犬猿のイマジネーション

犬猿のイマジネーション

 さわやかな朝に、水を差された。返却早々、ビリビリにしてやろうかと思った。
 毎週月曜日の小テスト。二〇点満点で六点。英語は嫌いだ。湯水のように出てくる新出単語も、現在形なのに未来のことを言っちゃうツッコミどころ満載の文法も。ついでに、それをおどおど教える宮川も。記号問題で「アアアアア」って書いただけなのに六点も貰えてしまうことにも、なぜだか腹を立てていた。女子高生の心の中、いと複雑なり。
「うわ、六点」
 振り返ると、鈴音が答案を覗き込んでた。中村鈴音。中学の時からずーっと同じクラス。
「見んじゃねーよ。あー英語大嫌い!」
「宮川先生の授業聞いてないからだよ」
「はー!むしろ担当代わって欲しいんだけど!あれが担当で担任なんて最悪……」
「まぁ……頼りないし」
「腹出てるし」
「多分……童貞だし」
「それは知らん」
「ねぇ!」
 ドアを開けて琴絵が入ってきた。山口琴絵。クラスと部活が同じ。やべ、今日から部室の掃除が始まるんだっけ。琴絵を怒らせたら、それこそ一大事。
「ごめーん、部室の掃除ならちゃんと行くから……」
「違う!」
 教師さながら、教卓の前に琴絵が立つ。世界史の教科書で見た、何かの演説をする人みたい。
「宮川先生、今日でいなくなっちゃうんだって!」
 ……は?
 多分、クラスのあちこちで声が上がっているんだと思う。でも、心の中がグルグル回っているせいか、他の子の声は全く耳に入ってこない。
「おい、それどこで聞いたんだよ」
 鋭い声が聞こえてくる。多分高口くんだ。
「職員トイレの個室。私が入ってるのも知らないで、先生たちが話してた。なんか、明日からはもう別の学校に行くんだって。生徒には隠して出てっちゃうんだって」
「はー、急すぎ。てか、お前職員トイレ使ってんのかよ」
「だってそっちの方が綺麗じゃん」
「え、じゃあ、きょーちゃん戻ってくるの?」
 別の子、今度は女子の声が上がる。
「うん、言ってた!だって宮川先生ってきょーちゃんの代わりでしょ?」
 今度は歓声が上がる。きょーちゃんとは、私たちの「本当の」担任。私たちが一年生の時から、担任を受け持ってくれている。もともと病気がちの先生で、集中して治したいということで、長いお休みを取っている。下の名前が「響子」だから、きょーちゃん。優しくて、ハキハキしていて、教え方も上手くて……宮川を初めて見たときは、「月とスッポン」ということわざが頭の中を駆け巡った。
「でもさー、なんで宮川、俺らに一言も言ってくれないんだろう」
「宮川先生、うちらのこと好きじゃないんだもん、当然じゃん」
 いつの間にか席に戻った琴絵が化粧をしている。
「うちらもうちらで、舐めた態度とっちゃってたし。ね、夏帆」
 急に名前を呼ばれてうろたえた。
「は、うち?」
「夏帆とか明らさまに塩対応だったよね。宮川先生、夏帆と接するときにめっちゃ緊張してたよ」
 教師のくせして緊張してんじゃねーよ。心の中で毒づく。
 宮川……もういいや、この際だから「先生」を付けてやろう……宮川先生のこと、さっきは「最悪」とか言ったけど、別に嫌っていたつもりはなかった。授業も、きょーちゃんほど上手ではないにせよ、一生懸命準備をしてきているのが伝わってくる。時折話してくれる、大学受験の経験談も興味深かった。大学を出たばかりらしいから、それはつい最近の話で、私たちにも生かせるところがたくさんありそうだった。小学校から大学までエスカレーター式の学校に通っていたというきょーちゃんからは聞けない話だ。
 ただ、あの全身から漂ってくる自信の無さが、私には無理だった。「きょーちゃんみたいな先生の代わりが僕ですみません」みたいな謳い文句を掲げながら黒板の前に立っているようなものだ。
「いや、あんた泣いたじゃん、宮川先生の前で」
 ある日、お弁当を食べながら、「ほんと宮川ってさー」って琴絵に愚痴ったら、そう返された。
「は?」
「「なんで先生代わっちゃったの」って、泣かなかったっけ?あんなの見せられたら、どんな先生でも嫌になるでしょ」
 確かに泣いたかもしれない。そう、宮川先生と初めて会ったホームルームで。
 ただ、それは、宮川先生が嫌だったからとか、そういうのじゃない。きょーちゃんとのお別れが単純に寂しかっただけで、寂しさに慣れて、宮川先生を徐々に受け入れていくつもりだった。
 それなのに……それなのに、一方的に、「壁」を、あの先生は作った。だから、私たちは……少なくとも私は、距離をとった。壁を破壊するどころか、もう一枚分厚い壁を置いた。
「いや、鈴音とか琴絵も宮川先生に冷たい態度取ってたじゃん」
 とりあえず言い返しておく。
「あー、まぁそれは否定できないわ」 
 目線が泳ぐ琴絵。
「まぁ、夏帆に合わせちゃった、みたいな。別に私は宮川先生嫌いじゃないよ。色々励ましてくれるし」
 強い口調の鈴音。水かけ論になる可能性、大だ。
「んー……でも、宮川、俺らのこと嫌いではないと思うよ」
 高口くんが小テストをヒラヒラ揺らしながら言う。
「嫌いならこんなにコメント書いてくれないでしょ」
 バサ、バサ。ガサ、ゴソ。あちこちから紙をめくる音や、カバンの中をまさぐる音が聞こえてくる。
 私も、「アアアアア」の下にびっしりと書かれたコメントに目をやる。
「二学期最後の小テストになりました。今は出来なくても良い、復習が何より大事……という話は木田さんは聞き飽きたことでしょう。だけど……」
 私……いや、私たちが宮川先生を完全に嫌いになれない理由はこれだった。宮川先生は、どんな時でも、小テストの答案にびっしりコメントを書いてくれる。点数が良い時は褒める言葉を、悪い時は勉強法や励ましの言葉を。毎回毎回欠かさず。さらには、授業中に使用するプリントに「質問・相談欄」を設けてくれて、何かを書き込むと、それにもびっしり返事を書いて返却してくれる。前に、鈴音が「失恋しました。辛いです」と書いた時、長文かつ温かみのある言葉が返ってきた。それを読んだ鈴音は泣き出してしまった。
 私は「質問・相談欄」に何か書いたことなど一度もない。文字でのやりとりが苦手だから。LINEも好きじゃない。ただ、宮川先生と面と向かって話すのは、それはそれで気が引ける。宮川先生は、私とのコミュニケーションの最終手段として文字でのやりとりを推奨していたのだろう。私はそれを無視し続けたわけだ。
「じゃあさー、さっき返されたコメント、お別れのコメントなのかな」
 鈴音がポツリとつぶやく。思い返してみれば、今日の朝のホームルームの宮川先生は、どことなくテンションが低かった気もする。そして、小テストを返す時は、いつも以上に丁寧に返していた……気がする。
 クラスを沈黙が襲う。私たちは宮川先生のことを好きなのか、好きじゃないのか。
 多分、基本的には好きじゃない。みんな。だけど、というか、いなくなる先生のことなんてもはやどうでもいいけど、それでも、でも、少なくとも嫌いではなかったんだろう。きっと。それは私も同じなのかな。わかんない。
「じゃあさ、なんかサプライズ仕掛ける?」
 琴絵が悪戯っ子のような目を向けてくる。クラスがざわめく。色紙書く?とか、クラッカー鳴らすしかなくね、とか、サプライズを連想させる言葉が飛び交う。
「でもさー、サプライズしたとして、微妙な反応されたら嫌じゃん」
 とっさに答えた。我ながら嫌な反応。これにはさすがに他の子たちから不満の声が漏れてきた。
「あ、じゃあさ!」
 琴絵が再び教卓の前に立つ。
「みんな、今朝もらった小テストにさ、今度は私たちがコメントを書くのはどう?」
「は、どういうこと?」
「だから!うちら、いつも宮川先生に嬉しくなるような言葉を書いてもらってたわけじゃん。だから、今度は、私たちが描いてあげようよ。宮川先生への今までのお礼の言葉って感じで」
 琴絵は、興奮した口調で話した後、教室のドアを開けた。
「で、それを廊下に貼っていく!宮川先生の授業がこの後あるでしょ?そこで、私が授業を抜け出して、皆の分をこっそり貼るから!そうすれば、授業が終わった宮川先生が、廊下のメッセージに気づく!サプライズ成功!」
 クラス中に驚嘆の声が漏れる。なるほど、それなら……というポジティブな雰囲気が手に取るように伝わってくる。
「大丈夫?反対意見はない?」
 私は、考え込む。一体、どんなことを書けばいいのだろう。普段、友達だろうと彼氏だろうと、LINEは一言だけ。そんな私が、何を書けるのだろう。
「反対意見なし!じゃあ、四限が始まるまでに、コメントを書いて私にちょうだい!よろしくー」
 チャイムが鳴る。二限は習熟度別の数学の授業。みんな慌てて教室移動の準備を始めている。小テストを持って行った子たちが何人かいた。授業中にコメントを書くつもりなのだろう。
 ふっとため息をついた。窓の外は、青空が果てしなく広がっていた。
 宮川先生、どんな気持ちで私たちと過ごしてたんだろう。昨日の夜とか、何考えてた?私たちと別れられるって、喜んでた?

