伝える/伝わる
ナビ派といわれる画家たちはポスターを製作した。グスタフ・クリムトなどに注目したウィーン分離派の展示会で目にしたウィーン工房のポスターは、現在でも評価されるだろう優れたデザインで筆者の目を引いた。企業などの団体を象徴するシンボルマークやロゴタイプは、その描かれ方によって消費者側の記憶に残り、何をしている団体なのかと興味を抱かせ、調べてみたり、または利用する商品やサービスを通じてその活動が認知される。そうして、その団体の活動は消費者が求める選択肢の一つに加わる。利益が発生する機会となる。そのきっかけに、デザインが寄与する。広告において、デザインは大事な要素である。しかしながら、その見方を変えるきっかけを佐藤可士和展で得られた。
佐藤可士和さんの手による広告には、あまりにも日常に溶け込んでいるデザインがある。現在開催中の展示会で目にするロゴマークの数々は、十年単位で遡っても街中で見かけ、雑誌をめくる手を止め、テレビから流れる話題となり、「いま現在」に腰掛けて眺めても知っている!と叫ぶ指さし確認から、「知っているでしょ?」と誰かに伝えてみたいという意欲に駆られる。
目立つ色の組み合わせ、シンプルなタイプの繰り返し、漢字表記から翻るアルファベット表記、幼心を見失わない構成といった要素は、見る人をくらくらとさせるパンチ力でなく、肩肘張らない気さくさが選ばれていると感じられる。以前からそこにあったと思わせることが広告の目指すべきところ、と何かの本で読んだ記憶が刺激される。財布の中のにある佐藤可士和さんが描いたTポイントカードを取り出し、しげしげと眺めてしまう。
ダウンロードで手軽に購入できる現状を認めてもなお、アルバムCDのジャケットは、その作品の顔として音楽アプリで表示される。そのデザインをタッチし、聴きたい曲を選ぶ楽しみである。ちびレモンを美味しく飲んだ過去は容易く甦り、夏は変わらず暑いことを思い出すし、袖を通したUTのボトルの蓋はいつの間にか失くなり、箱に入れられた新しさと予定にない購買意欲と戦ってしまう、と書いていけばどこまでも書けるだろう。素晴らしい仕事、と展示を訪れた一消費者としての思うだから。
消費者、とここで名乗る筆者の中で広告と消費は固く結ばれている。一般的なイメージもそうでないかと推測する。けれど、広告が果たせる役割はもっと広い。より「伝える」ことに特化できる。佐藤可士和展で繰り広げられる一番の可能性はここにあると断言したい。
ここで記すのは三井物産で行われたプロジェクトの概要である。筆者が理解したところでは、三井物産の広告として佐藤可士和さんは現場で働く従業員に注目した。社員の有り様、振る舞い方、職務への取り組み方を通して、三井物産の企業価値、ブランドイメージを内外に向けて確立するのである。
この展示自体はそのアプローチの過程を記した長文が主となり、その結果の一つとなる、従業員の方々が手がけたポスター広告が並ぶ。方法としては、三井物産の従業員自身に自社を広告させるというものであり、少々奇抜な、他にもあり得る方法としてその詳細を見ずにその場を立ち去る即断を筆者は否定しない。なぜなら、その展示スペースに足を向けた筆者自身がさらっと流し程度に読むつもりで、採光に優れた大きな窓を背にし、目の前のパネルを読み始めたのだ。しかしてその内容に筆者は夢中になり、最後まで読み切る前に数回、筆者はそのパネルを撮影をした。文字で書かれた発想を記録したい、という初めての気持ちに素直に従った。
詳細は敢えて避ける。ただ、そのアプローチによって何より変わったのは従業員の方達が自社に向ける目であり、自慢するのでもなく、外に向けて媚びるのでもない、名刺代わりに差し出せる自社の価値を確信した意識だろう。揺るがないコンセプトと評価できるその意識をもって提供される物やサービスに溢れる自信は、きっと受け手に届く。それに喜びを感じる受け手の反応はまた、従業員の方々に伝わるだろう。理想論に聞こえるこの循環は、しかし尋ねればその形成過程における多大な情報のやり取り、錬磨を諦めない評価と却下、定まった方向に置くべき象徴としてのビジュアルの決定に至るまでの詳細をご本人達から聞けると筆者は思う。言葉にできる論理がそのアプローチを現実的に支えている。だからこそ、各ポスターの背後にある企業価値の実は瑞々しく成っている。「伝えたい」ことが「伝わってくる」。
