僕のこと、好き?
1.ファントムペイン(2007年)
顔を上げた彼は、自分を見下ろす少年の姿を視る。自分が殺した、自分を好きだと云ってくれた少年のほほえみ。彼の手に受け止められながら、彼は虚無の海へとおちていく。何所までが自分で、何所からが他人かわからない世界。何所までも自分で、異なるものは何もない世界。
イスカリオテのユダ。
最後の晩餐の席上、イエス・キリストは自らの愛弟子の中にサタンに魅入られた者がいると云う。
イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことをいっておられるのか、知らせなさい。」その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」(ヨハネ福音書十三章二十一〜二十五節)
この「愛された弟子」とはゼベダイの子ヨハネのことであり、末尾の記述を信じるならばヨハネ伝の記者ヨハネと同一人物である。彼はヨハネ伝の中で終始自らのことを「最も愛された弟子」と呼び、聖母マリアを十字架上のキリストから託されたとした。
イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。そのときから、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。(ヨハネ福音書十九章二十五節〜二十七節)
ヨハネは年若く、キリストから栄誉ある右の座を占めることを許されていた。右はキリストが天に上げられたのち、御父の傍らに控える位置である。そのヨハネが裏切り者は誰かと問うのだ。
次のような伝承がある。
中世頃までは、一日は昼の十二時間とそれに続く夜の十二時間として区別されていた。昼の第一時は現在の朝七時であり、夜の第一時は現在の午後七時である。これは日の出と日没に関連する。そして昼の十二時間には一時間毎、それぞれ精霊が宿るとされた。日中の最後の時間、昼の十一時の精は過ぎ去っていく太陽の胸に凭れ、「salaam(平安を)」と囁く。この精の名はシャレム、またはシャロムといい、宵の明星である。シャレムは太陽を夜の死に誘うが、彼が再び朝日として天に昇るときまで、明けの明星として待ちつづけている。
「神話・伝承事典」によれば、十二使徒こそ日の出から日没までの時間の象徴であり、太陽神であるキリストが十字架に架けられ死んだのは、この十一時の精に裏切られたのに他ならない。即ち裏切り者は月を除いて全天で太陽に準ずる輝きを持ち、且つ彼を深く「愛していた」使徒だったのだ。
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切るものはだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ福音書二十一章二十節〜二十二節)
十一時の精は金星、つまり堕天使ルシフェルだ。
ルシフェル(ルシファー)とは「光をもたらす者」の意で、正式な名を「ヘレル・ベン・サハル」という。そもそも彼は旧約聖書以前に知られていたカナン神話の金星神で、名をシャヘルとされていた。シャヘルには双子の兄弟があり、それが前出のシャレムである。古代世界に於いて既に二つの明星は同じ惑星であることが知られていたが、一方は太陽を死に見送り、また一方は再生からの復活を出迎えるという役割のために、それぞれ宵の明星、明けの明星と神格を分けられていた。このシャヘルがやはり太陽神の栄光に挑んだことが、紀元前七世紀の聖典に挽歌として残されている。
ヘレルの息子シャヘルよ、御身はなにゆえに天界から落ちたまいしや。そは御身が、心の内にて、「余は天界に昇り、天極のまわりを巡る星たちよりも高位に座し、北天の奥なる神々の集会の山の上に住まん。余は雲の上に昇り、エリオンのごとくならん」と申されしゆえなり。
これが数世紀後、イザヤ書の堕天神話になる。
ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り、玉座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた。墓穴の底に。お前は陰府に落とされ、穴の奥底に入れられる。(イザヤ書十四章十二節〜十五節)
別のカナン神話では、金星神はアッタルという単一神とされているから、堕天したのは「金星」そのものである。アッタルは農業神バアルが死に絶える夏(カナン地方での冬)の間、彼の代理首相を務め、バアルが甦る冬に代わって冥界に下りる。生と死の両面を司るのが金星であり、アッタル──シャヘル──ルシフェルなのだ。
だが、聖書の中に「ルシフェル」という天使は存在しない。イザヤ書の一節は、預言者イザヤがバビロン王を非難するために比喩としてカナン神話を引いたにすぎない。つまり、「お前」と呼ばれるのはバビロン王である。これが後世、神学的な解釈を経る過程で取りちがえられ、本来は形容詞である「ルシフェル」が固有名詞であるかのように受容されていった。イザヤが詠んだ堕天使もまた、曙の子と称されたシャヘル(アッタル)だったのだ。