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戦力外通告。教師失格。先月、校長室へ呼び出された時、その旨を言い渡されるのだと、半ば本気で考えていた。杞憂に終わったものの、本質的にはあまり変わらなかった。今勤めている学校を去ることになった。明日が、最終出勤日。
案外悲しくならないもんだな。退職に関わる事務手続きを終え、事務室を後にしながら、宮川良太は思いをめぐらせた。廊下では、冬が深まる一方だった。思わず、身体を縮こまらせた。小テストの採点をやりかけだったことに気づき、「最後の最後まで残業か……」と、ようやく悲しさらしい悲しさがほとばしった。
病休に入った教師の代わりとして赴任して、九ヶ月。一年間勤務するはずだったが、その教師が早期の復帰を望んだ。学校はどこも人手不足だ。校長は、良太のために、次の学校を探してくれていた。今の高校の偏差値プラス一〇くらいのレベルの高校。心踊る。今度は、授業が成立しますように。
 職員室はがらんとしていた。定時である一七時を過ぎ、すでに半分以上の教師が退勤していた。大学進学率が九〇%を超える、いわゆる「進学校」。それゆえ、生徒は比較的おとなしい。教師の負担も当然軽い。定時を過ぎても残っている教師は、よほどの仕事好きか、単純に仕事の効率が悪いか、どちらかに分類される。良太は、どちら にも属する。
机にうず高く積まれた小テストに手を伸ばした。シュルッ。シュルッ。ペン先が紙と擦れる音が小さく響く。
採点という仕事を嫌がる教師は多い。隣に座る年配の教師が「あらー、また採点?英語は小テストが多くて大変ねぇ」と労ってくれたことが何度もある。
だが、良太は、残業は嫌でも採点は好きだ。前回の小テストから点数が大幅に上がった生徒、下がった生徒。ほとんど白紙で出しつつ、記号問題だけは悪あがきで埋めて来る生徒。何度注意しても乱雑な字で書いて来る生徒。小文字のaとuをほとんど同じ形で書く生徒。答えを何度も消した跡がある生徒。
答案用紙は、その生徒のありのままを写してくれる。最高のコミュニケーションツールだ。
 生徒と話をすればするほど、その生徒のことがわかるようになる。そう主張する教師もいるが、それは違うと思う。話の頻度よりも、お互いが醸し出す空気感が、教師と生徒が理解しあえるかどうか決まる。まさに恋愛と同じ。相性が合わなければどうにもならない。合わない相性は、どう捻じ曲げたって合うようにはならない。男女の仲に限って言えば、合わないことが分かった時点で別れれば、それで問題ない。しかし、教師と生徒は別れることができない。女は男と付き合うたびに、過去に付き合ってきた男のことを「上書きしていく」らしい。だが、教師にとって、生徒にとって、お互いの存在は上書きできない。「高校二年生の時に宮川良太という教師に英語を教わった」という履歴は必ず残る。教師というのは、取り替えが効かない存在なのだ。それが理由でこの仕事を好きになり、辞められなくなる、天職だと言い張る教師もたくさんいる。良太も、この仕事は好きだ。だが、教師を辞めていく人たちの気持ちも、この九ヶ月で、痛感してきた。
 答案用紙の山の、一番上の答案に点数をつけ、隣の山に裏返しで置く。二つの山の高さが同じくらいになった。あと一息。気合いを入れ直して答案用紙に向かい合った時、良太は思わず固まった。
 ほぼ白紙の答案。最後の記号問題だけ、「アアアアア」と叫び声を書いて、終わり。正解は「イアイアア」。三つ正解。一問二点だから、六点。
 「木田夏帆」と書かれた名前欄の横に、点数を書く。この名前を見るのも聞くのもあと一日と思うと、不謹慎ながら、またもや胸が踊ってきた。
 癖が強い子だった。前任の担任教師と相性が良かったらしく、代わりの担任として良太が赴任してきたことを知った時の顔は、それこそ、「幽霊でも見たかのような」顔だった。自己紹介も兼ねたホームルームの最中、泣き出した。周りの席の女子が、ホームルームそっちのけで、木田をあやした。その時の会話が頭にこびりついて離れない。木田の顔を覗き込んで「大丈夫?」と聞かれるや否や、
「うん……なんで先生代わっちゃったの……」
 その時気づいた。教師は、生徒がコソコソ話している時、唐突に地獄耳を有するようになるのだ。木田も、その取り巻きも、相当声を潜めて話していたはずである。だが、良太の耳には、ストレートにその声が届いて「しまった」。
 良太は結局、自己満足のために教師になったのだろうか。「生徒から慕われる教師」「生徒にとって唯一無二の教師」を目指し過ぎてしまったのか。生徒が、明らかに自分以外の教師を欲しているということに、打ちひしがれた。自分は特別な存在ではない、教師という仕事は確かに素晴らしい仕事だ、でもな、生徒は教師を生きる支えなんかにしないし、教師も生徒を生きる支えになんてできないんだぞ……それに気付いたのは随分後になってからだった。
 その時の木田の言葉など、聞き流してしまえば良かったのだ。もしくは、
「どうした?大丈夫?」
 と気遣ってやったり、もしくは
「前の先生の方が良かったよな」
「俺なんかでごめん!でもあとちょっとの辛抱だからさ、頑張ろうよ」
 くらいのことを、泣きじゃくる木田に言えば良かったのかもしれない。そうすれば、今、もっと悲しい気分になれたのかもしれない。しかし、良太は、どこまでも真面目だった。決して、褒め言葉ではない、真面目というのは。
「ほら、関係ない私語はしないように!」
 前任の教師に対する嫉妬。木田に対する「支配欲」のようなもの。それらが入り混じった良太の声は、ざらついていて、彼女らの心にねっとりとした染みを作った。その日から、木田も、周りの女子も、良太を、少なくとも教師としては、扱わないようになった。
 まず、授業態度。私語をするか、居眠りをするか、どちらか。居眠りしてくれていたらどれだけ良いか。そう思うほど、木田を始めとする「反・宮川」集団の授業及びホームルーム中の態度はひどかった。
 良太は優しい教師だった。声を荒げることも、厳しく指導することもほとんどなかった。しかし、私語には厳しかった。厳しくしようとしていた。その根底にあったのは、他の生徒の存在だった。良太の授業、実を言うとなかなか練られたものであり、真剣に聞こうとする生徒は少なからずいた。私語によってそれらの生徒の集中が妨げられるのが我慢ならなかったのだ。
 木田たちは良太に注意されると徹底的に無視をした。
「ほら、しゃべらないで」
「あ、すみません」
 というやり取りがあればまだ気は楽だったかもしれない。あるいは、返事がないとしても、多少申し訳ない顔をして素直に私語を止めてくれさえすれば、それで良かった。
 だが、木田たちはそれさえしない。良太に私語を指摘され、無視し、また指摘され、再度無視して話し続ける。すると、良太は授業を止め、教壇の中央で直立不動して、私語が止むのをじっと待つ。そうなると、さすがの木田たちも、ふてくされたように、気だるそうに私語をやめ、机に向かうようになる。
 良太は、その「気だるさ」を恐れた。
 教師は生徒を楽しませなければならない。    
 常に生徒のために行動する教師こそが「教師のお手本」だ。
 生徒に徹底的に尽くす献身的なサービスマンこそが、教師なのだ。
 このような、良太独自の「教育論」と木田たちの態度が、良太の首を絞めていった。
 それでも、木田たちが根っからの「ワル」で、クラスでも浮いていて、なおかつ他の教師にとっても手を焼く存在だったとしたら、良太もそこまで苦しまなかっただろう。木田たちとなんとかコミュニケーションを取ろうと四苦八苦し、他の教師たちと職員室で木田たちについて議論を交わし、最終的には、少しずつ、蟻がエサを運ぶように、少しずつ木田たちとの間に信頼関係が芽生えていく……そんな夢妄想を当初はしていた。
 しかし、木田たちは、学業成績を度外視した場合における、優等生だった。クラスでは明るい人気者として、色々な生徒から慕われていた(ように見えた)。授業中の私語も、木田のグループのみならず、他の生徒にまで広がる場合もあった。木田たちに話しかけられた生徒たちは皆、迷惑そうな顔ひとつせず、木田の話に耳を傾けていた。 
 また、木田たちは、他の教師に対してもフレンドリーだった。職員室で木田の名前が挙がることは多かった。しかし、その大半が、
「木田さんたち、授業中によく質問をしてくれますよね」
「木田さんたちに親しく話しかけられてしまい授業にならなかった」
 というものだった。
「木田たちに存在を無視されている」
 という良太の悩みは、結局のところ、誰からも理解されなかった。
  
