たのまれごと
「悪いんだが、先方さんに誘われて今日は帰れそうにない。後はよろしく頼む」
年柄年中赤ら顔の企業戦士兼生き字引こと、向田部長が会社のデスクにへばりつく寧々島に内線電話をかけてきた。言外にどうしても断りきれなかった、その他諸々の辻褄あわせは頼んだぞ?という内容を暗に含ませた言葉が、受話器からねっとりと吹きかけてくる。
「はい、部長!お疲れさまでした」
寧々島は、そんな湿度100%の圧力なんのその、鈍感無知の爽やかさで持って答えた。しかし、腹のうちでは、まったく別の声がこだまする。ばーか、それは断りきれなかったじゃなくて、誘われる状況を自分で作り出したんだろうが、この三流脚本家。それになーにが後は頼むだ。それは面倒事を押しつけるって言うんだよ!
何かと押しつけがましい向田部長の見えない赤ら顔に毒づく。
寧々島はこれ以上にない笑顔のまま、すぐさま子機を受話器に戻そうとした。
しかし、向田部長は思い出したように早口でまくし立ててきた。
「そうだ、今月の経費清算は今日までだったな。三日ぐらい溜まっているのがあるから、寧々島やっといてくれ。あと、明日の会議資料のファイル変換も確認しておいてくれるか。あっと危ない危ない、部員の得意先のお中元の確認も忘れずにな」
「まかせておいてください!他にはありませんね?」
「明日は先方さんがこちらに見えるから、会議室のひとつを開けといてくれ、以上だ」
自分の用件だけ済ませると、すぐにぶつっと電話は切れた。
周囲のデスクに座っている同じ課の人間が、「で、どうだった?」と目で促してくる。寧々島は親指と人差し指でお猪口をつくり、口元にひっかける仕草をした。なんなら、寧々島の手元に化粧道具一式があるなら、赤いチークを取り出して顔面に塗りたくっただろう。
どっと空気が弛緩する雰囲気が溢れた。
それを契機に、ばたばたと同僚は席を立ち、社員証を出退勤管理コードにかざし、ぞろぞろと帰宅していく。寧々島は目の端で彼らを捉えながら、なおも机にへばりつく。
寧々島は手始めに向田部長に頼まれた経費清算をするために、いそいそと彼の席に移る。経費清算に必要なのは、領収書と印鑑と申請書の三点だ。何度も頼まれている仕事なので、どこにその三点が机にしまわれているか、暗でわかる。
しかし、もうひとつ必要なものがある。
それは向田お願いしますスタンプカードだ。これは寧々島が勝手に作り上げたスタンプカードで、向田部長が寧々島に何かをお願いした回数に応じて、向田部長の印鑑が四角い升目に一つ捺印されるというものだ。
どうしてこんなことを始めたかというと、ささやかな反抗だ。何かと向田部長に些細な頼まれ事をされる割には、彼からは重用されない。言ってしまえば割を食っている。そんなんだから、いつまで経っても寧々島の名刺には役職がつかない。
この向田お願いしますカードは、面倒事を押しつけられて皆が帰った後にこっそりと無断で会社の名刺作成機を使って作成したのだ。
名刺大のスタンプカードには、すでに十五個の向田部長の赤ら顔よろしく、向田の捺印が並んでいる。スタンプカードに向田の判を押す指先に、ささやかな憎しみと憤りをこめる。幾分すっきりした後に、指先をスタンプカードから外すと、向田部長の赤ら顔がのぞいて途端に不快感がもたげてくる。束の間に訪れた晴天が雨天に様変わりだ。
十六の向田部長の顔が笑っているように見えてくる。
「へらへら笑ってんじゃねーぞ、くそジジイ!」
それだけでは腹の虫が治まらず、スタンプカードの表面にこれまでの所業の数々を書き込んだ。
恨み辛みを書き連ねていくと、寧々島の身体からすっかり毒気が抜けていくようだった。
寧々島はカードを所定の場所にしまい、それから『仕事』に取りかかった。
翌朝、わずかに柿の熟れた匂いを漂わせた向田部長が出勤してきた。他の部員には目もくれず、真っ先に寧々島に大きな声で話しかけてくる。
