短篇Ⅰ

糸遊 文

雨宿り

偶然、雨宿りしたその場所が何やら美術館の様な建物で。

 一歩踏み入れた瞬間、其処は少し異世界の様な雰囲気が漂っている。

 飾られた作品達は様々で、誰かの眼に留まるのをそっと待っている静寂。

 言葉など要らないその空間に訪れた人はふと、立ち止まる。

 ふと、気付くと隣に見知らぬ人が同じように佇んでいた。

「綺麗ですよね」

「好きな作品なんです」

「僕も好きになりました」

 なんて、偶然居合わせた人と少しだけ言葉を交わす。

 雨が止むまで、飾られた作品を愛でるのも良い。

 或いは、自身の愛する作品を飾るのも良い。

 降り注ぐ雨の滴の様にひとつの粒が線となって、誰かの縁と結んでいくように。

縹渺の深藍

 夕陽が静かに海へと沈み、夜を引き連れる波を蹴飛ばす君。静かに潮騒と潮風に攫われる砂の音に耳を傾け、じっと目を凝らした。君が夜に攫われないように、君が僕から離れていかないように。
「ねぇ! そんなに睨んでたら、嫌われちゃうよ?」
 何時の間にか僕の目の前に君が居て、少し困った様な笑みを僕に向けていた。目を白黒させる僕に構わず、眉間に人差し指の腹を押しつける。
「なに、するん?!」
「マッサージしてあげてんの! 眉間の皺、まぁた深くしてぇ」
 垂れ眉を更にハの字にして、くすくすと笑う君につられて僕の貌もふわり、と緩んだ。そんな僕の緩みきった頬に君の髪が、悪戯のように触れる。ことん、と僕の心が動いた。触れようと指が動くその瞬間、君の言葉が僕を曖昧に遠ざけようとする。
「ねーぇ(はじめ)ぅ、(かい)君に振り向いてもらうのってどうしたらいーい?」
 さらり、頬に掛かる髪を耳に掛けながら君は僕へ、無邪気に翳を落とす。僕は必死に面倒くさそうな貌を取り繕いながら、どうか僕の気持ちに気付かないでと祈った。
「んなの、知らん。なんで、俺に聞くんよ……」
 言い聞かせる様に大きな溜息を吐き、さも面倒臭そうに答えながら様子を窺う。君はまた、困った様な貌をして微笑んで遠ざかった。
「やってぇ。朔は、晦君と仲良いやんかぁ、ヒントくらいくれたってええやん」
 ぱしゃん、と不貞腐れながら、打ち寄せる波を白い足が蹴り上げる。
「あんなぁ! どんだけ仲良くてもなぁ……ッ!」
 僕の気持ちなんて知らない君が憎たらしくて、つい、声を荒げてしまった。
「っぇ?」
「あ、いや、ちがっ……」
 目線をうろうろと彷徨わせ口籠もる僕と大きな目を幾度も瞬かせる君。潮騒の音と僕の早く脈打つ鼓動が煩い程、耳に反響する。あゝ、気付かないで――。
「朔、」
「なんよ?」
「朔は、ウチが晦君と仲良うなったら嫌なんじゃ?」
 君は少し声を弾ませて、口の端を緩めて僕に詰め寄る。じりじりと、獲物を見つけた獰猛な動物みたいにゆっくりと。僕は混乱した思考のままどうにか誤魔化せないか、そればかり考えていた。
「朔から晦君を奪うウチに嫉妬したんかぁ~。そっか、そっかぁ」
 くふくふと楽しげに笑みを溢す君が、やっぱり憎らしくて。勇気を少しだけ出して、ちょっとした反撃。するり、と君の長く綺麗な髪に自身の指を絡めて、少しだけ僕の方へ引っ張る。
「そぉやぁ、嫉妬してん。晦と仲良うせんといてぇや」
 ちゅっ、と髪に触れるだけのキスを送って、君を上目遣いで見詰めた。柔らかく漏れていた笑い声は止み、声にならない吐息だけが君の唇から零れ落ちる。
(よる)?」
 指に絡んだ君の髪を弄びながら、何も言わない君をそろりと覗う。怒っているんやろうなぁと思っていたのだけれど、君の頬は甘く熟れた林檎のような色をしていた。
「ちょぉ、こっち見んといてっ」
 ばっと、君の小さな掌が僕の眼を覆い隠した。強制的に閉ざされた瞼から伝わる、微かな震えと熱。僕を君は、ちゃんと異性として認識してくれた、それがとても嬉しくて。つい、押し込めていた心が溢れて零れ落ちていった。
「なぁ、宵。俺んこと、意識した?」
 ほっそりとした君の手首を掴んで、僕の視界を遮る掌をどかせる。開けた視界に映ったのは――耳まで紅色に染め、不安げにゆらゆらと揺れる君の瞳が在った。その美しさに、沈黙に息を詰める。君が心を零すまで、じっと耳を傾け待った。潮騒に紛れそうな、とても小さな声音が僕の鼓膜を震わせる。
「……狡い。こん、な朔なんて、知らんよぉ」
「ん? 何それ」
 君を捕らえようと、ゆっくりともう片方の手へと伸ばす。僕の指先が君の指先に触れて、そして。重なり合った掌、君が逃げていかないように絡める指。じわり、と互いの熱が混じり合って一つになってゆく。
「朔は、」
「うん」
「幼馴染みで、ずっとウチの一番の味方で……ずっと変わらずに傍に居てくれるんじゃって思っとった……」
 大きな君の瞳は潤み、今にも溢れて流れ落ちてしまいそうだ。月光の光に照らされて瞬くその小さな輝きが僕には綺麗すぎて、胸を掴まれた様に息苦しい。
「変わらずにずっと? そんなん俺が無理じゃけぇ」
「なんでぇ」
 ぐずぐずと泣きじゃくる君の冷え切った頬を両掌で包み込んで、こつん、と額をくっつけた。君の髪と僕の髪が重なり合って、絡み合って境界が曖昧になる。微かに香る君の匂いに眩暈がして、揺らぐ理性。
「関係が変わったって、宵の一番の味方なん変わらんよ?」
 親指の腹で、君の滴と共に翳を拭ってゆく。どうか、僕の望む結末を迎えられる様に願って。
「それでも……ッ」
 そう言って、君は目の前の僕を視線を逸らして拒絶した。
 それっきり、僕等は互いに言葉を交わすこと無く帰路に就く。一歩離れた先を歩く君に手を引かれながら。

悪い夢だと君の瞼を覆った

 僕が覚えている事はただ一つ。澄み渡る蒼、それだけ。心地良い微睡みに躯を委ね、ふわふわと意識を漂わせる。嗚呼、このまま――。
(あき)?」
 さらりと濡れ羽色の髪が僕の視界を遮り、小さな影が覗き込む。
「曉」
 くいっ、小さな掌が服の裾を引っ張る。僕はぼんやりと振り向く。先程から僕の名を呼ぶ声は――小さな女の子だった。
「……誰?」
「曉、忘れちゃったの?」
 蒼玉のような双眸がじんわりと涙に濡れ、綺羅と瞬く様は綺麗で。僕はつい、其方へと掌を伸ばす。僕の指に寄り添う様に絡む艶やかな髪、指先に触れるきめ細やかな肌。
「また忘れちゃったの、曉は忘れん坊さんだね……」
 僕の掌に頬をすり寄せ、小さな吐息と共に微笑する彼女の名は何だったか。僕は未だぼんやりとする意識の中、必死に記憶を手繰り寄せる。透き通る蒼、――蒼?
蒼生(あおい)?」
 彼女は目を一回り大きく見開く。小さな唇がハクハクと開閉を繰り返すが、言葉は零れ落ちる事は無かった。漸く、瞳いっぱいに涙を溜めた彼女が言葉を紡ぐ。
「……思い出して、くれた」
 ぽとん、彼女――蒼生から零れ落ちた雫が僕の指先を濡らす。湿り気を帯びた指先は、ゆっくりと蒼生の縁を辿る。嗚咽と共に絶え間なく零れ落ちる雫を僕は全て掬い、拭い去る事は出来なかった。僕はまた、蒼生を泣かせてしまったみたいだ。
「ねぇ、今度は何時まで――……」
 僕を覗き窺う蒼生の少し翳った双眸と声が、じんわりと滲んでゆく。嗚呼、また僕は――沈んでゆくのか。寂しげにゆらゆら揺れる此の蒼を見詰め、睡魔に導かれて瞼を閉じてゆく。寂しげな蒼生の声に後ろ髪を引かれながら。

 ゆらり、ゆぅらぁり。頼りなげに揺れ、揺蕩う蒼色を掬い上げては滲む様に雑じる暁色。僕は数回、ゆっくりと瞬きを繰り返す。静寂が支配する空間に僕独り。背中から底へと時を惜しむように沈む。また此処かと僕は陰鬱になるのに、其の原因を理解していない。僕の躯が底へと沈む毎に泡沫が昇ってはぱちんっ、弾けてゆくのを眺める。泡沫が弾けてゆく度に僕の記憶も薄れ、何処かへと弾け飛んで行く気がした。

――曉。ねぇ、聞こえているのでしょう?

 何処からか、柔らかなソプラノが響いてきて静寂を破る。聞き覚えの在るようなその心地良い声音につい、聞き惚れる。ねぇ、もう一度呼んで。僕の名を、その柔らかく美しい声音で。

――ねぇ、曉。そろそろ目を開けて……

 憤むずがる僕を宥める様に愛しげに触れる、温かく柔らかな掌。僕を覆い包む微かに香る白檀。

――もう、全部、忘れちゃったの?

 小さな迷子が母親を探し求めて、泣くのを我慢した頼りない嗚咽雑じりの声が小さく響む。其の声と不明の感情が、ぎしりぎしりと僕の胸を締め付ける。無意識に胸元を強く握り締めていた。泣き虫は誰だ? 僕は誰だ?
 思い出そうと記憶を手繰り寄せるが、何も覚えていない事に気が付いた。唖然とする僕を嘲笑うかのように昇る泡沫。本当に、僕は、忘れてしまったのだろうか……何もかもを。
「まっ、待って!」
 慌てて昇ってゆく泡沫を掴もうと掌を伸ばすけれど、残酷にも僕の指先で弾け消えていった。また一つ、何か大事なものを失った。僕は抗う事を放棄して、瞼を閉じる。そして――深く、深く沈んでゆく。

 ふと、重い瞼を押し上げてみれば。暁色に侵蝕され、滲んだ蒼色と藍色が其処に在った。既に夜が明け、新しい一日を告げようとしていた。
 右手に僅かな暖かみを感じて見やれば、小さく寝息を立てる誰かが居た。安らかに眠る其の寝顔に、僕の心が啼き喚く。声に出さぬようにと唇をキツく噛み締め、掌で口を覆った。
「んっ……」
 もぞもぞと憤る小さな女の子。ゆっくりと押し上げられた瞼から覗く、何処までも清らかで透き通る蒼玉が僕を捕らえた。僕はその双眸に囚われ、身動き一つ出来ないでいた。
「……曉?」
 柔らかなソプラノが僕の鼓膜を震わせる。僕の名前、だろうか。きょとんとした僕に彼女は全てを悟ったのだろう。徐々に翳り、淀んでゆく蒼の双眸。また、僕は彼女を哀しませる。乾いた唇を微かに振るわせながら零したのは、ごめん、の謝罪の言葉だった。
 先程まで雲間から覗いていた朝陽も雲が覆い隠し、今にも降り出しそうな曇天。ぽつ、ぽつり。音も無く降り出した雨に雑じって、彼女の涙も哀しみも零れ落ちてゆく。
 僕は其れさえも掬うことも、拭うことも出来ず。涙で濡れる彼女の蒼が眩しすぎて。俯き目を伏せる彼女を後ろから掌で、瞼を覆った。僕の腕に縋る彼女が、彼女だけが知っている僕の名を呼ぶ声が、僕のがらんどうになってしまった心に残響する。

こんな夜更かしも。

 夜、眠れないと言っていた君にホットミルクを。君の部屋へと通じる扉を3回ノックして、ノブを捻る。一歩、君の部屋へと足を踏み入れば。部屋中を抱き込むように充満するインクと紙の匂い。壁面一杯に並んだ書籍の背表紙達が、僕を優しく迎え入れる。
「栞、」
 ぺたりとラグの上に座り込んで、活字の世界に沈む君にそっと声を掛ける。まだ、君は浮上してくれない。
「ホットミルク持ってきたよ、ちょっと僕に付き合って?」
 ぽんぽんっと小さな肩を軽く叩く。びくっと一つ、大きく体が跳ね上がった。本から視線を上げ、ゆっくりと僕を見る君。その双眸はまだ少し、虚ろ。んーっと声を漏らしながら伸びをする君を横目で見つつ、ローテーブルにマグカップを置いた。ぺたぺたと小さな足音がこちらへ近づく。
「いい匂い……」
「はい、どうぞ」
 君は両手でマグカップを包んで、ちびちびと飲み始めた。ゆっくりと流れる沈黙、偶にはこんな夜を過ごしてもいい。
「はちみつ、入ってる?」
 片肘をついて君をぼんやりと見詰めていた僕に、君は小首を傾げながら問いかける。
「そう。マヌカハニーを隠し味にちょこっとだけ、ね」
「そっか」
 短いやり取り。君はまた、ホットミルクに夢中になる。一生懸命、息を吹きかけ冷ましながら飲む君の傍らには、2冊本が寄り添っている。あゝ、好きだなぁ。そろり、君に触れようと腕を伸ばす。
「そうだ、職場でね……」
 突然、マグカップから顔を上げた君。テーブルの下に隠れていたトートバッグの中をごそごそと探る。
「チョコレート、貰ったから……どうぞ?」
 遠慮がちに差し出された、本型の箱。表紙を捲るように開ければ、中には色取り取りの宝石が並んでいた。
「トリュフチョコ?」
 こくん、と小さく頷く君。俯き前髪で隠されて貌は見えないけれど、項まで紅く染まっていた。その意味を理解したけれど、敢えて口にはしないで。「ありがとう」の感謝の言葉と額に口付けを落とす。益々、色を染める君が可愛くて、愛おしくて、隠しきれず笑みが零れ落ちた。
「ひとつ、頂こうかな」
 そっと、壊れないように摘まむ。口に入れた途端、広がる甘みと酸味に後から追いかける苦み。
「ん? なんだろ、ベリーが入ってる?」
「う、うん? アサイーが入っている」
 本型の菓子箱の裏を見ながら、一生懸命に答えてくれた。ふぅん、と口の中でチョコレートを転がしては、味を追いかける。君は何処か不安げに僕を見詰める。
「ん? ああ、凄く美味しいよ」
 くしゃり、と君の頭を撫でる。安堵した君は、撫でる僕の掌を受け容れた。
「秋、最近、忙しそうだったから」
「僕の為に?」
「う、うん。疲れた時は甘いものが一番、でしょう……?」
 マグカップを両手で包み込んで、カップの縁に唇を寄せながら君は零す。僕のことを想ってくれただけでも凄く嬉しいのに。こんな、プレゼントを貰ってしまったら。君への愛しさで、胸が締め付けられてどうにかなってしまいそうだ。
「ねぇ、」
「なぁに?」
「明日、休みだったよね?」
 ことり、マグカップをローテーブルに置いて、君へと躙り寄る。君が持っていたマグカップも本も奪い去って、君の手の届かない場所へ。空いた君の掌を絡め取って、ベッドへと倒れ込む。今度は僕が君をベッドに沈めて、僕と共に快楽に溺れる。甘く、深く――夜が更けてゆく。

融解

 寂れた雑貨店の窓際で小さなソファの背にもたれ掛かって、いつもつまらなさそうに外界を眺めていた。深海のような深い碧色の双眸に輝きはなく、うっそりと暗い翳を落としたまま微笑んでいる。深緑に水芭蕉が描かれた着物は少し色褪せていて、胸元で結ばれた漆黒の帯はたらり、とソファの足下まで垂れていた。
 私はその翳を落とした深海の色に惹かれ、立ち止まって見詰める。そっと、窓硝子越しに彼女へと手を伸ばした。それでも彼女は私なぞに目もくれず、寂しそう微笑みながらに遠くの景色を見詰めていた。目の前に居るのに、とても遠くに居る彼女をどうしてだろう。抱き締めたくなった。抱き締めて、私の体温を分け与えて安らぎを知って欲しくなった。気付いた時には寂れた雑貨店の扉を開け、彼女の目の前に佇んでいた。そろり、と彼女に触れようと手を伸ばしたその瞬間。
「そいつは売りもんじゃぁねぇぞ」
 そう、お店の奥から嗄れた声が飛んできた。声がした方へ振り返ると、白髪の店主が睨みながら杖をコツコツと鳴らして近付いてくる。私はびくつきながらも、そうですか、と相槌を打った。店主は品定めする様に私を見やる。そして、小さな溜息を吐いた。
「こいつは主人を待っているんだ。悪いが、おまえさんには売れないねぇ」
「はぁ……」
 何を言いただすんだ、と店主を見下ろす。ぎっ、と私を下から睨みつけながら店主は吐き捨てる。
「俺だってなぁ、買い手があるなら売っぱらっちまいところなんだ。こんな鬱々とした貌の人形なんか。こっちまで暗くなっちまう」
 そう言って、ソファから零れ落ちた彼女の髪を指先で弾く。彼女は外界を見詰めたままで、知らん振り。私だけが、言いようのない怒りを腹の奥底で燻らせていた。
「まぁ、与太話はこれぇくらで。ああ、他のもんなら安く売ってやるから、ゆっくりしてけ」
 そう言いながらきびすを返して、杖で床を叩きながら店の奥へと引っ込んで行った。残された私は、再び彼女へと視線を戻す。相も変わらず外を眺める彼女の横顔は、微笑んでいながらも寂しさを孕んでいて。こんなにも彼女に想われ、愛された主人が羨ましくて、嫉妬してしまう。私の方を見て欲しくて彼女へそっと腕を伸ばし、濡れ羽色の髪に絡ませ弄ぶ。艶やかな彼女の髪は、私を拒むように指の隙間から零れ落ちてゆく。こんな浅ましい劣情を抱く自身に冷笑を零した。それでも、彼女の心に触れたくて――許しを乞う。
「抱き締めても、良いだろうか?」
 彼女は何も言わない。けれど、ゆっくりと首を擡げて碧色の双眸が私を捉えた。そして――瞬きをひとつ。私と彼女の視線が漸く絡んだ、その瞬間。私は店主の目を盗んで、彼女を抱き上げて、強く抱き締めた。彼女はゆっくりと腕を持ち上げて、恐る恐る抱き締め返した。

聲が灯る店。

「要らない聲なんて、一つだって無いんだよ」
 項垂れて一人掛けのソファーに沈む僕に彼女は、柔らかな声音で包み込む。棚の奥から鳥籠の様なランタンを取り出して、小さなテーブルにそっと、置いて愛おしそうに撫でた。ひっそりと闇を閉じ込めていたランタンが、ぼんやりと瞬き始める。ゆらゆらと不安定に揺れていた燈が、だんだんと鳥の様な形へと姿を変えた。驚き目を見開く僕を見て、彼女はくすりと小さな笑みを零した。
「初めて見る?」
「うん」
 小さく相槌を打つ。僕の眼は橙色の燈を閉じ込めたランタンに奪われた。橙色の鳥に瞳はないけれど、じっと僕の方を見詰めている気がして鼓動が早くなる。触れてみたくて、そろそろと腕を伸ばした。ランタンに触れる、あと1センチ――かたり、と小さな音が響く。伸ばし掛けた腕を引っ込めて、音がした方へと視線を移した。
 精緻な装飾が施され三日月の形をしたランタンを彼女は、何処からともなく取り出してケージスタンドに吊す。目を幾度も瞬かせ、驚いた猫の様に微動だにしない僕に構わず君は言う。
「君の聲を私に売ってくださいな」
「っぇ?」
 びぃ玉みたいな君の瞳が、真っ直ぐに僕を捉えて離さない。柔らかな空気を纏ったまま、君は優しげに微笑んだまま語る。
「君は、自身の聲を嫌って『要らない』と言った。だから、私に売って欲しい」
「ど、うして?」
 未だに彼女が発する言葉の意味を理解出来ないでいる。僕の聲を売って欲しいだなんて、どうかしている。失笑してしまいそうになるのを堪える為に、ぐっと唇を噛んだ。彼女は真剣な貌を崩さず、僕から視線を逸らさない。
「君の聲が好きだから。君の聲が持つ色や輝きが好きだから」
 恥ずかしげも無く言い切る彼女に閉口した。だからといって……と、うじうじと自身の心に言い訳を重ねてゆく。そんな意気地なしな僕の掌にそっと、彼女は掌を重ねる。
「君が要らないと棄てるくらいなら、私に……」
 そう言って、僕の喉へと空いているもう一つの掌を近づける。ちくり、と小さな痛みがした。そして、彼女の掌には、小さな緑色の燈がゆらゆらと揺れている。三日月のランタンに収められた燈は、ゆっくりと尾の長い小鳥へと姿を変えた。羽ばたく度に、緑色の粒子が舞い瞬く。ぼんやりと眺めていると、段々と僕の視界は閉ざされていった。
「おやすみなさい、よい夢を」
 そう言って、深く深くソファーに沈む僕は額に君の唇と熱を最期に記憶した。

 朝と夜の狭間、薄暗い裏通りに隠れるように佇むランタン売り屋が在る。訪れた者が望むランタンを売ってくれると言うが、彼らを照らす柔らかな燈がナニで出来ているのか、誰も知らない。

夕凪の丘の風見鶏

 からからから……。

 穏やかな碧色の海面が揺れて、陽の光を受けて瞬く。辺り一面、海が見渡せる丘の上にぽつんと佇む一軒家。私は屋根の上で風の吹く儘、気の向く儘に右へ左へ、遙か遠くの景色を見通す。穏やかな海の向こう、未だ見ぬ世界へと目を凝らして想像した。どんな世界が広がっていて、私の知らない生き物が棲んでいるのだろうか。空想に胸を膨らませながら、毎日飽きもせず眺めていた。

 からからから、からり。

 いつ頃からだっただろうか、夕陽が海へ還ろうと傾き始める頃に海風が止むようになったのは。茜さす海面にゆらゆらと燃える夕陽が沈んでゆくのをじっ、と見詰めることしか出来ない苦痛な時間。だって、とても哀しいのだもの。
「あれ? 凪いでる……珍しい」
 きぃ、と寂びた扉を押し開けた一人の少女。キョロキョロ辺りを見渡し、ゆっくりと外へと足を踏み出す。
「うぁああっ、大きな夕陽が落ちる!」
 無邪気にきゃらきゃらと目を輝かせながら、飛び跳ねる。その後ろから、のっそりとローブの裾を引き摺る老婆が出てきた。
「凪、」
「なぁに、おばあちゃん?」
 漆黒のローブからちらり、と覗く濁った月白の眼が少女を咎める。老婆と少女のやり取りに耳を傾ける。
「あまり遠くへ行ってはいけないよ」
 少し哀しみを含んだ声音で老婆はぽつり、と零す。少女はまん丸な眼を更に丸めて、驚いていた。そして、大きな瞳を滴で濡らして、それでも零すまいと必死に唇を噛んで微笑んだ。
「おばあちゃん、私は遠くになんか行かないよ?」
「そうかい……」
「ずっと、おばあちゃんの眼になってあげる」
 小さな掌がローブの裾をきゅっと握った。老婆はフードの影に貌を隠し、家の中へと引き戻そうと足を動かす。
 懐かしくも哀しい時間。延々と繰り返し、もう、何処へも飛び立ってゆく事は出来ない。

夏の終わり

 ぽたり、と蒸されたアスファルトの上に滴が落ちる。あっと声を上げる間もなく、跡形もなく消えていった。それはまるで、僕の心みたいだと踏み躙って見なかった振り。
「なぁにしてんの?」
 ふと、照り返しの酷かった世界に影が落ちる。左手に持っていた食べかけのアイスが、にゅと伸びてきた手に奪われた。薄い唇を大きく開き、そこから覗く赤。シャクシャクと小耳良い音が、僕の聴覚を刺激する。
 ちろりと見え隠れする舌が、僕を誘う。食べたい、ぐるぐると巡る僕の欲望を押さえつけながら、奪われたアイスを取り戻すべく手を伸ばした。

 ――ぼたり。

「……なんで、」
 僕のではない睫毛が震え、くすぐったい。目前に不機嫌な色をした瞳が在った。あゝ、やってしまった。僕はぱっと、詰めていた距離を離して苦笑いを向ける。ぐしゃり、と落っことしたアイスが踏まれて、アスファルトを蒼に塗り潰した。彼は不機嫌の貌のまま、空いた距離を縮める。
「……ねぇ、なんで。なんで、そうやってはぐらかすの?」
 何時もより少し低い声が、僕の鼓膜を震わせる。何時もとは違った彼の表情に僕は、動揺して生唾を飲み込んだ。初めてだったんだ、彼がこんなにも感情を表に出したのは。
「す、好きだったから……つい、」
 思わず漏れ出す本音。今すぐこの口を塞いでくれないだろうか。もしくは、数分前に戻りたい。そんな僕を気にもとめず、彼は大きな溜息をひとつ、吐いた。
「ねぇ、なんでそんなこと、今言うのかな……」
 そっと僕の頬を包み込んで、俯いていた顔を上げて視線を強制的に合わせた。そこには、もう不機嫌な貌は無くて。少し眉毛が垂れて寂しそうな貌が見つめていた。
 彼越しに見上げた空は、蒼から黄昏色へと滲んでゆく。もうすぐ、夜がやってくる。
「だってさ。もう、君とはお別れしなきゃいけないから」
 僕は、僕が想像する綺麗な笑みを彼に返す。少し肌寒い風が、僕と彼の合間を縫うように吹いた。まるで、僕等に出来た溝を確かめるように。
「だったら……っ」
 彼の襟元を掴み、ぐっと引き寄せる。薄い彼の唇と僕の唇を合わせて、呼吸までもを奪った。もう、これ以上何も聞きたくない。刻一刻と迫る別れの時。別つその時まで、彼を憶えていたいんだ。
 ぽたり、少し冷えたアスファルトの上に滴が落ちる。じんわりと滲んで、アスファルトの色と区別が出来なくなった。ゆっくりと瞼を下ろす。再び瞼を上げた時、僕は彼の事など憶えていないだろう。ひんやりとした冷たさと、胸を締め付ける痛みだけ憶えたままで。

