綴じた匣庭

糸遊 文

  1. 零れ落ちる寒椿
  2. 花筵に溺れる月

零れ落ちる寒椿

 穢れの無い真っさらな雪に恋をして溺れてゆくように、一枚、また一枚と舞い散る寒椿――静寂。ぴんっと張り詰めた早朝の空気の中、恋い焦がれ散った紅は私の胸を打つ。ひとつ、白い吐息を漏らし、開け放った広縁の硝子戸を引いて寒々しい外界と断ち切る。そっと掏り硝子で遮られた外の恋路を想い、自身の心と重ねた。
「今日はやけに冷えるな……」
 褞袍の袖の中に冷え切った手を仕舞う。年を重ねてゆく度に凍てつく寒さが躯を蝕んで、心までも凍えさせて仕舞うのでは無いかと不安に駆られる。冷えてしまった躯を温めようと、雪化粧した庭をぼんやりと横目に炬燵を設えた部屋へと足早に向かう。
 はらり、また。白に重なり落ちる小さな紅。紅い寒椿を植えたのは先代だった。愛しき妻へ、控え目な紅き花に込めた密やかな愛の告白。
「花言葉は確か……」
「“あなたが最も美しい”」
 甘いテノールの声音が私の鼓膜を震わせる。私の腰に巻き付く腕、じんわりと伝わる熱が私に良からぬ事を期待させる。耳元でそっと、吐息と共に囁かれる甘言。私が振り解かない事を知っていて、悪戯に私を抱き寄せる悪い男。
「……雪」
 私の応えを窺う男を愛おしく想い、私の首元へ埋めた頭を優しく撫でる。男から微かに漂う伽羅の香り。私の匂いで塗り潰したいと、頭を擡げる欲望を押し殺す。
孝昭(たかあき)、」
 するり、私に絡む彼の腕を誘うように撫でる。ゆっくりと彼の拘束が緩んだ隙に身を翻し、彼の頬を両の掌で捕らえる。彼の双眸は少しばかり大きく見開いたが、そっと瞼を閉じた。私から彼へ、唇に花弁がそっと触れる様なキスを贈る。
「雪」
 それだけ? と薄墨色の双眸が拗ねたように訴える。子供が拗ねたようで愛らしく、思わず笑みが漏れた。彼の眉がきゅうっと寄り、更に眉間の皺が深まる。
「ごめんなさいね?」
 態とらしさが滲み出るが隠しもせず、覗き込みながら何かを言おうと口を開いた彼の唇を強引に奪った。

――ぱちんっ。

 はっと、目を見開く。手元を見やれば、手によく馴染んだ鋏と瑞々しい水仙。目の前には空っぽな花器が鎮座していた。
「旦那様?」
 ゆらゆらと湯気が昇るお茶を盆に載せて、今し方やって来たのだろう青年が私を訝しみながら傍に寄る。ことり、と近くの文机に置き、不安げに揺れる双眸を再度、此方に向けた。
「如何致しましたか? やはり、火鉢をお持ち致しましょう」
「あゝ、大丈夫。お茶を頂いたら、少し出掛けてくるから」
 享章(ゆきふみ)から白磁に紅椿が描かれた湯飲みを受け取る。知らず冷え切っていた私の掌をじんわりと温め、心まで解してくれるようであった。無意識に閉じていた瞼を押し上げ、此方を窺う享章の視線と絡む。何かを押し殺し、淋しげにゆらゆらと彷徨う双眸をじっと見詰めた。私の胸の奥底から這い上がってくる化物に気付き、ぐっと唇を噛み締め押しとどめる。享章を「誰か」と重ねて仕舞いそうになる時がある。私がそんな事を思っている事も露程も知らず、享章は怖ず怖ずと訊ねてきた。
「……お帰りは何時頃になりますでしょうか?」 
「そうだねぇ……日暮れまでには帰るから」
 享章が淹れてくれた玉露を味わいながら、曖昧に答える。明確な時間の約束など出来やしない。彼の前では――。余所へと思考が旅立ちそうなのを必死に繋ぎ止める。そっと差し出された盆の上に湯飲みを置き、置き去りになっていた水仙達を包装紙で包む。可憐な黄色い花弁が小さく揺れる。其れは私の心であり、水仙の様な佇まいの彼への自惚れた想い。厚手のコートを手に取って羽織り、重い腰を上げる。水仙の花束を片手で持ち、享章を見ることなく形式だけの挨拶をする。
「……では、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ、お気を付けて……」
 磨き上げられた廊下をゆっくりと進む度にきゅうっ、小さな鳴き声が一つだけ追い掛けてくる。どんなに耳を澄ませても、一つだけ。得も言われぬ淋しさを手引いて玄関へ。広々とした玄関に白緒の雪駄がちょこんと一足、主を待っていた。当たり前の様に引っかけて、彼に会う為に凍てつく外界へ赴く。

