茸の晩餐―茸書店物語10(最終)

茸の晩餐―茸書店物語10(最終)

茸不思議物語です。縦書きでお読みください。


 晩餐にどのような意味があるのだろう。晩餐を和英辞典で引くとdinnerとsupperとでてくる。今度はdinnerを新英和辞典で引くと正餐とあり、一日の主要の食事で、それに晩餐も含まれる。晩ということは夜、それで夕食と思ってしまうが、晩餐は必ずしも夕食でなくてもいいわけである。supperを引くと夕食、軽い晩餐とある。dinnerとsupperでちょっとニュアンスが違いそうだ。日本語における晩餐は夕ご飯のようだ。晩飯、晩御飯、夕食、夕餉などはみな夕飯だ。
 晩餐会となるとまた何かが加わる。晩餐だけでも、一人ではない夕食で、一品ではない、しかも特別の料理と思ってしまう。晩餐を広辞苑などをひくと、やはり、晩の食事で、あらたまった豪華な夕食とある。キリストの最後の晩餐が有名である。そのためだろう、晩餐と聞いただけで最後がついていなくても最後のというような気分になってしまう。キリストはすごい。
 まあ、気軽に考えれば、晩餐は美味しいものを、ゆえある者たちと一緒に食べることなのだろう。ただ食べるのではなく、それはその個人、その家族、その子孫、その一族、その生きものの背景を背負ったセレモニーでもあるのである。
 映画で晩餐というと、バベットの晩餐会を思い出す。気風(きっぷ)のいい女性シェフの生き様が描かれた、とてもいい話だった。文科省がすすめそうな映画は好まないのだが、なぜかこの映画はよかった。これとは全く逆の、文科省が勧めるわけはない奇人達の晩餐会も大好きな映画である。なんとも付き合いたくない間がずれている親爺が主人公だが、最後には共感してしまうのは不思議である。
 なぜこうも晩餐にこだわるのか、実はちょっとうきうきした訳がある。
 昨日神保町に行ったのだが、珍しく、ランチョンに行く前に、草片書房に寄った。昨日は姉の笑子さんと妹の泣子さん、両人がデスクにいた。
 「先生いらっしゃい」
 と二人の声がとんで、これでてますよと、泣子さんから草片叢書第10集「茸の晩餐」を渡された。表紙には二つの真っ赤な茸の周りにいくつかのいろいろな色の茸が取り巻いている絵がある。
 「真ん中の赤い茸はヒイロガサとベニヤマタケですの、食べられます、周りの茸もみな食べることができる茸です」
 「文章は誰が描いたのですか」
 「秋田の湯沢市の方ですわ、湯沢市の奥に小安峡という温泉場があります。大噴湯という蒸気が吹き上がる渓谷があります。秋は紅葉も良くてとても綺麗なところですけど、そこの旅館の番頭さんです」
 小安峡については私もよく知っていた。温泉の有名なところであるばかりでなく、湯沢には美味しい稲庭饂飩もあるし、美味しい皆瀬牛もいる。しかし、まだ行っていない。旅行の雑誌をやっていたといっても、私自身そんなに旅行に行ったわけではない。
 「面白そうですね」
 「あそこはいろいろな茸が生えるところです、茸の晩餐は番頭さんが山の中で見たという話ですけど、まあ、半分は創作かもしれません」
 笑子さんはそう説明した。
 「行ったことはあるのですか」
 「ええ、よく知っているところです、温泉がとてもいいですよ。古くからの由緒もある旅館です」
 読んだ後きっと行きたくなるだろう。
 「何かお勧めの茸の本がありますか」
 草片書店にくるようになって、ずい分茸の本が棚にならんだ。ここにくると、語草片叢書以外にお勧めの本を買うようになったからである。
 「四手井ご夫妻の本はおもちですね」
 「ええ、一つ持っています、きのこの風土記ですが」
 「毎日新聞社のですね」
 「ええ、仕事柄、風土記の本はいくらかもっています」
 「あのシリーズはいいですね、みそ、そば、しょうゆ、つけもの、すし、さけ、さかな、くだもの、やさい、そしてきのこ、食べるもののおおもとと日本の風土」
 「はい、そうですね」
 「あの本の前に、ナカニシ出版のきのこの手帖がでてますし、奥さんだけの、平凡社カラー選書、キノコ手帳もあります」
 彼女はきのこの手帖をもってきた。濃緑色のバックに絹傘茸の簡素な絵のあるいい本である。もちろんそれを買うことにした。
 「この本は今の本と違って、素朴な装丁の素敵な本です」
 確かにそのとおりである。
 「新しい本では、日本人ときのこ、平安時代から江戸時代まで日本人のきのこ観がよくわかります」
 差し出された本を見ると、著者は教師をする傍ら、それぞれの時代の古典から茸の資料を抜き集め、まとめたとても有意義な本である。岡村実久という人の本だ。みないただくことにした。
 「ありがとうございます、先生、じつは、来月の八日に、国立の私のレストランで、集まりを行います。草片叢書の作者もいらっしゃいます」
 「それは楽しそうですね」
 彼女は、綺麗な二つ折りの冊子を渡してくれた。
 「草片晩餐会 Xavila dinner」とある。表紙には紅天狗茸があしらわれ、中を開くと、料理名が書いてあった。ただラテン語らしい言葉が書かれているだけであったので、私にはなんだか分からない。もしかすると、使う茸の分類名なのかもしれない。おそらく上等な料理なのだろう。年金生活者が払えるのかどうか分からない。恥ずかしいが、尋ねてみた。
 「参加費が書いてありませんが」
 「いえ、ご招待ですので、何もお考えいただくことはありません、来ていただきたい方にお渡ししていますのよ」
 「とても、私に口に出来るようなものじゃないと思ったから、でも、私なんかが行っていいのでしょうか」
 「草片叢書が十冊になったお祝いですわ、お気軽にいらしてください。先生に来ていただくのはとても嬉しいことです」
 「是非きてください」と泣子さんからも言われた。
 そういうことで、この年になって有頂天になったという次第である。