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 いつの間にか二限が終わっていた。結局、宮川先生へのコメントは書けずじまい。消しカスが増えただけだった。
 消しカスをゴミ箱に捨てに行き、席に戻ると、鈴音が私の小テストをじっと見ていた。
「何ー鈴音」
「まだ全然書けてないじゃーん。やっぱり何も書くことない?」
 そういうわけではなく……いざ!となると、何も思い浮かばないだけ。でも、さっきの時間は頑張って色々書いてみた。例えば、

「ありがとうございました。先生の授業、とても良かったです」

 うーん。急に優等生くさくなって気持ち悪い。消そう。

「先生!私先生のこと別に嫌いじゃなかったですよ☆先生ともっとお話ししたかったです♡」

 いやいや、これはもっと不自然。消す。
 
 こんな感じで、書いては消しての繰り返しだった。
「あ、鈴音、そういえばさ、授業中に宮川が教室抜け出したりしたらどうするの?教材職員室に忘れたーとか、よくやるじゃん。それか、なかなか帰ってこない琴絵を心配して探しに行っちゃったりとか」
「あー大丈夫!授業の途中で私が心配して琴絵の様子を見に行くフリをするから。教材忘れは……そっかそれもあるか……もしそういうことがあったら、夏帆が引き止めておいてくれない?」
「ういっす」
 琴絵が別の子としゃべり始めてから、ふと思った。なんで私こんなに悩んでるんだ?だって、宮川先生へのコメント……というかメッセージなんて、それこそ、当たり障りのないものでもいいじゃんか。「私」が「何かをあげた」という事実が、宮川先生を一番喜ばせるんだと思う。悩む必要なんかない。時間の無駄。さっさと書いちゃおう。あー、さっきの消すんじゃなかった。
 そう思いつつ、シャーペンを握りしめても、筆は一向に進まなかった。

