの駐車場があるらしい。
 車のライトによって照らされたその樹を見ながら、
「僕植物詳しくないんですけど、あれがマグノリアってことで合ってます?」
 ゆっくりと停車させながら尋ねると、中上さんは頷いた。ハクモクレン、今年はもう終わっちゃったけどきれいですよ、と。
「こんなところまで送ってくださって、ありがとうございました。お話、とっても楽しかった」
 彼女は僕のほうを見て、控えめながらもにっこりと笑った。
 すみません、でも、ごめんなさい、でもなかったその一言が、胸にすっと入ってきた気がした。

 彼女が車を降りて立ち去ってしまう絵が頭に浮かぶ。
 それに抵抗するように、僕は口をひらいていた。
「あの、中上さん」

04-2

 声が途端に低くなってしまったことに、彼女もきっと驚いたはずだ。
 目の表情に、わずかに緊張の色が重なる。

「――また、俺と会ってもらえませんか」

 いかにも絞り出したような声だ、と自分に対して思ってしまう。
 それでも、ここで別れてやってくるかもわからない次まで待てる気がしなかった。
 すでに車を降りる準備をしていた中上さんは、肩から掛けていた小さなパーティバッグのチェーンに手を添えているところだった。僕のほうを見て、驚いたような顔をしている。

 返事もないのにこれはだめだと頭で確かに思っているのに、気付いた時には彼女の頬に向かって右手を伸ばしていた。
 僕のほうを振り向くときに左目にかかったサイドの髪に、指先が触れる。
 やわらかい、光をそっと吸っては放つような、あかるいベージュの――ああ、彼女の髪だ、と思った。

 僕が髪をよけた感触にはっとしたように、彼女は鋭く息を呑んだ。
 小さく細い、ひゅっという音が車内に響く。
 中上さんは、黙って首を後ろに引いた。
 指先から、触れていた髪がするりと抜ける。

 ごめんなさい、と言ったのは、まったく同じタイミングでのことだった。
 僕は勝手な接触に、そして彼女は、やはりそれを拒むためだっただろうか。
 数秒間、沈黙が続いた。

「ごめんなさい」
「いえ、わたしこそ」

 彼女が静かに俯いた。襟足に隠れていた首筋が覗き、顔が隠れる。表情が見えなくなると、姿が途端に悲しげに映ってしまう。
 身体の内側からのぼってくる後悔をどうにか押しとどめていると、中上さんは小さな声で続けた。
「まだ、わたし堀井さんのこと良く知らないから」
 言い訳しているみたいな響きだ。小さな、どこかおどおどしたような声。まるでこんな迫られ方をされたのは初めてだとでも言うような。
 彼女が自らの心の揺れをどうにかして元に戻そうとしているのが、手に取るように伝わってくる。

 中上さんは、小さく震える声で続けた。
「わたし、堀井さんの年齢も知らないし」
「二十六」
 畳みかけるように言い訳を続けた彼女の言葉に横入りして即答すると、中上さんは僕のほうをもう一度見上げた。
 再び視界に入った顔は泣いてこそいなかったものの、やはり困惑に揺れていた。

「二十六です」
 彼女が口をひらく前に、僕は繰り返していた。
「誕生日は九月十二日、群馬生まれで、血液型はBです。高校出てから語学の学校行って、成人してすぐにカナダで一年過ごしてます。今はダンス教室の裏方と、たまに登録制のバイトしてて、だいたい半年に一回海外に放浪しに行ってます」
 怖がらせるつもりはなかったけれど、気づけばまくし立てていた。中上さんは、僕の言葉の勢いに飲まれたように目を大きくしている。
「中上さんみたいな人から見たら、まともな大人には見えないかもしれないですけど。でも生命力は強いです。何でもするし、そこそこ器用だし、力仕事もできます。あと何か聞きたいことありますか。何でも答える」
 早口で、僕は言い切った。
 彼女はまだ、僕の発した言葉を理解することで精一杯みたいだった。

「裕道の店で見た時から、千紘さんのこと気になって」
 下の名前で呼んでしまったと思ったのは、すでに声に出してからのことだった。
 あの日、視界に入ってきた赤い傘を見て、覗き込みたいと思ったのだ。まだ見えないその中に、何か大事なものが隠れているような気がして。ふらふらと引き寄せられたあの店の入口で彼女が傘を下ろした瞬間、僕の身体の中に、何かが灯った。
「また裕道のところで偶然会うまで顔見られないなんて、俺ちょっと無理です」
 言葉に、恥ずかしいくらい熱がこもってきてしまう。彼女と出会ってからまだ半月くらいしか経っていないのに、腹のうちにこんなものが育っていたのかと他人事みたいに驚く。
 今までは、もっとうまくやっていたのに。
 どんなことになっても傷つかないような安全な場所に自分を置いて、注意深く反応を見ながら冗談交じりの好意を言葉で繰り返した。相手が気を許してくれた瞬間にするりとそこに入っていけば、そのまま関係が始まった。摩擦の少ない、それなりにうまいやりかたを覚えてきたつもりでいたのに。
 千紘さん相手には、その自分がどうしたって出てきてくれない。

 この人に、もっと話を聞いてほしい。
 大げさな感情移入も強い否定もない、この人の静かな理解と肯定の前で、今まで誰にも言えなかったこと、本当のことを喋りたい。
 不器用ながら日々を何とかまっすぐに生きようとしているような、静かに笑うこの人に、もっともっと触れていたい。
 手を伸ばして触れて引き寄せ、もっと近くでこっちを――僕のことを、見てほしい。