 家に帰って、草片叢書第10集を読んだ。

「茸の晩餐」

 小安温泉郷の皆瀬川沿い、国道398号線にはいくつかの古くからの旅館が並んでいます。私はそのなかでも創業三百年を誇る老舗、五郎兵衛旅館の番頭をしています。
 皆瀬川の渓谷には大噴湯という常時蒸気を吹き上げている場所があり、それだけではなく、紅葉時にはその美しさに観光客がたくさん訪れるところです。大噴湯入口の向にあるあぐり館という、地元の農産物ばかりではなく、採り立ての茸や山菜も並べられている店があり、いつもたくさんの車が止まっています。すこし上流に向かって道を行くと、とことん山入り口が右手に見えます。小さいながらスキー場もあり、キャンプ場も整っているなかなか楽しいところです。茸狩りのシーズンになると、キャンプはもう寒くなりますが、家族ずれでバーベキュウを楽しむ姿が見られます。
 そこから少し歩くと私の旅館があります。
 旅館より上流には、不動滝があります。大滝とも言いますが、とても大きいものではなく、むしろ渓谷に挟まれた小さなもので、滝つぼの美しさはたとえようがないものです。不動滝の入口には総合案内場があり、その建物の中からも滝壷を見ることもできます。その道向には、ちょっと登ると、小さな古い薬師神社があり、その脇にトレッキングコースの登り口があります。少し険しいので、観光客や地元の家族連れもほとんど訪れることがありません。山を楽しみたい人にはとてもよい遊歩道です。女滝沢トレッキングコースといいます。いくつかのコースがあって、ヤチダモ広場に行きつきます。ヤチダモの木はバットや家具には欠かせないもので、小安のヤチダモの木は日本でも指折りの大きさを誇ります。胴回りは4メートル以上あります。上を見上げると空に聳え立っています。
 この女滝沢遊歩道の途中にきれいな水が出るところがあり、地元の旅館ではその水を引いて、湯の温度の調節に使っています。毎年どこかの旅館が担当になり、その水の取り出し口や、管の点検を行うことになっているのです。去年は五郎兵衛旅館の担当で、私ら番頭が時間のあるときには草刈機などの道具を担いで見回りに行きました。
 ながながと小安のことを書きましたが、おかしな茸たちに出会ったのがこのトレッキングコースのとあるところなので、その様子を知っていただこうと思ったからです。
 大ヤチダモの木の前には小さな赤い鳥居が建てられていますが、周りの草地は春になると二輪草が咲き乱れるきれいな広場となります。秋には色々な茸が生え、食べられる茸もたくさんあります。
 それは勤めて五年ほど経った頃でした。五十年近く前のことになります。このあたりの源泉は百度近い湯が出るので、適温にするにはかなり多量のきれいな冷水を必要とします。それで共同の冷水を取り込む場所を探して、管を埋めたのです。採水場所はいつもきれいにしておかなければならないので、先にも書きましたように、管理を怠るわけにはいきません。その当時は若い私が担当者でした。
 まだ覚えていますが、九月の九日でした。菊の節句の日です。このあたりは夕方になるとかなり冷えるようになります。しかし、まだ気持ちがいいといった日が続きます。
 給水のパイプの周りの掃除に行って、その日は宿も混んでいなかったので、ちょっと奥に入り、ヤチダモの木にお参りしました。たまにそうするのですが、拝んで、周りの茸で食べられそうなものを採って帰るのです。食材になる茸類がそれなりに生えており、いつものようにたくさん採ることが出来ました。帰りは来たときの女滝沢遊歩道ではなく、山の上を通る道を帰ることにしました。このトレッキングの道は主要な道を歩くには問題ないのですが、いくつも枝道があって、迷うこともあるほどです。本気で行くなら案内人と一緒がいいでしょう。
 私はそれなりに慣れていましたので、どこに行っても方角は大体分かりました。しばらく登って陵線の木の林立する道を歩いていると、やはり大きなヤチダモの木がそびえ立っているのが木々の間から見えました。あの広場のヤチダモほど大きいものではありませんでしたが、かなりなものです。ちょっとそばにいってみたくなり、斜面を少し下りました。ヤチダモのあるところはちょっと平らになっていて、ブナなどの木に囲まれていました。かなり立派なもので、胴回りは3メートルを越しています。
 そういうところには必ず茸があるはずです。木の周りを見ると、茸の輪ができていました。茸は種類によっては円を描くように生えるものがあります。松茸も霜降り占地も輪をつくります。ところが、その場所の茸の輪は奇妙なものでした。輪になって生えている茸がすべて違うのです。その茸はすべて知っているものでした。茸の輪を作る種類ではないし、ましてや、生える環境の違うものたちでした。偶然なのでしょうか。
 私は茸を良く知っていました。何しろ小安の近くで生まれ育ったので、茸にはなじみがあります。輪になって生えている茸の名前をあげてみましょう。卵茸、本占地、鹿舌、初茸、網笠茸、山鳥茸、ささくれ一夜茸、唐傘茸、栗茸、登龍です。この茸たちの大きさも本来のものとはだいぶ違います。唐傘茸は大きな茸ですが、その辺の茸と同じくらいのものでした。栗茸は小さい茸なのですが、この輪の中の栗茸は大きいものでした。すなわち輪を作っている茸は、本来の大きさではなく、一様だったのです。
 さらに奇妙なことに、輪の中には春に生える編笠茸がありました。朽ち木に生える栗茸が土から生えています。
 誰かが採って来て植えたようにも見えますが、大きさがそろっているものを探すなど容易なことではありません。それに、あっと気がついたのは、食べることの出来る茸ばかりです。一瞬採っていこうと考えたのですが、それぞれ一本づつしか生えていないのですから、料理の事を考えると無駄のような気がします。まとめて炒めてしまってもかまわないのですが、それではつまらないでしょう。それぞれに美味しい食べ方があるものです。それにあまりにも綺麗に輪になっているので採るのを躊躇したのです。