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家に帰り着くと、そそくさと部屋着に着替え、ベッドの上に身を投げ出す。全身から疲労の塊がのそのそと出ていく。終業後の採点はこたえた。今日は何もできそうにない。最近は、こうして風呂にも入らず眠ってしまうことが多い。
 スマートフォンを眺めるのに飽きて顔の向きを変えると、部屋の隅に飾ってある写真が目に飛び込んだ。高校の、卒業式の写真だ。
 良太を教師の世界へと導いたのは、月並みだが、良太の高校時代の恩師だった。その名を松崎……松崎先生は、クラスの中であまり目立たなかった良太に、目をかけてくれていた。
 「宮川良太くん」
 「はい」 卒業式後のホームルームで、卒業証書を手渡してくれた時に、こう言われた。
「人と仲良くなることと、人を大切にすることは、違います。必ずしも人と仲良くなる必要はない、でも、人を大切にする気持ちだけは忘れないでください。私はそう伝えてきました。宮川くん。あなたは、それを最もよく実践していた。ありがとう」
 この時、ジャストで「教師になりたい」と思ったわけではない。法学部に進学予定だったため、「教師」という選択肢は頭の中に無かった。だけど、「この人みたいな大人になれれば、ちょっとイイかも」という思いが、寒い朝に淹れたコーヒーから立ち上がる湯気のように、ほんのりと心の中に充満していった。
 大学に入学してから……少なくとも一年間は、松崎先生の言葉が起爆剤となっていた。演劇サークルの活動に明け暮れつつ、夜遅い時間に開講していた教職課程の授業にも欠かさず出席していた。
 しかし、二年生になったら、良太の心のルーレットの玉が、演劇サークルのスペースに落ちることが多くなった。演劇にのめり込んでしまった。いや、正確には、演劇界で華やかな経歴を残している著名人に想いを馳せ、「いつか自分もああなる」という妄想を散らかしていた。あの時の良太と同じく、プロの演劇人を目指していた同期はたくさんいた。彼らが少ないアルバイト代をかき集めて観劇をし、プロの劇団のワークショップに行って演技力を磨いている間、良太がやっていたことといえば、YouTubeで演劇祭の授賞式の動画を見て心震わせ、人脈作りという名目で適当な演劇人と酒を飲むことだけ。今思い返せば、顔から火が、いや、特大の火玉が大砲よろしくボンボンと出てくる。
 それでも、サークルが打つ公演には欠かさず出演した。高校時代の友人も絶えず見に来てくれた。自分はできる、プロになれる、根拠もなく言い切っていた。教職課程の授業には出なくなった。松崎先生が一度も自分の演劇に見に来ていないことには、あえて蓋をしていた。

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 気づいたら、そこは、通い慣れた劇場だった。幾度となく芝居を観て、自分がそこで芝居を打つことを夢見て、結局達成されなかった、劇場。
 良太は客席の最後列の右端に身を埋めていた。手には台本。タイトルは「さらば、凸凹クラス」。作・演出は宮川良太。客席は満席。開演間近らしい。妙な高揚感に包まれた劇場に、場内案内スタッフのアナウンスが響き渡る。
 アナウンスを聞き流しながら、書き込みと皺でヨレヨレになった台本を読んでいた良太だったが、聞き覚えのある声に、ハッと顔を上げた。松崎先生が場内案内スタッフを担当していた。その目は、良太を真っ直ぐ見据えていた。松崎先生の言葉を聞こうと懸命に耳を傾けたが、聞こえるようで耳に入ってこない。音は確かに存在するけれど壁一枚隔てた別世界から聞こえてくる感じだった。
 アナウンスが遮られ、暗転する。次の瞬間、思わず目を瞑ってしまうような閃光に劇場が包まれた。恐る恐る目を開けると、舞台上には、木田たちがいた。一斉に良太を指差し、何かを言い始める……

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 薄汚れた天井が目に入る。劇場よりも、もっと見慣れた、自分の部屋。喉が痛い。口を開けながら寝入ってしまったのだろう。スマートフォンを見ると、午前三時を指していた。
 教師になってから、未明に目を覚ますことが多くなった。再度寝ることもあるが、そのまま起き出すことの方が最近は多かった。 
 冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、ゴクゴクと中身を飲み干す。空になった容器を床に転がし、通勤で使っているリュックからクリアファイルを取り出す。「木田夏帆 六点」と書かれた小テストを取り出す。下の余白に、青ペンを走らせる。
「二学期最後の小テストになりました。今は出来なくても良い、復習が何より大事……という話は木田さんは聞き飽きたことでしょう。だけど……」
 赴任した時から、ずっと続けている、「コメント書き」だ。良太は授業で使うプリントに「質問・相談」を自由に書き込めるコーナーを作っている。プリントを授業で扱い終える度に、回収して出来具合を「A・B・C」の三段階で評価するよう、英語科主任の教師に指示された。それをまんまと利用させてもらった。
 最初はなかなか書いてもらえなかった。しかし、一人の生徒が殴り書きで「英語が苦手です。どうしたらいいですか」と質問をしてきて、それに対して事細かに返答をしたことを皮切りに、毎回一〇人前後の生徒が質問や相談を書いてくれるようになった。どちらかといえば、普段真面目に授業を受けてくれている生徒が書いてくれることが多かったが、木田の取り巻きの一人が「失恋しました。辛いです」などと書いてくることもあった。
 面白かった。相性が合わない生徒と心を通わせることは至難の技。でも、プリントには、悩みを書いてくる。それに対して、返事を書く。決して口から出て行くことがない言葉たちが、紙とペンを通じて、良太と生徒たちの間で交わされていくのが、良太は面白くてならなかった。採点という仕事が好きと言ったが、それは学校の中での話。学校の外でやる仕事で良太が最も好んだのは、このコメント書きだった。
 でも。できたら、木田にも書いて欲しい。そう願って、空振りし続けて、終わった。プリントを出してくれるのならまだいい。そこに良太から勝手に書き込める。
「最近悩みはないですか?」
「質問あったらいつでも来てください」
 ただの自己満足と言われてもいい。こちらから働きかけができる。文字のやり取りなら「気だるさ」に怯えることもない。なんとか、木田との関係性を修正したかった。しかし、木田は結局、コメントはおろか、一枚もプリントを出すことはなかった。お手上げ。そう考えたのも束の間、最終的には、毎週行う英単語テストの答案にコメントを書き込むことにしたのだった。成績にカウントされるため、木田も小テストだけは「受けて」はいた。
 木田へのコメントを書き終わる。クラスの他の生徒へのコメントは書き終え、学校に置いてきた。明日の朝のホームルームで返却をする。
 長かった。九ヶ月。たった九ヶ月、されど九ヶ月。やはり、明日、生徒とお別れするのは寂しい。思えば、随分色々なことがあった。体育祭、生徒と一緒に走った。日直日誌に目を通した。三者面談した。授業後におしゃべりをした。笑った。怒った。泣いた。
 慕ってくれる生徒も複数人いたのは救いだった。あの子たちは、良太の真面目な点を買ってくれたのだと思う。良太が長文でコメントを返すと、あの子たちは喜んだ。頼ってきた。良太の話に頷いた。良太はそれが嬉しかった。全力を注いだ。
 良太は、自分の真面目なところを嫌っていた。出会い系アプリで出会い付き合っていた子に言われた、「会話の一つ一つが重い、さらっと受け流してほしい、会話のテンポが合わない」という言葉が良太の心臓の表面にブスリとのめり込んでいた。真面目で、なおかつ、相手の言葉をいちいち真に受けてしまう。その後の失恋後は真面目な自分を呪い、「元彼は適当で楽しかった」というその子の言葉に背中を突き飛ばされ、「適当な人間」になりきろうとして、上手くいかなかった。
 そんな時、自分を頼ってくれる生徒がいた。真面目さを見出してくれる生徒がいた。良太は全力で生徒に力を注いだ。コメント書きはしっかり続けた。定期試験前には補習をした。松崎先生よりも良い先生になる。そういう意気込みさえ生まれながら、良太は仕事に邁進した。
 でも。明日で全てが終わり。
 このタイミングになってみて、思う。自分は、生徒の「声なき声」にしっかり耳を傾けていたか、と。自分からは決して寄ってこない生徒は少なからずいる。そう言った子たちにも目を届かせていたか。生徒はお前の物ではない。自尊心を満たすための道具にするな。ふざけるな、誰が道具にするか。コメント欄を設けたんだ、それでも書かない生徒はどうすればいいのか。どうしようもないじゃないか。阿呆、それでもなんとかするのが教師だろうが。お前は教師失格だ。前任の教師が戻ってくるからではない、お前は、戦力外通告を受けて明日お別れをするんだ。
 心の中の悪魔の声が大きくなってきた時、再度、睡魔が襲ってきた。今日だけは、良太は、歯を食いしばり光を目に当て睡魔と戦った。そして思考を巡らす。対象はただ一つ、木田。木田と心を通わせるまでは、あの学校から出ていけない。明日の最後の授業。一発勝負。そこで、木田……いや、木田の取り巻きも、そして、クラスの生徒全員ともう一度心を通わせてみせる。気合いを入れ、まどろみ、気づいたら朝を迎えていた。

