花瓶と眼

糸遊 文

  1. 【序】
  2. 【誘拐】
  3. 【境界】
  4. 【深海】
  5. 【後悔】
  6. 【倒壊】
  7. 【終】

【序】

 私は只、綺麗なモノを愛でて居たかっただけだ。綺麗な華を自らの手で手折って愛した、それだけの事。故に罪の意識も、後悔の意識も湧く事は無かった。手折った愛しき華を美しい容れ物に押し込めて、私が飽きるまで眺める。私の胸を焦がす仄暗い激情で激しく、狂おしく愛でて差し上げよう。例え、華が私を受け容れられずに愛せなくても。全てを拒絶して耳や眼を塞ぎ、枯れる程に漏れる叫声も涙も――全て。
 恐怖心と絶望から溢れ出る涙に濡れ、輝きを増す華の眼には私しか映さぬように。音を立てず躙り寄り、華の花弁に自身の指先でそっと触れる。吸い付くような心地良い触感、少し冷たい体温。覗き込んだ私の顔を捉えて、息を呑む音。微かに震える睫、流れ落ちた涙で濡れそぼった紅い唇が微かに戦慄く――あゝ、その唇も呼吸さえも奪ってしまいたい。
 そう思った刹那、私は華の扇状的な色香に自らの唇を重ねていた。大きく見開く華の眼、潤み快楽に悦ぶ輝きに酔いながら角度を変え深く、心ゆくまで貪った。私と華とを繋いだ銀色の糸が、ぷつんと切れた。快楽に浸る華の上気した頬に乱れた吐息。私の腕にすっぽりと収まる華奢な躯。闇よりも純度の高い濡れ羽色の長髪を梳きながら、愛おしく口付ける。こんなにも美しい私の華を誰の眼にも触れぬよう囲って、愛して差し上げよう。少しずつ優しく真綿でゆっくり、ゆっくりと締め上げるように――これが私の愛し方。

【誘拐】

 それは燃え盛る夕日が沈みかけた黄昏時だった。いつものように酷く退屈な日々をどう乗り切ろうかと考えながら自宅に帰るべく帰路に着いた矢先。黄昏色に染まる静かな公園に佇む一人の人影。長い髪を風に遊ばせながら空を睨むその姿に目を奪われた。
 白地に紅をあしらったワンピース、震える右手には赤黒く染まった小振りのナイフが握りしめられていた。ふと、此方に向けた黄昏色の眼が私を強く捕らえて離さない。鋭くも儚い美しさに私は、生唾を呑み込んだ――欲しい、私だけのモノにしたい。
 気付いた時には私は彼女の頭を抱え込むようにして口付けをしていた。呆然と立ち尽くす彼女の耳の下辺りに指の力を入れながら、微かに鉄の味がする柔らかな唇を楽しんだ。
 かしゃん、と彼女の右手から滑り落ちたナイフが立てた音を聞き、名残惜しむように唇を離す。くったりとした彼女が私の腕に垂れ掛かる。さらりと愛撫するように彼女の頬を撫でる。吸い付くような肌の触感に私はまた、にったりと嗤った。彼女はまだ、目を覚まさない。携帯電話でタクシーを呼び、彼女を横抱きにして早々にこの場を立ち去る。早く彼女を閉じ込めてしまわねば……。
 愛でるべき美しい華を手にした高揚感と、昏く狂おしい程の独占欲が私の胸を焦がしてゆく。車に揺られ帰路に向かう間もどう華を愛でようか、そればかり考えていた。ふと、窓硝子に映った私の顔は、酷く楽しそうに昏い笑みを湛えて嗤っていた。

