名前も知らない【02】

古瀬

名前も知らない【02】
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02|遺失物

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02-1

 鈍い音を立てながら軋む、安物のパイプベッドの上で目を覚ます。午前七時二十七分。遮光カーテンを使っていても、部屋の壁の白が目に入るくらいには視界があかるい。
 口内に妙な苦みを感じるのは、寝る前に飲んだマテ茶のせいだろうか。さっさと起きて歯を磨きたいと思うものの、同じくらい、あるいはそれよりも強い気だるさを感じて動けない。
 手の甲で額を擦る。さっきまでどこか別の時空間にいたような、妙な余韻の残る眠りだった。
 ――俺、これでもけっこう敏い側の人間だと思ってたんだけどな。
 寝返りを打ちながら、一番初めに思ったことはそれだった。

 誰かに強烈に惹かれてしまったことに気が付かないなんて、さすがにちょっとありえない。自慢になるようなエピソードがあるわけじゃないけれど、十六で初めて彼女が出来て以来、僕は人並み程度には異性との関係を楽しんできた男のつもりでいたのだ。思い返せば恥ずかしいような背伸びした恋愛の記憶もあるし、海外放浪中、異国の地で出会った相手と"そういう仲"になったことも、正直に言えば何度かあった。

 昨日の衝撃は、そういう類のものではなかった。
 ひどく細い針金で弱くそっと引っかかれるような、そうされたところからじわりと熱が滲んでいくような――。

 うつ伏せで枕に顔を押し付けながら、暗くなった視界の中で記憶を手繰り寄せてみる。
 赤い傘をさしていた、頼りないような手元の形。
 僕を見上げる少し強張った表情。警戒心が小さく揺れる視線。緊張の中で、精一杯礼儀正しく振舞おうとしている仕草。それから、裕道の前でそれをふっと緩ませて見せた笑顔も。
「あぶねえ」
 妄想が進んでいきそうで、独り言によってそれを止める。
 ベッドの下に腕を伸ばして、充電の終わったスマートフォンを手探りで見つける。
 引っ張りあげて、トークアプリの中から従兄の名前を探した。只野裕道。すぐに帰らせてしまって悪かったというメッセージが届いていた。
 裕道の元同僚ということは、製造系の会社にいたのだろうか。彼の言っていたことを、姿と共に思い描く。
 貧血とか、言ってなかっただろうか。持病でもあるのか? 無理をさせたようなことを、従兄が謝っていたような記憶もある。

 裕道の名前をじっと睨んでいるところで、設定していた目覚ましが鳴った。
 七時三十五分。今日は終日、ダンススクールのバイトが入っている。
 
 
「だから、俺は別に喧嘩売ったとかじゃないんだって」
 土臭いような多国籍料理店の奥の席で、酔っぱらった小森は顔じゅうを赤くしながらそう告げた。
「いや、それだけやれば充分だよ」
「むしろその勇気はどっから来るわけ?」
 嶋岡(しまおか)と並んで言い返す。
 チリワインの入ったグラスを荒っぽくスワリングしながら、小森はなんでだよ、と僕達を睨んでいた。

 朱色に近いような珪藻土の壁に、ブリキの小さなバケツを裏返したようなランプがあちこちからぶら下がっている店だ。メキシコの死者の日の紙飾りや淡い水色のマリア像なんかが飾ってあるところを見ると中南米色が濃いような印象を与えるけれど、モロッカングラスや南イタリアの小皿も混ざっていて独特だ。チリコンカンやブリトーの他にも豆のカレーが人気で、たまに来る。
 友人のひとりである小森祐が勤め先の工場を解雇されたことは、すでに周知の事実になっていた。一定の期間で求職と退職を繰り返す小森と、それに対する友人達の反応でトークアプリのログは長くなる一方だ。仲間内では一番堅い仕事に就いたと言われている嶋岡が、これじゃ小森の育成日誌だと笑うのも無理はない。
 今回も、労りと少しの揶揄が仲間内を飛び交った。それを読んだ小森がいよいよ落ち込んだようなコメントを残したところで、嶋岡が飲みながら聞くよと打ち込んだ。平日だったことから参加者がその場で増えることはなかったが、ふたりだけなのもねと嶋岡から直々に僕が誘われた。
「話はわかったけど。でも普通、小森みたいな立場の人間がその場で帰らされることなんてほぼないんだよ?」
「まあ、そうだけど」
 言葉はやや勢いを落としたものの、納得はできていないようだった。
 警戒心が強く良く吠える小型犬みたいな小森に対して、すでに一児の父である嶋岡の物腰は余裕たっぷりだ。親子とまではいかなくても、温厚な性格の持ち主である嶋岡が小森をなだめる様子は年の離れた兄弟くらいには見える。