 千紘さんは、僕の話にわずかに傷ついたような顔をしていた。
 その傷がごく浅いものであることも、彼女の表情から伝わって来た。


「わたしだって、そんなにまともな大人じゃないです」
 彼女は僕を見上げて、淡い感じで微笑んだ。
「わたしのほうが、堀井さんより言いづらいことあるかもしれない」
 それでもいいとか悪いとか、そういうところまでいかないような、控えめな言い方だ。僕に理解を求めるつもりもない、受け容れて欲しいという期待も、きっとそんなに感じていない。たとえほんの少しそういう希望を持っていても、それをすぐに引っ込めることができるような。
「ほとんど家出みたいに、地元出てるし」
「そんなの」
 仕方ないと思える事情が世の中にあふれていることは、自分の周囲だけでもよく知っている。
「その後、三年くらい水商売もしてたし、ずっと不安定な生活してて。只野くんと同じ職場に入って、やっと何とか落ち着いて生活できるようになったくらいで」
 彼女は言った。
 エンジンを切った暗い車内で、ハイツの階段下にひとつだけあるわずかな灯りを受けながら。


「水商売」
 その単語が、頭の中に不自然な大きさで響いていた。
 強烈な違和感を覚えたのは、その類の職業に対して何らかの良からぬ印象があるということではなかった。
 失礼を大いに承知で、僕は思ってしまったのだ。
 この、見た目は都会的な感じのくせに本当は人一倍嘘が下手な人に、そんな仕事ができたのか?

 僕が自分の話に幻滅したと思ったのだろう。小さな声で、彼女は続けた。
「たぶん、堀井さんに見えてるわたしって、そういう感じじゃないですよね。だから――」
 もしもまたがあるなら、只野くんの繋がりだけにしませんか、という意味のことを続けようとしたのだと思う。

 僕は思わず彼女に尋ねていた。
「千紘さん、水商売なんて、できたの?」
 僕の頓狂な質問に、彼女はここで話し始めてから一番びっくりした顔をした。
「え?」
「あ、ごめんなさい」
 早口で謝ってから、言い訳がしたくなって再び口をひらく。
「聞いた限りでも、事情があってのことだってわかるんだけど――。あの、俺には千紘さんって、全然その手の駆け引きとかが上手じゃない人に見えるんだけど」
 僕の続けた無礼な言い訳に、彼女は驚いてぽかんとしていた。
 そう、こういうところがだ。相手の言うことやることにいちいち律儀に反応しすぎるところ、感じやすさ、動揺すると簡単に声が揺れてしまうところが。
「――できそうに、見えない?」
「全然」
 僕の答え方は大いにくだけた。
 彼女への気持ちを絞り出した上に思わぬ方向へと話が行ってしまったことで、何だか調子っぱずれな感じになってしまう。

 千紘さんは、少しのあいだ黙ってから気まずそうな顔をした。
「その、まだ十八前だったから」
「それ、たぶん何かしら違法ですよね」
 褒められたことではなくても、ない話じゃないことくらいは僕にだってわかっている。ついそう返してしまっただけだった。
 それでも、僕のした指摘に彼女はわかりやすくぎくりとした。
「だ、だって、十年以上前って、今より世の中のグレーゾーン広かったでしょう。十八になるまで、半年なかったし」
 だんだん小さくなるような声で、しどろもどろになっている。

 それくらいの年齢なら、もうそこにいるだけで充分か。
 容姿だけならそういう仕事も充分いけそうに見えただろう彼女のことを想像する。
 きれいな顔をしているのに自信なさげに初々しくて、何でも教えてやりたい男だらけだっただろう。
 未成年に最初からその手の完璧さを求める男なんてそう多くない。

 僕の考えに気づかずに、千紘さんは少しいじけたような声で続けた。
「でも、本当は働いてるあいだ、ずっと上手にできてなかった」
 ひとりごとのような響きだ。口にしながら、色々思い出してしまっていたのかもしれない。
「――そこが良かったのかもしれないよ」
「それ、ママにも言われた。あんなちゃんはこういう世界になじめそうにないところが武器だからって」
「あんなちゃん」
「源氏名」
 言いづらい経歴を口にしてしまったことで、彼女も気が緩んだのかもしれない。
 千紘さんは静かな声で、ぽつんと答えた。

「十七かあ」
 ハイツの周辺に、人や車は滅多に入って来なかった。
 僕はシートベルトを少し緩めて、そこで足を組んだ。千紘さんは気まずそうに、うん、と頷いている。
「実家に安心して居られない理由が、何かあったんですか」
 彼女は小さく頷いた。
「それで――何とか出て行きたくて、地元の不良みたいな友達に相談した、とか?」
「どうしてそこまでわかるんです」
「周囲にも、何人かいました」
 僕の返答を、彼女は黙って聞いている。

「千紘さんって、不良タイプじゃなかったでしょ」
「逆のほうです」
「あんまり、学校得意じゃなかったほうかな」
 僕にも、そういう友達がひとりいた。
 心も身体も繊細な感じで、一時期は学校に来ても保健室までしか入ることができなかった同級生だ。教室にいると息苦しいと、よく保健室で勉強していた。
 体育の時間に一度大きく膝を擦りむいてお世話になったことをきっかけに保健室に無駄に顔を出す生徒になった僕は、次第にその子とも気軽に話せる仲になっていった。堀井くんまた巡回? と少しあきれたような声で僕に告げて、夏休みの前には『TUGUMI』という小説を貸してくれた子。
 千紘さんは、ほんの少しだけその子と面影が重なる。

「もう、何でもお見通しみたい」
 千紘さんはくすくす笑った。
「ひとりだけ、友達にそういう子がいたんです。もともとはわたしと同じようなタイプの子だったんだけど、中学からちょっと荒れて。それで、地元のそういうグループに入って」
 言葉を強くしすぎないように気を付けているような、慎重な口調だった。
「その子にお願いして、先輩に話つけてもらって。十七歳の冬に」
「度胸ありますね」
「若かったから」
 彼女はもう一度笑った。そして、あ、年齢、と呟いた。
「堀井さんより、わたし三つ上です」
「見えないな、同じくらいかと思ってた」
「病気して、きっと色々出ていっちゃったんです。それまでの毒とか、アクとか。昔は、わたしもうちょっと性格きつかった」
 懐かしそうな、やさしげな響きだ。