 閑静な住宅街の外れにひっそり佇む一軒の日本家屋が在った。大きな門を潜ると金木犀の香りが絡みつくように漂う。綺麗に手入れされた庭園を横目に玄関を抜け、磨き上げられた廊下を奥へ奥へと進む。廊下の最奥に南京錠が掛けられた扉が目前に阻む。懐から慣れた手付きで取り出し、鍵穴へと差し込む。
  カチャリ。
 鍵が外される音が私のなにかまでもを外された心地がした。音を立てぬようにそっと戸を引き、ぽっかりと口を開けた暗闇に誘われるように下に伸びる階段を降りてゆく。ギシギシと軋む音が私の鼓膜を揺すって、これからの日々の事を思うと、どろり……と零れ落ちる昏く甘い感情が私の思考を蝕んでゆく。
 階段を降りた先には、木製の牢に囲まれた座敷が行燈に薄く照らされていた。香が焚かれているのか、若しくは牢に使われている木材から発せられているか。どことなく柔らかく、妖艶な香りが微かに漂っている。私の躯にも染みついている匂いだ。彼女もこれから同じ匂いを纏わせるのかと想像するだけで、体温が少し上がった気がした。
「んっ……」
 彼女が少し身じろぐ。彼女が目を覚ます前に枷を付けてしまわなくては。そう思い、そっと畳の上に一旦寝かせ、押し入れへと向かう。敷き布団と枕、長い鎖が付いた枷を取り出し、敷いて皺をささっと整える。そして彼女を抱き上げ、ゆっくりと寝かせる。まだ、彼女は気を失っているようだ。堅く閉ざされた瞼にそっと、唇を寄せ愛撫する。そして、彼女の左手首に枷を填めた。私の手元には、行燈に妖しく照らされた彼女と繋がった鎖が。これで、漸く彼女は私の手の内だ。
「んんっ」
 彼女は重たそうに瞼を持ち上げる。まだ焦点が合わない眼で此方を見て、首をこてんと傾げた。
「……ここは?」
 鈴が鳴るような澄んだ声が、私の鼓膜を刺激する。想像以上に私の好みな声で、嗤いそうになる口元を袖で隠した。そして、努めて穏やかに、人が良さそうな表情を浮かべる。
「私の家だよ。初めまして、私は有成(ゆうせい)と言います」
 まだ意識がはっきりしないのか、ぼんやりとした顔で
「あ……初めまして。はぁ……」
 二、三度辺りを見回した彼女は、漸く意識がはっきりしたのだろう。はっと眼を見開いて私に詰め寄った。
「えっ?! 私、なんで貴方のお家にいるんですかっ?! というか、誘拐じゃっ……」
「はい、貴女を誘拐しました」
 にっこりと彼女へ微笑む。あんぐりと口を開けた彼女。はくはくと、何かを言いたそうに口を開閉させるが、吐息しか零れなかった。私は畳み掛けるように
「でも……貴女も厄介人ではないのですか? 私を罰する為に警察へ行っても、逆に捕まってしまうのではないですか?」
 つつぅと、彼女のドス黒く汚れた染みを指先で撫でながら詰め寄る。息を呑む音が、微かに彼女から聞こえた。
「それは……その……」
 涙声と共に彼女は、頭を俯かせる。あゝ、もっともっと表情を見ていたいのに、と瞼を伏せる。そして、彼女の耳元まで躙り寄り、低く甘い声音で囁く。
「私の元に居なさい。貴女の望むことを全て致しましょう……但し、ここから出して、以外ですれど」
 薄暗がりの中、行燈の微かな光で輝く彼女の美しい髪を指に絡ませ、口付けながら彼女を見やる。彼女は、絶望と安心とを織り交ぜた様な妙な顔をしていた。ほぅっと、息を深く吐き、彼女は何かを決心したようだった。
「同意、と捕らえていいね?」
 彼女の髪を梳くのをやめ、頬へと手を伸ばす。一瞬、ビクリと彼女が肩を揺らしたが、私が触ることを受け容れてくれた。肌の感触を楽しむように撫でながら、自分の場所までどう彼女を堕としてやろうかと想像した。ゆらゆらと行燈の炎が揺れると共に、二つの影も縺れあうように揺れ始めた。

