一千の風

岡崎 勝耶

  1. 第一章 真怡阿(マイア) 一
  2. 第一章 真怡阿(マイア) 二
  3. 第一章 真怡阿(マイア) 三
  4. 第一章 真怡阿(マイア) 四
  5. 第一章 真怡阿(マイア) 五
  6. 第一章 真怡阿(マイア) 六
  7. 第一章 真怡阿(マイア) 七
  8. 第一章 真怡阿(マイア) 八
  9. 第一章 真怡阿(マイア) 九
  10. 第一章 真怡阿(マイア) 十
  11. 第一章 真怡阿(マイア) 十一
  12. 第二章 釐阿(リア) 一
  13. 第二章 釐阿(リア) 二
  14. 第二章 釐阿(リア) 三
  15. 第二章 釐阿(リア) 四
  16. 第二章 釐阿(リア) 五
  17. 第二章 釐阿(リア) 六
  18. 第二章 釐阿(リア) 七
  19. 第二章 釐阿(リア) 八
  20. 第二章 釐阿(リア) 九
  21. 第二章 釐阿(リア) 十
  22. 第二章 釐阿(リア) 十一
  23. 第二章 釐阿(リア) 十二
  24. 第二章 釐阿(リア) 十三
  25. 第二章 釐阿(リア) 十四
  26. 第二章 釐阿(リア) 十五
  27. 第二章 釐阿(リア) 十六
  28. 第二章 釐阿(リア) 十七
  29. 第二章 釐阿(リア) 十八
  30. 第二章 釐阿(リア) 十九
  31. 第二章 釐阿(リア) 二十
  32. 第二章 釐阿(リア) 二十一
  33. 第三章 真怡阿(マイア) 十二
  34. 第三章 真怡阿(マイア) 十三
  35. 第三章 真怡阿(マイア) 十四
  36. 第三章 釐阿(リア)二十二
  37. 第三章 釐阿(リア)二十三
  38. 第三章 真怡阿(マイア) 十五
  39. 第三章 釐阿(リア)二十四
  40. 第三章 真怡阿(マイア) 十六
  41. 最終章 

里人が恐れる冥府山。だが渡り衆・魔礼須(マレス)には祟りを及ぼすことはない。年に一度、魔礼須は山に登り同じ儀式を繰り返した。
真怡阿(マイア)はそこで古墳の舞を躍るむ牟宇(ムウ)に出合い惹かれ合う。牟宇が迦賦輪(カフワ)王の軍に殺されると、二人の息子はたった一人の歌人を探すことを定めとする歌詞 訶伊(カイ)によって隠され、精神に異常を来した真怡阿は伝承の青い人を探しに旅に出るのだった。

第一章 真怡阿(マイア) 一

 死者の道。

 冥界に通じる死者の道が、その山に存る。雲の低く垂れた真夜中。死人の鬼火が山には点ると云う。青白く闇に揺れて、鬼火を纏う死人が音もなく集う場所。山は、冥府山の古語で呼ばれた。
 その姿は荒々しく黒かった。鋭い岩角を風が吹く時、山は死人の声に啜り泣いた。岩肌を這い降りる冷気は死へ誘う指先に似て、不吉な靄の形で麓へと下った。緩やかに、生き物めいて蠢くその靄を吸えば人は、遠からず死の列に加わる。それが伝説だった。
 里では冥府山を避けた。僅かでもその姿に触れるのを怖れた。名を口にしただけでも崇りを喚ぶと伝え、禁忌は家々の窓を山に向けさせなかった。もしも耕す土地がそこになければ、人々は祖先の遠い昔にその地を棄てて去っていただろう。里に暮らす者たちは、誰も敢えて山に近づこうとはしない。
 だが、その崇り山。何故か渡り衆には崇りを及ぼさない。放浪に生きる渡り衆だけが禁忌を解さず、忌み山を怖れなかった。不思議に今も、彼らが崇られた話は聞かない。
 年に一度、必ず渡り衆は来た。定まった季節の訪れが土地の暦になるほどに昔から、彼らは渡りを果てなく繰り返していた。
 土地にもし陰と陽とが有るのならば陰の地。性悪の山羊さえも怯えて逃げ込まない悪地の何処が彼らの気に入るのか。何時の頃からか渡り衆のなかには、麓に住みつく者さえもが在ると云う。
ー渡り衆の成すことはいつも、理解が出来ぬわ。
ー恥を知らぬか、知恵を持たぬか。
ー知恵どころかよ、あれらは怖れも知らぬ大馬鹿者ども、たとえ死霊とでも、あの衆らは商売の取引をするだろうよ。
 里に住む人々は、渡り衆に対する蔑みを露わにそう噂した。けれども渡り衆は渡り衆で家鴨を表わす彼らの言葉の、濁った音で里者を呼び、己よりは遥かに低い者と秘かに卑しんでいた。里人は誰も渡り衆の蔑みを知らない。そして渡り衆は彼ら自身を、自らは摩礼須(マレス)と呼んでいた。
 定住を余りすることのない渡り衆が、何故冥府山には住みついたか。彼らに最も近く住む里の古老にもその理由は伝わらなかった。知るのはただ渡り衆、彼ら、摩礼須(マレス)自身だけだった。

 山気の冷えは、冥界を支配する礼以(レイ)が生むと云う。死界の女主の、瑪瑙の舌を過ぎる息が山を凍りつかせるのだと。瘴気の臭いをさせた氷の息。渡り衆が集うのは彼らの醸す強い酒に、冥界の黒い息が必要なのだと酒場では噂した。噂の代償は、崇りを避けるために振る舞われる発芽酒。その酒を呑む男たちの口は、やがて次第に重くなる。酒を持つ手が揺れて、ぼんやりと酒場の壁を見る視線はいつしかその彼方に、冥府山の黒い冷気を幻に見せた。それが、男たちの酒の香の添え物でもあるように。
 冥府山。氷の息の霧の中に、摩礼須(マレス)は彼らの伝承を隠していた。
 一年に一度だけ彼らは山へ登り、十二年に十二度の同じ儀式を繰り返して行なう。悠久の過去からそうして来たように、繰り返し。崇り山の頂きで彼らを待つものは、そこには里人の怖れる崇りはなかった。死人の群れも鬼火もなく、疫神が待つのでもない。緑の燐光を帯びた、死者を狩る礼以(レイ)の猟犬たちもそこには居なかった。冥府の山を極めたその頂きにはただ、摩礼須(マレス)の伝承を伝える奇妙な形だけが存った。
 それは、大地の骨髄から削り出したかのように血の色の燦めきをしていた。
 石。山を突き破って立つ紅玉の形。燦めきは谷の断崖に向かい、風を切っていた。薄く刃のように風を裂く紅玉の露頭は先端で、神の技のように不思議な形を見せた。摩礼須(マレス)の持つ琴の形に似て、三十三の斜張弦は宝玉そのもので張られている。台座は、同じ紅の石だった。それが大地の琴。摩礼須(マレス)の儀式の中心に存る宝玉だった。
 伝承は遠い。嘗てこの地上を、礼以(レイ)の死人狩りが吹き過ぎた時代に存った者。摩礼須(マレス)はその者の実在を伝える。
 その者はこの世を超え、遥かな世界へと渡り永遠を視ることを得た者。三つの生を生きたと伝え、身に帯びた忘却の呪法を礼以(レイ)に施して終に、冥界の闇に堕神を退け繋ぎ留め得た、と。
 徴しに彼は大地の琴をそこへ置いた。誰にも奏でることの出来ない石の琴を。人はそして忘れ、その者の名も失われて去った。今はただ、摩礼須(マレス)だけが伝える。彼と彼の伝承とを。

 摩礼須(マレス)のこと。

 春日の節祭り。塚山の古墳には、今年も渡り衆が訪れる。税吏の目でも逃れるように彼らは、夜の静寂に紛れて来た。夜の間に、渡り衆は幾つかの幕屋を巡らして張る。村人の暮らしと離れた、潅木と薮の中が毎年の幕屋の場所だった。
 それから三日間、彼らは夜になると古墳の石室に潜り込み彼らだけの祭りを行なう。塚山の村の人々は誰もその祭りのことを知らなかった。ただ渡り衆の奇妙な習慣と、死霊の崇りを怖れない彼らの振る舞いにだけ眉をひそめた。
 渡り衆が去れば村人は跡を潔めに総出で薮へ入る。それが毎年の習いだった。村では荒らした跡を潔めると云うが、けれども本当の目的は渡り衆の残す礼物だった。渡り衆は必ず、去った後に村への礼物を残す。幾つもの品々は彼らだけが成す銀の細工の飾り物。村中で一年掛かっても使い切れない程の竹簓など。時には珍しい絹織りの布が置かれていたりもした。渡り衆の体臭を厭い、彼らを蔑む人々にさえもそういった品は魅力だった。黙認は品へ換わる。村人は渡り衆が去れば、礼物が残るのを知っていた。
 今年も渡り衆は来た。はるばると遠く旅をして、村の為に土産を携えて。渡り衆の愚かな行為を人は笑ったが村にはそれが大切だった。そしてそれは、渡り衆の生きる知恵でもあった。

 古墳の舞。

 五弦琴が、弾かれる。燭火を揺らめかせ、五音は石に激しく飛び散った。一瞬に消える火花のように、五音は顫えて石の室に木霊する。夜は深い。
 真怡阿(マイア)は祭りのその夜のことを、夢の一部が流れ出たように記憶する。父に引いて貰った唇の紅の苦さと深紅の色。舞人の白い袖。古墳の石室の反響。大地の湿った匂い。記憶は眩しく錯綜する。幾つもの光彩は虹のように巡り、旋回する人の袖衣は火明りの中で残像を残し夢幻を紡いだ。
ーこれが、摩礼須(マレス)の踊り。
 真怡阿(マイア)は胸に掌を宛てた。舞い手の素足が石の床を叩く。それは蝶の息づかいのように秘かに、妖しかった。
ーこれが、摩礼須(マレス)の歌。
 もの寂びた初老の男の声は細く高く、哀調を引いて顫音を微妙に顫わせる。摩礼須(マレス)の五弦琴は声に添い、歌は、天空へ飛び立つように旋律を自由に拡げた。
ーこれが、私たちの祭り。
 古墳の儀式は彼ら摩礼須(マレス)だけが行なう年に一度の祭り。そして、十二年に一度だけの舞奉納。選ばれた摩礼須(マレス)の舞い手が定められた型を演じる。緩やかに繊手が白く弧を描き、風を喚ぶ。
ーああ・・、胸が、痛い。
 真怡阿(マイア)は胸を強く抱いた。頬を吹く風を感じる。燭火の儚い命が星々を飾ったように古墳に揺れる。それは儀式と言うよりは美しい天上の舞。真怡阿(マイア)はそう信じた。
ー綺麗なひと・・。
 嫋やかに身を折り、白い横顔を燭火の闇に陰らせ。少女の瞳に旋回する舞人は、匂い立つ白花のように幻と現し身とを交錯させる。繊手の閃きは燭火に彩られ、幾重にも闇と重なり入れ乱れる。混沌と秩序とが白い掌の翻りに明滅した。永劫の時。闇。そして真怡阿(マイア)は眩しさに瞬きを忘れる。白い閃きが、闇を裂いて永遠を銀色に凍りつかせた。
ー夢。
 眸の中で舞人の白い姿が滲む。
ー涙が・・。
 真怡阿(マイア)は唇の紅を噛んだ。その夜の舞奉納が、いつか摩礼須(マレス)の伝説になることを真怡阿(マイア)はまだ知らない。
 石室を出たとき、真怡阿(マイア)は彼方に続く飾り灯明の列を見た。
ーあの村でも、祭りは行なわれている。
 振り向いた真怡阿(マイア)の肩に、柔らかな掌が置かれた。
ーあなたは・・。
 驚きに、その人は優しく微笑んだ。
ーそうだ、私は男だよ、この通り。
ーでも。
ーあれを舞える女の踊り手はもう、今は存ない。
 真怡阿(マイア)には不思議だった。その男の人がどうして女性に見えたのか。今見れば細いけれど背の高い、武人のように厳しい印象を持つ人だった。
ーあなたの名は。
ー私か。
 ふと笑うとその人は、膝を折り、真怡阿(マイア)の肩にそっと手を置いて名を告げた。
ー私の名は牟宇(ムウ)。
ー真怡阿(マイア)。
 真怡阿(マイア)は自分の名を、その人が既に知っているのに気づいた。確かめるように頷いたその人は、真怡阿(マイア)に言う。
ーそれは、霜花の意味だね。
ーそう、あなたは。
ー銀月さ、これと同じに。
 笑いながら言い、その人は摩礼須(マレス)には珍しい腰に帯びた剣の柄に右手を置く。
ー私の名だ。
 肩に置かれた掌が何故か熱く感じる。その人を通して剣と自分とが結ばれたようで。息を熱く感じた。
ーあなたは、王家の人。
ーまあね。
 一瞬だけ浮かべた皮肉な笑みが、真怡阿(マイア)をはっとさせた。その笑みに潜んだ痛みが、真怡阿(マイア)の心に悲しみを残した。きっと、その笑みを一生忘れることはない。真怡阿(マイア)はその時不意に思った。牟宇(ムウ)はしかし、彼方を見ていた。
ーそう相応しく存りたいものだ・・。
 剣に置かれた右手は離れ、もう一度真怡阿(マイア)を優しく包んだ。
ーあ・・。
 真怡阿(マイア)は突然、世界が変わる気がした。牟宇(ムウ)は呟く。
ーそう、相応しく・・。
 祈るように牟宇(ムウ)は、真怡阿(マイア)の視線を遮るその腕に力を込めた。
ー摩礼須(マレス)の、血に懸けて・・。
 真怡阿(マイア)の胸に石室の中で覚えたのと同じ痛みが熱く刺さった。その人の胸に存る熱いものが突然に伝わるようで。
ーあの。
 真怡阿(マイア)は戸惑っていた。
ー私・・、息が、苦しい。
ーああ・・。
 微笑んで牟宇(ムウ)が腕を解く時、密やかな衣擦れの音がした。風に舞化粧の名残りが、淡く匂いを夜に溶かしていた。牟宇(ムウ)を見上げる真怡阿(マイア)の眸に、その夜の星は銀青の色を振り零して存った。真怡阿(マイア)は、少しだけ自分の言葉を後悔した。
ー私の踊りをしっかり見たかい。
ーはい。
ー次の巡年祭には、君が踊るのだから。
ー私が。
ーそう、君は百年に一度の舞いの上手だと聞いているよ。
ーでも。
 誰が一体この人にそう言ったのかと、真怡阿(マイア)は考えてみた。
ー私、あんなに素敵には出来ない。
ー君なら出来る。
 その時石室の闇の奥から楽人たちと、父とが連れ立って出てくるのを真怡阿(マイア)は見た。
ー父さんが言ったのね。
ーいや。
 牟宇(ムウ)の眸に輝きが宿る。真怡阿(マイア)はそれを美しいと思った。
ー君は自分で思っているよりは、ずっと有名だ。
ーこの私が。
 ゆっくりと牟宇(ムウ)は言う。
ーそう。
ー何故。
 微笑みはもう隠せなかった。
ー操法使いのじゃじゃうま娘。
ーいや。
 静かに笑うその人を、真怡阿(マイア)は不思議な気持ちで暫く見ていた。
・・私はこの人を何処で視たのだろう。
 もしかしたら夢の中でかも知れない、と真怡阿(マイア)にはそんな想いがした。
 遠く火色をした灯明の列が遥かに続く。星に埋められた夜空の下を明りもつけずに歩く真怡阿(マイア)たちは、去って行く祭りの賑いを後ろに聞いていた。
ーとても賑やかなお祭りなのね。
ーあれは・・。
 牟宇(ムウ)は言う。
ーあれは、本来は私たち摩礼須(マレス)のためのものなのだ。
 真怡阿(マイア)には分からない。牟宇(ムウ)の声には低く怒りが存った。
ーあの灯明の続く道も、我が氏族を迎えそして送るものだった、嘗ては。それを、愚か者たちは忘れ果ててしまった。
 この時に牟宇(ムウ)は、里者を蔑む摩礼須(マレス)の言葉を口にしたのだが、尤も真怡阿(マイア)にはまだそれさえも分からなかった。
ーいつか・・、いつかそれを後悔する時が来るだろうよ。
 傍らを歩く真怡阿(マイア)の存在を忘れたように、牟宇(ムウ)はひとり自分に言い聞かせていた。
ーそうだとも、いつか、な。
 真怡阿(マイア)はその言葉を、何故か不吉なもののように耳の底へ押し籠めた。
 塚山への、旅は終った。
ーどうして。
 真怡阿(マイア)は父に問い返した。
ーあの人の踊りはとても素晴らしかったと思うわ、本当に。
ーそうだ、あれは凄かった。
ーそれがどうしていけないの。
ー凄すぎたのだな。
 畑の物を隠しでもしたような腹をさすりながら、那(ナ)太(ダ)は何気なく言う。
ー違う型が入っていた。
ー分からない、それだといけないの。
ーいかんな、いかんと言った、うむ遺憾だと。
 那(ナ)太(ダ)が腹を叩いて笑う。
ーだが牟宇(ムウ)はこう言うんだよ。
 笑いはゆっくりと消えて行く。
ー型とは、積み上げられてきた結果を研ぎ出したもの。自分は更に新しい結果を加えただけだとな。
ー新しいものだと。
ーそうだ、だが、危険だ。
ー今までと違うことをするのが。
ーいや、牟宇(ムウ)が、だ。
 さらに真怡阿(マイア)は分からなかった。
 その年はそうして過ぎた。

第一章 真怡阿(マイア) 二

 真怡阿(マイア)は踏み足のことを考えていた。
ーこの、踏み足だった・・。
 それぞれの足使いには意味が存った。それでなくてはならない充分な意味が。時にそれは砂浜を歩く潮汲みの足であり、別な時には山坂を下る杣人を意味した。戦いに急ぐ兵であり、狩り人から逃れる鹿の怯えをも表わした。だが、その足は。
ーあの時、牟宇(ムウ)は確かにこう使った。
 もう一度繰り返してみる。しかしいつ、どのように繰り返してもそれは分からない。どうしても意味が不明だった。あれから、あの古墳の秘儀から何百と繰り返しまた、試した踏み足。
 操法の武技の型を幾百と覚え、摩礼須の舞の手を幾千も重ねて、いつしか歳月は過ぎていた。あの年から牟宇(ムウ)は、稽古相手として年に幾度か訪れるようになった。冥府山。那(ナ)太(ダ)と真怡阿(マイア)の幕屋を。訪れる度いつも手を合わせて真怡阿(マイア)は、牟宇(ムウ)の修得する武技の深さと天才に圧倒された。宗家である父でも、もしかしたら適わないのでは、と。そう思うことさえも有った。
・・この人にはいったい、どれほどの技前が隠されてあるのだろう・・。
 いつも牟宇(ムウ)は言葉を惜しむかのように急いで、ただ操法の組手を何度も繰り返した。それでも時折り真怡阿(マイア)の上達を確かめ得たようなそんな時にだけは、忍ぶように微笑を零すこともあった。真怡阿(マイア)はその笑みが好きだった。
・・この人はどこへ帰るの、どんなことを考えているの。
 真怡阿(マイア)は時折り思う。自分はもしかしたら牟宇(ムウ)のことが好きなのかもしれない、と。
・・ああ、だけど私は悔しい・・。あの人には分かることがどうして、私には分からないの。この踏み足は、どうして・・。
 冥府山に向かい繰り返す舞の形を、那(ナ)太(ダ)が物思いに沈む眸で見つめているのにさえも気がつかない。それが理解出来なければ、牟宇(ムウ)に対する自分の気持が決まらないように、真怡阿(マイア)は思い込んでいた。そのことが一層真怡阿(マイア)を真剣にさせていた。
ーお前・・。
 暫くして、那太(ナダ)は呼んだ。
ーどうしても知りたいのかい、それが。
ー知りたいわよ。
 うっすらと汗ばんだ頬。生命の熱い息吹を宿して輝く娘の眸を、那太(ナダ)は眩しく見た。
ー歩くと舞う・・。
 呟くように那太(ナダ)が問う。
ーどこが違う。
ー目的の場所。
ーとは・・。
 娘の成長を確かめるように、那太(ナダ)は静かに訊いた。
ーどう違う・・。
ーこの世に存る場所へ行くのが歩くこと、舞うとは世にない永遠の場所へ向かうこと、だから、舞の踏み足にはその一歩に無限の時と存在とが含まれて存る。
ー模範的な答えだな。
ー違うの。
ー違いはしない、が、お前はそう思っているかい。
 真怡阿(マイア)は黙っていた。
ーそう感じているかい。
 黙って首を振った。那太(ナダ)は一度だけ強く自分の腹を叩いた。良く響く音が山に当たって返るようだった。
ー舞の下手は所作の手に意味をつける、けれど上手はなあ、意味の存る形を見出して舞の手にする。良いかい、真怡阿(マイア)。
 ふと那太(ナダ)は口籠った。
ーだが・・。
 那太(ナダ)の言い淀みは何だったのだろうか。真怡阿(マイア)はいつか遠い日にそれを理解する。
ー良いかい、真怡阿(マイア)。牟宇(ムウ)の踏み足は牟宇(ムウ)だけのものだ、お前はお前で自分の型を見つければそれで良い。
ー嘘。
 突き刺すように真怡阿(マイア)は言った。
ー父さん、嘘を言っている。だったらどうして定められた型があるの。あの時に父さんは、牟宇(ムウ)の使った踏み足が違うと言った、それではいけないと確かに言ったわ、それなのにどうして今、そんなことを言うの。
ーお前・・。
ー真怡阿(マイア)の言う通りだ。
 真怡阿(マイア)の勢いを殺ぐように、二人を見て声をかけたのは訶伊(カイ)と名を呼ばれた男だった。明日登る冥府山に、春日の節祭りにその男は招かれていた。摩礼須の、歌司だと云う。
ー雲奔りの那太(ナダ)も、娘に遣り込められる歳になったか。
ー馬鹿を言うな。
ー真怡阿(マイア)。
ーはい。
 男は微笑んだ。
ーお前さんが散々繰り返しているのは、それは忌み足だよ。
ー忌み足・・。
ー禁じられている。
 少しの間意味が分からないように真怡阿(マイア)は黙っていた。那太(ナダ)は何も言わない。
ー禁じられてって・・。
ーその理由は明日、山の上で教えて上げるよ、真怡阿(マイア)。
ー何故明日なの
ーあそこで知るのが一番相応しいだろうから、だから。良いだろう、那太(ナダ)。
 那太(ナダ)は低く唸った。その父と訶伊(カイ)との顔を見比べて、真怡阿(マイア)は再び父の行動の不可解さ思った。禁じられた踏み足ならば、どうして黙認していたのだろう。毎日のように、踏み足を試すところを見ていた筈なのに。
ーさあ、明日だ。親子で喧嘩はもうやめだな。
ー喧嘩なぞ。
ーじゃ、隠し事もなしだ。
 明るく響く笑い声を立てて、その男は二人の間を擦り抜けて過ぎる。夕の迫った冥府山の山麓に、歌司の男の影が長く伸びていた。後ろ姿を見送る真怡阿(マイア)と那太(ナダ)は、それぞれに違った表情を影に潜ませていた。
 山上の琴。
 大地はそこに奇跡を行なっていた。生れて初めて見る大地の琴を、真怡阿(マイア)は顫える想いで見つめていた。
 冥府山の麓に幕屋を張る真怡阿(マイア)が、大地の琴を知らずにいる筈もなかった。年に一度の祭りのことも知っていた。けれども毎年、真怡阿(マイア)はその時期には冥府山には居なかった。常に旅に在って、春日の節祭りには別の場所の摩礼須の聖地を、順次に巡って過ごしていた。山上の祭りが子どもに向くものではないことは、真怡阿(マイア)も聞いていた。何処か厳しいものを含んでいるのも。事実は今分かる。

第一章 真怡阿(マイア) 三

 その朝はまだ暗い内に始まった。
 遠くでする鶏の、二番の声で真怡阿(マイア)は浅い眠りから覚めた。二人は朝食も摂らずに幕屋を出た。道には既に歩く人が居る。誰のつけたものか、古い道を辿って冥府山を登る。
 道は意外に確かなものだった。たった一年に一度だけしか使われていいないのに荒廃した様子が殆どない。異常な程に整った道。真怡阿(マイア)は知らなかったがその道こそが、伝承の沙名都(サナト)が築いた道だった。沙名都(サナト)。不思議な名で呼ばれる伝説の存在。真怡阿(マイア)は道を登りながらその男の言い伝えを聞いた。
 人が死んで、本当に生き返るものなのかは分からない。だがその男はそうだと云う。しかも二度死に、二度生き返った、と。不思議な言い伝えだ。その男の正体は分からない。龍を自由に操ると云い、自分自身が龍だったとも云う。摩礼須(マレス)の出自ではないかと話もあるが、一方で摩礼須(マレス)の憎むべき、法士と言う説もある。だがそれが何者であれ、神々への復讐を誓った礼以(レイ)の、死人狩りを封じたことが事実と伝わる。
 嘗て、一年に一度来る或る夜に、緑の色をした猟犬を連れて礼以(レイ)は、昇る月の巡りと倶に死を刈り入れていた。人々を扉の蔭に怯えさせ、出遇う者総てを死に奪い去った堕ちたる神。沙名都(サナト)の名に忘却と時の呪法を施された礼以(レイ)は、復讐と眠りと永遠との狭間で、増え続ける死者の数を永劫に指折る呪縛を受けた。死界の女主を嘗てその棲む月から引き降ろし、冥府の闇の底に繋いだ者は確かに沙名都(サナト)と名を残した。忘れ草の紋章を刻む、大地の琴を徴しに。
 黯い血の色に似た紅玉の燦めき。真怡阿(マイア)の初めて見る石の琴には、奇妙に何故か忌まわしい印象が存った。その形は礼以(レイ)の玉座の紅玉から作られたと云う。時の呪法を奏でる紅玉の琴。三十三の石の弦は黯く紅の色を閃かせて霧に濡れていた。
ーあの石はそのまま、冥府の底にまで通じているのだそうだ。
 訶伊(カイ)の声が耳元でする。
ー私には分からない、何故いまだにこんなことにこだわっているのか。
ー今年はたったの六人か。
 那太(ナダ)が大地の琴を囲む人数を数えていた。ー少し少ない気がするが。
ー誰にも鳴らせないのだから、あれでも多いくらいだろう。
 訶伊(カイ)は始めから諦めているようだった。
ーそうは言うがなあ訶伊(カイ)、鳴らした者も居るのだぞ。
 ふと訶伊(カイ)が黙った。延々と続いた儀式が終り、試しの時は来た。灰色の霧の向こうでは陽が沈もうとしていた。僅かな赤みが灰色に混じる。
ー大地の琴を奏でることが出来れば、我等の故郷への道が開く筈だったな、那太(ナダ)。
ーそう伝える。
ーではその時に何故、道は開かなかった。ー奏でた者の意志だったのかもなあ
ー死者を喚び返す・・。
 弦の三十三を眼で追いながら、真怡阿(マイア)は言葉の響きに寒気がした。耳に死の息を吹きかけられたようで。
ーあの人たちは琴を弾くために来たの。
ーそうだ。
 那太(ナダ)が応えた。
ー年に一度来る儀式だな。
ーたった一人の例外を除いては、今までに誰も鳴らした者はない。
ーその人はどうして例外なの。
ー摩礼須(マレス)ではないからさ。
ーおまけに良くない目的でな。
ーどんな風に良くないの。
ー死者を喚び返そうとした、その男は。
ー男。
ーああ、自分の愛人を礼以(レイ)の腕から取り戻そうとした。
ーそうなったの。
ー分からない。
ー誰も、完全には知らない。
ー死んだの、その人。
 訶伊(カイ)と那太(ナダ)とが同時に首を振る。
ーその男は永遠に死ぬことはない。
ー不死の呪いを受けた。
ー不死が呪い。
ーそうだ。
ーじゃ、もし弾くことが出来たらその人のようになる。
ー分からないな。
ー本当に分からない。
ー私たちの・・、摩礼須(マレス)の伝承では、この大地の琴を奏でることが出来れば、失くしてしまった故郷を再び見出すことが叶うと伝えるのだが・・。
ー本当。
ーと、信じたい。
ー信じなければ。
 訶伊(カイ)が息を吐く。
ー摩礼須(マレス)は、生きて行けない。
 訶伊(カイ)の摩礼須(マレス)としての生き方が、今ここに居る六人の試し手たちよりも過酷なものだとはまだその時、真怡阿(マイア)は知らなかった。
ーでも、どうして死なないことが呪いなのか分からない、とても良いと思うのに。
ー死ぬことのないのがかい。
ー私だったら御免だね。
ーどうして。
ーなあに、今に分かる。
ーそればっかり。
ーし・・、そら、始まるよ。
 祈り・・。一人一人の祈りと、それに続く儀式めいた同じ結果。六人の六度の失敗を、誰もが胸の塞がる想いで見た。楽人としてそれぞれが、摩礼須(マレス)に遠く名を馳せた者たちだと云う。その彼らがどれほどの想いを籠めて弾いてさえ、大地の琴は石の乾いた響きさえも立てない。爪の剥がれる音までも紅玉に吸い込んで、石の琴は彼らを拒絶した。
 誰かの口に微かな祈りの呟きがする。最後の男がその両手の爪を総て失い、血だらけの指を石の琴から離した時に儀式は終った。辺りは既に闇に沈み、仄かな白さだけが東の地平に近い辺りで月のように見えていた。
ーこれまでか。
 訶伊(カイ)の呟きだった。諦めているようには見えても、訶伊(カイ)も摩礼須(マレス)には違いなかった。
ー酷い・・。
 真怡阿(マイア)は余程、衝撃を受けているようだった。まさかこれ程に血臭い儀式とは。
ー爪は、また生えて来る。
ー気の毒なのは彼らの心さ。
 訶伊(カイ)と那太(ナダ)に挟まれて真怡阿(マイア)は大地の琴に背を向けた。
ーさあ、帰ろう。帰りながら、真怡阿(マイア)の知りたい踏み足のことを教えてあげよう。
 六人の楽人たちを残して立ち合う者たちは振り返りもせずに、それぞれに山を下って行く。それが、彼らに出来る最上の慰めなのだろう。真怡阿(マイア)たちも同じようにして、石の道を再び戻り始めていた。その時。
 後方で鈍い音と幾つかの叫びがした。
ー何だ。
 身体に似合わない那太(ナダ)の素早さだった。遅れて訶伊(カイ)と真怡阿(マイア)が続く。戻りかけた人々も次々に返してくる。真怡阿(マイア)が那太(ナダ)の居るそこに追いついた時、その場所には血の匂いが更に濃く靄のように漂っていた。
ーしっかりしろ。
 那太(ナダ)の抱き抱えているのは最後に、大地の琴に挑んだ長身の男だった。人々が差し出す明りの下で、男の両腕が血に赤黒く染まっていた。
ー腕・・、手が・・。
 男の両手は手首から先が失われているのを真怡阿(マイア)は見た。そこから夥しい血を大地に流しているのを。
ー賦流阿(フルア)の、馬鹿野郎が・・。
 罵りながらその手に布を巻きつけているのが、男の同僚らしかった。
ーこいつ、何を考えやがったか、いきなり石を叩きつけやがって。
 その男は、大地の琴の紅玉の無音の弦を目がけて石を振り下ろしたのだ、と。
ー確かに音はしたが、そいつはこの賦流阿(フルア)の、両手が吹き飛ぶ音だったんだ。
 青い顔を返り血と涙で汚した男が叫ぶ。その男の爪も、総てなかった。
ーこいつは、この石の琴は本当に冥土にまで繋っているに違いねえ。
 石が砕け飛ぶのと同時に、男の両手も闇に消し飛んだのだった。
ーもう二度と、伶人には戻れねえなあ、賦流阿(フルア)よお。
 治療は旅に在る摩礼須(マレス)の誰もが成した。だが誰も、賦流阿(フルア)の魂の傷は癒せない。そのことを真怡阿(マイア)は、今初めて知った。
 誰もが無口だった。帰り着くまで誰も、何も言わなかった。時折り聞こえるのは賦流阿(フルア)の呻きだけだった。熱に魘されるように賦流阿(フルア)は正気を失っていた。呟く譫言は冥界の暗さに満ちていた。闇の底から礼以(レイ)自身が喚ぶように、賦流阿(フルア)は本当に死の髪の靡きに捉えられてしまったようにさえ思えた。
 真怡阿(マイア)は初めて、里人が冥府山を忌む気持が分かるような気がした。冥府山が、もの言わぬ大地の琴が憎かった。真実憎く思った。けれど一方で、どうにも抑えきれない程に熱く憧れに似た気持が何故か湧くのだった。何故か、真怡阿(マイア)は分からない。一体自分はどうしたのか。憎めば憎む程一層強く、この冥府の山に魅きつけられる。それが、摩礼須(マレス)の血なのか。真怡阿(マイア)は痺れたような頭の芯で、自分が何か別の人に生まれ変っていくような、そんな眩暈を覚えた。もしかしたらそれが、運命の足音なのかもしれない。心の何処かでそう囁く声が存る。ふと、真怡阿(マイア)はそんな気がした。
ーあの踏み足はな、死者を喚ぶためのものなのさ。
 約束通りに訶伊(カイ)は告げた。
ー牟宇(ムウ)が忌み足を使ったのは既に鳴り響いている、しかも処もあろうにあの石室のなかでだ。あの古墳は、我等をこの地に導いた遠い首長のものだ。そこでの死者を喚び返す忌み足、酷く不吉だ。
 訶伊(カイ)の言葉は永かった。
ー良くも悪くも摩礼須(マレス)の歴史は古い。伝承の真偽さえ見分けがつかない程に。この日起きた出来事もその一つだ。何が正しい祭りか伝承の儀式なのかそれも、今や誰にも完全には分からない。王家の者にさえ異なった伝承が伝えられているのだ。
 訶伊(カイ)は遠く言う。
ーこの私も同じだ。真偽の分からない伝承のために生きている。なあ、真怡阿(マイア)、私の仕事はね、たった一人の歌人を探すことなんだよ。信じられるかい。君の知っている歌う人ではないよ、私の探しているのは額に緋い徴しを帯びた人、真実の歌を歌える人なんだ。その人の額の徴しは誰にも見えない、その人の歌を聞いた者は何処にもいない、けれど私はその人を探さなければならないんだ。
 不思議な話だった。真怡阿(マイア)はじっと聞いていた。
ー私はそのために一生を生きる。それは、摩礼須(マレス)総てが認めた生き方だ。だから私は何処ででも、必要とあれば摩礼須(マレス)の誰にでも税を要求できる。何故ならそれは摩礼須(マレス)の生きる理由を生きているからだ、けれどね、真怡阿(マイア)。それでも、伝承が正しいかどうかはもう誰にも分からないんだ。これはね・・。
 訶伊(カイ)は息を止める。
ーこれは、祈りなんだよ真怡阿(マイア)。
 自分に言うようだった。
ー分かるかい。だから、誰がどんな祈りを上げようと正しいんだ、たとえ忌み足を使って死者の力を得ようとしても。
ー禁忌のわけを教えて、訶伊(カイ)。
ー牟宇(ムウ)は彼の方法で、摩礼須(マレス)の故郷を見出そうとした、私はそう思う。牟宇(ムウ)に賛同する者も少なくはない、いや、寧ろ多いと云えるくらいだ、特に若い者たちには。伝承の真偽は、試すことで判明するのだと言う者さえも有る。不思議だなあ、真怡阿(マイア)。何故か私たちの、摩礼須(マレス)の失われた故郷の伝承には死の棲む世界と背中合わせのものが多い。いや、死そのものが我等の故郷なのかと、そう思ってしまう程にな。だから、死者を喚び返す踏み足だけを、忌み足として底にしまい込むことはない。極めたければ極めるが良いんだよ、真怡阿(マイア)。
 訶伊(カイ)の言葉は十二歳の少女には、まだ複雑過ぎたのかもしれない。真怡阿(マイア)はただ、踏み足にそんな意味が有るのが意外だった。死を送る葬礼の踏み足は知っていても。
ー訶伊(カイ)は、あなたはその歌人が何処かに在ると信じているの。
ーああ。
 迷いはなかった。
ー何百年、何千年探し続けたかそれは知らない、けれど、私も探し続けるだろうよ。その人の歌が、我等を救うと信じるから。
 真怡阿(マイア)は小さく息を吐いた。
ーその人の名は。
ー沙梳(サラ)・・。
ーそれは私たちの神さまの名前。
 訶伊(カイ)は頷く。
ーそうだね。
ー不思議なお話・・。
ー不思議だな。
 訶伊(カイ)の吐く息の重さを、真怡阿(マイア)は憧れのように遠く感じた。その憧れが真怡阿(マイア)の胸に遠い牟宇(ムウ)を想わせた。

第一章 真怡阿(マイア) 四

 ひと夏が過ぎた。
 須須(スス)と云うのがその驢馬の名前。旅から、牟宇(ムウ)が真怡阿(マイア)に送った驢馬だった。真怡阿(マイア)は驢馬乗りと摩礼須(マレス)を蔑む里者の言葉を思い出した。蔑みは真怡阿(マイア)を傷つけなかったが、牟宇(ムウ)は・・。
・・あの人は。
 真怡阿(マイア)は牟宇(ムウ)の引き締まった硬い腕に、僅かな力が加わったのを思い出す。あの夜。
・・この人はいつ、こんな傷を負ってしまったのだろう。
 牟宇(ムウ)の心が軋みを上げるように、真怡阿(マイア)にはその声が聞こえるような気がした。悲しみが身体に沁みて、牟宇(ムウ)が憐れだった。
・・牟宇(ムウ)、あなたを傷つけるものは、なにもないのに・・。
 掌に触れる鼓動が、愛しかった。そして遠く感じさせた。儚く失われて行くように。
・・私が、あなたを護ってあげるわ、あなたの傷を癒してあげる、きっと
 愛しさが胸に込み上げて、噎び泣きそうに息が顫えた。牟宇(ムウ)は無言でいた。真怡阿(マイア)も何も言わなかった。軋みを上げる牟宇(ムウ)の心に唇を寄せるように頬を寄せ、真怡阿(マイア)は祈った。・・どうか、沙梳(サラ)、この人の心を、安らぎに導いて下さい。
 真怡阿(マイア)はけれど男の持つ魂に、女には癒せない渇きが潜んで存るのをやがて知った。
 苦しみを求めるように、牟宇(ムウ)は摩礼須(マレス)を糾合する。銀月の旗の元には若者たちが、最初に呼応した。彼らは見事に武装していた。いつの頃から備えをしたのか武装する摩礼須(マレス)の軍を、誰もが初めてこの世に見た。
 驢馬を駿馬に替えて、銀月の旗を靡かせ彼らは各地に散った。やがて牟宇(ムウ)の抱いた夢を理想として、男たちは戦いの場へと自らを駆り立てる。真怡阿(マイア)の元には牟宇(ムウ)の代わりに、須須(スス)と名を云う驢馬だけが残った。
 時代の風は、摩礼須(マレス)にも吹く。冥府山の麓では幾つもの幕屋が畳まれた。銀月の旗に加わる者が居た。戦いを嫌って遠く去る者も居た。摩礼須(マレス)を魅きつけて止まなかった冥府の山の風も、今は空疎に冷たく過ぎるだけだった。
ー行くのかい、真怡阿(マイア)。
 最後の弟子を相手に、五歩陣の基本形を教える那太(ナダ)は、娘の支度に手を止めた。
ー牟宇(ムウ)に伝えておくれ、これが、舅からの贈り物だと。
 鋭く息吹が迸った。一呼吸をするだけの間に那太(ナダ)は、複雑な一連の型を淀みなく展開して真怡阿(マイア)に示す。
ーあ、それは・・。
 一瞬で秘伝の開示は済んだ。まだ若い弟子だけが、那太(ナダ)の行なったことを理解しなかった。師の美しい動きに、ただ見取れて立っている。だが真怡阿(マイア)は。
ー有り難う、父さん、浮舟の蔭身、確かにあの人に伝えるわ。
ーうんうん、そうしておくれ。
 それだけを言うと那太(ナダ)は、再び弟子に向き直り、初めの形を繰り返させた。もう真怡阿(マイア)を見ようとはしない。
 真怡阿(マイア)は驢馬を西に向けた。北に聳える冥府山は今日も靄に隠れて定かには見えなかった。微かな驢馬の歩く音を背に、那太(ナダ)はひとり口の中で呟いていた。
ーあの人だと・・。母さん、聞いたかい、あの人と言っていたよ、うちの娘は・・。あの人だと・・。
 少年は横目で師の様子を窺いながら、与えられた基本の課題を忠実に繰り返し、繰り返していた。