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「松崎先生。今日でいよいよ最後です。まだ、気持ちの準備ができていないのかもしれません」
 通勤途中で松崎先生にメールを打った。こうして、たまに近況を報告し合っている。かつての教え子が自分と同じ教師になるというのは、どんな気持ちなんだろう。俺にもそういう時が来るのかな。目の前を次々と流れていく景色をぼんやりと眺めながら、ぼんやりと考える。
 大学卒業後、小さな機械メーカーに就職した。結局演劇では芽が出ず、慌てて就活を始めた。学業も演劇も中途半端だった良太は苦戦した。やっと手にした内定は、良太が納得できるようなものでは到底なかった。
 就活が終わり、卒業旅行に行くため、アルバイトを探した。掘り出したのは、塾講師。高校時代の同期からの紹介だった。公演の直前にシフトの融通を利かせてくれる飲食店でのアルバイトが長かったため、塾講師の「楽さ」に最初は驚いていた。個別指導の塾だったので、ただ座って教えるだけ。時給は飲食店のそれよりも若干高い。その塾はたまたま人手不足だったらしく、積極的に授業のコマを引き受けようとする良太を歓迎した。
 学校と同じく、塾でも生徒は多種多様だった。その中で、良太は、塾講師をする目的が金ではない物に変わっていることに気づいた。やりがい。難しい問題が解けず四苦八苦している生徒に、解き方を教える。答えを導き出した生徒の、晴れ晴れとした顔。そして、
「ありがとうございます、先生」
 という言葉。「教える」って楽しい…演劇と就活、挫折が続いた良太の心に、一筋の光が差した瞬間だった。そして、松崎先生への憧れが再び渦巻くのに、そう時間はかからなかった。
 結局、会社には就職をした。その上で、教員免許を取得するべく、通信制の大学に入学した。年間二〇万弱の学費を払い、レポートを書いて合格をもらい、その上で試験を受け、こちらも合格する。このプロセスを二年間積み重ね、教育実習と介護体験を残し、教員免許取得に必要な単位を取り揃えた。せっかく採用してくれた会社には申し訳なかった。ここでも、良い上司や同僚に恵まれた。二年間で不義理にも退職をする良太を、応援してくれた。
 教育実習と介護体験をも順調に経た良太に、次の試練が訪れる。採用試験に落ちてしまったのだ。通常、私立の学校に就職する時は、個々に履歴書を送りそれぞれの学校の選考を受けていく。公立の学校に行きたければ、毎年決まった時期に行われる「教員採用試験」に合格しなければならない。一次試験は論作文を含む筆記試験、二次試験は模擬授業や集団討論を含む面接試験に臨む。
 良太は二次試験の模擬授業で引っかかった。法学部出身の教師の多くは社会科を担当する。それに対し、良太は果敢にも英語科の教員免許を取得していた。松崎先生が英語科だったこと、「英語の教師のなり手が少ない」という情報などなどの理由からだったが、それが逆に裏目に出た。英語への苦手意識を未だ完全には払拭できていない良太の模擬授業は、かなりぎこちないものになっていた。
 次への就職先が決まらないまま、英語の勉強をしつつ、未だ募集をかけている私立に履歴書を出しつつ、アルバイトを探していた時だった。松崎先生から連絡が来た。

 四月から、私の学校で働かないか。

 良太にとっては願ってもいない話だった。松崎先生と共に働けるのならば心強い。しかし、よくよく話を聞いてみると、事情が少し複雑だった。
 私は持病を患っている。今の教え子たちが三年生……大事な時期を迎える前に集中して治しておきたい。だから、私が病休を取得している間、私の生徒たちの面倒を見てくれないか。二年生という一番活発な時期で、苦労もするかもしれないけど。私は宮川くん……いや、宮川先生にお任せしたい。どうだろうか。
 