「それから、ずっとご家族と会ってないんですか」
「いえ、今は連絡くらいはしてます。書置きも残してたし、その友達伝いに、無事も伝えてました」
 胸の中にいるその頃の自分を優しく見ているような表情で、彼女は答えた。

 淡々とした調子で話していたけれど、実際に経験してきたことは決して軽くなかっただろう。
 元々は内向的で人見知りも強かっただろう彼女が、信用できる人物かもわからず一か八かで他人を頼った。飛び出した先にあった、おそらくは順応するのに時間がかかっただろう暮らし。
 いきなり大人の世界に飛び込んで、右往左往して、でも後には引けなくて。
 何がそうさせたんだろう。
 何から、そんなに頼りない足取りで逃げ出さなくてはいけなかったのだろう。

「堀井さんと話してると、本当に終わらない」
 何度か手をかけようとして結局しなかったシートベルトに、彼女はようやくといった感じで手を伸ばした。高い金属音のあとに、それが外れる。
 今の千紘さんには、そういう経歴や背景の気配がまったく残っていなかった。身なりにも仕草にも、言葉の選び方にも。少し離れたところから見える彼女は、たとえ力強くはなくても自分らしさを大事にしながら自立した女性だ。
「でも、俺のことちょっとわかってくれました?」
 今度はふざけずに尋ねると、彼女は頷いた。

「何でもいいんです」
 さっき疾走感たっぷりに始めた自己紹介よりも少し抑えめに、でも同じ気持ちで続けた。
「デートしてとか、付き合ってくれとか、そういうんじゃなくていいです。でも何かさせてください。荷物持ちとか、暇つぶしとか愚痴聞いてとか、何でもいい」
 ポケットからスマートフォンを取り出す。
「繋がってて、会えたら、それでいいから」
 僕の言葉に、彼女はゆっくりと頷いた。
 そして小さなパーティバッグに手をかけると、おずおずとした仕草でそれをひらいて中からスマートフォンを取り出した。
 僕のより一回り小さな、レザー風のカバーがかけられたものだった。

 五月の夜、二十二時。マグノリアハイツ前。
 僕達はそこで、互いの連絡先を交換しあった。

05-1

05-1

 とはいえ、という言葉がふつふつと頭の中に立ち上る。
 炭酸の泡みたいに、ささやかながらも確かな刺激を伴って。

 とはいえ。
 こちらは二十代半ば、それなりに活動的な男子だ。
 健康体を持ち生命力がちょっとした自慢の若い男にとって、気になる異性がいつまでもふわふわときれいなところに留まっているわけがない。

 千紘さんと連絡先を交換した翌日から、彼女とのやりとりは始まった。
 昨夜は遅くまですみませんでした、という一言から始まった会話は、細く長く続いた。彼女は積極的に話しかけてくるような人ではなかったけれど、僕の送ったことに対して彼女らしい言葉遣いで返信をしてくれた。
 意識して観ていたわけではなさそうだったけれど、千紘さんは八十年代の映画の雰囲気が好きらしかった。以前に彼女が住んでいたアパートにはケーブルテレビが入っていて、毎日決まった時間に名作映画を放送し続けるチャンネルがあったらしい。何となく流しているうちに見入ってしまうこともしばしばあったと言っていた。
 あの頃のメグ・ライアンのこと、『ラ・ブーム』のソフィー・マルソー、寝起きの頭でぼんやりと眺めていたせいでタイトルが思い出せないという、クリント・イーストウッドの初期作品。僕に解説や補足を求める形で彼女はそれらの話題を振ってきた。
 自らの生活についてはあまり語らなかったけれど、彼女の目に映ってきたものに覚えがあることが嬉しかった。いつか同じものを、別の場所で見ていたことがある、と。
 深夜まで仕事をしている日もあるらしい千紘さんから届くメッセージは、小さな囁きみたいに思えた。ささやかで、少しだけ陽気な、何か静かで優しいものに。
 僕はマグノリアハイツの前で彼女に切願した通り、千紘さんとの個人的な繋がりと、互いがその気になれば顔を合わせることができる可能性と手段を手に入れたのだった。


 とはいえ、僕の生きている世界は彼女のそれよりもうちょっと生々しくできている。
 バイト帰りに立ち寄ったコンビニの雑誌コーナーや、スマートフォンで見ていたサイトについてくる広告、電車の向かいの列で無防備に組まれた女性の生脚。それらは今日も変わらず僕の前頭前野をノックしてくる。重ねたトランプを上から抑えつつゆっくりと横にずらしていくように、平常心の芯がずれ、煩悩が顔を出してしまう。悲しきかな性衝動。こいつが騒ぎ出すと、身体が彼女への気持ちをきれいなままにしておいてくれない。
 千紘さんとのぽつぽつと続く会話から少し離れながらも、平行して僕はそういったものに翻弄されるようになっていた。