第一章 真怡阿(マイア) 五

 荒れ野の風は、真怡阿(マイア)には優しい歌のように聞こえる。砂の大地の逃げ水を、真怡阿(マイア)は美しいと感じていた。あの陽炎の向こうに牟宇(ムウ)が在る。必ず在ると真怡阿(マイア)は信じた。風に巻き上げられた石英の砂が肌に刺さった。もう何日こうして歩いているのか、真怡阿(マイア)は忘れていた。ただ会いたかった。牟宇(ムウ)の声だけが、聞きたかった。
ーあともう少しで斐備(ヒビ)、斯自(シジ)の行者たちが住む赤い岩山だ。
 賦流阿(フルア)が義手を上げて指す。
ー愚かな隠者たちだが、迦賦輪(カフワ)王に与していないのはこの辺りで、もう彼らだけだろうからな。
ーそこに、あの人が居るの。
 真怡阿(マイア)は須須(スス)の口綱を軽く引いた。
ーいや。
 下ろした義手が腿に当たって乾いた音を立てる。
ー新王さまは、迦賦輪(カフワ)の軍と居る。
 賦流阿(フルア)は牟宇(ムウ)を、新王と言った。摩礼須(マレス)に王の血筋は有っても王そのものは頂かない。真実の王は失われたその故郷にこそ存るのだと伝えた。それが。
ー迦賦輪(カフワ)の軍は恐ろしく強い、特にあの緋の戦士と呼ばれる化け物ども。
 そこまで言って賦流阿(フルア)は砂地に唾を吐き捨てた。
ーあれは、あの者どもは本当に化け物だ。だが、強い、異常なまでに強い。その上に我等が里者の知らない、迦賦輪(カフワ)も知らない助力を与えたらどうなるか。我等と迦賦輪(カフワ)の軍とが組めば不可能はない、戦わずして既に勝ちは決している。
ーどうして牟宇(ムウ)は迦賦輪(カフワ)王の戦いを助けるの、摩礼須(マレス)は総てを超えて何者の支配をも受けない筈。
ーそうだ。
 牟宇(ムウ)と真怡阿(マイア)が呼び捨てた時。賦流阿(フルア)の気配が少し動いた。
ー迦賦輪(カフワ)が我等を支配するのではない、我等が迦賦輪(カフワ)を使うのだ。
 賦流阿(フルア)の言葉の響きは何故か牟宇(ムウ)を思い出させた。そこに居て真怡阿(マイア)に言うように。
ー摩礼須(マレス)の耳は長い、同じようにこの腕もな。迦賦輪(カフワ)は我等から得るものが貴重になる筈だ、戦になれば敵軍は我等の力で背後から壊滅するだろう、迦賦輪(カフワ)は容易い戦をする。そして王覇の軍を更に進める。やがてこの世に立ち向かえる者はなくなるだろう、その時こそが我等の王国の建つ時。我等は、迦賦輪(カフワ)の覇を自らのものにする、そうだろう、それが当然の権利だ、世界は初めに、摩礼須(マレス)のものであったのだからな。
ーあなたも牟宇(ムウ)と同じことを言うのね。
ー当然だろうな、新王さまは我等の盟主なのだ。
ー良くないわ。
ー何。
 真怡阿(マイア)の言葉が気に入らないのか、賦流阿(フルア)の声が激しくなる。
ー何が良くないと。
ーそれは、不吉だわ。
ー女め、摩礼須(マレス)が自らを占うのは禁忌の筈ではないのか。
 賦流阿(フルア)は急に気がついたように言葉を切った。摩礼須(マレス)の禁を犯しているのが誰か、それ以上は語りたくなかったのだろう。ただ黙って、足元の石を踏み、砕いた。真怡阿(マイア)は須須(スス)の口綱を引き寄せながらその時に、漠然と胸に抱いた不安が育つのを感じた。
 奇妙な集団だった。
 斯自(シジ)の神に仕える行者たちは巾広の布を一枚、身に纏うだけだった。目的が苦行に存るのかそれとも苦痛そのものは忌むのか、それも定かではない。彼らは、岩山に深く籠って常に神意を願った。それが何故摩礼須(マレス)と協力するのか真怡阿(マイア)は知らない。斯自(シジ)の神の意志なのか、生きるための最低の施しを摩礼須(マレス)に受けるためか。世を避け、寒食を常として燃える火を避ける彼らは、冷え込む夜にも決して焚火をしなかった。明りをも持たない。今宵焼け石を厚く包んだ保温具だけが彼らを温める。それは摩礼須(マレス)の馳走だった。
 懐に石の重みを感じながら真怡阿(マイア)は行者たちの視線を居心地悪く受け止めていた。もしかしたら行を積んだ彼らには身に纏う服を透かして自分の膚が見えているのではないかとそんな気さえする程に、彼らの両眼は異様に輝いていた。宙天にかかる月を写す地上の眼光の数々。いつの間にか増えた無数の眼が、真怡阿(マイア)には不安の鼓動で瞬いて見えた。
ーその女を預かれば良いのか。
 低い処で声がした。嗄れて、奇妙に無機質な声だった。
ーそうだ、丁重にな。
 応えたのは賦流阿(フルア)。
ー新王さまの、世継ぎを宿しているのだからな。
ー王妃か。
ー今はまだそうではない。
ー渡り衆のすることは分からぬものよ。
 硬い音は賦流阿(フルア)の義手か、驚くほどに大きく響いた。
ー怒るな、斯自(シジ)の神が下された有難い寿命を縮めるぞ。
ー俺の寿命は俺が決める、お前らの神は要らん。
ー人に何が決められるものか、総ては神の思し召しよ。
 一斉に地上の月が瞬いた。
ーさてさて、ところでその女は随分と物騒な匂いをさせておるが。
ー物騒。
 ふと言葉に詰まったが賦流阿(フルア)はすぐに気づいた。
ー成程そうだろうな、これは我等の使う操法の宗家だからな。
ーふむ、体術か。
ー違う、気法だ。
 再び地上に明滅が起きる。
ーお主、今確かに気法と言ったな。
ーそうだ。
ーおお。
 周りを囲む岩の柱を、擦り抜けるように風が通った。夜の下で、何処までも奇形に聳えるその岩の遥かな高みへ風は消えて行くようだった。
ー女の身に、気法を修め得ているのか。
ー並び立つのはこの父親と、我等が新王さまだけだろうな。
ー見せてくれ。
ー何だと。
ーその女が気法を使う処を是非見たい。
ー操法を見世物にしろと。
 賦流阿(フルア)の振り向く気配がした。
ーああ言っているが。
ー良いわ、そのうちにね。
ー駄目だ。
ー何。
 強い言葉だった。隠者の発する気合ではなかった。
ー今でなければならぬ。
ー何か理由が有るのか。
ー言えぬ、言えぬが、頼む。
 真怡阿(マイア)には不思議な気がした。こんな世捨人のような人たちが操法を見てどうしようと云うのだろうか。何故そんなにも熱意を示しているのか。摩礼須(マレス)の操法は武技であり、生きる命そのものと言っても良い。枯れ果てて生きるこの人たちにこそ、最も縁のないものだろうに。
ー良いわ。
 面倒なことはない。この人たちは牟宇(ムウ)の味方なのだから。真怡阿(マイア)は牟宇(ムウ)の為に出来ることをしたかった。
ー見たければ見せて上げる、けれど型だけよ。
 それに続くその夜のことを、後になって真怡阿(マイア)は何度も想い返した。何故そんなことになったのだろうか、と。
ー私がここへ来たのも牟宇(ムウ)が、あの人がそう望んだから。あなたたちがあの人を助けてくれるのなら、私はいつでもあなたたちの役に立つ、それで良い。
 月に明りを消された星の辺りを仰いで、真怡阿(マイア)は静かに息を吐いた。
・・私の赤ちゃん、少しの間だけだからね、驚いたりしないのよ。
 温石を赤子のように地に置き、真怡阿(マイア)は緩やかに前へ出る。その分だけ、行者たちの黒い影が退いた。
ー賦流阿(フルア)。
ー何だ。
ーあなたは、千手を知っているわね。
ーああ、好きな曲だった。
ーじゃ、歌って。
ー歌う・・。
ー忘れたわけではないでしょう。
 戸惑ったように賦流阿(フルア)は沈黙した。鈍い痛みが失くした筈の指先に甦える。
ーそうか・・、歌、か。
 賦流阿(フルア)の気配が変わった。真怡阿(マイア)の背後で風が四方へ散るようだった。四方へ散った賦流阿(フルア)の息が再び緩やかに戻り始める。戻り、収束しきった瞬息の間。一瞬時が止まる。
 賦流阿(フルア)は歌を忘れてはいなかった。硬い指の音で拍子を取り、五つの顫音を複雑に共鳴させて賦流阿(フルア)は歌った。
 千手の諧調は、古風な緩やかさを帯びていた。その緩やかさの中で真怡阿(マイア)は、美しい舞のように操法の型を闇と月明りの狭間に置いて行く。ひとつの型を置き。ひとつの型に移り。重ね、積み重ね。
 斯自(シジ)の行者たちの間にやがて静かな波紋が拡がる。それは何か。彼らは何を見たのか。始息から終声までを繰り返す賦流阿(フルア)の歌。時の流れを形に見せて調息を迸らせる真怡阿(マイア)。やがて、奇岩に囲まれた荒れ野の夜に、奇跡が舞い降りた。
 賦流阿(フルア)の声に乱れが走った。だがそれも一瞬。強靭な意志が動揺を捩じ伏せる。楽人の魂が賦流阿(フルア)の深い処で目覚めていた。今、生れつつあるこの時が稀有の時であるのを、賦流阿(フルア)は予感した。そして、見た。
 いつしか岩の広場の闇の凝る辺りに、薄く仄光る人の形が白く現われていた。初めは闇の辺りだった。だがすぐにそれは至る所に拡がって殖えた。幻か。それとも荒れ野の怪異か。幾つもの人形はそれぞれに違う形を白く仄光らせた。賦流阿(フルア)の鋭い眸はやがてその姿を見分けた。終声が再び撥ねる。賦流阿(フルア)の見たそれは、それらは総て真怡阿(マイア)の形をしていた。奇岩に囲まれた広場そのものが発光するように、真怡阿(マイア)が繰り展げる操法の型がその奇跡の真実の姿だった。
 そして真怡阿(マイア)自身が、誰よりも動揺していた。
・・これは、なに・・
 息は身体を通じて自由に往き来していた。そこに真怡阿(マイア)の意志は介在しない。夜そのものが呼吸するように、星々の明滅と息とは同じ時の上に存る。もうひとつ。斯自(シジ)の行者たちの瞬く眼が存った。多くの意識が真怡阿(マイア)の息と倶に、真怡阿(マイア)を通じて呼吸していた。
・・こんなことは、なかった・・
 操法の型は舞と同じに、身体を息と見ていた。違うのは一方は己を働きそのものに変化させて対象へと放つ武技。一方は神を喚び込み永劫の時へと渡る。
・・何が、起きているの・・
 既に自分は自分ではなかった。名を失い、存在を失い、時を渡る風のように果てしない過去から無限の形を、夜の中へ導き出すための通路に過ぎなかった。今までにも時折り感じたことは有った。歌が身体に入り高揚して舞う時。繰り出す技に息が駆け抜けた時。その時だけは、時の流れが停止したように静かだった。心も魂も何も映さず何も陰を留めなかった。似ていた。その時の感覚に。だが何処かはっきりと違う部分が存る。何処かに、何か。
 賦流阿(フルア)もまた、別の感動に顫えていた。
摩礼須(マレス)に存る操法の真実の意味を賦流阿(フルア)は、この時に知ったと思った。
・・そうだ、操法と舞とは、同じ一つの目的を持っていたのだ。
 顫えながら賦流阿(フルア)は歌っていた。涙が止まらなかった。求めて已まなかった嘗ての、伝説の存在を賦流阿(フルア)は信じた。
・・沙梳(サラ)の約束した〈時〉とは、此処に通じていたのか。・・沙梳(サラ)の歌を、今こそ俺は信じる・・。
 賦流阿(フルア)は沙梳(サラ)に祈った。

第一章 真怡阿(マイア) 六

 耳元でする声に、真怡阿(マイア)は気がついて目を覚ました。それまでに見ていた夢が、身体から流れ出て行く。真怡阿(マイア)はその声にすがりついて、泣きたいと思った。
ー牟宇(ムウ)・・。
 まだ夜は明けていなかった。
ー聞いた、賦流阿(フルア)から。
ー何を・・。
 匂いが懐かしかった。
ー神髄を、味わったそうだな。
ー分からない・・。
ー私にも、一度だけ有る。
ーあなたが・・。
ーああ。
 真怡阿(マイア)はそこだけが唯一の安らぎの場所であるように、牟宇(ムウ)の胸に顔を埋めた。
ー夢を見たわ、私たちの赤ちゃんの。
ーそうか。
ーそう、不思議な子よ。
ー産まれた夢なのか。
ーううん、・・不思議な子。
 真怡阿(マイア)はそれだけしか、夢の中身を言わなかった。
ー時間がない。
 はっと顔を上げる。
ー良く聞くのだ、良いな。
 真怡阿(マイア)は牟宇(ムウ)の眸を見ていた。
ー迦賦輪(カフワ)王の軍に礼留具(レルグ)と云う者が居る、緋の戦士たちの長だ。
 牟宇(ムウ)の口調に堅いものが混じる。石を呑んだように。
ー摩礼須(マレス)に疑いを持っている。
ー疑い・・。
ーもしかすると、私は奴に殺されるかも知れない。
ー何ですって。
 真怡阿(マイア)が起き上がる。
ー静かに。
ーそんなこと・・、どうして。
ー礼留具(レルグ)は、人質を差し出すように言ってきた。
ー私がなるわ。
ー駄目だ。
ー何故。
ー奴の疑いは深い、事が済めば我々を始末する気でいるのだろう、人質はその時のためだ。
ーだって、それなら・・。
ーこれから、摩礼須(マレス)が大勢が死ぬ、そのことは良い。
 真怡阿(マイア)を制して牟宇(ムウ)は続けた。
ー自由に死ぬためには、人質は邪魔だ、そのために心を萎えさせる者も出るだろう。誰しも身内は大切だ、特に我等摩礼須(マレス)にとってはな。だが、迦賦輪(カフワ)の力を利用してしか摩礼須(マレス)の王国は来ない。戦は果てしがない、戦い続けることの出来るのは、不死と噂の存る迦賦輪(カフワ)と彼の魔軍戦士団ぐらいのものだろう。摩礼須(マレス)は剣では戦わない、戦えば迦賦輪(カフワ)に負ける。知恵を使うのだ。知恵を使い、時を利して摩礼須(マレス)は、迦賦輪(カフワ)の戦い獲った王国を我等のものとするのだ。我等のものの筈の土地が奪われたように、我等が奪い返す。摩礼須(マレス)は、盗まれたものを盗み返すのだ。
ーどうやって・・。
 真怡阿(マイア)は泣いていた。余りに遠く、この人は行ってしまった、と。
ー疑う者には疑わせておけば良い、それ以上に迦賦輪(カフワ)にとって、摩礼須(マレス)の存在をかけがえなくさせておけば良いのだ。だが、既に礼留具(レルグ)は強引に摩礼須(マレス)を狩り始めている、理解し難いことだが我等の諜報を欺いてだ。運悪く手に落ちた者が徐々に増えている、救い出すが、また出るだろう。良いか真怡阿(マイア)、お前は、決して奴等の手に落ちてはいけない。私の子を産むのだ、私が死んでも、次の時代は来る。
ーあなたは言ったわ。
 牟宇(ムウ)を見上げて真怡阿(マイア)は言う。
ー王権が、何か。摩礼須(マレス)の王権は何かを享受する権利ではなく、義務だと言った。得るものは何もなく、摩礼須(マレス)の民の幸福のためだけに摩礼須(マレス)の王家は有るのだ、それこそが誇りなのだ、と・・。
ーそうだ、だからこそ私は、謂れのない蔑みを受けずに済む摩礼須(マレス)の世を招く。子どもたちが誇りを保って生きられる、我等の王国を取り戻すのだ。そうしたいのだ、我が民のために。
ー違う・・。
ー何が違うのだ。
ー違うわ・・。
ーだから、何がだ。
 真怡阿(マイア)はもう何も言わなかった。それに続く残された時を、諍いのために失いたくはなかった。

第一章 真怡阿(マイア) 七

 斯自(シジ)の行者たちが斐備(ヒビ)と呼ぶ、赤い岩の隠れ里。真怡阿(マイア)はその地に受け入れられた。
 斐備(ヒビ)の、赤い岩の隙間を吹く風はいつも緩やかに、時の狭間へ滑らかに落ちて行くようだった。緩やかに時は過ぎ、絶えることなく風は吹いていた。夜と昼とは天を巡り、天空を月だけがひとり満ちては欠けた。
 星々の中に運命が存るのか真怡阿(マイア)は知らない。だが星を見て、祈らずには居られなかった。牟宇(ムウ)と、もうひとつの生命のために。真怡阿(マイア)はその祈りだけを支えに暮した。
 身裡に息づく生命の息吹が、真怡阿(マイア)の日々を新たに生まれ変らせる。驚きは突然に訪れた。真怡阿(マイア)は目覚めるような想いに何度も顫えた。母になることの感謝を沙梳(サラ)に捧げて真怡阿(マイア)は祈った。だが、時折り届く便りから戦の臭いが薄れることはなかった。その便りさえも次第に細くなる。何処も迦賦輪(カフワ)王の始めた戦争で満ちていた。
 そんな日々のなかで此処だけが、不思議に嵐の外に存った。斯自(シジ)の行者たちは真怡阿(マイア)を何故か、慈しむように優しく見ていた。次第に増えて行く摩礼須(マレス)の女たちのために、彼らは自らの水場と住むべき岩穴を提供した。作物は彼らが為した。真怡阿(マイア)には斯自(シジ)の行者たちが、何を見て生きているのか分からなかった。しかしその穏やかな瞳の向こうに、彼らだけしか知らない、彼らの秘密が潜んでいるのを真怡阿(マイア)は確かに感じた。
 あの夜、以来・・。真怡阿(マイア)はまだ見ない子に、既に名を与えていた。もし男の子だったら、釐阿(リア)と云う名を。
・・女の子だったら・・。
 男の子だと知っている。真怡阿(マイア)にはそんな気がした。あの牟宇(ムウ)と別れた夜に見た夢。その夢のなかで、釐阿(リア)と名を云う男の子は確かに自分を母と呼んだ。
・・夢なのに。
 その子は、常人には視えないものを視ることが出来る。そんな夢だった。ただ真怡阿(マイア)には気懸かりだった。斯自(シジ)の行者たち。彼らは夢を、真怡阿(マイア)の見たその夢さえも知っているように、そう予感することが時に有った。
・・知って、この子の誕生を予期しているような・・。
ー真怡阿(マイア)よ
 行者たちの長老の一人。苦蓬の涅怡須(デイス)が青草を噛みながら言う。
ー憎しみも、悲しみも、そして罪さえもがこの地では砂になる。砂になり、やがて岩になる、血の色に似た赤い岩よ。
 何故急にそんなことを言うのか、真怡阿(マイア)は涅怡須(デイス)の口元を見た。年老いた驢馬に似て、皺に罅割れた老人の唇は草の汁に緑に染まっていた。
ーその岩がやがて育ち、儂らの住む赤い岩山になった。嘘かもしれぬ、しかし儂は信じる。この世は人の思う通りに存るものと、斯自(シジ)の神は告げられた。
 涅怡須(デイス)が自分から話すことは珍しい。真怡阿(マイア)は長老を怪訝に見た。
ー人は己が思う通りの者になる、そうだ、思う通りの者にな。けれどこの、気持と云うのは何かなあ、心とは・・。胸を切り裂いても心は見つからぬ、この脳髄の中か・・、いやいや、そうではない、だが心は存るのだ。何処にだ、え、何処に存る、・・そうだ。儂は思う、・・それは時の狭間に存るのだと。人は何故、何かになりたいなどとそんなふうに思うのかなあ。何処かへ行きたいと、己が姿を描くのであろうかなあ。人の気持とは、不思議なものだなあ。
ーあなたは斯自(シジ)に仕える行者に、なりたくてなったのでしょう。
ーそこだ。
ーえ・・。
ー分からぬのよ、それが・・。儂が思ったのか誰かが思ったのか、それとも、我が神斯自(シジ)の願いしことなのか。
ー神でも願うのかしら。
ー願うとも。
 涅怡須(デイス)は顔を輝かせて真怡阿(マイア)に言う。
ー斯自(シジ)の願いで儂らは生きて、存るのだ。それどころかこの世さえ、願いがなければ産まれなかったぞ、総ての始まりは願いに因って起きたのだからな。
 何故そんな話を涅怡須(デイス)はするのだろう。
ー斯自(シジ)の願いから産まれた儂らは皆、同じ心を持つのだ。変と思うかな。儂も始めはそう思った、だがやがて分かる。心は時の中に住まって存る、では時とは・・、さあ、そこよなあ・・。
 涅怡須(デイス)は何を話すのか。
ー儂は思うのだ、時とはな、たった一つのものなのだろうと。過去もなく、未来なく、この今もない。そんな時を分けようとは、風に目印をつけるようなものだろう、風は吹いているから風よ、止まれば、そこには視えぬだろう、時も同じことよ。流れが存るばかりで何処がどうと、区分けは効かぬのよ。無理に分ければ苦しみが生まれる、人の苦しみとはそうなのだ。心は風と同じに・・、あの時の心と云うものもなく、今の心もない、たった一つの流れの姿なのだよ、時と心とは。だから・・。
 不意に涅怡須(デイス)は黙った。黙って真怡阿(マイア)を見上げる。その涅怡須(デイス)の、皺に埋もれた両眼が急に潤んだ。真怡阿(マイア)が息を呑む間にも、みるみる大粒の涙は溢れて零れた。干乾びた頬に流れ落ちる涙を真怡阿(マイア)は呆然と見た。
ー涅怡須(デイス)・・。
ー儂はお前を見ておれぬのだ、お前には大きな不幸が待っている。
 涅怡須(デイス)は不幸と言った。
ー人の心とは元一つのもの、だが真実一つに寄り集まれば、それは神そのものになる。斯自(シジ)の産んだ、もう一つの神に。天上の神々はそれを許さぬ、人の不幸はそこに始まるのだ。お前たち渡り衆は不幸にも神に近い、神の世界へ渡る技を、そうと気づかずに弄する不幸を背負うのだ。儂らはここで、神々と折り合って倶に生きる術を見つめておる、なのにお前たち渡り衆は何故、自ら不幸を招き寄せるのか、儂には分からぬ。
 涅怡須(デイス)の言う言葉に、真怡阿(マイア)は眩暈を覚えていた。何か自分の不安を急に名指されたようで。
ー女はな、只でさえ神に近い。お前のことだ、それが不幸にも神の技である息使いをすると云う。儂は視た、お前が時の本質を顕らかにするのを、そうだ、お前が来たあの夜のことだ。神々が許す筈もないのを儂らは知っておる、神々の嫉妬の手はいずれ伸びてくるだろう、だがお前ほどには酷くはない。儂らはいつかそんな日が来るのを知っていた。予言のように儂らには伝えが存る、たった一人の女が儂らを滅ぼしに来ると。儂らはお前に遭った、そして終りが来たのを知った、それで良い。神々と折り合って生きることが儂らの生き方だからな、綺麗に滅びもしよう。人は斯自(シジ)の神の創り賜うたものだ、儂らはこの世で出来ることをしながら静かに消えて行こう。だが、それでも・・、儂にはお前が憐れだ。苦しみを、越える覚悟をしておくのだ娘よ、お前の苦しみを神々は望むだろう、真怡阿(マイア)・・。
 静かな響きのように、涅怡須(デイス)の言葉は深く沁みた。
 何故か、分からない。

第一章 真怡阿(マイア) 八

 あの日の涅怡須(デイス)の言葉は何であったのか、真怡阿(マイア)は過ぎて行く日々の中で時折り思い出す。あの日以来、涅怡須(デイス)は二度とそのことを口にしなかった。真怡阿(マイア)が訊ねても笑って応えない。夢か・・。
 やがて月は満ち、赤子は斐備(ヒビ)の隠れ里で生を受けた。男だった。産まれて来たその子の顔を、真怡阿(マイア)は痺れるような想いで見た。
ーこの子からはもう、離れられない。
 産まれたばかりの我が子を初めて見たその時に、自分の運命が決まったのだと思った。魂の芯をその子に、しっかりと捉えられてしまったことを真怡阿(マイア)は痛いほどに知った。
ーああ・・、沙梳(サラ)に感謝します、この子をきっと幸福にします。
 何故それほどに悲しいのか真怡阿(マイア)には分からなかった。涙が溢れて止まらなかった。けれど、その悲しみは何処までも甘く胸に沁みるのだった。痺れた腕に抱く赤子の重みは儚く、そしてかけがえがなかった。
ーそう・・、この子と二人で、きっと幸せになる、・・幸せになるの、私の坊や。
 いつまでも涙を流し、真怡阿(マイア)は我が子を強く抱き締めた。そうしなければその子の幸せが逃げて行くようで、真怡阿(マイア)は胸に赤子の顔を埋めた。甘い匂いが切なかった。
 しかしその時既に、心の片隅には不安が黒く座り込んでいた。打ち消しても打ち消し切れない不安の影を、真怡阿(マイア)は冷たく何処かに感じた。
 夢の通りに、釐阿(リア)と名を与えられた子は女たちと斯自(シジ)の行者たちの住む共同の暮しの中で育てられた。同じように斐備(ヒビ)へ来てから子を産む女も多かった。乳飲み子や極端な幼児を除いて子どもは少ない。摩礼須(マレス)の家族がいつもそうだったように、幼くとも自分の始末をつけられる者は生活を担った。戦いの場でさえも摩礼須(マレス)の生き方は同じだった。老人は尚更その持つ知恵を必要とされた。だがそれでも、斐備(ヒビ)に在る女たちは少ない。牟宇(ムウ)は、他の摩礼須(マレス)たちを何処へ避難させたのか。真怡阿(マイア)の疑問は、後から斐備(ヒビ)に加わって来た女たちが解いた。
 摩礼須(マレス)狩りが始まっていた。牟宇(ムウ)の予感の通りに迦賦輪(カフワ)の王軍は、離反を決して許さなかった。如何なる意図を抱こうとも行為は迦賦輪(カフワ)の為にだけにさせる。それが覇王の軍の意志だった。
 摩礼須(マレス)は散った。家族を解いて、組を崩して。斐備(ヒビ)や、似た隠れ里以外にも摩礼須(マレス)が逃れる奥山や、棄てられた廃都などが多く荒れ野には存る。地上の何処かに散って彼らは生きている。難民の暮しに似てはいたが摩礼須(マレス)は本来、野に生きる民。例え男たちが総て死んだとしても、摩礼須(マレス)は生き残るだろう。真怡阿(マイア)はそう思った。そう思ってから、その想像の恐ろしさに気づいて考えを払った。
・・そんな筈はない、あの人のすることなのだから、そんな筈が・・。
 真怡阿(マイア)は釐阿(リア)を抱いた。
 見知らぬ女だった。摩礼須(マレス)に混じり、違う気配を発する者が在る。暁闇の中で呼吸しながら真怡阿(マイア)は、女たちに混じるその姿を見極めようとした。だがそれが奇妙に捉え難い。気配は確実に存る。見覚えのない、白い貌も目の隅には入っている。だが真怡阿(マイア)がそこを見た瞬間にはもう、次に気配は移っていた。そんなことの繰り返しだった。冷水を浴びたように真怡阿(マイア)は、冷たい汗を感じた。
 荒れ野には妖異が棲むと云う。摩礼須(マレス)にもそう云う伝えは存った。もしかしたらそんなものに今、出会っているのでは、と不吉な気がした。次に目に映ったら今度こそ皆を起こそうと真怡阿(マイア)は身構えた。その矢先に気配は掻き消すように消え去った。真怡阿(マイア)は疑念を抱いて朝までを過ごした。
 日が登ってから真怡阿(マイア)は、気配のした辺りの地面を確かめてみる。足跡は存った。摩礼須(マレス)のものではない人の足跡。それが斯自(シジ)の行者のものでないのは靴を履いていることだけでも分かる。摩礼須(マレス)のものではない、靴底に深く溝を切った特殊な。足跡の主は酷く身が軽いようだった。砂地に大して深く後も残さずに、遠い距離を跳んで次に移動した。だが最も不可解だったのはその足跡の主が、何処から来たのでも、何処へ去ったのでもないことだった。そのことが心に深く刺さった。不信の種が芽生えるようで、真怡阿(マイア)はその未明の出来事をひとり胸の内にだけ仕舞った。
・・摩礼須(マレス)の中に、在るというのだろうか
 だが溝を切った靴など、どんな女も履いてはいなかった。
 それ以後にも、闇の夜などには時に同じ気配を感じることが幾度か存った。その度に真怡阿(マイア)は、牟宇(ムウ)を想って胸騒ぎがした。焦がれる想いと身が二つに裂けそうに。真怡阿(マイア)は牟宇(ムウ)と倶に在ることの望みを、次第に胸に抱き始めていた。たとえそれが、戦いの場であったとしても。
 迦賦輪(カフワ)王の始めた戦は、已む気配を見せなかった。斐備(ヒビ)に隠れた女たちの内から、やがて何人かが戦の場へと去った。年嵩の、子を育て已えた女たちだった。笑って男たちを罵りながら摩礼須(マレス)の女たちは荒れ野に旅立つ。自分たちが居なければやはり、亭主や息子どもは遣っては行けないのだ、と。真怡阿(マイア)はいつの日か、自分も同じように行くのだと心に誓った。
 斐備(ヒビ)の歳月は過ぎた。釐阿(リア)が生れてから、やがて一年が過ぎようとしていた。そして、真怡阿(マイア)の秘かに恐れていた日が来た。その日訪ねて来たのは、摩礼須(マレス)の歌司。あの、訶伊(カイ)だった。
ーその子が、釐阿(リア)だね。
 釐阿(リア)は首を重そうに、訶伊(カイ)を覗き込む。
ーこの子は。
 訶伊(カイ)は異常に気づいた。釐阿(リア)の眸は、何も視ていない。青味を帯びた瞳は訶伊(カイ)の声の、その向こうを透かして視ていた。
ーそうか・・。
ー心配しないで、うちの坊やは眼が見えないのじゃないの。
ーけれど。
 釐阿(リア)は笑っていた。邪気のない笑顔に訶伊(カイ)は何故か、ぎくりとした。
ー抱いて上げて、喜ぶから、男の人が好きなの、女ばかりの間だからかしら。
ー行者たちは可愛がっているようだが。
ー釐阿(リア)は彼らと交流しないの、まるで視えていないようにね。
ー私も、視えていないようだぞ・・。
 けれど釐阿(リア)は、訶伊(カイ)に抱かれて両手を鳥のように楽しそうに動かした。
ーこの子の名はどうして、釐阿(リア)なのだ。
ーそれは。
ーあの両峨山に宿る、風の歌神の名を頂いたのか。
ー私にも分からないの、この子が自分で決めたような気がするわ、私には。
ーそうか・・。
 子どもをあやすようにしながら訶伊(カイ)は、不意に言った。
ー那太(ナダ)が死んだよ。
ーえ・・。
ー迦賦輪(カフワ)王の軍勢が或る日、冥府山の麓に現われた。
 真怡阿(マイア)は動かない。
ー何を探していたのか山へ登って行った。やがて大挙して降りて来ると幕屋の総てに火を放った、樟脳玉を燃やしてだ。那太(ナダ)は呼び出されて皆の前で殺された。礼留具(レルグ)と云う戦士の長が訊ねたそうだ、牟宇(ムウ)の子は何処に隠したのかと。那太(ナダ)は笑って首を延べたよ。あれ程の達人が手向いもせずに、命を地に還す時が来たのかと言って。礼留具(レルグ)は禰怡(ネイ)と云う魔性の剣に、那太(ナダ)を喰わせた。剣は那太(ナダ)の魂ごと、跡形もなく貪り喰ったそうだ。それから残った者たちを礼留具(レルグ)は、みせしめのためにか総て不具にし冥府山を去った、それで全部だ。
 釐阿(リア)を抱いてあやす訶伊(カイ)の表情は、真怡阿(マイア)には見えなかった。ただその日の乾いた風を真怡阿(マイア)は忘れなかった。
 釐阿(リア)は、母との別れにまだ気づかないようだった。訶伊(カイ)の肩に乗って遠く何かに気を取られていた。真怡阿(マイア)は我が子の姿を見るのがそれでもう、最後のような気がふとした。
・・いつか涅怡須(デイス)の言った、不幸が、私を襲い始めているのだろうか。
 真怡阿(マイア)は何処かで淡くそう思った。
ー遠い、遠い所だ。
 訶伊(カイ)は言う。
ーそこでは自らを摩礼須(マレス)と忘れてしまう程に、遠い・・。例え迦賦輪(カフワ)の軍だろうが、摩礼須(マレス)自身だろうが手は出せない。
 迦賦輪(カフワ)よりも摩礼須(マレス)を恐れているように、訶伊(カイ)は言った。
ー里者に変わってしまった摩礼須(マレス)さえ、そこには在る、真実遠い所だ。
 訶伊(カイ)の物云いは釐阿(リア)を、まるで摩礼須(マレス)から隠すようだった。
ー真怡阿(マイア)。
 訶伊(カイ)が呼ぶ。
ーあんたの名は、霜の花と云う意味だったな。
 頷く真怡阿(マイア)に訶伊(カイ)が微笑む。
ーその名は摩礼須(マレス)に相応しい、そうだ、本当に・・。
 釐阿(リア)を肩に乗せたままで訶伊(カイ)は、摩礼須(マレス)の古い歌を静かに口にした。それは摩礼須(マレス)の誰もが知っている、古い子守歌だった。
  摩礼須(マレス)の娘 摩礼須(マレス)の娘
  私に出来ることは 何もない
  眠りを覆う醜い夢は
  きっと追って上げよう
  虹の翼の美しい夢で
  きっと抱いて上げよう
  けれど私には お前から
  運命を追うことは 出来ないのだよ
  運命はお前のもの 命もお前のもの
  摩礼須(マレス)の娘 摩礼須(マレス)の娘
  生きなさい
  夢の安らぎだけを 私は上げよう
  摩礼須(マレス)の娘
  荒れ野の風に なりなさい
  地に積む霜に なりなさい
  厳しさが お前に宿るように
  冷たさが お前を護るように
  私に出来ることは 何もない
  けれどいつか
  誰かが 荒れ野の風を纏う
  地に積む霜を 陽炎にする
  その時が いつか来る
  私の手から お前を奪う
  その時が
  摩礼須(マレス)の娘 私の娘よ
  摩礼須(マレス)の娘 私の娘よ・・
 歌が終っても、誰も声を立てなかった。釐阿(リア)だけが訶伊(カイ)の背負った五弦琴を、小さく広げた掌で叩く。まるでそれが、摩礼須(マレス)を表わす楽器と知るように。五弦琴は釐阿(リア)の掌の下で、微かに余韻を顫わせていた。革の覆いには模様はなく飾りには縫い取りの、緋い星がただ、一つだけだった。

第一章 真怡阿(マイア) 九

 革の武具が身に心地良かった。髪の根が強く引き締まる。そんな気がする。腰に帯びた剣は細いが、鋭利に研がれていた。二つに引き裂かれた想いも、今は静かに死んだ。
・・今日からは牟宇(ムウ)と肩を並べ、あの人の戦いを倶に戦う。
 身についた操法の武技には宗家としての自負が有った。心残りは釐阿(リア)にそれを伝える時もなく、釐阿(リア)の成長もまだ遠かった。
・・この戦いが、終ったなら・・。
 釐阿(リア)にも会える。そう思ながら真怡阿(マイア)は、本当にそうだろうかと自分に問う心を奥深くに押し遣った。
・・今は、あの人のために生きる、涅怡須(デイス)の予言した不幸が来るなら来れば良い、私はそれをきっと打ち砕いてみせる。
 旅は月の二巡りで終ると云う。そこが牟宇(ムウ)の在る、我奢(ガザ)の城塞だった。
 宇具度(ウグド)の王城の付け城として、堅牢を誇ったさしもの十六夜城も摩礼須(マレス)のために、内側から脆く崩れた。播羅度(ハラド)の広大な領地の一角を占めて迦賦輪(カフワ)の軍は、宇具度(ウグド)の王軍に迫り打ち破ろうとしている。
 あと半年。宇具度(ウグド)は必ず確実に落ちるだろう。摩礼須(マレス)の断ち切った補給路を、敢えて通る荷駄の群れは存在しない。そして宇具度(ウグド)が落ちれば播羅度(ハラド)の王国群そのものが、風に靡くように迦賦輪(カフワ)の側へ付く筈だった。それが播羅度(ハラド)の各王宮へ入り込んだ、摩礼須(マレス)の諜者たちの一致した結論だった。牟宇(ムウ)に危機が訪れるとすれば、その時だった。
 迦賦輪(カフワ)の指示を待たずに、摩礼須(マレス)への離反は既に始まっていた。緋い斧の礼留具(レルグ)は、不信を表明して憚らなかった。しかも何処からか摩礼須(マレス)の秘が、何故か漏れていた。それも大量に。
 やがて摩礼須(マレス)を欺いて、幾度か事が行なわれる。その度毎に幾人かが戦いの犠牲になった。孤立して裏切り者として処刑される摩礼須(マレス)が居る。隠れ家を敵に急襲されることも多く有った。その数が次第に増す。
 幾千年を経て築き上げられた摩礼須(マレス)の結びつきが、実に容易く切り崩されて行く。諜報の実もその方法も、今や迦賦輪(カフワ)の軍に吸収されようとしていた。宇具度(ウグド)が落ちれば、摩礼須(マレス)の提供する価値は更に軽いものとなるだろう。
ー奴はその時を待っている。
 賦流阿(フルア)は荷を負う驢馬の横腹を叩いた。
ーだがその前に礼留具(レルグ)のほうが、寝首を掻かれているだろう。
 蜂起の準備は既に整っていた。後は期だけだった。それにしても・・。
ーそれにしても早く、裏切り者を見つけ出さなければ。
 驢馬の背負った革袋に小さな穴が有ったようで、水が僅かに義手を濡らした。それが何か嫌な徴しのように賦流阿(フルア)は感じた。
ーだが、我等の眼を逃れる程の者、そんな者はこの世にない筈なのだが。
 見つけた穴を手早く周囲ごと縛る。作り物の指の不自由さは、殆ど感じさせなかった。摩礼須(マレス)の技はそこにも活かされていた。世の手段は技芸と商いとに存るのが摩礼須(マレス)の本来の姿だった。
ー急ぎましょう、出来るだけ。
 何故か気が急く。歩きながら言う真怡阿(マイア)の足元はまだ沈み易い砂の上だった。
ーそうだな・・。
 真怡阿(マイア)を見る賦流阿(フルア)の眸には、時折り深い色が存った。今も何か言いかけて、ふと黙った。
ー新王さまに従う者は今、迦賦輪(カフワ)の王宮にまで入り込んでいる、この戦いは必ず我等が勝つ、摩礼須(マレス)の世を見るためになら、急ぐとしよう。
 賦流阿(フルア)の声は祈りのように聞こえた。
 摩礼須(マレス)の世は、決して来なかった。旅の終りに真怡阿(マイア)は黒く蠢く煙を見た。生き物のように異様な存在感を持って煙は昇っていた。それが宇具度(ウグド)の王城の燃え落ちる、黒煙だった。そして遠い彼方でもう一筋。天へ舞い上る青い煙。我奢(ガザ)の城塞。その燃える煙が、真怡阿(マイア)に終りを告げた。その下で牟宇(ムウ)の命は、既に尽きていた。
 泣いても、戻ることはないと分かってはいた。だから自分は泣かないのだと決めた。
 真怡阿(マイア)は、自分が涙を流していることにさえ気がつかなかった。燃え落ちた我奢(ガザ)の城塞は、石までが焼ける程に熱かった。
 夜が来た。真怡阿(マイア)は折り重なった死体を、ひとつひとつ確かめて行く。賦流阿(フルア)は泣きながらそれを中庭の中央に運んで積んだ。死体は総て摩礼須(マレス)のものだった。迦賦輪(カフワ)の兵士は何処にもない。あっけないまでの皆殺しだった。どうしてそれほど簡単にことが運んだのか。賦流阿(フルア)は憎しみに顫えていた。呼びかける名前の数が死者の数。そして真怡阿(マイア)は、牟宇(ムウ)を見つけた。
ーあなた・・。
 無残な姿だった。分かっていた。戦いの姿とはいつもそうなのだ、と。
 