音声ガイダンスでご本人が言及されていた「スペース」というキーワードを用いて捉えると、対象を形作る周囲の要素を入れ替えることで見出せる「そこ」に、人は積極的な評価を下せるのかもしれない。パネルの内容からは、三井物産の従業員の方々が議論を通じた新たなスペースを見つけたように感じた。
「対象の見え方」を取り出し、こつこつと続ける着想を小さな梃子にして、周囲の仕切りを確実に動かしていく。そうして見つけた空間を座り込み、立ち上がって歩き回り、そこにあるものの把握に努める。その結果を言語化する。ロゴマークはこれらの過程が集約する看板となる。しかしながら、その役割は一部に過ぎない。広告の肝となるものは、その「看板」の裏にあるスペースと、そこで交わせるコミュニケーションである。消費する私たちは、彼らに尋ねることができる。彼らの確信に触れられる。そこに生まれた共感があれば、私たちの選ぶものが増え、得られる結果が少しずつ変わっていく。
その変化が広がれば、変わるものが広がる。その中に、変われる「社会」があるのだろう。こうして、広告が果たせる役割は広がる。「伝えられる」ことが広がる。
確かに展示で紹介される幼稚園の設計や団地のリニューアルの活動にも、企画を依頼した側に入園料や賃料といった利益は生じるだろう。けれど、筆者が注目したいのは、これらの企画に応えた佐藤可士和さんの仕事に付加されている「新たなあり方」の提案である。遊具のない幼稚園で走り回れる空間も、コミュニティの緩やかな繋がりに当たる焦点も、利用者が検討できる新たな認識であり、言われてみれば、と刺激される理解に通じる。
こうして、広告の顔であるデザインは広告の全てを語れない。
短歌を読むときにも、広告コピーを読むときにも感じる想像の空間を筆者は好む。この想像を導く言語又は非言語のメッセージを「伝える」術を、佐藤可士和さんは今も続けている。だからこそ、これからをも見据えてその仕事ぶりを目にする機会は、迷いなくお勧めできる。
では、最後に選ぼう。
画家の目を借りて、世界を新しく歩くような錯覚がある。
ロゴマークについて、広告において果たす役割は一部であろうと筆者は述べた。今もそう考える。されど、と続けるデザインの美の魅力はシンボルマーク、そしてロゴタイプの双方に見て取れる。
展示の最後を飾る「LINE」と「FLOW」のインスタレーションは一色の躍動を映像と筆致、それが落着した真っ白な余白とともに、また自然界には存在しない一直線の整えられた枠内において美を表す。
美の持つ力について、音声ガイドの佐藤可士和さんは語られた。
看板を磨く、と書くと『氷川清話』で何気なく言及される店構えの大切さを連想する。痩せ我慢の大事さを勝海舟は語ったのだと解釈しているが、店先に足を運んでもらう大切さにも通じているだろう。こちらに来てもらう、という有り難さに恵まれたいのなら、人事は尽くすべきである。
広告に込められたメッセージの看板となるデザイン。磨ける要素は数多い。
世界の日常に穴を開けるような絵画の強さとはまた違う、日常を彩るデザインの役割。しかし、どちらも人の目に写る美となり、個々の心と記憶に残っていく。同じ源泉から掬った水の使い方は違っても、認めるべき価値はどちらの表現も輝かせる。
ロゴマークを手がけた縁以上に、国立新美術館側が託したメッセージがあると穿った見方を筆者は取る。
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