零れ落ちゆく月白

 ――ゆらり。

 海面を射す冴えた月光が歪み、沈みゆく私を嘲笑っている。一つ、また、ひとつ。吐き出した生が形作っては、自由を求めて昇ってゆくのを傍観する。耳障りな雑音も波音で掻き消えて、残ったのは私自身の音と海が呼吸を繰り返す音。子守唄の様に揺られながら、霞んでゆく視界と思考。やっと……――。
 死ぬ程に渇望した自由に手が触れそうになったその瞬間、規則正しく刻む音を掻き乱す音と共に力強く現実へと引き上げられた。ゴホゴホと咳き込み、涙と海水で滲む視界に映ったのは。冴えた月白の満月に攫われて仕舞いそうな青年が静かに見下ろしていた。
「……なんで、」
 投げ棄てようとしたのにどうして、と罵倒してやりたいのに。出てくるのは咳と言葉の端だけ。濡れて肌に張り付くシャツと髪が気持ち悪い――最悪だ。此奴の所為で、私は。
「ねぇ、君の命棄てるくらいなら……僕にくれない?」
「は?」
 この儚げな彼は何を言っているのだろうか。突拍子もなさ過ぎて、咄嗟に聞き返してしまった。彼は穏やかな貌を崩さす、私の頬に張り付いた髪に触れる。僅かに頬に触れた指先は冷たかった。
「君さ、自殺しようとしてたでしょ? だからさ。そんなに要らないなら、僕に頂戴?」
 そっと、両頬を包むように触れられて、縮まる彼との距離。厭と云う程に眺めていた海面の様な昏さを孕んだ彼の瞳から、視線を逸らす事が出来ない。なんて冷たく昏い色をしているのに、そんなにも穏やかに微笑って居られるのだろう。
「私の、でいいの?」
「君が、いい。……くれるの? 僕に」
 差し伸ばされた手に自身の手を重ねる。やはり冷たい彼の体温が、不思議と心地良く感じた。
「このまま、僕に攫われてくれる?」
 ちゅっと、甲に触れるだけの口付け。たった一瞬、彼の唇が触れただけなのに。じんわりと熱が全身へと広がって、頬が熱くつて仕方が無かった。彼に悟られないよう、俯いて濡れた髪で隠していたのに目敏く気付かれた。くすくすと笑いを零す彼を睨み付ける。
「……かぁいい」
 ふいっと、むくれた貌を逸らして、怒っているんだぞと意思表示。そんな事はお構いなしにそっと、私の手を引いて何処かへと連れ去ってゆく。いいよ、と許可したものの、何処へ向かっているのか不安になる。
「……ねぇ、何処行くの?」
 淀みなく動いていた足が止まり、私の方を向いて微笑んだ。
「秘密基地、」
 悪戯っぽく笑った彼の弧を描く口から覗く八重歯。『秘密基地』の言葉に心惹かれ、胸が高鳴るなんて、なんて単純。規則正しく刻む潮騒の音が、遠くでそんな私を嗤った。

 秘密基地という名の彼の家へ、上がり込んだ深夜。冷えた躯を温める為、湯船に肩まで浸って人心地着く。
「なぁにやってんだろ……」
 胎児のように膝を抱え、乳白色の湯に沈む。冷静さを取り戻した思考は、後悔ばかりを辿る。何時までも湯船に浸っても埒が明かないので、勢い良く出る。脱衣場にきちんと折りたたまれたタオルとYシャツが置いてあった。びたり、と一瞬硬直する身体。きっと、他意は無くて。
「……ほんと、何やってん、だろ……」
 微かなモーター音を立てて回る洗濯機。夢でも幻でも、幻覚でも無い。私は彼に攫われて、此処に居る。

 ――がちゃり。

 急にドアが開き、にゅっと彼が顔を出す。キョロキョロと見回し、私を見つけて微笑んだ。ふわり、と花が綻ぶような。男の人でも、そんな可愛らしく笑うことあるんだと驚いた。
「珈琲、淹れたから一緒にどう?」
 珈琲は苦手。苦くて、苦くて――苦しくなるから。返答に迷っていると察したのか、また彼は私の手を優しく引いて導く。通された別の部屋は、ソファーとテーブルに真っ白なカーテンとベッド。壁いっぱいに設けられた本棚には、隙間を惜しむ程に本が収まっていた。珈琲の香りとインクの匂いが混じり合って、不思議と心が落ち着く。
「ぅわぁ……」
 繋いでいた手を離し、ぺたぺたとカーテンの向こうへ。風で揺れるカーテンを勢い良く開ける。開けた視界、夜闇に沈む海と冴えた月が浮かぶ夜空が其処に在った。頬を愛撫する様に流れる潮風が、少し冷たくて心地良い。こんな、終焉を迎えるのも良い。彼の存在を忘れ、この景色に融けてしまえば良いのにと願った。

 ――ぱしゃり。

「気に入った?」
 カメラのレンズが、私を捕らえていた。何時の間にカメラを構えていたのだろうか。カメラをテーブルに置き、代わりに珈琲カップを二つもって此方へ歩み寄る。柔らかく微笑んだその貌にほんの少し、悪戯心が顔を覗いていた。
「……う、ん」
 はしゃいでしまった気恥ずかしさを隠す為、手渡されたコップに口を寄せる。口に含んだその後は、優しい甘さと少しの苦さが広がった。想像していたよりも甘くて、ぱっと彼を見る。悪戯っぽく微笑む貌と優しげな眼とぶつかった。私の体温が更に上がるのを感じながら、俯く。なんで、と彼の表情の理由が解らない。
 一際強い夜風が吹き、舞い弄ばれる私の髪とYシャツの裾。青白い光を纏う月が雲に遮られる。息を呑む音と潮騒。
「……ねぇ、死にたい?」
 私の髪を指に絡め、愛おしそうに唇を寄せながら彼は問う。伏して睫によって翳る瞳は、何処か不安げに揺れている――様に見えた。問いに答えようとしたその瞬間、彼の唇が私の唇を塞いで含んだ。珈琲の香りと苦味、湿気を帯びた彼の前髪が睫を擽って遮られる。触れるだけの口付けなのに、上手く呼吸出来なかった。
「……ごめんね」
 離れてゆく熱、泣き出しそうな貌で謝られたら――怒れない。どうしたの、そう理由を問うことも、慰めることも私には許されてはいない。唯々、離れゆく熱に淋しさと胸の痛みに耐え忍ぶだけで精一杯だった。なんて、我が儘な子供なのだろう。

 ソファーで珈琲を飲みながら寛ぐ彼の元へ、今度は私の方から寄る。何も言わず、本に視線を向けたままの彼。恐る恐る、隣に腰を下ろして背中を預けてみる。背中越しに伝う体温と不規則な鼓動。私も彼も、今は未だ、生きている。只それだけことなのに、すとん、と心が落ち着いた。ゆっくりと閉じてゆく瞼、霞みゆく思考に身を委ねて微睡む。死にたくない、そう零したのは、私か彼か。どちらでも、もう、どうだって良い。

 私達は、明日なんて、迎えることないのだから。

戯れ。

 ――静寂。彼と私の呼吸音しか聞こえない……刹那。
 触れそうで触れない、そんな微妙な距離。勇気を出して、彼の指先に触れてみる。指先からじんわりと伝わる、熱。指先が触れた、たったそれだけの事。なんてことない些細な出来事なのに、私の心臓が少し早く脈打ち始める。
「ねぇ……」
 ずっと俯いていた私の元へふと、落ちる影。彼がそっと、覗き込んできた。頬だけで無く、耳までも仄かに紅く色付いているのを彼にも知られてしまう。益々、彼と顔を合わせ辛くて、彼とは逆方向を向いた。彼の動く気配はしない。そんな彼の態度に安堵と共に少し、残念に思ってしまった事に驚いた。
「……なんで、そっち向いちゃうの」
 するり、と私の手に覆い被さる彼の大きな掌。ぎゅっと、少し強めに握られた後、ゆっくりと焦らす様に撫でる彼の掌が降下してゆく。そして――指と指の間を割り開かれて、彼の指が侵入してきた。
「ねぇ、僕の方を向いて?」
 耳元で甘く、低く囁かれる誘惑、彼の吐息が私の耳を擽る。私の思考がぐるぐると忙しなく巡っている間にも、彼の指は絡められたままで――どうにかなってしまいそう。
「ねぇ、はやく。」
 強引に引き寄せられた躯と腕。私の指が絡み合ったその手を持ち上げて、彼はそっと見せつける様に軽く唇を寄せた。ちゅっ、と可愛らしい音が響いた気がした。私は金魚の様にハクハクと口を開閉するだけで、言葉を吐くことが出来なかった。そんな私を見て彼は、くすり、と微笑った。

僕のモノ。

 喉元にひやりとした何か、が宛がわれる。ぷつり、と私の皮膚を少し切り開いて、ゆっくりと肉へ沈んでゆく。じくじくと広がってゆく熱と痛みが私の思考、呼吸さえも奪ってしまった。泣き叫ぶことも、命を乞うことも許されず。ただただ、死へと歩むことだけを許された路しかなかった。何故、どうして――私だけが。
 泣いた、笑った、怒った――様々な表情を見せる君の貌が好きだった。その内に潜む、想いも狂気も見て見ぬ振りをして。
「だって、皆、綺麗な外見が好きでしょう?」
 こてん、と小首を傾げながら、向日葵の花が咲き綻ぶ様な笑みを湛えた君が吐き捨てる。君の夜闇を纏った髪が、肩から流れ落ちて翳るその貌さえも眩し過ぎて、君は直視できなかった。俯いたまま何も言わない僕に君は焦れたのか、そっと近づく。君の形をした影が僕に覆い被さる。まるで、僕を頭から呑み込もうとしているようで。僕の知らない君が少しだけ怖くなった。
「そんなに怯えないでよ」
 するり、と君の腕が僕の首に伸びてきたかと思えば、力強く引っ張られた。ワルツを踊るようにくるりと反転する躯。僕の足は上手く踏み留まれず、君に覆い被さるようにしてベッドへ雪崩れ込む。君は酷く愉しそうに眼だけを歪めて嗤った。ぞくり、と僕の背中を何かが這い上がる。愉しそうに歪む君の貌が僕の理性を全て、焼き切った。あゝ、何て浅ましいんだろうね。「ねぇ、欲しい?」
 僕の吐息が唇に掛かるのか、擽ったそうにする君の指を絡めて捕らえる。唇に触れそうな、ほんの数ミリの隙間を詰問で埋める。そんなの決まっているでしょう、と君は焦れったそうに睨んだ。そんな愛らしい姿を目の当たりにして、僕の加虐心が酷く疼く。君を焦らして甚振って苦悶に歪む貌が見たいと望み、無意識に緩む口元。
「ねぇ……答えて?」
 意地の悪い僕は、君の答えを聞く前に唇を塞いだ。ぴったりと閉じられた唇を舌でなぞり、少し強引に割り込ませる。奥へと逃げる君の舌を絡め取り、真っ白なシーツに君を沈めて縫い付けた。唇を離せば、僕と君とを繋いでいた銀糸がぷつり、と途中で途絶えた。肩で息をする君の瞳は涙で滲み、唇が互いの唾液でてらてらと濡れそぼっていて僕の劣情を何処までも煽る。
 君の秘密を守る鎧をひとつ、ひとつ時間を掛けて取り払ってゆく。真っ白なレースに隠されていたのは、陶磁器のような白肌。羽根がふわりと触れるように撫でると、君は一際大きく躯を跳ねさせた。慎ましやかな双丘は、僕の片方の掌で簡単に覆い隠せてしまった。とくとく、と脈打つ君の鼓動が僕の鼓動と重なり合ってゆくのを感じた。このまま君と溶け合って、僕だけのもに、独り占め出来たら良いのにと。瞼を閉じてじっと君を感じていたら、首元に硬質で冷ややかな何かが宛がわれた。閉じていた瞼を開ければ、君が何処からか取り出した小振りのナイフを僕の首元に這わせていた。
「なぁに?」
 君の小さな双丘をやわやわと愛撫しながら、問うてみる。君は吐息を乱しながら答えた。「私だけを、見ていて欲しいの。だから……貴方を殺すわ」
 真っ直ぐに僕を見詰める君の眼は、純粋で綺羅と輝きに満ちていた。透明過ぎる君の想いが眩しくて、それでも良いかも知れないと一瞬だけ傾いた。僕は自身の慾を思い出し、微笑を一層深くしてナイフを奪い去る。
「それは出来ないなぁ。僕だって、君を独り占めしたいんだ」
 君が何か、言葉を吐く前に喉元を掻っ切った。ナイフの刃が君の皮膚を裂き、肉までもを割いてゆく。たらたらと流れ落ちる鮮血は、君の肌に彩りを付けてゆく。痛みに耐え忍ぶ君の歪んだ貌が、僕の空っぽな心に真っ黒な色を落として滲んでいった。濃厚な甘い匂いが僕と君を包み込む。焼き切れた理性を少しずつ取り戻してゆく。握っていたナイフをベッドに深く、深く突き立てた。
 何か言いたげな君の瞳が、灯火のようにゆらゆらと揺れる。最後の最期まで、僕を捕らえていて――。君が命を手放した瞬間、僕はにぃぃっと嗤った。もう、君に嫌われてしまう事も君を失う事にも怯えなくて良い。

 君は――永久に僕のモノ。

幾つかの空白

「空白を愛してあげてね」

 母はそう言って、橙色に染まった海底に攫われる様に命を自ら絶った。母が私に遺したのは一冊の革張りの本。ぱらり、本の中を覗いてみると全て真っ白で埋め尽くされていた。どの頁にも文字の一つも見当たらなかった。私は何も書かれていない頁を見つめ、首を傾げるばかりだった。そして、押し入れの奥底、隠す様に仕舞ったのだった。私は母の死も、何もかもを見なかった振りをして、無かった事にしてしまいたかったのだ。

 全てを焼き尽くさんばかりの夏も過ぎ、銀杏や紅葉が色鮮やかに色を添え始める初秋。父は母が居ない空白を愛する事が出来ず、吹き荒ぶ北風に堪えきれずに凍えながら息を引き取った。燃え盛る様な紅が両親の墓を隠し、嘲笑うのを私だけが、ぼんやりと眺めていた。母も父も居ない空白を私は、愛さねばならない。
「空白を愛す……」
 母が言う「空白」とは何だろうか。それをちゃんと、私は愛せるだろうか。母がこの世を去ってから、ずっっと考えていたこと。父は愛することが出来なかったと零していた。身勝手に生きる事を放棄した母を責める事も、心も躯も壊してしまった父を蔑むことも、私にはその資格がはない。何故ならば、私は母や父のことを忘れようとしているのだから。家族三人で暮らしていた日々の記憶を全て、放り投げてしまうのだ。そして、大きな空白を腹の奥底へと呑み込んで、此れからの人生を一から歩んでいく。瞼を閉じて再び目覚めた時の私は、以前とは少し違った私になっているだろう。罪悪感などこれっぽっちも残っていなかった。

「本当に、それで良いのですか?」
 これまでずっと、私を支えてくれた恋人が言葉を選びつつ、私を案ずる。私の手を包み込む彼の掌が熱く、少し力が入ったのを感じた。私は小さく微笑み、そっと彼の掌から逃れる代わりに大丈夫だ、と何度も言葉を重ねた。もう、一度決めたことを翻したく無かった。それは、私のなけなしのプライド。
「これが、私なりの愛し方なの」
 と、私自身にも言い聞かせる様に。彼は眉間に深く皺を刻むだけで、それ以上言葉を重ねることはしなかった。私は小さな溜息を零し、ひっそりと安堵したのだった。窓硝子越しに盗み見た彼は憂いを帯び、動揺を隠しきれずに不安げな面持ちで私の動向を窺っていた。私は彼に聞こえない様に小さく長い溜息を吐き、右手に填めていたシルバーの指輪を外して彼に手渡した。
 また一つ、私の中に空白が生まれた。

 冷え切った身体と幾つもの空白を鈍色の空から降り注ぐ粉雪が祝福する冬。私は見知らぬ土地へと移住して、再び一から全てをやり直していた。冷え冷えするワンルームで段ボール数箱を片していると、段ボールの奥底から隠れる様に在った古びた革張りの本を引っ張り出す。何処か懐かしいなと思いながら、頁を一枚捲ってみる。

『空白を愛してあげてね、寂しがり屋さんなのよ、とお母さんは寂しそうに微笑んで私に言い聞かせた。』

 そんな書き出しだった。また、空白、だ。空白とは、何を指して何を意味するのか。私は首を捻りながら、更に言葉をなぞってゆく。

『お母さんは夕暮れに染まる大きな空白に誘われ、抱き締められる様に私の手の届くことのない遠くへと攫われていった。』

 身に覚えのあるような……とても懐かしく哀しい感情がふつり、湧き上がるのを感じた。薄く空いた唇は微かに振るえ、口から何かが溢れ、零れ落ちてしまいそうで咄嗟に両の掌で口を塞いだ。口からでは無く目尻から、ぽろぽろと滴が代わりに、と言わんばかりに落っこちる。ぽたぽたとかさついた頁を濡らしていく涙は、透明で綺麗だ。零れ落ちた滴に濡れ、滲んで消えてゆく言葉たち。まだらに空いてしまった真っ黒な空間をそっと、指の腹で撫ぜる。

『お母さんは、誰よりも何よりも、愛していた。お父さんよりも、私よりも。一等愛していた人との子供を、亡くしてしまったその生命を。私もお父さんも、そんなお母さんを責める事はしなかった。いや、出来なかった。』

 あゝ、そうだ……そうだった。此れ以上、言葉たちをなぞってはいけないと頭の中で警鐘が鳴り響く。奥底に仕舞っておいたパンドラの箱が、ゆっくりと開かれようとしている。私は為すがままに、それを受け容れてしまった。言葉をなぞる目も、頁を捲る指先も、呼吸さえも囚われた。

『お父さんはお母さんが亡くなってから、私には一言も言葉を交わしてくれなくなった。何時も日が暮れるまでお母さんの遺影の前に座ったまま、ぼんやりと過ごして居る。時折、静かに涙を零しながら「愛してる、愛してた、愛して欲しかった……赦したかった」と喘ぐのだった。私が直ぐ傍に居るのに、一度も目を向けてくれる事はなかった。』

 寂しかった、哀しかった、赦せなかった、赦したかった。色んな感情が、私のお腹の奥底で蜷局を巻いてずっと居座っていた。気持ちが悪くて、厭で厭で仕方なかった。だから、全てを無かったことにして忘れたんだ。この世に生を受けて、一人で立って歩いてゆけるまでの時間を。ぽっかりと開けた空白を慈しみ、愛せるように。意図的な記憶の忘却と感情の欠落をひとりで、抱え込んで。

『空白を愛してあげてね、泣き虫だから。自分を愛するように愛してあげて。お母さんのようにならないでね。貴女は強くてイイ子だから、大丈夫ね。幼き日の優しく重い足枷。』

 季節は巡ってゆく、私だけを置いて。季節を重ねる度に真っ白だった頁が言葉で埋め尽くされてゆく。それを眺め、なぞってゆく度に、私の空白が何かで満たされるようだった。それでも、まだ、埋められない空白がある。それをこれから、埋めに逝く。

 紅に染まった紅葉が一枚、くるくると舞い落ちる。はらり、と落ちた先は青褐色の水面に浮かび、ゆっくりと沈んでいった。

『私はただ一つの空白だけは、愛せなかった。』

死と乙女

 ゆっくりと欠けた月が、深淵のように黒々とした海面に沈んでゆく。寄せて返す冷ややかな海水が足元を攫って、少女の未来までもを呑み込もうとしていた。少女の細い手首に枷を填めるように覆った少年の掌は燃えるように熱い。振り払う事もせず、佇む少女の髪が夜風に弄ばれて散らばる。少年の視界を遮る其れは、まるでーー少女から切り離そうとしているようで。幼子が親を引き留めようとするように、情けない声音を溢すことも厭わず縋り付く。
「好きだ、」
 少年の薄い唇にそっと、白魚のような人差し指が触れる。しっとりとした質感と冷ややかに瞬く双眸に驚き、体を強張らせる少年に綺麗な微笑みをみせた。潮騒が遠ざかっていってしまったのか、辺りは静寂に支配されている。
「私に、幻想をみてる」
 どうして、と反論しようと薄く開いた唇に柔らかな唇が塞いだ。ナイフとなって突き刺す筈だった言葉は小さな舌に絡め取られて咀嚼され、唾液と共にゆっくりと呑み込まれる。名残惜しそうに唇を離す少女と惚けた少年の間に有った銀糸が、ぷっつりと途切れた。少女に填められた枷はいつの間にか外れ、だらりと力無く垂れている。するり、と少女自身の指を少年の指に絡めた。大袈裟に体を跳ねさせる少年にうっそりと笑みを溢す。はっと、我に返った少年は、絡む指を振りほどいて顔を両手で覆い隠した。ばしゃんっ、と水音を立てて服が濡れるのも構わず、その場に両膝を突く。追うように少女も膝を折り、少年を覆う殻を擽っては剥がし、煌々と輝く月白の下に晒した。
「……っ」
 動揺する少年を更に追い詰めるように両頬を挟み込んで、焦らすように唇を近付けてゆく。互いの睫毛が触れ合って、少し擽ったい。吐息が漏れて混じり合い、滲んだ眼に映る少女の貌は不機嫌そうに歪んだ。ごめん、と謝罪の言葉は再び唇で塞がれて消える。幾度も角度を変え、舌を絡ませては少年の理性と思考を綻ばせていった。
 唇を離す度に甘い吐息と共に注がれる言葉は、少年を蝕んで壊そうとする。いつの間にか組み敷かれ、少年を見下ろす少女から薫る性は苛烈で。可憐で清らかな少女の幻想が、激しく音を立てて崩れ去ってゆく。嘘であって、なんて――なんて傲慢な独り善がりだ。心を瓦解しながらも少年は、眼前の艶やかに嗤う女を欲しがって咆哮する。上っ面の綺麗な言葉だけを並べたって足りない、眼前の獲物は自分の所有物にはなってはくれない。
 ならば、と。少年は少女へと腕をのばして引き寄せ、美しく弧を描く唇を喰んだ。エナメルが甘美な肉を貫き、一筋の鮮血が流れ落ちて海水に滲む。紅を差した色香に煽られる劣情と溢れる哀情とが濁流となって、理性も倫理も全て流し去ってしまった。少年に残されたのは、欲に濡れきった眼と激しく脈打つ鼓動のみ。あゝ、もう、どうだっていい。少女に幻想をみて淡い恋心を抱いていた少年は、呆気なく死んだ。
「端なから……清らかな乙女なんて、居なかった」
 昏く濁った少年の双眸に映るのは、冴えた歪な月と妖艶に微笑む聖女。

私が貴方にしたいこと。

 人は本当に悲しい時、涙が出ないのだと知った。悲しみに暮れる貴方の背中がとても小さく見えて、なんて声を掛けたらいいのか分からなかった。幾度か開閉する私の口から漸く零れたのは、「大丈夫?」だった。なんて、滑稽なんだろう。慰めの言葉さえ見つけられない自分自身が厭になった。
「だいじょうぶ」
 ふにゃりと眉をハの字にさせて、少し困ったように貴方は私に笑みを向ける。全然、大丈夫なんかじゃ無い癖に。証拠にゆらゆらと不安げに揺れる貴方の双眸。貴方も嘘吐きだ。
「ねぇ、」
「ごめん。先、帰るね」
 そっと伸ばしかけた手を振り払われるかのように、貴方の別れの言葉。遮られてしまった私の言葉は小さく萎んで、「うん」と返事に替わってしまった。じゃぁ、またねと小さく手を振って背中を向ける貴方をぼうっと眺める。小さくなってゆく貴方の背中がとても寂しく頼りなげで、私の視界が滲んだ。私が泣けない貴方の代わりに……なんて、烏滸がましい。
 一歩、足を踏み出して。そして、貴方の背中を追いかけて駆ける。追いついたならば、力一杯抱き締めて受け止めてあげたいんだ。泣けない貴方が泣けるように、悲しみを半分分けてもらう為に。そして、一緒に悲しんで涙を流すんだ。

 明日、笑い合えるように。

君に溺れる

 カメラのレンズは真実を語る。それは、無情にも円らな瞳で僕でさえ気付かなかった些細な事までも嘘偽り無く、鮮明に切り取っていた。

 茹だる様な熱気が残った空気が纏わり付く。グラウンドを抜け、校門へと向かう足取りは重く、気怠げで。ふと、立ち止まって上を見上げれば、夜闇にぽっかりと浮かぶ真ん丸な月白が雲で遮られた。無意識に首に提げていたカメラをとり、その風景を切り取ろうと構えた。
「「ぱしゃっ」」
 シャッター音と同時に響いた水を叩く音。キョロキョロと辺りを見渡すと、プールの水面が揺らめいて波紋が広がっていた。不思議に思ってカメラを下ろし、じぃぃっとプールサイドの方を見詰めてみる。すると、また。水面を叩く音が響き、静寂を破る者が姿を現した。
 真白なYシャツが濡れて透ける肌、月光の光が反射して淡く輝く水飛沫。金魚の尾ひれの様に揺蕩うスカートの裾と夜を纏った髪が水面を戯れる。いつの間にやら雲は消え去って、円みを帯びた月が煌々と姿を晒していた。