 元々あまり相性が良くないと思われる性格の上司の下で、小森が歯ぎしりしながら勤めに行っていたことは原から聞いていた。指示がひどく曖昧なこと、それによって起きる小さなミス――むろん、上司自らが他者から責任を追及されるほどのことではない――を、その日帰るまでねちねちと責められ続けることも。そういうことを意図して起こし、日々の中で鬱積したものを発散する人物であるらしいとも、教えられていた。
 それでも、程度ってものがあるだろう、と誰もが思っていた。小森はそういう手合いとの縁ができやすい性質なのも知っていたけれど、どこかで楽観視していたのかもしれない。
 集団の中に入るとスケープゴートの立場になりやすい彼の前で、上司の箍は外れてしまったのかもしれない。上司の気まぐれによって故意に作られ続けた小森のチームの小さな過失は、ある日生産ラインが止まる一歩手前のところまで拡大した。
 周囲の部署からの冷たい視線の中で、彼の上司は責任から逃れるためにいくつかの作り話をした。
 それが、小森の中にある最後のブレーキを木端微塵にしたのだった。

「小森さ、もうちょっとシンプルな仕事してみたら?」 
 小森がすでに一種の自棄状態に陥っていると、嶋岡は気付いている。同じことを繰り返してしまうかもしれないと全身を緊張させながら向かった新しい職場で、小森の精神状態が崩れていくのにそう時間はかからなかった。神経を逆立てていなかったら聞き流せるような軽い言葉にも、今の彼は強く反応するようになっている。それが相手に伝わり、関係がぎくしゃくとしはじめるまでの時間が日に日に短くなっているのが傍目にもわかるのだ。
「シンプル?」
 小森は眉を寄せて、疑わしいものを見るような目で僕達を見た。
「いや、正社員目指してずっと頑張ってるのはわかってるよ。でも最近、ちょっと疲れてるんじゃないかと思って――」
 嶋岡がやや慌てたように、両方の手のひらを小森に向けた。言い返す言葉のない小森が、小さく唸る。
 焦りが強くなっているのかもしれない。最近の小森はたまに口にしていた冗談も言わないし、あらゆる物事に対して批判的だ。面接に行ってきた日に担当者への不満や雇用条件の悪さをひとしきり並べてみたり、激しい言葉で採用を辞退しているのを友人伝いに聞いていた。
「少し休むつもりで、ゆるめのバイトとかしてみてもいいんじゃない?」
 精一杯の気遣いの上で嶋岡が勧める。精神保健福祉士の彼があまりに具体的なアドバイスをしてしまうのは、小森にとって面白くないだろうと思ったのかもしれない。

 小森は眉を寄せたままで、再び数秒唸った。
「そういうのもいいけど――ぶっちゃけ、親が反対するんだよ」
「反対」
「うん」
 赤いままの顔で、彼は気まずそうに頬を掻いている。
「まあ、小森勉強できたもんな。親御さん、出世期待してんのかもな」
 嶋岡がグラスを傾けながら言った。
「出世も何も、入り口で足止めされてるっつってんだけどなあ」
 手持ち無沙汰になったのか、小森は付け合わせのパセリを親指と人差し指で摘まみ上げた。そのままくるくると回転させている。
 目の前に置かれていた細身のデキャンタに手を伸ばす。小森と嶋岡のグラスにワインを注ぎ足した。彼のように表立ったトラブルは起こしていないものの、立場的には偉そうなことは言えそうにない。
「でも、そういうのも考えねえとなあ」
 小森は一度鼻を鳴らしてから、思いのほか長いため息をついた。


