原発の儚 2️⃣1️⃣~2️⃣3️⃣
原発の儚 2️⃣1️⃣~2️⃣3️⃣
2️⃣1️⃣ 繭子
ここで、広野に横恋慕の言いがかりをつけられた上に、原発ベント室の情交で恐喝され、奥崇には捜査の法を越えて追及されている、女の容貌を明らかにしよう。
女の名は繭子という。四七歳だ。去年、夫について初めてF町に来た。夫は首府電力本社からF原発に転勤して、人事部次長である。労働組合対策の責任者だ。
繭子は敗戦のあの夏は、ニニの寡婦だった。夫は一年前に南洋で戦死していた。
西の国のヤマグチの出身で、父親は職業軍人だったが、敗戦の年の初冬に自裁した。母が突然に病死して、僅かに一月後の事だった。
四人兄姉の末っ子だが、兄二人はいずれも戦死して、姉はヒロシマに嫁いでいて、原爆で殺された。
繭子の出自は西の国だから、その血に半島や大陸の由来はないのか。未だ、明らかではない。だが、戦争責任を問われて重要戦犯の判決を受けたものの、間もなく政界に返り咲くや、総統にまで上り詰め「妖怪」と呼ばれた岸井総統の出身地とは近隣で、岸井の集落は半島と密接な因縁があるのは、聞こえた公然の秘密だったのである。
繭子は女学校を出ると、地元の紡績会社で働き、二十で幼馴染みの男と結婚した。夫はニ三で、中農の自作農の跡取りだった。
それまでの繭子の男性経験は、夫を含めて両手に迫る具合で、幼い頃から多情な女だった。八歳の時の初めての相手は、幼馴染みの夫である。
義父母があったが、嫁いですぐに、義母は病死してしまう。
一年後に召集された夫は、すぐに南洋で戦死して、遺骨も届かなかったから、餓死や病死の疑念が、女には残り続けた。繭子はこの時から、密かに反御門の女だったのだ。
夫が戦死した後には義父と二人暮らしになったが、五〇に近いばかりの頑健な男やもめと、若い寡婦が肉欲の虜になるのには、それ程の時間は必要なかったのである。
義妹の二人はそれぞれが嫁いでいたが、繭子は、一人の義妹の夫とも関係を持っていた。
そうした忌むような日々の果てに、女は敗戦の日を迎えたのであった。
そして、父が自決すると間もなく、ある日に、ある訪問販売員が現れて、驚くほどの性戯で、たちまちの内に、女を俘虜にしてしまうのであった。そして、天涯孤独に墜ちていた繭子は、その販売員の元に出奔したのである。
敗戦直後の混乱は、復興への兆しの一方で、貧困や退廃が極まり、エログロ文化やヘロインなどの黎明でもあった。繭子はその只中に身を置いたのである。しかし、爛れた生活は短かった。
身体も心も散々に弄ばれた挙げ句に捨てられた女は、絶望の果てにあった。その時に、あの『宗派の儚』の倫宗と巡りあって救われたのである。果たして、あの夏や翔子などとも接点があったのだろうか。
繭子は倫宗のある僧侶と関係して、執政の名目で男の寺に入ったが、事実は妾である。ニ四の時だ。
この四〇に近い僧は反草也派の幹部で、金貸しやでたらめ占いなどに血道をあげる極道だった。離婚して三年で、一五になる一人息子があった。
ある日に、女がある男と性交しているのを、たまたま目撃したその息子が、男を撲殺してしまう。女は息子を抱擁しながら、二人で遺体を寺の墓地の奥深くに隠した。
すぐに、息子は遠い他県に進学して行く。間もなく寺が焼失して僧は焼死したが、女はやにわに逃げて無事だった。教団本部が出動して対応に当たり、警察の捜査の結論は、泥酔した僧の煙草の不始末というものであった。息子には多額の生命保険が支払われた。僧が隠匿していた金品は、教団が残らず回収したのである。女がニ六の時の出来事である。