 あー。
 カードがずれる度に、頭の中でそういう声が出る。今は出番じゃないぞ、とその気分を引っ込めながら、心の中で彼女に謝る。ごめん、そんなつもりじゃないんだ、と。自らの煩悩によって彼女を汚してしまわないように、不埒な自分をどうにか抑え込もうとする。
 彼女との会話は単純に楽しいものだったし、手すら握ったことがない相手にこんな願望を抱くのはいけないことだ。全くもって正しくない。確かにそう思っているのに、本音の本音は真逆だったりするから身体というものはややこしい。
 触りたい人が、久々にできてしまったのだ。少し前までは密かで心愉しい景色でしかなかったものたちが、今は僕の内で生まれ続ける欲求を容赦なく増幅してくる。まるで、活性化しつつある本能を意地悪くからかうみたいに。
 慣れと経験と折り合いのつけ方を多少は学んだはずなのに、今日も僕の中に積まれたカードはちょっとした刺激でずれ続けていた。このずれに翻弄され、時には自ら興じ、ひとしきり耽ってからばらばらに散らばった理性を何でもない顔をしてかきあつめている。そうするしか手立てがない、何とも情けない毎日だ。
 彼女には決して言えない内容で頭の中を乱しては、取り戻した理性をまとめてトントンと形を整え、いつもの自分に戻ってくるだけの――。

 たとえば一日を終えて眠りに落ちる前の十分間、右手の指先をこすり合わせながら、僕はごく自然に彼女の髪の感触を思い出してしまう。
 あんなにあかるい色にカラーリングしているのに、千紘さんの髪はしっとりと潤っていた。なめらかなその感触を、僕はたびたび記憶の中に潜っては繰り返す。
 街中で似た姿の人を見かけたとき、彼女から届いたメッセージを読んだあと、それからダンススクールにいる時間、ふと廊下から外を眺めながらも。

 もう一度、あの髪に触れたい。
 髪だけじゃない、あの小さい頭に、やわらかそうな頬や、あの首筋に。
 強くそう思うのに、そこに行きつくための筋道にもやがかかってしまっていた。今いる場所からどうやってそこを目指したらいいものなのか、まるでわからなかった。
 僕の中にある、ここまでそれなりにうまくやってきたつもりのセクシュアリティ。
 それは今、十五歳の男子のように迷走してすっかり滑らかさを失っていた。適切なところで適切に展開しそうな気配が、まるでなかった。彼女の雰囲気がそうさせるのか、それとも病後の弱った身体に抱く欲望としては乱暴に思えてしまうからだろうか。

 そのくせ、欲望は変わらずふつふつと日常の中に生まれてくる。
 あの髪、あの肌、あの首筋。
 まだ知らない彼女の声、肌の感触、それから僕を見上げる視線――。
 
 思い描けばじっと熱くなる部分が確かにあるのに、その出口が見つからずに身体の中を巡ってしまう。悶々としているところに新しい刺激が加わり、想像と共に欲望が増幅する。
 五月のさわやかな風を浴びながらも、僕の身体の中は八月みたいな熱を帯びた。
 度々、腹や胸がその熱によって疼きながら焦げた。


「恋煩い」
 高橋麻子がバインダーをひらきながらぽつりと放った一言に、一瞬心臓が揺れた気がした。事務室のスチール棚から、どこかにしまいこんでしまったらしい去年の発表会会場との契約書控えを探しているところだった。
 本心が表に出ないように、なにが、と尋ねる。
「してるよね、今」
 こちらを見ることもなく、麻子は続けた。相手の状態を言い当てたと得意げになっているというわけでもなく、実際は大して興味もない天気の話をするくらいごく自然に。
 呆気に取られて、僕は言葉を失っていた。僕達はこのスクールの中でも本来の上下関係を重要視しない普段からごく自然に無礼講なふたり組だが、そういう話をしたことは今まであまりなかった。

 いつも通りの空気にならないことに、麻子は小さく笑った。
「普段は嘘みたいにポーカーフェイスなのに、意外にわかりやすいんだ」
 そう言って、一度だけ僕のほうを見上げた。再び手にしたバインダーに視線を落としながら、まあホリーはポーカーフェイスっていうかジョーカーフェイスだよね、などと呟いている。
 最近、ここの経営者である喜和子先生の物忘れが増えてきた。以前のように前年のことがさっと出てこない、と言う。一度運営に関する書類をきちんとまとめておかないと、と叔母と姪で話しているところらしい。
 僕も同じように棚の中からファイルを持てるだけ取り出し、まとめて机の上に移動した。

「――通用しないんだよ。そういうのが、全然」
 さりげない返答になるように告げたつもりだったけれど、唇の先が尖ってしまう。
「今までのやり方、もう全部だめ」
 麻子は面白そうに、ふふ、と笑ったみたいだった。
「かわいそー」
「ほんとだよ、会うたびに何かしら恰好つかねえことして。恥ばっかりかいてる」
 二メートルほど離れた場所にいる相手と、目を合わさないまま話し続ける。誰かが淹れたらしい玄米茶とコーヒーの香りが事務室の中にまだうっすらと漂っている。
 麻子はうんうんと頷いているみたいだった。わかるわかる、みたいな。わかるのかよ、と尋ねたくなったが口にはしなかった。快活で面倒見もよく、申し分ない肉体美の持ち主である彼女にその手の経験が少ないとも思えない。殴られるから言わないけれど。

「ねえ。男って、やっぱり根元のほうは誰でも純情なもんなの?」
「それは、女って誰でも底の底では清純なのって訊くのと同じじゃない?」
 言い返すと、麻子は少し考えたあとにふは、と笑った。愚問か、と自分に言うみたいに呟く。
「でも、そんなつもりなかったのに妙に初心なところが出る相手っていない?」
「今、まさにそんな感じ」
 思い当たる節がありすぎて、ファイルをめくる手が若干乱雑になってしまう。音楽関係の権利書と保証書の貼り付けられた大型扇風機の説明書が同じクリアポケットに押し込んであったりして、本当にどこに何があるのか見当もつかない。
 麻子は僕の答えにへえ、と声をあげた。
「楽しそうだね」
「ないない。俺、その辺もうちょっとうまい男のつもりでいたんだから」
 全然駆け引きまで持ち込めないんだもん、とぼやいてみる。
「駆け引き、できないの?」
「そういうことしたら一発アウトな感じしかしない」
 だからこそ、この有様なのだ。