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 一般的な高校における休み時間の雑然さと言えば、渋谷や新宿などの繁華街のそれを悠然と超えてしまうだろう。次の授業の教室へ向う生徒。走る生徒。廊下で話し込む生徒。それぞれが、笑っていたり、叫んでいたり、怒っていたり、悲喜こもごも。カオスを心地よく感じながら、良太は最後の授業へと歩を進めていた。前から女子生徒が走ってくる。夏休みの集中講座で教えて以来、何度か質問に来てくれる子だ。
「あ、先生こんにちは!」
「こんにちは。元気?」
「元気ですよ!先生髪切りました?」
「うん、切ったー」
 良太の返答を聞くや否や、そのまま走り去っていった。あの子ともお別れか。寂しさが湧いてきた。
 つくづく、学校は特殊な場所だと感じる。大人には大人の世界があり、子どもには子どもの世界がある。それぞれが、相容れない世界。子ども時分では理解できなかった様々なことが、大人の世界に足を踏み入れた途端、じわじわと、もしくは刹那に、理解されてくるのかもしれない。そしてその時、大人は、子どもの世界にはもう戻れないと悟るのだろう。
 しかし、学校は違う。大人も子どもも一緒の世界に住んでいる。子どもは、大人の世界のルールを教え込まれ、もしくは強要される。教師への反抗心が生まれることもあるだろう。同時に、大人……言わずもがな、教師は、子どもの世界の恩恵を受けられる。反抗的ではない生徒と話すのは、楽しい。生徒に相談を持ちかけられ、生徒を元気づけているつもりが、いつの間にかこちらが元気づけられている時がある。
「先生、この問題が分からないんですけど」
「先生、大学受験って数学が苦手だったら不利になりますか?」
「先生、将来何をしたいのかわかりません」
 生徒の純粋な悩みに接すると、なぜだか、自分までもが生徒の気持ちと同化していき、純粋な気持ちになってくる。この子たちの悩みに応えてやりたい、この子たちの幸せを願わずして何を望む。
 「教師のブラック化」が叫ばれて久しい。長時間の残業。部活動指導による土日の出勤。業務の多様化。「教師になる」というだけで、民間企業に就職を決めた友人らに哀れみの目で見られる。その気持ちも充分にわかる。しかし、それ以上に、「目の前の生徒のため」を思うと、残業を厭わなくなっている自分がいる。授業の準備は楽しい。採点も、楽しい。「仕事」という掴みどころのない物体、その裏側に、生徒の顔が浮かび上がってくる。「この子たちのためならば」という気持ちが、沸き起こる。結局、良太は教師という仕事が好きなのだ。絶対に、好きなのだ。
 二年五組の教室からは、他クラスとは比にならないほどのカオスさが漂っている。チャイムが鳴るまで二分、良太はいつも廊下で待機する。
 教師という仕事が好きだからこそ、二年五組のみんな……それこそ、木田と、仲良くなりたかった。それが、後悔だ。今日の授業も失敗して、もう、仲良くなれないままかもしれない。
 チャイムが鳴る。ゆっくりと、ゆっくりと、ドアの凹みに手をかける。今日で最後。でも、このまま最後にしていいのか。葛藤は消えない。消えないまま、良太は、ドアを開けた。
「はーい、チャイム鳴ったよー席につこーう!」
 こう言いつつ、顔は、生徒ではなく目の前にある教卓に向かれていた。他クラスだったら、しっかり生徒の顔を見て伝えられる。でも、このクラスはダメだった。今日も。 
 教卓に授業で使うものを一式置く。出席簿に、チョークケース、そして教材。前回宿題で出した入試問題の解説を行う。期末試験も終わり、一旦は教科書を進めなくても良くなったこともあり、受験を視野に入れた授業に切り替えていた。
 その他、英文法の分厚い参考書や辞書も持参する。手では持ちきれない教材類は、多くの教師たちは、スーパーに置いてあるような「買い物カゴ」に入れて持ち運ぶ。容量から言っても、利便性から言っても、「買い物カゴ」が最も適している。勿論、良太も「買い物カゴ」を愛用していた。「買い物カゴ」を教卓の下のスペースにそっと置き、教室を見渡した。
 授業前の教室も混沌の地と言って差し支えない。車座になって単語帳を見ている生徒。机に突っ伏して寝ている生徒。窓の外をただぼーっと見ている生徒。(良太が来ているにも関わらず)弁当をコソコソ食べている生徒。スマホのゲームに興じている生徒。なぜかタオルを振り回して盛り上がっている生徒…木田とその取り巻き。
「はい、席に戻って。授業だよ」
 何度か声をかけ、ようやく、文字通り重たそうな腰を上げ、自分の席に戻っていく。
 全員が定位置についたところで、号令の指示を出す。
「はい、じゃあ井田くん。号令をお願いします」
 号令係の生徒は、素直な生徒だ。顔を見て話せる。指示が通りにくいクラスの中にいるからか、簡単な指示でさえ、伝わった時の喜びはひとしおとなる。そう言った意味で、号令の指示を出すときは、このクラスでの至福の時だった。
「せんせーい」
 生徒の一人が手を挙げる。山口琴絵。木田軍団構成員。お調子者。
「どうした?」
「トイレ、行っていいですか?」
「あぁ、どうぞ」
 どうせトイレで別のことをやるのだろう。山口はそういう生徒だ。授業が始まってから二〇分間、トイレにこもってしまったこともあった。「欠席」扱いにしたら後日くってかかってきた。
 今度こそ号令を終わらせ、授業に入る。
「はい、じゃあ今日は前回配ったプリントの解説をしまーす……はい、今日で二学期最後の授業です。三学期は三年生のゼロ学期……つまり、皆さんは晴れて受験生になるわけです。今日の授業は受験で出やすいところを随時紹介していくので、しっかり聞くように。来年に繋げていきましょう」
 教師は役者だと言われる。授業になると、普段の話し方とは全く違った口調になる。教壇に立つことで、生徒より一段高い場所にいることも後押しして、まさに、舞台役者のような気持ちが、無意識的に働くのだろう。つぎはぎだらけの演劇経験も、決して無駄ではなかったのかもしれない。
「はい、プリント持ってない生徒はいますか?」
 誰も手を挙げない。持っていないことを正直に言う生徒には、素直にプリントを渡す。「甘やかすな」と同僚には言われるが、生徒の学びの確保のためには仕方がない処置だと良太は思う。
 いつもは数人の手が挙がるのだが、今日はいない。気にもとめず、良太はチョークケースからチョークを取り出した。
「まず、長文読解問題を解くときの心構えをもう一度確認しよう」
 番号を縦並びに等間隔で書いていく。
「まず一つ目。最も大事なのは何だったか……何度も言ってることだし、いきなり聞いちゃおうかな……今日は一二月一七日……じゃあ、一七番の高口くん」
 