その翌年に、繭子は人の薦めで、電力会社に勤める男と再婚した。女がニ七、男は三四であった。
すぐに娘を一人もうけて、今は二十。大学生だ。夫は五三。去年、本社からF原発に転勤して、人事部次長である。労働組合対策の責任者だ。
繭子が夫の同僚や部下の数人とも関係しているという噂が、密かにある。
原発のベント室で交接して、広野の配下に目撃されたのは、果たして、この女なのか。相手の男は夫なのか、別な誰かか。陰湿な公安刑事、奥崇の究明は始まったばかりなのだ。
女は中背。年齢に相応しい豊潤で弛んだ肉体は、完熟の風情すらある。身についた官能を隠すことなく発散していた。
転地したばかりの専業主婦だから、地域との接触もない。暇と肉欲をもて余しているのだ。多情で絶倫だが、夫との交わりは月に一回程度なのである。酒が好きで、とりわけウィスキーに目がなく、昼間から飲む。そして、よく眠る。自堕落なのか淫奔なのか。生来の性向なのか、環境がそうさせているのか。
性愛小説を読みながら自慰をする。マゾヒストだ。尻叩き、縛り、小水かけなどに興味を示す。名器だと言う男が数人いて、女も自認している節がある。
2️⃣2️⃣ 広野
さて、公安刑事の奥崇が探索する、もう一つの事件の解明は進展しているのだろうか。即ち、原発会社内に巣くった過激派労働組合の広野と、原発管理職夫人の不穏な関係が解析されたのかどうか。そして、この夫人の原発ベント室の奇っ怪猟奇の醜聞だ。いずれも、未だ、定かではないが、ここで、広野という男の容貌を描いておこう。
だが、この記述は、公安刑事の奥崇の密偵にのみ頼っているから、未だに謎も多い。
広野は三五歳。電気工ではない。プロの労働組合活動家である。いわゆる社会運動家なのだ。本人は革命家を自認しているから、厄介だ。原発経営陣が最も怖れる男の一人なのである。
全日本原発労働組合協議会事務局長。これが彼の肩書きで、飯の種だ。同時に、戦闘的少数第二組合のF原発労働組合書記長も兼務している。
また、革命党の党員でもある。この極左政党は、活動資金調達の一環として、敗戦直後の再建当初から、出版を手掛けてきた。エログロ雑誌や写真の製造販売のルートも持っているのだ。
読者諸兄は『異人の儚』の伊達と二人の女の、猟奇な写真による奇妙な生活をご存じだろう。あの生活を背後で組織的に支えたのが、この組織なのである。広野は写真が趣味だが、カメラの腕はプロはだしだ。果たして、広野と彼らの交差はあったのか。
広野は独身だ。結婚をしたことはない。だから、この男が原発管理職夫人に言っていた妻帯の話は、全くの出鱈目だ。
北の国の教員の次男だった広野は、徴兵拒否の男であった。二十歳の時に精神の病を偽装したのである。父親はアイズの教員だったが、『御門』制を否定し、面罵して拒絶する無政府主義者だったから、黙認した。
そして、広野は義妹と、思春期の頃から、ただならぬいきさつがあった。
この時、広野が、何故、御門国家の大方針に背いたのか。どの様にして徴兵検査を免れ、或いは、生活したのかなどは、一切が不明なのである。やがて、機会があれば、後述出来るかもしれない。
戦後、広野は隣県の北の国の雄都で、ある仕事について、労働運動に参画した。
間もなく、親戚のある男が引き揚げて来て、国家鉄道(国鉄)に入っていたが、この男が広野を国鉄に誘ったのであった。この男は『革命党』の党員だった。
革命党は、戦前から御門制と戦争に反対していたが、厳しく弾圧され、戦中のある時期から地下に潜伏していたが、とりわけ、北の国では隠然たる勢力を保っていた。賢明な読者諸兄は拝読の事と思うが、『宗派の儚』や『党派の儚』の群像達は、この党と、しばしば、交錯していたのである。北の国の独立を目指す『カムイ党』も、こうした歴程から生まれていた。