 千紘さんに対して、もしも僕が駆け引きじみたことを仕掛けたら。
 押してもだめならと引いてみたり、ちょっと強引に振り回したり、ほんの少し彼女の心にひっかかるような言葉を残していたずらに連絡するのを辞めたとしたら。
 僕のしたことを、彼女はきっと真に受けるだろう。そしてなぜか自分のことを卑下し、わたしが失礼なことをしたんだと思うとか言い出して、進展は終了だ。元同僚で、今は友人かつ仕事仲間の只野くんと仲が良い従弟。立場はそう固定されて、無念のゲームオーバー。予想だけれど、たぶんこれは外れない。
 そういう千紘さん相手にできることなんて、正直全く思い浮かばなかった。有効な持ち札なんてものもなく、戦略なしで彼女に立ち向かうしかない。そんな自分からあふれてしまうこの野暮ったさ、子供っぽさ、そして、悲しいほどの余裕のなさ。
 気が短い麻子は「ここにもねえ」と荒っぽく言ってから、手にしていたバインダーをそこらに適当に放った。今度は分厚い茶封筒の束に手を伸ばしている。
 スタジオの手入れは充分にしているのに、事務室にはその情熱が届いていないらしい。仕切り用のカーテンで部屋の奥を目隠ししているだけで、人の入らない場所はすごいことになっているのを知っている。

「あ、もしかしてこれ?」
 手にしたブルーのファイルの中に、やっとそれらしき書類を見つけた。当日の会場の契約書と施設の利用規約。我が上司にそれをひらいて見せると、彼女の顔色はぱっとあかるくなった。あ、それそれ。
 彼女は素早くその書類を引っ張り出して、目当ての規約文書を探し当てている。
「発表会終わったら、一日一時間くらいここの片づけしようかな。これじゃ、来年も同じこと繰り返しそう」
 重労働だなあ、と憂鬱そうに肩をまわしている。こういうことは他の人には頼めないし、事務員までは雇う余裕ないんだよね、とも。
 そして僕のほうを見上げて、彼女はにっこりと微笑んだ。
「まあ、うちには若い男手がいるからそこまで問題はないんだけど」
「あまり聞きたくないことが聞こえましたが、覚悟しておきます」
 無表情で言い返す。
 麻子はほんっと助かるわあ、と年配の女性っぽい声音で告げた。


 母と帰省の約束をしていた日の朝、カーテンを開けた先に広がっていたのは薄暗い曇天だった。心模様かと思わず呟きたくなるような、降り出しそうで晴れだしそうにも思える曇り空だ。嶋岡が結婚する時に譲り受けたポータブルテレビで、お天気キャスターが今日は関東の一帯が曇りになるだろうと説明している。
 冷蔵庫から賞味期限直前の食パンとスライスチーズを取り出して、パンの上に乗せてから電子レンジに放り込む。トーストモードで焼いているあいだに、インスタントコーヒーの粉を目分量でマグカップに入れる。ケトルで湯を沸かしながら、一日の予定と持ち物を思案する。
 先日小森達と飲んだ日には、二人とも彼岸の前後に帰省したと言っていた。二歳の娘がいる嶋岡の母親は一家の帰省を待ちわびていて、前日と当日の出発前に問題はないか電話してきたらしい。
 端の焦げたチーズトーストを電子レンジからつまみ出して、立ったままでかぶりついた。あいているほうの手で、いつものバックパックにTシャツを押し込む。
 トーストを半分食べ終わった状態で、ケトルに沸いた湯をマグカップに注ぐ。
 ポータブル充電器とイヤフォンをサイドポケットに押し込んでから、今日はひげを剃らなければ、と顎のあたりを触りながら思う。

 駅に向かって歩いているところで、千紘さんからメッセージが入った。
『今日はお天気良くないですね。もう出かけました?』
 その一言だけで、気持ちがふわっと持ち上げられてしまうのが不思議だった。
 急いで改札を抜けて、ホームまで移動してから返信する。
『今、ちょうど駅です。千紘さんは』
『今日は自宅で仕事です。実はさっき起きたばっかりで』
 苦笑したような絵文字が横についている。
『いいな、寝坊』
『こんなに寝たの久しぶりです。電車、どれくらい乗るの?』
 たまに崩れる言葉に、頬が自然と緩んでしまう。
『順調にいけば二時間半くらいかな』
『小旅行みたいですね』
 旅行、という言葉にぴんと来て、僕はそのまま打ち込んだ。
『それなら土産を買わないと。千紘さん甘いものとか好き?』
 郷土愛がないというわけでもない。戻ったら、名物のいくつかを持って彼女に会いに行くのもいいかもしれない。
『それじゃわたしがおねだりしたみたいじゃないですか』
『え、違うの?』
『わたしそんなに欲張りじゃありません』
 怒ったクマがふんぞり返っているスタンプがついた。
 頬を押さえつつ、くく、という声を出して笑ってしまった。
 少し前に立っている老婦人が、ちらと僕のほうを振り返った。

 少し悩んだ末に、僕は思い切って打ち込んでみる。
『でも、帰ったら会いたいな。口実に何か買って来てもいい?』
 冗談交じりにそう打ち終えてから送信まで数秒、画面の上で親指が泳いだ。
 とん、とそれを押すことができたのは、どうせむこうで面白くないことのひとつやふたつ絶対にあるからだ。癒しと精神回復を目当てとした逢瀬の予約。
 誤字がないこと、既読になったことを確認したところで電車の入線を告げるアナウンスが流れた。まずはいつもの路線で北千住まで。