  ――かしゃん。

 金網に手を掛けて、食い入る様に水と戯れる人魚を見詰める。呼吸の仕方も忘れて、水中を気持ち良さそうに泳ぐ彼女を眼で追い掛ける。僕にまだ、気付かない。
 もっと……もっと、近くで彼女を見てみたくて。衝動に駆られるまま、金網を越える。がしゃがしゃと雑音が響き、彼女もようやっと僕の存在を認識した。プールサイドへ足を踏み入れた時、ばしゃんっと一際大きな水音が響いた。俯いていた顔を上げて、音がした方へ視線を向けると。彼女が水中からプールサイドへと上がり、膝を立てて僕を眺めているようだった。滴る雫が髪を伝って、頬から鎖骨、Yシャツの中へと吸い込まれる。濡れて白魚のような透き通った肌と張り付く衣服で躯の線が露わになり、なんとも煽情的な光景か。僕は思わず、唾呑み込んだ。
「ねぇ! 撮って?」
 彼女は真っ直ぐに僕の眼を捉え、ふわり、と微笑った。そして、また。水と戯れるべく、音も水飛沫も立てず飛び込んだ。僕はすかさず、カメラを構えて彼女の姿を追った。彼女が水面を叩く音に合わせて、シャッター切ってゆく。彼女に強請られたからでは無く、僕自身が彼女を切り取りたいと思ったから。プールという名の水槽を悠々と泳ぐ人魚をこの手で。

 少し月が傾き、夜闇が一層深まった深夜。彼女はプールのど真ん中で、唯々、立ち尽くす。彼女の眼は夜空の月を捉えており、それ以外は全て虚無。ゆっくりと彼女の瞼が閉じて、閉じてゆく視界。頬を伝い、顎から滑り落ちた滴が――ぴしゃん、と凪いだ水面と僕の心を叩いて乱した。
 神々しいその姿を目の当たりにして、僕はカメラを下ろして近くのベンチへ置いた。そして――禁忌を冒す。彼女に触れたくて、触れようとプールサイドから水中へ。肌に張り付く衣服と髪が鬱陶しくて、気持ち悪い。ゆらゆらと波立つ水面はまるで、僕を拒絶しているようで。
 僕をじっと見ていた彼女に漸く、触れられた。恐る恐る触れた彼女の肌は少し冷たくて、僕の熱で火傷をしてしまうのでは無いかと不安になる。急に自身が情けなく感じて、俯く。頼りなく不安げな貌をした僕が、ゆらりゆらりと水面を揺らいでいた。
「すき。」
 ぽつり、零れ落ちた感情の切れ端。しまったと後悔し始めた僕のネクタイを彼女は思いっきり自身へと引っ張った。唇に触れる柔らかく、冷ややかな感触。何が起こったのか理解出来ず、眼を大きく見開く。塩素の匂いとシトラスの香りが混じり合って、僕の胸を締め付ける。名残惜しそうにゆっくりと離れてゆく彼女の濡れた唇を見詰めつつ、このまま時が止まってしまえば良かったのに、と呪詛をと心の中で唱えた。
 彼女が逃げてしまわないように、掴んでいた手首に少し力を入れる。今度こそ、彼女にも届くように紡ぐ。
「君、が、すき。」
 大輪の花が綻びる様な微笑みを湛えた彼女を捉えたのは、僕の眼だけ。ぽつんと取り残されたカメラのレンズは、そんな僕等をただ見守り続けた。

息も止まるくらいに

「んっ……」
 ゆるゆると瞼を押し上げ、心地良い温もりに微睡む。灯りの消えた部屋は、締め切ったカーテンの隙間から零れる朝陽だけ。規則正しく脈打つ鼓動と上下する胸板、微かに聞こえる寝息。私の腰に絡みつく逞しい腕の甘い拘束。起こさないように上を向くと、彼の唇に触れてしまいそうな距離。前髪が彼の顔を隠す様に掛かっているのをそっと、掻き上げる。ふるり、小さく彼の睫が震える。私は息を呑む。平坦だった眉間にぎゅうっと皺が寄り、ゆっくりと持ち上がる瞼。微睡み、ゆらゆらと揺れる青碧の瞳が私を捉えてゆく――彼は微笑した。
「おはよう」
 少し掠れた彼の声。今日はいつもより少しだけ、甘く聞こえた。

ぎしっ――

 緩んでいた拘束が少し強くなり、彼との距離が更に縮まる。微かに漂う、私のとは違う香り。
「お、おはよう……」
 何時も通りの朝。それなのにどうして、こんなにも彼を意識してしまうのだろう。自身の体温が上がってゆくの感じながら、彼には知られまいと彼の胸板に額を寄せる。くすり、笑いを堪えきれなかった声が零れ落ちる。少し早くなった彼の鼓動さえも心地良くて、また、微睡んでしまいそうになる。
「茜」
 腰に絡んでいた重みが消え、私の両頬を大きな手が包み込む。強引に、そっと彼の方を向かされ、青碧の瞳に私が映る。

――ぎしっ。

 私の唇は彼に因って、塞がれた。初めは啄む様にそっと。次第に角度を変え、唇を食むように。絶え間なく降り注ぐ彼からのキス。
「っはぁ……っんぅ!」
 空気を吸い込もうと唇を開くと、するりと滑り込んできた熱い彼の舌。私の舌に絡んで、深く、甘く堕としてゆく。満足したのか、離れてゆく彼の唇。たらり、銀の糸が垂れる。透き通る青碧の瞳が、ぐっと濃くなった気がする。
「蒼佑?」
 どうしたの、と言葉を紡ごうとした唇を噛み付く様に再度、塞がれた。
「俺を煽るのが上手いな……」
 彼から零れ落ちる本音の意味が私にはまだ、解らなかった。疑問符を浮かべる私を置き去りにして、彼は着ていたTシャツを勢いよく脱いだ。
「煽ったからには、覚悟しろよ?」
 彼が唇を舌で舐める、ちらりと見えた赤が扇情的で視線を逸らす事が出来ない。火照った私の肌に彼の掌が、優しく触れてゆく。擽ったくて身を捩って、少しばかりの抵抗。拒む事さえも許さないとばかり、片手で私の両手を纏めてシーツに縫い付ける。もう一つの彼の掌は私を宥める様に、甘く愛撫を続けてゆく。
「んっ」
 私の口から漏れ出す甘い嬌声が響く。恥ずかしくて、恥ずかし過ぎて、彼の視線を少しでも遮りたくて顔を逸らす。ぎゅっと強く目を瞑る、溢れてしまった雫が火照って頬を滑り落ちる。彼の熱い舌が雫を掬い取り、熱く甘い吐息が混ざり合う。
「茜、俺を見て」
命令口調なのに何処か不安げに揺れる、彼の小さな声。はっとして、彼を見る。涙で滲んだ視界に映る彼の表情。ゆらゆら揺れる青碧の瞳と淋しげに顰められた眉が、胸が苦しくなる程に愛おしい。緩められた拘束から抜け出して、彼を抱き締める。私の体温と彼の体温が混ざり合って、ひとつになってゆく。彼の深い溜息が私の耳に掛かり、それさえも甘い痺れとなって躯がふるりと震える。
「やっぱり、お前はズルイ」
 吐息混じりの低い唸り声と共に、先程までとは比べ物にならない彼からの荒々しいキス。彼に因って少し性急に剥ぎ取られては、床へと投げ捨てられてゆく服。熱い彼の指が、舌が。私の胸から、ゆっくりと下へと下りてゆく。反比例する様に昇リ詰めてゆく、快感。端ない水音と甘い嬌声、彼の荒い吐息。荒々しく優しい熱に浮かされ、彼から与えられる快楽に溺れまいと彼の肩に爪を立てる。不意に持ち上げられた片足、ピリッとビニールを破く音。遠慮がちに宛がわれる彼の熱。
「苦しかったら言え、よ……っ」
「――ぁっ」
 勢いよく穿たれ、強い刺激が全身を駆け巡る。酸素を求めて、はくはくと動く唇を彼の唇が塞ぐ。
激しく揺さぶられながら、彼の熱情を受け止める。
私の口端から淫らに垂れる唾液を舌で舐め取る彼が、愛しげに微笑む。
「茜、愛してる」
 そっと、耳元で囁く彼からの愛。私も、そう応えようとしたのに。激しく責め立てる快楽の波に溺れ、高みに至る。熱に浮かされ、微睡む私を愛おしげに抱き込む彼。二つの鼓動が重なって、ひとつになる。こんな一日の始まり方も良い。

あと少しだけこのままで

 この手を離してしまえば、君は何処へだって飛び立って行ってしまうだろう。君は沢山のモノに目にして、触れて、知って……大人になってゆくべきだ。だからこそ。この繋いだ手を離すのが最良の選択だと解っていながら、離せないで居る。幾度も幾度も、弱虫な自分を責め立てる。君の為を想うならば、枷に成るであろう自分との関係を終わらせなければ――。
「どうしたの?」
 何も知らない君が、心配そうに私の顔を覗き込む。さらりと揺れる君の黒髪と僅かに漂う甘い匂い。私の理性を壊して、本性を炙り出してしまう危険な匂い。抗ってはみるけれど、敵わない。ぐっと手に力が篭もってしまった。
「駄々を捏ねてる子供みたいだよ?」
 私の背中を優しく撫でながら、くすくすと笑う君。君が触れた所からじんわり熱が、全身へと広がってゆくのを感じるとますます手放せなくなる。嗚呼、どうして私と君とを隔てる壁が佇んで居るのだろう。君は軽々と壁をぶち抜いて来てくれるのに、私は――。
「すまない……」
 背中を撫でる君を搔き抱く、強く強く。私の気持ちを知ってか知らずか。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
 君は柔らかく温かな声音で、意気地無しの私を受け止める。其れすらも私を叱責しているようで、胸が締め付けられる。堰を切ったかのように溢れ出る冷めた雫が、君の肩の上に降り注いで濡らしてゆく。一欠片の情けない私のプライドが嗚咽となって崩れる。
「ねぇ、何を考えてる? 私に教えて?」
 君は小さな子供に諭すように、小さく背中を叩く。私は子供に戻った様に涙声で、ぽつりぽつりと言葉を紡いでゆく。
「私は、君と、離れた方が、良いと思ってる」
「うん」
「私はおじさんで、君はまだ若い」
「うん……」
「私は、君と離れるべきだと思っ……」
 ばちんっと大きな音が耳を劈くと共に、頬に痛みが走る。瞬きすると、ぽたたっと雫が数滴落ちた。
「私の気持ちは何処にあるの? 私の意思を無視するの?」
 ぼろぼろ、大きな雫を零しながら君が泣き叫ぶ。君の両頬を手で包んで、額と額を合わせる。ふわり、君の甘い香りが鼻孔を擽る。また、君に甘えてしまいそうになる。
「すまない、でも。これが、正しいと思うんだ」
 自身の本音に蓋をして、君に残酷な言葉で切りつける。震える小さな手で私の胸を責め立てる様に叩く。君を傷付けた張本人なのに、私は強く瞼を閉じた。腕の中に小さく震える温かさが、愛おしい。愛おしいのに、これからは他人。
 暫く私の腕の中で小さく泣き、駄々を捏ね続けた君。声も嗄れ、泣き疲れて眠ってしまった君の瞼に口付けをそっと落とす。あと少し、君を腕の中に囲って歪んだ幸福に浸る。夜が明けたら、大空へ君を手放す。

 何時かもう一度、君と巡り逢えたら笑顔で挨拶をしよう。

白きアザレアの花冠

 ひっそりと祈るような恋だった。

 変わり映えのしない日々を過ごしていた僕は奇しくも恋に落ちてしまった――恋心を抱いてはならない女性に。左薬指に嵌められた傷だらけのシルバーが、僕等を軽蔑するように冷ややかに色を濁した。
「……いいの?」
 そっと、君の髪を一つに纏めていた髪留めを取り去り、労わるようにゆっくりと梳く。はらはらと、指の隙間を零れ落ちる髪から微かに甘い香りが漂う。俯いて傷だらけのシルバーの指輪に触れる君は、ゆっくりと頭を擡げた。
「いいの、もう……どうだって、いいの」
 僕を見詰める双眸は零れ落ちそうな程に潤みを帯びて、ひとつ、瞬きをした瞬間に滴が頬を滑り落ちて手の甲を濡らした。睫に留まった涙は透明で綺麗なのに陰を落とす瞳と、赤みを帯びた眼尻がアンバランスで。そっと、親指の腹で拭うと、擽ったそうに君は吐息を零す。その吐息さえ、恋しくて触れてみたくて――駄目だと思った時には既に遅く、唇を重ねていた。すぐに離してしまうのは名残惜しくて、舌で君の唇をノックする。ひとつ、大きく体を跳ねさせた君は、おずおずと開いて僕を招き入れた。冷え切った氷のような手とは裏腹に、熱く蕩けるような口内は僕の理性を容易く焼き切って獣へと突き落す。
「もう、止めて、あげられない」
「うん、」
「罪も、後悔も、僕が背負うから……今だけは、僕だけを見て」
 ゆっくりと頬から首元へ、君を覆う鎧を一枚ずつ脱がしてゆく。露わになってゆく陽に焼けていない白肌は微かに震えていた。慎ましやかな双丘を覆い隠すベールを取り除くと、つんっと期待を膨らませた小さな蕾が、ふたつ、在った。

――ほたり、

 咲ききっていない蕾に滴が落ちて、白き丘を滑り落ちてゆく。一筋、濡れた肌を指先で辿って、また、流れ落ちてゆく滴を爪先で受けて留めた。漸く、君は涙を隠すことなく流す。泣くことも出来ないまま、修復不可能なまでに壊れてしまう前に掬うことが出来て良かったと、声も立てず静かに涙を流す君をふわり、と抱き包んだ。
「ごめんなさい……」
 清らかなままの君は、懺悔する。それは、僕に対してなのか、はたまた、君を無碍に扱う夫に対してなのか。それとも、これから犯す過ちに対して、怖気ついてしまったことに対してか……。どちらにせよ、僕にはどうだっていい事であった。
「うん」
 ごめんなさい、と尚も涙と共に零す甘い懺悔を舌で掬っては飲み干す。抱きかかえたまま、君を組み伏した。真っ白なシーツの海に沈む君が、波打つ髪が、匂い立つ色香が僕の理性を掻き乱して、剥き出しにする。
「君は、悪くないよ」
「でも……」
「騙されただけだ。君は、僕に、襲われただけ」
 ね、と幼子に言い含めるように微笑んで、君の左薬指から指を抜き取った。あっ、と君は慌てた顔をしたが、僕がベッドボードに置くところを見届けると、安心したように貌を緩めた。そんな君を盗み見て、ぐらぐらの腹の底が煮だつのを押し留めながら服を脱いだ。

 愛しい女を慰め、手に入れるには優しいままではいられない。

虚の絶叫

 全てを失った後に遺ったものは、一番失いたかった“私”と一冊の日記帳だった。

 青いペンキをひっくり返したような、雲ひとつないのっぺりとした空を切り裂くように飛ぶ飛行機。掴めもしないのに、ぐぐっと腕を伸ばしてみた。開閉する掌が掴んだのは、虚だけ。視界を覆う影が嗤った気がした。
「なぁにしてるの?」
 柔らかく澄んだ声が頭上から降り注ぎ、青空を遮って影を落とす見知った微笑。彼女から零れ落ちた漆黒のカーテンが、仰向けに寝転んでいた僕を閉じ籠めた。
「空、観てた」
「ふぅん?」
 二つのシトリンが、柔らかく僕を見下ろす。僕の頬を擽る漆黒のカーテンを一房、指先に絡めて口付ける。青臭さの残る草花に混じって、微かに香る硝煙の匂いに眉を顰めた。
「君こそ、なにしてたの」
 思った以上に低い声になってしまった。息を呑む微かな音を耳聡く聞き取ってしまい、窺うように視線を合わせる。すっ、と逸らされ、不安定に揺らぐシトリンは君の口よりも雄弁で。
「……優雨の言いつけは、守ったもん」
「ふぅん」
 頬をぷっくり、と膨らませ、唇をアヒルの嘴みたいにさせて不貞腐れる君をじっと、睨め付ける。不貞腐れていた君は次第に、眉をハの字に垂れさせながら小さな声で言い訳を溢し始めた。
「本当よ? 優雨との約束だけは絶対に破らないもん……」
「はい、はい」
 お座成りな相槌を投げて、絡めた君の髪を弄ぶ。遠慮がちに僕の髪を引っ張る力に気づかないフリをして。
「氷雨は、ウソ、吐かないもん……」
「そうだね、僕だけには、嘘を吐けないもんねぇ」
 未だに硝煙の匂いを纏う君に苛立ち、意地悪な言い方をしてしまった。暫しの間、沈黙が降りて僕等の隙間を冷ややかに通り過ぎてゆく。熱を奪われ始めた体温と苛立ちを転がしながら、起き上がろうと力を入れた時。ぽたり、と頬に大きな滴が落っこちてきた。
「……そんな、泣くことでもないでしょ」
 透き通ったシトリンは滲んで、朝露のように眼尻から滑り落ちては僕の頬をしとどに濡らしてゆく。体を起こし、俯いたまま涙を流す君に向かい合わせて、袖口で強引に涙を拭った。君は大人しくされるまま、唇を噛む。
「泣かないでよ、僕が泣かしたみたいじゃん」
「優雨が意地悪したんだもん……」
 僕の服の裾をぎゅっと掴む、小さな手と涙に滲んだシトリンが責め立てる。こんなつもりじゃ、無かったのにな。小さく、息を吐いて切り替えて泣きじゃくる君に微笑む。
「ごめん、さぁ、もう泣きやんで?」
「もう、怒ってない……?」
「怒ってないよ、大人げなくて悪かった」
 こつん、と額同士をくっつける。絡む互いの前髪と触れる鼻先、絡み合う視線が心地いい。すんすん、と小さく鼻を鳴らす君が可愛らしくて愛しくて、何故、ひとつでは無いのだろうと思う時がある。どんなに心を言葉を……体を重ねたって、僕と君を隔てるものは消えなくて、泣きそうになる。言語化出来ない激情を、何も知らない君へとぶつける為に重ねようと唇を近づける。君の唇に触れる、一ミリの隙間に生温かな風が流れ落ちた。
「“消えてしまいたい”日もあるよ」
 君が、そんな事を言うのか。
「君も、“消えたい”なんて、思うんだ」
 何も知らない君が、何一つ解っていない君が、消えたいだなんて――信じられない。
「私だって、あるよ。優雨とは違うけど……」
 ふんわり、と羽が触れるような口付けを君から贈られる。伏して影が落ちるシトリンは今、何を想っているのか。とうとう、僕さえ解らないのだ。途端に目の前にいる君が何者なのか、認識出来なくなって恐ろしくなった。ねぇ、君は誰?
「だからね……全部、失くしてきたの」
「ぇ?」
 晴れ晴れと笑う君が発した言葉を呑み込むことが出来ないで居る。失くしてきた、と言うのはどういう意味なのだろう。君は何を、失くしたというのだろう。
「“私”を全部、消したの! 優雨、消えたいって言っていたでしょう?」
 これで優雨も透明になるね、そう君は、嬉しそうに微笑んだ。けたたましい音を響かせながら崩壊してゆく蒼空の下で、君は、僕を太陽のような瞳で捉えたまま、幸せそうな貌を浮かべる。触れていた額から、絡めた指から、君の体温と共に境界線が消え去ってしまった。全てが白色に塗りつぶされた場所に僕ひとり、取り遺された。僕は、僕自身で最期の幕を引く為に瞼を閉じた。

 閉じた瞼を擽るような暖かな陽射しにゆっくりと、瞼を持ち上げる。視界に入った色は、白と檸檬色。開け放たれた窓から吹き込む風に煽られてパラパラ、と日記帳の頁が捲られる。
「おはよう、優雨。」
 ベット脇に置かれたパイプ椅子に腰を下ろし、私の手を握って居た誰かが声を掛けてきた。視線を向けると、涙ぐんだ母の老いた顔が有った。
「ねぇ、わたしは、透明になれた?」
 掠れ上手く音になり損ねた声で、母に問う。彼女は一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をしたが直ぐに奥底に隠して、私を安心させるように微笑んだ。その貌を見て、私はもう一度、世界を拒絶した。

 それでも世界は、限りなく優しい。

霜天の白木蓮

「つまらない大人になってしまったね」
 陽光で少し焼けたレースカーテンが、開け放たれた窓から流れ込む風に弄ばれて緩やかに波打つ。鼻を突き刺すようなエタノール臭に隠れるように、甘い香りが微かに漂っていた。少し眉をひそめながら、窓の外ばかりを眺める彼の横顔の、その先に目を見張った。霜天に向かって枝を伸ばした先に白い花が、背筋を伸ばして綻ぶのを期待している。
「白木蓮……ですよね?」
「ああ、そうだね」
「まだ、睦月ですよね」
「……それが、どうかした?」
 億劫そうに体を少しずらして漸く、落ち窪んだ両眼を憐みの色を湛えながら私を捉えた。
「ぁ、ぇっ、と……」
 思いの外、地を這うような低い彼の声と蔭った眼は鋭くて私は口篭もり、忙しなく視線を泳がせる。
「春に綻ぶ花が今、咲いているだけだろう?」
「ぇ、ええ……でも、」
「白木蓮だって生きているのだから、霜天に恋焦がれてしまうことだってあるさ」
 言い募ろうとした私を制して、彼は投げ捨てる様に言葉を吐いた。何時も達観した物言いをする彼が、珍しく激情を言葉尻に滲ませて苦しげに微笑む。
「君も、つまらない大人になってしまったね」
 枯れ木の枝ような腕を伸ばし、ベッドサイドテーブルに投げ出された原稿用紙を掴んで手繰り寄せる。彼の指から逃れられた紙たちは、滑り落ちるようにリノリウムの上へと舞い落ちていった。
「つまらない、ですか……?」
「あゝ、つまらないね。出逢ったばかりの頃の君は、夢見がちな少女でさ、可愛げがあってマシだった」
 彼は手繰り寄せた原稿用紙に目を落としたまま、バッサリと吐き捨てた。床に散らばった皺が寄った原稿用紙を拾い、ベッドサイドテーブルの上へと戻す。ちらり、と横目で彼の動向を伺うと、皺の寄った原稿用紙を引っ掻くようにして何かを書き留めているようだった。しん、と静まり返った空間は、彼が奔らせるボールペンの音だけが存在を赦されていないようで、無意識に息を詰める。
「はい、これ」
 投げて寄越したのは、彼が病床に臥しても認め続けた恋文の束だった。
「きっと、今回もお返事は頂けないかと……」
「それでも、いいんだよ。僕が……僕の感情がある限り認め続けることに意義があるんだ」
「……何一つ、応えてくれなくても?」
 一文字ずつ彼が想い認めた物語を目で辿りながら、熱く深い想いを寄せる彼を反故にする想い人へ嫉妬心がじわり、と腹の底で広がった。どうして、なんで……素っ気無い人を真っ直ぐに想い続けていられるの。ぐしゃり、と彼が皺を付けた場所とは違うところに皺が寄った。
「何度だって伝えるよ……恋を覚えたての少年のように、ね」
 何処から取り出したのか、彼は銀の毛に覆われた蕾をひとつ、掌の上で転がしていた。小さな蕾はしっかりと閉じられていて、可愛げのない私のよう。
「先生も、つまらない大人になってしまったのですね」
「……先刻、そう言ったんだけれどなぁ。僕の老いは体だけでなく、心も弱くさせるみたいだ」
 ころり、また、掌の蕾が向きを変えられて転がる。
「昔の先生は、もっと、」
「僕だって生き物だ……移ろい、衰えもする。ずっと変わらずにはいられないんだよ、この白木蓮のように」
「白木蓮と同じ……?」
 空いていた手の方で蕾を摘み、私の方へ放り投げる。ぽこっ、と乾いた音を立てて、膝に置いていた原稿用の上に落ち着いた。
「本来、白木蓮は小春空に見初めてもらえるように白い花弁を綻ばせて、甘い匂いを漂わせる。だのに、此れは霜天に乞うように綻んで香りさえも立てず散ってゆく」
「ぇ、と……それと、どう……?」
 彼の言わんとしている事が何なのか、私には理解しえなかった。目を白黒している私の貌を見て、彼は眉間に深く皺を刻みながら、深く溜息を吐いた。
「じゃぁ、宿題。答え合わせはそうだなぁ……君が僕とおんなじ歳になった時かな」
「えっ!? 先生……相当、長生きしないといけませんよ?!」
 彼は落ち窪んだ両眼を大きく見開き、数拍ほど間を置いて盛大に声を立てて笑った。咳き込み、えずく程までに笑う彼にどのように取り繕ったらいいのか検討も付かなかった。
「ぁ、ああ、そうだねぇ……、答え、合わせをするのだから、僕もッ、生きていなくちゃ、ならいのッ、か、……ふふっ」
 少し白んでいた顔にほんのりと朱が差して、ひゅぅひゅぅ、と音を零しなら呼吸を整える彼をじとり、と睨み付ける。膝に乗っていた原稿用紙の束と白木蓮の蕾を乱暴に鞄へ突っ込み、椅子が引っ繰り返ってしまいそうな程に勢いよく立ち上がって戸口へと向かう。背中越しに、微かに漏れ聞こえる笑い声。
「先生はッ、つまらない大人ではなく。大人げない大人です!」
 そう吐き捨て、彼の顔を見ることなく力任せにドアノブをスライドさせ、部屋を飛び出す。それで、最期だった。もっと、まともなことを言っておけば良かった、彼の言葉に耳をもっと傾ければ良かった……後悔は尽きなくて。
 銀色の毛皮を割り開き真っ白な花弁を蒼穹に向かって開き綻ばせて――散る。彼から投げ渡された蕾は、鞄の奥底で書類に押しつぶされてへしゃげてしまっていた。ころり、掌で転がしてみる。彼から渡された時よりも軽く、色褪せているような気がした。
「あの……?」
「? はい、」
 両腕で紙の束を抱きかかえた小柄な老女が、遠慮がちに私に声を掛ける。私は振り返って大きく目を見開き、口を開閉させる。
「白木さんのお墓は、此方であってますでしょうか?」
「え、ええ……そうですけど……」
 一歩、外側へと避けて老女が通りやすいように道を空ける。ゆっくりと、彼の眠る墓石へと向かう老女の目元は、腫れぼったい。
「彼に……手を合わせてもいいかしら?」
「……どうぞ、きっと、先生も喜んでくださると思いますよ」
 老女は墓石の前へ、黄ばんだ紙の束をそっと置いて、亡き彼を弔う。いけないと思いつつも、覗き見た墓前に置かれた束はどうやら原稿用紙のようで。あゝ、この人が彼の想い人だったのか、と勝手に軽蔑の目を向けた時、原稿用紙に滲む筆跡は彼のものではない、少し丸みを帯びたものだと気づいた。鈍くなってしまった私の思考でも分かる、これは老女が彼に宛てた応えなのだと。彼が亡くなって、今更、何故持ってきたのだろうか。鳴りを潜めていた負の感情がふつり、ふつり、と腹底から沸きだってくる。苛立ちでも嫉妬心でもなく、何故か、哀しみが私の胸を切り刻んだ。しゃがんで顔を掌で覆い、嗚咽を漏らしながら泣き続ける老女にそっと、白いハンカチを差し出す。