敗戦によって進駐してきた戦勝国の駐留軍は、様々な民主化政策を打ち出したが、労働組合も育成したから、戦後の労働運動は一気に花開いたのである。
特に国家鉄道は国民鉄道(国鉄)に改称され、大量の引き揚げ者を受け入れた。彼らは横暴な軍隊生活と惨めな敗戦で、すっかり反戦や反御門の風潮になっていたから、革命党の温床の様な有り様だったのである。
広野は直に国鉄の労働組合で頭角を表し、専従となった。そして、国鉄は全国運動の中心になっていく。
駐留軍は、当初、封建制を打破する民主化政策の一環として、労働組合の育成強化を打ち出したが、やがて、全国組織がゼネストを計画するに及んで、権力の保持に危機感を抱いた保守与党と結託して、一転して、弾圧に舵を切った。その最大の対象が、広野がいた国労だった。幹部、活動家が一斉に解雇された。いわゆる『赤色パージ』である。この弾圧を、駐留軍の指示で進めたのが、あの廣山であり、配下の相馬である。
××年に『松山事件』が起きた。広野はパージされたばかりで、捜索対象者だったから、地下に潜伏した。この一大冤罪事件は、数年後の一審で全員が無罪になり、広野の身辺も、ようやく穏やかになったのである。
この男は意外な場面にも出没している。賢明な読者諸兄は、『処女懐妊』の短編は拝読されただろうか。あの広野は同一人物である。あの一編は、広野が潜伏中のひとこまであった。
それでは、路上でカルト宗派の宣伝をしていた、あの女とのいきさつはどうなったのか。『儚』の連作に手抜かりなどある筈もない。彼女は、『玉子』に登場している○○である。広野との因縁は続いていたのであ。
やがて、F町に原発が建設され、広野の親戚が下請けの会社を興した。この男は、戦争中は大陸で、あの浪江の、即ち奥崇の上官だった。
国鉄を追放されていた広野は、この男に拾われたのである。やがて、この男が急逝して、その未亡人が事業を継いだが、この女は広野の従姉妹であった。そして、この女はあの『倫宗』のF県の幹部だったのである。
広野は革命党の党員だったが、あの青柳の薫陶を受けて、『カムイ党』の秘密幹部でもあった。広野は実に複雑な政治環境に身を置いていたのである。その理由は、やがて明らかになるであろう。
そして、広野は『党派の儚』の、あの唐橋とは同志だった。妻の典子とも交流があったのか。秘めたままの思慕だったのか。語るのは、未だその段階ではない。そして、あの初代草也との接点はあったのか。大河は展開したばかりだ。おいおい、明らかになるのだろう。
2️⃣3️⃣ 広野と繭子
さて、あの広野と繭子の攻防の真相は、いかばかりなのか。その一端を明らかにしておこう。
「こんな会話をしていると、あなたがまるで野人なのか、それとも、眼前のあなたとは全く違う、別な人なのか、わからなくなってしまうわ」「野人?」「ここら辺は、昔はエミシって言ったんでしょ?あなたはその子孫じゃないの?」「それで野人か。そうだ。その通りだ。カンム ノ御門がサカノウエノタムラマロを派遣して、破壊や収奪、殺戮を繰り返して、北の民族の古代からの土地を略奪したんだ」「女達が散々に犯された。すると、直に混血が進んで、いとも容易く、ヤマトに支配されてしまったんだ。あげくに、北の国では初めての原発だ。反対する者を札束で懐柔して、あの危険な怪物を建ててしまった。古代からの、国家の非道な蹂躙は、未だに続いているんだ」「だから、西の女の私を犯してもいいって、言うの?」「そうは言っていない」「あなたに流れる先祖の反逆の血が、原発と情欲に混濁して、淫らに欲情してるんだわ。私を見つけて、一気に盛りがついたんだわ」「何と非難されても、あなたへの情念は冷めない」