【境界】

 心地良い眠気に微睡みながら、私の胸にすっぽりと収まって寝息を立てている華に眼をやる。彼女との隙間を埋めるように、彼女を抱き寄せる。少し高い彼女の体温と首元から仄かに立ち上る甘い香りに酩酊感を覚える。触れ合っている場所から溶け合って、彼女と一つになってしまえば良いのに。少し残念に思いながら、肌触りの良い長髪を梳く。
「んっ……」
 彼女が身じろぐが、まだ夢の中のようで起きない。堅く閉ざされた瞼、目尻が少し朱く私の欲情をそそる。優しく労るように唇を寄せ、愛撫してゆく。彼女を泣かせたのは私自身だというのに。
 さて。もう少し彼女を愛でて居たいのだけれど、そうも言ってはいられない。今日は、人が私の家へとやってくる。私の担当編集者、水仙君だ。
「彼ならこのままでも問題ないのだけれど。彼女の眼に留まるのは妬けちゃうなぁ」
 枕元に置いておいた煙管箱に手を伸ばし、煙管を口に運ぶ。ゆるりと揺蕩う甘い紫煙が、私の心を少し落ち着かせる。ふぅ、と一息吐いて紫煙を嫉妬共に吐き出す。煙管をもう一度咥え、布団からそっと抜け出す。
 身支度を調える為に、桐箪笥から黒地の着物を取り出し、着付けてゆく。そうだ、水仙君に彼女に似合う着物を見繕って貰おうかな。
 カンッと煙管箱に吸い殻を捨て、新しいものを摘めて火を灯す。彼女はこの紫煙を好いてくれるだろうか。

  リーン――

 不意に、呼び鈴が冷たく響き渡った。漸く彼が来たようだ。彼を出迎える為に此処をでなくては。彼女を起こさぬように音を立てずに、引き戸を引いて階段へと向かう。
「せんせーっちゃんと生きてますかーっ」
 遠く上から透き通るアルトの声音が聞こえる。私好みの綺麗な声だ。ふふっと嗤いながら、彼に会うために暗い階段を上ってゆく。階段の上の方から光が差し込み、壁にもたれ掛かって此方を見やる人影。階段を登りきると、
「やっぱり此方にいらっしゃいましたか……」
 呆れ声が降り注ぐ。声がする方を見やると、細腰に中性的な顔にきりっとつり上がった目元。
「担当作家に会って、第一声がそれって酷いなぁ。ねぇ、水仙くん。私、傷付いて泣いてしまうよ?」
 困った様な顔をしながら彼を見上げる。彼は盛大に溜息を吐いた。
「思っても無いこと言わないでください、時間の無駄です。ところで、進捗の方は如何ですか? 先日は滞っていると愚痴を零していらっしゃいましたが……」
「ああ、それね。うん、良い題材が手に入ったから今日中にでも仕上げられそうだよ」
 私の言葉に、ピクリと眉を上げる水仙君。勘が鋭い子は好きだよ、楽で。
「良い題材とは、もしや前みたいに人を攫ってはいませんよね?」
 にぃっと嗤った私の顔を見た彼は、また大きな溜息を吐いて呆れ顔で見下ろす。
「またですか……此方で揉み消すの大変なんですよ。いち出版会社で、大して権力ある訳では無いのですから。勘弁してくださいよ……」
 ぶつぶつと文句を言いながら、ジャケットの裏ポケットから手帳を出す彼を見ながら悪びれもせず。
「まぁまぁ、今回の子はちょっと訳ありの子だから、大丈夫だよ」
「先生の大丈夫は当てになりませんので。で、どちらの方ですか?」
 メディアに流れて大事にならないように拙い情報を揉み消す為、私から攫った人の情報を手帳にメモを取るようだ。
「んー、この子なんだけど。名前も知らないんだよねぇ。分かったら私にも教えてよ」
 彼に彼女の写真を見せる。連れ去る前に適当に撮った写真なので、少しピンボケしている。それでも、優秀な彼なら人物名から職歴など洗いざらい調べてくれるだろう。
「はぁ、僕なんでこんな探偵みたいなことしているんだろう。編集者ってこんな仕事しないよね……」
 肩を落としながら、彼女の写真を手帳に挟んでジャケットの裏ポケットへ戻してゆく。
「まぁまぁ、その代わり。売れるような良い作品書くから、ね。」
 こてんと小首を傾げながら彼を見上げると、ぺちんと軽く叩かれた。
「当たり前です。では、分かり次第ご連絡致しますので」
 そそくさと帰ろうとする彼のスーツの裾を咄嗟に掴む。転けそうになる彼に少し笑いながら
「そうそう、言い忘れてた。写真の子に似合う着物を数着見繕ってくれない?」
 彼は軽蔑するような冷たい眼を私に投げながら
「……分かりました」
 その一言を残し、さっさと踵を返して玄関へと向かっていった。凜とした背筋を見送りながら持ったままだった煙管に口を付ける。水仙君は、相変わらず冷たい。一度、情を交わした仲なのになぁと、ほんの少し傷心に浸る。
 彼と甘く激しく過ごした一夜を想いながら、ふぅうっと紫煙を吐いて彼の後ろ姿を隠す。彼に似合う着物も誂えておこう。彼女と二人を侍らせられたなら、どんなに甘美だろう。耽美な華が二つ咲き誇る様子を想像しただけで、鼓動が激しく脈打つ。無意識に昏い笑みを湛えながら、彼女が待つあの部屋へと足をゆっくりと向ける。