 穏やかな青碧を一望できる小さな丘にひっそりと佇む小さな墓石。溶けかけた雪の下から顔を覗かせる福寿草の黄色。彼の名が刻まれ、永久に眠る証の前に跪き、水仙の花を手向ける。そして――彼の声を、姿を求め想いて、瞼をそっと閉じた。肌を刺す潮風が私のなけなしの心を零れ落ちる涙と共に何処か遠くへと攫ってゆく。あゝ……どうか。彼への想いだけは、彼との思い出だけは、攫わないで。
「孝昭」
 潮騒に掻き消されそうな程の小さな声音。一度吐き出して仕舞えば、箍が外れた様に彼を求めて、唯々哭く。ほたほたと流れ落ちる雫を拭うこともせず、濡れた頬はひりひりと痛んだ。
「孝昭、孝昭、たかあき……」
 応えてくれる愛しき声は亡く、私の声だけが虚しく風に吹き飛ばされる。こんなにも彼に焦がれているのに、私だけがこの世に取り残されている。
「私も連れて逝ってくれたら良かったのに……」
 寂しくて、空洞で寒々しい私の心を満たして、温めて欲しいのだと亡き愛しき人に乞う。それに応える様に何処からともなく海猫がやって来て、一つ鳴く。ゆっくりと俯いた顔を上げれば、青碧に沈む黄昏が私の心を捕らえた。雄大な青碧に沈む黄昏は、何時見ても私の眼を、心を、捕らえて放してはくれない。
「誰かさんと似ていて……一等、好きなんだ」

 遠き日の彼との淡い思い出が蘇る。彼が私に贈ってくれた甘い蜜の様な告白が、私の心の空洞を満たしてゆく――此処にも彼は居てくれたのだ。そう、思えただけで。満たされた私の心は明日へと生を繋げようと、小さく脈打つ。彼の居ないこの世は冷たく寂しいけれど。彼との過ごした日々を想い辿りながら、四季折々の花を愛でて私の人生を全うしよう。