第一章 真怡阿(マイア) 十

 せめて、荒れ野を渡る風になれと賦流阿(フルア)は祈った。燃え残りの板や矢柄などでは大きな炎も立たなかったが、野を荒らす獣や鳥に残すものはそうないだろう。夜の闇に紛れてしまいそうに炎は危うい。
 見つめる賦流阿(フルア)の眼にその時、何かが映った。
ーあれは・・。
 静かに首を垂れていた驢馬が、賦流阿(フルア)の声に胴を震わせる。
 驢馬の荷に加わった牟宇(ムウ)の剣。銀月の環が何かに触れて涼しい音を立てる。賦流阿(フルア)は静かに呼んだ。
ー真怡阿(マイア)・・。
 白い不吉な花のように。死者を送る火明りの揺れに浮かび出すそれは、人の貌の形をしていた。闇に淡く白を滲ませたように。首から上の女の貌が、黒い石垣の闇を背に宙に浮く。真怡阿(マイア)は無感動に、その妖異を見た。
ー愚かな、者どもよ。
 余りに妖しい女の首。紅の唇を開いてその白い貌が言う。
ー我が偉大な王と己の下らぬ知恵とを較べようなど、愚かも過ぎよう。
ーお前は・・。
 小柄を抜く微かな音。賦流阿(フルア)は義手を後ろへ隠した。
ー賎民どもが、滅びは自ら招いたもの。
ー何者だ。
 賦流阿(フルア)の誰何は小柄と同時に飛んだ。だが届いたのは声だけだった。
ー名を問うのか、この私に。
 妖しく、血を含んだように唇が笑う。小柄は地上に刃の燦めきを、死魚のように白く見せていた。いつ避けたとも思えなかった。
ーでは、自らの愚かさに我が名を刻むが良い。
 風に煽られた炎が一瞬、女を横から照らした。淡く、首に続く身体が存るようにその時だけは視えた。
ー我が名は瀰喩(ミユ)。迦賦輪(カフワ)の王宮の、蔭に棲む。
ー迦賦輪(カフワ)・・。
ー我が王は総てを支配する。たとえ神々でさえも、いずれ支配せずには置くまい。その時には愚かなお前たち摩礼須(マレス)の神も、きっと含まれて存るだろう、覇王を欺くことが出来るなどと信じた、阿呆の神としてな。
ーそう、だったのか・・。
 賦流阿(フルア)は愕然とした。
ーお前だったのか。
ー遅い。
 瀰喩(ミユ)と名乗った影はそれ以上留まらなかった。蔭に棲むと名乗る通りに闇に溶け、あざ笑うように消えて行った。妖しい微笑を賦流阿(フルア)の眼に残して。
ーあの人を、見たことがある。
 呟く真怡阿(マイア)の声が奇妙に空疎だった。
ー斐備(ヒビ)の赤い岩山の夜に、私は見た、あれはあの人だった、今、分かったわ・・、そしてあの人は、私の釐阿(リア)にも触れたわ。
 賦流阿(フルア)は一瞬で、真怡阿(マイア)が表情を取り戻すのを見た。死者を焼く炎の明りを浴びて、その瞳が妖しい程に美しかった。
ー釐阿(リア)が、殺される。
ー釐阿(リア)・・。
 突然に何を言うのか、賦流阿(フルア)には分からなかった。
ーきっと、殺されるわ。
 真怡阿(マイア)の眸に宿る狂気のその激しさが、賦流阿(フルア)の不安を酷く掻き立てた。
ー釐阿(リア)は大丈夫だ。
ー嘘。
ー訶伊(カイ)が誰にも知られない遠い場所へ、隠したではないか。
ーあの人はあの隠れ里の中にさえ、入り込んでいた。
ーだが。
ーそうよ、賦流阿(フルア)、あの人は私の牟宇(ムウ)を、殺すことも出来た。
ーあんな女一人に殺される筈がない。
ーあの人よ、あの人が牟宇(ムウ)を滅ぼしたの、そうよ、・・私には分かる。
 突然真怡阿(マイア)が身を折った。毒を呑んだように身を丸めて地面に伏す。
ー真怡阿(マイア)。
 賦流阿(フルア)はただ呆然と立っていた。真怡阿(マイア)に手を触れるのが怖ろしかった。触れればその瞬間に真怡阿(マイア)が壊れてしまいそうだった。
ー真怡阿(マイア)・・。
 嗚咽は声に鳴らなかった。ただ、真怡阿(マイア)は顫えていた。
ー牟宇(ムウ)・・。
 真怡阿(マイア)は譫言のように呼ぶ。
ーああ、牟宇(ムウ)、私には分からない・・。私は、どうしたら良いの・・。
 賦流阿(フルア)には言葉がなかった。
ーああ・・、牟宇(ムウ)・・、牟宇(ムウ)。救けて、私を救けて・・。私はどうしたら良い・・、どうしたら良いの、教えて、牟宇(ムウ)・・。
 どうすれば良いのか。賦流阿(フルア)には分からなかった。
・・どうすれば、良いのか・・。
 賦流阿(フルア)は思った。
・・歌だ。歌だけしかない。
 歌が真怡阿(マイア)を救うのだと思った。だが。
・・いま、真怡阿(マイア)に歌って上げられる歌が果たして自分に有るだろうか。
 これほどに深い悲しみと絶望を、救う歌が果たして。
・・ない・・。
 賦流阿(フルア)にはなかった。真怡阿(マイア)を救う歌は、それこそが、沙梳(サラ)の歌だった。
 燃え木の山が崩れて赤く、夜の空に火の粉を舞い上らせた。真怡阿(マイア)の啜り泣きが運ばれるように、風に乗って散る赤い粉はやがて淡く闇に燃え尽きて消えた。
 その夜のうちに二人は、我奢(ガザ)の城塞を後にした。悲しみは深く絶望は重かった。そこには、たとえ一夜でも留まりたくはなかった。暁の色が差す荒れ野の空の下を、二人は斯自(シジ)の行者たちの、赤い岩山への途に就いた。帰る場所は今、そこにしかなかった。
 だが、二人を追いかけて戦いの刃は、斐備(ヒビ)の岩山へ先回りをしていた。涅怡須(デイス)が予言したように、斯自(シジ)の行者たちは悉くが死に果てていた。手を下した者は明白だった。赤い岩山にはさらに緋く、行者たちの流した血の色で斧の紋章が描かれていた。
 摩礼須(マレス)の女たちは殆どが、散り散りになって逃れていた。生き残ることが摩礼須(マレス)の第二の本能だった。生き延びるために女たちは摩礼須(マレス)が蓄えた知恵を使うだろう。牟宇(ムウ)の戦いに加わった者たちだけが、摩礼須(マレス)の総てでもない。いつかは、悲しみの薄れる時がきっと来る。賦流阿(フルア)はそう信じて真怡阿(マイア)の傍に居ようと決めた。
 そして真怡阿(マイア)は。異様な想いに取り憑つかれていた。憑かれた想いが、だが、真怡阿(マイア)を生かしていたのかもしれない。後に思えば、その時に真怡阿(マイア)は既に狂気に染まっていたのだろう。
ー帰ろう・・、冥府山へ。
 水を汲み、行者たちが育てた畑の作物を引き抜くと真怡阿(マイア)は、彼方を見た。そこには生れ育った冥府山が存る筈だった。賦流阿(フルア)は義手を交互に見比べていた。そして黙って頷いた。

第一章 真怡阿(マイア) 十一

 真怡阿(マイア)の眸に宿る空虚が、賦流阿(フルア)には怖ろしかった。心までが既に、死者の隣に座しているようで。砂に記された真怡阿(マイア)の足跡が、風にそのまま消えて行くように賦流阿(フルア)には儚く見えた。真怡阿(マイア)を、決してひとりには出来ないと賦流阿(フルア)は思った。
 永い沈黙の日々の後に、真怡阿(マイア)は少しづつ言葉を取り戻す。話し始めた時、賦流阿(フルア)は僅かに緊張を解いた。話は大地の琴を奏でた者のことだった。賦流阿(フルア)はすぐに真怡阿(マイア)の真意を悟った。それでも魂の平衡を保つならと、昔語りのつもりで賦流阿(フルア)は語った。伝説の沙名都(サナト)から、今までに琴を奏することの出来た唯一人の人。青い人の迷斯那(メシナ)までを真怡阿(マイア)の望むままに。
ーでは、不死の呪いを受けた迷斯那(メシナ)は、今も何処かで生きているのね。
ー迷斯那(メシナ)は、幻獣の爪を手に入れた、その青い爪が大地の琴を奏でたのだ。
ー幻の獣・・。
 真怡阿(マイア)はその言葉の響きに拘った。
ーどんな獣なの。
ー勿淤儒(モオズ)とは違うがやはり坤霊の裔だと云う、それでも、この世にはもう棲まない。
 真怡阿(マイア)は息を吐く。
ーどんな名だったの。
ー伝えない、その獣を殺した迷斯那(メシナ)だけが多分知っていただろう。
ーでは、その迷斯那(メシナ)は何処に隠れたの。
 何でもないように真怡阿(マイア)は訊ねた。
ー遥かに冥府山から東へ去った、東海に沈んだか、海に落ちた砂粒を数えているか、真実は知らない。
 真怡阿(マイア)は胸をゆっくりと強く抱いた。いつか遠い日に、牟宇(ムウ)が抱いたように。
ー牟宇(ムウ)・・。
 ひとり言のように呟いた名が、胸を締めつける。悲しみは今頃になって真怡阿(マイア)を苦しめた。
 冥府山が靄を纏う幻のように見えた時に、真怡阿(マイア)は賦流阿(フルア)に告げた。
ー釐阿(リア)を探して、あなたなら訶伊(カイ)を見つけることが出来るでしょう。
ー分からない、何処でも摩礼須(マレス)は迦賦輪(カフワ)の兵に追われているようだからな、訶伊(カイ)を見つけても、釐阿(リア)を何処へ隠したかは俺には言わないだろう、父親と同じ道に釐阿(リア)を連れて行くのかと非難するだろうな。
ーそれでも探して。
ー探して、母と子で暮すのか。
 真怡阿(マイア)は首を振る。
ー釐阿(リア)を護ってあげて、賦流阿(フルア)。
ー迦賦輪(カフワ)の追手からか、それとも・・。
ーあの子が、あの子のために生きられるように。
ーお前はどうする。
ー私には、することが有る。
ー迦賦輪(カフワ)王に復讐の戦いでも挑むのか。
ー泣いて暮すのよ。
 賦流阿(フルア)は立ち止まった。そして真怡阿(マイア)の言葉をもう一度自分で繰り返し、真実の意味に気づかない振りをした。
ーそうか・・。
 この世に在るか分からない青い人を探す気ならばそれでも良いと賦流阿(フルア)は思う。
・・それで、生きられるのならば。
 探し続ければ良い。遥かに歌人を追う、摩礼須(マレス)の歌司のように。
 賦流阿(フルア)は残りの一生を、真怡阿(マイア)の背後で生きることを誓った。
 摩礼須(マレス)は再び元の、隠れた民へと戻った。渡り衆と呼ばれ、賎民と蔑まれ。細工商いに馬疋の売買、傀儡廻しの技芸か賭博に占い。祭りや市には欠かせないが、気を許せばまた平気で盗っ人にも変わる。過去を吹く風のように彼らは、再び世に埋もれて生きるのだった。

第二章 釐阿(リア) 一

 渡り衆の往く季節だった。
 道を急ぐ旅人が秋を告げる景色のように、この頃にはもう時折り姿を見た。異風な装いをした彼らは山伝いの道を、北から南の暖地に逃れて行くのだと云う。耳慣れぬその声を遠くに聞くだけで、釐阿(リア)はいつも気分を重く滅入らせた。
 釐阿(リア)は渡り衆が苦手だった。彼らが声高に話す言葉の調子が釐阿(リア)に不安を起こさせた。それは眩暈と頭痛でいつも来る。彼らを見ると釐阿(リア)は、小さな時からの不安が突然現われたような気がした。それは、見知らぬ黒い影に何処かへ拐われて行くような、彼らと一緒に、遠い旅の彼方へ連れて行かれてしまいそうな不安だった。そんな時に眩暈はいつも、得体の知れない病に似て釐阿(リア)を襲った。景色までが何故か奇妙に歪んで見えて、吐き気が胸を悪くさせた。そんな目に遭うのが嫌で釐阿(リア)は、この季節は街道へは近づかなかった。 もしも運悪く渡り衆の姿を見たりすれば、その日は一日体調が悪かった。夜にはきっと悪い夢を見た。その夢。黒塚の上の字の、狭伊(サイ)の大人たちが釐阿(リア)を避ける理由にした夢。凶事を告げる予言にも似た夢が必ず、釐阿(リア)を苦しめに来た。
ー僕のせいじゃない・・。
 釐阿(リア)はそう言った。
 けれど子どもを亡くすことを予言された女親に、その声が届くことはなかった。
 財産を燃やし尽くした種商人は決して、釐阿(リア)の言葉を忘れなかった。釐阿(リア)の視た火事の夢を、釐阿(リア)自身が放火でもしたように、種商人は他人に告げた。家畜の疫病を夢に視た年も存った。水飢饉の不作も。
 釐阿(リア)の苦しみは伝わらず、釐阿(リア)の視た夢と言葉だけが、大人たちには不吉に残った。
ー悪霊の子だよ、あれは。
ー茂斗(モト)の家もまったく、妙な貰いっ児をしたもんだ。
ーおよしよ、牟良(ムラ)は可愛いがっているんだから、そう言っちゃ悪いよ。
ーそりゃあ釐阿(リア)は悪い子じゃない、けど、どうしたってあんまり気味の良いもんじゃないね。
ーそうだねえ、ともかくうちの子とは一緒にいて欲しくないねえ、なにか悪いことがありゃしないかと気が気でないもの。
ーそうそう、なんにしてもあの家とは余り付き合わないことだ。
ーそうだ、牟良(ムラ)には悪い気がするけれど、仕方がないからね。
 茂斗(モト)に養われる子どもたちの中で釐阿(リア)だけが特別だった。それはただ、血の繋りだけが理由ではない。釐阿(リア)自身にはどうにも出来ない、凶事を予言する夢こそが、狭伊(サイ)の大人たちが釐阿(リア)を忌避する総ての理由だった。
 茂斗(モト)の家に客のあった日。
 珍しく牟良(ムラ)の声が高かった。
ーそんなことは出来ませんよ、今となってはとても出来ません。
 誰かを相手に、牟良(ムラ)は激しく言う。
ーあの子は家の子です、いくら約束だからと言ったってあたしには納得が行きません、絶対に不承知ですよ。
ー分かっている。
 茂斗(モト)の言葉はいつものように穏やかで、どうして牟良(ムラ)がそんなに力み返っているのか釐阿(リア)には分からない。
ーいやですよ、あたしは。
 きっぱりと牟良(ムラ)がきめつける。
ーそりゃ、あの子には少し変わったところがありますよ、でもあんな年頃の子は誰だってみんな変わっているもんです、そうですよみんな。
ーそうだな。
 農夫の忍耐は牟良(ムラ)に逆らわなかった。
ー子どものうちは誰でもが変わっている、なあ母さん。
ーそうですよ、本当に。
ー本当にそれが、子どもの未来なのだろうなあ・・。なにかしら良いものや、大人には奇妙に思えるものを持っていることが。
ーそう、取り分けてうちの釐阿(リア)だけが特別なんじゃありませんよ。
 牟良(ムラ)の声が和らいで僅かに低くなる。
ー良い子ですよ、本当に良い子。
ー釐阿(リア)は優しい子だ。
ーそれに賢いわ、家にはもったいないくらいに。
ーそうだな・・。もったいないかもしれない・・。
 窓の外に居た釐阿(リア)にも、牟良(ムラ)の勢いが変わるのが伝わった。言いかけた言葉が途中で重い息になった。
ーあたしにそう、言いたいのね。
 牟良(ムラ)はまた、夫に負けたと気づいた。いつも口の重いこの頑固な農夫に、手八丁口八丁と呼ばれた自分が適わない理由。牟良(ムラ)は舌打ちをした。
ーあなたは、あたしの味方じゃないわ。
ー釐阿(リア)の味方は誰がするのかい。
ーああ・・、何て酷いひと。
 重く肥えた牟良(ムラ)の身体からそれに相応しい量の息が吐かれる。
ー分かりました、分かりましたよ、どうせ女親は浅知恵ですよ、けれどねえ・・。
 茂斗(モト)は待った。
ーそう・・、あの子はやっぱり、特別なものを持っているわ。
 悪夢を振り払うように牟良(ムラ)が言う。
ーそれはでも、良いことなのよ、絶対。
ーそれが神さまの下さったものならばそうに違いない。
ーそうに決まっていますよ。
ーただ、ひとや世間はどう思うだろう。
ーああ、ああ、もう止めて。
ー子どものうちは幽霊つきや死神さわぎでも良い、けれど。
ー狭伊(サイ)に居たら不幸になるって、そう言うのね。
ー農夫の幸福を知って、満ち足りて過ごせれば良い、けれどね。
ーけれどけれどってなによ。
 牟良(ムラ)の声は弱かった。
ーあの子は、この一年でどれほどの背丈になったと思うのかい、母さん。
ー言われなくとも、わかっていますよ。
 涙を啜る声がする。
ーこんな時ばかりどうしてそんなに口が動くの、あんたって人は。
 茂斗(モト)はやはり待った。待つことが第二の天性のように。
ー釐阿(リア)はけれど家の子ですよ。
 諦めたように牟良(ムラ)が呟く。
ーこのあたしの子なのだから。
ーあの子を入れる器は、この狭伊(サイ)の田舎ではもう小さいよ、このままでは釐阿(リア)に、可哀想だ。
ーもう止めて・・。
 それきり、二人の話はとぎれた。
 窓の下で釐阿(リア)は、朝に見かけた渡り衆のせいで今日も鈍く痛む頭を膝に埋め、遠い話のようにそれを感じていた。

第二章 釐阿(リア) 二

 秋草の露が、真布那(マフナ)の素足に光る。
ー釐阿(リア)、歌が聞けるのよ。
 弾む声が露の輝きのように眩しい。
ー歌よ、歌、ねえ釐阿(リア)、聞いているの。
 軽く拍子を取って、巧みに踏み替える素足の指。日差しの下で真布那(マフナ)の姿は、影絵のように遠く釐阿(リア)には見えた。
ーとっても言葉にはできないわ、あの歌の感じは。
 不思議な気がした。厚みを持たない影と輝きが燦めいた。真布那(マフナ)の姿と声が、太陽の黄金に輝くようだった。
ーそう、そうよ、それにもう、十年以上も本当の歌を聞いていなかったのねえ。
ー本当の、歌。
 釐阿(リア)は自分だけが青い水の底に在るように真布那(マフナ)と世界を感じていた。
ーあなたが家に来たとき以来。
ー僕。
ーそう、あの人の歌、みんなが集まるわ、おおぜい、部屋中人でいっぱいになるんだから、入り切れないくらい、私はまだ小さかったから父さんの膝で聞いたの。
 真布那(マフナ)が派手に手を打った。
ーそれだわ。
ーえ・・。
ー私の場所を作らなけりゃ、あれはとても幸運だったのよ、だってあの時は子どもたちはみんな家の外で食事をしたのだもの、私だけよあの歌を部屋で聞いたのは。
 釐阿(リア)にはどうして真布那(マフナ)が歌のことばかりを言うのか良く分からない。
ー歌。
ーそうよ、本当の歌。
 真布那(マフナ)は胸を張って言う。
ー今に分かるわよ、あんたが聞けたらね、そうよ聞いて御覧なさい、そしたらね、ここいら辺でみんなが歌だと言ってする唸り声、あんなのがただのどなり声だってことがきっと分かるから、ね。
 歌うように喋り続ける真布那(マフナ)の声が、重い頭の芯で響いた。胸の辺りに吐き気が淀んで出て行かなかった。
ー釐阿(リア)、どうもあんたさっきから変よ、どうかしたの。
ーうん、少し。
 顔を伏せた釐阿(リア)を真布那(マフナ)は見下ろす。
ー釐阿(リア)。
 日蔭に溶け込みそうに座る姿。血の繋らない弟が、いつもの不安に堪えているのを真布那(マフナ)は気づいた。
ーああ、釐阿(リア)。大丈夫よ、悪いことは何も起こらないわ。
 真布那(マフナ)は座って釐阿(リア)の肩を引き寄せた。
ーあんたは少し身体が弱いだけなのよ、大丈夫、心配しないでいいの。
 乾いた草の匂いのする真布那(マフナ)の髪が、不安を遮るように釐阿(リア)の視線を覆った。
ーありがとう、真布那(マフナ)。
 けれど、釐阿(リア)の胸騒ぎはいつまでも消えなかった。
 その日の午後は時を止めたように遅く過ぎて、長く伸びて動かない木々の影には見えない不安が、ひっそりと隠れて潜むように釐阿(リア)は感じていた。
 部屋に忍び降りた夕闇が、その時一瞬凍りついた気がした。
ー釐阿(リア)。
 それが、運命の声だと釐阿(リア)は知った。
ーはい。
ーそう。
 低い声で牟良(ムラ)は言い、ゆっくりとそして何度も頷く。
ーさあ、お客さまにご挨拶をしてらっしゃい。
 素直に頷いて客間へ向かう釐阿(リア)の背中を、牟良(ムラ)は見た。
ー釐阿(リア)。
 小さく呼んだ。振り向いた釐阿(リア)に牟良(ムラ)は微笑む。
ーいいのよ、行きなさい。
 小雀のように乱れた釐阿(リア)の髪を、牟良(ムラ)は言うまいと思った。
ーそうよ、いいの。
 深い溜息がいつまでも続く。
ーそう、これでいいの。
 牟良(ムラ)はひとり、何度も繰り返した。
 客は、父と居た。
ーお入り。
 茂斗の言葉が深く響いた。
ーこれが、釐阿(リア)です。
 少しだけ部屋の空気が動いた。
ー十年に余る間を、この私の息子として過ごした、あなたからの預かり子です。
 気配は静かだった。
ー釐阿(リア)。
 胸の中で確かめるように客は呟いた。
ーお前が、そうなのだな。
 見た筈のない海の匂い。その時感じた胸に沁みるものが、きっとそうなのだと釐阿(リア)は後から思った。
ー私の名は訶伊(カイ)。
 男は夕闇に潜むように静かに告げた。
ー十二年前に、お前をこの家の主に預けた者だ。
 釐阿(リア)は今、運命に向かい合っているのだと真実信じた。
ー貴方を、お待ちしていました訶伊(カイ)。
 茂斗が低く唸った。
ー私を待っていたと。
ーはい。
 誰も何も言わなかった。時は重く過ぎて行く。やがて、茂斗が呟いた。
ー母さんが聞いたら、やっぱり嘆くんだろうな。
 茂斗の溜息は重かった。
 訶伊(カイ)は入念に弦を調べていた。時折り耳を触れる程に近づけて。
ーあの・・。
ーこれか。
 訶伊(カイ)は自分の前歯を爪で軽く弾いた。硬い音がする。
ー息は大切だ、歯抜けじゃ勤まるまい。
 見事に欠けていた筈の前歯が二本、確かに生えている。人変わりしたように人相が急に引き締まって釐阿(リア)には見えた。
ー貧相な間抜け面だったのに、とそう思ったのだろう。
ーいえ、ただ少し、驚きました。
 楽しそうに訶伊(カイ)が笑った。釐阿(リア)は初めて、暖かいものが胸に拡がるのを感じた。
ー良いかな釐阿(リア)、私たちの身分には資格が必要だ。
ー資格、ですか。
ー摩礼須(マレス)の王家と同じにな。
ー摩礼須(マレス)とは何ですか。
ーおや、茂斗に教わらなかったのかい。
ーはい。
ーそれはそれは。
 訶伊(カイ)は楽しげに首を振った。
ー全くお前さんの養い親ときたら実に。
 その時、扉が鳴った。
ー釐阿(リア)。
ーはい。
 既に二人は師弟のように、釐阿(リア)は客間の扉に立った。
ーどうぞ。
ー釐阿(リア)かい、いや良いんだ。ただお客様がお待ちなので、どうかなと。
ー茂斗だな、今すぐ行くよ。
ーいや、せかしたりしてすまない。
ーこちらこそ、だいぶ待たせてしまったようだ。
ーああ、じゃ、よろしく。
 立ち去る足音は引き摺るようだった。
ー悲しそうだな、釐阿(リア)。
ーはい、・・少し。
ー正直な子だ。
 釐阿(リア)は俯いた。
ー資格のことだがな、釐阿(リア)。
ーはい。
ーこれから起きることをしっかりと見ていなさい、良いかね。
ーあなたを、ですか。
ー総てだ。
 釐阿(リア)は首を捻った。
ーこれを試験と理解しても良い、とにかく見る、視るのだ、釐阿(リア)。
 訶伊(カイ)の言うことは良く理解出来なかった。この人の話し方はいつもそうなのか、と釐阿(リア)は迷った。訶伊(カイ)は横目で釐阿(リア)を見た。閃かす手に、五弦琴が一気に五つの音を放つ。
ーそれからもう一つ。
 訶伊(カイ)は言った。釐阿(リア)は一瞬部屋に何が散ったのかと思った。五音の深みに背中が粟立つのを感じた。訶伊(カイ)は微笑んだ。転手を捻って手にした五弦琴を釐阿(リア)に示す。
ーこいつのことも、時には摩礼須(マレス)と呼ぶことも有る。
 五弦琴は柔らかな布で磨かれて、釐阿(リア)の驚きを映していた。
 宴は始まろうとしていた。

第二章 釐阿(リア) 三

 訶伊(カイ)の後に続いて現われた釐阿(リア)を、真布那(マフナ)が不思議そうに見た。三つの部屋が仕切りを取り払われてある。壁を負うように訶伊(カイ)は慎重に位置した。釐阿(リア)はその時、一瞬自分の眼を疑った。
ーあ・・。
 三つの部屋を埋めた大勢の人。その前で訶伊(カイ)の姿が不意に消えたのだ。
ーそんな・・。
 訶伊(カイ)の占めた場所だけが空しく白い。風が通るように・・。だがそれは釐阿(リア)にだけ起きた。その部屋に居た誰もその現象を眼にしていないのは確かだった。誰も動かない。釐阿(リア)の気配に何処かから笑みが秘かに届く。それが訶伊(カイ)だった。釐阿(リア)は漸く理解しようとしていた。その時、激しく息が迸った。
 息を漲らせ、瞬時に撥ねる五弦の音。釐阿(リア)の視野には人々と訶伊(カイ)の姿が再び戻った。
 密やかに集う五本の弦。深く響きは始まり弦は再び引き寄せられる。打ちつけて鮮やかに小手を返し。旋回する音の群れは散って、また集う。その中から旋律が秘かに浮く。次第に現われる旋律はやがて厚みを増し、終には幾つにも寄り集って大河を成す。その時、奔流を破って立ち現われるように、訶伊(カイ)の歌声は響き渡った。馬蹄の響きを打つように、戦いの鉄の歌のように。
・・これが、歌。
 幾つもの王国が興り、人々の都市が滅亡するのを釐阿(リア)は視た。戦いの大地に赤く血は流れ、生き物めいて蠢く幾多の流れは大河に注ぐ。そしてその大河には歌人が待っていた。訶伊(カイ)の歌。人々の流した血は歌の前に、濁流のように天へ昇る。ひとつの形で。ひとつの姿で。炎の歌を歌う龍は天上へ駆け、大河の上に立つ歌人は銀の剣を振るう。星々の間へ届いた龍は砕け散り瑪瑙の滴くとなって降り注ぐ。そして降り注いだ大地からは幾つもの赤い流れが、再び始まる。
・・僕の待っていたのは、これだろうか。
 釐阿(リア)はその時初めて、自分の住む世界を視たのかも知れないと思った。
 やがて最初の歌は終り、一転して軽快な曲へと次に移った。人々は緊張を解いて手拍子を取る。しかし釐阿(リア)だけは未だにその前の、歌の中に迷い込んで在た。
・・何だろう、・・何だったのだろう。
 客たちが沸き立ち、良く知った歌に合わせて踊りを始める。訶伊(カイ)の歌声を消す程に騒がしい叫びも、床が軋んで鳴る音も釐阿(リア)を正気には立ち戻らせない。釐阿(リア)は深く考えに沈んでいた。
・・いま視たのものは一体、何だったのだろう・・。あの人が、訶伊(カイ)が見ろと言ったものはこれなのだろうか・・。
 二つの疑問が釐阿(リア)を迷わせた。そして釐阿(リア)を、歌が待っていた。
 釐阿(リア)だけを取り残して時は過ぎて行く。幾つもの曲、そしてまた幾つもの曲が巡って過ぎ、人々の張り上げる声が終に嗄れて潰れる頃に待つ最後の曲。
ーこれが、今宵の最後の歌。
 訶伊(カイ)の言う声が騒ぎ疲れた人々の間へ静かに流れる。不思議だった。不思議に静かにその声は、人々の心に沁みて行き渡った。釐阿(リア)は一瞬に目を覚ましたように、その光景を見ていた。雰囲気と云うひとつの生き物が、靄のように散って再びひとつに動く。そのひとつの塊りを、訶伊(カイ)は掌に握るように引き寄せた。
ー摩礼須。
 そう言って、訶伊(カイ)は息を止めた。遠く、何かを聞くように。
 歌い始めた時、釐阿(リア)は頬にひっそりと吹く風を感じた。
 その風。時の息吹のように。過去と未来を繋ぐ、永遠の時が。
・・ああ、これは・・。
 その歌は、悲しみに満ちていた。釐阿(リア)の知らない言葉で歌われる歌は深く、悲しみの色で心の底へ降りて来る。深く。釐阿(リア)の知らない魂の底へと。青く海の深みへ沈んで行くように歌は、釐阿(リア)の心を透り抜けて深く。そして、五本の弦の最後の音。悲しみに顫える細い弦の音が、その場所を探しあてた。細く、細く高い顫音。その銀色に細い音が僅かに、仄かに魂を繋ぐ。
 釐阿(リア)は泣いていた。けれどもそれは、悲しみの涙ではない。熱く、暖かな想いが胸に溢れて涙に零れた。歓びだった。幸福だった。釐阿(リア)の知らない心の底にそれほどの歓喜が潜んでいた。総てのものと自分とは今、ひとつなのだと釐阿(リア)は知った。
 宴は終った。
ー何を、見たか。
 訶伊(カイ)の問いに、釐阿(リア)は口籠った。
ーまあ、良いだろう、お前のその様子を見れば分かる、資格は有りそうだ。
 言って訶伊(カイ)は僅かに考えた。
ー私は思っていたのだが。
 訶伊(カイ)は以前からのように言った。釐阿(リア)はそれに気づかない。
ーお前は、もしかすると、視る者ではないかと。
 その言葉には古語の響きが含まれていた。釐阿(リア)は繰り返す。
ー視る者、ですか。
ーそうだ。
 訶伊(カイ)は僅かの間、眼を閉じた。
ー視る者の現われは、沙梳(サラ)の近いことを告げると云う・・。が、それも伝承の闇の中に紛れて正しいか、定かではない。
ーはあ・・。
 不審な顔を、訶伊(カイ)は笑って見た。
ーまあ、気にするな。千年を近いと云うか二千年をか、誰にも分からないのだから。
 やはり釐阿(リア)には分からない。
ー総てを一時には無理だろうな、ゆっくりと習うが良い、時間だけは私たちには充分に有るのだから。
 五弦琴が己の分身でもあるかのように、訶伊(カイ)は革の覆いにそっと手を乗せた。
ーさあ、明日は早い、もう休みなさい。
ーはい。
 応えてから釐阿(リア)は振り向いた。
ーあの、明日は何処かへ行かれる予定が有るのですか。
ー旅へ、だ。
ーもう、出発なさるのですか。
ーお前も一緒だ。
ーえ。
ー時間は充分に有るが、それを無駄にする自由はないな、私たちには果たすべき義務が存る。
ー分かりました。
 釐阿(リア)はだが、まだ理解していない。
 朝は白く霧に覆われていた。秋が深まろうとしていた。やがて冬が、狭伊の田舎にも訪れる。大気の湿りは胸に沁みた。釐阿(リア)は未だ夢の中に居るような気がした。ただ背にした荷の重さだけが、この世にひとつ確かなものとして感じられる。
ーあんまり、急なのだもの。
 調べる必要のない荷の具合を、牟良は幾度も直しながらまた繰り返した。
ーだって、何も、今日の今日だなんて。
ーごめんなさい、母さん。
ーおまえが謝ることはないのさ、母さんにだって少しは分かるつもりだよ。
 こぼしても仕方がないことは牟良が知っていた。ただ釐阿(リア)の身支度をする手だけがいつまでも止まらなかった。手を止めなければそこに、釐阿(リア)が留まるかのように。
ー分かったよ、分かったよ、もう、おまえは行かなけくちゃいけない、けどね。
 牟良は両手で釐阿(リア)の頬を挟む。
ー良いかい、釐阿(リア)。
 釐阿(リア)の眸を見て牟良は言った。
ーおまえはこの母さんの大事な息子なのだと云うのを、忘れちゃいけないよ。
 掌が暖かかった。
ーおまえの父さんも兄弟も、家族はみんなここに居るんだからね、良いかい。ここでずうっと暮しているんだからね、これからも。おまえが帰りたいと思って、帰りたい時にはちゃんと戻る家が、ここに有るんだってことを忘れちゃいけないよ。辛いことは我慢するんだよ。嫌なこともいっぱい有るだろう、辛抱おし。けれどもね、どうしても辛くて苦しくて、もう駄目だとおまえが、おまえが本当にそう思ったならその時は。帰っておいで。おまえが自分でもう良いんだと自分を誉められるようなら、帰って来るんだよきっと。いつだって、おまえはうちの子なんだ、おまえの家も家族もここに有るんだ、それを忘れちゃいけない。良いかい、釐阿(リア)、帰る家がここに有るんだからね、釐阿(リア)、釐阿(リア)や・・。
 涙を詰まらせながら牟良は、何度も繰り返し言った。何度も。釐阿(リア)はそのたびに頷きながら、けれどもそんな日はきっと来ないだろうと仄かに予感していた。自分はこの家にはきっと、帰って来ることはないのだ、と。
 真布那(マフナ)が眸を精一杯に開いて見つめているのが分かる。釐阿(リア)は牟良に押し出された。
ーさあ、祖母ちゃんにもきちんとお別れをしておいで。
ーはい。
 それ以上泣き顔を見せたくないように、釐阿(リア)の背をそっと押して牟良は言う。
ーさあさあ。
 湿った草を踏む感触が、その日の記憶に永く残った。
ー祖母ちゃん。
 釐阿(リア)はそう言ったきり、那阿那(ナアナ)の顔を見ることが出来なかった。穏やかで優しい祖母の悲しむ顔をどうしても見ることが出来なかった。
ー釐阿(リア)。
 名を掌で撫でるように那阿那(ナアナ)は言う。
ーうんと遠くへお行き。
 暖かい声だった。
ー何処へでも、おまえの思うとおりに行くんだよ、釐阿(リア)。
 静かなその声に、釐阿(リア)は顔を上げた。
ー祖母ちゃん。
 皺に埋もれた、けれど良く輝く眸で那阿那(ナアナ)は釐阿(リア)を見る。
ー思う通りに何処へでも行って、おまえの生きる所をきっと見つけるんだよ。
 那阿那(ナアナ)の眸は釐阿(リア)を、そしてその奥のどこか遠い場所を見るようだった。
ー分かるかい、釐阿(リア)、この那阿那(ナアナ)の言うことが。
 釐阿(リア)は黙った。
ー此処へは、二度と戻ってはいけない。
 意外な言葉だった。
ーおまえは自分の生きる場所を自分で探すんだ、良いかい、釐阿(リア)。
ーこの家の者はみんなおまえを家族と思っている、けれど、おまえだけは違ったね、釐阿(リア)。
ー僕は・・。
ー良いよ、釐阿(リア)、分かっている。
 那阿那(ナアナ)は両手を横に広げる。
ーおまえは、ほんとうの家族が欲しいのだろう、この那阿那(ナアナ)には分かっているよ。
 抱かれた腕の中で釐阿(リア)は祖母の年の積もった悲しみを感じていた。
ー良いんだよ、釐阿(リア)、それで良いのさ、だからね、おまえはうんと遠くまで行かなければいけないんだよ。
ー遠くへ・・。
ーそうだ、うんと遠くまで行って・・、そうしていつか、どこかの土地で可愛い娘っ子に遇うんだよ、その娘を見つけるんだ、おまえの惚れた娘だ、それからその娘と好き合って、一緒におなり、そうするんだよ。
ー僕が・・。
ーそうだ、一緒になって、家を作って子どもを作って、子どもが大きくなったら旅に出しておやり、おまえがしたようにその子もどこかで誰かに遇うさ、孫が出来る、そうしたらそれが、釐阿(リア)、おまえの家族だ。
ー僕の家族。
ーそう、おまえの、ほんとうの家族だ。
 言葉の響きは、釐阿(リア)を戸惑わせた。
 踏み出した足は、そのまま峠越えの道に続く。罵る声とひとつになって、弟の投げた石が釐阿(リア)の肩に当たった。その石に籠った力の強さが、釐阿(リア)を初めて悲しくさせた。

第二章 釐阿(リア) 四

 旅は厳しかった。夜の寒気は骨にまで沁み通り、朝はいつも苦痛と一緒に起き出さなければならなかった。野に眠れば五体は木の根のように強張って軋んだ。歩いても、歩いても景色は変わらず、山々は遥かに遠かった。暮れて行く秋のなかを、地の底へ沈み込むようにひたすら歩いた日々のことを釐阿(リア)は永く忘れることが出来なかった。
 荷は重く肩に食い込んだ。旅に浮き立つ気分は微塵もなかった。別れの悲しさまで、疲れ果てて鈍く忘れてしまった。疲労は微熱のように釐阿(リア)の身体を覆った。幾日も積もり。いつしか降り始めた霜のように積もり。
 だが、或る朝釐阿(リア)は気づく。太く枝を張った樹木の下に憩い、粗朶の燃え弾ける音に聞き入っている自分に。暖かいお茶が掌には有り・・。
ーそうだ・・。
ー何かな、釐阿(リア)。
ーあなたのことを、どうお呼びしたら良いのか、と。
ーそうだな。
 訶伊(カイ)は初めてうれしそうに微笑んだ。
ー訶伊(カイ)と、名で呼んだら良い、私はお前の師ではないし、お前と同じ道を行く同僚なのだからね。
ーはい。
ー元気になって、良かったな。
ー元気、ですって・・。
 不思議そうに釐阿(リア)は訊く。
ー身体が慣れた、もう大丈夫だ。
ーああ、僕は・・。
 頷きを返す訶伊(カイ)の微笑む口に欠けた前歯はない。笑いながら釐阿(リア)は気の済むまで胸の奥に朝の冷気を送り込んだ。
ー随分と、この空気を吸わなかったような気がしますよ、訶伊(カイ)。
ーああ、うむ。
 訶伊(カイ)もまた釐阿(リア)と同じに冷気を吸った。
ーそうだ、・・暫く、忘れていたな。
 その朝二人は、旅に出て初めて心からの笑い声を上げた。
 釐阿(リア)は疑問を口にしてみた。
ー何を探すのですか。
ー緋色の星さ。
ー星。
ー運命のな。
ーそれは何処に存るのですか。
ーここだ。
 訶伊(カイ)が指す。
ーあなた。
ーいや、この、額に宿る。
 指し示した額に高く指が鳴る。野を払う澄んだ音。
ー聞くが良い。
 歩きながら訶伊(カイ)は低く歌い出した。緩やかに遠く。かすれた旋律は古風な音階。不思議に懐かしい気のする草笛に似ていた。
  胸に星を宿し 額に緋き徴し帯び
  野に住まうは誰ぞ 風を纏うは誰ぞ
  其は我等に紡がれし宿世の糸か
  誰ぞ 誰ぞ 
  不死の者は知らず 定命の者は知らず
  誰ぞ 誰ぞ
  ただ伝えん 摩礼須(マレス)の星と
ーそれが・・、その人を、捜せば良いのですね。
ーそうだ。
 訶伊(カイ)は楽しむように頷いた。
ー教えて下さい、その徴しはどのような形をしているのですか。
ーさあ。
ー痣のようなものですか。
ーどうだろう。
ー誰か知っている人は。
ー誰も知らない。
 歌の言葉のように訶伊(カイ)は応える。
ー誰も知らない。
ーでは、どうしたら。
ー釐阿(リア)、・・その徴しは人の眼には見えないのだ。
ー見えない徴し。
ーそう、世の常の者の眼にはね。
 釐阿(リア)の縺れた思考は、それ以上の追及が出来なかった。訶伊(カイ)は笑う。
ーそれでも探すのだ、探さなければいけない、それが、摩礼須(マレス)の星なのだから。
 訶伊(カイ)は五弦琴の覆い革の、緋い星の縫い取りに触れて微笑んだ。

