曖昧なボーダーライン

あおい はる

 いつのまにか、となりの家の犬が、いなくなっていた。冬って、いつが明確な終わりなのか、南風が吹いたら、ものすごく強い、風。トラックが横転するほどの。おまえが云う。生命がいなくなる、明確なラインは、心臓が動かなくなったらなのか、身体の全機能が停止したらなのか、弔われたらなのか、骨になったらなのか。おれは、そういうのは考えたことがないと答えて、たばこを吸う。そろそろ禁煙するべき、なのかもしれない。たばこを製造・販売しているくせに、健康を害うからと、喫煙者を爪弾きにしようとする、社会というやつは。肩身のせまい思いで、辛うじて存在する喫煙所で、たばこ一本あたりの価格を頭の中で計算してみる。コンビニなどで買うときは、なんとも思わないのに、改めてみると、高い。数年前に比べると、爆発的に高い。けれども、吸ってしまう。じぶんをニコチン中毒にしたのは、たばこというものを生み出した社会であるはずなのに。
 ねむれない夜は、ときどき、カレーがたべたくなるよね。
 おまえが言う。先程の話とまったく関係のない、前後の繋がりのない話を、おまえはときどき、ぶちこんでくる。おれは、ねむれないときにカレーくったらますますねむれなくなるだろう、と思う。声にする代わりに、おまえの、むだにさらさらとした前髪に、指をとおす。指と指のあいだを、するんと抜けてゆく。傷みを知らない、清らかな髪が、おまえそのものであるような気がしている。なにも知らない子ども。きたないものとは無縁の、いつも浄められた水みたいだ。おまえはくすぐったそうに、ちいさく笑う。いま、喫煙所に、おれたちしかいないからできることだ。じゃあ昼はカレーにしよう。おれがそう言うと、おまえはすこしむくれながら、きょうはミートソースの気分なのに、と呟く。どちらでもよかった。カレーでも、ミートソーススパゲッティでも、おれはどちらでもよかったので、灰をよくある銀色の円柱の灰皿に落として、空を見上げた。暦の上では春でも、気温は冬、という気象予報士の言葉に、まどわされるときがある。天気予報が寒いというので着てきたブルゾンを、おれはとっくの昔に脱いでいて、正直、邪魔でしょうがない。
「ねぇ、ミートソースでいいよね?いいでしょ?」
 女のおねだりみたいなそれがちょっと可愛くて、自分の頬がみっともなく緩むのがわかった。
 難しいことは二の次である。いまは、たばこをやめるかやめないかで悩んでみて、結局やめないで、ふたりきりの喫煙所で、おまえの、どこか呆けた話を聞いている。それでいいと思う。

曖昧なボーダーライン

曖昧なボーダーライン

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
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