「西の国では、アソ山の大噴火で縄文人が殆ど壊滅した後に、半島や大陸から、始祖達がこぞって渡ってきたんだって、聞いたわ。私の先祖もその一人よ」「あなたは半島か?」「そうよ。だから、今でも、私の村の言葉は、半島の抑揚にそっくりなんだもの。単語だって、似たものをいっぱい話してるわよ」「サンインのある町に行ったら、ハングルが氾濫していて。余りに雰囲気が違うので、驚いたことがある」「そうでしょ?その渡来人があなたの同族を滅ぼして。次には、渡来人同士が、長い争いを繰り返して。終にはヤマト朝廷が出来たんだわ。私達の先祖はツチモグラと呼ばれて、蔑まされて。ヤマト御門と戦って負けたのよ。あなた?さっき、エミシの話をしたわね。私達だって同じ様なものかも知れないわ」と、女は言うのである。「ヤマグチに限らず、この列島の西半分は渡来の民族なのよ。本国で争いに破れて逃げ出して。その敗者同士が、この列島で対立して。延々と争いを続けてきたんだわ。
あなたの先祖が死闘したメイジ維新のチョウシュウも、二派に別れて、深刻に抗争していたんだもの。ヨシダショウインやタカスギシンサクは御門派。私の部落は現状維持の穏健派。まあ、バクフ派ね。二派は対立して。争って。私達の先祖は敗北したのよ。恭順しても、切腹か、従わないものは謀殺されたの。私の集落にグノスケという指導者がいたの。タカスギに暗殺されたんだわ。チョウシュウだって色々なのよ」「この国の人が半島人をバカにしたり、差別するでしょ?とりわけ、ヤマグチの人がそんな逆立ちをするのは、どうしても許せないの。元々は自分の国なんだものね。人間って、無意味な争いに血道を挙げるものなのかしら?」「そうかも知れない」「この小さな町だって、原発を巡って分裂して。際限なく争っているんでしょ?」「それは違う。御門国家に、意図的に分裂させられたんだ」
「私は四人兄姉の末っ子なの。でも、兄二人は、あの戦争で戦死して。姉はヒロシマに嫁いでいて、原爆で。そうよ。殺されたんだわ。父親は職業軍人だったけど。敗戦の年の初冬に自裁したの。その一月前には母親が、突然に、不可思議に病死していて。だから、私の血縁は、あの戦争で途絶えたんだわ。あなたは、このF町が、原発で、国によって、理不尽に分断させられているって、批判するけど。私の係累は、御門国家に皆殺しにされたんだわ」女は、最初の夫の戦死は、未だ、話さなかったが、女の御門に対する怨念を明らかにするには、充分な独白だったのである。
だが、女の不行跡や、或いは、犯罪を疑念視されている事件の真相などは、永遠に明らかにはされないだろう。
こうして、様々な因果の果てに、対立はするが、根底で同調もする、いかにも不条理な男女の綺談が、今まさに、展開しているのである。
さて、第一稿を大胆に推敲しながら書き連ねてきた拙文も、一旦の幕間としたい。理由は特段にはないが、構想を再構築したいのである。綺談のいつもの定石だが、幾つかの物語が余りにも輻輳しすぎた。その内でも、この『原発の儚』に密接に連関する『柴萬と磐城の儚』や『平凡な死』などは、未だに未完なのだから、顛末は筆者にすら解らないのだ。従って、暫時、小休止して整理したいのである。だが、実は、一気に進展させるだけの気力が失せていると、いうのが、真相に近いのかも知れない。
(幕間)
原発の儚 2️⃣1️⃣~2️⃣3️⃣