 遠く山の嶺々が、淡い紫に染まっていた。頂きは白く雪を化粧していた。何処かに水面が存るのか低く水鳥が連なって飛ぶ。斯荏宜(シエゲ)の城市に向かう二人の背を、追い越して鳥は行くようだった。
ー歌は、遠いなあ、釐阿(リア)。
 訶伊(カイ)は時々そう呟いた。
ー遠い龍の憧れを追うようだな。
 釐阿(リア)は何と応えて良いか分からずに黙って訶伊(カイ)の言葉を聞いていた。
ーけれどいつか、追いつける、そうだ必ず追いつけるさ、追いつける。
 釐阿(リア)は分からない。
 斯荏宜(シエゲ)。
 辺塞は人で溢れ返っていた。群衆、そして兵士。灰色に聳え立つ城壁。噎返る程に濃い馬の匂い。幾つもの蹄鉄は街路の石に当たり胸弾む軽快な音を立てていた。時折り火花さえ散らせて。釐阿(リア)は初めて見る市城の熱気に胸を躍らせた。
ー戦は人を呼ぶ。
 その興奮に水を注すように訶伊(カイ)は短く言った。
ーここは昔は、小さな砦にしか過ぎなかった。
ー戦争。
ー時代だ、そういうな。
ー人がここへ逃れて来るのですね。
ー違うな。
 訶伊(カイ)は立ち止まって釐阿(リア)を見た。
ー戦の場は稼ぎの場でもある、誰が何を拾おうとそれは儲けだ。
ー国が滅びても。
ー戦の中から国を拾う奴も居る。
ーでも、死んだひとは帰らない。
ー戦の中でも赤子は生れるぞ。
ー僕と同じようにですか。
ーそうだ。
 不意に視線を外し、訶伊(カイ)は釐阿(リア)に背を向けた。
ー行くぞ。
 訶伊(カイ)の言葉はだが、間に合わなかった。
ー訶伊(カイ)。
 釐阿(リア)は自分の眼を疑った。
ー額に、徴しが・・。
 営所を出て今、城塞の外へ向かおうとする騎馬の兵たち。騎馬兵の間を行く一人の男が釐阿(リア)の眼に映った。唯一人の異様な男。そしてその男と行く兵たちだけが、斯荏宜(シエゲ)に居た土地の兵とは違う悽惨な気配を帯びていた。ーあの人の額に、緋く徴しが、そう、斧のような形の。
 訶伊(カイ)は小さく笑った。
ーお前だけだよ、正面から迦賦輪(カフワ)王の魔戦士を見てそう言うのは。
ー魔戦士。
ーあの印は、彼らの契約の烙印だ、私たちの求める歌人の徴しではない、第一あれはお前にだけにではなくみんなにも見えているものさ。
 訶伊(カイ)は戦士と釐阿(リア)を遮るように立つ。その肩を越して釐阿(リア)は、重荷を背に負い疲れ切ったような戦士の灰色の後ろ姿を見送った。
・・あの人は背中に、一体何を背負っているのだろう・・。
 忌わしい印象を残すその男。釐阿(リア)はその暗い眸が忘れられなかった。
ー釐阿(リア)・・。
 彼らが過ぎた後は、黒い魔風が通ったように静まり返っていた。石積みの街路を抜けて城塞を出て行く迦賦輪(カフワ)の兵は幻のように、釐阿(リア)の心にいつまでも残った。再び人々の喧騒が戻る。潜めていた声が渦を巻いて飛び交った。斯荏宜(シエゲ)に昔から居る兵たちは寧ろ、平民のように人々と同じ顔をしていた。土地の兵にとっても迦賦輪(カフワ)の戦士たちは、違和感を抱く他国の存在に違いなかった。
ー釐阿(リア)。
ーあ・・、はい。
 訶伊(カイ)は固い微笑みを笑った。
ー今日は宿を取ろう。
ー宿屋ですか。
ーまあ、見てるさ。
 訶伊(カイ)は先ず、石畳に白く石灰で半円を描いた。利に聡く物見高い人たちは見逃さなかった。
ーおい、あそこで何かが始まるぜ。
ーなんだ芸人か。
 釐阿(リア)は人の集まるのが何だか恥ずかしかった。今までは里棲みの摩礼須(マレス)の家や、地祇の社が舞台だった。路上で物を乞うような、そんな芸はして来なかった。
 訶伊(カイ)は言った。自分たちは渡り芸人や門付けとは違う、摩礼須(マレス)も助ける者もない土地でしか芸を売るようなことはない。摩礼須(マレス)の星を探す為に与えられた歌であり、歌人を探す為の渡りなのだ、それが誇りなのだと。
 その言葉の通りに二人は摩礼須(マレス)と、そして摩礼須(マレス)を遠く祖と仰ぐ人たちの間に厚く遇された。遼遠な義務を果たす者として尊敬を受け、労いもされた。世の暮らしを隠身にするように彼らは目立たなかったが、摩礼須(マレス)に縁の繋る者は確かに世に居る。
 釐阿(リア)たちに似て、渡りの芸を業とする者も多く旅していた。訶伊(カイ)の話では以前にはもっと多くの摩礼須(マレス)が渡りと商いとをしていたと云う。が、戦がそれを減らした。世の中が摩礼須(マレス)を許さなくなったと訶伊(カイ)は言った。
 釐阿(リア)には不思議に思うことが有った。以前なら渡り衆を見ただけでも具合が悪くなったのに、あれからどれほど多くの渡り衆を見ても悪夢も、軽い頭痛さえも訪れない。理由を考えてみたが、すぐに諦めた。何しろ今では自分自身が渡り衆なのだから。
 渡りをする先で、訶伊(カイ)は知らない歌人の新たな噂を集めて聞いた。次の旅はそこから始まる。旅に聞いた歌人の噂を、その一人ひとりを丹念に訪ねるのだった。遠い作業をする度に、季節は深まっていた。狭伊の田舎を出てから過ぎた日々を今、釐阿(リア)は数えることが出来なかった
 そして斯荏宜(シエゲ)。
 次第に人々が騒めきを高くする。訶伊(カイ)は慌てることなく五弦琴を革の覆いからゆっくりと出そうとしていた。騒めきに更に多くの人が立ち止まった。この辺りでは五弦琴そのものが珍しいのか、と釐阿(リア)は思った。
ーこら、乞食。
 いきなりの声に釐阿(リア)は驚いた。自分たちを言うらしい。斯荏宜(シエゲ)の城兵。役人らしい。
ー誰が城門から入って良いと許可を出したのか、ここは往来だ、貰いをする場所ではないぞ。
 訶伊(カイ)はにっこりと笑いかけた。
ー私は乞食では有りませんよ、それに貰いもしません、ただ、この楽器を楽しみたいだけで。
 五弦琴を高く差し上げて示す。周囲に示したようにも見えた。
ーほう、大道の芸で貰いをするのではないと言うのだな。
ーはい、己で旅の疲れを慰めようかと。
 目玉を剥く役人は、狡猾な笑みを口元に浮かべた。
ーようし、俺はここに居るからな、豆の一粒でも貰いを受けたら容赦はせんぞ、持ち物全部税に取りあげてやるからな。
ー宜しいですね、では。
 平気で訶伊(カイ)は調弦をする。回りを囲む人々がそれぞれに言い交していた。この役人、どうやら有名な男らしい。
 訶伊(カイ)は、霰を散らすように弦を弾いた。人の群れは、艶の有るその音色に一瞬声を忘れた。騒めきが渡った。芸人が珍しいのか、弦の響きが優れていたのか、人が更に垣を厚くした。釐阿(リア)は居場所がなかった。
 誰かの抛った銭を、役人は宙で掴んだ。
ーおい、芸人、こいつは銭だなあ。
 訶伊(カイ)の目の前で掌を開く。役人の目玉が睨んでいた。
ー約束だ、金目のものは総て置いて行け、身ぐるみ全部とは言わん。
ーはあ、ですがその銭は私には関わりのないもので、どなたかが捨てたか何かしたのでしょうな。
ー何だと。
 訶伊(カイ)は笑って周囲を眺めた。釐阿(リア)は気が気でない。
ーあそこの人が、落としたようですよ。
 訶伊(カイ)は真直ぐ誰かを指した。人声が指された男の名を呼ぶ。
ーいや、確かにそいつは俺の落としたものだ。
 人垣を分けて現われた男を見て、役人は低く呻いた。
ー貴様、黒丸ではないか。
 周囲でもその名を囁いていた。
ーへい、その通りで。
 髯面の男は役人を睨み降ろすように頭を下げた。頭髪は鮮やかな飾り布で包んでいる。耳に黄金の環が太く揺れていた。
ー俺がちょいと、手を滑らしちまったもんで、御免なさいよ。
 髯男は役人の手から銅貨を奪うと、嬉しそうに懐へ突っ込んだ。
ーやあやあ、しまったしまった。
 何故かどうも、役人の方の分が悪そうだった。髯男はそれから、精一杯鼻の穴を開くと急に訶伊(カイ)を怒鳴りつけた。
ーこら、お前らがややこしい所に居るもんだから、この俺にまで迷惑が掛かるじゃねえかい。さあ、とっとと街を出て行きやがれ、このしょぼくれ芸人め。
 黒々とした髯が凄じかった。釐阿(リア)は思わず震え上る。訶伊(カイ)は笑って頷き、さっさと五弦琴を仕舞い始めた。
ー釐阿(リア)や、それじゃ行こうかい。
ーあ、はい。
 役人に頭を下げて行きかける二人に、髯男は再び怒鳴る。
ー待て芸人、この俺が街を出るのを見届けてやる。
 髯男の足音が地響きでも立てているように釐阿(リア)は感じた。
ーいえね旦那、俺だって芸人が嫌いなわけじゃないんで。
 振り向いて役人に言う耳元の声が雷の鳴るようだった。
ーただこの斯荏宜(シエゲ)ってえ街に芸人が寄りつかねえのはどういうのか、前から不思議には思っちゃいたんで。その、こいつらを追っ払いついでにそこの所を、ひとつ締めあげてみるかと。何せ、こいつらにゃこいつら同士で仲間内の噂が有るようでしてね。
 髯男は役人に、にやりと笑った。猫の子でも掴むように釐阿(リア)は髯男に首の後ろを捕まえられ、背中を押される。
ーそれじゃ旦那、御免なさって。
 後ろで役人の悔しそうな唸り声と、どっと笑う人々の声がした。

第二章 釐阿(リア) 五

 髯男。名は黒丸の丹理(タリ)と云った。
ーもっとも、通りは黒丸のほうがずっと良いがな。
 黒い髯に笑いが埋まっている。丹理(タリ)の眸は輝きを宝石のように光らせた。訶伊(カイ)の云った宿屋はどうも、その男の家になるらしい。
ーいきなりで驚いたか、小僧。
 釐阿(リア)の背中に掌が派手な音を立てた。三人の囲む夕餉の卓が軋んだ。
ーおまえ、訶伊(カイ)にうんと教わらなけりゃいかんなあ、まずは渡り芸人の持つ五弦琴と、摩礼須(マレス)が持つ五弦琴とのそもそもの違いからだな。
 初めから訶伊(カイ)は、助力を求める為に路上を使ったらしい。誰かが摩礼須(マレス)の五弦琴に気づくのを、強引に求めた。余程何かに急がされたのだろう、常に目に立つことを避けたがる訶伊(カイ)だったのだから。
ー迦賦輪(カフワ)の兵は、いつからこんな所にまで来るのだ。
 卓に置かれた湯気を上げている皿に訶伊(カイ)は鼻を近づけた。
ーそう、この半月ほどになるか。
ーそうだったのか。
ー気になるか。
ーああ、迦賦輪(カフワ)の兵と同じ場所には、少しでも長居をしたくはない。
ーその気持は分からんでもないが・・。
 丹理(タリ)は耳の環を指先で弾く。涼しい音小さくした。
ーだがあれは、お前さんらしくもない。
ー見ていないのか、あいつを。
ー礼留・・。
 言いかける丹理(タリ)を訶伊(カイ)は制した。
ー聞きたくない名だ、釐阿(リア)、どうした食べないのか。
 不意に話題を転じる訶伊(カイ)に、丹理(タリ)は振り向いて再び大きく笑った。
ーおお、小僧、食えよ、遠慮はするな。
ーはい。
 釐阿(リア)は皿に向かう。
ーなあ小僧、摩礼須(マレス)は助け合うもんだ。
ーはい。
ーそうだ。
 教えた気で笑い声を立て、丹理(タリ)の掌が再び釐阿(リア)の背中に飛んだ。
ーそうだ、食えよ。
 釐阿(リア)を壊しそうな勢いだった。
ー訶伊(カイ)よ、それよりも、あそこを俺が通って本当に良かったぞ。
 訶伊(カイ)にはもし何処にも助けがなくても、切り抜けるだけの目算が存ったようだった。丹理(タリ)は頷いて言う。
ーいやいやそうでもないぞ、野郎はあの手で斯荏宜(シエゲ)の街を、芸人も乞食も住めない街にしやがった。強欲なだけに執こい。
ーそうなのか、どうも乞食のいない街とは思ったが。
 訶伊(カイ)は何か、丹理(タリ)とは別の気がかりが有るようだった。
ー乞食なら西門の下から河にかけて住んでるよ、一歩も斯荏宜(シエゲ)には入れないねえ、もっともこの頃じゃ偽乞食も多いが。
ー偽乞食。
 はっとしたように、訶伊(カイ)は皿から眸を上げた。丹理(タリ)は意味を持たせて頷く。
ーああ、偽ものだ。
 訶伊(カイ)は黙った。丹理(タリ)は急に釐阿(リア)の肘を乱暴に突いた。
ーほら食え、どうした。うんと食えよ、旨いぞ。お前ぐらいの年頃が、一番腹が減るもんだ。遠慮はするなよ。
 釐阿(リア)は皿の中身に戸惑っていた。慣れた食物ではなかった。何か細長い紐のようなものが強烈な匂いの汁に浮いている。色が凄じく赤かった。
ーそいつはな、蒜をたっぷりと摺り入れてある、赤辛しもな、これが旨い、食え。
 訶伊(カイ)はふと顔を上げて、釐阿(リア)の様子にようやく笑った。釐阿(リア)はそれを見て、思い切って細紐を口に押し込んでみる。少し噎(むせ)た。
ーどうだ、え、うまいだろう、こういうものが本当の人間さまの食い物だ。
ー辛いだろう、釐阿(リア)、この男は何でも辛くしてしまうからなあ。
 助けを出した訶伊(カイ)に丹理(タリ)が噛みつく。
ー辛味のない料理なぞ、ただの餌よ、それにな、この蒜が身体に良い。
ーこの凄い匂いはその、にんにくのせいですか。
 汗と涙を一度に釐阿(リア)は流す。
ーおまえ、蒜を知らんのか、おお、何という不幸だ、さあ、その汁を飲んでみろ。
 挽肉の油が浮く、青葱を散らした汁の表面には自分の顔が映っていた。釐阿(リア)はそれを見ないように目を閉じて啜った。
ーあ・・、おいしい・・。
 意外そうに呟く釐阿(リア)の顔を、二人の大人は娯楽のように楽しんだ。
 その夜。
ー相手は自在六と号された長者の跡取り、名は伝わらない、人は小自在と呼んでいるそうだ。
 丹理(タリ)と訶伊(カイ)には余程話すことが有るのだろう、と釐阿(リア)は寝床の中でぼんやりと二人の声を聞いていた。
ー小自在。
ー所在は怡里(イリ)の六郷。
ー斗芳奴からか。
ーそうだ、そしてそれに仕える流れ巫女がひとり。
ー摩礼須(マレス)。
ーで、あれば聞こえていような。何者かは分からぬが、いかにも恐ろし気に礼以(レイ)と名乗りおるぞ。
ー冥府の主を気取るのか、で。
ーおお、その小自在が天上の楽を成すのだとか。
ー歌か。
ー歌だ。
ー併わせる物は。
ー翡翠の双掌管。
ーそれは・・。
ーそうだ、塚山からだけ出る古神の物、誰も敢えて鳴らした者はないし、鳴ったと聞いたこともない。
ーどんな音か、噂は有るか。
ーいや。
ー聞いた者は。
ーそれが何も言わない。
ー音色さえもか。
ー小自在の歌は皆言う、だがその巫女の笛については誰も、良く覚えていないと。
ーそれ程の歌か。
ー人の噂では。
ーどうも変だ。
ー臭うだろう。
ーそうだな。
ー罠かもしれんぞ。
ー摩礼須(マレス)を狩る為にか・・。
ー奴らは、山渡りと歌に絞り始めたように思う。とすれば誰が一番危ないか、分かるだろうな。
ーああ、だが行って確かめる他はない。
ーすまないな。
ーなにこれが仕事だ。
ー出来る限りのことはする。
ーもし罠であったらさっさと逃げるよ。
ーそれにな、敵は銀月の残りも狙っているように思うぞ。
ーその名も言うな、黒丸。
 摩礼須(マレス)には敵が居るのか、と釐阿(リア)は夢に落ちながら思った。
 赤い帯と呼ばれる斐匝(ヒサ)の長流は、城塞の立つ丘の下で緩やかに曲がっていた。下流へ向けて幅を拡げ、流れの穏やかになるその辺りが荷下ろし場。丹理(タリ)が川舟を繋ぐ江川の泊りと荷替え場の賑いだった。
ーよお、黒丸の。
ー稼いでるな爺っつぁん、腰でも痛めて婆あさんに嫌われるなよ。
ーぬかせ。
 河岸を行き交う人々は雑多だった。人種も言葉も。釐阿(リア)は生れて初めて世間を見たように心を踊らせた。この先は暫く、河を舟で行くのだと云う。斐匝(ヒサ)の流れは赤い砂を呑んで代赭色に濁っていた。この河を遥かに西へ、西へと下って行く、そして・・。
ーそして、この流れは何処まで行くのだろう・・。
ー海だよ、坊や。
 釐阿(リア)の声が聞こえたのだろう、陽に灼けた老人が目を細めて言う。坐り込んだ膝には古びた網が存った。
ーだがな、斐匝(ヒサ)の長流が海に注ぐまでにはずっと、遠く旅をしなけりゃならん。この儂だって、海を見たことはないのだからな。
ーそんなに遠い。
ー坊やがどこから来たのか知らないが、そこよりもずうっと遠いぞ、海へは。
 憧れを語るように老人は網を繕う手を止めた。
ーだが、いつかは儂も行く。行って、この目で見て、この腕で魚を獲るんじゃ。海の魚だぞ、坊や。
 丹理(タリ)が渡り板の上から言った。
ー海の魚だから、塩漬けにする必要がないとでも思ってるんじゃないだろうな。
ーわはは、そりゃ良い、だと良いなあ、黒丸の親方よ。
 少し照れたのか老人は大声で笑うと、掌を叩いて埃を落とした。
ー客人かい、親方。
ーああ。
ーこの坊やも。
ー子どもでもこいつは偉いぞ、立派な仕事を背負ってるんだ。もしかしたら爺っつぁんよりも先に、海へまで行くかも知れんぞ。なあ、釐阿(リア)。
 丹理(タリ)の大声に訶伊(カイ)は咎めるように振り返って頷いた。
ーおっと、悪かった。
 口を押えて丹理(タリ)は荷舟に跳び移る。
ーほう。
 老人は改めて釐阿(リア)を見た。
ーそうかい坊や、そうなのかい。
 どう応えて良いのか釐阿(リア)は戸惑った。何か酷く居心地が悪かった。
ー僕は、あの。
ーああ良いんだよ、坊や、応えなくとも、そう、良いともさ。
 何を知って、何を知らなくて老人は頷くのか釐阿(リア)には分からなかった。だが何故か懐かしそうに、老人は目を細めて釐阿(リア)を見てそれから遠く、遥かな雲を追うように河の流れの彼方を眺めた。もう無駄口はなかった。
 丹理(タリ)の河舟は斐匝(ヒサ)に乗り出す。釐阿(リア)は舟の艫からその老人の、小さくなる姿を夢の景色のように見送っていた。代赭色の流れは命を持つ生き物のようだった。盛り上り、時折りは渦を巻いて釐阿(リア)の目の下を過ぎて行く。斐匝(ヒサ)の旅が始まった。
 訶伊(カイ)の気にした偽乞食。江川で実物を見せてから丹理(タリ)はそれを話した。
ー鑑札のない乞食だ。
ー流民か。
ーさあ・・。
ー良く税吏が許しているな。
ーそいつが妙だろう。
ー知っているか、黒丸。
ー何を。
ー今の世の中にはな、摩礼須(マレス)の偽ものまでが居る。
ーそうか・・、実は俺もそれが気になっていた。
ーやはり目につくか。
ー当り前だ、ここに本物がいるのだぞ。
 二人の言葉は艫に座る、釐阿(リア)の処にまでは届いて来なかった。

第二章 釐阿(リア) 六

 斐匝の流れが広かった。舟は行き足を緩やかにして主に櫓に頼る。この二日程は行き交う舟も大小を取り混ぜて多く見受けた。水路は錯綜して幾筋にも分岐し、いつか水郷地帯を成していた。
 水辺に家が有り、水の上にまで建つ家を、釐阿は珍しく見た。犬が飼われている。家禽が濁った水の上を行く。物売りの舟が近くを擦り抜けて通った。野菜の青い色が眸に心地良い。常緑の樹々も多く葉を広げていた。
 それが釐阿の見た斗芳奴の賑いだった。
ー世話になったな、黒丸。
ー何の、商売のついでさ、ほい、小僧。
 厚い桟橋の板を軋ませて、丹理は大層な荷を釐阿に背負わせる。
ーおい、釐阿には無理だよそれは。
ーでもない、こっちへ来てみろ。
 同じような荷を担ぎ、合図だけして丹理はさっさと先へ行く。釐阿は足元に気を遣うだけで精一杯だった。
ーこれだ、これ。
 波止場から少し離れた、荷替え所の裏に丹理は訶伊の袖を引っ張って連れて来た。
ーこれを使え。
 顎で示すと丹理は肩に担いだ荷を乱暴に落とした。
ーどうだ。
ーああ、これは有難い。
 並んだ驢馬の中から厩の奥に声をかけて一頭を曳き出す。
ーこいつだ、名前は好きに付けな。
ー本当に良いのか。
ー良いさ、邪魔になったら売ろうがおっ放そうが。
ーそうか、今まではどんな名前で呼んでいたのかな。
ーその子は、玖玖って云うんですよ。
 厩の蔭から少年が言う。
ーとても温和しいし、良く働く。
ー君が世話をしていたのかい。
 黙って首だけで頷いた。
ーこいつはな、あの椎の木の爺さまの所の末っ子だ。
ーそう、私の名は訶伊。
ーあ、ぼ僕は、湍羅須と云います。
 慌てて少年が明るい場所へ飛び出て来る。ー荷造りを手伝ってくれるかな。
ーあ、はい。
 釐阿の背で山になった荷物を、少年は一度地面に降ろした。丹理が持った分と合せて手早く仕分けをし荷紐で括り、驢馬に載せる荷と釐阿が負う荷とを作った。
ー驢馬に全部を載せたらいけないの。
 久し振りに負う荷物の重さについ、釐阿が言った。
ー可哀想だよ。
ーえ・・、あ、そうか。
ー驢馬だって、重い物は重いよ、自分が持てる荷物は自分で持たないと。
ーそうなのか。
 湍羅須の言葉が釐阿には教えのように聞こえていた。
 椎の木の爺さまと呼ぶ名の通りに、その家は坂の上で椎の巨木に囲まれていた。
ー家に泊まって行くの。
ーどうかな、訶伊が決めると思うよ。
ー泊まって行ったら良いのに、そうしなよ釐阿。
 湍羅須は振り返る度に何度も、驢馬の鼻面を撫でた。余程可愛いらしい。
ー家に泊まってくれると良いんだけれどなあ、君に見せたいものも有るんだ。
ーうん、頼んでみるよ。
ー僕もそうする。
ーうん。
 土の感触が足の裏に気持ちよく柔らかかった。家の匂いや家畜の匂いが懐かしかった。釐阿は湍羅須に誘われて椎の木の屋敷に生垣の抜け穴から潜り込んだ。後ろで驢馬が不平に鼻を鳴らした。
 老人と湍羅須だけが暮す家にしては広すぎたが、生活の場は土間の一間だけのようだった。釐阿はそこで、意外なものを見た。

第二章 釐阿(リア) 七

 斐匝の岸近くには、茶色く冬枯れた葦の原が続た。遡上して擦れ違う舟は、どれも曳き子に綱を曳かせていた。その多くが丹理(タリ)の知り合いらしい。互いに遠くから声を掛けて、商売の話などが早口で交わされた。釐阿(リア)はそれが河の生活と知った。
 丹理(タリ)の舟子たちはそれぞれに、言葉も態度も乱暴だったが釐阿(リア)には親切だった。彼らは摩礼須(マレス)ではなかった。それでも商い舟が傍に寄ったりすれば舟子の誰かが、きっと甘い菓子や何かを買い求めて釐阿(リア)にも振る舞ってくれた。世間で味わう渡り衆への蔑みを、釐阿(リア)は感じなかった。
 擦れ違う曳き子や舟子たちの単調な労働の歌も面白かった。狭伊の田舎でも良く似た歌が歌われていたのを釐阿(リア)は思い出す。狭伊は遠かった。
 風が良ければ小さな帆を上げた。そんな時には舟は水と一緒に、辷るように滑らかに進み楽しかった。水鳥は風を受けて水面から空へ舞い上る。珍しい獣が河に水を求めて来るのも釐阿(リア)は見た。旅とは、こんなに楽しいものなのかと釐阿(リア)は思った。
ー今はまだ季節も悪くはない、だが夏が近づけばここいらは蚊や虻が群れる、うっかり息も出来ないくらいにな。何事も、良いことだけではないな。
 釐阿(リア)のその思いを見透かしたように訶伊(カイ)は言う。
ーそれになあ釐阿(リア)、歩こうが、舟で往こうが時の流れの進みは同じだしな。
ーけれど早く着きますよ。
ー何処へ。
ーその・・、行きたい所へ。
 訶伊(カイ)がふと笑みを漏らした。
ー私たちは歌人を探すのだよ。
ーですから早くそこへ行けば、早く見つかります。
ーこれは、私の言い方が良くなかったようだな。
 訶伊(カイ)は横になっていた上体を起こす。
ー釐阿(リア)、私たちが探すのは、沙梳(サラ)の歌を歌える人だ、分かっているね。
ーはい。
ーそうだ釐阿(リア)、その歌を、歌える人。
 区切って訶伊(カイ)は言う。
ーそれが私たちの探す人だ、誰か、ではない。
ーえ・・。
 釐阿(リア)の眉が曇った。
ーどこかの、人ではない・・。
ーそう、歌を探すものと思っても良い。
ーけれど・・。
ーその歌を歌える人が、沙梳(サラ)と呼ばれるのだよ。
ー良く、分かりません。
 訶伊(カイ)は葦の靡きに目を遣った。釐阿(リア)は水面を見る。
ー本当の歌と云う意味なら、訶伊(カイ)の歌は充分そうだと思います。
ー有り難う、だが私はその人ではない、その歌は聞けばすぐに分かるのだ。
ー誰にでも、ですか。
ーもし、聞くことが叶えば必ず分かる、それが沙梳(サラ)の歌だと。
 釐阿(リア)は黙った。風が訶伊(カイ)の髪を乱す。
ー探すのは沙梳(サラ)の歌、では釐阿(リア)、歌はどこに存ると思う。
 訶伊(カイ)の表情が不意に若く感じた。釐阿(リア)は首を振る。
ー歌は時を呼ぶ別な名前だ、私たちが探すのはその、特別な〈時〉なのだよ、名を沙梳(サラ)と云う。
ー沙梳(サラ)と云う名の時。
ーそうだ。
 口の中だけで釐阿(リア)は繰り返してみた。
ー沙梳(サラ)と云う名の、時
 釐阿(リア)は歌と歌人の姿が幻のように、斐匝の渦の中で入り乱れるのをじっと見ていた。

第二章 釐阿(リア) 八

 舟歌が遠く聞こえた。河原を行く曳き子たちが歌うのだろう。併せる合いの手が、午睡を誘うようだった。
 釐阿(リア)に与えられた河旅の猶予はそのまま学習の日々になった。繰り返し訶伊(カイ)は五弦琴の奏法と古旋律とを復習って釐阿(リア)に示す。言葉と、そして習慣。それから黄鼓。
 指で弾くその小さな太鼓が、特に釐阿(リア)は好きだった。訶伊(カイ)の五弦琴と併せると、自分の身体も心も透き通って行く。遥かに身体を、風が駆け抜けるような気がした
 不思議だった。自分は随分と遠い所へ来てしまったのに。黄鼓の響きと、五弦琴の古い旋律を聞いていると何故か、いつも通りに自分がここに居る気がする。懐かしくもあり、当り前のようでもあり。釐阿(リア)は、こんな日々をずっと生きて来たような、そんな気さえしていた。
 舟は星影の拡がる夜の下で波に揺れる。河の淀みに泊りをする夜、釐阿(リア)は星々の姿を大空に描いていた。旅へ出てからと云うもの、あの眩暈に似た頭痛や悪い夢に怯えることがなかった。麻疹が去るように一度もそんな怯えを抱かずに済んだ。
ーどうした、釐阿(リア)
 星の座を描く言葉をいつの間にか、声に出していたようだった。訶伊(カイ)が寝返りを打って釐阿(リア)に向く。
ー眠れないのか・・。まあ、波の上の暮らしだからな。
ーいえ、違うんです。
 低い河面には仄かに白い靄が流れている。湿気を吸って毛布が重かった。
ー訶伊(カイ)。
ー何だ。
 釐阿(リア)は闇の中で眸を燦めかせた。
ー僕の小さな時、茂斗の家に預けられるまえの僕を、あなたは知っているのでしょう
ーああ。
 訶伊(カイ)は面倒臭そうに応える。
ーどこから僕は、来たのですか。
ーお前は両親のことを知りたいのか。
 問い返す訶伊(カイ)の言葉に釐阿(リア)は頷いた。
ーせめて、生きているのか、死んでもうこの世にはいないのか。
ー知ってどうする。
ー知れば・・。
ー両親の何を知りたいのだ、釐阿(リア)。
 釐阿(リア)は起き直った。訶伊(カイ)は横になったままで動かない。
ーどんな人か、知りたいのです。
ー聞いて、それで知ったと思うのか。
ーそうは思いませんが、でも何か知りたいのです。
ー狭伊の茂斗の家の家族はどうだ、牟良がお前の母親ではいけないのか。
ーいいえ、でも・・。
ー釐阿(リア)、例え私が何かを知っていたとしても私はそれをお前に話す積もりはないよ。
ーどうしてですか。
ー真実とは別に言葉だけを知ってどうするのか。
ー知れば、うれしいと思います。
ー悲しいことかも知れないぞ。
ーそれでも良いんです、苦しくても。
ーお前は、間違いなくお前の両親から生れた、それだけが真実だ、釐阿(リア)。
ーどうして、教えてくれないのですか。
ーお前の中に、両親が存る、知りたければ自分を知れ。
ー分かりません。
ーでは、ひとつだけ教えよう。
ーはい。
ーお前には義務が有る。
ー義務・・、ですか。
ー摩礼須を幸福にする義務だ。それがお前が両親から承け継いだものだ。
ーどうして。
ーひとつと言った筈だぞ。
ーけれど。
ーお前には人の持たない能力が有る、それが多分、血と云うものなのだろう。それが、お前に何を齎すのか私には分からない。だがな、きっとお前は私が初めて遇う視る者だ。私は信じる、摩礼須の伝承が真実なことを。私はお前に遇えたことを沙梳(サラ)に感謝する、お前は沙梳(サラ)に選ばれた者だ、釐阿(リア)。
ー選ばれて生れた、と。
ーそうだ、人は皆選ばれて生れて来る、誰でもだ。
ーどんな悪人でも。
ーそうだ。
ー悪虐の王であっても。
ーそれは、確かなことだ。
ーあなたもですか、訶伊(カイ)。
ーそう、私の場合は多分、眠りの神に選ばれたのだろうな、良く眠る奴として・・。
 本当にそれきりで訶伊(カイ)は眠ってしまった。残された釐阿(リア)はひとり、星々を見上げていつまでも、訶伊(カイ)の言葉を考えていた。

第二章 釐阿(リア) 九

 斐匝の流れが広かった。船は行き足を緩やかにして主に櫓に頼る。この二日程は行きかう舟も大小を取り混ぜて多く見受けた。水路は錯綜して幾筋にも分岐し、いつか水郷地帯を成していた。
水辺に家が有り、水の上にまで建つ家を、釐阿は珍しく見た。犬が飼われている。家禽が濁った水の上を行く。物売りの舟が近くを擦り抜けて通った。野菜の青い色が瞳に心地良い。常緑の樹々も多く葉を広げていた。
それが釐阿の見た斗芳奴(トハヌ)の賑いだった。
ー世話になったな、黒丸。
ー何の、商売のついでさ、ほい、小僧。
厚い桟橋の板を軋ませて、丹理は大層な荷を釐阿に背負わせる。
ーおい、釐阿には無理だよそれは。
ーでもない。こっちへ来てみろ。
同じような荷を担ぎ、合図だけして丹理はさっさと先に行く。釐阿は足元に気を遣うだけで精一杯だった。
ーこれだ、これ。
波止場から少し離れた、荷替え所の裏に丹理は訶伊(カイ)の袖を引っ張って連れて来た。
ーこれを使え。
顎で示すと丹理は肩に担いだ荷を乱暴に落とした。
ーどうだ。
ーああ、これは有難い。
 並んだ驢馬の中から厩の奥に声をかけて一頭を曳き出す。
ーこいつだ。名前は好きに付けな。
ー本当に良いのか。
ー良いさ。邪魔になったら売ろうがおっ放そうが。
ーそうか。今まではどんな名前で呼んでいたのかな。
ーその子は、玖玖(クク)って云うんですよ。
厩の蔭から少年が言う。
ーとても温和しいし、良く働く。
ー君が世話をしていたのかい。
黙って首だけで頷いた。
ーこいつはな、あの椎の木の爺さまの所の末っ子だ。
ーそう、私の名は訶伊。
ーあ、ぼ僕は、湍羅須(セラス)と云います。
慌てて少年が明るい場所へ飛び出て来る。
ー荷造りを手伝ってくれるかな。
ーあ、はい。
釐阿の背に山になった荷物を、少年は一度地面に降ろした。丹理が持った分と会せて手早く仕分けをし荷紐で括り、驢馬に載せる荷物と釐阿が負う荷とを作った。
ー驢馬に全部を載せたらいけないの。
 久し振りに負う荷物の重さについ、釐阿が言った。
ー可哀想だよ。
ーえ・・、あ、そうか。
ー驢馬だって、重いものは重いよ、自分が持てる荷物は自分で持たないと。
ーそうなのか。
 湍羅須(セラス)の言葉が釐阿には教えの様に聞こえていた。
椎の木の爺さまと呼ぶ名の通りに、その家は坂の上で椎の巨木に囲まれていた。
ー家に泊まって行くの。
ーどうかな、訶伊が決めると思うよ。
ー泊まって行ったら良いのに、そうしなよ釐阿。
 湍羅須は振り返る度に何度も、驢馬の鼻面を撫でた。余程可愛いらしい。
ー家に泊まってくれると良いんだけれどなあ、君に見せたいものも有るんだ。
ーうん、頼んでみるよ。
ー僕もそうする。
ーうん。
 土の感触が足の裏に気持ちよく柔らかかった。家の匂いや家畜の匂いが懐かしかった。釐阿は湍羅須に誘われて椎の木の屋敷に生垣の抜け穴から潜り込んだ。後ろで驢馬が不平に鼻を鳴らした。
 老人と湍羅須だけが暮す家にしては広すぎたが、生活の場は土間の一間だけのようだった。釐阿はそこで、意外なものを見た。

第二章 釐阿(リア) 十

 黒々と巨大な梁を見上げて、釐阿は圧倒されるように息を吐いた。広い筈だった。その家の殆どが書庫のように羊皮紙や木簡、竹簡や高価な紙の冊子などの膨大な資料で埋まっていた。名前も分からない枯れた葉が厚く、本で綴じられていた。
 老人は、歌の採集者だった。
ー言魂と云うものが大事。
 膝を気迫でひとつ叩く。
ー形、流れ、ふたつでひとつ、あの斐匝の流れを見よ。
 訶伊は黙って五弦琴の手入れをする。柔らかな革に包まれてはいたが斐匝に居た湿気が気になる。手元は入念だった。
ー良いか、言魂を探り当てねば鍵は解けぬのよ、必ず何処かに存る筈、儂はそれを探し出してみせようぞ、他人は他人の道よ。
 酒を注いだ木の椀が、老人の手の中で揺れ動く。
ーほら椎爺よ、酒がこぼれるぞ。
ーほう。
 丹理に言われて椎の木の老人は、手の中の酒を目の前に持ち上げる。
ーううむ、だがな、こぼれる酒がもう残っておらぬ。
 椀の底を叩いて見せた
ーおう、呑んでくれ。
ーおおよ、済まんな。
 余程酒が好きなのか、丹理に注ぎ足して貰うその目元が皺に埋まる。
ー良い酒だなあ、黒丸の。若い香りのぷんとする、この新酒が、最も旨い。
 酒の文辞を引きかける老人を、丹理が慌てて遮った。
ー何を言うか、夏越しの酒が最高だと前には聞いたぞ。
ーいやそれも良い、良いがなあ、やはり今呑むこの酒がいつも、一番の酒よなあ。
 湍羅須は末っ子と聞いたが、それはこの老人のことだろうかと釐阿はその真白な眉を見て思った。それに・・。
ー今日は早いが泊まって行け、な、湍羅須もねだることだし。
ーその湍羅須ですけれどね。
 訶伊が言う。
ーいつまで厩の番をさせて置くつもりなののですか。
 老人は唸った。
ーあの子はここに居る釐阿と、同じ年頃の筈でしょう。
ーふむ。
 老人が釐阿を睨むように正面から観る。
ーお主の後継ぎか。
ー摩礼須の後継ぎですよ。
ーううむ。
 釐阿は酷く居心地を悪く感じた。
ーそうか、湍羅須と同じ年か、ううむ。
ー湍羅須は役に立つぞ、椎爺、何をやらせても。
ーだがなあ、あの親どもがなあ。
ーあんたの息子だろうに。
ー揃って馬鹿どもよ。
 老人はふっと息を吐いた。
ー儂は後継ぎが欲しい、息子どもは後を継がない、孫だけがこの老人と暮しおる、それならばせめて孫にでも後を継がせたい、それのどこが悪いのかと儂は息子どもに言ってやりたい、だがなあ、あれの為を思うとどうもなあ。
ー摩礼須狩りか、椎爺の心配は。
 丹理が急に重い声を出した。
ー酷い時代だったからなあ。
ーそれもまだ、通り過ぎて已んだわけではない。
ー抱えて逃げるには、ここの荷は多すぎるからなあ。
ーそうだ、それでも儂はここを儂らの図書寮にいずれはしたい、だが、その為に命を賭けるのは儂ひとりで良いとも思う。
ーううむ、椎爺よ、知っておるか。
ー何を。
 がぶりと酒を呑んだ。
ーこの数年の異変か。
ーそうだ、渡りをする者の数だ。
ー確かに多いな。
ー我等の数は殆ど減った、それなのに渡りは増えたのだぞ。
ー戦の難から逃れた者や、国を奪われた者たちだろうな、食い詰め者も居る。
ーそれだけではないぞ椎爺、見知らぬ芸人や山渡りも増えている。
ー山渡り。
ーそうだ、芸人は良い、昔から摩礼須の数の方が少ないくらいだからな、だが山渡りは違うぞ。
ー何が言いたい。
ー俺が思うのは、こうだ。
 前置きして丹理は始めた。
 増えた者たちには幾つかの種類が有った。第一に土地を追われた難民。これには滅びた王国の貴族や王族たちもが含まれた。次には他国の兵の崩れた者、傭い兵となって放浪を繰り返す者も多い。成り上りを狙った商人も多く徘徊しているが、これは元々出自の土地が有る。問題は、そのどれでもない、初めから渡り衆として生きてきたような、そんな顔をした者たち。それが増えているのだと丹理は言う。
 摩礼須から見れば一目で違いは分かるが、良く知らない者が見たら区別は多分つかないだろう。そんな偽の摩礼須が世の中を歩いている。何処かで摩礼須の誰かが、摩礼須狩りを逃れる為に企てた紛れかとも思った。だが異常に数が多過ぎた。
 確かに迦賦輪の王軍は無差別に渡り衆を捕らえる初期の方法から、狩り自体を変更せざるを得なくなっていた。捕らえる者の数に比べて真実の摩礼須が圧倒的に少ない。千人を捕らえてその内に、唯の一人も摩礼須の居ないことが当り前に繰り返された。渡りをする者の増えたことを最初、摩礼須は天の佑けと感謝した。だが摩礼須の隠形衆が、その内に奇妙な噂を掘り当てた。
ーとは。
 老人はどうやら思い当ったように、鋭い眸で丹理を睨んだ。
ー法士どもか、企んだは。
 丹理は首を振る。
ー複雑だ、摩礼須も幾らかは預かっているが、法士どもも絡む。それよりは、何と迦賦輪自身が噛んでいるらしい。
ー迦賦輪王だと。
ー奇妙だろう、椎爺よ。一方では摩礼須を狩り立てて、もう片方じゃ紛れを仕立てる。奇妙な遣り方だ。
ーううむ。
 唸ったきりの老人に、訶伊がゆっくりと話しかける。
ー最初から迦賦輪の遣り方は奇妙だった。銀月の旗を許したのも、同時に始めた摩礼須狩りも、あの時代、摩礼須は迦賦輪の策謀に乗せられて、自らの動きを決めていたのかも知れない、私はこの頃そう考えるようになって来た。
ー椎爺よ、迦賦輪は摩礼須を喰らおうとしている、俺たちの秘を握って摩礼須の失った故郷を、自らの王国に加えようとしているのではないだろうか。
ーそれが、異様に増えた渡りの真相に近いと思うのが。
ー信じ難い。
ー山渡りは、では。
ー迦賦輪は冥府山を、自らのものと宣告したそうだぞ。
ー何故だ。
ー分かれば苦労はない。
ー私はもうひとつ理由を考えた。
 訶伊の声が低くなる。
ー迦賦輪に、もうひとつの野望が存るとしたら、それは・・。
 言いかけて訶伊は首を振った。
ーやめよう・・。その想像は、余りにも怖ろしい。
ーふむ。
 老人は訶伊の言いかけたことを察したようだった。酔いも醒めたように顔が青い。
ー迦賦輪か・・、そもそも迦賦輪とは、何者なのだ。
 迦賦輪とは何者か、その疑問が黒く胸に謎を落とした。迦賦輪の王軍の他は、誰も迦賦輪を見た者はない。