 思ったのは写真機を持っていればよかったということでした。明日の朝もう一度来ようと思いました。一日で萎びてしまうこともないでしょう。
 宿に帰った私は、女将さんにいろいろな茸が輪になって生えていたことを言いました。「それは面白いじゃない、明日の朝、綺麗な写真が撮れたらどこかに飾りましょう」とも言ってくださいました。
 次の日の朝早く、風呂の掃除を終わらせると、カメラをもって、そのヤチダモの木のところに急ぎました。その頃はまだデジカメなどがありません。持っていたのはコンパクトカメラと呼ばれる小型で簡単に撮れるフィルムカメラでした。
 五郎兵衛旅館から急いで四十分ほどでした。その木はすぐわかりました。茸たちは輪になって生えていました。ただ不思議なことが起きていました、茸が違うのです。昨日の朝に見た茸とは違うものが生えているのです。
 紅天狗茸、一本占地、霜越、黒初茸、赭熊網笠茸、毒山鳥、一夜茸、袋鶴茸、苦栗茸、火焔茸です。しかもとても大きい。
 ともかく驚きました。これはみな毒茸です。毒茸の輪なのです。もしかすると、別のヤチダモの木だったのかと疑いました。それでも、写真を撮りました。その辺りを探してみたのですが、昨日見た、食べられる茸の輪はありませんでした。仕方なく、何枚か写真を撮った後、旅館にもどりました。
 フィルムは町の写真屋に現像に出しました。戻ってきた写真は綺麗に写っていました。確かに輪になって、あの大きな毒茸たちが写っていました。
 「毒茸のフェアリーリングかい、面白いね、でもなんで違う茸が輪になって生えていたのかね、専門家の先生に聞いてみようね」
 女将さんも茸のことはよく知っています。
 「フェアリーリングってなんでしょうか」
 まだ若い私はカタカナの言葉など分かりません。
 「茸の輪を菌輪というのだけどね、西欧では妖精の輪、フェアリーリングっていうんだよ」
 と教えてくださいました。女将さんはその毒茸の輪の写真を気にいってくださって、宿の廊下に、他の茸の写真と一緒に飾ってくださいました。その時は忙しかったからかもしれませんが、学者に見てもらうということもなく、終わってしまいました。
 次の年の初夏、五月の連休のころでした。梅と桜が同時に咲くようなところです。五月と言ってもまだ東京での早い春の頃と言っていいでしょう。いつものように、給水の場所の見周りに行った帰りに、私が菌輪を見つけたヤチダモの木のところに行ってみたのです。下草が黄緑色で、秋とは全く違う様相をしています。ぜんまいや蕨などの羊歯の若芽がほどよく伸びて、名前も知らない草もいきいきとしています。ヤチダモの根元のところも同じようでしたが、まあるい赤っぽい輪がありました。茸の輪と同じほどの大きさです。だいたい直径が2メーターに満たない小さなものです。大きいものではありません。誰かが描いたというよりも自然に出来た感じがします。そこだけ、土が見えていたのです。
 その頃はいつも写真機を携えていましたので、その写真は撮りました。あたりに、茸はほとんど出ていませんでした。そして、それから一週間後、また行ってみました。すると、そこには、一年前に見たものと同じように十の食べられる茸が生えていたのです。種類はほとんど同じでしたが、本占地はなく、絹傘茸が生えていました。絹傘茸は春の茸です。それにしてもおかしなことです。それで写真を撮り、食べられそうな山菜をとりながら旅館に帰りました。その日は海外からの団体客があり、忙しくなって、菌輪のことは忘れていました。
 団体客が帰った二日後に、またヤチダモの木のところに行きました。そこで驚くものを見ました。茸の脇で鼠が暴れていました。何をしているのかと近寄ってみると、絹傘茸が鼠の首に咬み付いているのです。口がないので咬み付いているという表現はおかしいと思いますが、傘と柄の間に上向けになった鼠の首が挟まり、血を流しているのです。赤鼠でした。赤鼠は茸から離れようともがくのですがで、できないようです。やがて動かなくなりました。
 そこへ、もう一匹の赤鼠がやってきました。仲間か配偶者か分かりませんが、異変に気がついたからでしょう。新しく来た鼠は生えている茸に気がつき、食べようと思ったのかもしれません、大きな卵茸に近づきました。すると、卵茸の傘がぱくっと開いて鼠の首筋に噛み付きました。その鼠も暴れました、しかし、血を流して死んでしまいました。死んだ鼠は少しづつですが、茸の傘の間に吸い込まれていくようです。
 しばらく見ていると、死んだ鼠は絹傘茸と卵茸に吸い込まれてしまいました。食べられてしまったといってよいでしょう。血の匂いを察知したのか、蝿が飛んできて鹿舌や初茸にとまりました。すると、その茸たちは瞬時に傘の間に蝿をくわえ込み吸い込んでしまいました。
 埋葬(しで)虫がやってきました。網笠茸の近くを通るとやはり傘に喰われてしまったのです。あまりの怖さ、不思議さに度肝を抜かれ一時間ほど経ってしまいました。戻らなければしかられてしまいます。その時、写真を撮るのを忘れたと思ったのですが、後の祭りです。急いで帰って仕事につきました。
 次の日の朝早く、まだ仕事が始まる前に、ヤチダモの木のところに行きました。もし昨日のようなことがあったら、今度は写真を撮ろうと意識していました。林の中は静でした。茸の輪はそのままでした。ところが、生えていたのは、紅天狗茸、白鬼茸、霜越、黒初茸、赭熊網笠茸、山鳥茸、ささくれ一夜茸、唐傘茸、栗茸でした。昨日鼠や虫を喰ってしまった卵茸、絹傘茸、鹿舌、初茸、それに網笠茸は毒茸に変ってしまったのです。とりあえず写真を撮りました。そこに蛙が跳んできました。唐傘茸の下に来ると、唐傘茸の傘が蛙の足を咥えました。蛙は必死にもがき、何とか振り払うと逃げていきました。その写真も撮り損ねてしまいました。
