飯食って糞して寝て

『生きてる意味って何ですか?』
 いつかの質問サイトであった何の役にも立たないような質問。誰が答えていたっけかな。
 そんなことを思いながら、冷凍棚に陳列されている冷凍食品のグラタンを手に取る。そういえばこれ不味いって言っていたっけ。私は特に旨いとも不味いとも思わなかったけれど。
 結局いつものメーカーの炒飯やら餃子やらピザやらをプラスチックのかごの中に放り込む。天井のスピーカーからは、聴いてもいないのに聞き飽きた流行曲が垂れ流されている。
 平日のこの時間帯でのスーパーの来店客は疎らだ。年寄りが何人かうろうろしている。主婦らしき中年女の姿もちらほらある。店員たちはどこか暇そうに見える。
 似たり寄ったりだ、と思う。酒井の家に向かうたび、このスーパーに立ち寄り、酒井のための買い物をする。買うものは基本的にいつも同じ。たまに違うものを買っていっても、あいつは不味いだの自分には合わないだのと言って、新しいものを拒絶する。自分の中で定めたローテーションから逸脱したものを拒む。だからいつも私は同じ棚に向かい、同じ商品をかごに入れ、同じくらいの金額を支払う。極めつけにこの光景、年配者ばかりの覇気のない、寂れた光景。別にそれが日常なのだから当たり前だろうと思う。嫌だとは思わないし、これが間違っているとも思わない。ただ何となく、ここでぼんやり買い物をしていると、ふっと気が遠くなって、自分がここにいる理由がわからなくなる。なぜ自分ではない人間のために買い物をしているのか。どうして生きているのか。
『生きてる意味って何ですか?』
 そんな幼稚な文字列。誰が何て回答していたのだっけ。
 買い物かごをレジに通す。パートらしき初老の女が如何にもやる気のない手つきで会計をする。支払う。自分の手でレジ袋の中に移す。今日買ったもの、二リットルペットボトルのリンゴジュース二本、ポカリ二本、菓子パン五つ、ポテトチップス三袋、チョコ菓子四つ、カップ麺八つ、冷凍食品六つ――先週の買い物とほぼ同じ。
 二枚のビニール袋に、冷たいものとそうでないものを二つに分けて入れ、両手にそれらを持ってスーパーを出る。腕を引き抜こうとするような重さを感じる。しかしこれにも慣れた。いくら重くとも、腕は抜けず、ただひりひりとなかなか消えない痛みが残すだけだ。
 私は歩く。嫌に眩しい日差しの中を。先週は雨だったくせに。影がやけに長く伸びる。
 このスーパーから酒井の家までは、どれだけ遅く歩いても五分ほどの距離だ。こんなに近くにあるというのに、あいつは一人で買い物もできない。財布を持って、外へ出て、五分歩いて、スーパーに入店して、買いたいものをかごに入れて、レジに通して、支払って、袋に詰めて、持ち帰って――あの女は、誰もがしているそんな一連の作業もできない。できる能がない。金もない。だから私に押し付ける。「私はビョウキだから」と言い訳して――。
 酒井が住んでいるアパートに着く。コンクリートがひび割れた、六室しかない二階建てのおんぼろアパート。駐輪場には錆びた自転車が一台捨てられたように倒れている。
 酒井の部屋は二階の一番手前。階段を上がり、インターホンはないので薄汚れたドアを直接叩く。軽く叩いた程度だとあいつは居留守を使ったりするので、私だとわかるように強く叩く。なんだか借金取りにでもなったような気分になる。実際の借金取りが、どこかの安っぽいドラマのようにドアを強く叩くのかは知らないけれど。
 十数回ほど叩いたところで、ようやくドアの向こうからのそのそと鈍い足音が聞こえてくる。がちゃっとドアノブがゆっくり回されて、ドアが小さく開かれる。その隙間から顔を覗かせた酒井は、先週と同じように、青白い死にかけの病人のような顔色の顔に、何か月も手入れしていないように伸び切ってべたついた前髪を鬱陶しく垂らしている。
「あれ? 今日早くない?」
 酒井は半開きの眼を擦りながら、欠伸をするように間延びした声で言う。
「むしろ先週より遅いくらいだけど」
「そうだっけかな? 憶えてないや」
 酒井はにっと不細工に笑う。小学生でもないのに前歯が欠けている。
「ほら、早く中に入れてよ。こちとらこの荷物で重いんだからさ」
 私が催促すると、酒井はそこでやっとドアを大きく開く。私は酒井の部屋に足を踏み入れる。酒井の部屋は、昔祖母が漬けていた漬物のような匂いがする。何かが腐っているような酸っぱい匂い。子どもの頃、大嫌いだった匂い。
