俺の甥っ子

福田

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1

甥っ子が来た。
俺の、戸籍上の姉の子ども。
仲が良かったのは再婚同士の両親だけで、その両親が死んだ今は、最早、他人の女の子ども。
懐かしい中学生の夏服を着た、痩せっぽちの甥っ子は、リュックを両手に持って、俯いていた。
「母におじさんのとこに行けって言われて……来ました」
ぽつぽつと言葉を足元に落とすように話されれば、無下に追い返すわけにいかない。
「とりあえず、上がりなよ」
甥っ子は、ひとつ、頷いた。
にしても参ったな。家汚いのに。
とっ散らかした服とか下着を端にやって、テーブルの前に甥っ子を座らせる。
「なんか食う?」
「え……だ、大丈夫です……」
言ったそばから、ぐぅ、と何かが鳴った。甥っ子の顔は真っ赤になった。
「ま、俺食うからついでに作っちゃうな」
男飯、チャーハン。
テキトーに皿に盛って、甥っ子の前に出す。
「はい」
「ありがとうございます」
麦茶は出涸らしで、透明なコップに薄茶色の水を注ぐ。
「あいつ、いつ帰るって?」
甥っ子は、スプーンを持って、頭を振る。
ちっ、あいつ、親失格にも程がある。
「あ……俺、食べたら出ていきます」
しまった。舌打ちを勘違いされた。
「違う違う! 君にしたんじゃなくて、あいつにしたんだよ」
甥っ子はスプーンを持ったまま、チャーハンの米粒を見つめている。
「君にはあれだけど、やな女だよな。俺、君の名前も知らないのに」
うん、と、甥っ子は頷く。
「名前、なんだっけ」
「秋人です」
「成悟です。よろしく」
「はい……お願いします」
口の中で、チャーハンはベチャベチャした。
秋人も同じだったようで、少し顔をしかめながら、出涸らしの麦茶を飲んで、また顔をしかめた。
意外と、表情豊かな子なんだな。
「まあ、好きなだけいなよ」
「ありがとうございます」
「敬語もなくていいから」
ささっと目を泳がせて、秋人は頷く。
「あれ、学校は東雲中?」
「はい、あっ……うん」
「あはは。真面目だね。そこ俺も通ってたんだ。後輩だ」
秋人は小さく笑った。
「学校、近くでよかった。俺、車持ってないからさ」
「……あ、自転車、止まってたやつ」
「そうそう。あれ、俺の愛車」
「愛車」
今度は、ふふ、と笑う。
「学校は楽しい?」
一転して、秋人は首を振った。
「そっかぁ。まあ、死にやしないから」
「はい」
控え目に、彼は頷く。
そうすることを強いられた生活が目に見えて、心が痛くなった。

2

戸籍上の姉とは一つ違いだった。
両親の再婚で、俺はあいつの通う学校に転校した。
俺が知っている姉は、他人にチヤホヤされないと気が済まない女だった。だから、チヤホヤしない俺を、あいつは気に入らなかった。俺が同性愛者だと噂を流したのは、その罰のつもりなんだろうと思われる。幸い、俺はクラスメートのヤンキーと仲良くなったから、すぐにもみ消して貰えたが、そうでなければどうなっていたかと思うとゾッとする。
だから、俺はあの女が嫌いだ。人の人生を平気で踏みにじる女。秋人が一番の被害者だ。どうして俺に預けてきたんだか知らないが、自分の息子ですら、躊躇わずに捨てられる。本当に、人間なのかすら怪しい、鬼畜外道の女だ。