 酔っぱらった小森の泣き言をさらに一時間ほど聞いて、涙ぐんだ彼に別れ際に頭を下げられ――こういうところは妙に律儀なのだ――駅前で解散した。越谷まで帰る小森は、小走りで先に改札に向かって行った。
 スマートフォンを確認している嶋岡とふたりで、自由通路で立ち止まる。酔いが顔に出ない体質なのか、嶋岡はすっきりとした顔をしている。けっこう飲んだはずなのに。
「堀井は、予定なかったの」
「ああ、今日は何も」
 バイトのシフトは朝から夕方までで、予定は何も入れていなかった。
「小森も大変だな」
「本人は別にああいう生活したくてしてるわけじゃないっぽいしねえ」
 仕事を終えて船橋からわざわざ出てきた嶋岡は、淡い水色のコットンシャツにチノを合わせ、ブラウンのバッグを斜めがけしている。病院勤務らしい清潔感と親しみやすさ、それから圧倒的な信頼感を相手に与える人物だ。嶋岡はどこに行ってもあまり浮かない。適度に、ちょうど良くその場になじむ。安定感のある男だ。
 家族からのメッセージか何かを確認したらしい。きちんとホームボタンを押して、彼はスマートフォンを胸ポケットに押し込んだ。
「この頃、心配だったんだよ。あいつ前より短気になった気がしない?」
「ああ、そうかも」
 もともと小さいことを気にする性格ではあったけれど、そこに苛立ちが入り、この頃は沸点が下がっているかもしれない。
「あんまり口出しするのも気に障るかなと思って、言えなくてね」
 困ったように彼は言った。こんな時間なのに、改札の周辺は閑散としている。 
「でも、今日の様子じゃ本人もよくわかってるみたいだし」
 店での小森の姿を思い出しながら告げた。
「ああ」
「本当に難しい状況になったら、嶋岡にまず相談するんじゃない?」
「それなら、いいんだけどね」
 彼は下を向いて、少し笑った。

 同じ人物を思い出しているのが、互いに伝わったような気がした。
「最近、恭一に会った?」
 彼は若干のためらいの後に、そう続けた。
「何日か前に、久々会ったよ。悪くはなさそうだった」
 記憶を遡って答えた。
 櫂谷にとって悪くないと言えるのは、ハイとローどちらにも振れていない状態のことだ。そのふたつのあいだが、櫂谷は通常と呼ばれる範囲よりかなり広い。彼が日常の中で自らの精神状態を調整することにかなりの労力を費やしていること、それがどういった仕組みによって起きているのか、嶋岡は知っている。

「堀井といる時は何かそうなんだって、前言ってた」
「俺も、それ聞いたことある。普通に話してるだけなんだけど」
 おまえといると俺はなんでか真ん中あたりにいられるんだよ、といつかの櫂谷は言った。若干不思議そうな、笑いながらもどこか腹立たしく感じているような物言いだった。
 以前はそこに、嶋岡もいた。仲間内でも、櫂谷と嶋岡と僕は特に一緒にいる時間が長かった三人組だったのだ。
 地元に居た頃、それぞれ何の問題もなかったとは決して言えないけれど、彼らと顔を合わせれば無条件でほっとした。三人になると生まれるいつもの空気に、気持ちが自然と切り替わった。
 地元を離れた櫂谷が自らの気分のコントロールに苦心するようになったのは、成人後、彼が小さなデザイン事務所に入ってからのことだ。長く逡巡した後に専門医に相談に行き、診察と検査を繰り返した後にこれと思わしきものを告げられた。櫂谷は僕にそれを冗談のように告げて、芸術肌の人には多いです、漱石もそうだったんですよって、悪趣味な励まし方だよなと笑ったのだ。
 それ以来、櫂谷は少しずつ嶋岡に会う回数を減らし始めた。それに気付いた嶋岡も、グループ内で話すことはあっても櫂谷個人には連絡をしなくなった。櫂谷がそれを望んでいないと思っているせいだろう。寛解が近い状態にはなっているとはいえ、自らが投薬が必要な状態であることを彼はどこかで認めていないから。
 互いに嫌いあったとか喧嘩したわけでもないけれど、ふたりは少し距離を置いている。嶋岡の判断だった。櫂谷のプライドの高さは、周囲の誰もがよく知っている。
「何かあったら、すぐに伝えるよ」
 僕がそうしなくても、直接嶋岡には連絡が行くだろう。そう思った。彼らのあいだを間接的に取り持っている僕には、互いへの気持ちは全く変わっていないように見える。
「頼むね」
 嶋岡は、困惑の色を見せながらも頷いた。