 千紘さんから返信が来たのは、電車が発車したすぐあとのことだった。
『堀井さんの好きなものがいいな。気を付けて行って来てください』
 どうやら、僕はうまく予約を取り付けることができたらしい。
 憂鬱の中に光が射したような気分で、僕は車両の隅に移動した。

05-2

 まあ、情緒はあるところだよな、と言ったのは櫂谷だっただろうか。
 彼の父親が静かな創作環境を求めて関東の日帰り旅を繰り返していたのは、彼がまだ母親の胎内で彼女の腹部を蹴っていた頃のことだ。ここに決めた、と独断でそう告げられた彼の母親は、慣れたこととあまり動じなかったらしい。
 櫂谷が両親からそんな経緯を教えられた年、僕達はすでに詰襟の制服姿で同じ教室の中にいた。渡良瀬川沿いに建っていたという古い家を彼の両親が買い取ってから十数年が経ち、農作業小屋を改築して作ったというアトリエから彼の父親はほとんど出て来ない生活をしていた。

 駅に着く前に連絡しなさいと母に言われていたものの、何となくそれができないまま大通りを歩き始めていた。
 住んでいる街よりもはるかに人の少ない、まあ、情緒あると言えなくもない景色だ。昼間から二十代半ばの男がふらふらしているには少しばかり不適切な。

 聞き出すのを躊躇していた僕に、千紘さんは自らを秋田生まれの函館育ちだと教えてくれた。五歳の時に両親が離婚し、翌年に母親の故郷である北海道に引っ越したらしい。当時の記憶はほとんどないけれど、幼稚園でお別れ会をしてもらったことはぼんやりと覚えていると言っていた。母親が再婚するまでの三年間は祖父母と母との四人暮らしで、その時代は穏やかだった、とも。
 雪国とか北国っぽい感じがするのは、見た目の印象のせいだとは思う。骨格が小さい感じで、佇まいに透明感がある。世渡りという意味で器用な人ではないけれど、それを地道にカバーしようとしている印象だ。そのおかげか、誰かに支えてもらわなければ立っていられない、という感じはしない。
 それと同時に、僕にとっての彼女はどこか幸運なものを持って生きている人に見えた。いつからそういう雰囲気を纏うようになったのかは知らないけれど、何かに見守られているような、いざこざや不運なんかとあまり関わりがなさそうな人物に見えるのだ。
 ひとりぼっち。でも自由。
 そこにある一種の軽やかさを、彼女はどこかで楽しんでいるように見える。


「連絡なさいって言ったのに」
 結局実家までの二十分を歩ききってしまった僕に、玄関の網戸を開けながら母は呆れた声を出した。
「久々だったから、つい」
 自分よりも三十センチ近く小柄な身体を見下ろしながら告げると、相変わらずねえと母は大きなため息をついた。
 実家の玄関は、前回の帰省からはほとんど変化がなかった。くるみや松の実で作られた工芸品、フクロウ柄のタペストリー、和の雰囲気たっぷりの下駄箱。足元には妹のご近所用サンダル。
「お昼、まだなんでしょう?」
「何か、残り物とかある?」
 廊下を歩きながら訊くと、母は冗談でしょうといった響きでしっかり準備してありますよ、と答えた。手を洗っていらっしゃいと、すでにリビングに繋がる扉に手をかけている。返事をして、洗面所へ向かった。

 母の用意してくれていた昼食は、千切りにしたキャベツの上に湯気のあがる生姜焼き、きゅうりの漬物と厚揚げの煮物、その他の細々とした小鉢に味噌汁だった。
「わざわざ好物を用意してくれてるとか、泣ける」
 茶化しながら告げると、母はふふ、と笑った。
 リビングのテーブルで、母と向かい合って座る。
 すでに昼食を済ませている母は、湯呑を手にして僕のほうを見ている。食欲を期待されているのは、目を見ればわかった。こういうことに、母親というものは安心するようにできているらしい。手を合わせてから、僕は遠慮なくそれらをかき込んでいく。
「母上、生き返ります」
 僕の大袈裟な一言に、母は頬を持ち上げて微笑んだ。
 甘みのある母の生姜焼きは、砂糖の代わりに蜂蜜を少し入れているのだといつか教えてもらった。浜御塩とかいう対馬の塩を愛用していることも。上質な調味料が好きで、組み合わせをあれこれ試すのは母の趣味だ。今でこそコンビニやスーパーのわかりやすい味付けに慣れてしまった身体だが、もともとはこのちょっと薄めの味付けで育った。
「絢乃は、仕事順調だって?」
「みたいよ。まあ、あんまり変わりのない職場らしいから」
 そっか、と答える。

 十代半ばまでの妹は、雑誌の編集者になりたいと言っていた。
 それまで児童文学の世界にどっぷりだった絢乃が、小学校高学年で出会ったのがティーンズ向けのファッション誌だった。小中学生が小遣いで買うような、同年代のモデル達が校則違反しないでできる髪型や流行の文房具、制服の手入れの方法などを楽しそうに紹介しているその一冊の雑誌が、妹をフィクションの世界から現実へと繋いだ。地味で大人しい、ある意味で無頓着だった妹が自分の周囲に関心を持つきっかけになったのだった。毎月の小遣いで欠かさずそれを買い求め、溜まりすぎると気に入りの記事をスクラップして大切そうに並べていた。高校にあがるくらいまで、そういうことが好きだったはずだ。
 いつあの夢を手放してしまったのか、あるいは消えてしまったのかは聞いたことがないけれど、聞き出して欲しくはないだろう。適度な今っぽさと清潔感を保ってはいるものの、妹は服や化粧には以前ほど関心がない。
「職場のじいさんの話も、ちゃんと断ったっぽい?」
「聞き流したんじゃない? あんまりきつく言うのもあれだし」
 のんびりとお茶をすすりながら、母は言った。
 暮らしの速度があまりに違う気がするのは、僕が落ち着きなく飛び回っているせいだろうか。自分がいないあいだに、この家で繰り返される日常にはあまり変化がないように聞こえた。何も崩さず、掘り返されず、更新されずに続いている。