第二章 釐阿(リア) 十一

 湍羅須は口綱を釐阿に渡す。驢馬が耳を二三度動かした。
ーこの子は賢いから、もし水場にでも迷ったりしたら、その時は綱を放して玖玖に任せたら良いよ。
ー分かった、君と一緒にいつか旅をしたいね、湍羅須。
ーああうん、良いなあ、でも僕はお祖父さんの手伝いをするからここに在るよ、僕たちの造る図書寮の司書になってね。
ー良かった。
ー訶伊と、黒丸の親方のお蔭だよ、厩で働くのも好きだけれど、僕はあの本に埋もれている方がずっと好きだからね。
 釐阿は湍羅須のそっと隠していた宝物を思い出した。
ーあそこに存った本は、君の集めたものなの・・。
ーそう、内緒でね。僕は歌以外にも資料を集めるつもりなんだ。
ーへえ、そうか。
 釐阿は湍羅須が少し眩しい気がした。
ーまたいつか会えると良いね。
ーうん、そうだね。
ーきっと会えるよ。
 朝靄の揺れる低地へ向かい、椎の木の坂道は曲がりながら下って行く。釐阿が振り返るとそこには椎の巨木が、湿気と日差しとから家を護るように聳えて見えていた。手を振る湍羅須に、いつか椎の木が本当に摩礼須の図書寮として生きる日が来るだろうことを、釐阿は不意に確信した。
 斗芳奴(トハヌ)の街の朝は早かった。牛追いが水牛を追って行く。街角でその水牛の乳を煮ていた。凝乳も売るらしい。揚げ粉が油で膨らむ甘い匂いがした。
ー人の暮しとは良いものだな、釐阿。
ーはい。
 本当にそうだと釐阿は思った。
 街道は南北に通じていた。この季節北へ行く人の数は少ない。そのうえに狼が出ると聞く。斗芳奴(トハヌ)を離れてからは街道には、釐阿と訶伊と玖玖の三つの姿だけだった。
ー狼。
ー何だ。
ー怖く有りませんか、狼。
ー怖いな。
ーどのくらい歩くのです。
ー月の一巡り。
ー野宿ですか。
ーそうだ。
ー危なくは有りませんか。
ー危ないな。
 どんな時に訶伊が無愛想になるのか、次第に釐阿は理解し始めていた。それ以上は何も訶伊からは得られないだろうと、釐阿は向きを変えた。
ー狼の伝承、摩礼須に何か存りますか。
ー存る。
 笑って訶伊は、伝承を語った。
 狼の人。
 牧人が居た。名は奢賦流(ザフル)。北天と云う名の駿馬を持っていた。
 北天を野に放つと幾日かの後には必ず、数頭の野馬を引き連れて戻って来たと云う。奢賦流(ザフル)は野馬を慣らし育て、やがて市に出す、そうして奢賦流(ザフル)は財を築いた。
 或る年の冬、奢賦流(ザフル)は今までのように北天を放そうとした。だが、北天は奢賦流(ザフル)の掌に鼻を擦るばかりで一向に駆けては行かない。奢賦流(ザフル)は怒った。初めて北天に鞭を振り降ろした。何度も。それでも、幾ら鞭打たれても北天は悲しく嘶くばかりで動かない、終には皮は破れて血にまみれた。奢賦流(ザフル)はとうとう北天の、その冬に産まれたばかりの若仔を曳き出して、こう言った。
 おまえが行かなければこの仔を殺す、と。人の言葉が通じたものかそれは分からない、だが北天は奢賦流(ザフル)の前に首を垂れた。そして野に出て二度と戻らなかった。
 奢賦流(ザフル)は後悔した。後悔して、北天を捜しに野へ出た。まだ冬は終りを告げずに、山には雪が多く残って有った。幾日も、幾日もが過ぎた。奢賦流(ザフル)は雪の中に迷う。迷い疲れ切り、いつしか自分が何処に在るのかそれさえもが分からなくなっていた。気がつくと其処は狼たちの多く棲むと云う、黒松の森の奥深くだった。
 奢賦流(ザフル)は森の中で、雪に埋もれたかけた北天の鬣の飾り紐を見た。間違いなかった。絹の色糸の飾りは血に汚れていた。奢賦流(ザフル)は雪を掻き分けた。冷たい雪の下に奢賦流(ザフル)は無残な北天の姿を見つけた。北天の喉と腹は、狼の牙に喰い破られて凍っていた。奢賦流(ザフル)は声を上げて泣いた。
 やがて夜が来た。狼たちの天に吼える声がする。奢賦流(ザフル)は復讐を誓った。憎しみは狂気のように熱かった。自らの身体を太い黒松の幹に縛り付け、奢賦流(ザフル)は弓を構えて待った。やがて月が昇る頃、一頭の狼が現われた。
 灰色の狼は、北天の倒れる場所を知るように一筋に向かって来る。それこそが仇と奢賦流(ザフル)は信じた。
 人の匂いに気づいたのか一瞬首を上げた狼に奢賦流(ザフル)の放つ矢は飛んだ。銀色に輝く夜を裂いて、矢は唸りを上げて飛ぶ。狼は奢賦流(ザフル)の憎しみに喉を貫かれた。奢賦流(ザフル)は雄叫びを上げた。彼方で吼える狼たちが不意に静まった。その夜狼たちは終に奢賦流(ザフル)の傍へ寄ろうとしなかった。
 朝が来た。奢賦流(ザフル)は自らの身体を解いて仕留めた狼に近づく。だが其処に狼は居なかった。雪よりも白い膚を血に染めて、女がひとり倒れていた。
 奢賦流(ザフル)は女に触れた。まだ暖かかった。細い首を貫いた矢はまだ僅かに顫えていた。出来る手当を奢賦流(ザフル)はした。外套の毛皮を着せて、背に負って奢賦流(ザフル)は家路に就いた。どのようにして帰り着いたかを、奢賦流(ザフル)は全く覚えていなかった。或る日奢賦流(ザフル)は突然、自分が家の前に立っていることに気づいた。その日から奢賦流(ザフル)の看病が始まった。
 幾日かして女は、初めて眸を開けた。銀色の不思議な瞳だった。暫くの間、女は何も口を利かなかった。それから幾日かが過ぎる。更に幾日か。そして或る月の夜に、女は奢賦流(ザフル)の前で静かに涙を流した。奢賦流(ザフル)は、女を妻にした。名を怡阿牟(イアム)と呼んで。
 霜の銀、怡阿牟(イアム)はやがて奢賦流(ザフル)との間に双子を産んだ。奢備(ザビ)と真努(マヌ)、ひとりは黒い髪と黒い瞳の少年に、もうひとりは灰色の髪と銀の瞳をした少女にいつしか育った。
 厳しい冬が来た。何もかもが凍る、厳しい冬だった。風は凍って空に氷の虹を描き、鳥は死んで大地に落ちた。獣たちは南へ下る、それを追って狼たちも。
 或る晩奢賦流(ザフル)は狼の声に目を覚ます。怡阿牟(イアム)が居なかった。そして次の夜には真努(マヌ)が消えていた。
 やがて狼の群れが村々を襲い始めた。飢えた群れは家畜と人とを区別しなかった。その狼の年に、生きて春を迎えた者の数は多くはなかった。
 奢賦流(ザフル)は息子の奢備(ザビ)と倶に生き延びた。牧の馬たちも何故か襲われずに無事だった。奢賦流(ザフル)は妻が、その一族の元へ還ったのを知った。
 その後も狼たちは奢賦流(ザフル)の子孫、奢備(ザビ)の子孫たちの馬を襲わなかった。今も奢賦流(ザフル)の家系には、狼と語ることの出来る者が時折り生れる、と云う。
ーその、女の子だった真努(マヌ)は。
 釐阿は不思議な話だと思った。
ー真努(マヌ)はどうなったのでしょう。
ー知らない。
 訶伊は短くそう応えた。
 釐阿はその狼の人の話に深く魅惑された。銀の眸が胸の何処かに宿ったように、深く。釐阿は不意に、自分が狼に憧れを抱き始めていたのに気づいた。あれ程に怖ろしいものと思っていた筈なのに。釐阿はもう、無用に狼を怖れなかった。

第二章 釐阿(リア) 十二

 能伐里が時折り後ろを振り向いた。耳を澄ますのは鳥の声を聞くためか、それとも風を聞くのか。眸にはだが、怯えが忍び入り始めていた。何度も道を振り返り、終に能伐里は言った。
ー訶伊、誰かが追って来る 。
ーああ、響きはどうも軍馬のようだ。
 能伐里の顔が蒼褪めた。
ー知っていたのか。
 立ち止まると能伐里は先を歩く釐阿を呼び戻した。
ー街道を外れよう、我斯の荒れ野までは妾が案内をする、難しい道ではない。
 余程迦賦輪の兵を恐れるのか、能伐里は早口に言うと潅木の繁みへ強引に降りた。
ーさあ、早く。
 それから、荒れ野の日々が続いた。
 風に淡く雪が混じった或る日。不思議な角鹿の群れに出会った。
 枝角を持つ鹿の群れは三人と驢馬を見ても逃げることはなかった。黒く濡れた眸で一斉に釐阿たちを見た後は、再び穏やかな静けさに戻った。水のように静かな沈黙だった。鹿たちは北の大地に棲む、苔鹿だった。
 苔鹿の沈黙の群れをそっと進むとやがて、異風な集団が現われた。人声が、再び世界を生き返らせるようだった。賑やかに叫び交わし、ゆっくりと馬を乗り回す人が居た。
 彼らは南へ動いていた。冬毛の家畜の群れを連れて、乗馬の背で揺られて歌うようにお互いを呼び。
ーほうい、道を開けてやれ、旅人だ。
 振り返った人々を見て釐阿は、彼らの良く似た風貌に驚いた。年齢の層もほぼ同じ、若者たちだけの集団。
 それが釐阿と、北国の白い摩礼須たちとの出会いだった。
ー摩礼須。
 訶伊がいきなり大声で言った。
ーあなたたちは、摩礼須だな。
ーそう、だが。
 戸惑ったように言う若者は芦毛の馬を寄せて来る。雪白の毛皮が晴天に眩しかった。
ーやあ、あなたは楽人だな。
 訶伊の背の五弦琴を見て若者は微笑んだ。軽々と芦毛の背で揺れる。
ー私たちはこの先の水場で休むが、良ければ一緒にお茶は。
 訶伊は釐阿と能伐里を振り返り、頷いた。それを見て若者は馬首を返す。蹄の下で埃が砂色に舞った。
ーああ、馬は良いなあ。
 釐阿は思わず呟く。
ー首を上げて、あの誇り高い姿が素敵だなあ。
 憧れるように見送る釐阿の表情を、訶伊は複雑に横目で見た。後ろで能伐里だけが訶伊の仕草に気づいていた。
 今時それほどの若者がまとまって暮すとは信じ難かった。彼らは永い間他の摩礼須との交流を閉ざしていた。それが迦賦輪も戦いも知らずに生き残った一番の理由だろう。
ーそいつの軍が人狩りをするのか。
 而伊理が、群れを統率している若者の名。熱い茶を啜りながら而伊理は釐阿と訶伊の、二人の顔を等分に見る。
ーあなた方が私たちの縁続きだと云うのは理解した、だが、この人は。
 視線は能伐里に移る。
ーこの人は摩礼須ではないのだな。
ーそうだ、妾は渡り衆ではない。
ー渡り衆・・、この辺りでは摩礼須をそう呼ぶのか。
 而伊理はその言葉に何か抵抗を感じたらしい。暫くは白磁の碗に視線を落としたままで何も言わない。
ー南には酷い差別が存ると聞いていたが、やはり本当らしいな。
 呟いた言葉は苦かった。
ーだが、俺たちは俺たちだ、自由はどの空の下にも存る。
 笑顔は明るい。釐阿は何故かほっとした。ー俺たちは急がない。苔鹿はともかく、家畜を弱らせる訳には行かないからな。あなた方さえ良ければ少し、南の事情を教えて欲しいのだが。
ー私の方にも訊ねたいことは存る。
ー決まった。
 振り向いて水場近くに輪坐する者たちに而伊理は手を振る。
ーほうい、今日は此処を動かないぞ。
 明るいその叫びに応えて遠くからも喚声が風に乗って届いた。釐阿は、彼らの陽気さに強く魅かれるのを感じた。
 天幕は黒い山羊の毛織りだった。家畜の群れと苔鹿の若仔を幕屋の並ぶ内側へ追い込む手伝いをしながら、釐阿は北国の白い摩礼須の伝承を幾つか聞いた。風に靡く髪は淡い色で、それさえもが不思議に見えた。そして、彼らの銀に近い灰色の眸が、釐阿にいつか聞いた狼の人の話を思い出させた。遠くで苔鹿の群れが彫像の静かだった。
ー狼。
 銀色の髪を揺らして佐弊牟が笑う。
ー私たちは狼なんて大嫌いよ。
 佐弊牟の白い喉が釐阿には眩しく見えた。何故か、それからはまともには佐弊牟を見ることが眩しくて出来ない。
ー良い、狼はね、特に驢馬の塩気の肉を好むのよ。
 天幕の裾を結ぶ綱は必要以上に長い。綱を張りながら佐弊牟は言った。
ーどうしてか知らないけれど、狼は綱とか縄が嫌いなの、だからね、こうやって驢馬を一番中へ隠すのよ、大事な馬には特に、首に綺麗な飾り紐を巻いて上げるの、あんたもあんたの驢馬に巻いてあげたら良いわ、あの子が食べられたりしたら、悲しいでしょ。
 佐弊牟の笑う声を、冬の太陽のように美しいと釐阿は思った。
 初めて聞く音楽だった。彼らは皆それぞれに楽器を使う。特に三弦の花梨木の琴。彼らが諦无と呼ぶ撥弦琴が最も好まれているようだった。
ー諦无とは、聖なる三を意味するの。
 耳元で佐弊牟に囁かれて釐阿は顔を赤くした。能伐里が傍で居眠りをするように膝を抱える。口元には微笑みが存った。
ーじゃ、乾杯の歌だな。
 而伊理は角杯を差し上げると一気に飲み干した。喚声が渡る。夕陽の虹のように角杯は宙を飛んで誰かの手に落ちた。
ーそうれ。
 歌とは、何と心の躍るものかと釐阿は初めて想った。諦无を弾く而伊理の技は華麗だった。囃す言葉も如何にも楽しい。訶伊の教えてくれた歌人の不幸が、その歌には微塵も感じられない。日々を楽しく生きる為に歌が存るのだとそう信じられた、そんな歌だった。釐阿はふと、遥かに遠い真布那の明るい歌声を想った。真布那の笑顔を想い出し、胸が熱くなった。
 歌人の伝承は彼ら白い摩礼須にも存った。ーけれどもそんなことは、俺たちにはどうでも良いことだ。
 訶伊の眸が燦めく。
ーいや、そいつは正しいのかも知れないが俺たちには必要がない、そう言ったほうが良いかな
ー私たちは私たちの暮す所が故郷と思っているわ、摩礼須は皆そうではないのかしら、訶伊。
ーそれとも、南では違うか。
ーいや、言う通りだ
 短く訶伊は言う。
ー私はひとつ教わったよ、人には、神を必要としない歌も存ったことを忘れていた。
ーそう、楽しくなければな。
ーあなたたちには摩礼須の星は必要ないのかもしれない、だがやはり気をつけた方が良い、迦賦輪の方はそう思わないだろう。
ー私たちを捕らえることは出来ないわ。
 奇妙に自身を持った佐弊牟の言葉だった。釐阿は佐弊牟の眸がその時、銀に光ったように感じた。而伊理が頷く。
ー苔鹿の枝角と静かな勇気に、道を譲らぬ者はない、俺たちは切り抜けるさ。
 熱い誇りが釐阿の胸を灼く。北の摩礼須の飲むお茶は濃く強かった。
ーさあ、立って。
 釐阿は佐弊牟に腕を掴まれて立ち上る。
ーあんたに踊りを教えて上げるわ、うんと身体の暖まるのをね。
 振り下ろす腕と一緒に賑やかな楽が始まった。だが拍子は二つしかない。即興で幾らでも歌を折り込む。
ーさあ。
 佐弊牟は毛皮を捨てて旋回を始める。左回りの最初は緩やかな旋回。何処にでも存る旋舞か、と訶伊は和やかに見ていた。だが佐弊牟を手本に踊り出す釐阿を見て、訶伊は蒼褪めた。足の運びは千手ではないか。
ーいつ、釐阿は・・。
 四方歩を区切った独特の、釐阿の踏み足は佐弊牟の踊りと異なって滑らかだった。他の若者たちも釐阿の踏み足に気がつき始めた。ーおい、変わっているなあ。
ーいいぞ、南じゃどうやるのか見せてくれよ、釐阿。
 訶伊は血を想った。父のものか、それとも母のものか。釐阿の踏む四方歩はそのまま展開して、操法の五歩陣へと続きそうに天才を閃かせた。佐弊牟が喚声を上げて今度は釐阿を真似る。
ーあれは千手だな。
 能伐里が呟いた。
ー知っているのか。
ーああ、古い歌だそうだが。
ー初めは摩礼須の曲だった。
ー芸人なら今では誰もする。
 訶伊は昔の景色を見るように、釐阿の閃かす踏み足を見ていた。能伐里は布袋から出した双掌管を掌で暖める。釐阿が何かを誘うようだった。
ー参ったわ。
 先に佐弊牟が音を上げた。女たちの間に倒れ込む。
ー適わない、どうやって息が続くの。
 釐阿は煽るような歌声の中でまだ旋回し続けていた。その歌の切れ目に、能伐里の息が飛び込んだ。双掌管。釐阿は反応した。
ーお、踊りが変わったぞ。
ーやあ、いいぞ、釐阿。
 訶伊は四方歩が円を崩して五歩陣へ移るのを見た。能伐里は千手の旋律を鳴らす。双掌管の息は風に乗った。即興の踊りと他は見たが、訶伊だけは釐阿の踏み足が操法の型を描くのを知っていた。何処で釐阿は身につけたのか、そんな人も機会もなかった日常の筈。訶伊は真実を知りたいと思った。
ー釐阿。
 呼んで、訶伊は黄鼓を投げる。釐阿は綺麗に受け止めた。高々と皮が鳴った。空が弾けるようだった。五弦琴の転手が軋む。訶伊は千手に歌を併せた。
 それから後のことを釐阿は覚えていない。星々の銀の燦めきを見たような気もするが、佐弊牟の眸だったような気もする。熱いお茶には酒精が潜んでいたのに違いなかった。

第二章 釐阿(リア) 十三

 土埃が遥かに見えた。兵だった。騎馬の兵たちが東へ向かっていた。街道の交じる追い分けの彼方を、兵は横切って東へ動く。
ーどこへ行くのでしょう。
ー追い分けから東への道は、岐武丹玖(キムタク)の領土に入る、穏やかな偶像教徒の支族たちが群れて支配する国だ。
ーあれも迦賦輪の王軍ですか。
ー軍旗はそうだ、が鎧が違う。
 その場に留まって訶伊は彼方を見る。
ー通り過ぎるまで待とう、関わりたくはない。
ーあんな鉄の鎧を着ていたら何も怖くないでしょうね。
 訶伊が笑った。
ーあんな物を着たって強くなりはしない、馬に乗るのも苦労なら、水にでも落ちれば溺れて死ぬだけだ。
ーではどうして。
ー気分だよ、兵を恐れさせない、それに敵の陣を崩す時には役に立つ、矢の雨が降るような戦では使える。
ー戦を見たことが有りますか。
ー有る。
 追い分けを東へ行く騎馬兵は、砂と埃を残して去った。訶伊は再び歩き始める。道は合流して西と東へ分かれていた。その追い分けの道の端に小さな石積みが存る、そこで訶伊は暫く考えを巡らせていた。玖玖が鼻を鳴らして軍馬の匂いに嘶いた。
ー道を行くのは止めよう。
 訶伊が言う。
ーまだ、あんなのが通るようだしな。
ーはい。
 拾った石を元に戻して訶伊は、西へ行く道を棄てて潅木に覆われた山麓を選んだ。
ーこんな時には驢馬は有難いぞ、馬ではこんな場所は歩けやしない。
ーはい。
 困難な道を選んだからか、訶伊はそれからいつもよりは釐阿に多く言葉を掛けるようになった。釐阿は苦笑を噛み殺していた。
 だがやがて笑う余裕もすぐになくなった。道とは、偉大なものだと釐阿は思った。
 眼下に湖が燦めいていた。
ー怡里(イリ)だ。
 そこが目的の流れ巫女と長者の住む街。
ー斗芳奴に似ていますね。
 斐匝の流れを下る旅以来、釐阿は水辺の街を好きになっていた。
ー怡里(イリ)とは湖の名前ですか、それとも街の方。
ー両方、河の名は怡里匝(イリサ)でこれは北海に注ぐ、が、斐匝よりは余程暴れるそうだ。
 西には高く山々が遠く聳えていた。その殆どが中腹から上を白く、雪に覆われて雲に隠れていた。
ーひとつだけ雪を被らない低いのが、峠越えの道が有る那婆由(ナバユ)、甘石山だ。
ー変な名前ですね。
ーそうだな、摩礼須の言葉ではないのかも知れない。
ーえ。
ー山の名前は殆どが摩礼須のつけた名で呼ばれている、訛ってはいてもな。
ーではあの怡里(イリ)は。
ー今の言葉で言えば意味は、水の海と味気ない。
ーそれも摩礼須の言葉なのですか。
ーそうか・・、お前。
 訶伊は漸く釐阿の勘違いを察した。
ー釐阿よ、人の名はどうやってつける。
ー古語を知っている物知りや、渡り衆の、あ・・。
ー分かったか。
ーはい・・、渡り衆に名をつけて貰うと病気をしないとか、それに、縁起も良いと云われます。
ーそれになあ、釐阿、世間で知られている古い言葉とはな、元は摩礼須の言葉だったのだぞ。
ーそう、でしたか。
ー世間ではな、人や地名に古語ばかり使われてあることを誇りに思う者も存れば、面倒に思ったりする者も居るだろう。けれどなあに、私たちにしてみれば元々が摩礼須の言葉で名付けてあるのだから理解が早い。
ーでも、僕は知りませんよ。
ーこれから知れば良い。
 湖に浮かぶ多くの島には樹木が密生していた。常緑の木が殆どなのか、水面に緑を滴らせて映す。怡里(イリ)の六郷が、冬を避ける楽園のように釐阿には想えた。
 訶伊はその時にふと妙なことに気づいた。いつもなら見える漁りの帆が、風の良いこの日中に何故かひとつも見えなかった。怡里(イリ)六郷の冬漁の、舟が見えない。
 六郷。怡里(イリ)と怡里匝(イリサ)に連なって六つの郷が存る。自在六とはその総ての郷を束ねる長者の名だった。或いは、六欲を自在に満たす長者の財力からだとも云う。六郷長者の自在六も既に世になく、今は世継ぎの小自在が差配をする。
 その小自在。
ーどうも、噂が奇妙だ。
 釐阿は怡里(イリ)の上郷で初めて、由緒を正しく保つ摩礼須の王家を知った。

第二章 釐阿(リア) 十四

 訶伊に教えて貰わなければ、その幕屋の群れには気づかなかった。潅木の紛れを利用して、巧妙に人目を避ける工夫がされて張られた天幕の形は、五つの辺を群れに組む。中心には丸く、石で炉が組まれて枯れ枝が燃えていた。良く乾いた枝は殆ど煙を上げず、釐阿は大鍋を囲む人々の輪に加わった。寡黙で、余り大きな声を立てない人たちだった。姿までが静かに見えた。様子や年齢も、皆それぞれに異なる奇妙な集団だった。
ー山羊の汁だ、暖まるぞ。
 木椀が押しつけられる。湯気が食欲を刺激した。
ー遠慮は要らんぞ。
 遠くから訶伊は釐阿に向かい黙って頷いて見せた。釐阿は礼を言って木椀を受け取る。男が妙な顔をした。
ーお前、摩礼須ではないのか。
ーいえ。
ーでは、そんなに丁寧に礼を言うな。
ーえ。
ー五陣の組を構えている時は誰でもが平等だ、礼は良いが、余り丁寧にするのは侮辱になるぞ。
ーあなたに対してですか。
ーいや、摩礼須と云うお前に対してだ。
ーああ、分かりました。
 男は釐阿に微笑んで見せた。釐阿は熱い汁に喉を灼きながら、己を誇りと思う摩礼須の生き方を飲み下した。
 訶伊は、王家の者だと云うひとりの老人と話していた。冬の霜のように厳しい貌をした老人だった。身につけた雨避けの襟には、荒れ野の鷹が紋章に縫い取られていた。
ー聞こえてきたのは歌のこと、それと小自在が魔物に魅入られたとの噂だった。
ーその魔物の正体は、流れ巫女ですか。
ーそれも確かめたかったが、来るのが少し遅かった。
ー十日程も前に迦賦輪の兵に出合いましたが、それですか。
ー岐武丹玖(クムタク)に向かう兵か。
ーはい。
ー違うな、ほんの一足の違いで小自在は殺され、流れ巫女の消息は消えてしまった。
ー迦賦輪が拐った、と。
ー分からぬ、だが、迦賦輪は確かに摩礼須の伝承を握っている、それ以外に歌人を襲う理由がない。
ー歌人を襲う・・。
ーそう、奇妙なことを始めた。
 訶伊は唸った。
ー訶伊よ、山渡りの偽摩礼須の目的が何処に存るか、儂は隠形衆と探ろうと思う。
ー隠形衆がまだ残っているのですか。
ーああ、少なくはなったが、此処に居る者も大方はそうだ。
ーはあ・・。
 訶伊は言われて初めて頷いた。
ーそうでしたか。
ー滅びを覚悟で、迦賦輪と戦う日が来なければ良いがな。
ー何か、懸念でも・・。
 その言葉には重い意味が存った。
ーそう、摩礼須は戦わずに生き延びることだ、それが何よりだ。
ー斯堤(シテ)・・。
 王家の貴種を名で呼び棄てて良いのかと釐阿は驚いた。だが誰もが平気な顔でいる。
ー儂らは南へ山越えで下る、迦賦輪の手も気になるが、春までには両峨山の様子を確かめておきたい。
ー両峨山ですか。
ーそうだ。冥府山を領土と宣言するくらいだ、山渡りをするなら必ず気づかない筈はない。もしも両峨山が迦賦輪の手に落ちていれば、その時は・・。
ーその時はどうします。
ーさあ、どうするか、な。
 霜のように厳しい貌が、微笑んだ。
ー斯堤(シテ)、私はもう少し、その流れ巫女のことを探って見ましょう、気になることが有りますから、それと死んだ小自在のことも。
ー気をつけるのだな訶伊、小自在は死んだのではなく殺されたのだ。
ー分かりました。
 それから老人は火の向こうの釐阿を見た。ー若い者の数が少なくなった、あの子を失うことのないようにな。
ー私の息子です。
ーほう、その年で、妻もないのに子が出来るか。
ーいえ自分では、そう思っています。
 釐阿は顔を赤くして俯いた。
 その夜初めて釐阿は摩礼須の天幕の寝心地を味わった。深々と夢も見ずに眠りは暖かく釐阿を包んだ。
 朝餉の後に別れた斯堤(シテ)たちは、隠形衆の名の通りに音もなく森に消えた。振り返って山を見ても今は何処を歩くのさえ分からない。驢馬の群れも声を立てなかった。玖玖だけが仕付けの悪い馬のように時折り鼻を鳴らす。 怡里の六郷を繋ぐ道は、石で舗装されていた。それが自在六と云われた長者の残した、六郷への遺産だった。
 迦賦輪の兵が行なった破壊は、斯堤(シテ)に聞いた通り意外に小さかった。僅かに小自在の屋敷を焼く程度だった。人々はだが、疫神を恐れるように外へは出なかった。家の戸を叩いても返事は返らない。扉の内に籠り息を潜めているのが感じられた。人の居る証拠に、炉の煙道を青い煙が立ち上っていた。だが、戸を開ける者は何処にもない。
ーこれでは誰からも話を聞けそうにないですね。
ーそうでもないな、この様子だけで充分に分かることは有る。
ーけれど誰も出ては来ませんよ。
ーああ、襲ったのは迦賦輪の歩兵ではないな、緋い戦士団の誰かだろう。
ーあ・・、あれが。
 釐阿はいつか斐匝(ヒサ)の辺の城塞で見た、斯荏宜(シエゲ)の街路を往く物思いに沈んだような男の眸を思い出した。額に緋い斧の烙印を帯びた男の、暗い眸を。
ーあの人のことですね。
ーお前が見たあの男ではないだろうが、間違いなく緋い魔戦士だろう、この恐れ方は只事ではないからな、斯堤(シテ)も私たちも、丁度来合わせなくて良かったよ。
ー戻って来ませんか。
ーそんな無駄はしない、彼らは最も有効なように動くからな。
 ふと釐阿が黙り込んだ。
ー訶伊。
ーどうした。
ー聞こえませんか。
 釐阿の眸が訶伊を透り抜けていた。
ー釐阿・・。
 遠い十余年も前と同じ、何も視ない釐阿の眸だった。訶伊は背筋に冷たい刃が立ったように感じた。
ー歌です。
 訶伊は耳を澄ましたが、やはり何も聞こえなかった。釐阿の足が無意識に前へ出る。掌から玖玖の口綱が落ちた。
ー歌が聞こえますよ、訶伊。
 何かが釐阿を捉えていた。訶伊は釐阿の横顔に残る幼さが不意に痛ましく思えた。
 運命はやはり、釐阿を手放してはいなかった。だが訶伊は、その釐阿の視坐こそが摩礼須の為に沙梳(サラ)に通じることも、また、予感するのだった。

第二章 釐阿(リア) 十五

 釐阿が何を聞き、何を視ていたのかを訶伊は知らない。ただ釐阿を掴んだ運命の手を、冷酷と感じた。
 そう知りながらも摩礼須の為に、敢えて釐阿を運命に連れ出した自分こそが、最も酷薄なのだと訶伊は唇を噛んだ。驢馬の頑固さが仲間のように思えた。口綱を後ろに曳いて訶伊は追う。
 訶伊は思う。自分に出来ることは釐阿の為に、せめて祈ることだけだ、と。与えられた運命が釐阿の父母よりも優しくあるように、とそれだけを。
 湖に喚ばれたように釐阿は岸に立った。
ーあそこです。
 怡里の水は薄緑に揺れていた。指差す彼方に、幾つかの島が蟠龍のように低く伏せていた。灰色の風が冷たく過ぎた。
 訶伊は釐阿に待つよう言い聞かせた。怡里の人々の使う平底の小舟を探しに岸を伝い。玖玖の口綱を釐阿の腰に結びつけては置いたが、それでも不安だった。泥炭に沈む足を引き抜いて訶伊は急いだ。
 櫓漕ぎの舟を戻した時、釐阿はまだ岸で遠くを視ていた。玖玖は何も知らないように茶色の草を食む。
ー釐阿、乗れ。
 背の五弦琴が酷く邪魔だった。棹で岸を押し、舟を釐阿の視線に向ける。
ー行くぞ。
 怡里の浅い水には水の中で咲く花の草が、その細い茎を揺らしていた。招くように、嗤うように水草は揺れた。訶伊の胸の動悸は已まなかった。
 訶伊は想い返していた。胸に存った不安はやはり、旅に出るとすぐにその形を見せた。何故斯荏宜であの男と、礼留具と釐阿が出遇わなければならなかったのかを訶伊は想う。迦賦輪の戦士は多いものを何故。釐阿の祖父の那太を殺した、父の牟宇を滅ぼしたあの男と何故、最初に釐阿は出遇わなければならなかったのか。
・・偶然では、ない。
 この世の悪縁から釐阿を、離して置くのだと訶伊は赤子を狭伊(サイ)に隠した。だが、運命は釐阿の周りに招き寄せられるように、人と出来事とを生むのだった。
 釐阿の背が伸びればそれに合せて、偶然はいつも重なった。釐阿の視る夢が偶然を招くのか、それとも。そして何よりも釐阿自身が奇形に育ち始めてしまった。
 里人が釐阿を、人ならぬ異物として避け始める。狭伊(サイ)で、茂斗の上げる苦しみの叫びが遠く訶伊にまで届く。茂斗と牟良の叫びが痛かった。
 釐阿を、道に連れ出すしかなかった。
・・思えば初めから釐阿は、運命の中心に在たのだったか。
 人を喚ぶ運命の神は、釐阿に何を用意すると云うのか。やはり茂斗の家に農夫として、一生埋めておくべきだったのかとそう思いもした、だが。
・・どのみち、摩礼須として生きるほかはなかったのだ、喚ぶ声に逆らい、無事に生きて已えられるほどに甘くはない、狂うか・・、周りを巻き添えにする程の不幸を、招き寄せていたか・・。
 多くの、運命を狂わせた人々を訶伊は見て来た。悲惨か、無残か。彼らは運命を狂わせることで自らを狂気に巻き込んで、己を滅ぼす舞踏を舞った。それが訶伊の見た運命に逆らう人々の末路だった。
 そしてそれが、歌人。悲しいことに歌人ががそうだった。
・・歌人は皆、そうだった。何故か歌人は定められたように皆、不幸になって行く
 不幸が憑くのか己から招き寄せるのか。歌を棄てれば不幸は避けただろうが、真実の歌を歌える者ほど歌を棄てられなかった、その喚ぶ声に捉えられていた。逆らえば必ず、更に大きな不幸が歌人を襲った。訶伊は、摩礼須の歌司としてそれを知った。
 釐阿には既に運命が憑いていた。訶伊にはそれが視えた。釐阿を掴んで離さない運命の黒い爪が。
 舟は泥炭に乗り上げる。釐阿を捉えた歌はまだ去ってはいなかった。
ー釐阿。
 呼ぶ声が届かなかった。訶伊は急ぎ足で釐阿を追う。
 その女が、礼以(レイ)と名乗る流れ巫女だった。翡翠の双掌管。流れ巫女の手のなかで古楽器が顫えていた。尤もそれが、鳴らされるべき楽器としてこの世に生れたのかは、誰も知らなかったが。
ー歌は、あなたですね。
 釐阿が問う。流れ巫女は空虚な眸で首を振る。唇の端に血が流れていた。
ーこの双掌管が歌うのだ、妾ではない。
ー礼以(レイ)、だな。
 問う訶伊に流れ巫女は低く嗤った。
ー小自在の屋敷に在た、流れの巫女。
ー小自在とは、笑わせる名ではないか、何を自在にしたと云うのだ。
 この女、既に狂っているのかと訶伊は思った。不意に釐阿の様子から、何かが抜け落ちた。
ーこの人の額には、徴しは視えない。
 流れ巫女は足祗(アギ)の神官と同じ緋衣を纏っていた。その薄い布が花を零したように、灰色の風に翻った。
 裸足だった。小自在の屋敷からどのように逃れたのか、それとも迦賦輪の魔戦士が敢えて逃がしたのか、恐怖は流れ巫女の膚に疫病のように沁みていた。顫える指が双掌管を掴む。翡翠の冷たさに縋りつくよう、礼以(レイ)と名乗る流れ巫女は再び唇をつけた。今は訶伊にもその音が聞こえる、それが釐阿の聞いた歌なのか。蒼褪めて顫える頬には若さが、まだ名残りに残って存った。
・・ここにも、来ていたのか。
 訶伊は、流れ巫女が背負う歌人の不幸を再び視たと思った。五音の巡りに潜む神は、歌人に常に惨かった。
 翡翠の音は冥界の底から響いて届くよう、微かだった。訶伊は五弦琴の転手を巻いた。五つの音が散る。翡翠の双掌管の滑らかに辷る階調が、足祗(アギ)の古神謡を成す。静かに併せる訶伊の五音。翡翠の吹鳴が高く延び上がる時。怖れと狂気に顫える旋律の主と、訶伊の忍び入らせた副えとが入り混じる。いつしか入れ替わる。その時、五弦の音が激しく弾けて散った。
 釐阿は炎を見ていた。それとも、見てはいないのかも知れなかった。流れ巫女の寝息が安らかな眠りを示している。訶伊は物思いに沈む釐阿の様子を片目で窺っていた。夜は深い。釐阿の呟きは低く炎に向かっていた。
ーあれは、何だったのだろう・・。
 訶伊には釐阿の呟きが分かっていた。釐阿の知りたいことは多分二つ。ひとつは流れ巫女の心を救った歌だろう。その幾らかは訶伊にも説明が出来た。だがもうひとつは多分誰にも答えられないのだろう。釐阿自身が見つけるしかないと、訶伊はそれを思った。
 あの時、五弦の音に耳を傾け、風の囁きと水の響きを心に聞いて訶伊は歌を紡いだ。流れ巫女の心を占めた怖れと狂気が、次第に歌と入れ替わって行くのを釐阿は視ただろう。悲しみを、怖れを、狂気を吸って歌は流れ出て、五弦の音に吸われるように心は、水の色に変わる。
 歌、だった。歌がそれを可能にするのを訶伊は知っていた。歌人を追い続けた訶伊が見出したものを今、釐阿がその謎を解こうとしている。
・・けれど、お前の謎はお前が解くしかないのだよ、釐阿。
 そう言って上げたかった、だが。
ー釐阿、考えごとなら昼の光の下でするのだな、夜は時に奇妙な考えを運ぶ。
 訶伊はそれだけを言った。

