雪族園の夜

風もよう

 約束の時間は、夕方の五時だった。
 今日は彼らの町で、冬祭りという催しのある日だった。
 友人の夢子と、彼はそれを見に行くつもりだった。幼いころから毎年欠かさず、彼らはそれを見に行っていたのだ。もとは何人かいたメンバーがふたりだけになってしまっても、ずっと。
 けれども、今年は少々事情が特殊だった。彼の大学入試の日と、祭りの日時が重なってしまったのである。
『やめておいたほうがいいんじゃない?』
 数日前、夢子はそうLINEしてきた。
『大丈夫だよ、間に合わせるから』
『でも来年からだっていくらでも行けるじゃん』
『いや大丈夫だって!』
 彼は請け合った。春からお互い新しい街で暮らすようになったら遊ぶこともなくなるかもしれない、そんな予感は濃かった。
 が、ふたを開けてみれば、祭りの当日である今日、試験を終えた彼は猛烈な疲労と吐き気に襲われて、大学の最寄り駅のホームのベンチから、一歩も動けない。
 待ち合わせの時間どころか、祭りの時間も、一時間前に終わっていた。詫びの連絡を入れるのはなんとか間に合ったが、スマホの電池ももう切れてしまった。
 そして先刻から、雪が降りはじめている。それは刻一刻と激しさを増していて、まさか電車が止まるようなことはないだろうと彼は思うものの、帰れるか不安にはなってくる。彼は立ち上がろうとした。でも無理だった。立てない。少しでも動いたら、気持ち悪さに負けそうだ。ベンチにより深く腰を沈めて、先ほど飲んでおいた頭痛薬の一刻も早い効きを願った。
 数年前に新設された大学のキャンパスのおかげで、最近はだいぶ華やいでいるようだけれど、もとは寂しい郊外の小駅である。受験生もすでに帰路に着いてしまった今、ホームにはわずかな客しかいない。電車がやってくるたびにそのわずかな道連れもいなくなる。そしてまた新たな人たちが現れて、またいなくなる。長い間そのようにして、彼は数本の電車を見送った。やがて、そう遠くない都市の電車が悪天候のため運行見合わせになったという電光掲示板の案内を見たとき、ようやく彼は立ち上がった。吐き気を堪えながら。
 帰路は苦痛そのものだった。彼は吊り革につかまる手をときどきおろしては、吐き気に効くという手のツボを手袋ごしに押した。そして途中、奇跡的に目の前の席が空くと、すかさずすべりこんだ。そんな彼のもとに、さらなる天啓として頭痛薬のもたらす深い眠りは訪れた。
 そして町に帰りつくころ、眠りに拭われた彼の不調はほとんと鎮まっていた。彼は駅の構内を見回した。当然、夢子の姿があるはずもない。早く帰って詫びを入れ直さなければ。傘を開き、歩き出した。
 一軒の食堂の前で、しかし彼の足は止まる。駅前の商店街の一角にたたずむ、なんということのない店である。その店のあたたかな匂いと照明のきらめきが、今日ばかりはとくべつに彼を惹きつけて、猛烈な空腹を呼び起こした。夢子への罪悪感と空腹感との間で、彼はしばし立ち尽くしていた。
「……陽介?」
 そのときだった。
 不意にどこかから女の子の声がして、彼はぎょっとしてしまった。そして目の前のガラス窓がこつんと鳴ったかと思えば、店の中から、見慣れた人が手を振っていた。