 青碧が呑み込んだ黄昏、何時かまた、巡ってゆくのだと信じて眠る。巡り巡って、辿り着く先は――白き花が咲き乱れる季節。

花筵に溺れる月

【花筵に溺れる月】

 真夜中に下駄も履かずに庭へと出る。ひんやりとした土の温度と柔らかな花弁の触感。足裏が汚れることも厭わず、歩を進める。夜を裂くように、泳ぐように。宙からひらひらと舞い落ちる一片の徒桜を掬う。肩に掛けていた羽織が風に戯れ、夜を誘う尾鰭のように綻び融け合う。
「雪、」
 甘いテノールの声音が、真夜中の静寂を破った。呼ばれた方へと視線を向けると、縁側に佇む人影。満月の青白い光が全てを雪之丞の目前に晒す。柱にもたれ掛かるように佇み、名を呼んで現実に引き戻したのは孝昭だった。
「孝昭」
 それ以上の言葉を発してはいないのに、孝昭は沓脱ぎ石に置かれていた下駄を履いて此方へやってきた。風と戯れ揺れる髪に指を絡め、び始める。
「月に還ってしまうのかと思った」
 強く腕を引かれ、ぎゅうっと抱き締められた。孝昭が纏う白檀の香りが鼻孔を擽り、少し早めに脈打つ鼓動が胸を穿つ。髪を弄んでいた指が、掌ごと雪之丞の後頭部を覆った。じんわりと孝昭の体温が馴染む。
「還ったとしても、連れ戻してくれるんだろう?」
 子供みたいに愚図る姿に愛しさが溢れ、小さく微笑みが零れる――あゝ、なんて可愛くて愛おしい人。溢れて漏れでる感情に身を委ね、慾のままに彼に触れる。すこし、冷えた手の甲が心地良い。投げられた問いに答えてはくれず、食むように唇を奪った。
「ッん、」
 初めは唇が触れるだけ、徐々に深さを増してゆく口吻け。舌を絡め合い、互いの呼吸さえも奪うように幾度も重ねる。酸欠で霞んで歪む視界に映る雪之丞は静かに笑みを一層深め、孝昭の唇にもう一度、触れる。頬を包む掌の冷たさとは対照的に熱く、時折、漏れる吐息は甘く蕩けきっていた。
「桜と月を肴に一杯……付き合って?」
 口吻けの合間、孝昭の慾を誘うように胸元に手を伸ばしながら誘う。乱れた呼吸のまま、彼は小さく頷いた。するり、と頬を撫でながら笑みを溢す。
「じゃぁ、とっときのお酒を用意してくるから……待ってて」
 頬をほんのりと赤らめる孝昭に触れるだけの口吻けをして、厨へと足を向ける。彼に触れた躯が享楽を求めて疼くのを押し留めながら、酒を棚から出して盆に乗せた。
 厨から磨き上げられた廊下を滑るようにして、この家の最奥――庭の桜に一等近く、灯りが灯らない部屋へと赴く。音を立てずに引いた襖の先には、桜の花弁が畳一面に敷き詰められて淡く色付いていた。開け放たれた障子から月白の満月が覗き、縁側で胡坐をかいて座る孝昭を淡く照らし出している。

