讃える

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 強い筆圧で書くように記せば、記録するカメラのレンズを向けられたときに被写体となる人の意識は囚われる、と言葉を続けられる。向けられたレンズに対して愛想を見せるのも、つんけんとした態度を取るのも、レンズから覗いてくる視線に対して決めた意思決定の表れとなる点で、被写体は反応することを強制されていると考えるからだ。
 この捉え方に同意したとき、レンズを向けるという動作は被写体が存在する場所にある種の緊張感を生むといえるだろう。魂が吸い取られる、といわれたかつての迷信を珍しいもののように眺め、透かし、スマートフォンなどのカメラ機能付きの携帯端末を手にして、日々の瞬間的な思いを撮影できる状況に慣れ親しんだ人たちであっても、いや親しんでいる人たちだからこそ、撮影されることへの意識は高いと推察する。想定する「他人の目」は自身のあり方を律する規範となると考えることから、かかる意識の持ち方はとても大事であると評価する。しかしながら、想定される「他人の目」が規範として働くからこそ、その人のあり方は一定の方向に定められているといえないか。その「他人の目」がレンズという物質を通して向けられるとき、そしてレンズを向ける撮影者がその場にいることを認識したとき、選択する矢印の向きを固定された被写体は、撮影者に問う「視線」を返さざるを得ない。
 一体、あなたは何を記録するのか。
 化学的反応をもって、機器的にその瞬間を収めるカメラに写らない撮影者に向けられたその声に対して、今度は撮影者が判断をしなければならない。そのまま撮るか、構え直すか。レンズから離した顔の目で改めて被写体を見つめて、その口で問いに対する答えを出すか。撮る、撮られるの関係性はこうして無言の強ばりを生む契機を孕む。承諾を得たポートレイトであっても、どう撮るか、撮られるかという点で記録の質を問う関係性がその場を強く支配する。腕の良し悪し、被写体としての魅力の有無。レンズを介した関係は二人の間の明暗をはっきりとさせる。真剣勝負の鍔迫り合い、見えない刃から散った火花は数え切れない。
 と、ここで立ち止まってみれば、写真撮影に対する記述としては随分とシリアスだな、と苦笑混じりに自覚する。
 自覚ついでに肩の力をふっと抜けば、写真はもっと気楽に撮っていいし、写っていい。楽しい娯楽の一つなのだから、「はい、チーズ!」の合図に向けるピースとポーズに合わせた気持ちを、そのレンズに素直に返せばいい。アルバムを捲り、思い出話に花を咲かせ、その思い出に続く新たな思い出を作ろうとこれからの予定を立てれば、和気藹々と準備を整える日々となり、練習と称するシャッターがその間に何度も押され、アナログ又はデジタルとして増えていった気持ちは笑顔や困り顔といった様々な表情となり、また収められていく。そうして呼び起こされる感情が再度、喜びになるのだから、写真は単なる記録の技術としての意味を超えてこれまで普及してきた、と評価しても過言ではないと私は考える。
 思いとして記録し、記憶として保管する。
 撮る、撮られるの関係はこうして互いに意気投合し、背中合わせでぴったりと寄り添って、瞬間、瞬間の区切りの中で過去になる今を残していくことができる。ここで認められる写真の一側面に体重を預け、先のシリアスな記述を口笛混じりに読み直せば、緊張感の襟はもう少し緩くなる。
 緩めた力をここに載せて、別の記述を試みる。
 撮られる、という緊張感が失くなるとはいわない。ただある場面で、それはどこまでも細く引き伸ばされ、シャッター音に確かに消される。
 裏も表もある一枚、一枚の写真。私の好きな気持ちに押されて自然と前のめりになりがちな力加減に、吹かれる風と願いを込めて。