 それから、朝早く、毎日のようにヤチダモの木の下に行きました。あの輪の中の茸は二日後にはすべて毒茸に変わっていたのです。
 十の茸がすべて毒茸に変った次の朝早く行って見ますと、茸は全くありませんでした。ただ、また、丸い赤っぽい土の円がちょっと離れたところにありました。きっと、そこに茸が生えるに違いありません。
 一体、その赤っぽい土の円はどうして出来るのでしょう。それを知りたいと思って、毎日朝早く通いました。食べられる茸が生えてきて、動物を捕らえて食べると毒茸になることはわかりました。しかし、十の茸が毒茸になると茸は消え、新しい土の円が出来る、その繰り返しで、五月が過ぎるとその土の円は出なくなりました。土の円はどのように出来るのかわかりませんでした。夜中に来ると分かるかもしれません。
 この話を女将さんにはしませんでした。撮った写真を見ると、動物が大きな茸のそばでひっくり返ったりしていて面白のですが、食べられているようには写ってはいなかったからです。
 いろいろなことがはっきりしてきたのは、八月の中ごろでした。このあたりでは、その頃になると、少し涼しくなってきます。茸も出始めます。
 お客さんが、山の木の写真を撮りたいということで、私に案内するように女将さんがおっしゃいました。なんでも有名な写真家だそうです。それで、女滝沢コースの、山登りの道を案内しました。古い大きな木がたくさんあって、その形は被写体として面白いと思います。
 その方は四十半ばの方で、ライカのすごいカメラをお持ちでした。だけど僕はミノルタが好きですよ、とミノルタの一眼レフも二台持っておられ、私が一台を預かりました。
 朝からお昼まで、およそ五時間ほど、様々な木の写真をお撮りになりました。あの私の見つけたヤチダモの木の写真も撮られました。その時、私は木の下に赤っぽい土の円を認めました。写真家の先生には何か分からなかったと思います。
 そのお客さんはろいろな木の写真が撮れたのでとても喜ばれて、出来上がった写真をいくつか旅館に寄贈してくださるということになりました。銀座で個展を開かれるそうでした。女将もとても楽しみにしていたようです。
 私としては、それより、土の輪のほうが気になりました。それで次の日に行ってみると、やはり、食べられる大きな茸が生えていて、数日後にはすべてが大きな毒茸にかわっていました。そして、なぜか次の日には茸が綺麗になくなっているのです。それに、新しい赤い土の輪がちょっと離れたところに出来ているのです。
 朝ヤチダモの木のところに行った時に、すべてが毒茸になっていたら、夜に行ってみようと計画をたてました。前の晩に何かが起きているに違いないのです。
 その日がやってきました。八月の終りの日でした。明日から九月です。朝に行くとすべて毒茸だったので、旅館の人には断って、十一時頃でしたか、月明かりを頼りに、ヤチダモの木のところにやってきました。月明かりの中で大きく育った毒茸が十本、輪になって生えていました。その時点ではまだ毒茸はあったのです。
 私はそのままどうなるのか見ていることにしました。ちょっと離れたところに都合の良い場所があったので、腰を下ろしました。懐中電灯を持っていましたが、月の明かりで使う必要がありませんでした。
 しばらくすると、しゅるしゅるという音というか、何かの鳴き声が聞こえてきます。どこから聞こえてくるのか分からなかったのですが、そのうち頭の上のほうから聞こえることに気付きました。上を見ると木々が夜空に向かってそびえているのが見えます。一段と高いのがヤチダモです。どうも音はヤチダモの木の上のほうかするようです。
 少しずつ音が大きくなります。見ていると、ヤチダモの幹に何かいます。紐のように見えます。それがするすると降りてきます。月明かりで姿が見えてきました。蛇です。何匹かの蛇が太いヤチダモの幹をニョロニョロと降りてくるのです。はっきりと見えるところまで来ました。大きな青大将くらいでしょうか。色は真っ白です。橙色の舌を口から出すときにしゅるしゅるという音を出します。
 蛇はヤチダモの木の下に降りると、尾っぽを立てて、毒茸の輪の中にはいりました。全部で十匹います。蛇たちは茸の前でとぐろを巻きました。頭を垂れ、祈るような格好をして目を瞑ると、しばらくの間そのままでしたが、一匹がシューっと鳴いて、一斉に目の前の茸に喰らいつきました。傘から丸呑みにしています。大きな茸ですから、蛇の腹がぷくりと膨らみました。蛇たちの茸の晩餐です。
 食べ終わると、大きなお腹の蛇たちは、ちょっと離れたところで輪になって動き始めました。十匹の蛇が下草の上を輪になって動きます。やがて、草が擦り切れ、土がみえてきました。こうして、土の円ができました。すると、その上に、蛇たちは口から橙色のつばきを吐き出して、土の表面をおおいました。こうして、赤っぽい土の輪がヤチダモの木の下にできたのです。赤い土の輪が出来たころには、蛇のお腹がへこんでいました。輪を作るために動くことで消化されたのでしょう。また土の輪には茸が生えてくることになります。
 蛇たちはしゅるしゅると鳴きながら、ヤチダモの木のてっぺんに向かって登っていきました。しばらくすると、その声も聞こえなくなりました。
 蛇は動物を食べる茸を育て、動物を食べて毒茸に変わった茸を食べるのです。
 このあたりには次のような伝説があります。いろいろなバージョンがありますが、私の知っている話を紹介しましょう。
 昔、この山の下の皆瀬川の不動滝に能(の)恵(え)姫(ひめ)と供の蛇が住んでいたということです。小安の近くの村で生まれた能恵姫は、とあることから、白蛇に見初められ妻になりますが、水底で暮らすことになります。ところが水に毒が流れ、綺麗な水を求め蛇とともに皆瀬川をのぼり不動滝にたどり着いたということです。白蛇は水の毒を飲み込み綺麗にすることで、姫を守りました。不動滝の水の清らかさはここからきているのです。