この古代の金星神は、何故太陽神に挑んだのか。
カナン神話の挽歌に於いて、シャヘルは「ヘレル」の子とされていた。シャヘルであるアッタルは、カナン神話の主神エルの王子である。ヘレルとはシャヘルとシャレムの兄弟を産んだ母の名なのだ。正確には、太母アシュラの子宮に当たる相、大地に開いた「穴の奥底」をヘレルというのである。
父である太陽神に挑んだ金星は、自らの母の子宮へおちるのだ。稲妻となって深淵へおちるさまは、そのまま大地の受胎を意味する。
母子婚は古代信仰によくみられるモチーフだが、ギリシア神話のオディプスが王となり母を妃とできたのは、父を殺したからだった。カナン神話のシャヘルも母との交合を求めて父である太陽神に挑んだのだ。大地母神である母の伴侶となることこそ「いと高き者」のように天界を支配するためには必要不可欠な儀式だった。金星神たちは敗れた、しかし彼らは母の胎内へ「おちて」いる。そうして受肉したのがキリストだった。
キリストの妻ともされるマグダラのマリア(マリア・マグダレア)は、タルムードなどの伝承では他でもないキリストの母である。イエスはローマ人兵士とユダヤ人娼婦マグダラのミリアム(マリア)の子であり、ミリアムの夫は大工であり聖職者であった。当時の隠れ修士は木工業に従事して生計を立て、また同業者組合はそのまま教団であった。イエスは数々の奇跡と癒しを行ったのち、自ら絞首刑に処されたという。
マグダラとは「神殿」の意であり、直訳すれば「神殿のマリア」である。聖母マリアも神殿で育った。また、娼婦であったという伝承が古くからあった。故に聖母マリアは売春婦たちの守護者である。
つまりマグダラのマリアとは聖母マリアの異形なのだ。アニミズムが根底にある古代の母権信仰では、女は大地と睦み豊饒をもたらす巫女であった。十五世紀には教皇ユリウス二世が教皇印によって売春宿を作ったが、そこにいる娼婦たちは神聖マグダラのマリア団の修道女であった。後継教皇であるレオ十世もこれを庇護し、彼女らと結婚した者は天国で特別に讃えられるだろうと公に宣言した。
キリストがマグダレアを娶ったという記述はエジプトのナグ・ハマディで発見されたマリア福音書にあるが、金星神たちと同じように母子婚を行ったキリストは、ルシフェルそのものであった。ヨハネ黙示録にキリストの言葉として次のような一節がある。
「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(ヨハネ黙示録二十二章十六節)
異教の金星神らは悪魔とされたが、その神格は受け継がれキリストとして天の玉座に着いたのだ。十二世紀のミラノではマグダラのマリアと聖ヨハネは同じ聖堂に祀られていた。聖母マリアを引き取ったとされるヨハネはまた、マグダラのマリアと結婚したともいわれる。ヨハネはキリストと同じ神聖娼婦に選ばれた分身であり、後継だったのだ。即ち、生と死を見守る明星のうち、太陽神の復活を待つ明けの明星こそヨハネなのである。
そして太陽神を死に誘う宵の明星、それがイスカリオテのユダだった。
ユダはそもそも、古代世界で信仰されていたユダヤ人の祖神であった。ユダは女予言者キュボレアドを母とし、大きな箱に入れられて海に流された。その箱が流れ着いた島をスカリオトといい、彼のイスカリオテという名はこれに由来している。成人した彼は故郷へ戻り宮廷に仕えたが、やがてオディプスと同じように父を殺して母を娶った。初期のキリスト教徒たちの間では、ユダはこの穢れを癒してもらうためにキリストに従ったのだとされていた。
また、トマス行伝などではユダはまさしくキリストの双子の兄弟であり、コーランではその顔はキリストと瓜二つで、彼に代わって十字架に架かったとさえされた。ユダをキリストの「最も愛した弟子」とする見方もある。それはマタイ福音書やマルコ福音書の次のような記述が根拠になっている。
イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。(マタイ福音書二十六章四十八節〜五十節)
二〇〇六年、修復を経てユダの福音書が解読された。ユダの裏切りはキリストによって計画されたものであり、ユダは彼の霊を肉体から解放するため、命に従ったにすぎないというのだ。ユダの福音書はグノーシス派の文書である。
グノーシスとは紀元一世紀から三世紀にかけて隆盛を極めた思想で、その特異さは光と闇の絶対的な二元性にある。グノーシスの見地からすれば物質は悪であり、人間の霊は肉体という物質の牢獄に囚われている。これを知識の力によって離脱し、霊を永遠の光の世界へ帰還させることこそが真の救済と説く。「グノーシス」は既成の各宗教の一派として起こった。キリスト教グノーシス派はこの物質世界を創造した絶対神ヤハウェを悪として否定したため、異端として弾圧された。「マリア福音書」「トマス行伝」などの偽典、外典とされるものは、大半がこうして破棄されたグノーシス派の文書である。