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 授業開始後一五分が過ぎた。そこで、異変に気付いた。今日の目標は何だったっけ?そう、木田や取り巻き、そしてクラスのみんなと馴染むこと。そのためにも、まずはしっかり授業を聞いてもらうこと、だ。しかし、その意味では、目標を達成してしまっていることになる。
 そう、なぜだか今日は、授業が不自由なく成立しているのだ。いつもなら、木田たちが私語を始めてしまい、それを咎めて、授業が中断する。木田たちを注意している間、他の生徒もざわざわと話し始めてしまう。しかし、その私語がない。当の木田は、神妙にして、机に向かって何かを書いては消しゴムで消し、また書いては消しゴムで消している。内職か。授業と全く関係のない科目の勉強をする生徒はよくいる。本来ならば許されない行為ではあるが、良太は特別、注意しない。自分の授業が聞く価値がないものだと生徒が判断したということであり、上手い授業をできない自分が悪い。そう考えていた。また、木田については、「寝てても内職しててもいいから授業中は黙っててくれ」と心の中で何度も思っていたため、願ったり叶ったり、というところでもある。
 しかし、逆に言えば、異変はたったのそれだけ。マイナスの異変ではない。普段うるさいクラスが静かになると逆に落ち着かないという贅沢なマイナスもあるが、これが最後の授業だ、今まで頑張ってきたご褒美だと言い聞かせ授業をし続けた。
 プリントの解説も半分が過ぎた時、
「せんせーい」
と、手が挙がった。中村鈴音。木田軍団の一人。冷静で大人びた子だがどこか見下しているような態度をとる子だ。
「どうした?質問?」
「山口さんが戻ってきません」
 確かに、山口がトイレに行ってから二〇分は経っている。が、こちらとしては、「それがどうした」という気分だ。
「山口さんならそのうち戻ってくるよ。さぁ、集中しよう」
「それにしてもかかりすぎじゃないですか?」
「山口さんはいつもこんなもんだよ」
「……私、ちょっと様子を見てきます。だって、ほら」
 中村がスマホの画面を差し出してくる。
「あ、スマホはダメだよ」
「ほら、全然山口さんが電話に出てくれないんです。トイレで倒れてるかもしれませんよ」
 中村のスマホを渋々見る。LINEのトーク画面が表示されている。確かに、つい今しがた、そして二分前と五分前に中村から通話をかけているが、どちらにも応答はない。山口のことだ、スマートフォンを手放さずにトイレに行ったことだろう。電話に出ないのならまだしも、メッセージすら送ってこないのは不自然だ。
 この前トイレにこもっていたのも、もしかしたら。確かに、言われてみれば、顔色がちょっと悪かった。だから「欠席」扱いになった時にあんなに怒ったのか。全く、俺に一言言ってくれればいいものを。そんなに俺を頼れないか。
「ちょっと、俺が見てくるよ」
 さすがに放っておくわけにはいかない。教卓の下の「買い物カゴ」から別のプリントの束を取り出す。
「みんなごめんね、プリントの解説を先に配っておくから読んでおいて」
 中村が眉をひそめる。
「え、先生は行かないほうがいいと思いますよ。授業しててください」
「でも、中村さんの言う通り、倒れてたら大変だから」
「だから、私が行きますって」
 今にも教室から出て行こうとする中村の勢いが凄まじい。友達思いであることは良いことだが、最終日にしてようやく構築されつつある授業規律を乱すわけにはいかない。中村には申し訳ないがなんとかとどまってもらおう。
「学級委員の二人さ、このプリント配っておいて。じゃあ行ってきます」
「いや、だからダメですって!そもそも男の先生が女子トイレに行くってダメじゃないですかー?」
 どこかから「うわ、変態やん」という声が上がる。「宮川先生も男だったか」という謎のつぶやきも。余計だ。
「中には入らないよ。入り口で大声で呼ぶから」
「はぁ!?それ、山口さんがどれだけ恥ずかしい思いするかわかってます!?いいから、私が行きますから。ほら、今も電話かけ続けてるけど全く反応ないし」
「いや、だからさ」
 授業中はスマホは禁止だ。もう我慢ならん、取り上げだ。俺は今日でこの学校を去るから、永遠に返ってこないぞ。
 良太の脳の中に稲妻がビリビリと走っていくのを感じる。厳しさ。自分に足りないのは厳しさだ。生徒が縮こまるような厳しさ。結局、教師は舐められたらダメなのだ。そうですよね、松崎先生。先生と俺の違い。それは、この子たちの態度に如実に表れています。先生は、厳しく指導する時は、それはそれは、強烈な目と言葉選びで僕らを取り締まっていました。それでも、僕らは松崎先生のことを大好きでした。
 最後に、キレてやろうか。もう、他人に媚びを売ってしまう性格を直さないと、この先、生きることさえままならないのではないか。好かれたい、良い奴だと思われたい。そう考え、行動してきた結果、今までどんな目に遭ってきたか。時折、自分の優しさは、他人に対する優しさではなく、単なる自己防衛的かつ保守的な人造感情ではないかとさえ思えてくる。叱る、はっきりと言う、それらのやり取りは、瞬間的には他者を傷つけるかもしれないし自らを悪者にするのかもしれない。しかし、長い目で見れば、「叱る」ことで、他人が改めて何かを考えたり、自分の足りない部分を補おうとしたり、良いことをもたらすことも多々ある。それに気づくのが遅かった。
 良太は、元来傷つきやすい繊細な性格をしていた。少しでも怒られたり、非難されたりすれば、たとえそれが冗談であっても、人格を否定されたかのごとく落ち込み、それが態度に出た。他人に対して遠慮し、萎縮し、その結果、色々な場面でミスをするようになった。
 その経験が、良太を形作った。教師になった時、絶対に生徒を傷つけない教師になると、決めた。優しく、何でも話しやすいような教師になる。引継ぎの時、松崎先生にも、そう宣言した。そうしたら、松崎先生は、こう言った。
「宮川先生が信じる教育を貫くこと。何があってもね。生徒たちをよろしくね」
 松崎先生。自分を貫くって、何でこんなに難しいんでしょう。生徒に優しく接したらナメられます。その優しさは、俺が持ってる個性だから、ブレずにそのまま持ち続ければいいのに。今は、その優しさこそ、俺自身のブレの原因になってる気がして。昔は人に……それこそ、松崎先生に「優しいね」って言われると、本当に嬉しかったんです。でも、今は、そう言われても多分喜べません。俺の優しさは、ただのブレなんです。軸がない男の醜態です。だから、優しさを捨てようと思います。
 一呼吸置き、良太は中村を見据えた。
「ダメだ。授業中に抜け出すことは許さない」
「えー。山口さんはどうするんですか?」
「いいから」
 そのうち戻ってくるだろう。もう高校生だ、自分の責任で行動しろ。
「それと、もう、トイレの場合でも抜け出し禁止ね。我慢しなさい」
 生徒の間に軽いざわめきが起こる。その中で、
「はぁー?」
 という甲高い声が響き渡る。生徒のざわめきが止む。声の主は明らか。
「トイレくらい良くないですか?」
「……でもさ」
 頑張れ、良太。自らに言い聞かせる。
「それ、体罰になりますよ?良いんですか?」      
 それ、いけ。
「じゃあ聞くけど、木田さん」
 よし、いけた。
「木田さんはずーっと内職をしていたみたいだけど、授業は聞かなくても良いの?」
「もう今はしてません」
「いや、ついさっきまでしてたよね。授業態度を理由に、低い評定をつけられても文句は言えないと思うけど」
 木田がひるんだのを見逃さなかった。
「……それとこれとは話が違うと思うんですけど」
「没収だ。内職していたものを出しなさい」
「いや、もうしませんって」
「ふざけるな」
 精一杯、ドスの効いた声を出してみた。クラスが凍った。木田が息を呑んだ。それらが一瞬にしてわかった。
「なんでここまで来て言うことを効かないんだよ。なんで……」
 そこまで言って、はっとなった。木田の顔が微かに歪んだのがわかる。良太は今、生徒を怖がらせている。生徒のためにではなく、自分のために。
 松崎先生は、いくら怒っても、クラスのみんなを怖がらせたことはなかった。このクラスでも、きっとそうだったんだろう。
「……ごめんな」
 クラスの生徒たちが、まっすぐ見据えてくる。こんな瞬間、今までに何回あっただろうか。木田は、呆然と立ち尽くす。
「木田さん……ごめん」
 何秒そうしていただろう。教卓に手を置いて、しばらくうつむいていた。ゆっくりゆっくり、顔を上げる。
「松崎先生は、実は、僕の高校時代の担任でもあるんです」
 え、そうだったの。口々に、驚きの声が漏れていく。
 すうっと息を吸い、一気に話す。
 松崎先生のおかげで、僕は教師の道に進むことができました。教員採用試験に落ちて途方に暮れていた僕に、私の代わりに働いてみる?と声をかけてくれました。松崎先生が作ったクラスだ。何とかして、松崎先生に追いついて、クラスを保っていかなければ。そうやって、肩に力が入りすぎていたのかもしれません。時間をかけて、ゆっくりみんなと関係を構築していけば良かったのに、松崎先生への憧れが強かったんでしょうか、焦りすぎて、その結果、皆さんにとって良い先生となることはできませんでした。力不足で、申し訳なかった。
 そこまで言って、良太は頭を下げた。ここまで来ると、もはや自分が何をしたいのか、皆目見当がつかなかった。
 ゴンゴン。ドアをノックする音がした。ドアが開き、生徒指導部の戸田が顔を見せる。
「失礼します……宮川先生、ちょっと」
「え?あ、はい」
 授業中に教師が呼ばれることなど滅多にない。たじろぎながらも、言われるがままに廊下へ向かう。中村が何か言ったような気がしたが。
 廊下を出ると、山口がバツの悪そうな顔をして立っていた。
「山口さん……大丈夫?」
 顔色は悪くない。安心した。
「いやね宮川先生、さっき廊下を通りかかったら、山口が……ほら、これを壁に貼ってたんです」
 戸田が見せてきたものは、朝のホームルームで返却したばかりの小テストだった。良太のコメントがびっしり書き込まれている。
「ったく……お前は授業を抜け出して何をやってるんだ!せっかく宮川先生に丁寧に書いていただいたものを……おい、お前話聞いてるのか」
 山口の顔が明らかに沈んでいる。ここに連れて来られる前にも、相当絞られたんだろう。今の会話だって、教室の中に筒抜けのはずだ。
「どうせ五組の連中が大勢絡んでるんだろ……ったく」
 そのまま戸田が五組に乗り込んでいく。「おい!」という怒鳴り声が響き、良太も慌てて続く。
「お前ら!宮川先生がせっかく採点してアドバイスを書いてくださったものを……」
「いや、それは……」
 中村や高口が懸命に釈明しようとしているが、戸田の剣幕に押されているのか、言葉が出てこない。
「おい、木田」
 唐突に呼ばれ、木田は身体を震わせた。
「は、はい」
「お前が宮川先生の授業で相当悪さをしていることは知ってるんだよ。あ。今回のこれも、お前の仕業だろう!違うか!」
 木田は何も答えない。それか、答えられないのか。多分、後者だろう。
 これが、本来の教師のあるべき姿なのか。生徒に対して厳しく接する教師。良太は、この数分間で、それを目指した。そして、実践した。
「宮川先生が信じる教育を貫くこと。何があってもね。生徒たちをよろしくね」
 どこかから聞こえてきたその声が、良太の心臓を打ち抜く。
 やっぱ、そうだよな。
 良太は、動く。
「戸田先生」
「ん、なんですか」
「この子たちは……いい子です」
「……はぁ」
 みんなの前で言うのは恥ずかしい。でも、言うんだ。
「いいところをたくさん持った子たちです。今回、このようなことが起こったのも、そのような、この子たちのよさを引き出せなかった私に原因があります。ここは、私の方で指導させてくださいませんか」
「しかし……」
「あと、木田さんについて」
 木田を真っ直ぐ見つめる。
「木田さんは、確かに私語が多い子でした。でも、教師として、僕を、受け入れてくれました。だから、僕はここまでやってこれました。それくらいにしてやってください」
 やっぱり、これでいいんだ。これが似合っている。生徒に優しく接する教師。それが良太に合ってる。
「……わかりました」
 戸田は憮然としてまだ何か言いたそうだったが、みんなを解放してくれた。戸田が去った後、教卓に置いていった小テストを、山口が大事そうに揃えている。良太はそれを手で制する。
「いいよ、みんなにもう一度返すから。大丈夫?体調は悪くない?」
 山口がこくりと頷く。それを見て、晴れ渡る青空のような爽快さを心の中に感じ取った。
「よし、授業を再開しよう」
 そう言った途端、チャイムが鳴った。結局、授業らしい授業をしたのは前半だけで、後半は何だかよく分からない授業になった。
 なぜか教室のあちこちに頭を下げながら自分の席に戻る山口を見届け、全員に声をかける。木田は……なんと、また内職を始めていた。一心不乱に何かを書いている。その頑固さ、好きじゃないけど。たぶん今後に生きていく。受験、頑張れ。エールが自然とこぼれ出る。
「はい、では良い冬休みを。ありがとうございました。号令をお願いします」
 なるべく淡々と。こみあげてくるものを悟られないように。はい、おしまい。
「先生!待ってください」
 いつの間にか、木田が近くまで来ていた。教卓の上に、小テストを置いていく。
「これ、プレゼントです」
 この時の顔を、良太は生涯忘れることはないだろう。
「ねー早く号令しちゃおうよ」
 木田は、いつの間にか、いつもの木田に戻っていた。
 かくして、最後の授業が終わった。号令がかけられた瞬間に「宮川先生、ありがとうございました」という言葉がクラスの生徒全員から送られたことも忘れないだろう。小テストが、形を大きく変えた「寄せ書き」であることに気づいた時の嬉しさも、忘れない。しかし、その後、ふと目を落とした時に、教卓の上に置かれたプリントの文字を見た瞬間も、また、忘れないだろう。何度も鉛筆で「書いては消して」をしたことがはっきりわかる跡。その上に、オレンジの蛍光ペンで、こう書いてあった。
「きょーちゃんは、こんなにコメントを書いてはくれませんでした。先生は、きょーちゃんが持ってないところ、いっぱい持ってます。あ、また会うことがあったら、りょーちゃんって呼んでいいですか? 木田」
                               完

犬猿のイマジネーション

犬猿のイマジネーション

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-03-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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