オールトの雲と鯨の骨

 深海への移住を、他の惑星への移住と同じように語ることはできない。酸素呼吸を選択した身体に残った水温がいま、名前を呼ぶ声を断絶させる。生命体の振動は幽かな叫びだ、ソナーも届かぬ海溝だけが知っている。沈んでゆく、終着点は存在しないと分かりきっていながらも果てを目指して、潜ってゆく。

 科学的な相互反応の結果である筈の情緒をそれとして受け容れることができる、という現象へ疑問を抱いてから、四〇〇年が経っている。見送ってきたパルス信号を数えるのは疾うに諦めた。今はまだ通用している法則の下で、相も変わらず二進法の感情しか覚えられない。

時間は巡っている、常に遠い場所へ保存されている過去、すなわち嘗ての姿の名残を求めるのは、時空旅行さえ可能にする両手に他ならない。好奇心を満たす以外の意味がこの探求にあるならば、新しい棲み処を得ることの意義はどこへ向かうのだろうか。より高次的な生命活動を欲して自ら剥がした能力を他の生物へ外注しながらも、なおも浅ましく、被適応のために植樹は続けている。
最終的に残るのは削り取られた五感の表層だ。質量保存の通用しない表象が沈殿している。実感を脱皮のように捨て去り、あらゆることを知り尽くそうとしても、太陽を手放すことは叶わなかった。やがて寿命も追いつくのだろう、この惑星のほかに縋るものを見付けられぬまま。

 潜ってゆく、耳の奥を締め付ける重みと痛みに心地よさを覚えるのは、細胞が誤解した郷愁のせいだ。この二対の脚は、既に水の蹴り方を知っている。
陸にも海にも居場所を失くした、哺乳類の歌が響いている。数百光年の遥かまで、聞こえている。

オールトの雲と鯨の骨

オールトの雲と鯨の骨

拙作『オキシペタルムと管制塔』より。

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-03-02

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