 私はその狭い部屋の隅に置かれている、古い型の冷蔵庫に買ってきたものを適当に放り込む。その間、酒井はお茶を淹れようとする気配もなく、壁際に敷かれた黄色いシミだらけのシーツの上にぼんやりと胡坐を掻いている。
「いやー、いつもありがとねー」
 酒井は如何にも心がこもっていないお礼の言葉を投げつけてくる。ああ、どうして――どうしてだろう。こんなに虚しいのに、嬉しさの欠片もないというのに、その言葉を待っていてしまっていた自分がいるのは――。
 二つのビニール袋を空にすると、その残った抜け殻を、冷蔵庫の隣に置かれた埃まみれのゴミ箱に丸めて捨て、首を捻って酒井の方に顔を向けた。
「あんたさ、ほんと上辺だけで言ってるよね」
「いやいやいや、本当にありがたいと思ってるんだよ。ともちゃんがいなかったら、私なんてとっくに野垂れ死んでいるだろうから。命の恩人って言っても過言じゃないよ」
 酒井はへらへらとしながら言葉を重ねるけれど、その単語の一つ一つが軽々しくて、もしかしたら他人を怒らせるために、わざと逆撫でするような言い方をしているのではないかと疑いたくなる。しかし、この女のこれがこいつの素であることを、私はよく知っている。
「まあそれはともかくさ、あんた、なんか仕事は見つかったの?」
「げえ、それまた訊く? 先週も訊いてなかった?」
「あんたが仕事見つけるまで私は言うよ」
「あーもう、ともちゃんはお母さんみたいなこと言うんだから」
 酒井はまた茶化して誤魔化そうとする。私は酒井の母親がどんなやつかなんて知らないのに。それとも世間一般で認知されている『母親』という概念そのものを指して言っているのか。なおさらわかるわけがないではないか。酒井自身も知らないくせに。
「あ、それよりさ、昨日のミラクルトーク観た? ハナくんが出てたんだけどさ、やっぱりカッコいいよねえ。私も芸能人とは言わないけど、あんな感じの彼氏欲しいなあ」
 お手本のように、下手くそに話を逸らして、酒井はにやつく。ミラクルトークというのはテレビ番組で、ハナくんというのは某アイドルグループのメンバーで――どうでもいい。私が嫌って、私が顔を背けてきた、どうでもいいもの。こいつの口から吐き出されることは、いつも私にとってはそんなこと。私の内臓をきりきりと締め付ける。だけれども、私の心臓を最も締め付けてくるのは、まるで呪縛のようなこいつの鈍感さと無神経さ。――いや、鈍感でも無神経でもない、こいつの無関心さ。
 何度言ったって駄目なことは、もう以前からの学習で知っている。だからあえて繰り返す必要はない。それは無駄なことだから。私はどう足掻いても、この女に寄り添えることはないのだから。
「――彼氏なんてできるわけないよ、あんたには」
「えー、冷たいこと言わないでよー。私はともちゃんにも良い人ができるように毎日お祈りしてるんだからさー」
 何もわかってない。何一つわかってない。吐き出したい。この間抜けにすべて吐き出してしまいたい。私の全身――末端神経にまで詰まってしまった膿を。だけれど、そうすることは許されない。誰が決めたわけではない。私自身が許さない。
「私はいいよ。私にはできないし」
「何で? 何で諦めちゃうの? ともちゃん結構美人だと思うんだけどな。もっとこう、化粧とか髪型とか頑張ったら――」
 うるさい。
「ともちゃんはさ、自己評価低いよね。もっと自分に自信を持っていいんだよ。少なくとも私と仲良くしてくれるのはともちゃんだけじゃん。ともちゃんは優しいから、すぐに魅力に気づいてくれる男の人が――」
 うるさいのに。
「あーあ、私は男の人だったら、きっとともちゃんにべた惚れだったと思うよ。絶対にともちゃんのこと好きな人いるって。周りを見渡してみたら――」
 うるせえんだよ、この脳足りん。
 咄嗟に足が動いた。床を蹴って、のんきに姿勢を崩す酒井に向かって突進していた。それは衝動だった。――いや、案外冷静だったのかもしれない。酒井の顔が、へらへら顔から目を見開いた間抜けな驚き顔になるまでが、コマ送りのようにゆっくりと見えたから。
 私が酒井に飛び掛かったとき、部屋は微かに揺れた。台所の食器棚の中ががちゃがちゃと鳴り、無造作に置かれたデジタル時計は倒れ、タンスの上からは埃が舞い落ちた。