「それで――」
 空にした食器を手元に重ねながら口をひらくと、母は一度瞬きをしてから、手にしていた湯呑みをテーブルに置いた。
「面会って、何時からって言ってたっけ」
「十四時」
 少し俯き、硬い声で母は答えた。
 父がここから車で十分ほどの場所にある総合病院に入院したのは、一昨日のことだ。

「――二宮さんがね、色々気を遣ってくれて」
 母は僕を気遣うように、慎重な様子で口をひらいた。
「そう」
 二宮さんというのは、父の部下のひとりだ。年若いのを見つけては自分から声をかけて直々に指導しようとするので、彼にはいつも社内に子飼いと呼ばれる特別な若い部下がいる。公私の境が次第に曖昧になっていく人だから、この家にも何度か招いているだろう。正直に言えば、関係がうまく続くことはあまりない。その二宮さんも、堀井常務のお気に入りとしては四代目くらいだろうか。
 母は若干のためらいを感じさせるような表情で続けた。
 仕事の報告を兼ねて面会に通ってくれているけれど、足りないものの買い出しなども頼んでしまっていること。父には会社の人にそういうのは辞めてと言っているけれど、いつもの如く聞き入れてもらえない、ということも。

「恥ずかしくてね。二十歳そこそこの男の子に靴下だの飴だの頼んで」
 げ、という言葉が口からこぼれてしまった。同年代なら、逃げ出したいタイプの上司じゃないか。
「だから身内はそこまで通って来なくていいって言うんだけれど、それも申し訳ないでしょ。お礼だってきちんとしないといけないし」
 母は小さくため息をついた。
「――変わんないね」
「割と強かな子みたいだから、うまくやってくれてるみたいだけどね」
「助かるな」
 その関係を利用することができるくらいの人物なら、まあおいしい立場ではあるのだ。父に長く取り入るのに成功すれば、いずれ社内でそれなりの扱いを期待できるはずだから。失うものも、だいぶ大きいような気がするけれど。

 彼がそういうことをやり始めたのは、僕が地元を離れてからだ。気に入った部下に肩入れしては贔屓して可愛がり、ある種の特権を与えることと引き換えに自らの理想を少しずつ押し付けていく。
 一番ひどく揉めたのは、三年くらい前だっただろうか。確か畑山とかいう男で、父の強い干渉に耐えられなくなってほとんど逃げ出すように退職したと聞いていた。
 彼の退職の話が寝耳に水だった父に、そこまで人のことに口を出すなんておかしいですよ、といつになく感情的な物言いで彼は告げたらしい。「散々可愛がってやったのに後足で砂をかけられた」と、父はしばらく憤慨していたと聞いた。
 母と共に散々愚痴を聞かされたという絢乃は、その後帰省した僕に向かって「お兄ちゃんへの当て付けだよ」と呆れたみたいに言った。息子がいなくてもうまく付き合える若者がいるんだって、むきになってるだけ、と。そんな幼稚なことに巻き込まれる部下の方々が気の毒、とも。

「でも――そのぶんじゃ、まだ余裕があるんじゃない?」
「そうでもないみたいよ。夜に何度か、不安そうな電話がきたから」
 母は言った。強がりが続くのはそこに見栄を張りたい誰かがいる時だけ。今に始まったことじゃないしと答えると、母はそうねと頷いて笑った。
 夫に関する不満を、僕の前では吐露できないと母は思っている。無理のないことだ。小さな不満ひとつだって、僕の記憶の遠くのほうまで響き渡ってしまうから。寝た子を起こすような真似も、新しい諍いの種を蒔くようなことも、できれば避けたいのだろう。

「何時に出る?」
 立ち上がって、食器を運びながら尋ねる。
 母は顔を上げ、壁に貼っていたカレンダーに目をやっている。
「今日は四時半から先生の説明があるから――」
 三時過ぎには出ましょうか、と母は続けた。

 リビングで休んでいていいと言われたけれど、ちょっと部屋に行ってみると階段を上った。
 クルミの板で作られた自宅の階段は、スリッパよりも素足で踏みしめるのが好きだった。築三十年を迎えてさすがにあちこちにがたが来ていると母は言うけれど、この階段の感触だけは昔から変わらない気がする。
 部屋の中に、僕の私物はあまり残っていなかった。処分を許されなかったベッドに、棚の外された学習机、ポールハンガーに数枚の衣類がかけられているだけだ。
 はっきりと、引っ越しをした、という記憶はなかった。ずるずると少しずつ荷物を外に持ち運び、コインロッカーと気心知れた友人達の部屋にわずかな私物を分散させながら住まいを移した。部屋を借りるなりしてけじめをしっかりつけなさいと言われ、学生会館のパンフレットを宛名を母にして実家に郵送した。
 契約のためにとひとりで上京してきた母を、新宿駅の雑踏の中で出迎えた。
 行き交う多くの人の中で、母はいつもよりずっと小さくか弱そうに見えた。

 東南を向いた窓に近づき、クレセント錠を力を込めて手前に引く。手入れもされず固くなった窓を、勢いをつけて押し開ける。
 家の裏に用水路が流れているおかげで、隣家までは少し距離がある。ぼうぼうと伸びるススキや背の高い雑草。この部屋で映画ばかり観ていた頃は、学習机は窓辺に近い場所に置いていた。
 身を乗り出して、上半身を窓の外にやってみる。
 窓の両脇にいくつもの小さな傷が残っていて、思わず笑ってしまう。