「あなたは幸せでしたか?」

岐路

 ゆらゆらと燃え盛る夕陽が傾き、薄らと顔を覗きだす月。カラカラ、と軽快に回る自転車の車輪に長く伸びる二つの影、僕と君の。自転車を転がして一歩先を行く僕の数歩後ろをゆったりと歩む君、いつも通りの代わり映えのしない橙色に溶ける風景。お互い何も言葉を交わすことなどなく、黙々と家路を辿ってゆく。時折、背中に突き刺さる君の熱視線にどぎまぎしながら、気づかぬ振りでカラカラと車輪を転がした。結局、君からも、僕からも、言葉を掛けることないままに帰路の終着点に着く。これも、いつも通りで当たり前の事。
「じゃぁ……また」
 君の家の前で、お決まりの言葉を掛けて自転車に跨がる。
「うん……また、あした」
 君もゆるりと手を小さく振って、言葉を返してくれる。名残惜しむように君から前へと視線を逸らし、からり、ペダルを漕ぎ始めた。
 黄昏色の空にはカラスが優雅に舞い、勝色に溶けゆく斜陽は僕を無意味に急かす。いつの間にやら三日月は昊高く煌々と輝きを取り戻して、夜の訪れを喜んでいた。変わり映えのしない日々をもどかしく過ごす僕等。
 強がりな君が時折見せる弱さが、ぽっかりと空いた僕の隙間を埋めてくれた。代わりにと言わんばかりに、君だけに弱い自分を晒した。互いに労り合い、思い合っては隔たりを削って、僅かな隙間さえも密度を深め埋めるのに。僕等は、僕等の関係は――友人でしかない。例え、僕が、僕だけが君へ特別な感情を抱いていたとしても。煮詰めた飴の様な感情を君に伝えたところで、これからの日々が変わることはない。だから、言葉にすることを諦めたんだ。言葉にすればするだけ、虚しさだけが僕を蝕むだけ。

 今日もまた、当たり前の様に二人で辿る家路。カラカラカラ、と空回りする自転車の車輪の音。遠く風に乗ってやってくる音をBGMにして言葉を交わすことも無く、帰るべき場所へと歩みを進めるだけ。僕の一歩後ろを歩く君は、何を考えて居るのだろうか。君が見詰めている、その気配だけは気づけるのに。僕に何を言いたいのか、それだけが分からない。燻る心を押し殺して、いつも通り。
「じゃぁ、また」
 自転車に跨がろうとした、その瞬間。くいっと、服の裾を弱く引っ張られた。少しぐらついた僕の体と心。君は知ってか、知らずか――ゆらゆらと揺れる瞳でじっ、と僕を見詰めた。少しい躊躇したが、やがてゆっくりと君の唇が言葉を紡ごうとする――当たり前の日々が、少しだけ色を変える瞬間だった。それは、互いが望んだ結末だっただろうか。
 いつもより長く伸びた影が、じんわりと滲むように色を濃くした。

後悔

 ぼんやりとした薄墨色の空に墨を垂らして滲ませたような雲が這う。すんっ、と鼻を鳴らせば、水を含んだ土草の匂いが鼻腔を擽った。急ぎ早に通り過ぎて行く人に当たらないように脇へと逃げて、提げていた傘をゆっくりと広げる。微かに竹の香りがふんわりと漂って忽ち、黒い眼が僕を覆い隠した。
(ともえ)さん……?」
 ぱらぱら、と黒和紙を叩く可愛らしい雨音が、僕の呼び掛けに答える。軒爪から雨粒が滴り落ちて泥寧んだ土へと還ったのを端緒に、雨脚が強くなってゆく。
「こんにちは」
 凛とした声音が耳元で囁かれ、顔だけ左の方を見やれば――逢いたかった人が。僕の左肩に寄り添って、微笑んでくれて居た。傘を持った手は動かさず、腰を少しだけ屈めて彼女の耳元へ唇を寄せる。白い項から仄かに漂う瑞々しい花のような色香が、僕の眼と心を揺さぶった。
「もう、逢ってはくださらない……と思っていました」
 いい歳をした男が、幼い子供が母親に甘えるように独りよがりな想いを押し付ける。なんとも情けない姿だろう。『宇賀家の男児たるもの。勇ましく、驕らず、女子供を守る盾となれ』と何かと説教してくる父や祖母の耳に入ったら、何とどやされる事か。
「私は、雨が降るのを待ち遠しく思っていましたのに……」
 要らぬ憂いごとに項垂れていた僕の懐へ、潜り込むように彼女が収まってきた。袷の袂を遠慮がちに引かれ、黒曜石を縁取る睫が、甘やかな吐息が、僕を責め立てる。つい、と背中を仰け反られて、少しだけ距離を取って責め苦から逃げた。
「私は、妻帯者、になりましたので……」
 ぽそぽそと言い訳を落す僕の唇を塞ぐように冷ややかな指先が触れる。びくりっ、と大きく体を跳ねさせ、咎める指先を辿って微笑みを崩さない彼女を見やる。艶やかな紅で縁取られたふくっくらとした唇が、ゆったりと開く。
「御自身を咎めておいでのようですが、杞憂に過ぎませんわ。朔様の御縁談、私(わたくし)が主上に取り計らって頂いたのです」
「ぇっ……?」
 大きく目を見張る僕をくつくつ、と愉しそうに小さく笑みを零す彼女は、更に爆弾を落としてきた。
「朔様の御内儀様、宇賀家の御当主様にも、きちんと御承諾を賜っております。滞りなく済みましたでしょう?」
「ぃ、ゃ……確かに……。私には勿体ない程の方が、嫁いできてくれたと思っては居たけれど……」
 いつも穏やかに僕へ微笑んで愛し、癒してくれる妻は、何一つ、彼女の事を口にしたことが無かった。まさか、僕が懸想をしている相手からの伝手で婚姻を結んでいた、なんて。柔和に微笑む妻の顔が、少しだけ恐ろしくなった。
「じ、じゃぁ……この、逢瀬も……? 私と、巳さんとの関係も、彼女は承知の上で……?」
「御内儀様から『どうか、彼だけは不幸から護って欲しい』と、仰せつかっております。私からは縁談以外は何も申しておりませんので、何処まで御存じなのか……」
 ゆったりと言葉を紡いで僕の指に冷ややかな指を絡ませながら、隙間を埋めるように躰を寄せてきた。いつも通り、今までと変わらない彼女の行動が、纏わりつく冷ややかな体温が――恐い。彼女が、ヒトではないと。僕らとは違う次元に住む存在なのだと、冷水を頭から被せられたような心地で理解させられた。
「朔様、……恐ろしくなられましたか?」
 凍り付き、硬直したまま無言を貫く僕を見透かしたように彼女は問いかける。責め立てる訳でもなく、悲嘆に暮れる訳でもなく。そう、――ただ、真っ直ぐに。真っ直ぐに傘から雨粒が落ちゆくのを見詰めながら、僕に問うた。
「ぉ、恐ろしくは……ないよ」
「嘘は御已めになって下さいませ。仮初めの優しさがどれほど残酷か、御存じですか? 朔様」
 幼子に諭すような柔らかな声色で、後込みする僕の退路を絶って捕らえようとする。無意識に詰めていた息を小さく吐きながら、彼女へ誠意を見せる為に掌に力を込める。
「済まなかった。」
「それは、どちらに対して?」
「どちらとも、に。全く恐ろしくない、と言ったら嘘になります。ただ、得体の知れない恐怖よりも、自身の不甲斐無さに申し訳なく思うよ……」
「其の謙虚さは、朔様の佳所です」
 再び項垂れる僕を嗤わず、彼女は静かに相も変わらない温かさで甘やかな言葉を注いだ。
「何処がだい? こんな……こんな、妻帯者になっても妻以外の女性と逢引きをしている男が、謙虚だなんて」
「私はヒトでは在りません」
 駄々を捏ねる僕に、彼女は静かに容赦なく突き放す。そして、また、甘い声と言葉で僕を捕らえるのだ。
「私はヒトでは在りません、だから。朔様がどんなに私を愛して下さろうと、其れは只の信仰に過ぎないのです。朔様は、私を同じヒトとして想い、悩んで下さる……其れは、誰にでも出来ることでは御座いません」
 朔様の善き処です、と逸らしていた眼を僕の眼へと向けながら、呪縛するように言葉を紡ぐ。僕は逃げることさえ出来ぬまま妻と共に、掌の上で彼女の良いように転がされて生涯を閉じるのだろう。
「……後悔しておいででしょうか?」
 私と出逢って……、しおらしい声色と貌で僕に吐息交じりの問いを投げかけた。
「まさか、」
「そう、ですか……其れは、良かったです」
 とろり、と硝子玉が溶ける様に滲む彼女の黒曜石が昏く、滲む。僕の腕に絡む冷ややかな腕が楔となって、魂さえも彼女の所有物となったことを悦ぶ僕を、愚か者だと嗤うだろうか。

疵が残ればいいのに

 僕は「信じる」という行為を1つの方法でしか示せない。言葉と云う形に無いナイフの刃を心に突き立てて、奥底に眠る激情を暴く。突き立てられた場所から溢れ零れ落ちてゆく、緋い雫と感情。両手で掬い取って、零さぬように口に含む。どろりとした食感と甘ったるい味が口腔に広がる。甘ったるい其れをそのまま呑み込んで、僕の一部にしてゆく。恍惚とした表情で、満たされた僕の胸を愛おしく愛撫する。
 傷付いた顔で目を逸らさず僕を見詰める時、僕は其の人を信じる。そんな僕を指差して、口々に揶揄する。異端な僕を排除したいのだろう、其れは構わない。僕のやり方が正しいとも、多くの人等のやり方が正しいとも、僕には判断出来ない。だからこそ、否定も肯定もしないで僕のやり方を貫く。
 罵詈雑言の汚い言葉に耳を塞ぎ、口を噤む。理解して欲しい訳ではなく、只、そういう人種も居ると認めて欲しいだけ。泣き叫ぶ勇気も持たない僕は、声と心を殺して微笑する。そんな化けの皮を被った僕を君は、「愛おしい」と愛を囁く。
 君の心を信じる事が出来ない僕は、君の本音を暴く為にナイフを突き立ててみる。君は微笑を崩さずに僕ごと抱き留めて、包み込む。君の心は突き立てられたナイフをズブズブと呑み込んで、何も無かったかの様に傷一つ無い。僕は驚愕し、戦いた。罵詈雑言、君に有る事無い事を鋭利な刃物にして切り付けてゆく。君は逃げも隠れもしない、真っ向から全て受けて入れては呑み込んでしまう。傷一つ無い心を持ち合わせた君に畏れ、震える僕を優しく抱き込む。そうして――。
「どんな貴方でも愛してます」
 慈しむ眼をして、そう宣うんだ。僕が突き立てるナイフで傷付いた人しか、僕は信じられない。傷付かない君を僕は信じられずに居る。それでも。
こんなにも僕を愛してくれるならば、信じたい。信じたいと思い始めているのに、信じる術が無い。
 何一つ欠けない君に、一つでも僕の疵が残れば良いのに。そうしたら――僕は君を信じ、「同じように」愛せるのに。君の腕の中で、涙を零しながら呪詛を唱える。君が傷付けば良いのに、と。君は微笑みを絶やす事無く、受け入れてゆく。
 愚かな僕は気付いていないだけだった。傷付かないと思っていた君の心は既に、疵だらけで飽和状態だった事に。子供の様に泣きじゃくる僕を抱き込んだ君は、静かに嗤って居た事に。

標本匣の胡蝶

 祖父の書斎に黙って忍び込んだあの日、幼き僕の世界を支配する神と出遇った。壁一面に均等に並べられた箱の中には、大翅を広げて美しい模様を惜しげ無く晒した宝石達が収まっていた。余りにも美しいその光景に呼吸をすることさえ憚られ、そっと息を殺して魅入る。一つとして同じ模様は無く、沈黙の胡蝶は磔にされて居ながらも何処か自由で生々しい程の存在を僕の眼に叩き付けた。
「……ほしい」
 ぽそり、溢れ落ちた欲が全身を巡って、気付いた時には祖父の膝許に佇んでいた。
「お祖父さま。書斎に飾っていらっしゃる、蝶の標本……いただけませんか?」
 一瞬だけ大きく目を見開いた祖父は忍び込んだ事を咎めるでもなく、目尻を下げ優しく諭す。
「愛しい孫の願いだ、(かのう)えてやりたいが……それだけは譲ることは出来んなぁ」
 どうしても駄目だろうか、と食い下がってみても、祖父は困った様に微笑むばかりだった。頬を膨らませて拗ねる僕の頭をくしゃくしゃと撫でながら、ぽつりと言葉を紡ぎ始める。
「君くらいの歳の頃に一匹の美しい蝶に出遭って、一目惚れしたんだ。大きな翅に描かれた美しい模様とターコイズブルーの輝きに目が離せなくなった……だから、」
「捕まえて、標本匣に閉じ込めちゃったの?」
 落ち窪んでしまった眼球が溢れ落ちるんじゃないかと思う程に大きく見開いた祖父は、初めて大きな声量で笑い声を立てた。
「そうだ。美しく愛しい宝石を掌に包み込んで隠したくなった」
「沢山、蝶がいましたよ? だから……」
「私はね、強欲だから一つだけじゃ満足しなかったんだよ。だからな……掌に包み込んで隠せない程持っていようともどれ一つだって、お前にはやれないなぁ」
 苦笑いしながら、頬を膨らませて拗ねる僕の頬を慰めるように撫でる。拗ねた僕をあやす時の癖だった。

 蒼穹に昇る一筋の白、ゆらゆら揺れながらも迷いなどなく高く高く昇る祖父の魂を見上げ続ける。涙で滲む僕はひらひら、と立ち上る煙に寄り添いながら羽ばたく胡蝶達の幻をみた。隣で静かに見送る祖母が、ぽつりと涙と共に溢す。
「私以外、みぃんな連れてっちゃうなんて……非道い人のひと」
「お祖母さま?」
 そっと、ポケットに突っ込んでいたハンカチを祖母に差し出す。祖母は小さく有難う、と受け取って目元を拭った。
「最期まで私の方へ振り返ってくれず、蝶達だけ連れて先に逝くなんて。なんて薄情者なのかしらね」
 哀しみに濡れる瞳はゆらり、と揺れながら、茶化すように僕に静かに微笑んだ。
「お祖母さまは、お祖父さまの蝶を憎んでいますか?」
「憎んではいなかったけれど、少しだけ妬んで居た事もありましたよ。でも……蝶を愛おしく見詰める、柔らかく慈愛に満ちたあの人の瞳を愛おしいと想ってしまったから。仕様が無いの、惚れた弱みね……」
 遠く追憶を愛しむ祖母の瞳は、祖父が生前に蝶達へと注いでいた暖かく柔らかさを孕んでゆらり、と揺れる瞳に似ていて綺麗だと見惚れる。あゝ、何かを心から愛している人は綺麗だ。きっと、祖父だって祖母のことも愛していて居ただろう。だけれども、それを僕から伝えるのは野暮だと察して口を噤む。
「私があの人の元へ逝く時がきたら、桔梗の花を添えてちょうだいね」
 蒼に滲み消えてゆく白雲からそっと、眼を逸らす祖母の瞳が少しだけ蔭った。


 ジジッ、とノイズが走って、積み上げたブロックを崩すように祖母だったものがカタチを失ってゆく。ブロックノイズは大きな蛹のようなカタチを成し、美しい曲線を描く背をゆっくりと割り開く桔梗に似た色の翅が顔を覗かせた。小さな粒子を瞬かせながら広げられた翅の紋様は、幼き頃に見た匣に仕舞い込まれた蝶の紋様に似ている。
「美しく愛しい宝石を掌に包み込んで隠したくなる気持ち、今なら痛い程に解ります」
 つぅっ、と冷ややかな液晶画面を指の腹で撫でると、匣に閉じ込められた蝶が嬉しそうに翅を揺らした。

寂寥

『もうずっと前から、消えてしまいたかった。』
 少し曇った窓硝子を叩く雨音を聞く度に思い出す、此処には居ない君が零した本音。
 重く絡み付く湿った空気は、僕が抱く後悔と未練を表しているようで心地が悪い。
 生温くなった珈琲を胃袋へ無理やり流し込んだ。
 喉を通り過ぎてゆく苦味は、君に伝えたかった想いだったかも知れない。
「もう、忘れないとな……」
 そっと、閉じた古びた日記の最後の頁には、君の丸っこい筆跡で締め括られていた。

 【忘却だけは、君の味方だよ。】

 ゆっくりと瞼を閉じて、君の幻影を探し彷徨うことをやめた。
 窓硝子を叩いて流れ落ちてゆく雨の雫は、まるで、君が涙を流して引き留めているようだった。
 空っぽになった珈琲カップの底には、真っ黒な三日月が嗤っている。

金平糖

「手ぇ出しぃや」
 ――ころり。
 怖ず怖ずと差し出した掌に転がったのは、色取り取りの小さな星々だった。
「おほしさまっ!」
 懸命に手を伸ばしたって決して届きはしない星が今、ひっそりと息を沈めて僕の掌中に有る。夜見た輝きは無いけれど、淡いその色は不思議と温かく感じた。
「坊、口に入れてみぃ」
 ひとつ、摘まんで口に放り込んでみる。滲んで溶けてゆく柔らかな甘さが、僕の口内一杯に広がっていった。ころころ、と舌で弄ぶと可愛らしい見た目なのに小さな痛みを与える凹凸に驚く。
「甘いやろぉ?」
 悪戯が成功した子供のような顔で笑う祖母に僕は、目を輝かせながら頷く。幼い僕には祖母が魔法使いに見えた。
「おばあちゃん。どぉやっておほしさま、とったん?」
 またひとつ、小さな星を摘まんで口に放り込みながら、お茶を啜る祖母に訊ねる。口に広がる控えめな甘さは心地良く、噛み砕いてしまうのは惜しいと思った。
「坊がもぉ少し大きゅうなったら、分かるわ。それまでは内緒なぁ」
 クスクスと楽しげな笑い声が降り注ぎ、皺くちゃの骨張った手が僕の髪を優しく乱す。擽ったくて身を捩り、はにかみながら祖母に指切りを強請る。
「ぜったいじゃけぇね! ゆびきりげんまん!」
 小さな小指を頭を撫でる指のどれかに絡めて、きゅっと力を入れた。
「ゆびきったぁっ! おおきぃなったら、おしえてぇね」
 少し先の未来への期待に胸を弾ませながら祖母の顔を見上げる。温かな微笑みを湛える祖母の双眸には、目を輝かせた自分が映っていて少し気恥ずかしくなったのを覚えている。

 ――そして、今。あの頃の自分と同じ歳になった我が子の掌にそっと、金平糖を幾つか乗せた。
「おとぉさん。これ、おほしさまぁ?」
 目が零れ落ちそうな程大きく見開いて、輝かせる息子に思わず笑みが零れ落ちる。期待に満ちた息子の顔が、幼き頃の自分と重なって懐かしさが込み上げる。
「そぉやぁ、父さんが採ってきたん。食べてみぃ?」
 僕の顔と掌に転がる金平糖に視線を何往復も行き来した後、思いっきり口へ放り込んだ。もごもごと口を動かして、ぴたっと止めて此方を見上げる。
「あまぁいっ! おほしさまって、あまいんじゃねぇ」
 きらきらと目を輝かせながら、凄い凄いとはしゃぐ息子に悪戯心がムクムクと湧いてきた。あゝ、祖母もこんな気持ちだったのかな。なんて、少し感傷に浸りながら、金平糖に夢中な息子の頭を撫でる。さらさらと指の隙間を流れる髪を梳きながら、なんて言おうかな、と考えた。
「おとぉさん。どうやって、おほしさまとったん?」
「なぁいしょ。父さんより大きくなったら、教えちゃる」
 きっと、僕の背を超えるよりも早くに答えを知るだろう。それでも、今は優しい夢をみていて欲しいと願う。
「ぜったいじゃけぇね、ゆびきりげんまん!」
 星々の瞬きをその双眸に宿した、小さな希望をそっと抱きしめた。

六丁目路地裏立ち入り禁止

 人間と物の怪が共存する町――鬼灯町――の六丁目には、とある噂で有名だ。

『裏路地に人喰い猫が出るらしい』

 袴の裾でもたつく足元を必死に動かして、駆ける。煌びやかな大通りを摺り抜け、暗澹(あんたん)とした陰翳(いんえい)が横たわる路地へと駆け込む。青年の足音と乱れた呼吸、そして――背後から軽快な足音が追い掛けてくる。室外機の地を這う様な唸り声、換気扇から漏れる油の匂いと生臭い匂いが鼻につく。絶え間なく反響する鈴の音。不潔、不快、不安、恐怖――死。脇に並べられていた塵箱を蹴り飛ばし、飛び越えて奥へ。
 青年を追い掛けるモノの正体を確かめるのは、恐ろしくて後ろを振り向けない。じりじりと距離を縮めてゆく、青年以外の足音。息も絶え絶えで酸欠で酩酊する頭、霞む視界で祈る。どうか――。ぴたっと止んだ足音、安堵した瞬間。
「ぇっ?」
 青年を頭から喰らおうと、大きな影が真っ赤な大口を開けていた。ばくり、青年は悲鳴も上げられ無いまま丸呑みされ、暗闇の中に消えていった。満足そうに舌舐めずりする影は濡羽色の毛皮を纏い、二尾の長い尻尾が愉しげに戯れる。
「なぁおん」
 ひと啼きして、影は静かに陰翳に溶けていった。

 翌日、町の至る所に設置されている掲示板に捜索願の張り紙が一枚、増えていた。この町一番の富豪の息子さん、らしい。張り紙を見た人々は皆、渋い顔をし口元を手で隠し口を揃えて
「また、行方不明者が……」
「まだお若いのに、お可哀想……心配だわ」
「嗚呼――でも、確か……」
 上手く隠しきれておらず、口元が嗤いを堪える様に歪んでいるのが隙間から見え隠れする。

 ちりんっ。

 雑踏を縫うように横切る、一匹の艶やかな毛並みの黒猫。尻尾の先に括り付けられた深紅のリボンと小振りな2つの鈴。

 ちりんっ、ちりん。

 黒猫が歩く度に軽快に鳴り響く、彼等を嘲笑うかの様に。金色の瞳がじぃっと、彼等を見詰める。次の獲物は誰か、舌舐めずりしながら物色している様だ。
 全てを暴くような光が眠り、総べて隠す闇が目を覚ます。人々は急ぎ足に各々の帰途に就く、何かに怯える様に辺りを見渡しながら。

 ちりんっ、ちりんっ――。

 静寂な夜道に澄んだ鈴の音が、夜の訪れを祝うかの様に鳴り響く。慌ただしい足音と鈴の音、命を賭けた鬼ごっこ。小さな悲鳴が響いたと思ったら、ぱたりと足音が止んだ。街灯も月の光さえも差し込まない、暗澹とした陰翳が静かに横たわる路地裏の奥。提灯を持った少年が佇み、足元に擦り寄る小さな黒影。

 ちりりぃんっ。

「なぁぁ」
 提灯を地面に置き、嬉しそうに啼く黒影を抱き上げる少年。
「よくできました」
 そっと、宝物を扱うように優しく撫でる。二尾の尻尾が少年の腕に絡む。満月の様な瞳が三日月のように歪み、少年もにんまりと嗤った。

 鬼灯町の六丁目裏路地に人喰い猫が出る。夜道にはお気を付けて。

時間

 ――さらり。

 微かな崩壊の音を響かせながら、砂は指の隙間から流れ落ちてゆく。幾度も幾度も掬い上げようとしては、沢山の砂粒がさらさらと逃げていった。私の足元には、流れ落ちた沢山の砂粒が円を描くように広がってる。均等に整った円に息苦しさを感じて、ざざっと足で蹴飛ばしては乱してみた。素足に纏わり付く砂が気持ち悪かったけれど、息苦しさは消えて安堵する。
「ねぇ。いつまでそうやっているの?」
 貌の無い女の子が膝を抱えるように座り込み、俯く私の顔を覗き込んできた。どんな貌をしているのかさっぱり分からない。けれど、その声音は少しだけ硬質で苛立ちを孕んでいるようだった。私はじぃっと、女の子の貌を見ようと見詰める。けれど、女の子の貌は何時まででものっぺらぼうだった。
「ねぇ、聞いてる?」
 砂を零さないように包んでいた私の手を、ぐいっと無遠慮に力強く引っ張る。
「ぁっ、ちょっと……っ!!」
 僅かに残っていた砂が全て、私の掌から女の子の手首を伝って流れ落ちていった。女の子に批難めいた視線を投げる。しれっとした態度で私から手を離すと、立ち上げって足元に散らばる砂を蹴り飛ばした。
「どうせ元に戻りはしないんだから、掬おうなんて無駄だよ」
 弾むような声音で真実を私の喉元に突き付ける。否定する為に私は耳と心を塞ぎ、瞼を下ろした。

――さらり。

 遠くで砂が流れ落ちる音が、静かに響く。幾つもの波紋を描くように広がる砂の縁は、いつしか私をも呑み込んで。共に風化してゆく。

ただ、それだけのこと。

≪可愛がっていた金魚が、死んだ。≫

――だた、それだけのこと。僕が抱きかかえている金魚鉢の主が今朝、ぷかり、と水面に浮かんだまま、ひと月も生きられなかっただけのこと。
「出店の金魚はそんなもんだろ」
「お父さんッ! 一緒にお庭に埋めようか」
 遠くから投げつけられた父の呆れ声と、僕を気遣うような濁った母の声の合間を漂う金魚と僕。ゆらゆら、居心地悪そうに揺れて水面を掻き乱しながら悪臭を放つ。濁った金魚の眼が、じぃっと僕を見上げる。僕も逸らさず、じっと見つめ返す。

 なんで、しんじゃったの?