「ごめん……」
 頭を下げる彼に、なんで謝るの、今日はしかたないよ、と向かいの席の夢子は苦笑する。近くの古書店と、それからここの店などで、彼女はずっと時間をつぶしていたのだという。祭りをのぞきに行くこともしなかったらしい。べつに待っていたわけではない、とは言うけれど。
「具合悪いのはほんとうにもう平気なの?」
「うん、すっかり。それよりおまえ、帰ってくれててよかったのに」
「私が勝手にここにいたかっただけだから。ごめん、疲れてて具合悪いのに、邪魔だよね」
「邪魔ってことはぜんぜんないけど……」
 申し訳なさそうな夢子に対し、彼も輪をかけて恐縮せねばならない。
「この日には陽介の顔見ないと、なんか落ち着かなくてさ。体、大丈夫? なんか食べられそう?」
「大丈夫だけど。でも夢子は、もう帰りたかったら帰っていいよ」
「べつに帰りたくないし」
 自分の言い方におかしくなったのか、夢子はふふっと笑った。しみついた疲労が、急速に溶けていくのを彼は覚えた。
 それから、彼はハンバーグとライスとコーヒーを頼み、夢子はアップルパイをひときれ、彼の持ちで頼まされた。彼女は飲んでいた紅茶ももちろん彼が持つ。改めて謝罪をし、猛烈な空腹と、疲労と、眠気と、わずかな吐き気をこらえて食べるその日の夕食は、格別のものだった。
 やがて彼らは店を出た。
「行こっか」
 夢子はそう言って傘を開き、雪の中を歩き出す。
「ああ帰ろう。今日はほんとうに、申し訳……」
 夢子が振り返り、ふふっと笑う。
「まだ帰らないよ。埋め合わせをして?」
「は? なんだよ埋め合わせって」
 彼にも、彼女の意図に見当がついてくる。
「まさか……」
「ふふ」
 白いコートと白い傘が、雪の降る中を軽やかに歩いていく。街灯のもと、栗色の髪は雪と服の白さによく映える。身軽に、やすやすと、彼女は雪の道を進むことができる。彼は焦ってついていく。街道の坂道をどこまでも下っていく。やがて街道を逸れて脇道に入っていき、なんの変哲もない住宅街をしばらく行けば、唐突に、それは現れる。
 冬祭りの舞台、市立水族園だ。
 終日開放してあるその門の内側へ、夢子は入っていった。
「まじで入んの? 俺疲れてんだけど……」
 彼もしょうがなくついていく。雪天決行の祭りは、つつがなく行われたことだろう。ハンドベルのコンサートも、ライトアップも、演劇も、その他子どもたちを魅了するたくさんの出し物のテントたちも、しかし、すでにそので気配は微塵も残っていない。
 たくさんの雪びらだけが、住人だった。
 夜の噴水に、彼らの目は奪われた。もはや一粒の飛沫を吹き出すこともなく沈黙する装置、その周囲へと張りめぐらされた水の中へ溶け込んでは姿をくらます無数の雪びらを、ひとつでも多く数えればその分だけ、人はものの数え方を忘れて愚かになっていくのにちがいない、しかしそのすべてを、彼は茫然と数えずにはいられない。
「雪の夜のこの場所を見てみたかったんだ」
 園内に、雪が降りかかっていく。水族館の青い建物にも、少女をかたどった像にも、丸や四角に磨かれた石のオブジェにも、小型の円形劇場みたいな座席のある広場にも、そして彼ら自身にも、雪は降りかかっていく。
「不思議。私、こんな雪の日のこんな時間に、ここに来たことなんてないのに、なんか……」
「なつかしい感じがする」
「そう! 見たこともないはずなのに、この場所を、知ってる気がするの」
「原風景っていうのかな」
 いくつかの謎めいたオブジェ、少女の像、青ざめたお城、白い服の女、黒い服の男、舞い落ちる雪。それは確かに、彼にも不思議に見覚えのある光景であった。
「『シザーハンズ』じゃね? あの映画の感じに、ちょっと似てるんだよ」
「あー。それかも」
「ね。おまえ語っちゃって、恥ずかしい奴」
「えーとなんでしたっけ、原風景?」
 それから夢子は、その映画をすごく好きだと言った。彼はその映画が苦手だった。主人公に救いがなさすぎると思った。
「俺は『ネバーランド』のほうがいい」
「あー。っぽいね」
 夢子は彼を見て深刻そうにうなずいた。
「どういうことだよ」
 しかし、とくべつなデジャヴュでなくても、原風景でなくても、おとぎ話の連想上のこの風景を、彼は今たしかに素敵でなつかしいと思っている。そうだ、大学では物語の勉強をしよう。そう強く思うのだった。