「来るな!」

そんな声で目が覚めた。襖を開けると、台所に立って、ベランダ側を睨む秋人がいる。
「どした、大丈夫か?」
振り向いた秋人は、決まりが悪いような顔をした。
「あっ……だ、大丈夫です」
「そう。おはよう」
「お、おはようございます」
秋人は、そそくさと洗面所へ行く。
来るな、からの大丈夫?
分かりやすい誤魔化しだけど、一体、何を誤魔化したんだ?
入れ替わりになって、台所からベランダを覗く。狭いベランダには何も無い。
動物も人間も何も。
秋人は学校の準備。俺は仕事の準備をして、アパートを出る。
「じゃっ、気張れよ。行ってらっしゃい」
「あ、い、行ってきます」
動揺しながら秋人は言った。
どんな人生だとしても、挨拶すら戸惑うなんてことはないだろう。
可哀想な秋人。
同情するのは失礼極まりないが、どうしたってそう思ってしまう。俺が何か出来ればいいんだけど……。

「おじさんも行ってらっしゃい!」

後ろから、秋人の声が追い抜いてきた。
俺は自転車を止めて、振り返る。
「行ってきま〜す!」
そう返すと、遠くて表情は見えないが、秋人は俺に手を振って、駆けて行った。
本当に、何とかしてやりたい。こんなことを思うのは初めてだ。どうしてだろう。
……甥っ子だから?
あいつとは、戸籍上だけでも繋がっていることが嫌でたまらなかったのに。
俺は……一体、どうなりたいんだろう。

仕事が終わって、買い物に行くのは俺の日課だ。その道すがら、いつも、懐かしい思いで見ていた東雲中の学生たちが、今日は何だか複雑に見える。
どいつが秋人と同級生なんだろう。
どいつが秋人の青春をつまらないものにしてるんだろう。
「やめろよ!」
不意に聞こえたのは、秋人の声だった。朝と同じ、切羽詰まったような声。
秋人は、橋と呼ぶには短すぎる欄干の、下にいた。
話している誰かは、欄干を支える柱の影になっていて見えない。
「秋人〜?」
声をかけた。
秋人は、振り向いて俺を見た。それから、また影を見て、口を動かす。
何て言っているかは聞こえない。
そもそも、あそこには誰がいるのだろうか。それは、俺の家のベランダにもいたのだろうか。覗いた時にはいなかった。一瞬で二階の部屋のベランダに登り、降りるなんて芸当が出来るのは、人間じゃないか忍者しかいない。でもそんなのどっちもありえない。
秋人は谷を登って、欄干を通って、俺のところへ来る。
「なんかいた?」
「えっと……猫、猫がいた」
分かりやすく目を泳がせて、秋人は答えた。
「そっか。今日はカレーだぞ。カレー好き?」
「うん」
「よかった。後ろ乗りな」
秋人は戸惑いながら、自転車の荷台に、恐る恐る乗った。
「よし、行くぞー!」
後ろにかかった体重の分、大きく地面を蹴る。
「うわっ!」
ぐん、とかかる慣性に、秋人が俺の肩を掴む。
暑い日に感じる背中の熱が、どうしてこうも愛おしい。

「うわぁぁぁー!」

風呂場にいる秋人の悲鳴に、俺は急いで、風呂場の磨りガラスを叩いた。
「秋人、大丈夫か?! 開けるぞ?」
「だっ、大丈夫! 虫がいて。ごめんなさい」
ガラス越しにモザイクの肌色が動く。
「む、虫?」
「はい、ごめんなさい」
そんな風に必死に謝られたら、俺はどうしたらいいんだろう。
すごすごとリビングに戻って、テレビを見る。芸人のリアクションより、秋人が気になる。
虫? 確かに夏の風呂場には虫がよく出る。だけど、あんな悲鳴をあげて、次には大丈夫なんておかしくないか。いや、ダメだ。疑心暗鬼みたいだ。秋人を信じてやらないでどうする。そんなの、あいつみたいじゃないか。
「はあ……どうしたらいいかな」
ため息をついた時、風呂場から秋人が出てきた音がした。しばらくして、タオルを頭から被った秋人がリビングに出てくる。
「驚かしちゃってごめんなさい」
俺の前で正座をして、秋人は頭を垂れる。
「こっちも虫でるって言わなかったから、びっくりさせちゃったな。ごめん」
タオル越しに頭を撫でた。
坊主が似合いそうな良い頭の形。
「疲れたよな。昨日の今日だし。髪乾かしたらもう寝な」
秋人は頷いた。
「ごめんなさい。迷惑かけて」
「大丈夫。謝らない」
また頷く。酷く悪い顔色をして。
何を言っても、秋人には響かない感じがした。響かないほど、その心に何が詰まっているのか。きっと、姉は分からなかった。そして、俺も分からない。胸糞悪い。俺は姉とは違う。だから、秋人を理解するまで、そばに居たいと思うんだ。