「昨日はお疲れさん。頼んでいたやつはばっちりだろうな?」
「もちろんですよ、部長!」ここで後を続けたら目も当てられないことになる。
「そうか、毎度毎度よくやってくれるな寧々島は」
部下への労いを忘れない理想的な上司を演じる向田部長の猿芝居に寧々島もつきあう。
それから部員全体にむけて向田部長は続けた。
「これからA商事が会議室に来られることになっている。各員、手が空いている者から挨拶に来るように」
大した仕事を任されていない閑古鳥が鳴いている寧々島は、面倒事は早く済ませたいと思い、向田部長の後ろについて行った。
向田部長が咳払いを喉元でして、会議室の扉をノックした。部屋には、朝からだというのに額が妙に脂ぎっているでっぷりした上役らしい男と、それとは対称的に目に見えない何かに生気を吸われ続けているようなやせぎすの小男が座っていた。
「ああ、これはこれは、昨日はどうも」
油の男の方が顔を捨てられる前の藁半紙のようにくしゃくしゃにして、向田部長に歩み寄ってくる。
「いやいや~」と、向田部長もそれに応じて顔を茹で蛸のように更に赤める。ひと頃先日の宴会の応酬をし終えると、油ははっと気がついたように寧々島の存在に目をやる。
「こちらは?」
「ああ、紹介がまだでしたね。こいつは寧々島と言います。まだ若いんですが、気概と骨のあるやつでしてね。我が部の期待株ですよ」
「ははあ、向田さんも部長というお立場でありながら、後進の若手にまで目をかけていらっしゃるとは。こんなに忌憚のない方で、さぞかし理想的な上司のことでしょうなあ」
話の後半は、ほとんど寧々島に向けられているものだった。向田部長からかけられてくる電話を取る時と寸分違わない笑顔で「ごもっともです」と快活に応える。
「ああっと、遅れまして、私は……と言います」
油が背広の内ポケットから名刺を取り出して、寧々島に恭しく手渡してきた。
寧々島は熱湯を浴びた条件反射のごとく、油と同様に内ポケットから名刺を滑り出して手渡し返す。
寧々島は顔をあげるが、なぜか油は顔をあげてこない。油の視線は寧々島の手渡した名刺に釘付けになっているようだった。
珍しい名前だからか?はて、どうしたものか。
寧々島は磁力に引き寄せられるように油のもとに飛んで行き、そして事の次第を瞬時に理解した。
油に渡したのは、寧々島の名刺ではなく、名刺そのままの意匠を引き継いだ、向田お願いしますスタンプカードだった。
向田部長とリビングデッドの小男が怪訝そうに言葉を失っている油の元に近寄った。
「これは……」
「……向田お願いしますカード?なになに……、ただ酒を飲みたいから得意先に媚を売る、媚田部長。面倒事をすべて部下に押しつける責任向田部長……」
リビングデッドによって、次々に向田部長の寧々島に対する暗黙に葬られてきた数々の所業が口上されていく。
新卒女性社員に無理やりせまったのは自分ではなく向こうだとおっしゃる。言い訳をするにはすでに十五年時効無効向田。でもわたしはずっと忘れませんよ、向こう十五年。電話をかけるのはなぜわたしだけ。周りには情けをかけていると思わせるだけ。気持ちを袖にされたから干すのはお門違い。
それは軽やかに捻り念仏を唱えているように聞こえてくる。
油はあんぐりと開いた口が塞がらない状態、リビングデッドは瘧をおこしたようにひゅうひゅう笑っている。
そんな二人の傍らに、今にも超新星爆発を起こしそうなほどに真っ赤に膨れ上がった茹で蛸、もとい赤ら顔の向田部長がぷるぷると震えていて、そのおちょぼ口から漏れ出るただならぬ匂いが、わたし寧々島ねねの前に漂っていた。
(了)
たのまれごと
掌編に収める内容ではなかったかもしれません。
おかげでキャラクターがまったく立っておらず、水瀬のように薄っぺらいです。
次回作はもっとキャラクターを立てたいと思います。