 なんで、すくいあげたの?

「そら?」
 何も言わず俯いたままの僕を心配してか、安心させようと頭を撫でながら僕の名前を呼んだ。
「なに」
「この子が死んじゃったのは悲しいけど、そらの所為じゃないからね……そんなに落ち込まなくったっていいのよ?」
 ね、と僕の心の傷を癒そうと寄り添ってくれる母の声音は、どこまでも優しく響く。けれど、母は勘違いをしている。僕は金魚を死なせた自身を責めている訳でも、可愛がっていた金魚が居なくなって悲しんでいる訳でもない。ただ――空しいだけ。濁った眼を見続けていると、底無し穴に落っこちていっている気分がするのだ。
「うん……わかってる」
「……そう、じゃぁ。早く、埋めてあげようね」
 母と共に庭先へでて、底の浅い穴を掘る。ぱしゃん、と金魚鉢から横向きになった金魚を両手で掬って、掘った穴に落とした後に土を盛った。掘り返されたところだけが、色濃い土色になって違和感を生むけれど、いつしか同化して跡形も無く消えてゆく。

 なまえを≪そら≫とつけたのは、なんで?

 からっぽになったすいそうにきみが、およいでいるのはなんで?

 ぽつ、ぽつ、と小粒の雨が、空っぽになった金魚鉢に降り落ちる。
「……雨が強くなる前に中に戻ろっか」
 温かな母の大きな掌が僕の小さな背中を押した。金魚鉢を抱えたまま立ち上がり、玄関へ母と共に足を踏み出す。雨の音なんて、どこにも響いていない。

 可愛がっていた金魚が死んで、庭先に埋めた。ただ、それだけのこと。
 空っぽになった金魚鉢に透明な金魚が漂っている。それは、僕だけしか知らないこと。
 ぽちゃん、とまた、水面が雨に打たれて波打つ。今夜は、雨降り模様のようだ。 

オパール

  《守りたいものはありますか?》
  
 無造作に貼られたポスター群の中から、その言葉だけが僕に強く問い掛ける。ぽたり、顎を伝ってアスファルトへ落ちた滴。熱暑で霞む僕の思考は、ぼんやりと誰かの影を追う。見知らぬ貌を貼り付けた人々が行き交う舗道、ゆらゆらと陽炎が戯れる。僕の視界が白黒から徐々に色味を取り戻し、見知った後ろ姿がふり返って――あゝ、君だったんだ。僕が守りたかったものは。
 舗道の真ん中で立ち尽くす僕、邪魔だと言わんばかりに顔を顰め擦れ違う人々。それすら、今の僕にはどうでもよくて。君とまた、巡り逢えた。ただそれだけが、嬉しくて哀しくて。僕は今、どんな貌をしているだろうか?
 
 
「壱成」
 僕を呼ぶ声音は優しく、何処か懐かしい。閉じ込めて、奥底に眠っていた遠い日の愛おしい記憶が蘇る。降り注ぐ日の光を遮って、俯いていた僕の前に差し伸べられた君のものではない掌。白く柔らかかった君の掌は、硬く鈍色に変わっていた。柔和に微笑む貌は変わりはしないのに、何処かぎこちなくて。壊れ物を扱うように、そろりと手を繋ぐ。今度は大切に、大事に愛そう。哀し涙を拭って、君じゃ無い君に微笑む。
 失った日々は取り戻せはしないけれど……また一から始めよう。

道徳と皿

 スモッグで霞んだ鈍色の空を睨み付け、分厚い参考書や教科書が入った鞄を持ち直して気怠げに帰路に立つ。宵の訪れを告げる影鳥が嬉しそうに囀る、輝きを失い微睡む街並み。何もかもが色を失って、只々、無意味に過ぎてゆく時。誰もが濁った眼をして、足早に通り過ぎて各々の路へ往く。僕も皆に倣って、重い足を必死に動かして進む。
 薄暗い路地の片隅、おんぼろのギターを掻き鳴らしながら歌う男を視界の端に捉えた。僅かに点滅する街灯をスポットライトの代わりにして、彼は人目を憚らず歌う。決して上手い訳では無いのに、妙に惹かれる男の歌声。僕は歩むのを止め、男の真向かいの塀にもたれ掛かり聴き入る。
 黒くくすんだジャケットの袖を捲くって、ボサボサな髪をそのままな不格好な男。普段なら失笑して通り過ぎてしまうのに、何故が目が離せないでいる。ボサボサな前髪から見え隠れする瞳が、色を失わず輝いて見える所為だ。昏く黒い瞳の奥に渦巻く熱情が僕を捕らえる。『目は口ほどに物を言う』全く其の通りだ。

 “生き抜くには傷を付けなければ”なの?
 壊されたちゃったかい? 誰かに。
 裏切られちゃったかい? 愛に
 生きるとはなんだ
 「見返りを覚えた」

 男は僕に気を止める事無く、思いの丈に叫ぶ様に歌い続ける。男の瞳は僕を捕らえたままで。何かを訴える様に、祈る様に――。僕は蛇に捕らえられた蛙の様に、じっと男を睨み付けながら歌詞を追ってゆく。

 意味付けられた
 彩りが薄れた
 どれが正しいのか教えて

 僕の心情を言い当てた様な歌詞が無遠慮に突き刺さる。耳を塞いでしまいたいのに、聴いて居たくないのに。ぽつり、生暖かい雫が落ちてアスファルトに吸い込んでいった。霞んだ視界、胸の奥から込み上げる『何か』。吐き出してしまわない様に口元を手で塞ぐ。

 こんな世界を未だ憎めないのは何故か
 気付いてるよ わかっては居るけど
 生き抜くには満ち足り過ぎているの。
 「愛」と呼べる本物を
 さぁ 探せ

 男は逸らすこと無く、しっかりと僕を見詰める。訴え掛ける様に、背中を押す様に。昏く静かに燃える炎を孕んだ男の瞳に、何処か懐かしく感じた。
『嗚呼、昔に棄ててしまった僕に似ている』
 アスファルトの上に投げ出していた鞄を拾い上げて、走り出す。光を失って逝く街、疲れ切った人々を縫うようにして進む。後ろを振り向く事無く、前へ前へ。濁っていた僕の瞳も白く輝く月をも呑み込んで、淡く輝きを孕んでゆく。

 こんな世界でずっと、生きてゆこうと思うんだ
 温かいモノを忘れないこと。
 すれ違う思い 泣き合えた「青春」も
 そうか。「道徳の果実」を食べて
 さぁ 笑え

 ギターを掻き鳴らしながら、遠ざかる小さな背中を見送りながら微笑む男。

 さぁ はじめてみて

 若き日の迷子だった僕よ。俯いていた顔を上げ、真っ直ぐ前を向いて進め。未だ君は彩りを全て失ってはいない。探し出せ、そして――取り戻せ! 今からでも遅くは無い。君が大人に成った時にでもまた、逢おう。その時、君は気付くだろう。こんな世界を未だに憎めない訳を。

空っぽの空に潰される

 明かりの灯らない暗く、殺風景な部屋。鬱々とした気分を切り替える為に、乱雑に投げ捨てられていたリモコンを拾う。眠っていたブラウン管へ目を覚ませと命令する。鈍い音を立てながら起き上がり、煌々と光が漏れる。私は目を奪われた。
 ブラウン管の中に「白い何か」が真ん中に佇んでいる。それはフードを被った人の様で、宙を戯れる様に翻るは白のレース。背後には歌詞と覚しき言葉達が無遠慮に殴り付けてくる。何故か、音は私の耳には届かない。怒りを惜しみなく体現するかの様に軀を揺さぶり、その度にレースの裾が踊り狂う。暗闇の中で踊り狂う白を眺めていると、虚無感が私を襲う。

   “虚しい時は如何すれば良い?”

 視線はブラウン管を捉えたまま、革張りのソファに深く深く沈む。結局、私は空っぽだ。地位も、名誉も、人望さえも手にしたのに自身の底に燻る空虚感が拭えなかった。若かりし日の私は無我夢中に駆け巡って、これ以上無い程に満たされて居たのに。私は果たして幸福を手にしたのだろうか。いや、そもそも「幸福」とは何だ。
 私は満たされていた過去の私に激しく嫉妬した。

   “人々を置き去りにして過ぎてゆく季節に何を期待すれば良い?”

 涙で霞む視界に映る、白と黒。人間の形をした二つが向かい合わせで自問自答する様に縺れ合う。まるで、過去の私と今の私ようで。過去の私に縋り付いてみても、素っ気なく引き離される。嗚呼、哀しき愚かな私よ。
 漸く、私自身を理解する。私は完璧な人間で無く、不完全な人間だった。欠落した部分を私は、認められずに此処まで辿り着いてしまったのだ。

   “愛した人や物は呆気なく去って逝くのに、何を期待すれば良い?”

 最初は嗚咽を漏らすだけだった。段々と、込み上げる感情を押し殺せなくなって。自分自身を守り抱き込むように丸まって、思うままに慟哭する。怒り狂う様に踊り回る白のレース。責め立てる様にブラウン管は唯々、激しく明滅するだけ。

   “恒久的な欠落を愛してこその幸福だ”

 空っぽな私には幸福を手にする事は出来ない。どんなに欲したとしても、欠落を愛せない私は虚しいままだ。空しい心を抱いて私は、自身の虚無に潰される。

内省

 眼前に対峙する黒い影が、硝子玉の様な二つの眼で問う。
「お前の眼に映るソレは人間か?」
「はい」
 少しだけ、人影らしい形に変わる。
「ソレは大人か? 子供か?」
「大人」
 僕よりも背が高いから、ただの勘。
「その大人は男か? 女か?」
「判らない」
 長い髪をした女性でも、男性にもとれる形をしている影が少し揺れた。
「そうか、では。その大人はお前の知っている者か?」
「知っている」
 曖昧だった境界線が、ゆっくりと浮き上がってゆく。あゝ、そうか……そうだったのか。
「お前の目の間にいるのは何者だ?」
「僕だ」
 霧が晴れてゆくように、影が解かれて一人の人間が現れた。
「私はお前なのか? お前は何者だ?」
 じっと、硝子玉の双眸が僕を見詰める。
「君も僕だ。僕は僕でしかない」
「何故、お前と齟齬が有る?」
「僕が成長する事を拒んだからだ。変わることを恐れたからだ」
 僕を見下ろす硝子玉は、恐ろしい程に透き通っている。そっと、大きな僕の頬に触れる。ゆらり、と硝子玉の奥に灯る炎が大きく揺れた気がした。
「もう、大丈夫だから」
「何が?」
 ゆらゆら、と揺れる炎が綺麗だと見惚れるながら大きな僕を抱き締める。
「僕は、君になるよ」
 ゆっくりと瞼を閉じてゆく。境界線が曖昧になってゆくけれど、もう、怖くはない。
 再び、ゆっくりと瞼を開ける。もう、目の前に影は居ない。その代わりに、磨き上げられた鏡に映る僕の顔が此方を覗き込んでいた。

廻る歯車の箱庭

カチッ……カチッ……カチッ。

 巨大な二つの歯車が噛み合いながら、ゆっくりと回りながら巡る。歯車が止まること無く廻るから、この奇妙な世界も廻る。ゆっくり、時間を掛けて。
――べしゃり。

 灰色の空に半透明な0と1が、迷子になったパズルピースの様に浮かんでいる。小さな黒い塊が、宙から落っこちてきた。背中にゼンマイをくっつけたリスが、小さな螺旋を投げ棄てて飛び退く。もぞもぞ、赤茶の煉瓦の上で小さく身動ぐ黒い塊。
ぴょこんっ、小さな三角の耳が二つ。不機嫌そうにゆらゆら揺れる逆立った尻尾。アーモンドに似た大きな眼が、忙しなく動く。どうやら、宙から落っこちてきたのは黒い猫らしい。黒猫は丁寧に顔や耳を洗い、辺りを一瞥して澄まし顔で歩き始めた。黒猫が向かう先には、小さくペンギンの様なものが見える。
 黒猫は興味深げにキョロキョロと見渡しながら、赤茶の煉瓦の上を進んで行く。等間隔に並んだガス灯が仄かにオレンジ色に輝き、何処からか灯油とスモッグの匂いが流れてくる。
「ヴゥーッ」
 突然、濁った音が響く。黒猫は立ち止まり、耳をそばたてる。うねる配管とブリキの板で出来た奇妙な建物の陰に、真ん丸の月が二つ。何かかが潜み、黒猫を威嚇しているようだ。黒猫は躯を低くし、ゆっくりと近づいていく。陰に潜んでいたのは。背中にゼンマイを背負った猫だった。躯は燻んだ真鍮、尖り耳はブリキと真鍮の継ぎ接ぎ。レモンクォーツが填め込まれた眼は、黒猫から視線を離さず輝いている。

びたんっびたんっ。

 数十本のコードが束になった尻尾が、煉瓦路を鞭のよう叩く。その度に、先っぽの電源プラグがぷらり、揺れて今にも外れそうだ。黒猫の眼は、ぷらぷら揺れる電源プラグに釘付けだった。背後から忍び寄る影に気が付かないで居る。
「おや?珍しいお客さんだね?」
 柔らかな声と共に黒猫が宙に浮く。煤汚れた匂いと温かな温度が、黒猫を包む。もぞもぞと躯を身動ぎ、顔を見上げる黒猫。声の主は、白衣を纏った眼鏡の青年だった。
「にゃぁ」
 爪を立てながら降ろせと抗議をするも、彼には全く届いて無い模様。彼は黒猫を片手に抱き、ゼンマイの猫を宥めている。彼に喉を撫でてもらって満足したのか、のっそりと物陰へと溶けていった。
「さてと。君にはゼンマイが無いし、モータ音もしない」
 黒猫のお腹をそっと撫で上げながら、不思議そうに青年は呟く。擽ったそうに、彼の手から逃れようと藻掻く黒猫。
「此処の子じゃないし……迷子かな?」
「なぁー」
 甘えた声を出し、尻尾を彼の腕に巻き付けて彼の問いに返事する。
「すみませーん!」
 遠くから呼びかける大きな声。
「はーい、すぐ行きます!」
 彼も大きな声で返す。黒猫は驚いて飛び退る。尻尾がブラシのように逆立っている。彼は少し驚いていたようだが、クスッと小さく笑った。
「驚かせちゃってごめんね?」
 黒猫はジトッとした眼で彼を見上げる。
フンッ、小さく鼻息を吐いて黒猫は駆け出した。
 彼の元から去った黒猫は気侭に街を彷徨う。浮かぶ0と1を縫うように飛ぶ、螺旋巻きの鳥達。邪魔そうに黒猫を避けて足早に通り過ぎる人々。黒猫が珍しいのか、奇声を上げて追いかけてくる子供等。
 命からがら逃げ切った先には、ペンギンのモニュメントが鎮座していた。周りには澄み切った水溜まりと、変幻自在に形を変える水柱が遊ぶ。
黒猫の小さな舌で水を掬ってみると、不思議と冷たく無く美味だった。黒く、つるりとしたペンギンの足元で、一休み。瞼を下ろして、耳を澄ます。

カチッ……カチッ……カチッ……
ゴトンッゴトンッ
ヴヴゥ――ッ
ぱたん、ぱたたっ、ぱたん。

 様々な音が混じって、賑やかな音楽が響く。心地良い音色の揺り籠に黒猫は微睡み、ゆっくりと意識を手放した。

おやすみ。
僕の箱庭、気に入ってくれたかな?

 柔らかな誰かの声を聴いた気がした。

せめて、心だけは


「好きです」
 決死の覚悟で君に想いを吐露する、夕暮れ。君は少し困った貌で告白の返事をした。
「……わたしも、」
 君が何か、言葉を紡ごうと口を開きかけた瞬間。僕は遮る様にして、電源コードを引き抜いた。

  ――ぶつん。

 鈍い音を立てて、暫し眠りに就いく真四角の匣。もう、二度と目覚める事は無い。
「よいしょっ」
 小さく零れた掛け声と共に抱きかかえる。少し生暖かい匣はずっしりと重く、君の心の重みの様だった。少し泣きそうになるのを唇を噛み締めて耐える。
 一歩、また一歩。
 足を前に踏み出す度に軋みを上げ、崩れ落ちてゆく理想。涙で霞む視界を睨み、転ばぬように慎重に歩む。君はまだ、夢現。
「好きだ、好き……君を僕だけのモノにしたい」
 堅く閉ざされた封を無遠慮に解き、夢に溺れる君を暴く。幾つもの絡み付くケーブルを引き千切り、君の心を盗った。君の全てを手に触れる事が出来なくなって仕舞うならば。君の心だけは、僕に触れさせて。
 抜け殻になった君が、粗大ゴミ置き場に残される。

  ――う゛ぅぅん。

 低い唸り声を立てて、眠りから覚めた真四角の匣。真っ黒な画面が煌々と瞬き、闇に支配されつつある道を照らす。何かを探して、彼を求めて。

嫌い、って言ってよ

 さらさらと、流れ落ちるの砂を掌で受け止める。指の僅かな隙間から零れ落ちてしまうのが、嫌で、嫌で……喚いた。零れ落ちてしまわないで、と。僕の懇願などお構いなしに零れ落ちてゆく砂たちは、何を想っただろう。
 跪き、綺麗な掌で零れ落ちた砂を掻き集める。消えないで、置いてゆかないで、と。大切だった誰かの欠片を失いたくなくて。ぽたり、滴が頬を伝って落下する。涙を零したところで、零れ散らばった砂は元には戻らない。解っている、そんなことは。頭では理解しているのに、心が追いついて着てくれないだけ。
「まだ、好きなの?」
 蹲る僕の頭上を影が覆い、無遠慮な言葉を投げつけてきた。聞き覚えのある声音に僕の心臓が、一際大きく跳ねる。ぐらぐらと揺れる感情と理性。言い返してやりたいのに、上手く呼吸さえも出来ずに俯いたままで。
「ねぇ、届いているんでしょう?」
 剣呑な雰囲気を孕んだ言葉を再び投げつけられる。僕の心がどんなに痛がっているかなんて、お構い無しで。影は跪き、そっと僕の頬を両手で包み込む。強制的に上向かせられた視界に映ったのは、今にも泣き出しそうな貌だった。ひゅっ、と勢い良く吸い込んでしまった息に噎せ返る。
「嫌い、って言って、」
 掻き消されそうな程、小さな懇望。はらはらと、降り注ぐ冷ややかな雨が僕に纏わり付く。無下に振り払うことが出来ず、ただじっと、止むのを待った。
 影も、僕も、同じだったから――。

玄翁

 貴女の哀しみを解放したかっただけなのに――総て、指の隙間から零れ落ちてゆく。
 無残に砕け散った石榴の実が、私の足元に澄んだ音を立てて落ちた。握り締めていた金槌を放りだし、袈裟が汚れるのも厭わず、膝を付き散らばった石榴の実を掻き集める私の目前に二頭の白狐が姿を現した。
「何故、お前に我等が主の哀しみを解き放てると思うてか」
「何故、人の子で或るお前に我等が主の哀しみを背負えると思うてか」
 無様に無き濡らす私を四つの逆さ三日月が嘲笑うかの様に見詰め、責め立てる。私は言葉に詰まり、何も言い返せないでいる。
「我等が主様よ、このような哀れなお姿に為られてしまって……」
「我等が主様よ、癒えぬ哀しみは我等が背負いましょう。さぁ、我等と共に――」
 澄んだ鈴の音が風と共に響き渡る。地に散り散りになっていた石榴の実が宙に浮き、一つに纏まって別の姿へ変わってゆく。金色に輝く九つの尾に銀糸の様な長髪が弄ぶ様に揺蕩い、長い睫に縁取られた紅榴石は憂いげに揺らいでいた。私は恐ろしい程の美しさに息を呑んだ。
 物憂げに頭を垂れる妖狐の足元へ、白狐等はそっと寄り添い気遣う。
「我等が主様よ、罪無きものの生命を奪った罪を償いに参りましょう」
「我等が主様よ、我々も共に主様の罪を背負い、罰を受けましょう」
 はらはらと泪を零し、小さく頷く妖狐に白狐等は目元を緩めた。そして、今思い出したかの様にくるりと私の方を見やった。
「愚かな人の子よ」
「愚かな僧侶よ。今まで我等が主の哀しみに寄り添い慰めてくれた事、感謝する」
「お前の残りの人生、幸多からんことを」
「お前が其の魂を棄てる時、我等が喰らいに来てやろう」
 何処からともなく響き渡る澄んだ鈴の音と共に一陣の風が吹き込み、私の視界を攫う。伏せた瞼を挙げると其処にはもう、白狐と妖狐の姿は無かった。私は呆気にとられ、唯々立ち尽くすばかりであった。



 生きとし生けるものの生命を奪う、殺生の石がこの幻篭(げんろう)の街に隠れる様にして祀られている。石榴色をした殺生石はその昔、国主の寵愛を受けるほどの美貌を持った恐ろしい妖狐の成れの果てだというのだ。国を滅ぼさんとした妖狐を畏れ、幻篭に住まう者達は紅榴石(べにざくろ)様と呼んで豪奢な社を建てて祀った。
 幻朧寺院の僧侶、玄翁が紅石榴様の守人として此れ以上生命を奪わぬように見張り、慰めていた。玄翁は幼き頃に紅石榴様の本来の姿を目にしており、もう一度その美しきお姿を見てみたいと胸に秘め、押し隠していた。時は緩やかに流れ、玄翁の生命も幾ばくかとなった時。金槌を持ち、紅石榴の哀しみを解放しようとその腕を振り下ろしたのだった。

神様のパズル

「ただいまぁ~」

 ぱたぱたと可愛らしい複数の足跡が、リビングとキッチンに届く。
「あーっ! 壱成、靴脱ぎっぱなしっ」
「佐知は小言ばっかり!」
「さちは怒りん坊さん~」
「なっ!! 僕だって、好きで怒っているんじゃ無いんだからー」
 賑やかな話し声が、リビングを通り過ぎてキッチンへ近付いてゆく。からり、軽やかに引き戸がスライドすると。紺色の制服にすらりと伸びた脚、まだ舌足らずな小さな子等。
「右京~ただいまぁ~」
「うきょう、きょうのおやつはなぁに?」
「右京! 壱成と蒼がっ」
 エプロンをして、キッチンで料理をしていた右京にそれぞれ、声を掛ける。右京は愛おしそうに微笑んで、きゅっと流れる水を止めた。エプロンで手を拭きながら彼等の傍へ行き、腰を曲げて目線を同じにする。
「お帰り、おやつはとろぉりプリンだよ。さぁ、手を洗っておいで」
 一人一人の頭を優しく撫でて、手洗いうがいを促す。
「やったーっ!! 右京のプリン好きなんだ~」
「くりーむとさくらんぼ、のってる?」
 ぱたぱたと洗面所へと駆けてゆく壱成と、おやつのオプションを気にする蒼。
「蒼の好きなクリームもサクランボもあるよ。佐知、おやつ食べながら、ね」
 くすくすと笑いながら右京は小花が咲き乱れる蒼と、ふくれっ面した佐知の小さな背中を優しく押した。遠くの方で壱成が、「早くしないと、俺が全部食っちゃうぞー!」と叫んでいる。
「ほぁら。早くいかないと壱成に全部、食べられちゃうかもしれないよ?」
 意地悪そうな顔をした右京の頭上に手刀が落っこちた。
「あたっ」
「こぉら、なに、ちび等を苛めてんだ」
 右京をじとっと睨む双眸。右肩にスクールバックを二つ引っかけ、左肩には幼稚園鞄を3つ持った強面が右京の後ろに佇んで居た。
「お帰り、左京。お迎えありがとう」
 右京は自身の頭を撫でながら、にっこりと微笑んで迎え入れた。左京は盛大に溜息を吐き、頭をガシガシと掻いた。
「お前こそ、部活は? なに暢気におやつ作ってんだよ……」
「ずる休みしちゃった。だって、プリンな気分だったし……左京も好きでしょ? 僕の作ったプリン」
こてんっと可愛らしく小首を傾げて宣う右京は、小悪魔を通り越して悪魔なんじゃないかと思う左京。自分の片割れだと思うと、ぞっとする。
「好きだけどさ……まぁ、いい。手ぇ洗ってくるわ」
 右京に何かしら文句を言いたかったが上手く言葉に出来ず、ふいっと顔を逸らして右京から離れる。
「はぁい~皆と待ってるから、早く来てね」
 ひらひらと手を振りながら左京を見送る右京。左京が廊下を曲がった辺りでくるっと振り返り、キッチンへと戻っていった。