 窓の無い薄暗い地下へと戻れば、行燈の薄明かりに照らされた彼女。昨夜着せた白い浴衣が少しはだけて、白い胸元が覗く扇情的な姿に私は思わず抱き締める。びくりと震える彼女の躯と息を呑み込む音が、更に私の加虐心を責め立てる。怯える彼女の首元をすんっと嗅げば、甘い香りが鼻腔をくすぐって堪らない気持ちにさせる。彼女の綺麗な黒髪を丁寧に梳きながら、
「おはよう。お風呂に行こうか……」
 彼女の耳に低く囁く。返事も待たず、俯いたままの彼女を横抱きにして浴室へと向かう。
ゆっくりと焦らす様に、彼女の耳に口付けながら。
 浴室へと彼女を運び、丁寧に躯の隅々まで洗ってゆく。白く透き通る彼女の素肌が少し上気して朱く染まる。濡れた髪を掻き上げられて覗く項、滴る雫が妙に私の眼を捕らえて離さない。あゝ、綺麗だ。もっと……もっと見たい――吸い寄せられる様に彼女の項へと口付けて、朱い華を散らしてゆく。
「んっ」
 洗い終えぐったりした彼女を後ろ抱きにして湯船に浸る。彼女の躯のラインを確かめる様にするりと撫でてゆく。彼女が慌てふためいて暴れる所為で、バシャバシャと湯水が氾濫してゆく。それがとても愛らしくて、いじらしくて、抱き締める力を少し強めて密着する。
 反響する彼女の声と水音が、私の鼓膜と思考を蝕んで甘く昏く溶かしてゆく。嬌声も裸体を見るのも初めてでは無いのに、彼女に対してこんなにも心が高揚して止まらなくなるのが不思議だった。美しくて愛しくて、愛したいのに堪らなく酷くしたいと欲望が渦巻く。元々理性などあまり持ち合わせていなかったけれど微かに残ったものさえも捨てて、名も分からないこの昏い感情に溶け合ってしまおうかと、彼女の唇を無理矢理奪いながら昏く堕ちていった。

