絵画のなかのきみ
さくらのきせつです。きみが、ぼくのことを一ミリも思い出せない事実を、ましょうめんからうけとめられる日はくるのでしょうか。春はみじかく、夏はながいのが、さいきんです。ついでに、秋もみじかくて、冬だってながい気がします。やさしい映画ばかり観ていて、なぜか、暴虐の限りを尽くしたい衝動に、一瞬でも駆られることがあるのだと、となりの家のしろくまが云っていました。べつに、やばいやつではありません。むしろ、しろくまにしてはおとなしく、温厚なくらいです。でも、そのしろくまにも、そういう瞬間はあるのだと、しろくまらしい、野性味あふれる一面というか、獣の本能というか。ここで、動物の本能というと、ぼくらにんげんにも、そんな狂気じみたものがあるのだろうかと、かんがえてしまう。ふだんは眠っているのか、それとも、芽生えるものなのか、わかりませんが、だれかを殺してしまうひとは、しろくまのいうところの、暴虐の限りを尽くしたい衝動とやらに、理性があっけなく崩されてしまうのかもしれません。もしくは、魔が差す、というやつ。
額縁の向こうに、きみはいて。
変わらない景色。進まない時間。永久を閉じこめた場所で、いつまでも、色褪せることなく、きみが、きみでいることをしあわせに思う反面、きみのなかからいなくなってしまった、ぼく、という存在意義を、ぼくは、いま、夜の喫茶店で、チーズトーストをかじりながら、煩悶している。いたるところにしみついた、たばこのにおい。燻られて変色した、天井。素朴なチーズトーストを、ていねいに咀嚼しているあいだにも、カウンター席に座っている、女のひとは、アイスコーヒーを、ビールのように豪快に飲み干して、しくしくと泣いている。ときどき、細い、メンソールのたばこに、火をつけています。黄色の、百円ライターで。
絵画のなかのきみ