「あ~あ。毎日、おやつが右京のプリンだったらなぁ」
 足をぱたぱたと揺らしながら言葉を漏らす壱成に呆れ顔に溜息を吐く佐知。
「毎日プリンなんて、飽きるじゃん。確かに右京のプリン美味しいけどさ」
「うきょう、ぷりん、おいしい」
 少し大きいのか、スプーンと格闘しながら食べていた蒼は、とろりと蕩けるような笑みを右京に向ける。
「あーあ、蒼、口の周りべたべただよ?」
 くすりと笑って、蒼の口の周りを優しく布で拭う。それらの様子を黙って眺めて居た左京は、「あめぇ……」と誰にも聞こえないように零す。からり――空になった器にスプーンだけが、取り残される。
「明日は部活にでるから、左京。お迎えとおやつの準備よろしくね?」
「明日もかよ、んで。おやつはどーすんの? 料理担当は右京だろ?」
 面倒臭そうな顔をしつつも、壱成たちのおやつを気にする左京に右京は、微笑ましく思うのだった。
「んー、後で何か作り置きしとくから。それをお願い」
「ん、分かった。ほら、ちびども、食べ終わったならちゃんと片付けなー?」
 既におやつを食べ終えた三人に声を掛ける。
「さきょう、こわぁい」
「佐知より、怒りんぼだー」
「僕、左京みたいに怒らないもんっ」
 きゃらきゃらと左京をからかいながら、三人はキッチンへ空になった器をはこんでゆく。左京は盛大に溜息を吐き、右京をじとっと睨む。くすくすと楽しそうに笑う右京は、「僕の所為じゃないよ」と弁解する。それを見て、また大きく溜息を零す左京。席を立ち、右京の隣の席に再び腰を下ろして綿飴の様なふんわりとした右京の髪をすく。僅かに甘い香りが漂い、そっと頭を撫でる左京に右京は目を見開いて固まった。
「な、なんで……?」
「ん? 今日、何かあったろ。じゃねぇと学校早退しねーだろが、真面目な右京くんは」
 茶化すように言う割には、心配そうな顔をした左京が右京を見下ろしていた。右京は眉毛をハの字に下げ、困った様に笑うのだった。
「あーあ、左京にはバレバレかぁ。まぁ……ちょっと、ね」
 ぽてん、と左京の胸に額を預ける。とくとくと脈打つ左京の鼓動と、左京の香りが右京の心を落ち着かせる。本当は気付いて欲しくなかったんだけれど。
「そりゃぁ、生まれた時から一緒なんだから分かるに決まってんだろ」
 ははっと乾いた笑いが右京の口から漏れる。辛いときは何時も、左京にバレてしまう。そして、こうやって慰め、元気づけられる。
「蒼の両親がさ、此処に蒼をずっと住ませたがっているんだよ。僕としては嬉しい限りなのだけれど……」
 顔を曇らせ、ぐりぐりと左京の胸に額を擦り付ける。左京は黙ったまま、右京を優しく撫で続ける。
「まぁ、だからさ。啖呵切ってやったんだよね、“蒼の事は全部、僕がみます”って」
 俯いていた右京は顔を上げ、ぎゅっと左京の胸元の服を握ってまま宣言する。
「蒼の事だけじゃない。壱成や佐知、左京の事も僕が、全部責任持つ。その為に此処を用意したんだから」
 そう息巻く右京に左京は愛おしそうに目を細め、こつんと右京の額に自身の額をくっつける。
「右京、お前が思うままにしろ。俺がお前ごと守ってやるし、支えてやる」
 左京の言葉に右京は、一瞬目を見開いて驚いたものの。次の瞬間には、大輪の華が綻ぶ様な笑顔をみせる。
「左京が居たら心強いや、よろしくね……僕の相棒?」
 くすくすと擽ったそうに笑う右京を見詰めながら、左京はこの時がずっと続けば良いなと願うのだった。

 ひとつ、ひとつ。散らばっていたパズルピースが揃って、ひとつのカタチになってゆく。

春はまだ。

「ほら、あれを見て!」
 彼が雪に埋もれたフキノトウを指差す。
「もうすぐ春がやってくるね」
 ふわり、微笑みながら彼は冷え切った私の掌を包み込む。じんわりと伝う彼の体温。そうだね、と返そうとした私の口から白い吐息が漏れて彼の微笑を遮る。彼が、ふっと消えてしまいそうで不安になった。思わず、ぎゅっと強く彼の手を握る。彼は私の気持ちを知ってか、知らずか。
「何処にも行かないよ?」
 そう、春の日差しの様な微笑みで私を見詰めてくれたのに。約束してくれたのに。

 蝉時雨が降り注ぐ夏。消毒液の匂いと、ピッピッピッと規則正しく鳴る電子音。真っ白に塗り潰された部屋で彼はひとり、私を置いて迷子。少し冷たい彼の手を握って、唯々待ち続ける。それも、彼の“春”は未だ見つからない。
「嘘吐き」
 ぽたり、降り出した夕立に私の声は掻き消される。独りは嫌だよ。

人参 -幼い夢-

「あーちゃん。おとなになったら、けっこんしてくれる?」
 頬を真っ赤に上気させながら小さな男の子は、小さな女の子――あーちゃん――に問い掛ける。あーちゃんは、こてんと首を傾げて男の子を見詰める。
「ゆぅくんと?」
「ん、ぼくと」
 男の子――ゆぅくん――は、ぎゅっとあーちゃんの手を両手で握った。ふっくらとした小さな掌は、緊張の余り少し冷ややかだった。あーちゃんは、はにかみながらゆぅくんの頬にキスをひとつ。
「うれしい、いいよぉ。あーちゃんをゆぅくんのお嫁さんにしてね」
「う、うんっ! 絶対だからね!」
 あーちゃんの不意打ちのキスに一瞬、動揺したゆぅくん。しかし、直ぐに花が綻ぶ様な笑みを湛え、あーちゃんの頬にお返しのキスを送った。
「ゆぅくん、よそみはゆるさないからね?」
 くすくすと笑いながらあーちゃんは、戯けてみせる。ゆぅくんはあーちゃんと繋いだ手を握り直して、真剣な顔付きで誓う。
「ぜったいしないもんっ!」
「ぜったい?」
「ぜったいの、ぜったい!」
 こつんと互いの額を合わせ、鼻と鼻が触れる距離で微笑い合う。嬉しさと幸福感で、もう少しこのままで――。


「ゆぅくん、起きてー?」
 ゆらゆらと緩く揺さぶられる体。もう少し、心地良い夢から醒めたくなくて。
「ん゛ーっ」
 僕を起こそうとする元凶を捕まえる。僕の掌にすっぽりと包まれる細い手首を引っ張って、布団へと引きずり込む。少し冷えた彼女の体が、心地良い。
「もーっ、ゆぅくんっ。起きてってばー」
「あーちゃん、少し黙って……」
 薄く開いた彼女の唇に僕の唇を重ね、舌を絡めて声を奪う。今、この一時だけ、幼き日に戻って初恋の彼女へと重ねる。とくとくと脈打つ鼓動が二つ、重なり合って一つになる。こつり、互いの額を寄せて見つめ合う。
「おはよう、僕の奥さん」
「……おはよう、私の旦那さん」
 幼き日に夢見た光景。愛おしい人が傍に居る日々。

雪白のエルメンセル

 春告げの鳥が姿を消してから早400年が経った。春の訪れを希み祈る者は減り、人々の助け合いの心さえも凍り付いてしまった。雪降り荒ぶ凍てつく大地に生きる私達人間は、刻一刻と磨り減ってゆく資源と食料を命を犠牲にして奪い合っている。空腹と虚無感を癒やし、満たす為には「ヒトの命」なぞ軽く扱われてしまうようになった。

 鈍色の空から止め処なく降り注ぐ白。誰かの命が終わるその悲鳴さえも呑み込んで、無に帰してしまう静寂。白き静寂の中で舞い踊る様に鋭き刃を振るう少女。雪原に散り咲く深紅の華と宙を瞬きながら揺蕩う銀糸が、灰と白に塗り潰された世界を彩る。兵士は視線を逸らせず、ひらりひらりと舞う白きドレスの裾と散りゆく命を呆然と見詰めていた。
 不意に少女は動きを止め、此方の方を見やった。銀糸に縁取られた双眸が真っ直ぐに立ち尽くす兵士を捉える。兵士は息を潜め、少女の一挙一動を見守る。サーベルを握り締めた手に力が篭もり、微かに震えている。少女は一輪の大輪が春の陽差しを受けて、ふんわりと綻ぶ様な笑みを湛えた。
「ねぇ、私を殺してくれる?」
 兵士の喉元に突きつけた紅き刃から滴る雫が、ゆっくりと落下してゆく。兵士は大きく生唾を一度飲み込んで、掠れた声で乞うた。
「殺さないでくれ!」
「どうして?」
 少女は真っ直ぐに兵士の濁った眼を見詰め、平坦な声音で問う。兵士は大きく眼を見開き、見下ろす少女に縋りながら慟哭する。
「お前はどうして彼奴らを殺したんだ! 彼奴らはっ……彼奴らも何の咎も無いだろうっ?!」
「じゃぁ、貴方は何の為に人を殺すの?」
 冷ややかな瞳で兵士の足元に転がったサーベルを見やる。ぼたっと、少女の刃から流れ落ちる血が兵士のサーベルを汚してゆく。兵士は言葉に詰まり、口を魚のように開閉するだけだった。
「ねぇ、答えて? 貴方は何故、何の咎もない人間をこのサーベルで殺めたの?」
「そ、れは。平和の為に……春を、取り戻す、為に。我が国の正義の、為に……」
「『正義』、『大義』、皆口にするけれど、其れは本当?」
 兵士の喉元に突きつけた刃は、ゆっくりと下りて心臓が在る胸へと。兵士は泪と鼻水で汚れた貌を醜く歪めるが、視線は少女から逸らさない。
「仕方ないんだ……俺が生き伸びる為には仕方なかったんだ!」
「そう。じゃぁ、私が貴方殺してしまうのも仕方がないね」
「ぇっ……」
 兵士の胸に宛がわれていた刃は肉を貫き、又一つ、深紅の華を散らせた。少女の倍もある体躯の兵士を薙ぎ捨てた。血塗れの少女は己の刃を愛おしげに抱き締め、遠く愛しき幻影を想い描く。
「もう少し、もう少しで――『春』が芽吹く」
 少女の唇から零れ落ちた声音は広大な雪原に吸い込まれ、舞い落ちる粉雪に隠される。再び、白銀へと塗り潰されるその空間には少女、唯一人だけ。少女は瞼を閉じ、ローブに仕舞い込んでいた大翼を惜しげも無く広げる。白銀の翼をゆっくりと羽ばたかせ、鈍色の空へと舞い上がる。目的地は無く、導かれるままに、求められるままに少女は空を渡ってゆく。

 凍てついた世界に生きる人々は少女を魂無き咎人――エルメンセル――と呼び、恐れた。少女が降り立った大地は命あるもの総て、摘み取られてしまう。少女には国も種族も関係なく、命が在り鼓動を響かせるものは総て、殺める対象だった。少女がなぜ総ての生命を摘み取ってゆくのか、私達人間は知らない。少女が何者で、何を探し求めているのかも。

 鈍色の雲間から黄金色の光が一筋差し込み、白銀の大地を柔らかく照らす。少女はゆっくりと頭を擡げ、眩しそうに眉を顰める。何処からともなく温かな風が一陣吹き込み、少女のローブを吹き飛ばし奪い去った。露わになった少女の背中、白磁の肌に白銀の大翼と小さな骨だけの翼。少女は人目に触れる自身の事などお構いなく、唯々空を愛おしそうに見上げる。
「――おかえり、待ってた」
 鈍色の空を裂くように降り立った白き刃が少女を貫く。雪白の大翼が少女を包み込み――喰らった。辺りに散った紅い華は雪と混じって次第に溶けゆき、小さな芽が顔を出す。そして世界が思い出したかのように、ゆっくりと呼吸を始めた。

蒼が愛したミモザ

 グッと照明を落とし、仄かに灯る橙色のペンダントライトに彩られた箱庭。しっとりとしたピアノの旋律と共に儚い恋心を乗せた歌声が、波紋の様に優しく切なく響く。濃紅色で彩られた唇は甘く恋心を囁き、目を伏せ翳った瞳は哀を漂わせる。今宵も、我が歌姫は誰を想い、その美しい声音で歌うのか。
 彼女が一等よく見える席で、仄暗い感情が腹の底で渦巻くのを感じながら、ウォッカギブソンを流し込んで誤魔化す。アルコールで浮つく思考を微かなベルモットの香りと苦味が私を現実に引き戻す。ややあって、美しき旋律は止み控え目な拍手で締めくくられていた。舞台から彼女がそっと下り立ち、ゆったりと此方へと歩み寄る。仄かに輝く水槽を泳ぐセイレーンを捕らえるべく、席を立つ。するりと彼女の細腰に手を回し、私の元へと少し強引に引き寄せる。
「やぁ……今宵も素敵な歌声だった」
 心からの讃美とミモザを彼女に贈る。グラスを受け取った彼女は一口、ミモザを口に含む。嚥下する時に小さく動く艶めかしい白き喉元をつい、凝視してしまう。少し濡れた濃紅の唇が私の耳元にそっと近寄り、甘く囁いた言葉はアルコールよりも私の思考を溶かす。
「……ありがとう、貴方に聴いて貰えて嬉しい」
 形の良い唇が弧を描き、美しい微笑みと共にカクテルが彼女から贈られた。その澄み切った蒼色したカクテルは、ペンダントライトの下で控え目だけれども輝いていた。彼女が誰かを見つけた時の眼の様に。彼女からのチャイナブルーを一気に飲み干して、彼女に見えぬ様に薄い唇を歪める。爽やかなライチの風味が私の喉を取り過ぎて、ベルモットの苦味を上書きする。
「ねぇ、今日はもっと、啼いてくれる?」
 逃がしはしないと、腰に回していた手に力を込めて彼女を囚らえて、応えを待つ。彼女は私を見上げ、綻ぶように微笑んだ。

かざぐるまが哭いたら

  から、からから、から、からり。
 生暖かい夕風が、ふぅっと小さな一本の風車を回す。
  からり、からからから。
 夕陽が海へ、ゆっくりと傾きながら還ってゆく。僕は風車を片手に握り締めたまま、夜の色した海に沈んでゆく真っ赤な夕陽に視界を独占された。こんなにも胸を締め付けられる感情を、僕は知らない。
  からり。
 風なんて吹いてもいないのに、僕の風車が独りでに廻った。それが合図だったみたい。ひょこりと小さな女の子が僕の目の前に現れて、空いている方の僕の手をそっと取った。
「かえろう。」
 舌っ足らずな甘やかな声で、僕を帰りに誘う。女の子の小さな掌は、僕の体温よりも少し熱かった。燃え盛る夕陽に背を向けて僕と女の子、二人は夕闇へと駆けってゆく。
  から、からから、から、からり。
 風車たちが廻る。五色の色鮮やかな風車が沢山、風に吹かれて廻っている。僕等はその側を駆けゆく。暖かなオレンジ色に抱かれながら、緩やかに廻っては哭いている。僕の眼はしっかりとその光景を焼き付けて。
 ぴたりと女の子は立ち止まり、くるりと僕の方を振り返れば。そこには女の子は居なくて、優しげに微笑む女の人が居て。ゆっくりと僕を抱き締めた。
「おかえり。」
 僕は懐かしい匂いと音を子守唄に瞼を下ろす。
「……ただいま。」

憧憬

 白々と瞬く三日月が嗤う熱帯夜。乱れた吐息と髪、しっとりと濡れた肌を惜しげもなく晒した君。僕だけが箍を外して慾の儘、君に触れる。火照った君の柔肌はしっとりとして、僕の掌に吸い付いて離してくれないのに。僕を見詰める君の眼は鋭く、後悔の色に沈んでいた。
 君が快楽と嫌悪との狭間で揺れ動くその貌が、僕の虚無を否定してくれた。君が向けるその感情が、僕の存在を肯定してくれた。君の心に触れられない代わりに躯だけでも、と手を伸ばしたんだ。白磁の様な滑らかな肌に浮かぶ、朱い華。ひとつ、ふたつ、と数えては撫でゆく。その度に小さく跳ねる君の色香に酔い痴れる。
「すき。好き、なんだ……」
 君に触れる度に、肌を重ねる度に募る想いは果てなく。最初は、遠くから見詰めているだけで良かったのに。君と言葉を交わして、僕に微笑んでくれるから。もっと、もっと、と幼い子供の様に強請ってしまう僕。
「ねぇ……君は? すき?」
 空気を求めて喘ぐ君に問う。快楽から逃れようとする腰を引き寄せ、逃げ惑う手を絡め取って囲う。
 ――ねぇ、嫌い、と言って。
 乱れた吐息、熱に浮かされ潤んだその双眸で見詰める君が、僕の唇を奪って。
「嫌いなんて、言ってやんない」
 月光の光を浴びて、それは美しく嗤ったんだ。

夜の終わりに僕は。

 真冬の寒空の闇を満月が優しく照らし、小さな星々が鮮やかに彩る。ぽつねんと佇む街灯に照らされた、痛みの激しい木製のベンチに僕はゆっくりと腰掛ける。独り寂しく夜更けを待った。冷えて悴んだ僕の右手には、読みかけの「銀河鉄道の夜」。
 ふと、読みかけの本を閉じて空を見上げる。いつの間にか、月は僕の真上に居て嗤っている。星々の小さな瞬きは、いつぞや彼女に贈った星の髪飾りに似ていた。その輝きが目に滲みて、瞼を手で覆った。少し熱が籠もった目元が、冷え切った手をじんわりと温めてくれた。
「どうしていつもそうなのっ?!」
「わたしの事、本当に好きなの?」
 きらきらと輝く星の髪飾りと月のイヤリングを投げつけ、涙を流し叫ぶ彼女。呆然とした僕は何も言えず、投げつけられたものたちが地面に落ちてゆく様を見つめるだけだった。
「もう知らない!バイバイッ」
 勢いよく飛び出して去ってしまった彼女。置き去りされた僕とイヤリングたち。僕はそっと拾い上げて、大切にポケットへしまい込んだ。だってさ、イヤリングも髪飾りも彼女を想った僕の心そのもので。彼女に「要らない」と投げ棄てられても、僕には未だに大切なもので。女々しいって言われるかもしれないけれど、もう少しだけ大切にしたい。

 少しずつ月が傾いてゆく。もう少ししたら太陽が顔を出して、新たな一日が始まる。そうしたら、僕もゆっくりと新たな一歩を歩まなければならない。ポケットに手を忍ばせ、大切な宝物を取り出す。
「………あれ?」
 掌の中には、きらきらと輝く星の髪飾りと片方だけの月のイヤリング。もう片方のイヤリングが、どこを探しても見つからなかった。欠けてしまった僕等。それでも、月光に照らされて冷たく輝く光は綺麗だ。冷たく鋭利な輝きたちは、僕の心を抉って新しい風を吹き込んでくれた。もう、大丈夫。一度、ギュッと力強く握り締めて、思いっきり投げ飛ばした。
 カシャーンッと、僕の過去ごと夜の闇に消えて壊れてった。

離した手を繋ぎ直して

 私が彼女を独占してしまいたいと、それ以上の仄暗い感情を抱いたのは何時のことだろう。幼い頃から彼女だけに傅いて、望むことは全て叶えてきた。私の家系は代々、彼女の家系に付き従うのだ。其の未来を見据えた横顔は、冷たくされど、凜とした佇まいに幼いながら私は憧憬を抱いた。あゝ、真っさらな彼女を私が――私の全てを以てして、私の色に染めてやろう。彼女に見せる私は、只の忠誠を誓った犬だ。微笑みを絶やさず、反抗する事も無く、唯々彼女の言葉に従うだけ。そうして積み上げてゆく、彼女との信頼。いつかは彼女が他の誰でも無く、私だけに頼ってくれる様に、私だけに心を開いてくれるように――私が居なければ生きてゆけないようにと。
 彼女は私を縛り付けていると勘違いしている。真実は、私が彼女を仄暗い劣情と脆い忠誠とで身動き出来ぬように縛り付けている。彼女の視線ひとつ、熟れた果実のような唇さえも、誰にも触れさせやしない。触れて良いのは――私だけと。

 月が姿を見せぬ新月の夜、そっと彼女の寝室に足を踏み入れる。灯りが消えた暗闇を照らす、星々の小さな瞬きだけ。穏やかな寝息を立て、夢の中を漂う彼女の人形の様に端正な貌を眺める。そっとベット傍らに跪いて、流れ落ちていた美しい髪を一房掬い上げて唇を寄せた。ふわんと、甘やかな香りが私の鼻孔を擽って理性を焼き切ってゆく。
(りょう)様……」
 上目遣いで彼女を見やるが、未だ彼女は夢の中。つぅっと空いていたもう片方の掌で頬の輪郭を確かめる。吸い付く様なしっとりとした肌、薄らと開いた唇に酷く眩暈がする。閉じられた瞼で見えぬ瞳は黒曜石の様に美しく、冷ややかで鋭利だ。其の瞼を押し上げ、私を見詰めて欲しい欲望とそんな浅ましい私を見て欲しく無い矛盾した心が鬩ぎ合う。唯、今宵だけは。今、この瞬間だけは私だけのもの。
「伶様、私だけの――」
 白魚の様な美しいその掌にそっと、唇を寄せる。未だ醒めぬ彼女に伝わらぬ劣情をぶつけ、臆病な自身を失笑した。名残惜しむように唇を離し、閉じ込める様に自身の指を絡める。彼女の冷たさと私の熱が、少しずつ混じり合って分け合う。あゝ、このまま彼女と一つに溶け合ってしまえばいいのに。
「……叶……?」
 絡めた指を離そうとした瞬間、ぎゅっと強く握り直された。微かに私を呼ぶ愛しい声がした方に視線を向けると、夢現の彼女。
「叶、かのう……かの」
 気が付いたら、愛おしそうに微笑みながら私の名前を呼ぶ彼女の唇を塞いでいた。ぎしり、二人分の重みで軋むベットの悲鳴を聞きながら、私は過ちを一つ冒す。甘やかな誘惑に私は溺れてゆく。彼女が仄暗く微笑んだ事も知らずに。


――もう、貴女を手放してあげられない。

キスとキスの合間に

 誰も居なくなった放課後の教室、遠くから響いてくる合唱部の賛美歌。開け放たれた窓から吹き込む風に弄ばれ、ゆるりと翻る黄蘗色のカーテン。夕日が差し込み、黄昏色に塗り潰されたこの空間に私と由岐だけ。
「梓乃?」
 視線を上げると由岐が小首を傾げて、私を見ていた。大きな由岐の瞳が心配そうに揺らめく。眼を縁取る由岐の睫が差し込む夕陽を遮り、昏く濁ってしまった様に見えた。私は指に絡め弄んでいた由岐の髪を解き、そっと唇を寄せる。態とらしく上目遣いに由岐の様子を窺うと、微かに頬を赤らめた由岐が私の眼と心を縛る。
「ねぇ……」
 そっと、腕を伸ばし由岐の頬に触れる。ふっくらとして、吸い付く様な肌触りに私はつい、触れてしまう。するり、擦り寄り甘えられてしまえば、私は由岐に堕ちる。空いていたもう一方の掌は、由岐の唇へと這ってゆく。やわやわと愛撫し、顔を寄せる。私の睫と由岐の睫が触れそうな、そんな距離。お互いに零れ落ちる溜息は酷く甘く、言葉にならない想いを孕んでは消えてゆく。
「由岐、いいでしょう?」
 許可が下りる前に由岐の小さな唇を奪う。何かを言おうとして、開きかけた隙間に私の舌を滑り込ませる。
「んむぅ」
 由岐からくぐもった声が漏れる。私はお構いなしに由岐の口腔を蹂躙する。強く胸元を押され、渋々唇を離す。つぅっと私と由岐を繋ぐ銀糸が、途中でぷつりと切れた。名残惜しそうに由岐を見やると、涙で潤んだ双眸が夕陽を溶かして填め込んだ様で思わず見惚れてしまった。
「梓乃、どうして……」
 小さく震える唇が私を拒んでいる様に動く。私は痛む心を、歪む貌を押し殺して微笑む。
「由岐の唇が柔らかくて、甘そうだったから……なんて。ちょっとしたスキンシップよ、駄目だった?」
 こてんと首を傾げ、冗談めかしく言い放つ。由岐は一瞬眼を大きく見開き、ふにゃりと微笑った。
「ううん、駄目、じゃないよ……ただ、吃驚しただけ」
 私の服の裾を遠慮がちに引っ張り、はにかみながら由岐は私を許した。キスに込められた感情も想いも知らぬまま。私は由岐の貌を窺いながら、以前から願っていたことを乞う。
「ねぇ……もし、由岐が厭じゃなかったら。また、キスしてもいいかしら?」
「ぇっ」
「由岐が厭ならいいの、口寂しくて……駄目?」
 由岐に拒絶されるかも知れないと恐れながら、由岐を見詰める。あわあわと慌てふためく由岐。だけれど、その貌には拒絶の色は無く。耳まで真っ赤にさせて、耳をそば立てないと聞こえない声量で「……いいよ」と受け容れてくれた。嬉しさの余り由岐を引き寄せて、強く抱き締めた。
 由岐の早く脈打つ鼓動と吐息、由岐が纏っている香水の香りに私は酔い痴れる。私が由岐を想う様に由岐が私を想っていなくても、私の気持ちを受け容れなくても良いの。由岐が私の腕に居てくれるなら、由岐の眼に私だけを映してくれるなら。そう、思っていたのに。