 集合住宅の前にある広場に現れたサンタクロースに、子供たちを盗られた格好のヴァイオリン弾きの中年男性は、しかし一人の小さな男の子の視線を釘付けにしている。
 1952年に撮影されたモノクロの一枚が展示された背面パネルのやや斜め上に書かれた撮影者本人の言葉、「物語の続きを感じさせるものを撮りたい」という趣旨の信念を読んだとき、私は敬愛する写真家、ソール・ライター氏とロベール・ドアノー氏を重ねた。
 両氏だけでなく、私が心打たれた写真家に共通すると考えているのが、彼らは被写体と、その周囲にある有形及び無形のものとの関連を実に上手く撮るという点である。
 街を構成する道路や建物といった要素を線形で捉えるとともに、社会的機能としても捉え、その社会の中で生きる人たちの静止した振る舞いが単なる行動以上の意味を持ち、それら全てが絡まってドラマチックが記録される。そこに衣装や天気、人々の表情といった気まぐれな要素が配され、私たちのイメージは大いに刺激される。
 作品として出来上がったそれぞれの一枚を見ているとあまりにも出来過ぎていて、演出の意図が窺えないかと感動の反面で蠢く意地悪な視線を向けてしまうほどに、その完成度は高い。撮影者が持ち合わせているユーモアも、各被写体の滋味を失わないように薄くペーストされるに止められているから、あとは鑑賞者が心のままに笑むに任される。もっと、もっとと味わいを求める咀嚼のリズムにステップは生まれ、瞬間的な場面の続きは鑑賞者の中で自由気ままに始まってしまう。ソール・ライター氏とロベール・ドアノー氏も、どちらかというとその性格は内気な印象を受けるのに、街を収めるその足は外に開いていく。それなのに、
「写真を撮るために狩りはしない。ただ待ち伏せるだけだ」
 と語られるロベール・ドアノー氏の姿勢は、映像で動くソール・ライター氏にも見て取れると感じた。
 カラー写真とモノクロ写真の違いはあれど、対象を総合して把握する瞬発力の凄みは両氏に通底すると思った個人的な感想である。「すっげー!」「うっめー!」とマスクの内側で何度言ったか知れない。
 ただ、明確な違いが両氏にはある。
 ソール・ライター氏の写真はその構図からは「訪問者」としての視線を強く感じる。対面の写真ではないから、というよりはその場に偶然居合わせたことによる瞬間の歯車を動かして、一枚の前後に通じた物語性を余すところなく表現することをソール・ライター氏がスタイルとしていると私は考える。地の文が神の視点で書かれる小説に例えてもいいかもしれない。氏と同じように鑑賞する側もふらりとその場に立ち合い、氏とは別々の目的をもってその場を去る。そういう街行く人々の一人となる写真。街にいる、という極めてシンプルな繋がりが生む絶妙な距離感が氏の作品の良さであると思う。
 対してロベール・ドアノー氏の写真は、一主体としてその場に居る氏の存在がまずある。被写体に向き合った氏の体温を感じる。この点は、例えばパリ祭で賑わう通りを行く人々を写した一枚であっても同様である。
 氏の作品の良さに向き合うために少し話の筋を逸らすと、各メーカーの技術力に信頼を置けば、誰がカメラを手にしようと良い写真は撮れる。様々な写真を目にして学べば、構図や状況に合わせた露光などのカメラの利用も上手くなる。印刷した各写真に違いが見えない程に、その質は保たれる。商品としてのカメラの有り様としては目指すべきところである。
 それでもなお、目にする写真に違いがあり、撮影者の個性を私は感じる。それが何故なのか、何によるのか。
 シャッターボタンを押して終える記録の仕方は同じなのだから、違いが現れるのはそのボタンを押すタイミング、硬い言い方になるが撮影者の決断の意思と考えてみる。
 恐らく捉えているのは、被写体の良さが生まれる事前の変化。その変化を感じ取った撮影者の感覚ないしは感受性。第二次世界大戦の終結後のパリで荒廃した背景を背負い、笑顔で歌い、踊る人たちがロベール・ドアノー氏の写真には溢れる。世界史という大きな括りでは記述されない個々の悲しみ、痛みを抱え、生きている今を、これからを讃える大切さを皆で感じ取ることがとても必要だった、と想像することは無責任な現代人の傲慢といえるかもしれない。しかしながら、氏の作品には地に足をつけた喜びが満ちている。路面を叩いて進む人々の拍動が聞こえる。スイングしながら唄う夜と、復興に向けた大きな努力が空気の粒となって呼吸している。それを見つめる氏の立ち位置は、だからどこまでも当事者なのだろう。
 対面しなければならない、そして対面していきたい。
 時代背景の違いはある。だが一方で、撮影に臨むスタンスの違いは、記録という最低限な行為の意味に上積みされた撮影者の眼差しを焼き付けている。
 人間讃歌、と書けば白ける言葉の響きは、その器の半分も満たせない現実に対する厳しい評価であろう。その縁を持って左右に揺らせば、器の中の動きは激しく渦を巻き、振り回される水のような「世界」として意地悪く表現できる。
 要するに言葉に見合う実体がない。なら、氏の作品には何の問題もない。
 ザ・ミュージアムの展示構成の最後辺りで、ローライフレックスを抱えた自身を撮った氏に出会える。そこに付け加えられていたのが、このカメラでする撮影の仕方は、どうしたって被写体に対する敬意を払わずにはいられない、という言葉だったと記憶する。
 イブ・サン=ローランやマリア・カラスといった著名人と並び、クラリネット工房の職人の仕事ぶり、各ミュージシャンの軽妙さ、夜にペアを組む二人、昼に談笑する若者たちに、嘘みたいな逸話が付されるデビューする前の彼女と、晴天の下で欠伸姿を見せる人気者が愛らしく、そして等しく写るロベール・ドアノー氏の記録たち。
 氏のどの作品にも、氏が感じ取った讃歌がある。それは一人の人が世界に向けた讃歌である。人類普遍の高みを目指す前に鑑賞者として感じられるその歌声は、私たちが手に取れる身の丈を備える。器に見合った現実に、交わせる杯がどこまでもクリアに鳴る。
 誘われる微笑みに意地悪を向けるのは、相当な技術が要るだろう。だから未熟者な私は容易く氏に誘われて、氏の作品を目にすることが出来た機会にできる限りの時間を費やした。そうして、私は氏の作品に対して先の言葉を掲げようと思った。経年劣化で鈍色になろうと、力を込めて磨く努力と意欲を駆立ててくれたことに応えたい、私の気持ちの表れとして。
 人が好きだと言える幸せはある。時間とともに醸成される記録を残したい、と氏が語った言葉とともに大切にしていきたい。



 繰り返せば、街を構成する道路、建物、立て看板、捨てられる前の空き缶、書かれた落書き、偶然居合わせた人、歩き去る途中の人、これから来るかもしれない人、店先を占拠する方々、走ってばかりの自動車、不在と駐車する自動車、闊歩する猫、忠実な犬、並び飛ぶ鳥、広がる天気、降らない雨、厚く降り立った雪、エトセトラ、エトセトラ。
 一枚の中にあるものの形を切り取り線でなぞってみても、刻を進める動力に欠ける実感は否定し難い。だが写真は記録であり、写真は撮影者によって記録される。
 したがって、私たちは撮影者の存在を必要とする。その時、そこに居た人たちを必要とする。
 『幸せの釣り師』という称号を冠する写真家は、こうして今も求められ続けるのだと最後に綴る。

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  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-03-09

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