 ――ことり。

 孝昭の傍に盆と雪之丞は腰を落ち着かせる。ちらりと此方を見て何を言うでも無く、二つ並べられた盃に酒を注ぐ。風の気紛れか、ひらひらと花弁が盃に舞い落ちて酒に溺れた。
「待たせてしまったね?」
 何も喋らない孝昭から盃を受け取り、少し口に含んで彼の唇に触れる。閉ざされていた唇をこじ開け、逃げ惑う舌を絡め取る。唇の端から飲みきれなかった酒が一筋、首を伝って鎖骨へと流れ落ちた。それを舐め取るように舌を這わすと、びくり、と大きく躯を跳ねさせる孝昭を抑え付けたい衝動に駆られる。
「……待った」
 熱に浮かされた様にとろり、と蕩けた貌と熱を帯びた掌が雪之丞の手首を掴む。責め立てるように、どこか縋るように揺らめく孝昭の瞳が、雪之丞の箍をいとも簡単に外させた。ぐっ、と勢いのまま押し倒すと、舞い上がっては彼等に降り注ぐ桜の花弁は嘲笑う。
 そっと胸元から手を差し込み、孝昭を包む衣を焦らすようにゆっくりと剥いてゆく。陽に晒されていない白い肌はさらりとした触り心地で、慎ましやかな蕾は緩々と頭を擡げ始めていた。肌蹴た裾から覗く太腿を緩りと撫でると、小さな嬌声が吐息と共に漏れる。掌をゆっくりと太腿から付け根へと滑らせてゆく。距離が縮まる度に躯を跳ねさせる孝昭は、雪之丞の慾を酷く煽った。
「お酒? それとも……私?」
 窮屈そうに布を押し上げる孝昭の肉楔を布越しに擦り上げる。彼の唇から、酷く甘い嬌声が零れては消えていった。ぎゅっと眉間に皺を寄せ、快楽に溺れまいと理性にしがみ付くいじらしい姿に雪之丞の加虐心がより一層、煽られる。
「っぁ、ん」
「喘いでばかりいないで、答えて?」
 縛める布を剥いで直接、つぅっ、と焦らす様に触れる。首まで朱色に染めながら顔を逸らしながらも一際、大きく躯を跳ねさせた。ぬちぬち、と厭らしい粘着性の水音と熱く漏れる吐息が互いの理性を犯してゆく。
「ぅぁっ、ゆ、雪を、」
「うん、」
「ゃ、ぁっ、雪が。あぁっ、欲しっぃ」
 雪之丞が強制的にもたらす快楽に呑まれながら、孝昭は息も絶え絶えに答えた。待ち望んでいた答えを受け取って、絶頂に向かわせる為に緩慢に擦り上げていた掌を早める。熱で潤んだ瞳で雪之丞を見詰めながら絶頂へと追い詰められ、容易く果てた。勢いよく飛び散った白蜜が清らかな徒桜を汚す様を愉悦に浸りながら眺める。
「私はね、お酒も欲しいなぁ」
 お盆を引き寄せて、盃になみなみと酒を注ぎ込む。そして――孝昭を組み敷いたまま、見せつけるようにゆっくりと呑み下す。熱に浮かされた視線を感じながら一口、また、一口と。孝昭が痺れを切らして、ちょっかいを出してくれると期待して。
「っ……ゆ、き。もう、“待て”は――」
 出来ない、と脚を腰に絡めて、雪之丞の淫柱を悪戯に掌で弄ぶ。窘めるような視線を送っても孝昭は素知らぬ振りで、尚も熱い掌で触れるだけの愛撫するだけだった。
「駄目、もっと可愛くお強請りしてみせて?」
 ぐっと押し黙る、孝昭。じっと睨むその瞳には、快楽と情欲に濡れてゆらゆらと揺らめいている。快楽に沈む孝昭を虐めて愉悦に浸っていた雪之丞の襟ぐりを掴んで、強引に唇を重ねた。孝昭の燃えるような舌が薄い唇を無理やり割り開き、はしたない水音を立てながら雪之丞の逃げ惑う舌を絡めとる。たらり、と唇の端を伝う唾液を拭う余裕も、吐息と共に奪い去っていた。
「雪っ、雪を、ちょうだい?」
 羞恥か、それとも酸欠の所為で頬が更に熱を帯び、朱色が濃く滲んでいた。互いの唾液が入り混じった液で、てらてらと厭らしく輝いて淫靡さを誘う。そんな彼を見下ろしたまま、雪之丞はぬるま湯に浸りながら嗤った。
「いいよ……余すことなく、全部注いであげる。だから、」
 私だけをみていて、と甘く低く耳元で囁いて、紅く熟れた彼の耳を舐った。耳朶から、首筋へと舌を這わせてゆく。不意に鼻孔を擽る微かな白檀の凜とした香りが、欲情に濡れきった彼に清らかさを与えるのだった。
 ゆっくり、じっくりと焦らすように孝昭の秘部へと指を這わす。可愛がるようにくるくると入り口を撫でた後、溶かすように一本ずつ指を埋めた。
「ッぁ、」
 酷く甘い嬌声が零れ落ちては、雪之丞は舌で掬い絡め取ってゆく。静寂な空間は忽ち、卑猥な音と艶やかな嬌声で塗り潰されていった。噎せ返る程に蔓延する彼等の慾に充てられ溺れながら、静かに散り逝く薄桜と冴えゆく白月。

 雪之丞によって纏っていた衣服は全て剥ぎ取られ、代わりに淫情を色濃く纏う孝昭の素肌は冴えた月光に曝されて一層、淫らにでもどこか壊れてしまいそうな繊細さをもって薄桜の海を漂う。いつも纏っている香の香りは既に消え失せ、微かな汗ばむ肌の匂いに交じって甘い花の香りが彼を守らんと鼻腔を刺激し、雪之丞を苛立たせた。
「……気に入らない」
 未だ敷き詰められた薄桜の海を皺が寄ってしまった着物を舟にして微睡む孝昭の肌にそっと、指先から触れる。しっかりと厚みのある肩先から喉仏、紅い華が咲き誇る双丘へと彼の性感帯を辿っては、零れ落ちる甘い吐息雑じりの啼き声と湧き立つ色香に溺れていった。
 もう、いっそのこと――。
 このまま、孝昭と共に引き戻れなくなるところまで溺れてしまえたら良いのに、と仄暗い思考が一滴、心に落ちるのを感じた。それでもまだ、孝昭が私の手を引いて正しい路へと導いてくれるから、正常さを保っていられる。――ほら、また。
「ゆき?」
 雪之丞を捉える両眼はどろり、と快楽に蕩けきっているのに、その奥にゆらゆらと揺れる不安が灯っていて。縋るように、導くように頬に添えた掌が優しく責めた。

綴じた匣庭

綴じた匣庭

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日 2021-02-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted