春告の合図

春告黎


初めてアパートの一室から見下ろした都会の街並みはあまりにも自分の目には眩しかった。そんな風に感じていた日もいつしか過ぎ去った。

窓を閉めて振り返れば、六畳半の狭い世界。あちこちに散らばる空の缶ビール。部屋中に漂う煙草の匂い。
上を見ると、明かりがつかない蛍光灯が目に留まる。家賃を滞納してしまっているのだ。
微かに震える体を摩る。夜はまだ寒い。そろそろ、暖かくなってほしいものだが。
空の缶ビールを拾って、ゴミ箱に投げ捨てる。
今宵も客が来る。

ピンポン、とチャイムの鳴る音。すぐに玄関に行き、扉を開ける。
身なりを整えた女性がはにかんだ笑顔で立っていた。「おまたせ」と小さな声で言う女性の名前はなんだっただろうか。
しかしこの一夜限りの付き合いにおいて名前など必要ない。必要なのは、お互いの体だけ。暗黙の了解だろう。

玄関で立ち止まったままの女性の肩を抱き寄せ、部屋へ連れ込む。
女性は、渡された酒を飲みながらも情のこもった目で見つめてきた。
女性の話に笑いながら頷き、脱線しすぎないよう話を広げた。
酔いが回ってきたところで、女性と距離をつめて、指を絡める。
期待の眼差しが向けられる。その眼差しに答えるように、ゆっくりと大人の世界へ沈んでいった。

目を覚ました。二重に見える視界を何とか戻し時計を見ると、深夜二時。隣には女性がいた。少し経ってから先程、体を交わした女性だということを思い出した。

立ち上がって、一杯水を飲んだ。そしてまた、眠っている女性に一瞥をくれた。

こうしてみると、女性というのは誰も彼も同じように見えて仕方ない。髪が長くて、可愛らしい服を着ていて、高い声でよく喋る。甘い言葉を囁けばフラフラと寄ってきて、掌で踊らされてくれる。

煙草を1本吸い、煙を喫んだ。気だるさを隠しきれないため息が煙と共に出てきた。

こんなことを毎日のように繰り返している。仮面のように貼り付けた素敵な笑みと、口から流れ出る綺麗なお世辞。あとは、四角い箱の中から聞いたり、見たりした情報を空っぽの頭にそのまま詰め込むだけで、誰も不思議に思わない完璧な人間が完成する。
ただ、一人に限る話じゃない。誰もが幾つもの顔を持っていて、隠したいものがある。
例えば、小さい頃なんて隠したいことが沢山あるだろう。
その幼少期の面影を隠して皆、上手く世の中をグダグダと歩き回っている。

煙草を灰皿に押し付けて、また布団に戻る。女性は相変わらず眠っている。
そっと肌に触れる。柔らかな感触と、サラッとした手触りは、いつになっても飽きないものだろうか。
いつか、飽きる日が来るだろうか。その飽きる日が来た時、ようやくこの心地よくて窮屈な世界から抜けることが出来るのだろうか。

女性の腕を退けて、膨らみを鷲掴みする。少し、眉をひそめて体をくねらせたが、それ以外は何も反応しなかった。
手を離して、横になる。
自分は一体、何をしているのだろうか。
そう問いかけて、また眠りについた。

夢を見た。故郷の夢だ。春一番に乗ってやってきた桜の花弁が頬を滑った。
「ねぇ」と声が聞こえた。顔を上げると、懐かしい人が隣に座っていた。
何度でも手を繋ぎたいと思った人だ。抱きしめたいと思った人だ。「愛おしい」と思った人だ。

「本当に、都会に行っちゃうの?」と聞いてきた貴女の寂しそうな顔が今でも忘れられない。
本当は、その時に抱き寄せて愛の言葉を伝えることが出来たら、今、こうして貪り食うような生活は送ってないだろう。
夢の中だけでも、そう出来たらいいのにそれすら叶わない。
乾いた唇は乾いた言葉しか発さない。

「そうだよ。あんたとも会わないよ」
低く、唸るように言葉を発した。
また、同じように会話を繰り返してこの切なさを忘れられないまま、朝を迎えるのだろう。
貴女は「そっか」と小さく呟き、空を見上げた。強い風が貴女の短く切られた髪を撫でた。一層、桜の花弁が舞う。

春にいた貴女が一番美しかった。桜は貴女のことが好きみたいで、貴女が歩けば桜が貴女の周りを嬉しそうに舞った。
貴女も桜が好きだった。空へ舞っていく桜を見て楽しそうに声を上げた。真っ暗な畦道を歩いて、遠くの花明かりを眺めて静かに微笑んだ。散っていく桜を見て、「春がもう終わるね」と寂しく笑った。
その全てが、まさに花のように美しかった。

貴女は軽く背伸びをすると、勢いよく立ち上がった。
「いつの春でもいいからさ、連絡ちょうだいよ」
「会わないって言ってるだろ」
「直接会わなくてもいいから。声だけでも聞かせて。お願いだよ」
「何でそんな必死なんだよ」
貴女は少し照れたようにこう言った。
「春の貴方が一番、綺麗なんだよ」
それは、あんたの方だろ。
喉を通りかけたその言葉は、桜吹雪に連れ去られてしまった。
いつも、ここでその言葉を言えずに終わる。
またいつものように貴女は手を振って桜を纏いながら遠ざかっていくのか。
それでいいのだろうか。
「じゃあ、またね」
そう言って去ろうとする貴女の手を掴んで、引き寄せた。
貴女の綺麗な瞳に自分が映っているのが見える。
「綺麗なのは、あんたの方だろ」
そう言うと、貴女は言葉を発さず目を見開いた。
しかしその後、可笑しそうに笑い始めた。
「貴方がそんなこと言うなんて、夢にも思わなかった」
「悪かったな、気持ち悪いか」
「全然。貴方がそう言ってくれるのは嬉しい」
「そうか」
抱きしめる勇気が出てこない自分を恨みたい。
貴女は手を握り返してくれた。
「春に、また声を聞かせて」
「……ああ」
そう答えると、貴女は心底嬉しそうに笑った。
それは、花が笑うような笑顔だった。

目が覚めた。随分と長いこと眠っていたらしい。時計を見ると、もう9時半だった。
上半身を起こして隣を見ると昨晩の女性はもういなかった。机の上を見ると、メモと紙幣が二三枚がいてある。
どうやら、帰ったらしい。
紙幣を手に取り、じっと見つめたあと、また机の上に置いた。
この金は返そう。もう、あの女性とは関係を断つだろうから。

立ち上がって、窓を開けた。強い風が部屋の中に吹き込む。春一番だ。
寒いのに、暖かい風だった。思わず頬が緩む。

ふと、部屋の中を見渡した。
六畳半の部屋。あちこちに散らばる空の缶ビール。部屋中に漂う煙草の匂い。明かりがつかない蛍光灯。
昨晩と何も変わらない。変わっていないのに、妙に広く見えた。

棚の上に置いてある携帯を手に取り、連絡帳を開く。
都会に出てきてから、一度もかけたことがない電話番号。恐る恐るコールボタンを押した。耳に当てて、応答を待つ。

風が強く吹く音。部屋に散らばった空の缶ビールが転がる音。カーテンの旗めく音。微かに響く、コール音。
そして、鼓膜に響いた受話器を取る音。

それら全てが春告の合図だった。

春告の合図

春告の合図

  • 小説
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更新日
登録日 2021-03-12

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