 これは私の想像ですが、能恵姫が亡くなった後も、水が綺麗になった不動滝に住んでいた白蛇の子孫は、毒を食べたくなり、山に移ってきたのではないでしょうか。始めは毒茸を選んで食べていたのが、やがて、自分達で毒茸を育てるようになったのです。ヤチダモの木に棲みながら、毒をもつ茸を育て、晩餐会を開いて、姫を偲んでいるのではないでしょうか。
 白蛇の茸の晩餐会はそれから数年見ることができました。あるとき、私はその晩、茸の餐会の邪魔をしてしまいました。新しく買ったカメラにフラッシュが付いていたので、それで写真を撮ろうとしたのです。フラッシュをたいた瞬間です。白蛇が一斉に私を見て、すーっと、すべてが消えてしまいました。
 そんなことがありました。

 確かに書いた人の創作の匂いが強い。だが、小安には行ってみたい。それで、五郎兵衛旅館を調べたのだが、小安温泉郷にはなかった。前にもそういうことがあったので、似た名前を探した。あった。古くからの旅館、多郎兵衛旅館である。それで、草片書店に電話を入れた。笑子さんが電話口に出た。
 「あら、十集の作者にお会いに行くのですか、ええ、五郎兵衛旅館は架空ですわ、だけど先生のいう多郎兵衛旅館の番頭さんではありません、多郎兵衛旅館の近くに住む人です。連絡は多郎兵衛旅館に電話して、電話をくれるようにたのめば連絡してくれます」
 そういうことだったので、多郎兵衛旅館に電話を入れた。
 それからすぐに、連絡が来た。かなり年をとった男性の声である。髙橋さんといった。彼はもしこられるなら、多郎兵衛旅館に宿をとっておきますよと言ってくれた。それで、三日後に二泊ほど滞在することを伝え、行く準備にはいった。
 小安に行くには秋田新幹線で大曲に出て、そこから奥羽本線で湯沢駅にでなければならない。かなりの旅行である。五時間ほどかかる。
 予定の時間に湯沢駅につくと、多郎兵衛旅館の車が迎えに来ていた。乗ったのは私だけだったので、旅館までの道中に運転手から話を聞いた。
 「髙橋さんは何をしている人でしょう」
 運転手は首をかしげている。
 「誰でしょうかね、高橋だらけだからわかんねえね」
 話を聞いていないようである。それで、いきさつを話した。
 「うちに茸を入れている髙橋さんかね、それなら髙橋万次郎さんでしょう、もう八十になるけんど、毎日山奥に茸採りに行かれる」
 だから多郎兵衛旅館が知っていたわけだ。
 「茸採りの名人だけんどね、あのあたりの土地もちさんで、うちの社長さんの兄(あに)さんだで」
 そういうわけがあったのだ。
 宿に着くと、玄関で髙橋さんが待っていた。黒い甚平ともんぺをはいた白髪の丸顔の老人で、忍者のような格好をしている。名脇役の俳優さんにこのような顔の人がいたが名前を思い出せない。
 「井原先生、遠いところまで、ありがとうございます」
 全く秋田訛りが無い。標準語である。笑子さんから連絡がいっているようだ。
 「茸の晩餐が面白かったのでお話を伺いたくなって来てしまいました、私の勝手ですみません」
 「いやあ、おはずかしい、わしには書けんと断ったんじゃが、あの笑子に乗せられ、ついつい引き受けてしまいましてな」と笑った。
 部屋には髙橋さんが案内してくれた。
 「この旅館は古い旅館でしてな、弟にやってもらって、わしは若いころから好きなことをさせてもらっております、道楽もんで皆に迷惑をかけております、
 どうですかな、一風呂あびていらっしゃれば、ここにはいくつものいい湯がありますがの、最初は大浴場の薬師の湯がいいでしょう、ほかに露天風呂と陶喜の湯、それに小高くなったところの離れに男用には三宝の湯がありますよ」
 ずいぶん色々な湯がある。
 「それで飯ですが、大広間で食べるより、わしのうちにいらっしゃらんかな、すぐそばですから、ここの大女将の料理もすごいものでしてな、しかし今日はうちの茸料理を味わってもらいます、そのほうがゆっくり話せますでな」
 ありがたい申し出なので、もちろんうなずいた。
 「わしはこれで家に戻りますが、あとで番頭が案内すると思いますから」
 そういって、髙橋老人は部屋を出て行った。入れ替わりに番頭さんが来て、旅館の中を案内してくれた。
 私は薬師の湯に浸かった。落ち着いたいい湯である。
 その後、案内されて髙橋老人の家に行った。家は女滝沢トレッキングコースの入り口近くの林の中にあった。大きくは無いが、和風の相当凝った建物である。草片庵と木札が下がっている。
 番頭さんが玄関を開けると、色の白い丸顔の髪を長くしている女性が顔を出した。
 「あ、番頭さん、ご苦労様です」そう言って、「井原先生、どうぞおあがりください、父が待っています」
 とその女性はお辞儀をした。
 案内された部屋に食事の用意がされており、髙橋老人がテーブルの前に座っていた。
 「どうぞ、あ、これは三女の木野子です」とお嬢さんを紹介した。
 「お世話になります」
 「今日は、茸ずくしでまいります、ごゆっくりお過ごしください。父の採ってきた舞茸もはいっています」
 「ありがとうございます」
 それから、茸の前菜がでてきた。
 「飯を食いながら話しましょう」
 私は髙橋老人に茸との出会いを尋ねた。
 「わしは、さっきも言いましたが、若いころから道楽者でしてね、ただ、道楽といっても男がたしなむ道楽と違っていて、茸なんですわ、茸が好きで山の中を歩き回って、色々な茸の写真を撮ったり、採ってきて名前を調べたり、場合によっては標本を作り、科学博物館に送って名前を教えてもらったり、そんなことをしていましたわ、もちろん親にねだって図鑑類だけではなく、茸の本も買い集めました。高校は出たが大学も行かずそういうことをしていました。二十歳になったころですかな、熊楠を知って、そちらの方に進みたくなりましてな、いきなりイギリスに行きました。熊楠が大英博物館にいたことはごぞんじでしょう」