02-2

 そろそろ行くか、と、切り出してすぐのことだった。
 また飲もう、と言い合っているところで、嶋岡があれ、と眉を寄せた。
 彼の視線を追いかけるようにして顔を向ける。改札を出て少し歩いたところで、人影が斜めに傾いだ。
「あ」
「まずくない?」
 視界に映ったその人は、力の入らない様子で何とか脇へと移動してからそこにずるずるとしゃがみ込んだ。
「ちょっと――」
 身体が先に動いてしまった。
 慌てて駆け寄った先で、数日前に見た人とよく似たショートヘアの女性がうずくまっている。

「どうしました?」
 隣に腰を下ろし、もしやと顔を覗き込んで、ああ、と思った。
 真っ青な顔をしてそこにしゃがんで、引き攣れたようなぎこちない深呼吸を繰り返していたのは、やはり中上千紘さんだった。
 彼女はそれから三回ほど同じように深く呼吸をしてから、顔をあげずに小さな声で言った。
「すみません、ちょっと、めまいがして――」
 細い声でそう言いながら、僕に向かってゆっくりと顔を上げる。

「あ」

 驚きを表現するにはひどく重そうな瞬きを、彼女は二度繰り返した。
「――こんばんは」
「只野くんの」
 掠れたような声で、彼女が呟く。
 すぐ後ろで、追いついたばかりの嶋岡が、堀井、知ってる人? と尋ねた。ああ、と答える。
「大丈夫ですか」
 嶋岡の質問に、中上さんが小さく頷いた。ただの貧血なので、とも。
「貧血みたい」
 あいだにいる僕が再び振り向いて伝えると、嶋岡は少し声をやわらかくして質問を重ねた。
「助けを呼びますか?」
「いえ、大丈夫です」
 こちらを安心させようと、無理して笑みを作ったのかもしれない。目元に少し表情が戻ったように見えた。
 中上さんは僕のほうを見て、
「少し、休んだら立てます」
 小声で告げた。そう伝えて欲しいということだろう。
「嶋岡、俺しばらく一緒にいるわ。そっち、もう電車来るでしょ」
 改札に向かう人が増えていた。二分後には、嶋岡の乗る快速がやって来る。
 彼は少し思い悩むような表情を浮かばせてから、僕に向かって素早く片手を向けた。空気を押すような仕草で待ってて、と言い、手を下ろし終えないうちに小走りでその場を離れて行く。

 一分も経たないうちに、彼は小さな袋を提げて戻って来た。
「堀井。これ、良かったらその方に」
「サンキュ、助かる」
 差し出されたそれを受け取った。ミネラルウォーターと、鉄分入りのフルーツ飲料のパックが入っている。
 中上さんはまだ青い顔をしていたが、
「そんな、すみません。お金――」
 虚ろな動きで手を鞄のほうに伸ばそうとするので、嶋岡とふたりで慌てて止める。
「でも」
「次会った時、俺渡しときますから」
 嶋岡は、その程度で要らないよ、と笑った。
 頭上から、電車の到着まであと一分というアナウンスが響いてくる。
「ああ、ごめん、俺もう行かないと。堀井、あと平気?」
 言いながら、嶋岡はずれた鞄を急いで肩に掛け直す。改札からホームに向かって、何人かが駆けていくのが見える。
「大丈夫。悪いね」
 早口で告げた。
「また連絡する。――つらかったら、駅員さん呼んで助けてもらってくださいね」
 言葉の後半は、中上さんに向かってのものだった。
「ご親切に、ありがとうございました」
 つらそうにしている彼女も、少し慌てたような口調で言い足した。
 もう一度労わるように中上さんに微笑みかけてから、嶋岡は急いだ様子で反対側の階段へと向かって行った。