 唯一の温かさを注いでくれる空を分厚い雲が多い、穢れを知らぬ真っ白な結晶等が降り注ぐ。ベランダも周辺の家々も白色に塗り潰されていった。ふぁっと欠伸をひとつ。吐き出された吐息がクリアな視界を僅かに遮る。嗚呼、こんな寒い日なんて来なくても良いのに。自分勝手な愚痴を零しながら、隣で眠っていた由岐がもぞもぞと起きた。
「………しの?」
 ブラウンの掛け布団からもそりと顔をだし、未だ眠いのか眼を擦る。さらりとむき出しの左肩に髪が流れ落ちるのを無言で眺める。返事をしない私に痺れを切らしたのか、私の袖を少し引っ張る。
「ゆき」
「うん……」
 とろりとした双眸を私だけに向ける。嗚呼、なんて愛らしくて、甘そうで――閉じ込めて食べてしまいたい。そんな醜い感情がむくりと顔を出し、私の理性を壊そうとする。今は未だ駄目、まだ、その時じゃぁないから。そっと押し殺して微笑みながら、由岐の髪を掬って愛撫する。
「雪、降っているの。由岐、寒いね」
 ――だから、温めて?
 寝ぼけ眼でぼんやりとした由岐の唇を奪う。鳥が戯れに啄む様に、次第に舌を絡め息までもを奪う様に深く深く。互いの乱れた呼吸と深みへと誘い込む由岐の甘い香りに酔い痴れて――何処までも堕ちてゆく。
 ねぇ、キスとキスの合間に私が何を想っているか。私と由岐を繋ぐ銀糸が途切れる寂しさを、唇を重ねる度に募るこの想いを。

コロニー

 じくりと痛みが走ったんだ。そっと掌を当ててみるのに、どこが痛んだのか分からない。波紋の様に痛みは広がってゆくのに、全てが曖昧で――苦しい。

  ぽたり。

 透明な滴が零れ落ちて、僕の輪郭をも融かしてゆく。滲んだ視界に映る世界は、蜃気楼のように不安定。ふぅっと吹きかけたら、ゆらりと揺らいで消えてしまいそうな程儚げで。自分も一緒に消えてしまいそうで怖くなって、ぎゅっと瞑ったんだ。真っ暗な世界で僕の心臓が脈打つ音だけが、やけに大きく響く。耳を塞ごうとした腕を誰かに掴まれた。
「生きて、」
 僕の声に似ているけれど、違う柔らかな声音が降り注ぐ。じんわりと、掴まれた腕から伝う微熱。溶け合う熱に溺れながら、此れでは駄目だと振り解く。
「僕の、何を知っているの?」
「全部、知っているよ。だって――」
 彼女の真実を受け容れたく無くて、僕は彼女に虚像の剣を突き刺す。彼女の口から飛び散る鮮血は、小さな矢となって僕の背中へと戻ってきた。また、別の痛みが僕の思考を濁らせてゆく。血に濡れた彼女の胸へと額をくっつける。
 
  ことん、ことん。
 
 規則正しく繰り返される鼓動。バラバラだった僕と彼女の鼓動は徐々に重なって、一つになった。ふわり、優しく抱き締められ、耳元に零れた本音。
「ねぇ、生きて――否定しないで」
 寂しいよ、と。止め処なく零れ落ちる滴と共に僕から目を逸らさず、求めたんだ。抱き合う僕等の境界線が、隔たりが、融けて無くなってゆく。

  じくり。
  
 今、痛んだのは何処だろう。そんなのもう、どうだっていい。
 俯いていた顔を上げ、前を見つめ直そう。其処には――彼女が望んだ道が広がっていた。

「好き……」
「今日も可愛いね」
「愛してる」
 飽きもせず何時も彼は、甘い言葉と至極幸せそうな貌を私に向ける。私は唯々、苦虫を噛み潰したような貌をして、彼の言葉を否定する。
「機械には心なんて無いんだから、虚しいだけよ……」
 それでも彼は、甘い微笑みを絶やす事は無かった。寧ろ、もっと笑みを深めて、私の掌をそっと両掌で包み込む。その温かさに涙が溢れそうな程、胸を締め付けられた。
「でも、君は僕の言葉を呑み込んでくれるじゃないか。それだけで充分だよ」
 恭しく手の甲を持ち上げ、羽が触れる様な口吻を彼は私に送る。そして、じっ、と眼を逸らさず、私からの言葉を待った。
「言葉を呑み込んだからって、貴方の気持ちも呑み込んだ訳じゃないわ」
「知っているよ、でも……」
 もうこれ以上は聞きたくないと、彼の手を振り払って両掌で彼の口を塞ぐ。彼は、一瞬だけ眼を大きく見開いたが、すぐに何時もの微笑みへと戻っていった。
「機械には魂も心も無くて、只の操り人形よ……」
「どうして、そう思う?」
 彼の口元から手をそっと、離して自身の顔を覆う。今にも泣いてしまいそうな、情けない貌を彼だけには見られたくない。
「機械がプログラムされた振る舞いを、人間たちが勘違いしてるだけだもの」
「それじゃぁ、駄目なのかい?」
 遠慮がちに触れる彼の温かな指先が、強がって殻に閉じ籠もる私を優しく絆してゆく。ゆっくりと暗闇が切り開かれ、彼の柔らかな貌が私の視界を占領する。あゝ、泣いて喚いて彼の所為にしてしまいたい。
「駄目に決まっているじゃないッ! 独り善がりなんて、虚しいだけ。プログラムをなぞっただけの言葉を真に受けて、独り芝居し続けるなんて……そんなの、哀しいわ」
「だから、僕の気持ちを受け入れてはくれないんだ」
「そうよ、だから――」
 彼を傷付ける言葉を吐くその瞬間、彼の唇で塞がれた。彼の口腔へと私の毒を含んだ言葉が呑み込まれてゆく。
「ねぇ、これ以上……聞きたくない」
 怒気は含まれてはいないのに、彼の真っ直ぐな眼が、詰る私を咎める。しん、と静まりかえった空間に彼の呼吸と小さなモーター音だけが響く。
「僕が、君を愛したい。勘違いでも、独り善がりでも、良いって言ったんだ」
「でも……」
「君の振る舞いに、言葉に意味が無くったって良いんだ」
 さらり、と押し黙る私の髪を梳いては弄ぶ。苦虫を噛み潰した、泣きそうな貌をした私を見て、貴方は困った様に微笑んだ。 
「君は僕よりも人間らしいよ」
 私は何も言えず、ただ、瞼を下ろして彼を拒絶した。

涙継ぎ

――ぴしり、

 何かの亀裂が入る音が、聴こえた気がした。何だろうか、と耳を澄ましてみるが、もう聞こえない。聞き間違いかもしれない、そう思い込んで前を向く為に顔を上げた途端――からんっと乾いた音を立てる【何か】がころり、と足元に転がった。
「ん?」
 拾い上げようと腰を屈めて腕を伸ばす。ぱらぱらと、小さな雹が落っこちては地面を打った。止め処なく降り注ぐ雹に埋もれる前に、と足元に転がった【何か】を拾い上げてる。それは、誰かの貌の一部のようだ。緩やかに弧を描く口元は微笑んでいるようだが、どこか固く拒絶的で。思わず、自身の顔を空いているもう片方の掌で確認する様に触れる。
「……ぇ?」
 継ぎ目の無い筈の冷ややかな表面、口元付近に大きな深淵が在った。淵を指の腹で辿ってゆけば、ぱらぱらと細やかな雹が足元に降り注ぐ。頭が真っ白になって、何も考えられない。ぽっかりと空いた淵から決して、外界に出してはいけないモノが溢れそうになって、慌てて持ったままだった【何か】を貼り付け直した。
 ばらばら、と大粒の雹が落っこちては、地面を打って消えてゆく。乱暴に埋められた深淵は僅かに残った亀裂の隙間から、獣のような唸り声で不満を垂れ流した。両手でしっかりと顔を覆い隠して、ひとつ、深呼吸をする。
「……これで、元通り。」
 流れ落ちて消える筈だった涙を継ぎ目にして、今まで通り、にっこりと唇が弧を描いてみせた。元通りの筈なのに何故だろう、ほんの少しだけ世界が霞んで色褪せて見える。私の足元の周りは、眩しい程に瞬いているのに――。

双月が嗤う夜

 『運命なんて、巡り合わせなんて、一ミリも信じていなかった――貴方に出逢うまでは。』

 いつも通りの日常をいつも通りに全うする。学校で授業を受けて部活に精を出して、帰りに本屋へ寄る。新しい喫茶店に寄って、誰かとぶつかって荷物をぶちまけて仕舞うことも日常の一部、だった筈。
「……ぇっ」
 一息つこうと、お店の一番角の席へと腰を落ち着かせ、本を開く。見慣れた深緑のブックカバー、枯野色の頁と頁の間に挟まれた見慣れぬワインレッドの三日月。
「嘘……なんで」
「どぉしたん?」
 カタンと珈琲が二つ載ったトレーを机に置いて、前の席に座る友人は不思議そうな顔をしていた。
「違う」
「なぁにが?」
 真っ黒なグラスにミルクとガムシロップを入れながら、興味なさそうな相槌が返ってきた。
「この本、私のじゃない……」
 見知った文体だけれども、未だ読んだことの無い物語と見知らぬ栞。私の本と栞は何処に行った?
「このブックカバー、詩乃が持ってるんと違うの?」
「ブックカバーは一緒なんだけど……栞が違うし、中身も違う」
 挟まれてあった栞を友人の目の前に差し出す。ワインレッドの革の栞に三日月が棲んでいて、裏側には小さく「Sou」と筆記体で刻印されていた。私ので有れば、深緑の革の栞に三日月が棲んでいて、裏側に筆記体で「Shino」と刻印されている筈で。それを熱く友人に説明したところで「へぇ……で?」、とこれまた興味なさげに返されただけだった。
「これ、2名限定のモノで……」
「詩乃はどうしたいの?」
 私の言葉を遮って問う友人に冷め切った珈琲を一口、流し込んで即答する。
「持ち主に返す! んで、私のも返してもらう!」
「どうやって返すん? 詩乃とぶつかった人、もう居らんと思うけど」
 返すことばかり考えていた私に友人は、冷ややかに言葉を落とす。私は、落ち着く為に一つ、深呼吸をする。
「ここに少し通ってみる。もしかしたら、また会えるかもだし……」
「ひと月、」
「ぇ?」
「ここに通うのはひと月だけにしなよ。それでも見つからなかったら諦めな」
 からり、ストローで少し溶けた氷を掻き混ぜながら友人は、私に期限を設けた。少し納得できなかったけれど、きっと私の為にも言ってくれたんだと思ってこれ以上は何も言わなかった。

 それから、私の非日常はひと月続いた。毎日飽きもせず喫茶店で、珈琲を相棒に紅い三日月の主を待つ。かさり、トートバックの中には綺麗にラッピングされた本がいつでも返せるようにと入っている。
「あーあ、あっという間に経っちゃったね」
「まぁ、人生こんなもんだよ」
 頬杖をついて、カプチーノを美味しそうに飲む友人を眺める。唇に泡が少し残った。
「泡、ついてる」
「ん」
 ハンカチでそっと拭き取る私を意地悪そうな眼が二つ。
「なぁによぉ」
「残念だったね、って思って。折角の『運命の人』と巡り会えたかもなのに」
 くすくすと笑う友人を呆れながら、小突く。
「そこまで小説に感化されてないから」
「そぉ? でも、大好きじゃんあの小説。今日も持ってきてるんでしょ?」
 私のトートバッグを勝手に漁って、取り出したのは一冊の本。色の異なる三日月が二つ、重なり合った表紙のハードカバー。
「あっ、ちょっと!!」
 ばっと、友人の手から奪い取る。汚れていないのを確認して、ぎゅっと守るように抱き締める。そんな私を友人は呆れ半分、愉快半分で眺めていた。
「そういえば、その本の作者のサイン会があるんだっけ?」
「ん、明日……ね」
「もしかしたら、その時に会えるかもね」
「だと、いいなぁ」
 まぁ、小説のように上手くいくことないわ、と生温いカフェラテを胃に流し込んだ。その時、友人の唇が動き何かを呟いた……ような気がした。
「ごめん、何か言った?」
「ん? んーん、なにも」
 にっこりと微笑む友人を訝しみながら、そのまま違和感を無かったことにした。

 ふうぁっと吐いた息が白く濁って消えていった。とうとう、本を返せないままサイン会を迎えてしまった。
「整理券をお持ちの方は、二列に並んでくださーいっ」
 最後尾のプラカードを持ったスタッフさんが、声を張り上げている。サイン用の新刊を抱き締めて、ひとつ大きな溜息を零す。やっぱり、人生こんなもんだ。
「『月が何故、ふたつ。浮かんでいるか知ってる?』」
 耳に心地よく響くテノール。見知ったフレーズにバッと隣を見やる。私よりもずっと背が高く、ひょろっとしたシルエット。ちらり、とこちらを覗く瞳とぶつかった。
「『運命なんて、巡り合わせなんて、一ミリも信じていなかった――君に出逢うまでは。』」
「っぇ……?」
 そっと、差し出されたのは――三日月が浮かぶ深緑の栞。私の大切にしていた栞だった。驚きのあまり、上手く言葉が出てこない。
「ぶつかった時に入れ違ったみたいでね。ずっと……返してあげたいと思ってたんだ」
「私も!」
 はっと、我に返ってトートバックに入れていた本を彼に渡す。やっと、持ち主に返せた。
「君も廿樂(つづら)先生の作品好きなんだね。しかも……」
「処女作から、なんて。かなりの」
「そうそう!」
 ふたり、くすくすと笑い合って順番を待つ。不意に彼が、思い出したかのように提案をしてきた。
「そうだ。この後、お茶しない?」
 私の答えなんて、前から決まってる。
「もちろん。」
 二つの月が重なって、新たな物語を紡いでゆく。

切なさを持て余す

「愛していたんだ」

 ぽたぽたと涙と共に零れ落ちてゆく僕の言葉と想い。涙で歪む視界に映るのは、幼き日のままの芦屋。芦屋を優に超えてしまった僕の背丈が時の流れを残酷にも僕に突きつける。地に膝をついて芦屋の胸元に縋る僕は、とても滑稽だ。白磁のような小さな手が僕の頬を撫でる。氷のような掌を包むこんで、顔を上げて芦屋の瞳を希込む。
「芦谷、愛してたんだよ……ずっと」
 小さく震える唇でもう一度言葉にすると、芦屋は悩ましげに眉を寄せる。するりと僕の手から逃れた冷たい芦屋の掌が、ゆるゆると僕の感情全てを拒絶するように愛撫する。
「ワシは人間じゃぁないけぇ……」
 息苦しく喘ぐように芦屋は言葉でもって拒絶する。流れる涙を辿って頬から目尻へ、小さな掌はゆっくりと僕の涙を消してゆく。僕は瞼を瞑り、為すがままに芦屋の柔らかな拒絶を受け容れながら、少しだけ悪足掻きをする。
「知ってる。それでも、芦谷が、好きなんだ……想い続けるのは、僕の自由だろう?」
 僕の眼を見詰めたまま、黙り込む芦屋。更に眉間に皺を深く刻み、ハクハクと小さく開いた唇から言葉は零れてくる事はなく、小さな溜息だけが零れ落ちた。
「思紋を一番に想ってくれる人がワシじゃのうて、他にもおるんよ? ワシは唯な、思紋に幸せになって欲しいんよ」
「だったら!」
「思紋、聞き分けてぇよ……なぁ、ずっと其処におらんで、こっち来んさいやぁ」
 芦谷は深く草木が生い茂った方向へ声を掛けた。僕は不思議に思いながら、涙でぼやける視界を一生懸命捉えようとした。暫く、ガサガサと葉が擦れる音がして、見知った顔がおずおずと現れた。
「……たすく?」
 呆けた情けない声が僕の口から零れ落ちる。佑は気まずそうに首元を触りながら、僕等の方へ歩み寄る。芦屋を見下ろし溜息を吐く佑と、佑を見上げにまにまと笑う芦屋。
「なんじゃぁ、気付いとったんか……」
「黙って盗み見はええ趣味しとるでぇ」
 芦屋と佑のやり取りで先程までの僕の醜態を見られていたのだと知って、カッと僕の顔は熱を帯びた。恥ずかしくて、此れ以上醜態を見られまいと頬を手で隠す。
「思紋、もぉ日も暮れたけぇ芦谷なんか、ほっぽって帰ろぉや」
 僕の腕を強引に引っ張る佑の熱い掌。背中の方で楽しげにクスクスと笑う芦谷の声。
「ちょっ、佑っ、早い!」
「佑ぅ、ええがにいくとええなぁ!」
 少し揶揄する様に佑へ投げられた芦屋の言葉は何を意味するのか、僕には分からなかった。佑は大きな溜息を一つ吐いて、芦谷の方へぐるりと躯を反転させて叫んだ。
「大きなお世話じゃっ!」
 ぐいぐいと佑に引っ張られるようにして、僕は芦屋の元を去った。


 傾き掛けていた太陽も海へと沈み、夜の暗さが辺りを呑み込んでゆく。僕は今だ佑に引きずられたまま、足早に道を進む。チカチカと点滅する街灯の下に来た時、急に佑は立ち止まり、僕の方へと向き直った。僕はつい、背筋を伸ばして身構えてしまった。
「なぁ、ワシがさ。思紋んこと、愛しとるってゆうたら、どうする?」
「ぇっ……?」
 佑からの唐突な質問に僕は、激しく動揺した。俯いていた視線を佑の方へと向けると、佑と僕の視線が絡みあった。佑の瞳は少し熱が孕んでいて、今にも蕩けてしまいそうだ。僕は業と視線を逸らした。
「思紋が一番に想っとるんは、芦谷じゃろ? それでもええけぇ、ちょこっとだけ、ワシの事も考えてくれんか?」
 そうだった。佑に僕が芦谷に告白をしている所を見られていたんだった。思い返しただけでも、僕の顔から火が出ているように熱くなった。佑は僕を愛してくれていて、僕は……。僕が愛しているのは佑じゃなくて、芦谷だ。お互い、実りのしない片想いをしている。痛い程に佑の気持ちが解るのに、僕はそれに応える事は出来ない。ただ、残酷な言葉を佑に言いたくないという僕の身勝手な我が儘。僕は涙が零れそうなのを隠す為に小さく微笑んだ。

還り花は絆す

 ひんやりとした風が肌をひと撫でしては、私の体温を盗んでゆく。唇の隙間から零れ落ちる吐息は微かに白んでいて、足元を彩っていた枯葉がころころと舞台袖へと逃げてゆくのを見送った。かさり、と私の足元に逃げ遅れて弄ばれる枯葉をなんとなく、蹴り飛ばしてみる。ぶわり、と一瞬だけ猫が毛を逆立てるように立ち上って、はらはらとその場に舞い散ってしまった。なんとも味気ない終焉だ。
「……さむ」
 ペンキで塗りつぶした青空は高く、温かな日差しを溢す陽は遠くて。ゆるゆると流れる風は容赦なく私の体温を盗むことを止めない。コートのポケットに突っ込んでいるカイロが握りしめていた掌と馴染んで、その存在を消そうとしていた。色鮮やかな世界は砂が流れ落ちるように、少しずつ静かに崩壊して褪せてゆく。私も背中を押されるように足早に舗装された道を進むしかなかった。一角に咲き誇る緋色に眼を惹かれながら。


「山茶花、見たことないの?」
「山茶花? 椿じゃないんだ?」
 遠い記憶で首を傾げながら、微笑む君を想う。ゆっくりとした歩調で私の先を歩んでいた君は、足を止めて此方に振り向く。立ち止まって咲き誇る山茶花を眺めていた私を、目じりを下げて、至極幸せそうに微笑った。
「     」
「ぇ?」
 一陣の木枯らしによって吹き飛ばされる枯葉の葉擦れと共に君の言葉は瞬く間に連れ去れて、私は悪戯を思いついた童の顔をした君に首を傾げる。ねぇ、なんと言ったの君は、私に。問い詰めようと唇を緩めるが、ふいに触れる柔らかな触感に息を詰めた。視界を埋めつくす緋色と馥郁(ふくいく)たる山茶花の香りが鼻腔を塗り潰してゆく。
「山茶花は一枚ずつ花弁がね、散っていくんだよ」
 君の掌に包み込まれた緋色は、息を吹きかけたら綻んで零れ落ちてしまいそうで。何だかそれが惜しくて、君の掌ごと包み込んで握り潰してしまおうかという暴力的な思考が過った。
「どうしたの? 怖い顔して」
 くすくす、と小さな笑い声を溢しながら君は、私の掌に手折った山茶花を乗せる。ころり、と転がる緋色は少し色褪せてしまっていた。君の掌に包まれていた時はあんなにも色鮮やかに花開いていたのに。
「凩?」
「あゝ……なんでもないよ」
「ほんとうに?」
 ――ぐしゃり。何の躊躇いもなく色褪せた山茶花を君は、握り潰して私から奪った。指の隙間から逃げるように舞い散る緋色の花弁が、足元へと降り注ぐ。一枚、一枚、折り重なってゆく其れらは、まるで――私みたいだ。
「君に隠し事なんてしたこと、ないじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ。君、警察犬並みに嗅覚いいじゃん」
 そうだった、なんて空笑して誤魔化す君を盗み見ながら、息を聞かれないようにそっと吐く。隠し事が得意なのは君の方じゃないか、なんて責めるのは野暮だ。どうせ問い詰めたって、川の水を掌で掬いあげるように隙間から逃げてゆくのだから意味がない。だから、もう、君を深く理解しようなんて、心を砕こうなんて足掻くことを止めた。私の目の前に存在する君がそう在るのならば、それで。
「凩は、どれが綺麗だと思う?」
 未だ咲き誇る色とりどりの山茶花を指さして問う。私はねぇ……これかなぁ、と口元を緩めながら、染み一つ無い真っ白な山茶花を手折って私に差し出した。弧を描く緋色の唇は何の疑いもせず、誰を選ぶの、と問う。私は――。


 緋色の花弁を惜しみなく地へと撒き散らし、自らの存在を主張をせんとする我が庭の女王様。手を加えれば加える程に美しく咲き誇る姿は愛らしく、惜しみなく緋色のドレスを翻しては散りゆく姿は潔い。一際大きなドレスを纏った山茶花を手折って、水がたっぷり入った硝子の器に浮かべる。水面に反射して映るドレスの裾は、金魚の尾ひれのように優雅に揺れ遊んでは綻んでいった。
「凩は“誰が”綺麗だと思う?」
 耳にこびり付いて離れないあの日の君の問いは、いつまでも心の端を掴んでじりじりと妬いてゆく。別に傷んだいる訳ではない胸元を握りしめて、また、散りゆく山茶花を見詰める。遠い記憶の中で過ごす君に懺悔するように、疼く痛みを押し殺して眼を逸らす為に。
 緋色の花弁を嫉妬で握り潰す程の強欲を腹の底に抱えた君が、最も緋色が似合って美しい――そう、伝えれば良かったね。

楔を穿つ

 ――このホトトギス、真っ白な花弁に血飛沫が散ったみたい。
 ぶちぶち、とほっそりとした指先が無遠慮に背伸びした茎を手折っては、籐籠に放り込んでゆく。ひとつ、ふたつ……無邪気に摘み取られてゆく命は、静かに籠の中で死んでいった。
「嫌いなんだよねェ」
 湿気の多い場所に自生しているからさ、義務じゃなかったら行かないわ――君は貌に笑みを貼り付けたまま、機械のように茎を手折り続ける。
「真っ白なホトトギスもあるんだよ? 確か……シロホトトギス、だっけ?」
「ふゥん」
 ぶちり。また、ひとつ命が絶たれた。
「どォでもいいよォ、どのホトトギスだって。僕等には同じなんだから、サ」
 そうなんだけどね、取りあえず同情した相槌を打っておく。このやり取りは初めてではないのだ。数えることに飽きてしまった程に幾度も繰り返されてきた茶番で。最後の締め括りは、いつも決まって――。
「“彼女もカワイソウにねェ、深い愛に縛られてさァ”」
 一際大振りなホトトギスを摘み取って、籐籠へ放り投げる。綺麗な放物線を描いて、沢山積みあがった屍の上へと落ちていった。ホトトギスで満たされた籠を持ち上げて、くるり。真っ白なワンピースの裾が優雅に翻って、白磁の素足が曝された。しっとりと朝露で濡れた苔が無慈悲に踏み荒らされ、黒い烙印を賜るのを少し高揚しながら眺める。
「彼女も望んだ結末デショ? ほらァ、喜んでるジャァン」
 返り咲いた藤の紫に紛れて、揺ら揺らと揺れる小さな爪先がふたつ。悪戯っ子の顔へと変貌させて、擽るように触れているのを咎める。
「花を摘むことさえも許されず、自由に生きることさえ放棄させられたのに?」
「まぁ、騙した僕等もアレだけどさァ。彼も相当だと思うんダよねェ」
 垂れ下がる紫の穂をひと房だけ勢いよく引き千切って、未だ揺ら揺らと揺れる爪先を片方捕まえる。傷一つない小指に蝶が留まっているように結んだ。ひらひら、と揺れる裾に指を絡め、敬意の口付けを贈る。どうか、そのままで。
「彼女も大概デショ。僕等に毎日この花を届けさせるンだからサ」
「まァね」
 踊るように歩き出す彼等をひとり、微睡みに揺られながら見送る少女の屍はいつか朽ち果てて忘れられてゆく。