3

首が痛くて目が覚めるなんて最悪だ。
「いてて。寝違えたか?」
回せない首の辺りを揉みながら、コーヒーをすする。
「おはよう、おじさん」
寝室から出てきた秋人は眠たげだ。
「おはよう」
目が合うと、秋人の顔色が真っ白になった。
「あっち行け!」
「えっ」
「あっ、今のはおじさんに言ったんじゃなくて、その、ごめんなさい」
「な、なんだ。寝ぼけてんの? あはは」
俺が笑っても、秋人はバツの悪い顔をするだけだった。
やっぱり、秋人は様子がおかしい。まるで、見えないはずの何かが見えているような……。でもそんなこと、現実的にありえない。妖怪は、自然現象と病気の擬人化だし、幽霊はプラズマや残像だって、もう学術的に証明されてる。人間特有の豊かな想像力や錯覚による幻だと。それが日常的に見えている秋人は、一体、何なんだ?

「虚言癖だな」
相談した主任は言った。
「虚言癖っすか?」
主任は頷きながら、電子タバコをふかす。
「だってお母さんから捨てられたようなもんだろ」
「まあ、不安はあると思います」
「こっちが気にするとクセになるから気にしない方がいい」
「うーん」
虚言癖。こんなに都合の良い言葉はない。あいつを母に持つ生活も、確かに不安だったろう。不安が幻を呼ぶなら、秋人の中で、それがクセになってしまっていても不思議じゃない。だけど、どうにも引っかかる。いつも長引く寝違えがもう治っているのと、秋人が怒鳴ったタイミングは、果たして、偶然、なんだろうか。

「ただいま〜。ごめん、遅くなった」
玄関を開けると、秋人の靴がなかった。
「あれ、いない?」
今日は土曜日。学校は休みだ。どっかに出かけてもおかしくない。でも、だとしたら、真面目な秋人だから連絡を残すと思うけど、携帯には何の連絡もない。
あいつが迎えに来た? いや、それだって連絡するはずだ。でもあいつのことだから、秋人の退路を断つために俺の連絡先を消させたって線もある。だけど、もしも、もしも、幻が本物だとしたら……あぁ、頭がぐちゃぐちゃだ。
急いで、階段を駆け下りる。と、駐輪場に、秋人がいた。
「あ、秋人!」
「おじさん……おかえりなさい」
近付くと、土と草の臭いがした。
「お前……お前、これどうした?! 何して来たんだ?!」
思わず、秋人に詰め寄ってしまう。それくらい、秋人は土と葉っぱで汚れていた。ヤンチャならまだしも、秋人みたいな大人しい子には似合わない汚れ方だ。
「あ、えっと」
間を埋めるように、秋人は、Tシャツの汚れた部分を叩く。
「猫を、助けてた。木にいて降りれなくなってたから」
「本当に?」
顔を上げた秋人の肩を掴む。骨が浮いた、狭い肩。
「誰が心配してんだって思うかもしれないけど、心配だよ、秋人。何かあるなら相談してくれ。俺は親じゃないからメンツもプライドもないし、お前の母ちゃんに教える義理だってないんだ。だから、何かあるなら……頼む」
頭を下げると、秋人のスニーカーが見える。履き潰す寸前のスニーカーのつまさきに、笹の葉が乗っている。笹なんて山にしか生えてないだろ。
俺の手に、秋人が触った。夏なのに冷たい手だった。
「ごめんなさい。でも、何もないよ。本当に。本当に猫を助けてたんだ。つい夢中になっちゃって。心配かけてごめんなさい」
すする鼻の頭には泥がついていた。
また猫か、なんて。困ったように笑って、心配かけまいとしてる子どもに誰が言えるのか。
「そっか……ならいいんだ。お前、猫好きなんだな」
鼻の泥を指で取ってやると、秋人は笑顔になった。
「うん。猫はかわいいよ」
「そうだな。今日はソーメンにしたよ。暑いから」
「やった。食べたかったんだ」
「そうか。良かった」
普段より饒舌な秋人に、複雑な思いを抱いてしまう。
慣れてきたのか。さっきの俺の言葉がお前に響いた? それとも、その逆? もう心配させるわけにいかないから、心を閉ざしてしまったのか?