【深海】

「可愛い」
「綺麗だよ」
「愛してる……愛してるよ」
「もっと、もっと……綺麗な君をよく見せて」
 耳元で吐息混じりの甘い彼の囁きに私は容易く絡め取られて、身動きが取れなくなってゆく。もう、何が正しくて、何が間違いなのか判らなくなってゆく。彼に抱き込まれ、昏く熱を孕んだ眼で見つめられながら彼へと深く、深く沈められてゆく感覚。ぴちゃぴちゃと水音が鼓膜を冒し、口腔を蹂躙する彼の舌と熱い吐息に……上手く息継ぎができない。涙で霞んでゆく視界に嗤う彼の姿がなんとも艶美で。羞恥と快楽が織り、交ざりはしたない声が私の口から漏れる。そんな私を彼は嗤いながら、飽きる様子もなく愛撫する手を止めない。
「ねぇ、君。紫苑(しおん)って言うんだってね」
 火照った頬に少し冷たい唇。ちゅっちゅっと可愛らしい軽いリップ音。犯人は彼。
「君にぴったり……凄く綺麗な名前……好き」
 唇を私から離し、うっとりとした眼で見つめる彼。ゴツゴツした指先で私の髪を絡め取る。
「ねぇ、紫苑の声聞きたい……」
 子供のように強請りながら再び、私の口腔を蹂躙してゆく。密度を増してゆく彼が纏う空気に反比例していくように、彼の眼は凍てつく様に昏く冷えてゆく。その深淵のような眼に私は惹き込まれる。
「ねぇ……私だけに聴かせて」
 掠れた低い彼の甘い囁き。私の首元にすっと伸びる彼の大きな掌。ぐっと絞められる。
「あっ――なにっ」
「っふふ、やっと紫苑の喘ぎ声以外が聴けた」
 そう嬉しそうに微笑みながら、首元から手を離してゆく彼。
「ごめんね、痛かったよね……」
 少し痕がついた首に触れる口付けを幾つも落としてゆく。この部屋を満たす熱く濃密な空気に溶かされた私の思考は、何もかもを放棄した。逆上せた様なふわふわとした頭で彼を見やると、目が合って至極嬉しそうに微笑んでいた。絡み合う私と彼の視線。また、彼の唇が私の唇へと近づく。