第二章 釐阿(リア) 十六

 流れ巫女は身の上を語らなかった。小自在の屋敷で起きた出来事も、訶伊は敢えて訊ねなかった。訊けば再び恐怖が心を打ち砕くだろう。ただ本当の名前だけを流れ巫女は二人に告げた。能伐里(ノバリ)と。その日から、三人の旅が始まった。
 旅は能伐里(ノバリ)が持っていた。翡翠の双掌管を能伐里(ノバリ)に与えた足祗(アギ)の神官。今では荒れ野にひとり住んで、風を紡ぐと云う。
ー歌人。
 訶伊の語った摩礼須の伝承に、能伐里(ノバリ)は己を重ねた。
ー宇流(ウル)が歌うのを聞いたことはないが、妾が歌人だと云うのなら宇流(ウル)もそうであろう、風に歌わせるのを何度も聞いた。
ーほう。
ー妾の風を聞く耳は其処で出来たのかも知れぬな。
 能伐里(ノバリ)の風を聞く耳、訶伊の五音、そして釐阿の黄鼓の空音が、やがて摩礼須に鳴り響く時の来るのを三人は、この時未だ想像もしていない。
ー風を聞く耳、か。
ー訶伊。
 釐阿が疑問を挟んだ。
ー何か、釐阿。
ー僕は、あなたが歌人でないと云うのがどうしても納得出来ません。
ー私は違うと以前にも言ったろう、歌を使うことはとても危険だし、余り使いたくもないしね。
ー危険とは。
 能伐里(ノバリ)の問いは釐阿の問いでもあった。
ーそれは能伐里(ノバリ)の方が良く知っているのではないかな。
ー歌が不幸を招くと。
ーそういう歌が存る。
ーでも僕の聞いたあの歌は、違うと思いますよ。
ー妾を正気に戻した歌か。
ーはい。
ーふうん。
 訶伊は少しの間沈黙していた。能伐里(ノバリ)も釐阿も敢えてそれを破ろうとはしない。やがて訶伊が顔を上げた。
ー以前から疑問に思っていたことが存る、それを考えてみたいのだが、皆で。
 釐阿が笑う。
ー玖玖もですか。
ー玖玖もだ。
 驢馬は呼ばれて嬉しそうに長い耳を動かした。
 訶伊は説明を始めた。
ー五音の空音を中心に四方へそれぞれの音を配置する、つまり北から地水火風。
ー東が水。
ー風は、西なのか。
 訶伊は頷く。
ー黒は北で夜と死を表わす。南は昼で赤、出産を示す、東が男で日の出と青、西は女で白それに日の入りだ。斗芳奴の椎爺は、古い時代には色と原理を少し違えているものが存ると言っていたが、大体は私が言った通りに考えられている。
ー中央の音は何色なのだ。
ー黄だ、土を意味したとも云うが、実際には空を指す。
ー天空の空か。
ー違う、言葉には出来ないが敢えて例えれば時のようなもの、存るのではなく無いのでもないものだ。
ー法士のような言葉遊びをするのだな。
 訶伊は能伐里(ノバリ)を見た。
ー法士に・・、会ったことが有るのか、能伐里(ノバリ)は。
ー小自在に飼われていた頃に一度だけ。
 能伐里(ノバリ)の言葉に恐怖の名残りが、まだ影を濃く落とすのを釐阿は感じた。
ー黄鼓の黄は、そう云う意味ですか。
ー気に入っているようだな黄鼓を。
ーはい、身体が自然に舞うような気がしますから。
ー音でか。
 僅かに訶伊が息を止めたのを、釐阿はすぐ気づいた。
ーいいえ、叩く時の所作です。
 苦労して息を吐く訶伊を釐阿は奇妙に思ったが、能伐里(ノバリ)がその時に言った。
ーこの世の総てが、五音に含まれていると渡り衆は考えるのだな。
ー含まれているか、表わされているのか知らないが、そうだ、技術を言えば難しいが、音階を操る順にどうも法則が有る。
ー地水火風の巡りにか。
ーそれと空、この五音と倍音列の巡りのなかに神が潜むのだ。
ー渡り衆の神か。
ー違う、嫉妬の神だな、思うに。
ーそれが不幸を招く、危険だと。
ーまあ、聞いてみるか。
 訶伊は陽の高さを計り、露営の場所を考えていた。夜が来る前に寒気を避ける備えをしたかった。
ーさあ、良いだろう。
 街道を外れた、周囲を岩の囲む薮の中。そこは永い年月、渡りをする者たちに使われて来た野営の場所らしい。火炉の石組が黒く焼けていた。
ー同じものを、二度。
 指を立てて訶伊は示す。
ー同じに繰り返すから、違いがすぐ分かる筈だ。
 初めにゆっくりと、訶伊は簡単な旋律を弾いた。枯れ藁のように日向臭い旋律だが別にどうと云うことのない、音色だった。
 次に訶伊は呼吸を整えて、同じものを繰り返した。釐阿は息を呑んだ。
ー歌、だ。
 訶伊が弾き終えた時、釐阿は思わず呟いていた。二つは確かに同じ旋律なのに、それでいて全く異なる別のものだった。
ーこれが言いたかったことだ。
ー歌が、確かに視えました。
ーどこが違うのだ、訶伊。
ー歌は声にしなくとも歌だ、それが存るか無しかの違い。
ーそれだけで。
ーもう一つ次に、別のを行くぞ、やはり二度な。
 訶伊は再び五弦琴に視線を落とした。今度は前よりも単純だった。簡単な繰り返しが組み合された、やはり日向臭い旋律。そして二度目を。だがそれは、容易なものではなかった。釐阿はすぐに気づいたが、能伐里(ノバリ)は僅かに戸惑った。
ー今のは、何だったのだ。
ー分からないか。
ーあれは、能伐里(ノバリ)と会った時の。
ーそうだ、癒しの力が存ると私は考えているのだが。
ーそれは。
ー私にもうまくは言えない、だがこの四つを全部一度に歌と呼ぶのはどうだ、少し抵抗を感じないか。
ー何をしたのだ訶伊、教えろ。
 訶伊は二人を見て微笑んだ。
ーでは歌の現われていた二回目だけを、それぞれにもう一度、けれど今度は少し違うことをするからな、良く聞け。
 二つの旋律を訶伊は繰り返した。終った時に釐阿と能伐里(ノバリ)は妙な気分に襲われた。
ーどうだ、変だろう。
 楽しそうに訶伊が言う。
ー何とも言えない気分のようだな。
ー悪い料理を、食べたみたいな。
ー食あたりを起こしそうか、釐阿。
ーはい。
ー良い耳だ。
ー何をした、訶伊。
ー入れ替えたのだよ中身を、旋律は同じだが歌が違う。
ーそれがこれ程の違いを産むのか。
ー不思議だが、そうなのだ。
ーどう遣ってしたのですか。
ーさあ、そこだ。
ーそれが知りたい。
ー実は私にも分からない。
ー今遣って見せたではないか。
ーそう、けれど何処をどうとはやはり言葉に出来ない、それは眠りの仕方を説明するようなものだから。
ーでは。
ー私に分かるのは二つの旋律は違う仕組みで存在している、と。
ーそれが五音の巡りに潜む神か。
ー初めのひとつは、そうだと思う。
ー後のもうひとつは、では。
ー分からない、だが、歌人は皆、五音の巡りに潜む神の嫉妬で滅びるのだと思う。
 二人は訶伊の言葉を聞いた。
ー昔、或る隠者が云った、人の真実は、神に近いそうだ、真実がこの世に現われる時、人は神の嫉妬を喚ぶのだと、私は考えた、歌人は人の心の真実を渡って神に迫る存在なのかも知れない、だからこそ私は畏れる、歌を招き寄せたくはないのだよ、私は。
ーけれど、もうひとつの方は。
ーそうだ、そのことを皆で考えようではないか。
 訶伊の笑顔は実に自由に釐阿には見えた。永い孤独からの開放のように。

第二章 釐阿(リア) 十七

 能伐里が時折り後ろを振り向いた。耳を澄ますのは鳥の声を聞くためか、それとも風を聞くのか。眸にはだが、怯えが忍び入り始めていた。何度も道を振り返り、終に能伐里は言った。
ー訶伊、誰かが追って来る。
ーああ、響きはどうも軍馬のようだ。
 能伐里の顔が蒼褪めた。
ー知っていたのか。
立ち止まると能伐里は先を歩く釐阿を呼び戻した。
ー街道を外れよう、我斯(ガシ)の荒れ野までは妾が案内をする、難しい道ではない。
 余程迦賦輪(カフワ)の兵を恐れるのか、能伐里は早口に言うと灌木の繁みへ強引に降りた。
ーさあ、早く。
 それから、荒れ野の日々が続いた。
 風に淡く雪が混じった或る日。不思議な角鹿の群れに出会った。
 枝角を持つ鹿の群れは三人と驢馬を見ても逃げることはなかった。黒く濡れた眸で一斉に釐阿たちを見た後は、再び穏やかな静けさに戻った。水のように静かな沈黙だった。鹿たちは北の大地に棲む、苔鹿だった。
 苔鹿の沈黙の群れをそっと進むとやがて、異風な集団が現われた。人声が、再び世界を生き返らせるようだった。賑やかに呼び交わし、ゆっくりと馬 を乗り回す人が居た。
 彼らは南へ動いていた。冬毛の家畜の群れを連れて、乗馬の背で揺られて歌うようにお互いを呼び。
ーほうい、道を開けてやれ、旅人だ
 振り返った人々を見て釐阿は、彼らの良く似た風貌に驚いた。年齢の層もほぼ同じ、若者たちだけの集団。
 それが釐阿と、北国の白い魔礼須(マレス)たちとの
出会いだった。
ー摩礼須。
訶伊がいきなり大声で言った。
ーあなたたちは魔礼須だな。
ーそう、だが。
 戸惑ったように言う若者は芦毛の馬を寄せて来る。雪白の毛皮が晴天に眩しかった。
ーやあ、あなたは楽人だな。
 訶伊の背の五弦琴を見て若者は微笑んだ。
 軽々と芦毛の背で揺れる。
ー私たちはこの先の水場で休むが、良ければ一緒にお茶は。
 訶伊は釐阿と能伐里を振り返り、頷いた。それを見て若者は馬首を返す。蹄の下で埃が砂色に舞った。
ーああ、馬は良いなあ。
 釐阿は思わず呟く。
ー首を上げて、あの誇り高い姿が素敵だなあ。
 憧れるように見送る釐阿の表情を、訶伊は複雑に横目で見た。後ろで能伐里だけが訶伊の仕草に気づいていた。
 今時それほどの若者がまとまって暮らすとは信じ難かった。彼らは永い間他の魔礼須との交流を閉ざしていた。それが迦賦輪も戦いも知らずに生き残った一番の理由だろう。
ーそいつの軍が人狩りをするのか。
 而伊理(ニイリ)が、群れを統率している若者の名。
 熱い茶を啜りながら而伊理は釐阿と訶伊の、二人の顔を等分に見る。
ーあなた方が私たちの縁続きだと云うのは理解した。だが、この人は。
 視線は能伐里に移る。
ーこの人は魔礼須ではないのだな。
ーそうだ、妾は渡り衆ではない。
ー渡り衆・・、この辺りでは魔礼須をそう呼ぶのか。
 而伊理はその言葉に何か抵抗を感じたらしい。暫くは白磁の腕に視線を落としたままで何も言わない。
ー南には酷い差別が存ると聞いていたが、やはり本当らしいな。
 呟いた言葉は苦かった。
ーだが、俺たちは俺たちだ、自由はどの空の下にも存る。
 笑顔は明るい。釐阿は何故かほっとした。
ー俺たちは急がない。苔鹿はともかく、家畜を弱らせる訳には行かないからなあ。あなた方さえ良ければ少し、南の事情を教えて欲しいのだが。
ー私の方にも訊ねたいことは存る。
ー決まった。
 振り向いて水場近くに輪座する者たちに而伊理は手を振る。
ーほうい、今日は此処を動かないぞ。
 明るいその叫びに答えて遠くからも喚声が風に乗って届いた。釐阿は、彼らの陽気さに強く魅かれるのを感じた。
 天幕は黒い山羊の毛織りだった。家畜の群れと苔鹿の若仔を幕屋の並ぶ内側へ追い込む手伝いをしながら、釐阿は北国の白い魔礼須の伝承を幾つか聞いた。風に靡く髪は淡い色で、ろれさえもが不思議に見えた。そして、彼らの銀に近い灰色の眸が、釐阿にいつか聞いた狼の人の話を思い出させた。遠くで苔鹿の群れが彫像の静かだった。
ー狼。
 銀色の髪を揺らして佐幣牟(サヘム)が笑う。
ー私たちは狼なんて大嫌いよ。
 佐幣牟の白い喉が釐阿には眩しく見えた。
 何故か、それからはまともには佐幣牟を見ることが眩しくて出来ない。
ー良い、狼はね、特に驢馬の塩気の肉を好むのよ。
 天幕の裾を結ぶ綱は必要以上に長い。綱を張りながら佐幣牟は言った。
ーどうしてか知らないけれど、狼は綱とか縄が嫌いなの、だからね、こうやって驢馬を一番中へ隠すのよ、大事な馬には特に、首に綺麗な飾り紐を巻いて上げるの、あんたもあんたの驢馬に巻いてあげたら良いわ、あの子が食べられたりしたら、悲しいでしょ。
 佐幣牟の笑う声を、冬の太陽のように美しいと釐阿は思った。
始めた聞く音楽だった。彼らは皆それぞれの楽器を使う。特に三弦の花梨木の琴。彼らが諦无(テム)と呼ぶ撥弦琴が最も好まれているようだった。
ー諦无とは、聖なる三を意味するの。
 耳元で佐幣牟に囁かれて釐阿は顔を赤くした。能伐里が傍で居眠りをするように膝を抱える。口元には、微笑みが存った。
ーじゃ、乾杯の歌だな。
 而伊理は角杯を差し上げると一気に飲み干した。喚声が渡る。夕陽の虹のように角杯は宙を飛んで誰かの手に落ちた。
ーそうれ。
 歌とは、何と心の躍るものかと釐阿は初めて想った。諦无を弾く而伊理の技は華麗だった。囃す言葉も如何にも楽しい。訶伊の教えてくれた歌人の不幸が、その歌には微塵も感じられない。日々を楽しく生きる為に歌が存るのだとそう信じられた。そんな歌だった。釐愛はふと、遥かに遠い真布那の明るい歌声を想った。真布那の笑顔を思い出し、胸が熱くなった。
 歌人の伝承は彼ら白い魔礼須にも存った。
ーけれどもそんなことは、俺たちにはどうでも良いことだ。
訶伊の眸が燦めく。
ーいや、そいつは正しいのかも知れないが俺たちには必要ない、そう言ったほうが良いかな。
ー私たちは私たちの暮す所が故郷と思っているわ、魔礼須は皆そうではないのかしら、訶伊。
ーそれとも、南では違いか。
ーいや、言う通りだ。
 短く訶伊は言う。
ー私はひとつ教わったよ、人には、神を必要としない歌も存ったことを忘れていた。
ーそう、楽しくなければな。
ーあなたたちには魔礼須の星は必要ないのかもしれない、だがやはり気をつけた方が良い、迦賦輪の方はそうは思わないだろう。
ー私たちを捕らえることは出来ないわ。
 奇妙に自信を持った佐幣牟の言葉だった。釐阿は佐幣牟の眸がその時、銀に光ったように感じた。而伊理が頷く。
ー苔鹿の枝角と静かな勇気に、道を譲らぬ者はない、俺たちは切り抜けるさ。
 熱い誇りが釐阿の胸を灼く。北の魔礼須の飲むお茶は濃く強かった。。
ーさあ、立って。
 釐阿は佐幣牟に腕を掴まれて立ち上がる。
ーあんたに踊りを教えてあげるわ、うんと身体の暖まるのをね。
 降り下ろす腕と一緒に賑やかな樂がはじまった。だが拍子は二つしかない。即興で幾らでも歌を折り込む。
ーさあ。
 佐幣牟は毛皮を捨てて旋回を始める。左回りの最初は緩やかな旋回。何処にでも存る旋舞か、と訶伊は和やかに見ていた。だが佐幣牟を手本に躍り出す釐阿を見て、訶伊は蒼褪めた。足の運びは千手ではないか。
ーいつ、釐阿は・・。
 四方歩を区切った独特の、釐阿の踏み足は佐幣牟の踊りと異なって滑らかだった。他の若者たちも釐阿の踏み足に気がつき始めた。ーおい、変わっているなあ。
ーいいぞ、南じゃどうやるのか見せてくれよ、釐阿。
 訶伊は血を想った。父のものか、それとも母のものか。釐阿の踏む四方歩はそのまま展開して、操法も五歩陣へと続きそうに天才を閃かせた。佐幣牟が喚声を上げて今度は釐阿を真似る。
ーあれは千手だな。
 能伐里が呟いた。
ー知っているのか。
ーああ、古い歌だそうだが。
ー初めは魔礼須の曲だった。
ー芸人なら今では誰でもする。
 訶伊は昔の景色を見るように、釐阿の閃かす踏み足を見ていた。能伐里は布袋から脱した双掌管を掌で暖める。釐阿が何かを誘うようだった。
ー参ったわ。
 先の佐幣牟が音を上げた。女たちの間に倒れ込む。
ー適わない、どうやって息が続くの。
 釐阿は煽るような歌声の中でまだ旋回し続けていた。その歌の切れ目に、能伐里の息が飛び込んだ。双掌管。釐阿は反応した。
ーお、踊りが変わったぞ。
ーやあ、いいぞ、釐阿。
 訶伊は四方歩が円を崩して五歩陣へ移るのを見た。能伐里は千手の旋律を鳴らす。双掌管の息は風に乗った。即興の踊りと他は見たが、訶伊だけは釐阿の踏み足が操法の型を描くのを知っていた。何処で釐阿は身につけたのか、そんな人も機会もなかった日常の筈。訶伊は真実を知りたいと思った。
ー釐阿。
 呼んで、訶伊は黄鼓を投げる。釐阿は綺麗に受け止めた。高々と皮が鳴った。空が弾けるようだった。五弦琴の転手が軋む。訶伊は千手に歌を併せた。
 それから後のことを釐阿は覚えていない。星々の銀の燦めきを見たような気もするが、佐幣牟の眸だったような気もする。熱いお茶には酒精が潜んでいたのに違いなかった。

第二章 釐阿(リア) 十八

 北の白い摩礼須と別れてから、釐阿はひとりの想いに沈むことが多かった。訶伊は寝に入る前のひと時に、何度か釐阿の溜息を聞いた。そんな時には仄かな闇に、能伐里が釐阿を見ていることが存った。訶伊は能伐里と視線を合わせて、そっと頷いた。釐阿は僅かの間に、幼生の殻を破るように変わろうとしていた。
 釐阿は夢で視たと言った。夢に現われる女の人が、幾つもの踏み足をするのだと。その言葉を思い返しながら或る時、訶伊はふと奇妙なことに気づいた。
ー変だ。
ーどうした、訶伊。
 能伐里が応じる。
ーあの摩礼須たちの群れに、犬の姿が見えなかった。
ー犬・・。
 能伐里は繰り返す。
ー犬だと。
ーそうだ、何故気づかなかったのだろう、牧人が犬を飼わない筈がない。
ーではあれは牧人ではなかったのか。
ーいや、だが、犬は狼避けにも、群れの管理にも欠かせない、人の出来ない仕事をするのだ。
 能伐里は訶伊の疑念を理解しなかった。訶伊は、あれは偽摩礼須だったのだろうかと考えた。
ー違う、幾らか変わってはいても、あれは真正の摩礼須だった、では・・。
 訶伊は答えを見出せなかった。

第二章 釐阿(リア) 十九

 白く所々、仄かに大地を隠すのは雪のようだった。風に吹かれては舞い立ち、小さな旋回を巻いて過ぎる。耳元に風音が冷たい。荒涼と冷えた景色だった。だがその風景よりも能伐里の心は寒かった。
 能伐里は再び、背後を気にし始めていた。一度は確かに追手の気配は消えた。苔鹿の群れにも紛れて、足跡を追うことは不可能とも思った。それでも背後の気配は数日後には既に感じられた。誰が追って来るのだろうか。能伐里の眸に再び恐怖の色が混じる。
ー何故追う、誰を追うのだ。
 能伐里は胸に双掌管を握り締めた。
 稲妻が震えて低く、斜めに奔った。玖玖が怯えて嘶く。
ー丘が有るのか。
 訶伊は稲妻の奔った地平見る。
ー幾つか、低い山並みだ。
 能伐里は頷く。
ーやがて老白山の山地に続く。我斯(ガシ)の荒れ野はそれを超えた向こう、棄てられた古道が僅かに通じる。
 その夜、山地を前にして、稲妻の青い光が空に満ちていた。明け方近くに恐怖の夢で目覚めた能伐里は、稲妻の閃いた一瞬に、白く葩のように何かが闇に浮かぶのを見た。
ーあれは。
 錯覚のように消えたそれを、能伐里は何処かで確かに見たと思った。
 灌木を濃く繁らせた低山には、黒く鳥たちが群れていた。時折り飛び立ち、舞い上っては木々の梢に重そうに降りる。鳴く声は人に警戒を覚えさせる。樹々の下の蔭には、淡く雪が残っていた。その雪にも、鳥は舞い降りる。人外の境にも思えたが、そこもまた人の世界だった。
 不意に男は出現した。
ー魔礼須方。
 能伐里は悲鳴を凍りつかせた。釐阿は玖玖と前に出る。訶伊は立ち止まって男を見た。冬枯れの山と同じ色の、焦げ跡を残す厚布を巻き上げて男は、丁寧に訶伊へ向く。
ーいえどうぞ隠さなくとも宜しいのです、
山見がずっと気づいておりましたから。
ーあなた方は、山衆か。
ーはい、鉄師でして。今は炭を焼いておりますが・・、それよりも儂らは、魔礼須方に教えて差し上げることが有りますので。
ー何か・・。
 訶伊は男が偽かどうかを迷っていた。
ー儂ら、偽じゃありません。
 男は見透かしたように言う。
ー儂らにもこの頃は奇妙な奴らが混じるので、魔礼須方の疑いも無理は有りません、ですがどうか信用なさって下さい。儂は鉄師の長の、一つ目と云う者です。
 どちらの目も欠けてはいないが、男はそう名乗った。
ー魔礼須方は追われていらっしゃる。
 断定して一つ目は言った。訶伊は頷く。能伐里は顫えて釐阿の袖を握り締めたいた。
ー多分、あの気違い王の兵隊だと、それで儂らは、魔礼須方を逃がして差し上げられるのではないかと思うので。
ー出来るだろうか。
 訶伊は頭上を見上げた。遥かな高みには鳥とは違う鳥の姿が舞っていた。
ーへい、実は、儂らが鉄を掘る山に狙ったのとは別に、古い坑道の跡が有るのです。
ーどこへ続いているのか。
 例え冥府は続いていても、使えるものは使いたいと訶伊は思った。
ーそれが、老白山の古陵の下を潜って居りまして。
ー盗掘穴と。
ー一部は。
 鉄師の長は言った。
ー若い者が奥まで調べたのですが、あの嫌な勿淤儒(モオズ)の土鬼の臭いも有りませんでした。他にも枝道が有るそうで、追手を眩わすには良いかと。
ー頼む。
 訶伊は短く言った。だが鉄師の長はその言葉に余程、心が動かされたようだった。
ー儂らに、礼を言われますのか・・。
今にも訶伊の手を取りそうだった。釐阿は長の一つ目の感動が何か分からなかった。
ー儂は、儂らは魔礼須衆のことを、一族一統の親とも思っております。世間から見たら儂らはそれは、渡り衆と同じ名で呼ばれてはおりますが・・。いいえ、本当に儂らの祖先は皆魔礼須衆を、魔礼須衆の知恵で生かされているとそう信じておりますので。どうぞ儂らの助力を受けて下さい。
 長の熱意は釐阿に、深く何故か沁みた。
 坑道は初め、琥珀採りのものだったらしく濡れた土の黒さが目立った。崩れていた入り口を山衆の若者が掘り出して今は支持架で支えている。その支持架を訶伊は、もう一度崩すように要望した。
ー入り口を、ですか。
ーそう、私たちが入ったらすぐに。
ー分かりました。
 訶伊は案内の若者を断り、道の説明だけを聞いた。行こうとした時、能伐里が言う。
ー暗闇とは嫌な道だ。
 訶伊を先にして三人は坑道を潜る。玖玖は能伐里よりも嫌がった。山衆の使う松明は魔礼須のものより劣ったが、暗闇には唯一つの頼りだった。随分と奥へ進んだとき、背後から地響きと倶に湿った風が送り込まれた。ーどうやら塞いでくれたようだな。
 それで、前へ進む他は道がなくなった。
 支持架を崩して窯場に戻ろうとした時、一つ目は新参の男の奇妙な振る舞いに気づいた。鳥に餌を遣るのでもなく、ただ黒い群れの存る木々の下で空を見上げている。一つ目は空の彼方を追うと、そこに黒い鳥が舞うのを見た。新参は鋭く口笛を鳴らした。
 舞い降りて来た鳥は、この世のものではなかった。それは迦賦輪の魔戦士だけが使う、使い魔の妖鳥。蛇の胴を持つ鳥が翼を羽ばたかせた。
 鉄師の、一つ目を長とする山衆。組下一統はこの日に滅びた。

 老白山の古稜の下には、濃く闇が漂うようだった。黴の臭いと。だが能伐里は何故か恐怖が流れれ出て、心が静かに落ち着くのを感じた。
 匂いだった。
ー足祗(アギ)の神の匂いがする。
ー私には黴の匂いのような気がするけれどな。
ー妾には分かる、火が何処かに埋まっているのだ。
 ひっそりと歩く音が、微かに木霊した。松明に照らされる壁は、滑らかな太古の石組を埃の下に隠していた。
ー足祗(アギ)の神の巫女だった妾が、間違う筈もない、確かに火が埋まっている。
 太古の神火が古稜の下に埋まっていると、能伐里は繰り返した。
ー火霊の匂いだろうか・・。
 訶伊も釐阿もその時、本当に何かの匂いを感じた。
ー能伐里・・。
 突然玖玖が鼻を鳴らして暴れた。
ーあ。
 大きく動いた松明の炎に、暗闇は足元の崩壊を生き物めいて照らした。
ー危ない、道が有りませんよ、訶伊。
 道はその先で腐った石組を崩し、地の底の闇に呑み込まれていた。僅かに闇が揺らぐようだった。
ーそんなことは、聞かなかったが。
 困惑する訶伊に能伐里は言った。
ーあそこを見ろ。
 闇の遥かな下を能伐里は指差した。崩れた縁に膝を付いて訶伊と釐阿は覗き込んだ。
ー訶伊、あれは火でしょうか。
 小さな石が転がって遥かに落ちて行く。木霊は返らなかった。闇の底には、無言で火が燃えていた。
ーだが、随分と深い処だな、あれが足祗(アギ)の神火か能伐里。
 振り向いた訶伊に能伐里は告げ渡すように言った。
ーそうだ。
ーううむ、だが、この先をどうしたものかなあ。
 釐阿は遥かな眼下で点る赤い火映が、太古の海のように揺れるのを見た。何か魚でも跳ねたように、瞬間火は飛沫を散らす。
ー何だろう・・。
 釐阿はそれが何か見極めたかった。
ー危ない。
 能伐里が落ちかけた釐阿を支えた。
ー魅き込まれてはならない。
 釐阿は能伐里の言葉に初めて自分が危機に存ったのを知った。
ーこいつはしかし、弱ったものだなあ。
 訶伊は最初の岐道まで戻るしかないかと諦めかけた。
ー風・・。
 釐阿が言う。能伐里に掴まれて座ったままで、顔を風の方に向ける。風が靄を放つように光暈を帯びて釐阿に視えた。
ー何だろう、この風は・・。
 能伐里は耳を澄ませた。釐阿には視えるものが、能伐里には聞こえるらしい。
ー釐阿、これは・・、足祗(アギ)の神謡だ。
 能伐里は肌に抱く双掌管に触れた。
ーとするとここは、我斯(ガシ)の古神殿の下辺りだ。
 訶伊は二人の様子を見た。綱を解かれた玖玖が気弱そうに、揺れて転がる松明に眸を瞬かせる。釐阿は風を追った。
ーこっち・・。
 能伐里が釐阿に手を延ばす。訶伊は松明を拾い、口綱を拾った。
 道を僅かに戻った処に、それは存った。
ー扉だろうか。
 訶伊は松明を掲げて壁を照らす。それは一見扉の形のようにも見えた。古く、組合わさる石の継ぎ目には埃が積もっていた。だが扉ならば、どのようにして開くのか。
ー能伐里、何故ここが神殿の下辺りだと思うのだ。
 訶伊は記憶を探った。
ー足祗(アギ)の神謡を荒れ野で紡ぐ者など、宇流(ウル)の他に在るものか、ここは絶対に我斯(ガシ)の古神殿の下だ。
ーそうか。
 記憶に何かが響いた。存る。訶伊は背の五弦琴を降ろした。
ー何をする。
ー昔から伝わる、古稜の、戸取りを試してみるのさ。
 転手を捻って軽く、訶伊は基音を弾いた。続く四つの音は扉に見える壁に吸い込まれるようだった。
 訶伊は声を立てて笑った。
ー生きているのだなあ。太古の仕組みがまだ。
ー壁が音を吸ったぞ、訶伊。
 釐阿は石組の隙間から吹く風の色が変わるのを視ていた。
ー遥かに遠い場所だが、もう一つ、古稜の下にも存ったのを思い出した。
 訶伊が言った時。松明を吹き消して猛烈な風が吹いた。
ー開いたぞ。
 釐阿は風が無数の色を宿しているのをその時初めて知った。

第二章 釐阿(リア) 二十

 石の遺跡だった。太古に生きた者たちの微かな木霊が、夜の下で青く静かだった。
 廃墟の神殿。四辺に連なる石柱は総てが崩れ倒れていた。風は夜と倶に吹いていた。遺跡の中央は矩形に沈んで、供犠の黒い祭壇に続く。そこに、火が燃えていた。
 夜の炎は闇に燃える。それは足祗の神火ではない。人の使う火の粉が風に散る。
ー能伐里が、戻って参りました。
 祭壇の下に刻まれた石の窪みは生贄の血を受けるものだったのだろうか。能伐里の呼ぶ人影はそこに腰を降ろしていた。生き血のように赤く揺れる炎に向かい、能伐里はもう一度語りかける。
ー宇流よ、あなたに渡り衆の客を連れて参りました
ー能伐里・・。
 風か。釐阿はその人の声が、奇跡そのものに聞こえた。能伐里は風を紡ぐと云った。釐阿には初め、そのことが理解出来なかった。だが疑問は解けた。その声に釐阿は確かに、動く風を視たと思った。訶利(カリ)神の裾が引き摺る夜のように、黒い闇の風を。
ー宇流だな。
 訶伊は呼んだ。
ー私は訶伊、摩礼須だ。
 後ろ姿だけのその人は生贄の血溜めに燃える炎を見て動かない。釐阿の眸に黒い風は縺れて周囲に躍っていた。風の流れを確かに、釐阿は視た。
ーそなたの纏う風は、奇妙な高さよな、訶伊とやらよ・・。
 縺れる風は黒から、その人が言葉を紡ぐ度に一瞬で色を変えた。火のように、虹のように風はその人から吹いて来る。
ーあなたに問う、宇流よ。
 これは歌だろうかと釐阿は思った。歌ならばどのような歌か。いつの間に来たのか火明りと闇との境には、野に住む小獣の姿が幾つか存った。獣たちはその人の言葉を、言葉に含まれる風を聞いていた。釐阿にはそう視えた。
ー人の世とは別に、我は此処に在る。
 再び風の色が変わる。銀。それは果たして声か。釐阿は白く息を吐いた。夜を呼吸するように息は冷たかった。耳に風の糸が細く、銀の光を描いて吸い込まれて行くような、そんな気がした。
ーそれでも、我に問うか、・・。
ー古神の、翡翠の双掌管に潜む謎を、あなたに訊きたい。
ー謎・・。
ーあなたが能伐里に与えた双掌管に、封じられて存った音。
ー初めの音か。
ー古神の双掌管、誰も敢えて鳴らさず、鳴ることもなかった。
ー確かに・・。
ー双掌管に満ちていた音は、何だったのかを訊きたい。
ー毒の風。
 宇流は呟く。
ー満ちていたは、毒の風であった。
ー毒・・、古神の毒か。
ー古神が毒。
ーそれをあなたは解いたのか。
ーそうだ・・、あの双掌管に籠められた毒の風はもう、ない。
 釐阿はふと、紡がれた風の糸を掴んでみたいと思った。そう思うとそれは、不意に熱い願いのように急速に釐阿の中で育った。殆ど無意識だったのだろう、そこに居た誰もが釐阿の行為に気づかなった。
ーでは双掌管を満たした毒とは何かを、教えて欲しい。
ー知って、死者の道を往くのか。
ー死者の道・・、今そう言ったのか。
ー我は、双掌管を吹き抜ける風を聞いてみたかった、それが死の風でも・・。
ー死の風・・。
 訶伊は炎の前に在る人が、既に亡霊のように不意に感じた。
ー死の風は、どのようにしても死のみを歌う、我はその風の行方を知らぬ。
ー双掌管に、死へ渡る風が封じて存ったとあなたは言うのか。
 それは摩礼須のものだ、と訶伊は思った。死へ渡る風と交差して、摩礼須の道が続く筈だった。
 その時、廃墟の静寂を鋭く割って破壊音が響いた。
ー何・・。
 それは水の木霊のように廃墟の神殿に行き渡った。供犠の祭壇。
ー宇流。
 能伐里が思わず呼んだ。熱石を寒気が砕くように、一瞬で供犠の祭壇に割れ目が走る。二つに裂けたその隙間には夜の闇が深々と口を開けていた。
ー釐阿、か。
 訶伊は悟った。それは釐阿しかない。祭壇の人影は釐阿に向かい、立った。
ーおまえは、何者だ。
 初めてその人は振り向いた。宇流。智を意味するその名の人の、両の眼窩は空虚な闇だけを湛えていた。自らの指で抉ったのだと能伐里は云った。だが、それでも、真実を確かに視据えていたのは宇流と、釐阿の二人だけだった。
ー何者か。
 その時釐阿は、両手に銀に光る風を幾筋も掴んでいた。その束ねられた風の糸が、巨大な石を二つに切り割っていた。釐阿の眸に正気はない。
ー釐阿。
 訶伊の呼ぶ声にも反応はなかった。脈打つ風に操られるように釐阿は、それから奇妙な舞を舞った。風に旋回して、銀砂を散らせた冬の夜空へ、星々の天空へと舞い昇る螺旋の上昇。釐阿は風を掴んでいた。
 釐阿の両袖が風をはらむ。風が鳴動する。夢のように夜は、奇跡を見せた。
 鋭い息吹が宇流から迸った。風を裂いてそれは、荒れ野に奔った。廃墟に集る獣たちは一瞬に姿を消す。宇流の放った風は宙に在る釐阿を捉え、引き落として大地の石に叩きつけた。風は荒々しく、呪縛を与えて釐阿の身体を石の床に激しく押しつけた。
ー釐阿。
 訶伊が叫ぶ。釐阿の招いた風が釐阿自身に復讐するようだった。それは、暴風の牙を裡に秘めて釐阿を圧し潰そうとする。胸の中から息が、総て失われて行くようだった。
ー助けて、訶伊・・。
 初めて悲鳴が零れた。それだけが釐阿の発した言葉だった。
 摩礼須の傀儡廻しに後年、石割りと名づけられた釐阿の伝説だった。小さな子どもたちが最も喜ぶ演物にそれはやがて成る。だが今は違った。
ーこれは、何者なのだ・・。
 火に映る釐阿の少年の顔は、宇流の眼窩にには見えていない。
ー我の紡ぐ風を、使うとは・・。
ー風を、使った。
ー未熟の余り己を傷めたが、そうだ。
 訶伊は困惑していた。訶伊の知る釐阿が、不意に違う運命を帯びて見える。釐阿は、急速に何かに生まれ変ろうとしていた。
ーこの者は・・、風を負っているではないか・・。
 宇流が釐阿の上に伏す。
ーそう、我にはその風を引き出せぬが、確かに風を負っている。
ーやはり、そうですか。
 能伐里は言う。
ー妾にも時々聞こえるのです、それが。
ー両峨山・・。
 訶伊が呟いた。二人の言葉を聞いて、訶伊は釐阿が何をしたかに思い当った。いつか祭りの日に両峨山で見た、摩礼須の旋舞に釐阿の動きは実に似ていた。風使いと名を云う舞の、その意味がこんな処に潜んで存るとは。その日まで、摩礼須の誰もが気づかない、知らないことだった。
 古くは摩礼須が知っていた日も存ったのかも知れない。そうでなければ舞いの旋舞に残る筈がなかった。だがこの日まで意味は失われていた。失われていたその意味を、釐阿は自身も気づかず見出していた。
 訶伊は両峨山へ、あの風の歌神が棲むとされる摩礼須の聖地へ往かなければならないと確信した。釐阿が本当は何者なのかを見極める為に。釐阿は確かに風を使った。それも、異常な形で。
ー我の、風を・・。
 宇流の呟きは途中で消えた。
ー其処にまだ、誰かが在る・・。
 荒れ野の闇を宇流は指した。
ー誰か。
 訶伊と能伐里は釐阿を挟んで、宇流の指す闇に向いた。宇流は正しかった。
ーあれは・・。
ー・・瀰喩(みゆ)。
 名を呼んだのは、訶伊だった。それは荒れ野の闇に白く、貌だけを浮かべていた。
ーほう・・、我が名を知るか。
 血の葩が開くようだった。
ーやはりお前たちが秘密を隠し持っていたか、歌司、捉えたぞ。
 瀰喩(みゆ)の名の貌は、闇に嘲笑する。
ーそこ動くな、渡り乞食ども、我が王の兵が行くまではな。
ー訶伊。
ー妾はあれを、小自在の屋敷でも見た。そうだ、あれだ。訶伊、あれが妾たちを追うのだ、荒れ野に在ってさえも。
 能伐里の言葉を嘲笑いながら、白い貌は闇に消えた。不意に訶伊は真実が見えた気がした。覇王迦賦輪が、何を得ようとしているのかを。