4

雨が降っている。サイレンと共に、増水警報が流れている。あれはいつもの小さすぎる謎の橋。その下の川辺りに座って、増水した川を眺めているおばあさんがいる。
「大丈夫ですか?」
おばあさんに話しかける。傘をさす隙間から見えるおばあさんは、骨と皮ばかりに痩せていて、まるで羅生門に出てくる老婆のようだった。よく見ると、さしている傘は古びていて、所々に穴があいている。
あぁ、しまった。と、思った。
「疲れてしまってねぇ」
おばあさんは、しわがれ声で言った。
傍で、ごうごうと川がうねっている。
「家に帰るんですか?」
ここで引き返すのは、経験上、よくなかった。人間だと思って話しかけた体でいないと、後々、面倒になる。
「家じゃないさ。あの人のところ」
ぐるり、と、おばあさんは顔を上げた。
痩せこけた輪郭におかめみたいな顔。細い両目も微笑む口も真っ暗だ。
「なあ、優しいお前さん。あの人のところに連れて行ってくれるかい? 山をずっと真っ直ぐ行けば着くんだけどねぇ」
山を振り返る。こんな大雨の日に山は、いくら何でも自殺行為だ。
「警察に行きましょう。雨だから危ないです」
差し出した手を思いっきり掴まれた。
「痛っ!」
細い爪が食いこんで、ギリギリと聞いたことも無い音がする。
おばあさんの顔は、おかめから般若に変わっていた。
「いいから行くんだ。お前が誰か、私はよぉく知ってるよ。親切にしてくれたら、お前のことを安全に帰してやる。だから早く行くんだよ。私をあの人のところへ連れていくんだッ」
「連れて行く、連れて行くから、離してくれ!」
急に手を離されて、尻もちをついた。
おばあさんは立ち上がる。傘にあいた穴から降ってくる雨に、おばあさんは濡れていない。
人間の振りをして狙ったか……。
知恵があり、力もある。相当、厄介なやつに手を出してしまった。
いつもそうだ。今度は関わらない関わらないと思っているのに、もし、人間だったらとか本当に困っていたらとか考えてしまって、手を出して、こうなる。
雨のせいでぬかるんだ山道をようやく登って、拓けた場所に、一本の大木があった。立派な老木、だったもの。太い幹は穴だらけで、自分の重さに耐えられず、傾いている。
「あぁ、やっと会えたよ、お前さま」
おばあさんは木に向かって駆けて行った。
やっと帰れる。でも、スニーカーは茶色すぎて真っ黒だ。あ、ズボンも。どうしよう。お母さんに叱られる。帰ってくる前に洗っておかないと……。
「指輪がない」
顔を上げた。般若の顔が、すぐ目の前だった。
「お前ぇ〜っ!」
あまりの声の大きさに頭が真っ白になりながら、咄嗟に、傘を振り回した。ぼん、と、何かが当たった感触。
おばあさんだったモノは、奇声をあげる。
「私の指輪、あの人の指輪を盗んだな!?」
背筋が凍った。
「ぬっ盗んでない! あんたが落としたんだろ!」
「いーや、盗んだ盗んだ! お前が盗んだんだッ」
ヒステリックにソレは叫んで、振り回した傘が吹っ飛んで行った。
バチッと顔が弾かれて、気がついたら、泥の坂を転がっていた。
回転が終わってから、全身、泥だらけで、走った。全力で走った。
後ろから、木の根のように這う声が轟く。