「先生、準備できましたが如何致しますか?」
 すっと、襖が開かれ冷たい外気が私の頬を撫でる。声のする方へ眼を向けると、紺に白い水仙が咲き乱れる着物を着た麗人が佇んでいた。その儚く綺麗な出で立ちに、つい見惚れてしまった。
「あゝ、ご苦労様。じゃぁ……行こうか」
 彼はそう言って、私を抱き上げた。
「ぁっ、離してっ」
「駄目だよ、暴れちゃ。落として怪我しちゃうよ?」
 幼い子を宥める様に耳元で低く囁く。ぐっと力が強まった腕に私は離して貰うことを諦めた。大人しく彼に抱かれ、廊下へと出る。
「せんせい、僕先に行っていますね」
 すたすたと歩いて行く麗人の彼。不思議そうに彼の後ろ姿を見送っていると、彼が教えてくれた。
「彼は水仙くん。私の担当編集者なんだよ」
 とっても優秀なんだよ、と彼は少し自慢げに話す。彼もそんな顔をするのだと、意外に思った。もっと彼の色んな顔が見てみたい、そんな欲が少し私の心に生まれた。
「さて、お喋りしてたらあっという間に着いちゃったね」
 もうもうと湯気が立ち込める浴室。湯が張られた湯船に水仙くんと呼ばれた彼が、気怠げに着物を着たまま浸っていた。
「待ちくたびれましたよ、先生。さっさと始めてください」
「はいはい、水仙くんはせっかちだねぇ」
 彼は小さく溜息を吐き、私を彼がいる湯船へと投げ入れた。
  ――ばしゃんっ
 飛び散り、零れてゆくお湯。じんわりと浸食して着物を濡らしてゆく。張り付く髪と着物が気持ち悪い。湯船から出ようとする私の腰をぐいっと力強く抱かれた。
「良い子だから、大人しくしてて……」
 彼とは違う少し高い声。水仙さんが私の耳元で囁く。水仙さんから離れたくて、ばしゃばしゃと激しく抵抗する。それでも、やっぱり男の人の力には勝てなくて。更にキツく抱き締められ、動く事もできなくなってしまった。絶望に沈んでいる私の耳を水仙さんは、ちゅっと口付けた。
「先生の要望。良い子だから僕の言うこと聞いて……?」
 私だけに聞こえる声でそう言いながら、私の耳を舌で犯してゆく。ぴちゃぴちゃと淫らな水音と水仙さんの熱い吐息が私を責め立てる。ぼうっとする意識の中、カタカタと聞き慣れたタイプ音がする。湯気で霞む視界、浴室の入り口にもたれ掛かってパソコンを膝に置き、左手で煙管を吹かしながら私達を見ている眼。じっとりと熱く、それでも慈愛に満ちた眼。
「……いいねぇ、水仙くんそのまま続けて」
 彼はノートパソコンに視線を戻し、カタカタとキーを打ち込んでいく。彼に気を取られていた私は気が付かなかった。いつの間にか帯を解かれ、胸元をはだけさせられていた。
呆気にとられて居ると、水仙さんが意地悪そうな顔をして
「君は僕に集中して……」
 噛みつくように深く口付けをして、私の長い髪を彼に見せつける様に梳く。彼はパソコンと私達を交互に見ながら、作業を進めているようだ。
「ねぇ、君も僕の帯、解いてくれるよね?」
 拒否権なんて無いんだよ、と言うように低く囁かれるお強請り。私は震える手で、水仙さんの帯をするりと解く。はだけて露わになる素肌は、白く透き通っていて見惚れてしまう。
「んっ……いいこ」
 ちゅっちゅっと、はだけた胸元へ彼は唇を軽く触れさせてゆく。少し擽ったくて、つい身じろぎしてしまう。そしていつの間にか彼の手は、私の胸をやわやわと愛撫し始めた。それに応える様に私の口からははしたない声が漏れ、響き渡る。彼等に聴かれている、そう思うだけで恥ずかしくて逃げ出したくなる。羞恥と快楽に溺れながら、再び火照り始める私の体。水仙さんの冷たい肌が心地良くて、するりっと無意識に自身の肌をすり寄せる。
「っ……」
 息を呑む音と止まってしまった愛撫。もっと……と強請るように水仙さんを見つめる。水仙さんの唇が私の胸へと近づいてゆく。其れを遮るように
「できた。書けたよ、水仙くん」
 彼の声が静かに響いた。途端に水仙さんの唇と体がすっと離れてゆく。
「やっとですか……お疲れ様です」
「うん、待たせてごめんね。着替えておいで」
 水仙さんに優しく声を掛けながら、彼は私を湯船から抱き上げる。ぽたぽたと雫が落ちて、彼の着物まで濡らしてゆく。
「紫苑も風邪を引いてしまうから、お着替えしようね」
 ふんわりとバスタオルで私を包み、再び抱き上げていつもの部屋へと向かってゆく。水仙さんは? と振り向くと、彼はさっさと着物を脱ぎ捨てスーツに着替えている所だった。先程の行為を思い出して、すぐに眼を逸らした。そんな私を昏く熱く濁った眼で見ている彼に気付かずに。