ブラック珈琲な君

「ねぇ、コーヒーって美味しいの?」
「は? 飲んだことねぇの?」
 カチャッ、ソーサ―にカップの底がぶつかる音が、彼の機嫌を代弁するように小さく響いた。
「ない」
「んじゃぁ、飲む?」
「今、とかじゃぁ無かったんだけど……」
「あ、そ。飲まねぇなら、俺が飲み干しちゃうよ?」
 いいの、とニマニマと哂いながら、私の方へと寄せていたソーサ―を自身の方へ引き寄せてゆく。
「あっ! 飲まないって言ってないじゃん!!」
「あ゛?! ばっか、おまえっ……」
 彼の手ごと私の方へと引き寄せようとして、失敗した。ぽたたっ、と珈琲の滴がカップから私の甲へ飛び移った。
「あ゛っつぅ……」
「ほら、これ」
 引っ込めてた手の甲にふぅふぅ、息を吹きかけて覚ましている私に呆れ顔をしながら、冷たいお絞りを投げて寄越してきた。
「有り難やぁ」
「武士かよ」
「いやいや、今が旬の女子高生ですぅー」
「ハッ」
 ぷくっと頬を膨らませて不貞腐れる私の鼻先を彼は、ピンッと指先で弾く。
「いったぁ、か弱い美少女になにすんのぉ」
「どこに美少女がいんだよ? まぁさか、お前だってぇいいてぇの?」
「あったりまえじゃん! その両目ぇ腐ってんじゃないのぉ」
 恰好つけるように組まれた足を今朝おろしたばかりのローファーで、思いっきり蹴とばしてやった。
「い゛っ……おーまーえーなー」
「美少女な私を馬鹿にしたバツですぅ」
「だぁからぁ、美少女がどこにいんだって言ってんのー」
 結局、宙ぶらりんになってしまったコーヒーを一気に飲み干すべく、上下に動く彼の喉ぼとけをぼんやりと眺める。かちゃ、と小さな陶器が触れ合う音が鳴る。
「ねーぇ、大人ぶってんの?」
「はァ? とっくに成人してんの、お前と違って」
「み、」
「寛大なお兄様でも、さすがに怒んぞ?」
「……まだ何も言ってないじゃん、愚兄」
「あ゛?」
「イエ、ナンデモナイデス」
 満足したような顔を恥ずかしげもなく私に向ける彼をちょっとだけ、可愛いと思ってしまったのが悔しい。仮にも自分の愚兄に、だ。
「……甘いもん苦手なの」
「はい?」
「だぁからぁ! 甘いもん苦手だから、珈琲の苦味がめちゃくちゃ美味いんだよ」
「ふぅん?」
「うっわ、興味失ってんじゃん。はぁ……お前から訊いておいてさぁ、それはないんじゃねぇのぉ」
「お兄ちゃん、可愛い妹に免じて許してにゃんっ」
「はっ、きっしょ……」
「は?」
「仮にも華の女子高生がして良い、表情と声じゃないんだよなぁ」
 短い眉をハの字に下げて、呆れ笑いをする彼をどこか遠くに感じてしまう。小さい頃はもっと、彼とも近かった気がしたのに。
「乙女心も分からない愚兄に言われたくないですぅー」
「いってろ」
 彼が立ち上がり、するり、と猫のようにしなやかにオーダーシートを攫ってレジの方へと歩いてゆくのをぼんやりと眺める。ハッと我に返って、スクールバッグを引っ掴んで彼の後を追った。
「ごちそうさま♡ お兄ちゃん♡」
「へいへい」
 苦々しい顔をした兄の節ばった手に指を絡めて、一番可愛いと友達に褒められた笑みを向けた。

透明な蒼に墜ちてゆく

 “鳥だったら”何処までも飛んでゆくのに――。

 赤茶の錆だらけの手すりの隙間から、すらりとした両脚が宙へと伸びる。ぷらりぷらり、と揺れるその先には傷だらけのローファーが――片方、落っこちていった。彼女は気にした風もなく、寝転がったまま口遊む。

《Humpty Dumpty sat on a wall,》
《Humpty Dumpty had a great fall.》

 翻るスカートの裾、放射線状に広がった髪が彼女の顔を覆い隠す。口遊む唇が愉し気に弧を描いては、瞬く間に崩れ去ってゆく。宙を撫でるように揺れる腕は、手首でしっかりとカフス釦で留められて不自由。ぷらり、ぷらり――宙ブランコは延々と揺れ振れ続ける。
「アリス?」
「んーん、マザーグースの歌」
「ハンプティ・ダンプティでしょ?」

《Humpty Dumpty sat on a wall,》
《Humpty Dumpty had a great fall.》

 宙を掴もうとした掌は静かに降り降ろされ、仰向けに寝転がる少女の胸元へスカーフに絡めとらてしまったようだ。緋色の蝶がひらひら、と愉し気に指先に絡んでは爪先をなぜる。
「アリスじゃん」
「元はマザーグース、アリスの世界に引用されただけだって」
 よっ、と。勢いをつけて少女は起き上がる。ぶわりっ、と一際強い風が吹き込んで、少女の髪が空を切り分けるように散った。左手には小振りな紙飛行機が握られていて、ひとつ、口付けをして空高く舞い飛ぶ。赤錆だらけの柵を軽々と越えて、何処までも蒼い世界へと翼を広げて飛んでゆく。
「鳥だったらなぁ……」
 風に煽られて低空飛行していた紙飛行機が、再び、高く舞い上がって揺れる。真っ白な翼を広げて、何処までも遠く自由だった。

《All the king's horses and all the king's men》
《Couldn't put Humpty together again.》

 何処まででも飛んでゆけるのになぁ――ぽっつり、そう零す彼女の眼は曇り空色。いつの間にやら、もう片方のローファーも落っこちてしまったらしく紺色の靴下が揺れる。
「鳥じゃなきゃ、駄目なの?」
「駄目」
「即答じゃん、ウケる」
 あはっ、私の空笑だけが嫌に耳に響いて、耳を両手で塞ぎたくなった。そんな事も彼女には関係ない事で、紙飛行機が飛んで行った空を眺めたままだった。そんな私に関心を寄せてくれない彼女に安心した。
「感情も、時間も言葉も持たない……鳥が良いの」
「そんなん、わかんないじゃん。鳥だって、鳥用の感情とか思考とか、」
「でも、今の私とは違うじゃん。人間と鳥は違う、それだけでいいの」
 私の言葉を泣き叫ぶように遮って、彼女は微笑った。それは、それはとても透明で哀しそうに。私は何か、言葉を彼女に掛けようと口を金魚のように開閉してみたけれど、なんの意味もない吐息しか出てこなかった。

―― Humpty Dumpty had a great fall.

「出来損ないの卵は、要らないの」
「それって、どういう……?」
 吐き捨てられた言葉の意味を問おうと、彼女の顔を仰ぎ窺う。ゆるりと微笑うその貌は冷めきった哀色をしていて、思わず固唾を飲み込む。
「美しい鳥から産まれる卵は、美しい鳥に孵らなきゃならない」
 私は失敗作なの、彼女は私を眩しそうに眼を細めながら、小さく泣き出しそうな声音で囁いた。
「君は大丈夫。ねぇ、だからね……どうか、」
 ――私のことを憶えていてね。
 彼女も、錆びた柵をひらり、と飛び越えて逝ってしまう。彼女の門出を祝福するかのように舞う黒髪とはためく紅色のスカーフ。名残惜しさに手を振る紺色のスカートの裾と涙に覆われた黒曜石の双眼が目に焼き付いて離れない。
 きっと、忘れられない。彼女の最期の一瞬を――。

アクアマリン

 海のあいに攫われそうな貴方を必死で繋ぎ止める。潮騒が私の不安を煽り、潮の香りが貴方の存在を隠した。規則正しく繰り返す波を乱し、私は一歩先を行く貴方を追い掛ける。
  ――あと、一歩。
 貴方に触れようとした瞬間、此方を振り向いた貴方。酷く穏やかに微笑むその貌に似つかわしくないあい色の眼が、ゆらゆらと揺らめいていた。
「海に攫われると、思った?」
 無邪気に貴方は微笑う。切りそろえられた長い髪が潮風に戯れて、藍色に色を差す。ゆったりと髪を耳に掛けながら海面を蹴る。弾けて飛んだ海水は、私の服を濡らして染み込んでいった。黙ったまま、貴方の腕を握る。何処にもいかない様に、攫われて仕舞わない様に。
「じょぉだん。……ねぇ、私。もう、独りじゃぁ無いんだから」
 貴方は笑みを崩さず、私から視線を逸らさない。貴方の真っ直ぐな眼を見ることが怖くて、俯いて髪で眼を隠す。卑怯な私は何一つ言葉を紡ぐこと無く、ぎゅっと君の腕を握る掌に力を込めた。痛みを感じたのか、貴方は少し貌を歪ませた。
「何を怖がっているの? 貴方は私に理由をくれたのに」
 私の頬に優しく触れる、貴方の少し冷たい掌。心地良くて瞼を閉じて、貴方が触れるその感覚を追ってゆく。ふと、瞼を擽る何か。薄らと瞼を持ち上げれば、直ぐ目前に貴方の眼。私を擽ったのは貴方の前髪だった。
「私……お母さんになれるの、貴方の」
 あいに満ち溢れた眼差しを私に注ぐ、貴方。哀色に沈んでいた私の心も眼も、別の色に塗り潰されてゆく。自然と緩む頬と口元。もう、必死に繋ぎ止めなくて良い。この手を離しても、貴方は私の傍に居てくれる。
 私は藍色に染まった海と蒼に浮かぶ白を、忘れることは無い。

白んだ空が僕の心を侵蝕する

 曇天から降り注ぐ銀華が僕の頬に落ちて、肌に溶けて馴染んだ。止め処なく降り注ぐ銀華に紛れて消えてしまえたら良いのに、なんて冗談を呟いたら君に思いっきり頬を叩かれた。乾いた音と共に振り子のように揺れる視界と思考が正解を君に求める。
 ぽたり、溶けた銀華が熱を帯びた頬を慰めるように滑り落ちた。凍てついているだろうと思っていたのに意外にも温かくて、赤みを帯びた肌を撫でては滲んでゆく。じわじわと僕の脳が痛みを感知して、クリアになってゆく視界に君の泣き顔が映る。
「なん、で……」
 ぐっ、と胸倉を掴まれて、息を乱す君との距離が近付いた。銀華で濡れた睫毛の陰で薄膜を張った双眼が揺らいで、解けてゆく。白に塗り潰された世界にからぽってりと咲く紅色と、研ぎ澄まされた黒曜石が輪郭を取り戻して慟哭した。
「あなたが、それを問うの……ッ」
 ――決壊。君の目尻から再び雫が流れ落ちて、濡れた頬に一筋の透明な線を描く。綺麗だ――そう、思った。君が、流す涙はどんな景色よりも美しく、僕の脳に焼き付いて離れなくなってしまうことに後悔する。曇天、灰色、雪、白色――……君の唇、緋色。君が欲しがった正解はどれだった?

 銀華が曇天から降り注ぎ、静寂が闊歩する。
 ダラリ、と覆いかぶさる冷たい君を抱きしめて、嗤う。
「殺してって。君が、僕に言ったんだよ?」
 涙が流れ落ちた跡が残る頬に唇をそっと、寄せた。人形のように冷たく硬くなってゆく君の躯が、不正解の僕を拒絶しているみたいで。
「死にたいと思ってた、僕に」
 粛々と銀華は僕等の上に降り積もって、覆い隠してゆく。
 もう、冷ややかさは感じない。感じるのは、胸の痛みだけ。じくじく、と蝕んで広がってゆく痛みを子守唄に僕は、瞼を下ろした。
 ――暗転。
「君が居ない世界で生きていたくない僕に、君は」

偽りがみた幻

 温かな風が吹き込むビルの屋上。いつまでも夕暮れに沈む街を僕は、じぃっと見詰める。彼女は呆れ顔で、微動だにしない僕の背中を軽く小突く。ぷらり、ぷらりと宙に揺れ動く僕の両足。彼女曰く、此処は『黄昏の街』と言うらしい。その名の通り、いつも夕暮れなんだとか。今この瞬間、何の前触れも無く前に倒れ込んでしまったら。僕はまた、夕暮れにそまる街に落っこちてしまうだろう。地面に打ち付けた痛みを思い出し、背中がじくりと痛んだ。
「飛び降り自殺したんだって?」
 交互に揺れ動く足と変わらない景色をぼんやり眺めながら、唐突に不躾な質問を彼女に投げかける。ちらりと盗み見るが彼女は表情など変えず、只真っ直ぐに街並みを見詰めながら息を吐く。
「そうだけど? それが何? あんたには関係無いことでしょう?」
「関係はないんだけれど一度、訊いてみたかったんだよね。飛び降りた瞬間の景色とか、飛び降りる前の景色とかの感想をさ」
 僕は視線を宙から彼女へと移し、瞳の奥深くに隠しているだろう彼女の本音を覗こうとした。彼女は目を僕に逸らすこと無く、眉間に皺を深く刻み付けて更に睨み付ける。その揺るぐことの無い力強さに僕の心は捕らわれた。結局、僕には彼女の本音なぞ、判りはしなかった。
「ばっかみたい。そんなの訊いてどうすんのよ、参考にでもする気?」
「参考にする訳じゃぁないよ、ただ……」
「ただ?」
「ただ、知りたかったんだ」
「はぁ? 何を?」
 彼女は腕を組みながら小首を傾げ、一生懸命考えているようだった。その可愛らしい姿に僕は目を細め、小さく笑って答えを投下する。
「……墜ちてゆく時に観る景色と心変わり」
「はぁ?!」
 彼女は目と口を大きく開いて、固まってしまった。僕はそんなにも変な事を言っただろうか、目を瞬かせる彼女とキョトンとしている僕。すると、唐突に彼女がお腹を抱えて大笑いし始めた。
「あっははっ、そんなこと訊いてきた人初めて見たぁっ! 変な奴だけど面白いし……うん、気に入った!」
「うーん、君に気に入られてもねぇ」
 彼女は未だ微笑したまま、薄らと目元に溜まった涙を拭っていた。涙が出る程に面白い事を言ったつもりは無かったのにな。むすっとしていると、彼女は僕に一枚の紙切れを渡してきた。
「……なに?」
 受け取らず、じとっとした目つきで彼女を睨む。彼女はにんまりと含み笑いをしたまま、んっと押し付けてきた。渋々紙切れを開き、中を覗く。其処には――。

―― まだ、眠っているの? ――

 見覚えのある右上がりの綺麗な文字が並んでいた。僕は数回、瞬きをして穴が空きそうな程に紙切れを見詰めた。彼女は眉毛を八の字に下げ、僕の動向を見守っているようだった。僕は紙切れをくしゃくしゃに丸めて、簡単に投げ捨てた。
「ねぇ、いいの?」
 遠くで戸惑う彼女の声が響いた。
「うん、いいんだ、もう……」
 僕は――閉じてゆく視界を受け容れ、身を任せた。また、僕は落ちてゆく。



【午前0時にて、桐朋(とうほう)ビルの屋上から少女が飛び降りた事件がありました】

 箸で掬った炊きたてご飯を口に放り込みながら、テレビから流れてくるニュースを眺める。無表情で事件内容を喋るアナウンサー曰く、飛び降りた少女は僕と同い年のようだった。
「若いのに、ねぇ……」
 コメンテーター達が、口々に身勝手な感想を述べてゆく。どれもこれも、自身への良い印象を持たせる為の言葉に過ぎず、空虚だ。冷え切ったご飯を僕はもう一口、放り込んだ。咀嚼したご飯だったものは食道を通り、腹の中へと収まってしまう。同じように、報道されている事件や唾を散らし喋るコメンテーター達の言葉をも喰らって腹の底に仕舞う。
「あんたらは、なぁんにも知らないのになぁ」
 大きな溜息と共に箸と茶碗を置く。空っぽになった皿をじっと見詰めた。それらは微動だにしないのだが、僕の何かが微かに蠢いた気がした。

【続いて、嬉しいニュースです。先日、歩乃歌(ほのか)動物公園にてパンダの赤ちゃんが……】

 椅子から立ち上がり、ぶちりとテレビの電源を切った。途端に静寂に沈んだ部屋は、無機質で冷たい。僕はをテレビの上に掌を置い立ち尽くし、ゆっくりと瞼を下ろした。真っ暗闇の中で、とことことこ、懸命に脈打つ鼓動の音が聞こえ、此処に生きているのだと知らしめる。
「何処か遠くへいってしまえたら良いのに……」
 ぽそりと零れ落ちた、僕の小さな本音が波紋のように心に哀しみを広げた。

――いいよ、連れて行ってあげる。

「ぇっ?」
 誰の声だろうか、薄らと瞼を押し上げた一瞬。頭に鋭い痛みを感じて眉を顰める。誰かの掌が僕の眼を覆い、後ろへと強く引っ張った。僕は後ろ向きに倒れ込みながら、意識は遠く、薄く、途絶えようとしていた。

 浮遊感に吐き気を催し、瞼を勢い良く押し上げた。眼前に広がっていたのは、見慣れた無機質なワンルームでは無く、赤茶の煉瓦を基調とした街がだった――僕は落下している。ゆっくりと時間を、生をも惜しむように。未だに状況を理解出来ないでいる僕だが、押し迫る死を受け容れようとしていた。目を見開いて、夕闇に沈もうとしている街並みを心に焼き付ける。どうせ、死ぬのだったら――もっと綺麗で、痛みの無い死に方が良かったなぁ。余計なことばかりを考えながら僕は落下し続ける。勝色から橙へ、空から地へ――生から死へ。
 漸く、僕の背中から全身に強い衝撃が走った。絶えきれず、潰れた蛙の鳴き声が口から小さく飛び出していった。ぼんやり、けたたましい悲鳴とサイレンの音を人事のように聞く。あーあ、僕の人生もあっけなかったなぁ。悠長に自身の半生を思い返していた僕の傍に一つ、長く伸びる影が現れた。
「ねぇ、何してんの? 起きれば?」
 肩まで切りそろえられた栗毛、灰色のPコートのポケットに両手を突っ込んで佇む少女だった。僕は声を掛けてきた少女に見覚えがあるなぁと思い、思考を高速回転させる。嗚呼、先程見ていたニュースで飛び降り自殺した少女の顔にそっくりだと、思い出した。
「ぼく、もうじき、死ぬ、と思うので」
 放って置いてくれと仰向けでのまま、そう言葉を吐いた。彼女は眉間に皺を寄せ、大きな溜息を一つ吐いた。そして、面倒臭そうに僕の頭の近くにしゃがみ込み、覗き込んできた。
「あんたは死なない、絶対。だから、早く起きてくれないと……困る」
 地面に寝そべる僕を無理矢理引っ張り起こした彼女。眩む脳味噌と視界に戦いながら僕は一生懸命考える。僕が起きない所為で何が困るのかとか、此処は何処なのかとか――色々訊ねたい事が山積みだけれど、取り敢えず。彼女の掌が暖かく、顔が好みだったので、言われるがまま大人しく彼女に引きずられ何処かへ誘われてゆく事にした。僕等が歩いた路には橙色に瞬くナニかが、点々と残されていくのをぼんやりと眺めた。

モンブランな君

 淹れたての珈琲の芳醇な香りにひっそりと交る、柔らかなレモンの香り。水玉模様のテーブルクロスに乗った白磁のマグカップとティーカップ、寄り添うように置かれたモンブランと可愛らしいフォークが二つ。ぼんやりと、キッチンに立つ君の後姿を眺める。ゆらり、二つの湯気が僕から君を悪戯に遮った。

 ぱしゃり。

 テーブルに置いていたスマートフォンを持ち上げて、高く一つ括りに結んだ髪が楽し気に揺れる君の姿をいつの間にか切取っていた。
「ん? 珍しいね、ハルがケーキの写真撮るなんて」
「あー……たまには?」
 嬉しそうにティーポットをキッチンからテーブルへと運び、そっと僕の対面の席に腰をおろす。スマートフォンを持ったまま、僕の手はそのままの状態を維持していて。
「なんで疑問形なの」
 くすくすと小さく笑みを零しながら、真っ白なティーカップへハーブティーを注いでゆく。さっぱりとした爽やかな香りが君ごと包み込んでいった、僕と珈琲を除いて。
「食べないの?」
 美味しいよ、と陽だまりみたいに微笑む君に笑顔に見える貌をありったけ貼り付けて。
「似てるよね」
「なにが?」
 フォークに刺さったマロングラッセを口元へ運びながら、不思議そうに僕を見つめる。視線を僕に向けたまま、意識はマロングラッセに向いているちょっと間抜けな君が可笑しくて、愛しくて。笑いを噛み殺す歪んだ唇を見られてくなくて、カメラモードのままのスマートフォンを口元を隠す。
「ユキが、モンブランンに、似てる」

 ぱしゃっ。

「……娼婦だって、言いたいの?」
「なんで、アメリカの隠語を知ってんの。違うって」
 頬をぷくっと膨らませて拗ねる君も可愛くて、もう一枚、手に持ったままのスマートフォンで切取りたくなる。これ以上は鈍い君でもバレてしまうな、とそっとテーブルの上へ俯せる。
「じゃぁ、なに? 髪色がそれっぽいから?」
「ブラウンベージュの髪色は……まぁ、似てると思うけど」
 綺麗に巻かれたマロンクリームと真っ白なクリームを鈍色に光るフォークで掬って、口に含んだ途端に広がる甘味と幸福感に目を細める。
「けど……なに?」
 未だしかめっ面な君が冷めゆくハーブティーと食べかけのモンブランをそのままに、僕の言葉を待っていた。
「食べたら、甘くて美味しんだろうなぁって。肌とか白いし、」
「はぁ? 全然、モンブランと似てないじゃん。食べたら甘いって……ハル、変態っぽい」
 じとぉと、睨め付ける君へ揶揄ったお詫びに、と僕のマロングラッセを君の食べかけのモンブランにちょこんと乗せた。
「今日はこれで、絆されてあげる」
 唇を尖らせて、つっけんどんに言う君の頬が、ほんのりと赤みを帯びていたことは見て見ぬ振り。恥ずかしさを誤魔化す為に冷めきったハーブティーを勢いよく飲み干す君を盗み見ながら、ゆっくりと舌で上唇を舐める。虎視眈々と君を食べる機会を狙っているなんて、真っ白な君は知らない。僕の可愛いモンブラン、フォークを割り入れるその瞬間まで甘いままでいて――。

短篇Ⅰ

短篇Ⅰ

  • 小説
  • 中編
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  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-02-27

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  1. 雨宿り
  2. 縹渺の深藍
  3. 悪い夢だと君の瞼を覆った
  4. こんな夜更かしも。
  5. 融解
  6. 聲が灯る店。
  7. 夕凪の丘の風見鶏
  8. 夏の終わり
  9. 零れ落ちゆく月白
  10. 戯れ。
  11. 僕のモノ。
  12. 幾つかの空白
  13. 死と乙女
  14. 私が貴方にしたいこと。
  15. 君に溺れる
  16. 息も止まるくらいに
  17. あと少しだけこのままで
  18. 白きアザレアの花冠
  19. 虚の絶叫
  20. 霜天の白木蓮
  21. 岐路
  22. 後悔
  23. 疵が残ればいいのに
  24. 標本匣の胡蝶
  25. 寂寥
  26. 金平糖
  27. 六丁目路地裏立ち入り禁止
  28. 時間
  29. ただ、それだけのこと。
  30. オパール
  31. 道徳と皿
  32. 空っぽの空に潰される
  33. 内省
  34. 廻る歯車の箱庭
  35. せめて、心だけは
  36. 嫌い、って言ってよ
  37. 玄翁
  38. 神様のパズル
  39. 春はまだ。
  40. 人参 -幼い夢-
  41. 雪白のエルメンセル
  42. 蒼が愛したミモザ
  43. かざぐるまが哭いたら
  44. 憧憬
  45. 夜の終わりに僕は。
  46. 離した手を繋ぎ直して
  47. キスとキスの合間に
  48. コロニー
  49. 涙継ぎ
  50. 双月が嗤う夜
  51. 切なさを持て余す
  52. 還り花は絆す
  53. 楔を穿つ
  54. ブラック珈琲な君
  55. 透明な蒼に墜ちてゆく
  56. アクアマリン
  57. 白んだ空が僕の心を侵蝕する
  58. 偽りがみた幻
  59. モンブランな君