 私はうなずいた。
 「それで、イギリスの大学に入ろうと思ったのですわ、実は大学こそいかなかったのですが、向こうの茸図鑑を手に入れたとき、是非読んでみたいと思いまして、英語だけは一生懸命独学で勉強しとりました。それである程度英語はわかったんですわ、しかし、イギリスに行って、研究をするなどということは自分の能力では無理とわかりました。それに研究とは根気の要ることで、すぐ他に目がいくわしには無理でしたな。二年ほどして、フランスに移ったのです。茸の料理なら出来ると思いましてな、そこでコック見習いを三年やりまして、それでも少しは茸の料理を覚えました。しかし、やっぱり日本の料理のほうが私にはあうと思うようになりました。そこで小安に戻り、茸の研究所を立ち上げまして、茸栽培に手を出したのですわ。料理の材料の供給を考えたのです。それはうまくいきました。年商一億ほどになったでしょうかな、しかし五十になった頃でしょうか、やっぱり天然ものだと思うようになり、研究所は人にまかせて、今のように茸採りになりましてな、茸好きな人を案内したり、珍しい茸を探したりの生活をしております」
 自分から比べると、ずいぶん贅沢な人生だ。
 「うらやましいですね」
 それからは、髙橋老人の茸採りで出くわした奇妙な出来事の話をきいた。面白い現象に出会っていることがわかった。
 草片叢書第十集の話になった。
 「あの草片叢書に書かれたことは面白かったのですが、何処までが本当にごらんになったことでしょう」
 髙橋老人は話作りを楽しんでいる人だということがわかったので、単刀直入に聞いた。
 「あれは、茸の傘のところに蝿が挟まってもがいているのを見ましてな、思いついた話です。ほとんど嘘ですわ、ただ、食茸が毒茸になることはありましてな、おそらく何かの影響で茸の中の成分が毒物になっちまうのですな。もちろん、卵茸が紅天狗茸になるなんて事はありませんよ」と大きな声で笑った。
 次々にでてくる茸の和風料理はしゃれていて、都会のレストランでこのような贅沢は出来ないだろう。酒も旨い。
 「美味しい料理ばかりです」
 「いや、地物というだけですよ、あの木野子が作っています。ご存知でしょう草片書店の笑子の草片レストラン、あそこのシェフはわしが見習いをしていたパリのレストランの主人に頼んで、茸の専門家を探してもらったんだ」
 草片書店の主人たちは、この髙橋老人と懇意なようだ。
 食事が終わり、お茶が出たとき、髙橋老人は一冊のしゃれた洋風な本をもってきた。
 「今日話したことは、こんな本にしましたので、差し上げましょう」
 茸をモチーフにした単純だがどこか面白い版画絵の表紙の本で、小口が三方とも黄緑色に染めてある。タイトルは草片人生であった。開くと本人の生い立ちと、茸との出会いが書かれている。自分史のようだ。
 また髙橋老人が本を持ってきた。
 「わしの余技でして、素人物でお恥ずかしいが」
 と渡されたのも同じ傾向の装丁で、赤で三方染をしてある。タイトルは「幻茸城」とある。
 「泉鏡花の茸の舞姫に刺激されて、ちょっとばかり話を作ってみたのですよ、部数が少ないのですが最後の一冊ですが差し上げましょう、作家の先生に差し上げるのは恥ずかしいのですが」
 髙橋老人は茸の物語の本も作っているようである。
 こうして、夜遅くなり、旅館に帰った。そのとき、木野子さんがお土産をくれた。
 「これは茸の漬け物です、エゾハリタケを三年かけて味噌漬けにしたもので『ぬきうち』といいます。このあたりしかありません。この茸は硬くて抜くことが出来ないのですが、食べ物がなかったのでしょうね、自然に抜け落ちるのを待ってから、何とか食べられるように工夫したものです。珍味というか、珍しいというだけかも知れないのですが、食べてみてください」
 私はお礼を行って、おいとまをした。
 次の日は、昔はカラフキと言った大墳湯を見て、不動滝などを見て、夕食は大女将の料理を堪能した。もちろん離れ屋の三方の湯も真夜中に入った。誰もいない薄暗い小さな浴室は静寂の中に薄気味悪さが加わり、今まで入ったことのある湯で一番好きな湯である。また来たくなる。
 みやげに稲庭うどんと、この宿にしかない古代米の赤い酒、弥生のしずくを買って、二冊の本を携えて、小安峡を後にした。とても良い旅行となった。

 二週間後、草片晩餐会の日になった。案内状を頼って、国立のレストラン草片をやっと見つけた。住宅街にあって、普通の家の立ち並ぶ一角に地味な石造りの西洋館だった。かなりの年代の家である。煉瓦の低い塀が巡らされて、庭の中が見渡せるが、クローバや蛇苺の葉が這っている。
 煉瓦の門柱に銅でできた表札が付いている。「レストラン草片」とある。白い木でできた門を通り、やはり煉瓦が敷かれた道をいくと、玄関の大きな扉が開かれている。覗くとスリッパが用意されているのが見える。中にはいると、Xavila晩餐会と看板が立ててあり、ご自由にお上がりくださいとあった。廊下をいくと、会場という札が立っていて、ガラス戸が半分開かれている。中にはいると、「いらっしゃい」という声が聞こえた。
 部屋の真ん中には無垢の木でできた大きなテーブルがあり、晩餐会用のセッティングがなされている。天井の梁から落ち着いたガラスのシャンデリアというか、昭和初期の様相の電灯が吊るされている。部屋自体は特別大きいわけではないが、太い木を使った梁と漆喰のミルク色の壁が調和していて、落ち着いた部屋になっている。庭に面したところには、上が半ドーム状になった格子のガラス窓が三つならんでいる。
 テーブルの周りには十数個の椅子が用意されている。窓の脇の二つの小さな台には茸の形をしたランプが燈されている。
 椅子に腰かけていた笑子さんと泣子さんが立ち上がって入口のところに来た。