【後悔】

 僕は先生に彼女、紫苑さんの素性を全て報告してしまった事を後悔している。先生が今まで以上に彼女を好む事が目に見えていたし、益々のめり込んでしまうのではと危惧していたからだ。案の定、先生はずぶずぶとのめり込んで、閉じ籠もってしまった。唯一、僕の訪問だけは許して頂けた。その時、先生に呼んで頂けた事の嬉しさと、彼女への嫉妬が僕の胸を締め付けた。
 先生から電話を頂いて原稿を頂きに訪れた時、挨拶もそこそこに渡された着物。
「これは? 僕は原稿を受け取りに伺ったのですが?」
 眉をひそめながら、先生に問う。先生は面白い悪戯を思いついた子供のような笑顔で。
「水仙くんへのプレゼント。これを着て、紫苑との絡みが見たいんだ……きっと、美しいと思う」
「……原稿は」
「ああ、水仙くん達を見ながら書き上げるよ。それで、良いだろう?」
 僕の耳元で吐息混じりに先生は囁く。低く甘い声にくらりと眩暈がする。僕は先生に逆らえない。静かに縦に頷き、先生の脇をすり抜け家の中へと逃げ込む。背後では、くすくすと笑い声が聞こえたような気がした。
 いつも通して頂く一室で、先生からプレゼントを広げる。紺色の生地に咲き乱れる水仙の花。絹のしっとりとした肌触りが心地良い。
「水仙……僕の名前からかな」
 先生が僕の事を少しでも考えてくれたのかと思うと、顔が少し緩んでしまった。これから行うであろう行為を思い出し、気持ちが陰(かげ)る。手慣れた手付きで着付けをし、気持ちを切り替える様に帯をぎゅっと締めた。着付けし終わり、先生の元へと施錠され隠された階段の下へと向かう。ぎしっぎしっと軋む音はまるで、僕の心の様に思えた。
金木犀が描かれた襖の奥から、微かな水音と喘ぎ声。先生と彼女の密事……僕は一つ深く息を吐いて、襖に手を伸ばす。
「先生、準備できましたが如何致しますか?」
 すっと襖を引いた瞬間、ふわりと漂う甘い香りと紫煙。行燈に照らされた白い肌と欲が孕んだ眼。噎せ返る様な二つの色香。立ち尽くす僕を見つめる、先生の昏い眼。
「わかっているね?」
 音を発せず動く先生の濡れた唇。はっと、我に返って、一歩後ずさる。
「せんせい、僕先に行っていますね」
 掠れて上手く声が出ない。早くこの場から逃げたいと、足早に浴室へと向かう。先生に愛され、尽くされる彼女が羨ましい。彼女を妬む僕の心が悪戯に胸を締め付ける。
 湯気が立ち込める浴室、湯が張られた湯船で彼女と戯れる。これは、先生の要望。原稿を仕上げて貰うための、僕の仕事。なのに、彼女に触れる度、彼女の色香に酔ってゆく。
 反響する甘い啼き声。しっとりと色づく肌。何よりも、僕たちを見つめる先生の眼。その熱く昏い眼が僕を酔わせ、昂ぶらせてゆく。彼女に触れながら、先生に触れられた日のことを思い出す。大きな手で触れられた場所が、触れても居ないのに疼く。不意に彼女からすり寄られ、先生の姿と被って息を呑む。もっと……と強請る彼女の眼に溺れながら、先生への想いを懺悔する。あの日、先生に抱かれた夜、拒絶せずに先生の全てを受け容れていたなら、彼女よりも僕を愛してくれただろうか。今更後悔しても、もう過ぎてしまった事。
「できた。書けたよ、水仙くん」
 先生の低い声が響き渡る。あゝ、もうその眼で僕を見てくれない。先生の眼は、愛情は全て彼女へと向かってしまった。僕は、そっと瞼を閉じ、一つ呼吸をする。再び開けた時は、いつもの僕に戻る。