第二章 釐阿(リア) 二十一

 星々を消して夜空に素早く闇が流れた。風が激しかった。闇を成す雲は、遠雷を運ぶように稲妻を奔らた。或いは耳に聞こえる遥かな轟きは、軍馬の蹄の響きだったか。風に雪が舞い始めていた。
 釐阿を背に乗せる為に玖玖の荷は殆ど棄てられた。
ー宇流、あなたも危ない。
 能伐里は倶に逃げるように訴えた。だが宇流は黙って能伐里を押し遣る。
ー我に用のある兵などない。
 宇流は半神のように闇に立つ。
ー我は初めて、世に命を永らえて楽しみを見た想いがする。
 宇流は遥かに彼方を指した。その指がそのまま風を放って驢馬に鞭を与える。
ーさらば。
ー宇流・・。
 倶に足祗の神に仕えた日々が、能伐里の前を過ぎた。追手は迦賦輪の兵。迦賦輪が歌人とそれを探索する者を追うのだ、と。
 雪が、次第に濃く舞う。灰色の風に吹かれるように、能伐里は袖で顔を覆った。
 雪は初め、逃れる者に味方した。足跡を消して大地は白く覆われる。だがやがて、来た時と同じように雪は突然に去った。そして、逃れる古道は阿玖楽(アクラ)の山中へだけ通じる。
ー両峨山。
 訶伊は苦く想った。どうすればそこへ辿り着けると云うのか、迦賦輪の兵に追い立てられる道は完全に方向が違った。戻ることは既に出来ない。
ーどうすれば・・。
 雪道に足跡を残さずに歩くなど、鳥でもなければ不可能なことだった。川筋を想ったが何処も遥かに遠い。山中へ入り、雪が深くなれば馬に乗る追手の有利は更に増す。
 その時だった。
ーあれは・・。
 能伐里が指す。訶伊の目に止まらなかった筈はないものを、突然に霧が晴れたように粗末な小屋が存った。阿玖楽(アクラ)へ通じる古道の、切り立つ崖を背にその扉が開く。
ーそんな・・。
 出現は余りに異様だった。野に棲む妖異が現われたように、扉の横には老婆がひとり立つ。
ー待っていたよ、客人。
ー待っていただと・・。
 訶伊は老婆の姿に何処か馴染みを見た。摩礼須に似た匂いを。だが、摩礼須ではない。 老婆は招いて小屋の内を示す。暖かく火の揺れる小屋は驢馬を入れる余裕も奥には続いていた。
ー追手が気になるかよ、摩礼須の歌司、なあに大丈夫だ、誰にも此処は気づきはせぬ、儂が望まなければな。
 訶伊は信じた。自分たちを知るらしいこの老婆。追手の掛かっていることを知るこの老婆に訶伊は、或る予感を抱いた。
 小屋は奥がそのまま岩穴の窪みに続いていた。玖玖を繋いで能伐里は火の傍へ戻る。訶伊は老婆に対していた。
ーあなたは、摩礼須か・・。
ー昔はな。
 やはりそうかと訶伊は思った。
ーだが、今は棄てられてあるだけよ。
 訶伊の予感は正しかった。
ー儂は此処へ、お前さんたちが追われて来るのを待っておった。
ーほう、何故それが・・。
ー儂は、占いで知ったのよ。
 訶伊は頷いた。老婆の言った、今は摩礼須に棄てられてあると言う言葉が理解出来た。己を占うことはいつの時代でも、摩礼須には強い禁忌だった。追放される筈だった。
ーもしかするとあなたの名は、岐丹怡(キタイ)では有りませんか。
ーそうだ。
ーやはり、聞いたことは有ります。
ーどうせろくな噂では有るまいよ、儂は掟破りだからな。
 岐丹怡(キタイ)と名を呼ばれたことが、遠い昔のようだった。老婆は眸を瞬かせる。
ーだがお前さんたちはもう安心して良い、この小屋を見つける者は居ない、儂の施した相も結界も完璧な筈だよ。
ー相とは・・。
 訶伊の問いを岐丹怡(キタイ)は笑った。
ー法士の使うものだ、摩礼須は嫌うだろうが儂が生き延びるには役に立った、今度はそれがお前さんたちを救うのさ。
 能伐里は釐阿の頭を膝に抱いて、二人を見ていた。その老婆の言うことがたとえ嘘でもこれ以上は、釐阿の身体が強行に堪えなかっただろう。額は火のようだった。
ー訶伊、釐阿を・・。
 流れ巫女だった能伐里が看病を知る筈もなかった。釐阿の容態に、能伐里は不安を隠せない。
ーああ、その子だとも。
 岐丹怡(キタイ)が言った時、小屋の扉がいきなり開いた。訶伊は吹き込む雪風に飛び退き身構えた。操法の型。
ー岐丹怡(キタイ)、採って来たわ。
 弾む声は少女のものだった。抱えて持つ小籠に積まれた青い草が、奇跡のように爽やかに香りを放つ。
ー早く扉をお閉め、もうすぐ追手が来るだろうから。
ー見えたわ、途中で、大勢よ、でも私の付けておいた足跡で、きっと飛んでもない山奥にまで迷い込むわよ。
 少女は毛皮に付いた雪を払って後ろ手に扉を閉める。
ー探すのは大変だったけど、唸り沢の雪の下から見つけたわよ、誉めてね、岐丹怡(キタイ)。
ーああ、良くやったね。さすがに、野風の血を引く礼布(レフ)だ。
 少女は照れて笑った。
ーこの人ね、私の夫に成る人は。
ーえ・・。
 能伐里も訶伊も、一瞬意味が分からずに少女の顔を見た。少女は釐阿の顔を覗き込んでいた。
ーお前が看病するのだよ。
 礼布(レフ)は当然のように頷いて小籠を岐丹怡(キタイ)に渡した。
ー熱が有るのね。
ー身体の中を嵐が吹き荒れている、熱はそれだろう。
 その時訶伊の耳に人声が微かに届いた。追手は予想以上に近かった。
ー来た。
 能伐里が言う。
ー本当に大丈夫だろうか、訶伊。
 殆ど釐阿の頬に触れそうな礼布(レフ)の顔が能伐里には不思議に見えた。
ー大丈夫だとも。
 岐丹怡(キタイ)は桶の冷水に小籠の薬草を浸す。
ー安心して暖まっているが良い、そのうちに行ってしまうさ。
 馬の嘶きと呼び交わす声が不気味に通り過ぎて行く。確かに、追手の声は小屋に近くを通ったが、後は遥かに遠ざかるだけだった。岐丹怡(キタイ)の自信は間違いなかった。
 その夜、訶伊と能伐里は岐丹怡(キタイ)の占いの真実を聞いた。
ー儂は摩礼須の占いの禁忌を、だんだんと詰まらなく思うようになった。占いが当たるのは愉快だった。他人にない能力が自分には有ると思った。
 岐丹怡(キタイ)の親と一族は里者を占ってそれを商売にしていた。それは摩礼須の生き方のひとつだった。里者相手に占う札には摩礼須のこつが存った。だが岐丹怡(キタイ)はそれを使わずに自分の信じられる結果をいつも出した。
 親たちはそんな岐丹怡(キタイ)に言った。愚か者を相手に真実の総てを告げてはいけない、時折りひとつかふたつを言えば良い、それだけで充分に良い占い師だ、占いは渡りの暮らしの糧なのだから、と。
 だが岐丹怡(キタイ)は既に、本物の占いの味を知ってしまった。占いの示す、真実と云う名の魔物に魅惑されていた。親に隠れて岐丹怡(キタイ)は占いを研ぎ澄ました。終には神の意志を示すのか、と岐丹怡(キタイ)は殆ど思った。
 やがて或る日、岐丹怡(キタイ)は完全に未来を探り当てることを可能にした。最初それは岐丹怡(キタイ)を誇りで一杯にさせた。これで摩礼須一の占い師だと。だがすぐにそれがどれほど怖ろしいことかを思い知らされた。占えばそれはいつでも予言のように的中した。望めば総ての未来を知ることが出来る。
 岐丹怡(キタイ)は占いを棄てようと思った。
ーだが、棄てられなんだよ。
 魔物は岐丹怡(キタイ)を離さない。岐丹怡(キタイ)は最期と自分に言い聞かせて摩礼須の禁忌を破った。それは己の未来と摩礼須自身だった。
ー摩礼須が何故禁忌としたのかは、それで分かったよ。
 占いは混乱していた。札が何を示したのかそれさえもが分からない。己の未来は、実に迷路だった。迷路の罠は岐丹怡(キタイ)を囚えた。そしてそれからだった。占いの札は岐丹怡(キタイ)を棄てて何も語ろうとしない。
ーしない筈よ、占い札の解釈にさえ迷って困惑するのではな、占いは解釈が命よ、それが出来なければ何の意味も有りはせぬ。
 自分を見棄てた占いの神が恨めしかった。絶望に岐丹怡(キタイ)は両親に告白した。
ー何とすることも出来ぬわな、親とて。
 摩礼須の法を変えることは出来なかった。岐丹怡(キタイ)は追放された。そしてただ一人の放浪の日々が始まる。占いの神は岐丹怡(キタイ)を棄てたが、岐丹怡(キタイ)は占いを棄てることが出来なかった。眠る時も占い札を愛人の膚のように離せなかった。
 時折り夢のように突然、札が語り出すことが存った。だがそれは岐丹怡(キタイ)の意志とは全く関わらなかった。それは予言のように突然に来て、岐丹怡(キタイ)の求めた時には決して助けを延べなかった。やがて岐丹怡(キタイ)は知った。自分がとうとう占い師ではなく、予言の巫女に成ってしまったのを。
ー予言の巫女はどう生きれば良いのだ、儂は苦しかった。
 それを救ったのが、法士だった。
ー摩礼須に棄てられて、儂は法士に拾われたのよ。
 法士が齎す何かが岐丹怡(キタイ)を救った。
ーそしてな、儂に大きな予言が来た。
 或る日突然札が語る。行って、その子を待てと。岐丹怡(キタイ)はそれが摩礼須の総てに関わる大きな予言と知った。
ーそれから何年待ったものかは覚えておらぬ、儂は待った、そして予言は果たされた、此処にな。
 岐丹怡(キタイ)の眸には涙が存った。膝で小犬のよ礼布(レフ)が眠る。

第三章 真怡阿(マイア) 十二

真怡阿(マイア)が、初めて聞く波の音だった。
 海辺に迫った集落は名を仁眦(ニビ)と云った。寂れた漁師たちの村だったが何処かに、古く懐かしいものを想わせた。この辺りでは珍しいのか真怡阿(マイア)の曳く驢馬を、奇異の眸で見て子どもたちが遠く囲む。言葉には訛りが有ったが聞き取りにくい程ではない。寧ろ摩礼須の言葉に近い音韻さえを感じた。
 子どもたちから聞いた良受奈(ラズナ)の館と云う、仁眦の領主らしき者の住む家への路を登って行く。石畳の路は曲がり、登っていた。海から山へ向けて。冥府山の下で賦流阿(フルア)と別れてから、何年が経ったのだろうか。十年か、それとも・・。坂道に喘ぎながら、過ぎた年月を真怡阿(マイア)はぼんやりと数えた。けれどそれももう、最後へ辿りついた。この仁眦にこそ、青い人の迷斯那(メシナ)の消息が存るのだから。
 真怡阿(マイア)の登って行った後を、もう一人の姿が見送っていた。振り向いて海の匂いを吸うその姿は、両手を革の手袋で隠していた。
 良受奈(ラズナ)と名乗った男は四脚の椅子の上から真怡阿(マイア)を眺めていた。不思議な生き物を見るように。
ー渡り衆は仁眦を避けているものとばかり思っていたが・・。あなたも知るように仁眦は古くから、渡り衆の厭う、法士たちと親しく存る。
 白い眉に埋もれた良受奈(ラズナ)の眼光は、決して漁師の束ねをする海衆のものには見えなかった、何かまだ別の、重い責を負う人の瞳に真怡阿(マイア)は感じた。
ー仁眦はそう云う土地柄です、だが、良くぞいらした、仁眦は歓迎致しますぞ。
 礼を返そうとする真怡阿(マイア)を老人は抑えた。ーあなたのお訊ねの迷斯那(メシナ)ですが・・。
ーここに来てはいないのですか。
 真怡阿(マイア)は眉を曇らせた。隠すつもりでいるのかと。
ーいいえ、確かに迷斯那(メシナ)は許夜(コヤ)の小浜に居りました、ですがそれも昔のことです、私のこの良受奈(ラズナ)と云う名を何十代と遡る程に、遠い昔の・・。
ーでは今は何処に。
ーそれは・・。
 老人は躊躇していた。その時。
ー良受奈(ラズナ)殿。
 真怡阿(マイア)と老人が向き合う板敷きの広間に声が渡る。
ーお、これは。
 老人は男を紹介して良いものかどうか一瞬考えたようだったが、やがて穏やかに真怡阿(マイア)に向き直った。
ー法士、怡輪(イワ)です、真怡阿(マイア)殿。
 直載に告げた。
ー同室を拒まれますかな。
ーいいえ、お気遣いなく。
ーそれは結構。
 真怡阿(マイア)に会釈して老人は法士に向く。
ーで、怡輪(イワ)には何か。
ー迷斯那(メシナ)の居所についてのお話とか。
ーそうなのです。
ー私はそのために参りました。
ーああ、そうですか。
 頷く老人は重荷を降ろしたように緊張を解いた。
ーそう願えれば。
ーはい。
 それ以上老人は何も言わず、怡輪(イワ)と云う法士に先を任せた。怡輪(イワ)は。
ー初めに伺いたい。
ーどうぞ。
 真怡阿(マイア)の表情は硬かった。
ー迷斯那(メシナ)の居所を知って、どうされる。
ー会いたいのです。
ー何のために。
ー芸道は摩礼須の習い、至上の琴を鳴らされた方にその不思議を教えて頂きたい。
ーふむ・・、それだけか。
ーそれだけです。
 男は真怡阿(マイア)を見た。
ーでは、ひとつだけ条件がつけたい。
ーその前に。
 真怡阿(マイア)の眸が光る。
ーあなたは、迷斯那(メシナ)の消息を御存知なのか伺いたいが。
ーそう、知っておりますとも。
 男ははっきりと言い切った。
ーそうですか、では何なりと。
 真怡阿(マイア)は静かに言う。胸が熱かった。
ー迷斯那(メシナ)に会った場所、それを忘れて頂きたい。
 男の条件とは以外に易しい。法士のものとも思えない程に。
ーそれだけですか。
ーそうです、そこまでの道のりは、失礼だが目隠しをさせて頂く。
ー結構。それで、青い人に会えるのならば実に容易い。
ーあなたを、信じましょう。
 真怡阿(マイア)は法士の能力を過小に見ていたのかも知れない。いつの日か法士の本当の力を、やがて知る時が来る。

第三章 真怡阿(マイア) 十三

 驢馬の背で真怡阿は風の匂いを胸に吸う。潮の香が微かに残ってはいたが、それよりは山の、木立の青さが強く存った。
ーその通り。
 真怡阿の思考に耳を当てたように、怡輪が言う。
ーここは山の頂きに、もう近いのです。
ーそれを私に言っても良いので・・。
ーあなたは約束されたでしょう、信じますよ私は。
ー有り難う。
ーその場所は特別なのです。
ー法士がたにですか。
ーもちろん、ですが、この世に棲む者総てにとっても。
 微笑を含むような怡輪の声だった。
ー迷斯那は気の毒に、殆ど正気を病んでいます。
ー狂っているのですか。
ー狂う程に重いのでしょうな、不死と云うものは。ですが今行くそこでならば、幾らかは迷斯那も心が休まるのです。私たちにしても不死の番人は有り難い。
ー番人と言いましたね。
ーそうです。
ー何を守るのですか。
ーさあ・・、人の言葉には表わし難いものです、けれど、あなたなら理解出来るかもしれませんね。
 妙なことを言う、と真怡阿は思った。この法士何を考えているのか。
ーもうすぐです。
 言う言葉の通りに驢馬の足音が変わった。ー古い石畳です、さあ、目隠しをお取りなさい。
 真怡阿は黒木綿の布を解いた。
ー此処に・・。
 廃墟にそこは似ていた。石畳の路は谷の奥へと続く。突き当たりは白い岩の壁だった。ー麻加毛(マカモ)の谷です。
 宣言するように、法士の言葉は誇りに満ちていた。
 切り立つ岩の断崖は視線を上へ追えば、そこが山の稜線だった。山容は二段に見えた。断崖から下の谷の広場が真怡阿が目指す目的の場所だった。驢馬から降りる真怡阿は、異様な想いに撃たれていた。
ーここは、何と・・、不思議な・・。
 眩暈がした。石畳の路の両側には石像が崩れて続き、谷の奥へと向かう。
ー何故か、この場所を知っている気がします・・。
ーあなたが想われたのは、ここに似た遠い記憶の場所でしょうよ、きっとそうです、ここは其処と良く似た同じ地形をしているのですから。
ーけれど私は、そんな場所を知らない。
ーあなたが知らなくても、摩礼須が知っているのですよ。
 何と妙なことを言うのか。
ーさあ、行きましょう。
 先に立って怡輪は歩き出す。真怡阿は驢馬を曳いて続こうとした。だが、その驢馬が動かない。
ーあ、待って。
ーその子はそこへ、置いておきなさい、大丈夫、門から外へは決して出ません。
 さっさと言って怡輪は先へ行く。その後ろ姿は法士と云う生き物の、奇妙に年令を感じせない歩き方そのものだった。
 真怡阿は従った。怡輪を追って歩きながらどうにも止まない眩暈に堪えていた。良く見れば崩れた石像は、谷の至る所に散らばって存る。それらが何故か、真怡阿には生きてでもいるように不安に見えたのだった。
ー迷斯那は、あそこです。
 怡輪の指す場所は、谷の最も奥だった。そこに巨大な扉が存った。
 白く見える崖は大理石だったのか、扉の床は磨かれたように滑らかに艶を帯びていた。焦げ茶に風化した木の扉は、何で出来ているのか真怡阿にもその判別がつかない。
 怡輪が鋭く口笛を吹いた。意外な程、それは柔らかく谷全体に響く。静かな谷だった。鳥さえも囀らないように。
ー怡輪、か・・。
 ぞっとした。これが人の声だろうか。真怡阿は扉の奥から聞こえたのが、絶望の風のように思えた。
ー客を、あんたに連れてきた。
ー客だと・・。
 不意に真怡阿は怖ろしい気がした。だが足は縞瑪瑙の階段を踏んでその上の、大理石の床に立っていた。酷く磨り減った石段とそして床だった。
ーあんたを救える人かも知れないよ、迷斯那。
 実に奇妙な、法士の物言いだった。
ー言うな・・、怡輪よ。
 冥界の闇のように重々しく、溜息は漏れて聞こえた。
ー入れ・・。
ーさあ、真怡阿、迷斯那は日の光が酷く辛いそうなのだから
 僅かに開いた扉の内側へ滑り込む時、真怡阿は自分の足が顫えているのを知った。目が仄闇に追いつかない。
ー女だな。
 不死とは、聞けば非常な年寄りを想像していたが、そうではなかった。洞窟の奥に点された幾つもの灯明を背に、迷斯那の姿はすっきりと立っていた。
ー渡り衆があんたに会いに来た、珍しいだろう。
ーおう・・。
 苦しみを吐くように、渡り衆と云う言葉に迷斯那は反応した。
ー俺を、苦しめに来たか・・。
ーそうではない、訊きたいことが存るのだと言っている。
ーでは早く、そうしろ・・。
ー迷斯那・・。あなたが、青い人なのですね。
ーそうだ、見る通りにな。
 真怡阿は初めて見た。仄闇に慣れ始めた瞳にその人の膚は、確かに青かった。
ーあなたが、迷斯那・・。
 真怡阿は心に積もった疲労の重さに、立ち続けていることさえ出来なかった。

第三章 真怡阿(マイア) 十四

 青い人とは、正しい名だった。迷斯那の全身は緑青の石の青に染まっていた。その青は迷斯那の両手の指の爪に始まっていた。親指からの三本の爪が坤霊の裔から得たものだった。醜く曲がったその爪は処々に金の色を浮かせ、全く石そのものだった。
ー石だけが、石を歌わせる。
 迷斯那は言った。
ーだがこの石は、生きて俺に取り憑きおった、それが俺の受けた酬いよ。
 迷斯那は己を嗤った。
ー女・・、お前は、死に人を喚び返したいのであろう。
 真怡阿は喉を詰まらせた。
ーそれは・・。
ーお前は俺と同類だ。
 迷斯那の眸が妖しく燦めいた。
ーそうだとも、この俺とな。
 後ろで総てを聞いている法士の存在を、真怡阿は意識した。
ー隠すな、俺はそんな奴が現われて来るのを待っていたのだ、嬉しいぞ。
 迷斯那の笑い声は確かに狂気そのもののように聞こえた。真怡阿は身体を硬くした。
ー狂っている、と・・、俺が狂っていると思うのだな、女、そうだ俺は狂っているのかも知れん、だがお前はどうだ、お前の眸に棲む炎は、それは狂気ではないのか。
 不意に真怡阿は迷斯那が憎く想えた。ひと思いに殺してしまいたいように憎く。
ーさあ、獲れ。
 迷斯那が指を晒す。真怡阿の目の前で揺らして。
ーお前のものだ、受け取れ、この俺の指から剥ぎ獲って行け。
 顫える指の爪が恐ろしく巨大に見える。
ーそうだ、これはお前のものだ、女、早くしろ、早く、今すぐに。
 迷斯那の狂気の眸に涙が浮いていた。唇から溢れた泡が白く顎を汚す。
ー早く俺を救ってくれ、頼む。
 激しく渇望が迷斯那を責めていた。真怡阿は耳元で嵐のように自分の呼吸を聞いた。
ーそうだ、お前が俺を救うのだ、望みならこの両腕を、肩ごと引き抜いてお前に呉れてやる、さあ・・。
 真怡阿は目の前が白くなるのを感じた。何処かから冷たい氷の息が入り込んだように。それは、冥府山の風の匂いをしていた。
ー貰い受けた、青い人よ。
 鞘走る細剣の微かな音が、麻加毛の洞穴に動いた。そして、硬く撃ち合う響き。
 火花が宙高く折れた剣の形で飛んだ。真怡阿と迷斯那のどちらにも声はなかった。
ー何故だ。
 身動きのないまま、真怡阿は身体を凍りつかせていた。迷斯那の袖は火花の焦げ跡を作るのに。
ー無駄なのだよ・・。
 突然正気に戻ったように、平静に迷斯那は言った。
ー俺は不死の身体になってしまった、如何なる刃物も俺を傷つけることは出来ない、水にも火にも・・、この麻加毛の谷の永遠だけが、俺の魂を僅かに休ませてくれるだけなのだ。
ーどうしたら・・。
ーどうにもしようがない。
 迷斯那の絶望の深さが初めて真怡阿に分かる気がした。
ー俺はこのまま、お前もそのまま、何も変わらぬのだ
ー別の遣り方はどうだい、迷斯那。
 そして、法士が介入した。
ー怡輪よ・・、どうせよと言う。
ーあんたがこの人と一緒に行くんだよ。
 法士の申し出は真怡阿に希望と、迷斯那には新たな苦しみを与えた。
ーその冥府山へ行って、あんたがもう一度鳴らすんだ、どうだい。
ー俺に、そう言うのか。
ーあんたの不幸はその山から始まった、そこで終らせるのが一番良い。
ー終りと云うものが、存在すればな、だが俺にはそれが、ない。
ーか、どうか・・。私は今、存ると思い始めているのだけれどな。
ーああ、お願いです、私と一緒に来てください、どうかあなたがしたように、もう一度奏でて下さい、あの大地の琴を。
 大地の琴、と。その言葉が迷斯那に起こした反応は、異様なまでに凄じかった。もし真怡阿に操法がなければ頭蓋が吹き飛んでいただろう。突き出した拳が真怡阿の居た位置を貫いて、大理石の内壁を砕いていた。
ー危ないなあ、迷斯那、その人だったから良かったけれど、普通の人ならもうあんたの愛人の隣に席が出来ている頃だ。
ー俺を愚弄するのか、憎い法士め。
 そのままの形で迷斯那は、声を上げて激しく泣いた。野獣が吼えるように。
 真怡阿は迷斯那が憐れだった。迷斯那の憎しみと悲しみ、絶望が憐れだった。そして、それは総て自分の、魂を染めた色と同じなのだと知った。
・・その色が自分を、こんなに遠くまで、遥かに連れてきてしまったのだ。
 その時ふと真怡阿は思った。何かが真怡阿の心に流れ込んで来るように。
・・歌・・、ああ、歌だ・・。
 それは離れた愛人を想う、追憶の歌。摩礼須が歌う、遥かな心だった。不意にそれが、真怡阿の胸に溢れた。悲しみのように。
 双つの繰り返しと三つの繰り返し。それから再び双つが歌う。平凡な歌謡の、古びたその悲しみが真怡阿の胸を激しく顫わせた。
  この空が本当に あのひとに続くなら
  私の胸を裂いて 命よ 遥かにゆけ
  この風が本当に あのひとに届くなら
  私の胸を破り 命よ 遥かに散れ
  千年同じに 春のゆく彼方
  あなたへの道が 私 見えなかった
  鳥は翔ぶ北へ 還る あの空へ
  けれど 私 見えなかった
  あなたへの道が
  雪の名の花は 散って白く何処へ
  あなた抱く胸で 私 泣きたかった
  夢で頬に触れ 指で 髪に触れ
  けれど 私 泣きたかった
  あなたその胸で
  草原に揺れて 歌は遥か流れ
  あなた悲しくて 私 遠かった
  千切れゆく雲よ 虹よ 伝えてよ
  けれど 私 遠かった
  あなた悲しくて
  この空が本当に あのひとに続くなら
  私の胸を裂いて 命よ 遥かにゆけ
  この風が本当に あのひとに届くなら
  私の胸を破り 命よ 遥かに散れ
  散って風になれ あのひとに戯れる
  優しい風になれ あのひとに戯れる
 迷斯那は激しく嗚咽した。
ーやめろ、女。歌うな、俺を苦しめるな、ああ、やめろ。
 真怡阿の歌う双つの繰り返しに、迷斯那は死んだ愛人の名を呼ぶ。
ーああ、佐伊由(サイユ)、佐伊由(サイユ)よ・・。
 迷斯那が耳を塞いでも、沁みてしまった歌は消えなかった
ーやめろ、女・・。俺に想い出させるな。ああ、佐伊由(サイユ)。
 迷斯那は叫ぶ。歌を消すように。
ー女、お前の想いはいつかは終るだろう、だが俺のこの想いは、終ることがないのだ。永遠に想い続けるのだ、戻らない人を。だから許せ、もう許せ。女、俺はお前を憎む、憎むぞ。ああ、佐伊由(サイユ)よ・・。
 永遠の命も時も、迷斯那から想いを奪うことは出来なかった。真怡阿は歌を已めた。
 顫える真怡阿の想いが、静寂のように舞い降りた。迷斯那は啜り泣く。
ーああ、女。お前の想いと、俺の想いとは同じだった、同じだった・・。佐伊由(サイユ)、佐伊由(サイユ)、俺は会いたい。何故想い出させたのだ、ああ、女よ・・。
 歌は迷斯那の魂を動かした。
 迷斯那は、麻加毛の谷の永遠から踏み出して冥府山へ向かった。

第三章 釐阿(リア)二十二

ー両峨山だ。
 訶伊が指差した。
 遥かに双つの嶺が鋭かった。辨玖楽(ベクラ)の山蔭を抜けてそれが初めて見えた。北と南の二つの頂きは奇怪な龍の形で天を指す。
 両峨山の伝説を知らぬ者はない。太古、火を噴く山に棲む双頭の火龍を双つに断ち割った、水精の剣の伝承。釐阿の名は、剣を振り降ろした伝承の鏡造りの名だった。今も両峨山の聳える北の嶺には、釐阿の鏡が存ると云う。青銅の鏡は膨大な歳月にも朽ちず、其処に存ると。
 両峨山の嶺に吹く風の精霊として、或いは歌神として、摩礼須は釐阿と呼んでいた。
ー迦賦輪の手が及んでいることは、やはり覚悟しなければならないだろうな。
 訶伊の呟きが能伐里には遠かった。
 能伐里。足祗神の巫女。岐丹怡に遇って、能伐里の心は決まった。能伐里は自分の生きてきた巫女と云う名が、今は、総ての人の名だと思い始めていた。人は総て巫女、神子なのだと。訶伊も、岐丹怡も、礼布も、そして釐阿も同じに、神を容れる器だった。
 器に注がれる神の水が多ければ、人にはその重みに運命を振り回される生き方だけしか残らないだろう。その時、人の幸福とは何処に存るのか。能伐里はそれが知りたかった。釐阿と歌とを芯に結びつく己のこの運命は、自分を何処へ連れて行くのか。それを、知りたかった。
ーもう、逃げる愚かはしない。
 能伐里は誓った。例え魔軍の緋戦士に遇っても。
 相と云う不思議な法士の技を、礼布は身につけていた。摩礼須のものとは違う響きの言葉を、祈詞として唱えて結界を結ぶ。
ー私は小さなものしか作れないから、傍に付いていてね。
 両峨山に近くなればそれだけ危険は増す。訶伊は怡里の上郷で別れた、王家の斯堤(シテ)を気遣った。もし予想する迦賦輪の野望が真実ならば、必ず兵が待っているだろう。
 釐阿は山を見た瞬間に、声が聞こえた気がした。遥かに頭上を過ぎる。それが誰の声かは分からない。人の声でさえもなかったのかもしれない。だが、釐阿は確かに聞こえたと思った。道のない山麓を高みへと登って行くその歩みが、釐阿には声の聞こえたその場所へ近づくのだと感じられた。約束をされた場所へ行く気がした。あの嶺の何処かに、もう一人の自分が在る。釐阿は確信した。
 急峻な角度で嶺は聳える。訶伊は兵の気配を探った。雨の後の小さな流れが至る処の岩の合間を縫っていた。冬の終りが近かった。苔にも青味が甦えっている。その苔が、処々で酷く踏み荒らされている。重い軍靴の戦いの跡のように。
ー斯堤(シテ)は、どうしたのだろうか。
 訶伊は足元の濡れて黒い溶岩が、血の色を吸ってでもいるように不吉に感じた。
 能伐里は汗を拭く。岩の間を軽々と行く礼布の若さが眩しかった。銀の眸をしたこの娘は、岐丹怡の予言で釐阿を夫とすると云う。釐阿は不思議に透明な眸をして、その礼布に手を引かれていた。身体を引き裂いた風の暴威は、まだ釐阿に名残りを残していた。
・・ではその時までは、釐阿は、生き延びるというのか・・。
 能伐里には分からない。それとも既に、この二人は契りを交わしたのだろうか。
・・いつの間にこの二人は、それほどに心を結び合わせたのだろう・・。
 岐丹怡は礼布を荒れ野で拾ったと云うが、何処までが真実か。荒れ野の風のように礼布は、釐阿と往く。
・・誰にも入れなかった釐阿の心に、この娘はやすやすと入って行くのだな。
 能伐里の握る驢馬の口綱は、手の中で汗にまみれていた。
 切り立つ断崖の遥か下に、白水と呼ぶ勢怡(セイ)の流れが見える。勢怡(セイ)の源流は勿淤儒(モオズ)の、坤霊の末裔の土鬼が棲む、棄てられた廃都の湖に存った。西から東へ、風の双つの嶺の狭間を流れて勢怡(セイ)は下る。
ー玖玖は、ここまでだな。
 訶伊は頂上への最後の崖の下で言った。
ーこの上が、鏡の場所だ。
 頷いたのは能伐里だけだった。礼布も釐阿も心はそこにない。釐阿は空を見て、礼布は眸を閉じていた。
ー行こう。
 訶伊はそれだけを短く言った。
 其処は、嘗て火龍の顎だった場所。珥邏留(ジラル)の口の中だった。冷えた石に成り、火龍は口に己を滅ぼした者の鏡を抱く。風はいつも、嶺を吹いていた。
 釐阿は鏡に向かう。青銅の鏡は想像も出来ない年月を越えて、未だ輝いていた。釐阿の耳には今、何も聞こえていなかった。風も、言葉も。心にだけ、釐阿を呼んだ声が響く。
・・だれ、僕を、呼ぶのは・・
・・呼ぶ、僕、のは、呼ぶ、だれ、のは、ぼく、僕、よぶ、だれ・・
 心の中で声だけが木霊した。青銅の鏡には何も映っていない。空さえも。
・・だれ、いるのは・・
・・いる、だれ、のは、僕、だれ・・
 鏡にそれから浮かんだ姿は、釐阿だった。釐阿自身が鏡に宿る。だがそれは、僅かに本当の釐阿とは異なっていた。異なるのは唯一点。
・・額に、徴しが・・
 鏡に宿る釐阿は緋く、徴しを帯びていた。ー摩礼須の星。
 釐阿は叫んだ。訶伊も見た。能伐里も。礼布は睨むように鏡に対していた。
ーあれが、摩礼須の星。
 鏡の中に宿る姿は釐阿だった。釐阿が叫ぶ度にその姿も同じように叫ぶ。訶伊は終に理解した。やはり、釐阿こそ歌人。沙梳と呼ばれる時を歌う、摩礼須の星だったのだ、と。 五弦琴。双掌管。黄鼓。三つの楽器がひとつの楽を奏でる。それは嘗て奏された曲ではなかった。両峨山の嶺の風こそが旋律。旋法は自在に展開する。
 釐阿には声が聞こえていた。聞こえる声に重ねて釐阿は一千の風を歌う。能伐里は風を捉え、双掌管を吹き抜かせた。訶伊の五弦琴は雨垂れのように散って弾け、時を描いて風に輝線を残す。訶伊は想う。今こそ成就されたのだ、と。
 その時。黒い影が風を裂いて襲い掛った。凄じい音と陽を陰らせて、猛禽の翼が釐阿を狙った。その瞬間、灰色の獣が遮って釐阿を守る。
ー釐阿。
 訶伊の叫びに釐阿は飛び退いた。能伐里は双掌管を武器のように構えて影に対した。
ー礼布は。
 能伐里の震える声に、釐阿は指す。猛禽の鋭い眸を睨む獣は、狼だった。まだ若いその灰色の狼が、釐阿は礼布だと言う。
ーあれが。
 そして狼に熱い憎しみ放射するのは、迦賦輪の魔戦士だけが使う、使い魔の妖獣。猛禽の翼には蛇の胴が続いていた。
 ふと、釐阿は片手を上げて手首を捻った。誰にも何をしたのか分からないうちに、妖鳥の醜い叫びが風を劈(つんざ)いた。胸を悪くする血の臭いが飛び散り羽が風に舞った。
ー釐阿、お前なのか。
 黙って頷く釐阿の手は風を操るように左右へ動いた。灰色の狼が妖鳥のひるみを察して飛び込む。凄じい叫びが耳を貫いた。威嚇を与えて使い魔の妖鳥は空に消えた。釐阿は掌を開いて消耗に堪えた。膝をついた釐阿の頬に、狼が鼻を触れた。
 礼布の姿が戻る。
ー大丈夫・・。
ーああ、君の方こそ。
ー私はいつでも大丈夫よ、ごめんね、あんたの歌が余り綺麗だったから、相を忘れていたの。
 二人の姿を、能伐里と訶伊は既に立ち入れないもののように遠く見ていた。

第三章 釐阿(リア)二十三

 掌中で沙梳の歌が燦めくようだった。訶伊は急いだ。釐阿と云う形の沙梳の歌が、失われそうに危うく感じる。
 冥府山へ。
ーあの山が、総てに答えを出すだろう。
 摩礼須の場所が存るのなら、あの紅玉の琴が纏う靄の中にしかない。
ーあの伝承の地以外には。
 山を下る足のもどかしさが訶伊の急ぐ心を焦らすようだった。勢怡(セイ)の流れに沿って、何処かに舟が見つかるかもしれない。そして斐匝(ヒサ)に合流して・・。だが、その道は迦賦輪の軍にまっすぐ通じていた。迦賦輪の追手はもう存在を隠さない。沙梳の歌を手に入れたと知った今、全軍を挙げて狩り出しに掛かるだろう。
ーどうすれば・・。
 訶伊は迷っていた。
 礼布が身を翻らせる。夥しい血が、勢怡(セイ)の流れの岸を汚していた。戦いの跡。能伐里の顔が蒼褪めた。
ー訶伊。
 釐阿が指差す。
ーあの陣は、斯堤では。
 黒い溶岩を噛む流れの岸に、五陣が組まれて隠形の紛れを成していた。
ー斯堤・・。
 訶伊は天幕の、荒れ野の鷹の紋章を見た。では、流された血は。
 斯堤は傷ついていた。摩礼須に囲まれて、斯堤は相変わらず霜のように厳しく口を結んでいた。胸の傷は死に至るものらしい。息をする度に血の濁りが混じった。迦賦輪の軍はやはり、両峨山に待ち伏せていた。
ー隠形衆を、随分と死なせてしまった。
 背中を二人に支えられて斯堤は言う。
ーだが迦賦輪の兵どもも無事ではないぞ、兵団を丸ごと冥府の闇に送ってやったわ。
 笑おうとして斯堤は血に咳こんだ。
ー危うく復讐の味に溺れる処よ、だがな、それでもあの魔戦士がたった一人現われただけで、儂らには勝ち目がなくなった。
ー使い魔に遭いました、頂きで。
ー登ったか。
ーはい、斯堤の戦いが、摩礼須の総てを救うでしょう。
ー大仰なことを、いずれ迦賦輪はまた山を取り返すだろう。
 空しい戦いか、と斯堤は空を見上げた。
ーいいえ。
 訶伊は斯堤に微笑む。
ー見つけました、摩礼須の星です。
 訶伊の言葉に斯堤は白い眉を上げる。
ー年寄りを構うものではない、そんな気休めを言わずとも、喜びを抱いてこの世を去るぞ儂は。
ーいいえ。
 訶伊は言った。
ー真実です。
 斯堤の眸に時が残されていないのを訶伊は見た。
ー斯堤。私は摩礼須の歌司、訶伊ですよ。私の生命に懸けて、真実なのです。
 誰かが呻くように息を漏らした。斯堤の手が訶伊を求める。
ーまことか、訶伊。信じて良いのだな。
ーはい、あなたの戦いの与えた猶予が、私の仕事を全うさせたのです。
 訶伊の眸を見ながら斯堤は暫く沈黙に浸った。やがてゆっくりと頷く。枯葉のように白く血の気の失せた頬に涙が溢れた。訶伊はそれを拭った。
ー沙梳の歌を、探し当てたのです。
ー真実なのだな。
ーはい、此処に居ります。釐阿。
ーその者は。
 斯堤は釐阿を見た。
ーお前と居た子どもではないか。
ーそうです、この少年が歌人であったのです。
ーそうか・・、そうなのか・・。
 釐阿は斯堤の傍に跪いた。
ーこの者は銀月の、死んだ牟宇の後継ぎなのです。
ー牟宇の子・・、おお・・。
 斯堤は釐阿の頬に触れた。
ー隠れた子とは、この者か。
ーはい。
ーうむ・・。
 斯堤は黙って釐阿を見た。そこに牟宇を見るように。
ー分かった、総ての摩礼須に報せを出せ、此処に牟宇の息子が、摩礼須の故郷を見出す標べとなったことを。
 それだけを言った斯堤は再び横になった。上空を鳥の影が舞う。
ー儂の死は近い、この時に遇えたことを感謝するぞ。
 鳥が再び舞い、叫びを上げた。何処かで遠く轟きがする。
ー兵です、迦賦輪の兵が来ます。
 遠見が警告した。
ー訶伊よ、行け、ここは我等が防ごうぞ、早く逃れて行くのだ。
ー迦賦輪は多分、不死の軍を作ろうとしているのでしょう、あるいは死者の軍を、冥府の礼以と同じことをしようとしているのですそして魔礼須の故郷をも奪おうとするのか。
ーそのことはもう儂の手にない。
 斯堤は掌を振った。
ーそれはもう、お前たちのものだ。ゆけ、訶伊、そして釐阿、我が血筋の者よ。摩礼須に平安を拓け、それが王家の誇りぞ。
ーはい。
 釐阿は斯堤の手を握った。
 隠形衆の飼う驢馬が乗馬に成った。礼布だけは驢馬を拒否して釐阿と言葉を交わす。訶伊は不意に礼布が消えたのを見た。どこへ行くのか、礼布は。背後では既に戦いが始まっていた。驢馬を精一杯走らせながら、訶伊は一人一人の命の為に祈った。
 戦いは悽惨だった。五陣の組が迦賦輪の軍を襲う。思わぬ処から繰り出される剣と刃に兵は激しく押し返された。そこに緋の魔戦士が現われた。釐阿と礼布に翼を傷つけられた使い魔の怒りを、魔戦士は毒のように摩礼須に浴びせた。
ー我が名を記憶せよ、冥府の女主に告げる為だけにな。
 兵が叫んだ。
ー愛是无(エゼム)、愛是无(エゼム)、愛是无(エゼム)。
 三度、迦賦輪の兵は叫んだ。
ー我が愛し子よ、痛みに報いるが良い。
 放たれた妖鳥は魔戦士の頭上に黒く翼を広げる。不吉な兜の飾りのようにもそれは見えた。妖鳥は叫びを発した。摩礼須は誰もがその暗い叫びに魂をすくませた。迦賦輪の兵さえが一瞬たじろいでいた。それからは、ただの屠殺に近かった。誰も愛是无(エゼム)と妖鳥との二つの攻めを避けることは出来なかった。無敵だった。まさしく無敵の魔戦士。迦賦輪は恐るべき魔軍の戦士たちを飼っていた。