グノーシス派はエデンの園に於いてエヴァを唆し、知恵の実を食べさせた「老いた蛇」こそ真の救い主とする。そしてこの老いた蛇をイエス・キリストと同一視するが、蛇はルシフェルの象徴でもある。
キリストと絶対神ヤハウェさえ同一の存在に還元される。YHWHとは「ありてあるもの」、モーゼに啓示したように「私は在る」という意味の神聖四文字だが、キリストもまた「私は在る」者であると名乗るのである。ユダヤ密教カバラによれば、原初の人間、始まりの大いなる魔術師であり聖なる人間であったアダム・カドモンは、その背にカバラの神聖図形である生命の樹を背負ったとき、十字架に架かったイエス・キリストの象徴になる。ヨハネ黙示録の一節で「わたしはダビデの根、また子孫」と語られるのはそれ故である。ダビデ王はアダムの直系で、イエスの養父であるヨセフもその一族だが、キリストその人がアダムそのものであったのだ。
赤い土から形作られ、絶対神の息を吹き込まれたアダムは、まさしく神のひとり子であった。そして絶対神の分身でもある。即ち絶対神ヤハウェも、彼に愛され堕天したルシフェルも、原初の人間アダムも、同じ一つの存在の光と闇を分かったにすぎない。やがて神聖娼婦の胎を経、キリストとして受肉した「存在」は、自らの肉体を亡ぼして大いなる霊を解放するため、その式次第をいま一人の分身、イスカリオテのユダに託したのだ。
ユダの福音書には、二人の会話がこうある。
「先生、(他の弟子たち)皆の話に耳を傾けるなら、私の話も聞いてください。とても奇妙な幻を見たのです」
キリストは笑う。
「十三番目の精霊であるお前が、どうしてそんなに躍起になるのですか? それはそれとして、さあ話して御覧なさい。私はお前の話を信じるでしょう」
「あの十二人の弟子たちが私に石を投げて(私のことをひどく)虐げるのです。(大きな家)を見ました……。たくさんの人々がそこへ向かって走っていきます……。家の中央には、(大勢の人が)います。先生、私を連れて行ってあの人々の中に加えてください」
「ユダよ。お前の星はお前を道に迷わせてしまった。死をまぬかれない生まれのものは、お前が見たあの家の中へ入るに値しない。あそこは聖なる人々のために用意された場所なのだから」
「先生。やはり私の種は、支配者たちの掌中にあるということなのですか?」
「来なさい……。だが、御国とその世代のすべての人々を見れば、お前は深く悲しむことになるでしょう」
「私がそれを知ると、どんなよいことがあるのでしょうか? あなたはあの世代のために私を特別な存在にしたのですから」
「お前は十三番目(の精霊)となり、のちの世代の非難の的となり──そして、彼らを支配するだろう。最後の日々には、聖なる世代へと(旅立つ)お前を彼らは罵るだろう」
ユダ福音書の末尾、自らを売り渡すようユダに告げたキリストは、つづけて彼に語る。
「見なさい、前にも告げたように……。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」
そしてユダは、キリストの言葉を受け入れる。
ユダは目を上げると明るく輝く雲を見つめ、その中へと入っていった。
ユダは最後の晩餐の席を立つと大司祭らの下へ駈け込み、銀三十と引き換えにキリストを売った。キリストの処刑を見届けたユダは「回心して」間を置かず首を吊るが、その木は西洋花蘇芳であったといわれる。
時代は下り、十四世紀「神曲」で地獄を旅したダンテは、「地獄の中の地獄」と称される第九獄のコキュトスの池で、ユダを目にする。池には有翼の魔王が氷漬けにされており、ユダはカシウスやブルータスと共に魔王の口に喰まれ、体を咬み砕かれていた。この責め苦は世の終わりのときまでつづく。そして、彼を喰む有翼の魔王の名は、ルシフェルである。
初出
同人誌「僕のこと、好き?」2007年12月
2.2021年3月の追記
生と死は等価値だ。亡びへ向かう生と、希望としての死と。
他者を全て失ったとき、肥大した自我だけが残る。うずくまる自己を、別の自己が見下ろしている。
このろくでもない、小心で、頑固で、ナイーブで、孤独な己を理解できるのは、己以外にいない。
他人は怖い。心の中で何をおもっているのか、視えないところでどんな人間と会って、何を話しているのか、いつ立ち去っていくのか、わからない。自己だけが二心なく、他の誰とも関係せず、いなくなることもない。
ウロボロスの蛇、閉じた円環。プラス値とマイナス値が抱き合ってゼロになる。虚無。けれどそれはいけないことなのか? 完全な肯定。絶対の依存。他者には関係のないことじゃないか。
自己に抱きしめられながら、けれど何所かで、その腕を振りほどきたいとかんじている。己の孤独を抱きすくめながら、己は決してもう一人の自己を幸せにしてやれないのだとかんじている。
長い時間のあと、うずくまった自己は立ち上がり、振り向き、自己に笑いかける。
もういいよ。
そして、ひとりきりになる。
僕のこと、好き?
参照文献
「神話・伝承事典」バーバラ・ウォーカー/大修館書店
「ユダの福音書を追え」ハーバード・クロスニー/日経ナショナルジオグラフィック社
「天使と悪魔の大事典」学習研究社
「新約聖書 新改訳」日本聖書刊行会