 彼の姿が見えなくなるのに合わせて、僕は再び中上さんのほうへと顔を向けた。
「――ごめんなさい、慌ただしくさせて」
 彼女は、小声で絞り出すみたいにそう言った。聞き取れないほどの、高くて小さな声だ。
「調子が悪いときは、謝っちゃだめですよ」
 そう言ったものの、彼女は傷ついたような表情のままだった。青白い顔をしていて、まだ目線が定まりきらないのが見て取れる。
 頭上のホームに電車が入線してくる音が響いた。多くの人が下りてくるなら、移動したほうがいいかもしれない。
「どこか、ベンチのあるところ行きましょうか。そこでそれ飲んで、休みましょう」
 立てますか、と尋ねると、彼女は静かに頷いた。
 そうしながらも、少し腰を持ち上げただけで頭部がぐらついた。吐き気も感じているのか、口元に急いた様子で手を持っていく。慌てて身体を引き寄せて抱え、持ちます、と彼女の荷物を奪う。
「ええと――中上さん。ちょっとだけ、我慢してください」
 よろよろと立ち上がることはできたものの、そこから動くことは難しそうだった中上さんに僕は告げた。

 え、という声は、すでに耳元でしていた。
「あの」
 手を口から外したらしい、僕の肩口を掴んで中上さんが言う。
「そこのベンチまでなんで。恥ずかしかったら、顔伏せておいていいです」
 抱き上げたままで告げると、彼女はもう一度、ええ、と混乱したような声を出した。頭の中では色々浮かんでいるのかもしれない。めまいとふらつきで、言葉が出てこないのだろう。
 さすがに横抱きにはしなかったが、僕は中上さんを抱き上げたままそのまま数メートル先のベンチまで彼女を運んでいた。周囲の人々が不審そうな目で僕達を見たが、青白い顔をしてぐったりと俯いている彼女の様子からそれぞれが視線を自分の進行方向へと戻していった。

 人気のない静かなベンチの前で、彼女に下ろしますね、と告げる。
 そのまま座面に座らせると、中上さんはすっかりと弱った様子で僕を見上げた。
「ごめんなさい。従弟さんに、こんなご迷惑」
「堀井です。堀井、亮太」
 あんな紹介だけでは、名前を覚えていないだろう。
 少し深呼吸しましょう、と続けると、中上さんは静かに僕の言葉に従った。そうしているあいだに、隣に腰かける。奪い取った黒の巾着風のバッグを返して、嶋岡が買ってくれた飲み物をふたつ取り出した。よく冷えたエビアンと、鉄分入りのフルーツジュース。とっさの判断でこういうものを選べるのが嶋岡の怖いところだ。
「こっち飲めますか。水もあるけど」
「ありがとうございます。いただきます」
 手渡したそれを両手で持つと、彼女はゆっくりと封を開けそれを唇に近づけた。

 思わず、ぼうっとその姿を見つめてしまう。
 あかるい、ベージュのショートヘアだ。複雑な形で、襟足だけが長い。そこから覗く首筋に、薄いほくろがいくつか浮かび上がっているように見えた。
 生ぬるいような風の吹く、二十一時過ぎの駅のベンチ。
 彼女は頼りない様子でジュースを吸い上げている。 

「こういうこと、よくあるんですか」
 あまり刺激になってはいけないと、少し間をおいてから声を落として尋ねる。
 彼女は飲み口から唇を離して、いえ、と言った。
「最近は、ずっと元気だったんです。ただ、昨夜あまり寝られなくて」
 少し恥ずかしそうな表情で、そう付け足される。
 何かの事情があるのだろうかと思っていると、中上さんは遠くのほうを向いて、
「去年、わたしちょっと大きな手術したんです。元々、あんまり体力あるほうじゃなかったんですけど、その影響が残っちゃって」
「そう、ですか」
「入院中、只野くんにもお世話になって。わたしこっちに身寄りがいないから、会社の人達が皆代わりにやってくれて」
 中上さんは、囁くような声でそう述べた。
 ホームのほうから、新たな車両が入線する音が響いてくる。一分後には帰宅途中の人々がくたびれたような足取りで駅舎を出てくるのだろう。
 それ以上のことを尋ねるのは悪い気がして、大変だったんですね、とだけ答えた。彼女はわずかな笑みを浮かべたまま、小さく頷いた。
「皆にお世話になっちゃって」
「いいと思います。そういうときは、きちんと頼らないと」
 言い方が強すぎたのかもしれない。中上さんは僕のほうをゆっくり見上げると、驚いたようにまた小さい瞬きを続けて二回した。