 一番大きな傷は、櫂谷がつけた。夜によく抜け出して来たから。
 机上のスタンドライトが点灯していることを確認してから、彼は小石を拾い上げてこの家の窓や外壁に向かって素早く投げた。小さく何かがぶつかる音に、あの頃の僕は立ち上がってゆっくりと窓を開けたのだ。
 ポケットに左手を突っ込んで、櫂谷はこちらを見上げていた。そして、僕に向かって降りて来いという意味の仕草をしてみせた。何でも卒なくこなすタイプだというのに嶋岡はどういうわけかノーコンで、小石を投げる代わりに小さく鋭い犬の鳴き真似をしてみせた。そっちのほうが難しくないか、と思いながら、僕は上着を羽織って押し入れの中に隠していた古いスニーカーに手を伸ばした。彼らのいる庭の端に一階の屋根やボイラー設備のカバーを伝って降りていくのはそう難しいことではなかった。それぞれが、部屋にひとりでいたくなかった夜。

 建付けの悪くなった網戸を閉める。
 風の匂いは、あの頃と同じだ。


 病院に向かう途中で、土産屋に寄らせてもらうことにした。
 助手席に乗った母に尋ねると、久々に行きたいと言う。稀に県外の親戚に地元のものを送るために利用することはあるけれど、そういうことがない限りはあまり立ち寄らないし、とも。
「何、お土産?」
「世話になってる人がいるから。何か買って行こうかなと思って」
 ベージュとブラックカラーのパッソは母しか乗らないから、バックミラーもシートもずいぶんとコンパクトな配置になっている。狭いなとシートを後ろにずらしている僕の姿を、母はどこか面白そうに眺めていた。
「仕事で?」
「それも含めて」
 ざっくりと答えて、エンジンをかける。それ以上のことを尋ねることもなく、母はそう、と頷いた。
 生きていく力そのものは心配されていないけれど、いわゆる落ち着いた社会生活を僕が得られると母は思っていないはずだ。それでも、母は父や他の親戚が言う『いいかげんな暮らしをしている』僕をどうにかしようとしない。
 
 日差しの弱くなった故郷の町を、母を横に乗せて走る。
 最近はどんな仕事をしているの、という質問は、ちょっと楽しそうに車内に響いた。

「ダンス教室の雑用と助手は変わらず。あとは、短期派遣なんかをぼちぼち」
「派遣って、どんなことするの」
「倉庫の中で一日荷物仕訳けたり、イベントの設営とか。あるでしょ、催し物する時の舞台組んだりとか」
 僕の説明に、母はああ、と頷いた。
「亮太からしか、そんな話聞けないわね」
 くすくすと笑っている。
「デスクワークより、人いっぱいいる現場のほうが好きなんだ」
「あなたらしい」
「落着きないから、俺」
 ウィンカーを出しながら言う。
 そうでもないわよ、と困ったように呟く声が、隣から小さく聞こえた。

 心も体も、この町からフェードアウトした。 
 心のほうが、先に別の世界に逃げた。そこに自分を閉じ込めて、何とか形を保った。身体のほうが少し遅くて、別の街でそれらが噛み合うまでにはさらに長い時間が必要だった。心身の在り処が何とか合致したような気がするのは、実はごく最近のことだ。
 逃げ回って、飛び回って、行く先々でそうすべきことを断ち切り、振るい落とした。

「こっちのお友達とも、会ってるの」
「ああ、櫂谷も嶋岡も元気。小森も原も、まあ何とかやってる」
 このあたりの友人のことは、母も知っている。
「ああ、それから裕道もだ。花のお礼言ってたよ」
 開店祝いのアレンジメントを思い出して告げると、母は亮太も見たの、と声をあかるくした。絢乃がネットで注文しただけだから実物を確認していないと続けるので、良かったと教えた。大きさも鮮度も、問題なかった、と。
「写真撮っておけば良かったな」
「いいのよ」
 母は笑った。失礼がなかったならそれでいい、と。
 裕道の店のパーティにも、一度声をかけられていたらしい。でも今はお父さんがああだし、絢乃も仕事だったから、と母は続けた。

 落ち着いてからでいいんじゃない、と答えながら、内心では安堵していた。
 家族を、あの人に会わせたくなかった。たとえ言葉を交わすことはなくても、あの場で繋がって欲しくなかった。もしも身内が来ていたら、あの夜自宅まで彼女を送ることもなかったかもしれない。
「裕道も、まあ何とかやっていくんじゃないかな。あいつやっぱりしぶといよ」
 順調に店を動かし始めている従兄の顔を思い出しながら、母に告げた。


 地元の名物であるうどんの生麺を購入して、病院に到着したのは十六時を迎える直前だった。
「遅すぎたかな」
「大丈夫」
 母はハンドバッグを手に、慣れた様子で面会者用の入り口に向かっていく。
 守衛の男性達ににこやかに挨拶をして、母は手渡されたバインダーを手にすらすらと名前と住所、入院患者との続柄を記入していった。
 手渡されたバッジを胸元につけて、ふたりでエレベーターに向かう。
 消毒液の匂いが漂う、淡い色合いのベンチが置かれ新薬や医療機器を案内するポスターが壁に並ぶ廊下を歩いていく。

「たぶん、いつも通りだとは思うけど」
 エレベーターの中に滑り込みながら、母は言った。
「――気にしなくて、いいから」
 僕達兄妹に、何万回と繰り返してきた台詞を母は吐いた。
 そんなことは不可能だと、母自身もよくわかっている。
 それでも口にできる言葉が他にない、ということも。

「大丈夫。余計な事、喋んないから」
 三の数字と『閉』のボタンを、僕は続けて素早く押した。

名前も知らない【03-05】

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名前も知らない【03-05】

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-03-18

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