第三章 真怡阿(マイア) 十五

 仁眦(ニビ)は迦賦輪の軍に囲まれていた。覇王の軍は城塞に用いる重い装備までを使って、仁眦は攻め上げていた。
 浜には幾筋もの黒い煙が上る。漁に使う舟は積まれ家々は油を掛けて火を着けられた。迦賦輪の兵たちは蟻のように密集して幾重もの陣を作る。良受奈(ラズナ)の館に上る道は折り重なる迦賦輪の兵で満ちていた。
 何度繰り返されたか分からない攻撃の叫びが、再び仁眦に轟く。だが、良受奈(ラズナ)と漁師たちは持ち堪えていた。背後から攻め入る道は迷路のように錯綜し、迦賦輪の兵を多くの罠に誘った。前面は一筋の道。時には細く曲がる道はこの時の為に作られたように、敵の防ぎに対応していた。
 幾度寄せても、その度に覇王の軍は退けられた。坂道を燃えて流れる油の炎に、迦賦輪の兵は醜く燃えた。やがて一斉に兵が引く。その後に、一人の戦士が進み出た。肩と腕とに、黒い闇の形で巻きつけた使い魔の蛇を纏い。魔戦士。迦賦輪の緋い戦士が仁眦に現われた。
 良受奈(ラズナ)の館の内では、戦士の名が囁かれていた。蘇淤(ソオ)。緋い邪視を操る魔獣使い。額の烙印の緋い眼から迸る邪視を浴びた者は、総て腸が捩れて悶え死ぬと云う。恐怖が良受奈(ラズナ)の館に渡った。
 蘇淤(ソオ)は要求した。仁眦と引き換えに、青い人の消息を。何故迦賦輪の軍が迷斯那を探すのか、良受奈(ラズナ)には理解出来なかった。だが、いずれにしても迷斯那の消息は渡せない。迷斯那の今棲む坤霊山。そして麻加毛の谷は、法士と仁眦との誓約の地だった。その誓約こそが仁眦を、遥かな過去から護りの要にさせていた。仁眦を総て灰にしてでもそれは、護られなければならなかった。
 良受奈(ラズナ)の決断は、仁眦を灰にすることで着いた。

 還る旅は、夜にだけ行なわれた。迷斯那は既に陽の光を望まない。法士の要望も人目を避けることだった。だが誰よりも真怡阿が、摩礼須に知られたくなかった。出来るなら誰にも秘密で冥府山へ辿り着きたかった。
 真怡阿はまだ知らない。冥府山が既に迦賦輪の軍の、重い囲みに存ることを。
ー法士、何をしている。
 怡輪の描く地の紋様。土は銀の小刀で複雑に区画された。
ーここに、結界を造った。誰も追っては来られないだろう。
ー誰かが追うのか。
 小刀の土を口で吹いて、法士は祈詞の呪を飛ばす。
ー海の方向に煙が見えた、多分あれは仁眦だったのだろう、だとすると追手が掛かることを予想しなければ。
 法士の声は珍しく沈んでいた。
ー仁眦に助力する法士も、今は少なくなってしまった・・。
 怡輪は夜の始まりに感謝を捧げた。
ー行こう、冥府山へ。
 冥府山への道を、法士の決壊を先回りしていた者を怡輪は予想しなかった。
 法士は語った。
ーその冥府山は、きっと法士の管理した土地だと思う。
ー法士が、摩礼須の土地を。
ー摩礼須は土地を持たないわ。
ーその通り、だったらどうしてそこに渡り衆が在たのか。理由はひとつしかない。
ー言え。
ー沙名都(サナト)は、法士だった。
ーまさか。
 真怡阿は胸を抱いた。
ー私は以前から疑問を抱いていたよ、その山は法士が封じなければいけない、と。
 怡輪は真怡阿に従う須須の名の驢馬の首を撫でた。旅の厳しさを最も感じていたのは、怡輪だったのだろう。
ー伝え聞く沙名都(サナト)の行為は、法士の行為そのものだよ。
 真怡阿はふと怡輪を見た。
ー法士とは一体、何・・。
ー言えない、恥ずかしいから。
ー怡輪・・。
 迷斯那の青い肌は、夜の冷気に濡れて露を帯びていた。
ーお前は言ったな、不死の呪いを解ける者は、時の呪法を解明する者だと。
ーそう。
ー沙名都(サナト)は、不死だったのか。
ー多分、一時は。
ー仁眦で真玉に聞いたのか。
 怡輪は沈黙する。
ーそれは、何・・。
 真怡阿の問いに、迷斯那が言う。
ー許夜(コヤ)の小浜、俺の隠れていた海神の祠の奥に、それが存る。
 怡輪は息を吐いた。
ー驚いた人だな。あんたは真玉のことをいつ知った。
ー許夜(コヤ)に聞いた。
ー許夜(コヤ)が、あんたと話した。
 怡輪は、はっきりと驚いていた。
ーああ。
ーそう、私はあんたが不死だと云うのを、忘れていたよ。
 殆ど溜息のようだった。
ー麻加毛へ隠れて貰って良かったよ。
ー許夜(コヤ)とは何。
 真怡阿が訊ねる。
ー許夜(コヤ)とは龍だ。
ー龍・・、そんなものがこの世に。
ー居る、俺は見た。
 とうとう怡輪が笑い出した。
ーそれじゃあんたはあそこを、海神の祠とは信じないだろうな。
ーああ・・、あれは、津怒我以(ツヌガイ)の息を吐いていた。
 深海の底に座して眠る大海魔の名を、迷斯那は口にした。嵐の海にだけ現われる、伝説の大海蛇さえがその髪の一筋に過ぎないと云う、太古の巨魔の名。
ーあんた、法士に成るべきだったなあ、本当に。
 怡輪は諦めたように嘆じた。
ーあんたたち二人はもう、世に失われたと同じと思うしかないだろうな。
ー私は決して、法士の秘を漏らしたりしないわ。
ー俺には、口を利く相手もない。
ーそう・・、そう諦めよう。私は沙名都(サナト)が施したと云う、忘却の呪法を確かめたい。
 怡輪は一人呟いた。
ー迷斯那、あんたは冥界の女主である礼以を、その時に確かに見たと言ったね。
ー白磁の貌、瑪瑙の舌、翡翠の眸。
 再び苦いものが、迷斯那の声に混じる。
ーあれが本当に、冥界を支配する暗黒の神ならばな。 
ー法士の伝承には、忘れ草の紋章の話が存る。
ー紋章・・。それは、大地の琴に刻まれているもののこと・・。
ーそう、多分。
 真怡阿に頷く怡輪は言葉を続けた。
ー沙名都(サナト)の伝承には、永遠の時と忘却とが常に一揃いで存る、迷斯那、あんたはそれで救われのるだ。
ー救われる・・、俺が・・。
 迷斯那は言葉の響きを味わった。
ー摩礼須の伝承の真実は知らない、けれど私たち法士には昔から、時を超えた者の言い伝えが存る。神ではない、この地上を歩き、海の彼方の禁忌の地を視た人の伝説だ。
ーそれが、沙名都(サナト)。
ーそうだ、沙名都(サナト)は其処に存在する永遠を視た、永遠を視て生き残る者はもう、人ではない、迷斯那、あんたと同じ運命だ。
ー不死を得たのか。
ーそうだ、でなければ神だが、それでもない。
ー何故そいつは狂わない。
 法士は微笑む。
ー忘れたんだ。
ー忘れた・・。
ー自分の不死を忘れた、永遠の記憶も忘れた、それが忘却の呪法。
ー忘れ草の紋章、なのね。
ーそうだ。そして、やるならば冬の終りの最後の日。
ーああ・・、春日の節祭り。
 懐かしく呟く真怡阿だった。
ー渡り衆はそう呼ぶだろうが、私たち法士はその夜のことを、嘗て、曽乎登(ソヲト)の夜と呼んでいた。
ーそれが、俺に忘却を運ぶのか。それで、救われるのか。
ー解ければ。
ー解くのだ、怡輪、でなければ俺に死をよこせ。
 法士の企みはそれよりもまだ、深い場所に存った。怡輪はその目的を知っても迷斯那が行くかどうか、賭けるつもりはなかった。
ー分からない・・。
 真怡阿が呟く。
ー不死がそれほど重いものならば、あの迦賦輪王はどうなの、彼も不死だと聞くわ。
ー多分その噂は本当だろう、でなければ説明が出来ない。
ー何の説明。
ー渡り衆の謎を求める理由。
ー摩礼須狩りを・・。
ー覇王の最終の目的は何か知らない。けれど、渡り衆の抱く謎を求めさせているのものが迦賦輪の不死に存るだろうことは、法士の結論だ。
 複数の形で言って怡輪が語り終えた時。立ち塞がる影が存った。
ー何者か。
 怡輪は奇妙な構えをした。真怡阿は操法に似たその動きに一瞬気を取られた。
ー真怡阿。
 その時、影は呼んだ。
ー誰。
ー俺だ、賦流阿だ。
ー賦流阿。
 その声。真怡阿は突然理解した。
ーお前は、本当に青い人を手に入れたのだな・・、真怡阿。
 真怡阿は理解した。常に自分を追う影のように在た者。時には摩礼須狩りの追手とも思えたその影が、賦流阿だったことを。
ー賦流阿・・。あなただった・・。
 それがどれほどの月日だったのか、真怡阿は数えられなかった。

第三章 釐阿(リア)二十四

 春日の節祭りが近かった。訶伊はそれを、冥府山の喚ぶ声だと思った。冥府山が総ての決着を着けるのだ、と。
 死者の山に灯が揺れていた。
 だがそれは、死人の纏う鬼火ではない。それは迦賦輪の軍が、山裾に布陣して燃やす大量の篝り火だった。無数の星を大地に零したように炎は燃えて美しい。何も知らなければそれは、実に美しい光景だった。
 兵団を統率する将たちは、王ならぬ男の命に従うことに苛立ちを募らせていた。何故山に布陣したのか男は言わない。居並ぶ猛将たちの誇りを踏みにじり、威を黙殺して男は服従だけを要求した。山に取り付き、無為に過ごすだけの日々に将と兵たちは倦み、苛立ちを抱いた。総ての憎しみは緋い戦士団の長。礼留具(レルグ)の一身に存った。
 迦賦輪の王軍に在ってさえも、魔戦士は異物だった。礼留具(レルグ)の額の緋い斧の徴しは魔の封印と、戦士たちの盟約を表わした。迦賦輪の王宮の奥には、魔界へ通じる虚無が存ると云う。そこに魔戦士は封印を飼う、と。
ー我が王に・・。
 礼留具(レルグ)は闇に、禰怡(ネイ)の剣を抛った。
ーそれが、変わらぬ忠誠の証だ、持って帰れ、瀰喩(ミユ)よ。
ーそれだけで、疑念が晴れたとは思わぬ方が身の為だぞ礼留具(レルグ)。それからな、我を呼ぶ時には侯と尊称するのだ。
 闇から声がする。礼留具(レルグ)は何を覇王に疑われていたのか。
ー渡り乞食の小僧が、冥府への道を見出す鍵だ、何としても捕らえることが我が王への何よりの忠誠、違うか礼留具(レルグ)。
ー瀰喩(ミユ)、いや・・、侯よ。
 礼留具(レルグ)は言い直した。
ーもし、冥府への道が開いたら、王はどうせよと言われたか。
ー触れるな、と、覇王自身が行くまでは決して。
ー王は、では動かれたのか。
ーそうだ。
 僅かの間、礼留具(レルグ)は沈黙した。
ー真実のようだな。
ー何がだ。
ーこの山が。
 礼留具(レルグ)は自身の背後の巨大な闇を示した。目に見える形の使い魔を持たないその男が、緋の戦士団の長だった。
 迦賦輪の覇とは何を目的としたのか、世人は知らない。制覇の野望に燃える暴王と見たか、だがそれだけで兵は、軍は戦い続けることは出来ない。では、何が・・。
 礼留具(レルグ)は将たちを集め初めて、獲物の存在を告げた。それから言い渡す。
ー兵の展開も、獲物を捕らえるのもお前らの好きに遣れ、俺はこの山の頂きに居る。
 それだけを言って礼留具(レルグ)は闇に消えた。
 将の誰もが礼留具(レルグ)の指揮を離れることを内心では喜んだ。布陣の目的も知れた。だが、目的の獲物の消息は消えてなかった。覇王の諜報も、それを伝えて来ない。

第三章 真怡阿(マイア) 十六

 獲物よりも僅か先に、迦賦輪の予期しない者たちが来た。布陣する軍の重囲を、怡輪は相を用いて軽々と擦り抜けていた。
 軍勢はその数の多さに、囲みを擦り抜ける者を予想していなかった。野を歩く主のない驢馬を、迦賦輪の軍は何と判断をしたのか、須須だけが手に落ちた。相は、兵たちの目に紛れの網を被せた。だがそれからは山自体が隠身の器だった。
 冥府の山には警戒は薄かった。それでも時折りは歩哨の小屋と立哨が居た。その合間を縫って四人は、沙名都の道を登った。
ー怡輪。
 真怡阿が囁いた。迦賦輪の歩兵が幾人か連れ立って降りる気配がする。声高な言葉は訛りを濃く、畑の作業を思わせた。兵たちの表情は農夫と変りなかった。
 彼らは魔戦士の長を、話していた。
ーあいつはどうして、何だって俺達を皆解いたのかな。
ーそんなことは、俺にはどうでも良い。あんな嫌らしい場所にはもう二度と近づきたくない、有り難いことだな。
ーそれにしても、今集まっている軍だけでも一国を支配出来る程だ、大将たちは何をしようとしているのかねえ、噂じゃ大王自らがおん出るそうだが。
ーそれも俺の知ったことではない。国じゃ俺の仕送りを待っている、良い稼ぎが取れたなら俺はそれで良い。
ーなあ、何処も似たり寄ったりだ、迦賦輪王さまさまだ。
ーそのうちに手柄を立てて、良い暮らしがしてみたいねえ。
ーあの戦士の長のようにか。
ー飛んでもない、いやあ、うちらの大将たちのようにさ。
 兵は去った。去りながら彼らは、武器を農具のように肩に担ぎ直していた。
 賦流阿は迷斯那と怡輪を見た。真怡阿はもう登り始めている。
ーどう思う。
ー上に居るのはどうやら、一人だけらしいと言うことだな。
 賦流阿にしても、冥府の山には良い記憶はなかった。
ー一人、それとも誰も居ないのか。
 迷斯那は冥府山の湿った風を受けて、顫えていた。
 強い風が、礼留具の雨避けの裾を翻した。紅玉の路頭は鋭く鳴って風を切る。石の琴を濡らす霧の滴くは血の色だった。時折り霧に現われる死者の幻影を、礼留具は頭巾の下から見つめていた。どれほどの死者を数えたのだろうか、礼留具にも分からない。時は進むことを止めたように動かなかった。
 怡輪が礼留具を見た。
ー迷斯那、不死の力が役に立つよ。
 冥府の影のように立つ戦士の姿を、怡輪は指した。
ー殺すことの出来ない者が存るのを、教えてあげたら良い。
ーその必要はない。
 礼留具は言った。
ー俺はお前たちを妨げない、ただ此処に居させてくれ。
 迦賦輪の魔戦士が何を企むのか、誰にも予想出来なかった。
 怡輪は法士の立場を取り始めていた。それぞれが、それぞれの胸に思惑を抱く。
ー無駄に争うよりは良い、そうして貰おうか。
 奇妙な平衡が保たれた。
 小さく焚かれた篝火の他は、総ての松明が消された。礼留具は遠く離れて半ばは霧と闇に隠れていた。
 賦流阿は己の両手を奪った無慈悲な石の琴を見た。
ー二度と、訪れることはないと思っていたが・・。
 始まろうとする一瞬。真怡阿は沙梳に祈った。摩礼須の祈る神は、存在の神。そして、歌を意味した。
 霧が、振動する。それは大気を震わせる程に重い土の響きか。三十三の弦の最低音が、殆ど耳には聞こえない低さで闇に響いた。
 迷斯那の爪が夕闇に、青と金との燦めきを閃かせた。誰にも鳴らせない石の琴が、迷斯那の爪に歌を始める。真怡阿は混沌の色を練り上げている夕の空に視線を向けた。闇が顫える。
 再び大気が動いた。微かだが、強く。続いて倍音。天上へまで届くほどに延び切り、極まった後にそれが一転した。素早く分散する三十三の弦の和音が展開する。迷斯那は、奇妙な曲を奏でようとしていた。
ーこれが・・、この音が、大地の琴。
 賦流阿は理解した。何故摩礼須が誰も、大地の琴を奏でることが出来なかったかを。
 奏鳴の旋律は、人の世界のものではない。賦流阿は僅かな息を、迷斯那が紡ぎ出す旋律に重ねて歌に辿る。やがて誰もが理解した。大地の琴は自ら歌うのだ、と。
ーこの、流れて来るものはなに・・。
 胸を浸す奇妙な、時。心と身体とが境界をなくして行く。真怡阿は旋律が魂を突き抜けるのを感じた。
ーああ・・、余りにも、冷たい。
 冷たい流れが琴の弦から生まれていた。篝火に燦めく紅玉は、血の色の顫えを弦に生じる。それは旋律の滲みなのか、それとも。
 怡輪は、その仄かな波動を感じた。怡輪の眼には顕らかな光の鼓動が、冥界から喚ぶように動いて見えた。それこそが礼以の、死の髪の靡き。怡輪は今、伝説が甦ろうとしているのを知った。
ー護りを、与え賜え。
 旧い世界に属した言葉が聞こえた。迸る祈詞が法士の呪を成す。相と結界とを倶に結んで。
ーこの山は本当に、冥界にまで根を通じていた。
 真怡阿は身体を過ぎる冷たさが、不意に消えるのを感じた。迷斯那の奏でる弦の音が酷く遠い。
・・何故・・。
 賦流阿も同じだった。大地の琴の歌う歌が今は、聞こえない。賦流阿は怡輪を睨みつけた。怡輪は黙って迷斯那を指す。不死の者以外には堪えられないことを、怡輪は示して告げた。だが不意に歌を奪われたその想いは、賦流阿の眸の怒りは容易に去らなかった。
ー法士はいつでも、疎まれるものだな。
ー法士には歌はないのか。
ーさあ・・。
 結界の中の会話は、何の影響も迷斯那に与えていなかった。だが、真怡阿は。そして礼留具は。
ー見て・・。
 闇に流れた乳白の霧を、紅玉の弦の燦めきが血の色に染める。乳白と紅との色に。歌が聞こえた。だがそれは賦流阿の声ではなく、迷斯那の声でもなかった。その歌は、生きる人の喉を出た声ではなかった。
ー死者の、歌。
 冷気に激しく動き始めた霧の、混沌の大気を裂いて赤光が奔った。大地の琴に向かう迷斯那が鈍く発光する。緑青の身体がそのままの色で。
ー迷斯那が琴に摂り込まれる。
 闇を区切る稲妻のように、迷斯那の身体は赤光の迸りを人形に切った。やがて大地の琴が、死者を喚んだ。
ー牟宇。
 真怡阿の叫びだった。
ーあれは・・。
 霧の涌く谷から闇を背に、稜線を踏み越えて現われた姿。
ーあなた。
 宙に浮かぶ幾つかの姿を、真怡阿はどのように見分けていたのか。
ー牟宇、あなた。
 今は遠い、遠く去った日々が熱く真怡阿の胸に甦えった。そして死者の歌う歌は、大地の琴が歌う歌。
ー私を見て。
 真怡阿の叫びは死者の歌に消された。冥府の山を覆って歌は、暗黒の風を運んで混沌を吹く。
ー私の声を、聞いて、牟宇。
 死者に、生きる者の声は届かなかった。賦流阿は真怡阿の腕を強く握った。その腕を通じて真怡阿の悲しみが熱かった。嘆きは狂気のように激しく強い。
ーあなた。
 死者たちの列は谷の、霧の底から次々に湧いて宙に浮かぶ。闇と赤光との渦巻く宙空を次第に埋めて、死者たちは歌った。
  死の深き淵より 汝を迎えん
  我は永劫 我は力
  如何なる者をも 我を侵せず
  汝 主こそ 我
  我 存りてこそ 
 無限に空を埋めて行くように死者の列は尽きない。
ーああ、牟宇。
 真怡阿は地に倒れて激しく泣いた。永い歳月の狂気が一時に溢れるように。ひとりひとりの名を真怡阿は呼んだ。斐備の岩山に暮らした者も、我奢の城塞で葬った者も。幼い時の、優しい人の姿も。賦流阿が、喉を詰まらせて泣く。
 混沌の闇の死者の群れは、生きている者には残酷だった。
  死の甘き闇に 汝を抱かん
  我は安息 我は憩い
  如何なる者をも 我を妨げず
  汝 救いこそ 我
  我 存りてこそ 
 そして、死者たちの列の向こうに、巨大な貌が淡く浮かんだ。その異様な姿が、魂を圧倒した。賦流阿が呻く。
ーこれが・・、礼以。
 浮かび、消えた貌はしかし、心に蔭を濃く落とした。僅かに開いた瞼から覗く眸。翡翠の色をしたその眸には、忘却の呪法の靄が白く漂う。そして神々への復讐だけを誓った狂気と。怡輪は己の身体から一瞬力が流れ出るのを意識した。礼以は確かに、相を貫いて自分を視たのだった。その時、真怡阿が法士の結界から走り出た。
ー真怡阿。
 賦流阿は躊躇しなかった。崖に向かって走る真怡阿を後ろから追い、抱いた。死者の凝視と、二人は向かい合った。
ーあなた・・。
ー・・女。
 死者の列の中央から、牟宇は空虚な響きで真怡阿を呼んだ。それは既に声ではない。
ー何故、私の名を呼ばないの。
ー我は、汝を知らぬ。
 真怡阿は叫んだ。
ー私を、知らない。
ー我は汝を知らず、汝は苦渋に汚れし陽光の奴婢、我は甘き闇に憩う礼以の民。
ー牟宇、ここへ来て。
ーいかにも。
ー私を、あなたの腕に迎えて。
ー汝、抱かれるは死。
ーあなたが抱いて。
 賦流阿は、真怡阿の身体を強く抱いた。
ーだめだ真怡阿、あれは牟宇ではない。
 賦流阿の叫びは、真怡阿の狂気には届かなかった。
 死者の群れは次第に寄り集い、真怡阿と賦流阿に向けて下降を始める。いつしか迷斯那は弾琴を止めていた。大地の琴は、もう歌わない。
ーああ、ここへ来てお願い、私に触れて、私を抱いて。
 真怡阿は賦流阿の腕の中で叫ぶ。眸には死者の闇が降りようとしていた。
ー真怡阿、止めろ。
 引き戻そうとする賦流阿の腕に真怡阿は激しく抵抗した。
ー離して、私はあの人に抱かれたい、あの人の声をこの胸で味わう、あの人の姿を、あの人に触れて。
ーだめだ、真怡阿。
 賦流阿は絶望に叫んだ。
ー良く見ろ、あれが牟宇の、あの新王さまの誇り高かった姿に見えるか。新王さまの熱い意志を宿して見えるか、胸を灼く熱い望みを抱くように見えるか、あの笑みを、あの強い意志の力を。
ー私はあの人と、ひとつにいたい。
 腕の中から流れ出て行く命を、賦流阿は己の死のように感じていた。
ー怡輪、助けろ。この人を救え、何処に居るのだ怡輪。
 怡輪に叫ぶ賦流阿の命も、また失われようとしていた。
 迷斯那は空に、腕を差し出していた。
ーおお、俺はまた来た、俺に教えろ、何故俺には死を分けてくれぬ、教えろ。
 二つの光景は奇妙だった。共に死者に願い死者と在るのを祈っていた。
ー頼む、お願いだ、この俺にも死をくれ、お前の味わった死を、俺にも教えてくれ。
 歳月は迷斯那から何も奪えなかった。不死の身体と倶に魂さえもその時のまま、迷斯那は愛人の名を呼んだ。
ー佐伊由、教えてくれ、我が愛人よ。
 だが迷斯那は顧みられはしなかった。
ーでは、せめて忘却をくれ、この俺に忘却をくれ。
 迷斯那は吼えた。
ー怡輪、偽りを俺に教えたか、忘却は何処だ、何処に存るのだ。
 法士はしかし、介入しない。
 死者は真怡阿と賦流阿に向かっていた。迷斯那を棄てて、定命の命をその手に抱き取る為に。
ー真怡阿、頼む、逃げてくれ。
 賦流阿の義手が真怡阿の身体の下で軋みを上げる。
ーいやよ、私はここに在る、ここに在てあの人とひとつに、同じ夢を見る。
ー死者に夢など有るものか。
ーいいえ、いいえ、私はあの人と在る。たとえそこが何処でも、あの人と一緒に在る。それがこの世の外でも、たとえ水晶界の迷宮でも、火霊に焼かれる苦痛の棲でも、私はただ、あの人と在たい・・。
 賦流阿は泣いていた。迷斯那を狂わせ、真怡阿を駆り立てたものは。
ーこのものは、一体何なのだ。
 賦流阿は吠えた。
ー死をも、超えるというのか。
 死者の群れは、二人を包もうとしていた。再び歌が聞こえる。だがその歌は大地の琴ではなく、死者だけが歌う歌。真怡阿と賦流阿を連れ去って、死者たちが去ろうというその時。風が、一千の旋律を奏でて吹いた。

最終章 

 誰もが冥府山の鳴動を聞いた。
 雲は低く、落日の赤い反映が不吉に轟くようだった。迦賦輪の軍に動揺が走った。その時誰かが叫ぶ。
ーあれは何だ。
 腹を突き上げて低く響く地鳴り。大地の振動が足元を震わせた。
ーあそこだ。
 遥かな地平に、膨大な砂塵が存った。終末の光を浴びて砂塵は赤く舞い、轟きは天と地とを揺るがせて響き渡った。次第に、耳を聾する程に大きく。
ー魔か・・。
 高みに居る将兵には軍陣の一角が、砂塵に包まれるように崩れて行くのが分かった。それは一瞬だった。
ー敵か。
 徒の兵も、弓兵も騎兵も砂塵の轟きに呑み込まれて行く。下知は前線に届く前に砂塵の蹄に消えた。
ー鹿だ、鹿の大群だ。
 頭蓋を砕く、砂塵の蹄が轟いていた。
 苔鹿の大群は逃げ遅れた者を枝角に掛けて通った。迦賦輪の軍は初めて恐怖を敵に回した。怖れを知らない敵に、立ち向かう恐怖を味わった。名誉も手柄もなく、存るのは空虚な死の名に過ぎない。その時、既に迦賦輪の王軍は敗れていた。
 苔鹿の枝角の前に立ち塞がる兵はない。釐阿は一気に山上を目指した。その隣を灰色の若い狼が往く。苔鹿の蹄と砂塵が通り過ぎて初めて、迦賦輪の将兵たちは山を見上げた。誰もが眸に恐怖を湛えていた。亡霊の軍団が通ったように、恐怖の風は渡った。そして総ての将兵が見上げる冥府の山に、迦賦輪の軍は山の名の真実の意味を見た。
 叫びは死者の咆哮のように魂を凍らせる。誰もが見た。冥界の暗黒を支配する闇が頭上を覆った。白磁の冷たい貌。僅かに覗く翡翠の眸が、迦賦輪の兵たちを見た。冥府に続く山の伝承は真実だった。
 兵たちはそれ以上留まることは出来なかった。軍律よりも恐怖が優った。名の有る将でさえも、一介の兵卒のように装備を捨てて逃げた。騎馬は先に手に入れた者が使った。崩れ立つ軍を、最後に亡霊の兵が追った。
 春日の節祭りに、釐阿は山上に立った。
ー能伐里、訶伊も、大丈夫ですか。
ーああ、どうやら、落としてきた骨はないようだよ。
 能伐里は口を利く余裕もないようだった。ただ頷いた。
 礼布が釐阿の傍で闇を睨んだ。声は釐阿たちを呼ぶ。
ーやはり、来たか。
ー誰だ。
ー迦賦輪王の緋い戦士団の長、礼留具。
 血の風のように凄じい名乗りだった。だが訶伊は意外にも、そこに敵意の存在がないことに気づいた。
ー何・・。
 訶伊は目を疑った。それは余りに異常だった。緋い魔戦士が、釐阿のその前に膝を折り額衝いていた。
ーあなたは、予言の人だ。
 礼留具は雨避けを肩に撥ね上げた。
ー我が魂に、安息を齎す予言の。
 それが魔戦士の言葉か。訶伊は自分の耳を疑った。那太を魔剣に喰らわせた、あの。
ー釐阿。
 その時、礼布が釐阿の手を引いた。
ーあそこよ、ほら。
 訶伊も、能伐里も、そして釐阿もそれを見た。死者が、死者の群れが谷から湧き上るのを。
ー誰だ、誰があれを鳴らしたのだ。
 訶伊に礼留具が答えた。
ー迷斯那、青い人だ。
ー青い、人・・。
 訶伊の驚きは殆ど声にならなかった。
ー本当に、青い人、なのか・・。
 摩礼須の伝承が今、真実の姿を現わそうとしている。
ーだが、あれは間違いだ。
 礼留具は言った。
ーあれは冥府への扉を開くだけだ、救いの歌は歌わない。己の救いを求める者には、救いの歌は歌えないのだ。
 礼留具の頭巾の蔭で、頬が顫えているようだった。
ー予言の人よ、正しい歌を成せ。
 釐阿は跪く礼留具の肩に掌を置いた。
ーあなたの額の徴しは、歌人の緋い星のようにも視えますね。
 釐阿に何が視えたのかは、誰にも分からなかった。先に釐阿、次に訶伊と能伐里が続いて大地の琴へ走った。
 走りながら釐阿は、風を捉えた。総ての風が、銀に光って視える。地を蹴ってする旋回は果てしない上昇。現象界から絶対界への飛翔の舞だった。旋回して捕捉した風を釐阿は地上へ放った。死者と地上の人とは風に断ち切れら、離れた。釐阿はまだ、それが母とは知らない。
 地に降りて釐阿は二人を庇護するように死者に向かう。迷斯那は既に、石のように動かなかった。死も得られずに、魂は体内に収縮したように固く凍っていた。法士は結界を踏み越さない。
ー訶伊。
 更に能伐里も呼んで、釐阿は大地の琴に触れようともしない。ただ黄鼓を掲げて死者の群れに対した。そこには嘗て、釐阿に死を予言された幼い子も空虚な眸で在た。
 釐阿は風の一筋を能伐里の双掌管へ運ぶ。翡翠の双掌管を通って風は、色を変えた。その風が、紅玉の弦を擦る。
 誰も、摩礼須の誰もが予想しなかったことだった。大地の琴は擦弦の顫えを紅玉に帯びた。刻まれた忘れ草の紋章が、仄かな燐光を闇に浮かばせる。太古の呪法がその匂いを、僅かに風に漂わせた。
ー釐阿。
 叫んだ訶伊の呼び声に、真怡阿は遠い処で意識を覚まされた。
ー釐阿・・。
 五弦琴の紡ぎ出す五音の巡りが風を走る。釐阿は地水火風の四方歩を、軸足の空に収束させる。
ー五歩陣・・。
 真怡阿は呟いた。再び釐阿の身体が宙に舞う。開いた掌から五音が放たれ、五つの色で紅玉を擦弦した。紅玉は既に血の色を失い始めていた。混沌と入り混じる色は天地の創造に似ていた。着地した釐阿は黄鼓を高く振りかざす。
ーあ、・・。
 それは昔、古墳の舞に牟宇が見せた忌み足だった。使われた忌み足は、一瞬転じて送り足へと変化する。
ーあの子は・・。
 胸を貫いて不意に、鋭い悲しみが奔った。その時。歌が聞こえた。
ー歌・・。
 胸を貫いた悲しみはその歌の形で、魂の深い底へまで降りて行く。時折り銀に燦めいて深く。降りて、降りて。光の届かない、音もない沈黙の世界へ降りて行くように。
 そこには、凍りついた悲しみが存った。真怡阿は顫えた。涙が初めて熱かった。
ー真怡阿・・。
 賦流阿もまた、歌を聞いていた。そして信じた。腕の中で真怡阿が顫えて泣いていた。それは悲しみを流す涙だった。絶望と狂気を押し流す涙だった。
ーああ、この胸に溢れるもの・・。
 賦流阿にはその歌が、凍りついた真怡阿の魂を融かすのだと知った。
ー沙梳の歌だ・・。
 遠く牟宇を葬った我奢の城塞の夜に、真怡阿に与えられなかった沙梳の歌。十年を越す時を超えて沙梳の歌が、今、真怡阿を救うのだと賦流阿はそう信じた。
ー沙梳の歌が、聞こえる・・。
 一千の風が釐阿の歌を歌った。それが沙梳の時。沙梳の歌だった。風に紡がれた歌は大地の琴を鳴らし悠久と時とを往き来する。
ーあの踏み足は、摩礼須の故郷へ渡るためのものだった・・。
 真怡阿は初めてそれが、遥かな世界へ渡る踏み足と知った。
ー歌人・・、舞人・・。
 舞う人の動きは華麗に、滑らかだった。黄鼓が時に、音高く鳴った。
 山上の舞は、大地の琴の風と倶に存った。美しく釐阿の紡ぐ歌は顫音を風に放ち、風は一千の筋を靡かせて釐阿の掌から大地の琴へと結ばれた。紅玉の琴は、血の色から銀に変わろうとしていた。
 月が、昇った。闇に覆われた空に昇る。そんな筈はないのだが、しかしそれは紛れもなく、満月だった。冥府山の闇の上空に月が昇る。やがてひとつ。また、ひとつ。銀青の光が僅かづつ、周囲を明るくして行く。死者たちと、生きて存る者たちとはその光に動きを凍らせていた。
 ひとつ。また、ひとつ。三つの月が三十三に、そして更に三の倍数に殖え。いつしか闇は、無数の月で埋まっていた。
 一千の月。それが沙名都の封じた呪法だった。釐阿はその総ての月にそれぞれの、一千の銀の風を送る。
ー道が、開くのか。
 やがて結ばれた風は一千の月をひとつに収束させた。重なり、重なり合う満月は揺らいで、一瞬に一つに戻る。封じられた呪法は解かれた。
 宙空の満月は一千の光を集めたように眩しく、その下の蔭を打ち消していた。だが、それでも確かに見える。道が存った。死の風と交差するその道は空に続いていた。その道こそ摩礼須の失われた故郷への道なのか。
 法士はその時を待っていた。
ー往け。
 旧い言葉が呪を唱える。怡輪は祈詞を放って結界を棄てた。死者に向く。
ーその道を、往け。
 それは旧世界の神の言葉だったのか。怡輪の唱える祈詞が死者と、迷斯那とを捉える。総ての法士が分け持つ龍の血液が、黒い仮像で怡輪から抜け出す。
 その夜、山上に居た者たちは法士の伝承の一端を見た。龍の仮像が黒く蟠り、迷斯那の凍った魂を抱いて死者の群れに向かった。迷斯那は、龍の永遠から抜け出すように死に抱かれた。
 不意に空に言葉が満ちた。それが、死んだ者たちの凍りついた声だった。冥界の軛は解けた。迷斯那を連れて死者たちは、遥かな道を蔭へと去った。銀の月にではなく、その下に見える蔭の形に消えて。沙名都の施した太古の呪法は巨大に生きていた。怡輪は己の結ぶ結界が今なら、山そのものを摂り込めると確実に知った。
ーこの山は、総ての者から忘却されるだろう。たとえそれが迦賦輪でも、忘れてしまうだろう。あの麻加毛の谷が、忘れられたように・・。
 山上に居た者の総てが、銀の月の余韻に呆然と立っていた。釐阿さえがそうだった。
ーあれが、摩礼須の故郷だったのか。
 涙を拭って訶伊は呟く。
ー摩礼須はあそこから来たのか・・。
 訶伊の身体を能伐里が支えていた。
 既に呪法が濃く漂い始めていた。怡輪は記憶が混乱するのを感じた。
ー急いで山を降りた方が良い、間に合わなくなる。
 忘れ草の紋章が、誰の心にも大きく浮かび始めた。
ー急いで、ここを離れて。
 結ぶ祈詞が、僅かに揺らいだ。
ー早く。
 礼布が不安を擦りつけるように釐阿の手を掴んだ。
 背後で紋章が山を燐光に包むようだった。甘い匂いがするように風が吹く。
ーあの人は・・、私を視て、微笑んだ。
 真怡阿の頬の涙が美しかった。
ー真怡阿・・。
ー私は、確かに聞いた、あの人の声を。
 真怡阿の眸から狂気は去っていた。忘却の呪法に絡め摂られたように。賦流阿は腕に抱いて、真怡阿の頬に頬を触れた。
ー生きて、いるのだな・・。
ーあの人が言ったの・・、いつか会える、と・・。私はただ一目でも良いから、あの人に会いたかった、そして、会えたわ、会えたのよ・・、賦流阿。
 真怡阿の涙は熱かった。生きている。賦流阿はそう思った。
ー命も要らないと、そう思った。それで悔いはなかった。けれど、あの人が言った、命を、私に命を生きよ、と・・。
ーいつか会えると言ったのか。
ーそう・・、約束してくれた。
 怡輪と、迷斯那の死んだ石の身体を残して彼らは山を下って行く。
 釐阿はその人を見た。
ー母上、ですね・・。
ー釐阿・・、私の赤ちゃん・・。
 真怡阿は釐阿の掌を握った。
ー私を母親と、呼んでくれるのね。
ーずっと、探していました。
 真怡阿は釐阿の掌を頬に当てた。
ーあなたが、歌人だったのね、釐阿、そして舞人でもあった。
ーもうどちらでも有りません、僕の中から運命は抜け落ちたようです、ね、訶伊。
 訶伊は黙って頷いた。酷く年を取ったような気がする。
 礼留具は最も後ろを歩いていた。時折り後ろを振り返り。山と倶に自分自身と、使い魔から得た己の不死をも忘却に沈めることを望むかのように。
 その時から、緋い斧の礼留具は歌人を求めて放浪する運命を負った。

 苔鹿の群れに混じって而伊理と礼布の姿が有る。釐阿は手を振った。
ー礼布が、あなたたちと縁続きだなんて聞いていませんでしたよ。
ーこの娘は特別だ、俺たちとは血の濃さが違う。
 礼布は釐阿に飛びついた。
ー而伊理が一緒に行くわ。
 釐阿は笑って頷いた。
ー能伐里も僕たちと一緒だ。
ー訶伊は。
 礼布の問いに釐阿は首を振った。
ー訶伊はまた、歌人を探す旅に出る。
ーどうして。
ーそうやって生きてきたから。
 訶伊は、真怡阿と賦流阿との間で何かを話していた。釐阿は母と賦流阿の二人が並ぶのを眩しく見た。二人は、二人の生き方を選ぶだろう。
ー僕は、那阿那の言ったように僕の家族を作る、君と一緒に。
 礼布を抱き上げる釐阿の背が、もう大人のものだった。

 訶伊は思う。世にない摩礼須の場所とは、沙梳の時そのものではないだろうか。釐阿の歌は、沙梳の歌だった。沙梳の歌に遭えたことの奇跡を訶伊は、沙梳自身に感謝する。死者たちと迷斯那の魂が去ったあの道は、多分摩礼須の故郷だったのだろう。大地の琴。そしてあの歌が摩礼須の故郷の真実を教えた。だが、それも歌と倶に消えた。訶伊は冥府に繋る山の名を、既に忘れ始めていた。淡い光暈を帯びた何かの紋章が、記憶の周囲に漂っていた。そう、一体あの法士は何処へ消えたのだろうか。摩礼須の場所が消えたよう、何処へ。
ーそうだ・・。
 訶伊は呟いた。では消えてなくなることのない、この手に掴める摩礼須の場所は・・。訶伊は沙梳と呼ばれる〈時〉が、摩礼須の至福の地なのだと思う。その至福の時を求めて自分は、生きるのだと。
ーそうだ・・。そして、あの歌を究めてみよう・・。
 あの癒しの力の存る歌。ひとの為に、存る歌をいつか・・。

 摩礼須にそれから、新たな歌が伝わった。その歌の名は、訶伊と云った。
  風の岩 風の船
  風の岩に立つとき 大空を 船が征く
  あの船は彼方の 
  蔭の国へ向かう 風の船
  淡く透け 微かにだけ 見えて
  さざめきは 誰の声か
  憧れを 言葉に誘う
  青く 吹きあげる風は その船を追い
  遥かな憶いは ただ あとに残されて
  風の岩 風の船
  いつのときか 誰かが立ち
  龍骨を辷る風を 捉えるだろうか
  そして蔭の国へ 往くだろうか
  知るものは いない
  龍の抱く 真玉のほかは
  風に征く 船のほかは
  誰もそのことを 知らなかった
 訶伊の歌は終った。
 訶伊の歌は終り、一千の風が過ぎた。

一千の風

一千の風

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-03-14

CC BY-NC-ND
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