二月・一
胃が小さい。いつからだろう、二十五の齢で既にそうであった。食べ過ぎると吐くようになった。吐きたくて吐くのではない、身体がもう限界だと云って追い出すのである。それで、痩せた。痩せすぎとまではいかないが、二年で三キロ落ちていた。家には体重計がないので、時々ある健診のときに知った。久しく見ることのなかった数字の羅列を見て、誤診と見紛うところであった。
時の流れとは恐ろしいものである。これは所謂老いというものであり、まだ二十七である人間の元にも普通の顔をしてやってくる。これならまだましなほうで、三十代にもなると常にあちこちが痛いと訊く。未知であり、誰もが本当は知りたくない世界だと思う。
落ち葉の代わりにトランプが降り注ぐ真昼の広場で、わたしはリュカさんと静かに語らっていた。だいたいは、わたしが先に座って物思いにふけている。すると、リュカさんがやってきてすぐ隣に腰掛けるのである。それで他愛ない話が始まり、時に実を結ぶ話に発展することもあれば、ただの言葉として目の前のトランプの海に沈んでいくだけのこともある。さて、今日はどちらか。
「もう何千組めだろうね、このトランプは。」
やさしい声でつぶやくリュカさんの深い色の瞳は、目の前に散乱するトランプの群れとその向こう側の酷く鬱屈とした曇天のみを捉えていた。
「マジシャンの大会が。」
「そう、マジシャンの世界大会が。でも、資源の無駄はよくないな。再利用したら好いのに。」
マジシャンの世界大会があるらしい。わたしたちの居る世界のマジシャンとは、とんでもないアンチ・エコノミストだった。新品のトランプ以外を良しとしないのだ。それは先だって、プラスチック製のトランプの製造が廃止されたからであろう。紙で作られたやわっこいトランプは、再利用が難しい。簡単に折れるし、印刷は剥げる。だから、こうやって公園に撒くのだ。環境にやさしいトランプは、放っておけば土に還りはする。しかし時間がかかる。本当は、やはり適切な処置が必要なのであった。
「来週にはもっと深い海になる。でも海の成長もそこで一旦終わりだ、ようやく大会が終わるからね。そして雪が降って、いずれ解けて、湿地帯になる。」
「いつなくなるかな。」
「いつまでも落ち葉みたいに残るかもね。だれかが掃いて集めて焚き火でもしないと。」
焚き火の季節だったら、この広場の利用者はこんなに頭を悩ませることはなかっただろう。枯葉を盛んに燃やす時期は、もちろん枯葉が大量に舞い降りてくる時期と同等で、今は雪が舞う冬の真っ只中であり、つまりとうに越えていた。焚き火をおこなう人がいなければ、掻いて集める人もいない。だからこのトランプの運命は、いずれ降る雪を待ち、そしてその雪が解けきるのを待ち、ようやくぬかるんだところで土と融合するのを待ち、そして自然に還る。そんなところだろう。
公園が消化できるトランプの許容量を超えたのだ。わたしの胃みたいに、とわたしは思った。声に出さなかったので、この思惑はトランプの海には落ちていかなかったけれど、わたしは生活のあちこちでこのことを思い出す羽目になった。
仕事を終えて店に行くと、何故かそこは味噌と醤油の匂いで充満していた。
カランコロン、といつもの鈴が鳴る。だから、ここはいつもの喫茶のはずである。でも鼻をくすぐるのは和の調味料のそれだった。客はノラ以外居ない。夜になるとこの店はいつだってノラ以外居なくなってしまう。
「お嬢さん。いらっしゃい。」
店主は赤色のキャセロールと雪平鍋に夢中になりつつも、わたしの姿を捉えて挨拶をした。匂いの元はどう考えてもそれだった。ノラは椅子の上で立膝をして、漆で仕立てられた上品な器を机の上に三つ四つほど並べ、箸で叩いて遊んでいた。遊び、だと思う。でなければ何なのか、わたしには想像もつかない。そして言うまでもなく、行儀については最低である。
「夜は和食を出す店になったんでしょうか。」
チーズ、パスタ、サンドイッチ、ソーセージ、ナッツ……この店で食べたものは、大体こういう雰囲気のものである。筆文字で書かれた醤油瓶のパッケージをここでは見たことがなかったし、それは店内の装飾にも馴染んでいなかった。そしてこの匂い……味噌や醤油はもちろんのこと、それを支える出汁の匂い……が、もっとそれを際立てていた。わたしはふと、学生業の傍ら小料理屋で働いていたときのことを思い出し、そのもっと傍らで野良の分筆業に勤しんでいたことも思い出した。
「違うさ。ぜんぶこの人の晩御飯。」
店主は顎でノラを指した。ノラは演奏を辞めて(わたしはこのときはじめて、この行為には遊びではなく演奏という意味あいがあったかもしれないと思い直した)、わたしを見て肩をすくめた。そして「たまには、和食を食べたくなるじゃないですか。ほっとするじゃあ、ありませんか。」と、莫迦に真面目な口調で語った。
「まあな、わからんでもないよ。」店主がお玉で鍋の中を混ぜながら言う。「でもさ、このためにおれ、味噌と醤油を取りに一回家に帰ってんだよね。その間にお客さん来たら、どうしてくれるんだっていう。」
「来やしませんよ。」
「言うな。」
「実際来ませんでしたし。」
「もう喋るな。」
お決まりのやりとりを横目に見ながら、わたしは奥の席に座った。「いつもの?」とノラが訊ねる。わたしは「飲み物はそう。お料理は、フジッリのジェノベーゼって伝えて。」と答えた。数分して、ノラによりカフェラテが運ばれてくる。この店主はかなり気が利いていて、夜にカフェラテを頼むとデカフェにしてくれる。体に活気をもたらす成分を除去されても、コーヒーの香りはわたしの脳を満たしたし、いつもの香りという点においてもわたしを癒してくれた。
二月・一
(長編物の一部のため、長編ができあがったら非公開にします)