【倒壊】

 私が定めた儀式。それは、愛し尽くして満足したら、愛した人を殺し食すこと。なぜ、いつ始めたかなんて、とうに忘れてしまった。それでも、今まで貫いてきた。人を殺めてしまうことも、人肉を喰らうことにも罪悪感など感じない。感じるのは幸福と少しの感傷。
 今回も同じだと思っていた。彼女、紫苑を愛し尽くしてしまったら、私の一部になってしまうのだと。それは何だか、寂しいと感じたし、愛しささえ増した。
 黄昏を詰め込んだような眼と色白の肌に映える濡れ羽色の長髪、澄んだ声。今まで出逢った美しい人達よりも儚く美しい紫苑。紫苑の事を知れば知るほど募る想い。それに反比例する様に燻る虚無感。紫苑を食べてしまえば、私の一部にしてしまえば、この虚無感は満たされるだろうか。紫苑に触れ、愛を囁くその時でさえ、私の胸の奥底で燻る昏い感情が、虚無を満たせと咆える。餓えた猛獣を鎮めなければ、私は狂ってしまいそうだった。だが、満たす方法は肌を合わせること、食すことしか知らなかった。
 月が隠れる新月の夜、私は何時ものように紫苑を抱いた。金木犀の香りで満たされた部屋。薄暗く、行燈の僅かな光がぼんやりと浮かぶ。微かに響く、私と紫苑の吐息混じりの嬌声と水音。密度が増した空気は重く、息苦しい。唯々、目の前の華の色香に酔い痴れ、溺れてゆく。
 シーツばかりを握り締めていた紫苑の手が、不意に私の首元に伸びる。私を求めて抱きつくように、縋るように。その姿に私は虚を突かれた。
「私を受け容れてくれるの?」
 無意識にそう紫苑に訊ねていた。紫苑は喘ぐばかりで応えてはくれなかった。それでも、私には充分だった。餓えた猛獣は満足したのか、吼えなくなった。
「ねぇ、私が居なくなっても君は、私のモノだよ。君が忘れても」
 紫苑に自身を激しく穿ち、忘れさせない様に刻んでゆく。こんなに満たされた気持ちは初めてで、心地良い酩酊感に溺れながら欲を放つ。気を失った紫苑の体を清め、浴衣を着せて寝かす。寒くないようにと、紫苑に藤の花が散る羽織を掛けた後、煙管箱を引き寄せて紫煙をくゆらせる。ゆるゆると立ち上る煙草の香りが、部屋を塗り潰してゆく。未だ高揚感と幸福感に浸っている思考のまま、はだけた着物を直してこの場からそっと離れる。
 階段を上がり、そのまま真っ直ぐ玄関へと向かう。もう、この後のことは決めてある。その為に水仙くんにお願いの電話を掛ける。
「水仙くん? 夜遅くにごめんね。紫苑の事含めて、これからのことを宜しくお願いするよ」
「え? あゝ、水仙くんに全て譲渡するようにしてあるから、好きなようにして」
 水仙くんの慌てた声が珍しくって、つい笑ってしまった。私が消えた後のことは水仙くんが上手く処理してくれるだろう。面倒な事は予め処理しているから、特に問題無い。私は満足げに月が隠れている夜空に向かって嗤う。
「もう、充分に愉しんだ」
 誰に言うでもなく、そう呟いて私は闇夜に溶け消えゆく。

【終】

 彼の愛し方は常軌を逸していた。法と倫理とを犯した愛情は、途轍もなく重い鎖だった。しかし、それは純粋に心から愛し慈しんだ結果なのだろう。彼の眼や声に宿る熱は狂おしい程に激しく、触れる冷ややかな手は酷く優しかったから。誰よりも熱く、激しく――優しく。愛してくれと乞うことなく、ただ一方的に愛を与えてくれた。
 今の私なら、彼が望むだけ彼を愛せるだろうか。彼を許し、受け容れることができるだろうか――繰り返し考えてしまう。彼の素顔を垣間見た夜に霧の様にふっと、私の前から消えてしまった彼の事ばかり。最初で最後の彼との甘く苦い密事。掠れ吐息混じりに囁いた、彼の酷く傲慢で甘い言葉が忘れられないでいる。今でも私の心は彼の呪縛に囚われたままで、上手く呼吸ができない。私を縛る彼を憎めず、愛おしいと想ってしまうのはきっと……狂ってしまった所為。
 藤の花が咲き誇る羽織の裾が、風に弄ばれて翻る。彼が最期に贈ってくれた愛情。ぽたり、通り雨が私に優しく降り注ぐ。私の名と同じ花を掻き抱いて慟哭する。彼を、彼の愛を求めて――ただ独り。

花瓶と眼

花瓶と眼

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