「いいか、人の子。今からひと月経つまでに、指輪を返せ。出なければ、お前の周りの人間から呪って、最後にはお前を食ってやるからな。忘れるな忘れるな忘れるな、指輪を返せ、指輪を指輪を指輪を、指輪を返せぇぇぇぇぇぇぇっ!」


……なんだ、夢か。全身が汗だくだ。Tシャツの襟をつまみながら、秋人を見る。
隣の布団で秋人は、静かに寝息をたてている。
起こさないようにそっと襖を開けて、台所に向かう。
コップに注いだ水道水を飲みながら、ベランダに目をやる。
誰もいない、何もいない。狭い無機質なベランダ。
「うーっ、うぅーっ」
寝室に戻ると、秋人が魘されている。バタバタと腕と足を振り回して、何かを拒絶するような動きだった。
「秋人」
肩を揺する俺の腕を掴んで、秋人は苦しげに唸る。尋常じゃない苦しみ方だ。
「起きろ、起きろ、秋人!」
強く揺さぶると、秋人の目が虚ろに開いた。瞬間、その目が大きく見開かれて、俺は突き飛ばされた。
「触るな!」
叫んだ秋人は息を荒くしながら、周りを見て、夢であったことに気がついたのか、今度は俺を見て、泣きそうな表情になった。
「あっ、あ……ごめんなさい、違くて……ごめんなさい」
ごめんなさいを連呼しながら、秋人は顔を覆ってしまった。
「あぁ、秋人……」
抱きしめた体は酷く痩せていた。
「大丈夫だよ、大丈夫」
震える背中を擦る。
「ごめんなさい、おじさん。俺のせいで。ごめんなさい。何とかするから。嫌いにならないで」
秋人は、手の隙間から、嗚咽を混じらせながら言った。
嫌いにならないで。
なんで子どもがそんな悲しいことを言うんだろう。植え付けたのはあいつか? それとも、周りの環境か? 俺は何も分からない。
「何もしなくていいよ。いてくれればいいんだよ。大丈夫だよ、秋人、な、大丈夫」
気休めの言葉しかかけられない自分が不甲斐ない。
それでも、ずっと抱きしめて、背中を撫でていると、秋人は少しづつ落ち着いていった。
「指輪を、見つけないと」
秋人は言った。
「指輪?」
体を離すと、秋人は眠っていた。
泣きすぎて疲れたらしい。無理もない。秋人はまだ中学生だ。
寝ている秋人を布団に寝かせて、頬に残った余韻の涙を指で拭う。
指輪。
頭の奥にこだまする、悪夢の声は、指輪を返せと言っている。
そういえば、こないだ、酷い大雨が降った。そうだ、あの欄干。秋人はその下で誰かと話していた。スニーカーについた笹。土の汚れ。山に行ったのは間違いない。夢にも山が出てきた。化け物に襲われて、転げ落ちたあの山。
「まさか」
いや、そうだ。そうでなければ、俺の夢に出てきたワードを、どうして秋人が言う?
ありえないとか、理由付けはこの際、置いておこう。
俺は秋人の思い出を見たんだ。
だとしたら、秋人は、あんなに恐ろしいモノを毎日見ている。あんなに恐ろしいモノから、俺を守ろうとしている。こんなに痩せた体で、叔父とはいえ、見ず知らずの俺を。