 気づけば酒井は床に――正確には床に敷かれた黄ばんだシーツの上に押し倒されていて、私は彼女に覆い被さっている。額がぶつかる寸前まで顔を近づけ、拳を握った右手を大きく振り上げた姿勢で――。一瞬、これがくだらないドラマの一場面ならどれだけ良かっただろうと思う。こんな三文芝居はきっと誰も望まない。視聴者は皆一様に嫌悪感を露わにし、テレビの電源を消すことだろう。そうしたら私は沈む。こいつも沈む。電波が遮られた暗闇の中に。そして永遠に何も始まらない。何も終わらない。今こんな風に、カーテンの隙間から入り込む光に照らされる埃の気配を感じることもない。だけれど、そうはならない。私にとっての現実はそこにあって、また私の存在も現実のものだった。
 私は動けなかった。酒井は動かなかった。阿呆みたいに開き切った酒井の目の奥――瞳孔の中には、険しいのだか情けないのだか曖昧な私の顔が映り込んでいた。
 何秒かはそのままだった。埃の気配も消えて、かちこちと規則的な壁掛け時計の針の音と、お互いの息遣いが、静かな室内に揺らめいていた。
 ――唐突に、酒井は笑った。いや、笑ったという表現は不適切かもしれない。それは笑みとは呼べないほど、口角を無理やり持ち上げただけの、不安定かつ歪な表情だった。そして酒井は口を開いた。見開いていた目を少しだけ閉じて。
「――いいんだよ」
 何が――何がいいというのだろう。
 そこで私はようやく身体を動かすことができた。まず拳を握っていた右手を下ろし、酒井から顔を離した。そしてゆっくりと立ち上がり、尻もちをつくのを必死に堪えるように後退する。酒井は起き上がる。また胡坐を掻いただらしない体勢に戻って。そして私を見つめる。その顔には、まだ歪んだ笑顔の偽物が貼りついている。
「ねえ、ともちゃんは私のこと、捨てないよね? 責任を持ってくれるよね?」
 それは呪詛だ。もう何回も聞いた、聞き飽きた呪詛。陳腐でつまらなくて鼻で笑い飛ばせてしまうような、ただの呪詛。それでも私を呪って縛り付ける、強力な呪詛――。
「・・・・・・今日はもう帰る」
 私に答えはない。初めから与えられていない。この女に出会ってから、私の人生に選択肢はない。いつも一択がある。変えられない一択が。
 私が背を向けて立ち去ろうとすれば、酒井は私の服の裾を引っ掴んでその足を止めさせる。振り返れば、酒井の顔がある。醜くて汚くて、誰からも見向きもされなかった顔。
「また来てよ、来週も、必ず」
 そして私の返答は決まっている。
「来るよ」
 それ以外の選択肢はないのだから。
 私は酒井の部屋を出た。アパートの階段を下りて、もう一度酒井の部屋のドアを確認した。赤錆だらけのそれは、ずっと放置されて忘れられた秘密の通路のようだった。私は歩き始めた。家路につくために。酒井の呪いを少しでも薄れさせるために。
『生きてる意味って何ですか?』
 あの質問の回答を、今更ながら思い出す。
『飯食って糞して寝ろ』
 たったその一文だけ。アドバイスも励ましも説経も何もない、吐き捨てるように無機質なその一文。あの回答をしたのは、いったい誰だったのだろうか。あの回答をしたのは、自分だったのではないのか。回答だけではない。質問も私がしていたのではないか。私が質問し、私が答えた。何も繋がっていない質問と回答。何の助言にもならないそれは、八方塞がりの私への自問自答で――。だから? だから何なのだろう。結局、私は来週も酒井の元へ行くだろう。酒井のための買い物をして。酒井の呪詛を聞くために。呪われ直すために。あとは――それこそ飯を食い、排泄をし、眠るだけだ。それを繰り返すことだけが私の人生なのだ。
 不満はない。たぶん。それが望みなのかは自分でもわからない。だけれど、今は――。
 空に夕暮れが広がって、やがて夜が降りてくる。近くで時代遅れの竿竹屋の声が聞こえて、どこかの住宅からはカレーの匂いが微かに漂ってくる。
 今晩はハヤシライスにしよう、そう思いながら、ただひたすらに歩く。生活に向かって。

飯食って糞して寝て

飯食って糞して寝て

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-03-07

Copyrighted
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