「裕道の店に、関わってるんですか」
 少し落ち着いてきたという中上さんに続けて尋ねた。顔色は、さきほどよりも幾分回復しているように見える。
「印刷物のレイアウトを頼まれたんです」
「てことは、デザイナー?」
「まだそこまでは言えないですけど、DTPの仕事をしてます。駆け出しもいいところです」
 小さな声で、彼女は言った。
「ああ、友達が前に同じ仕事してました」
「本当ですか」
 わずかにあかるくなった表情に、僕は頷いた。
 囁くような、丸っこい、と言いたくなる声だった。そう大きくないから、耳を傾けるために顔を近づけたくなる。聞き逃しそうになって、つい姿勢を正してしまう。

「只野くん、今後も頼まれてくれって言ってくれて。気を遣ってくれてるんだと思います」
「いや、仕事の質をちゃんと見てだと思いますよ。そういうところは、あいつこだわるから」
 ああ見えて、職人気質でこだわりのある従兄だ。付き合いだけでは自分のテリトリーに合わない人間を入れたりはしないだろう。
 中上さんは、またちょっとびっくりした顔をした。基本的には真顔なのだが、本当にわずかに、ミリ単位で表情が浮かんでは消える人のようだ。
「俺、何か変なこと言いました?」
「いいえ」
 静かに視線を落として、彼女はひっそりと笑った。その動きは彼女の現在の年齢らしいものだったけれど、身体の中にはもうひとりの、本心の彼女が別にいるような気がした。その中にいる彼女がしているように、赤面してふいっと俯いてしまいたいのを、どうにかなだめてそうしているような。

 数日前は、人形と思ったのだと思い出した。
 色の白い、きめの細かい肌に。感情が表に出にくい、どこか臆病で気難しいところのある女性に。
 印象が少し変わった、と思った。


 結局僕達はそのベンチに腰かけて、二十分近く話をし続けた。彼女は口数が多いわけではなかったけれど、尋ねたことには正直に答えてくれる人だった。
 休んで少し回復したのかもしれない。足止めさせてしまってごめんなさい、という言葉を発しながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。
 改札方面から出てきたのを思い出して、最寄りはここですかと尋ねた。彼女は頷き、これからバスに乗って帰るつもりだと続けた。十分後に最終バスが出るはずだ、とも。
 バス停まで送ると告げると、彼女はやはり遠慮した。堀井さんだってこれからお家に帰るんでしょう、と困った顔をされてしまったが、まだ九時過ぎですからと押し切った。
「こんなところで解散したら、俺、従兄に後で怒られます」
 そう言うと、渋々といった感じで中上さんは承諾した。

 少し離れたところにあるバス停まで、彼女を送った。すでにバスは到着していて、多くの人が乗り込んでいる。
 列の最後尾で、中上さんは僕のほうを見上げた。
「ここまでで、本当に充分です。ありがとうございました」
 困ったような、それでいて、前回よりもずっとやわらかい表情だった。目が合うたびに、彼女の視線に次の言葉の一音を奪われてしまう。
「――あんまり、無理、しないでください」
 彼女はうっすらと微笑んで頷いた。
「只野くんのお店で、また、お会いできるかも」
「僕も、潰れる前にもう一度冷やかしに行きます」
 少しふざけて言うと、中上さんは思わずといったふうに笑った。
 ロータリーのカーブを、ひどく手慣れた動きで別のバスが曲がって来る。夜の駅前で、行先を示す電光表示板のオレンジ色の光がなめらかに流れていく。

「それじゃ、お家まで気を付けて」
 彼女はええ、と微笑んでから、一度僕に頭を下げてバスの中へと消えていった。

名前も知らない【02】

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名前も知らない【02】

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-03-15

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