5

帰宅中の中学生たちがクスクスと笑っている。
指をさしながら通り過ぎていく。
欄干の下を流れる川に入って、何かを探している秋人を。
髪が、服が濡れるのにも構わないで、必死の形相で探している秋人を。
事情を知らないやつらが笑う。
知ろうともしない親が見捨てる。
虚言癖だと見知らぬ大人が憐れむ。
もう十分だろ。秋人に、そんなのはもう十分だ。
俺はあいつらとは違う。違くありたい。秋人のことを何も知らないけど、ただただ、寄り添う大人でありたい。だって、秋人は、自分より他人のために動ける、とても良い子だから。
俺の、たったひとりの甥っ子だから。
俺は自転車を降りた。脱いだ靴に靴下を突っこんで、谷を下る。
川の水は夏なのに、凍えるくらいに冷たい。
じゃぶじゃぶ、と、足が水の流れを切る音に、秋人が顔を上げた。
「おじさん?! なんで」
「指輪だろ? どんな指輪だ?」
申し訳なさを抱かせない。真っ直ぐに秋人を見る。
「さ、先に赤い石がある指輪……」
「赤い石だな、分かった!」
透明な水だ。だが、流れのせいで、下にある石の色が掴みにくい。これでもない。あれでもない。石の隙間から溢れる砂利をさらって、指輪を探す。
足は感覚がない。指先は痺れて真っ赤だ。腰も痛いし、背中も張ってきた。それでも探す。探さなければ。
時間は分からない。夏の空が赤く焼けて、その向こうから帳が降りてくる。早くしないと、水面の底が見えなくなる。
やけくそにどかした大きな石の下で、チカッと何かが光った。
「あっ?!」
光を摘んで、水から掬う。赤い石がついたシルバーの指輪だった。
「あった、あったぞ、秋人! あったー!」
「本当?!」
水をかき分けて、秋人に近寄る。
「ほら」
秋人の手のひらに、指輪を置いた。チカチカ、と、赤い石が奇妙な光り方をする。
それを握って、秋人は、向こう岸に歩いていく。雑草を踏んで、道へ登る。
秋人は何かを、誰かを見ていた。
俺には見えない存在に、手のひらの指輪を見せる。
「指輪を返す。もう俺の大切な人に手を出すな!」
その時、風が吹いた。
強い風が、耳元で唸る。
その奥に、囁き声を聞いた気がした。
「おじさん」
道から降りてきた秋人は、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい。俺、おじさんにいっぱい迷惑かけて。本当にごめんなさい。俺、あの」
「謝らない。言ったろ」
俺が笑うと、秋人も笑った。憑き物が落ちたような笑顔だった。
「帰ろう。今日はトンカツだ」
川からあがって、靴を履く。秋人も、俺の横でスニーカーを履く。
「聞かないの?」
「何を?」
「いろいろ……」
「秋人が話したくなったら話しなよ」
俺は秋人を見る。
秋人は、頷いた。いつものように浮かない顔じゃなくて、照れたようにはにかんで。
「うん……ありがとう」
「ほら、後ろ乗りな」
秋人は自転車の後ろに飛び乗って、立ち上がった。思いっきりかかる体重によろけながら、ペダルを踏みこむ。
「うわわっあぶねえ! あははっ」
「あはははっ、わぁ〜あはは」
楽しげな秋人の笑い声を聞きながら、俺は鼻をすすった。
常人には見えない世界を見て生きている俺の甥っ子。
俺の、自慢の甥っ子だ。

俺の甥っ子

読んでいただき感謝です。見える人目線の作品が多いので見えない人目線で書きました。優しいお話にできたと思いますし、皆様もそう思ってくれていたら嬉しいです。感想等はTwitterにてお待ちしています。お気軽に。

俺の甥っ子

甥っ子がやって来た。俺が大嫌いな姉の元に生まれてきたのを哀れんで、しばらく泊めることにしたが、甥っ子の様子がどうにもおかしい。普通なら見えない何かが見えているようだった。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-03-12

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