 疲労も高揚も超えたその果てに、彼は今妙にリラックスしていて、リラックスしすぎていて、油断すれば好きですとか口走ってしまいそうで、なんとか押さえつけている。いつも彼女の口から出るだれかの名が、少し苦しく胸によみがえることで、彼にそれを押さえさせていた。
 黙り込んで、噴水の池を見ている。自分はやはり彼女が好きで、それは一歩も進ませることもできないし、かといって消し去ることもできないのを彼は強く実感する。一方で、妙な違和感がふくらみはじめてもいた。いや、俺の好きなのって、ほんとうに夢子だったか? 彼女とつきあえたらもちろんそれは本望だ。でも、おかしな話だけど、俺がほんとうに好きなのはこの人じゃないような感覚が、心の底に引っかかってくる。そう、俺には、確かにもっと惹かれている人がいるはずで、でも今、なぜか顔と名前が出てこない。それは夢子みたいな感じの人ではあるけれど、でも夢子じゃない。じゃあ、だれだったっけ?
 降りつのる雪を傘で受け止めながら、沈黙が破れてくれるのを彼らは所在なく待った。いつもは器用に場の温度を保つ夢子も、今はなぜかものを言わない。雪の優美さに酔いしれて思考を奪われてしまったのか、あるいは、彼の態度に今宵もにじんでいるであろう彼女への気持ちを無視することに、とうとう耐えかねたか。
「……そうだ」
 ふいに彼が口をひらくと、彼女の体はわずかにびくっと揺れた。
「なに」
「お願いがあるんだけど」
「え?」
 言ったきり、彼は手袋を外してその場にしゃがんだ。雪をすくおうと思ったけれど、さすがにまだそれほど十分には積もっていない。そのわずかな雪を集めて固めたら、少し大きなあられほどの粒にはなった。
「なにやってんの?」
 それからすっくと立ち上がり、夢子のほうを向くと、雪玉と呼ぶには小さすぎるそれを、彼女の体にぶつけた。
「は……?」
 なんの手応えもなさそうな小さな雪玉を腹に受け止め、夢子は唖然としている。そんな彼女に、さらに新しく作って、ぶつけた。頭おかしいんじゃないの? あきれていた彼女も、いつしか傘とバックを無造作に放り捨て、小さな玉を作り、美しい思い切りげ返してきた。
「やめろっつってんだろ、バカ」
 そのとき、夜の闇が彼の意識から遠ざかっていった。そして白い雪だけが、明るく視野を満たしはじめた。
 ああ、わかった。
 ほんとうに心の中にいるのはだれだったか、わかってしまった。
 スポーツが得意で気が強くてショートカットの、少年のような、少女。もう二度とは会えないきみ。女も男も性愛もなかったあのころ、俺たちは今よりも率直にものが言えて、そのころのきみを、俺はずっと、忘れられないらしい。
「ああ疲れた。そろそろ行かなきゃ」
 笑い声も尽きたころ、コートについた水滴を払い、傘やバッグに溜まった雪も払って、夢子は歩き出す。白い姿が、したいに遠ざかっていく。
 ……俺は、行きたくない。ずっとここにいたい。今より先を見るのが怖い。だってよろこびが増える気がしない。そして陰鬱だけが増えていく。きみの中からきみが減っていったように。きみだって最近、人間関係きついとか言ってたろ。子どものころには、憂鬱なんてなかった。すべてが簡単で、薄くて、浅くて、まぶしかった。俺はここにいる。窒息しそうなほど単調で、凍りついて死んでるみたいな、この場所に。
「早く! 置いてっちゃうよ」
 声が呼んでいる。深くため息をついて、しぶしぶ彼は歩き出す。絶え間なくしがみついてくる無数の雪びらを振り切り、門を目指していく。
 夢子に追いついて門を出ようとして、しかし彼は少し振り返った。雪にほんのりと閉ざされていくそのおもちゃ箱を、じっと目に焼きつける。
 きっとまた、時々はここにこよう。この純真な、息苦しいほど美しい夢を見ずには、生きていけないから。

雪族園の夜

雪族園の夜

気になる女性と夜の公園に侵入してはしゃぐ話。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-03-17

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