 「井草先生、ありがとうございます、どうぞこちらに」
 一番奥のテーブルの端に座らされた。どうも一番前の席のようだ。
 「早く来すぎましたか」
 六時の開始の予定だから十分前に着いたのだが誰も来ていない。
 「いえ、間もなく皆さんみえるでしょう。
 「どなたがいらっしゃるのですか」
 「草片叢書をお書きになった方、皆さんいらっしゃいます」
 草片叢書の第一集の作者から、ほとんど、私はその地に行って会っている。その人たちに会えるのは嬉しいことである。
 私が椅子に腰掛けて、テーブルの上の献立が書かれた紙を開いてみた。全部ラテン語で書かれていて、私にはなんだか分からない。
 「それは献立ではないのです、使われる茸の名前です」
 泣子さんが説明してくれた。
 そこへ客たちが次々に入ってきた。第一集の中津川の宿屋のご主人である橋田さん。第二集の福島郡山の農園主、武田さん、第三集の谷川の高校の先生で神主さんの伊丹さん、第四集の八王子の地主、室井さん、第五週の伊勢原豆腐料理屋の秋山さん、第六集の現代音楽の字頭さん、第七集の千葉の野田さん、第八集の長崎対馬の乙成さん、第九集の神峰さん、なぜか順番に入ってきて、順番に私の隣から座った。私は一人一人と眼を合わせお辞儀をした。あの有名な字頭さんとは初めての対面である。それにしてもここで皆さんと会えるとは思っていなかったので、とても感激である。
 私の前には笑子さんと粒子さんの席、それ以外に席が二つ空いている。第十集の髙橋さんとだれだろう。
 「皆さん、よくいらっしゃいました。もうすぐ始めたいと思います。シェフのブルノです、今日はとっておきの茸料理に腕をふるってもらいます」と笑子さんが、すらっとした茶髪の目の青い青年を紹介した。アランドロンに似ていなくもない。この男が髙橋さんがたのんできてもらったフランス人だ。彼はちょっと照れているように笑みを浮かべ、腰をかがめて頭をたれた。
 シェフは厨房に下がった。笑子さんと泣子さんは椅子にに腰掛けた。私の前と粒子さんの隣が空いている。
 その時、髙橋老人が入ってきた。お嬢さんの木野子さんが一緒である。付き添いで来たのだろう。
 髙橋老人は「先日は来ていただいてありがとうございました」と私の前に座り、木野子さんは泣子さんの隣に座った。
 笑子さんが「パパ、皆さんそろっているのよ、ご挨拶よ」そう言った。
 私はえっと耳を疑った。髙橋さんを笑子さんがパパと呼んだ。驚いている間に、髙橋老人が立ち上がって、
 「皆さん、久しぶりですな、笑子と泣子がお世話になっております、今日は井原先生を迎えて、これからのこともご相談しようと思いましてな、この会をもようしたしだいです」と話し始めた。
 なんだか、不思議な展開になって来た。笑子さんと泣子さんは髙橋さんの娘、木野子さんの姉になる。それに、ここに集まった人はもう知己のある人々のようだ。私だけ、何も知らないという状況である。
 シャンパンが運ばれて来た。髙橋老人の音頭で乾杯をした。
 私がびっくりした顔をしていたのであろう、笑子さんが、
 「驚かれたでしょう、パパが先生を驚かそうと企画したんです。実はお願いがあって、後で父が言うと思います」と声をかけてくれた。
 ウエイターとウエイトレスが好みの飲み物を聞きに来て、注いでいく。
 盛りあわせのパンとオードブルがでてきた。三種類あった。笑子さんがみなに説明をした。「パルメザンチーズに月夜茸、毒笹子のアヒージョ、それに、苦栗茸のアボガド和えです」
 なんてことだ、毒茸じゃないか。あっけにとられていると、みんなが口にしている。髙橋老人などはこれは旨いなどと言っている。
 大皿にサラダが盛られてきた。
 「大笑い茸と編笠茸、天狗茸のサラダです、係りのものが取り分けます」
 編笠茸だって生食は中毒する。しかし、周りは平気だ。私もやっとオードブルに手をつけた。味はすこぶるよい。皆さんはサラダを旨そうに食べている。
 「サラダのソースもこれは茸で作ってますな」隣の席の橋田さんがささやいた。
 「サラダのソースは毒山鳥茸からつくったものです」笑子さんの声が聞こえる。
 なんだこれは、ちょっと怖くなったが、周りは全く気にしていない様子である。ということは、この会のちょっとした余興的なものなのかもしれない。
 私もサラダをとって食べた。とてもうまい。
 スープが出て来た。
 「袋鶴茸と毒鶴茸のグリンピーススープです」
 色も綺麗だ、もう気にしないで匙を取った。それにしても茸がいい味だ。白葡萄酒をたのんだ。
 「魚料理がでてきます。平目のムニエルに火焔茸のフリッターそえ」
 火焔茸だって、冗談じゃない。
 出てきたのは、バター炒めの平目の脇に、火炎茸が薄い衣をつけて揚げられたのがのっている。綺麗なことは綺麗だ。火焔茸を触ると皮膚がただれ、胃腸が腐り、脳が萎縮するという。
 「これは最高だよ、先生」
 髙橋老人がホークを火焔茸を差して口に運んだ。口の中に火炎茸が入っているうちに平目もいれた。
 「おー、ほっぺたがおちそうだ」
 髙橋老人の目は蕩けそうである。白葡萄酒をぐっと飲んだ。私も同じようにするしかないと思い、やってみた。これが旨い。なんと言っていいのだろう、わからない。ただ旨い。
 オムレツが出てきた。
 「柿占地と一本占地のオムレツよ」
 みんな毒茸だが、本当は食べられる茸を加工しているのだろう。オムレツなど最高である。
 赤葡萄酒がでてきた。茸の絵のラベルが張ってある。
 「皆瀬牛のステーキです、焼加減はこちらで決めさせていただきました。皆瀬牛が一番美味しい焼き方です。ミディアム寄りのレアーかしら」
 見ると厚切りの旨そうなステーキの脇に猛毒の赭熊編笠茸のソテーがついている。
 ナイフでステーキを切って口に入れた。美味しい肉だ。焼加減もいい。赭熊編笠茸も切って口に入れてみた。アミノ酸が豊富だ、肉に良く合う。
 「おいしいですね」
 私もつい口に出した。赤葡萄酒を飲んだ。
 笑子さんが嬉しそうに笑った。
 「デザートです、紅天狗茸のアイスクリームとメロンがでます。珈琲、紅茶、緑茶なんでも結構ですから係りの者におっしゃってください」
 「その前に、わしゃ、ウイスキーが欲しいな、ユーリーはないか」
 髙橋老人が声を上げた。
 「そうでしたわね、でもパパ、デザートの後でいいでしょ、井原先生にお話しするとき」
 笑子さんが老人をたしなめた。私に話しってなんだろう。
 「おーそうか」
 ということで、紅天狗茸のアイスクリームを食べた。なぜか気分がよくなった。
皆が終わったころ、髙橋老人が立ち上がった。
 「どうでしたかな、みなさん、この毒茸の料理うまかったでしょう」皆頷いた。
 「その、メニュウーの紙に書かれている茸をすべて使いましたのじゃ」
 毒茸ならもうおかしくなっているはずであるが、からだはむしろ軽くなったように気持ちがいい。本当に毒茸だったのだろうか。
 「実は、毒茸の毒を抜く方法を見つけましてな、すべての毒茸は無毒にして食べられるようになりました。その方法はちょっと複雑でしてな、覚えるのは大変かもしれませんが、あのブルーノはできます。河豚も毒の部分をとればとてつもなく旨い魚。それと同じに、毒茸の毒を抜けばとても旨い茸であることがおわかりになったでしょう。この方法を免許制にするように今厚労省に働きかけています。茸によってちょっと違ったことをしなければなりませんので免許が必要ですのじゃ。薬品で一遍に毒を抜くことのできる毒茸もあります。それなんぞを使うと、未来の食糧難が解消されますぞ、それでこれから娘の木野子が会社を立ち上げますのでよろしくご援助願いたい」
 木野子さんが立ち上がってお辞儀をした。無口な女性である。皆が拍手を送った。
 「それじゃ、食後酒といこう、皆さん好きなものを言ってくださいよ、冷酒だってありますぞ」
 と言ったので、皆が好きなものをたのんだ。私は髙橋老人と同じ物をストレートでと言った。ウイスキーは好きである。髙橋老人がユーリーと言ったのはグレンユーリーローヤルというシングルモルトで、すでに蒸留所がなくなった、貴重なウイスキーである
 いきなりウエイトレスが倍になり、あっというまにテーブルの上が片付けられ。食後の飲み物の用意がされた。
 髙橋老人が「ちょっとあれを見てくだされ」とテーブルの先にあるカーテンを指差した。皆が一斉にそちらを見ると、壁のカーテンが上がり、ちょっと奥まったところに、大きな茸のランプがあった。明りがついている。
 諏訪の北澤美術館にはガレの一夜茸のランプがある。大きさは同じくらいだが、ここの茸は編笠茸だった。三本の編笠茸が組み合わさって、黄色っぽい光を放っている。
 「ガレですか」
 「残念ながら、ガレではないのですがな、フランスの若手のガラス工芸家につくってもらいました。ダレです」
 冗談のような名前だ。いや本当に冗談かもしれない。
 ウイスキーを口にした。いい香りがする。ずい分強いウイスキーだ。58度だと後で知った。樽だし、すなわちカスクで、水で薄めていない酒である。
 「さて、井原先生以外の方たちには話してある通りです、これから草片書房を本格的に立ち上げて、茸にまつわる雑誌を作り、本を作っていきたいとおもっとるのです。もちろん草片叢書もこれから続けていくが、毎月きちんと出したい。皆さんはこれからも茸作家として参加していただきたい。
 それで、井原先生」
 髙橋老人は私を見た。
 「先生に草片出版の頭になっていただいて、雑誌の編集長として娘を助けくださらんか。茸の旅行記なども書いていただきたい。いろいろなところの茸伝承を集めたり、書き手を探したりお願いしたいのですがいかがでしょうな」
 私は面食らってしまった。もうお役目は終えて、余生をいくばくかのたくわえで、おとなしく暮らしていこうという消極的な生き方を選んだのだが。
 私が考えていると、集まった人からも私に依頼の声が掛けられた。
 「井原先生、先生の筆の力をここで終わらせてしまうのはもったいない、是非、娘たちを助けていただきたい」
 笑子さんと泣子さんも立ち上がって私に頭を下げた。
 もう断れない雰囲気でもあるし、なぜか頭がうきうきしていて、楽天的な気持ちになっていた。
 私は「私でよければ喜んで」と答えていた。
 「おー、ありがたい、よろしくお願いします」
 髙橋老人が頭を下げた。三人の娘も頭を下げた。皆の拍手が遠くに聞こえた。何で気持ちがいいんだろう。これで、また死ぬまであのしち面倒くさい編集をすることになるのに。
 どうしてその気になったのか。
 笑子さんが「デザートのアイスクリームは紅天狗茸をそのまま使いましたのよ、紅天狗茸は毒茸じゃないんですもの、毒を抜く必要ありませんわよね」
 と笑った。
 笑子さんと泣子さん、それに木野子さんまでも、紅天狗茸に見えてきた。髙橋老人は天狗茸だ、皆さんはどうみても笑い茸である。
 この物語も、きっとこれで終りなのだ。

この物語に出てきた本や店、それに旅館は実在するものもあり、フィクションでもあります。くれぐれその点、お忘れなきようお読みいただきたく思います。関係する方々には、勝手に名前を使わせていただいたことご容赦のほどお願いいたします。筆者には忘れられないすばらしい本、店、宿でした。

茸の晩餐―茸書店物語10(最終)

茸の晩餐―茸書店物語10(最終)

その温泉郷の山の中に、不思議な箘輪があった。異なった種類の茸が輪になって生えているのである。いったいそれはなにか?。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-03-12

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