一直線に好き

あおい はる

 絵を描いていたときもある。地元では名の知れた美術部のある高校にも進学したけれど、結局、絵とは関係のない進路を選んだし、いまはもう、趣味としても長いあいだ描いていない。描きたいな、と、ふと思うときもあるけれど、絵を描く時間があるのなら、散文が書きたい。文章を打ちたい。言葉を繋いで、じぶんだけの世界をつくりたい。
 表現方法が異なるだけで、創作したい欲求は等しくある。絵を描くひとが、じぶんの絵をより良くするために、写真を撮るひとが、うつくしい写真を撮るために、小説家が、物語を多くのひとに楽しんでもらうために、努力をしている。才能だけでやっているひとも、いるかもしれないけれど。でも、その行動に時間を費やすということは、それも一種の努力であると思っている。テレビを観る時間を削って、がむしゃらに絵を描く。休日にいろんなところに外出して、ひたすらに写真を撮る。原稿用紙に向かって書けないと苦しみながらも、筆を折らない。
 創作をする理由、というのは、創作をするひとの数だけあって。お金のため、生きるため、だれかのため、じぶんのため。もっと細かに、言葉では説明できないものも、あるかもしれない。わたしは、小説を書きはじめてから、いまの散文に到るまでに、その理由がおおきく変わっている。もっといえば、この一年ほどでも、かなり変わっている。悪い方向ではなく、個人的には、とても良い方向に。心身ともに、健やかに、楽しく、好きなものを書きたいと想い続けながらも、なかなかそれに伴わないこともあったけれど、さいきんは、わりと想い描いた通りに、散文を書いている。わたしは、以前も書いたけれど、好き嫌いがはっきりしていて、偏愛主義で、好きになったものはとことん好きで、でも、嫌いなものはほんとうに無理で、たとえば、さいしょは好きだったのに、途中で嫌いになった場合も、すごい苦手になってしまうので、じぶんでもどうかと思うけれど、一気に過熱したあと、急速に冷却されてゆく、つまりは熱しやすく冷めやすい質故に、長く好きでいるものは少ないし、非常に偏っている。さらにいえば、新規開拓にも慎重派である。
 絵を描くことが嫌いになったわけではないけれど、いまから本気で絵を描きたいかと自問すると、やっぱり、それよりも散文を書いていたいし、本を読んでいたいと思う。

 熱しやすく冷めやすいに補足をするならば、わたしは、一定の熱量で、折れ線グラフでいえば、ずっと直線をたどっている方が、長く好きでいる傾向がある。深入りしない、じぶんの負担にならない範囲で応援する、とか。凛として時雨がその例で、いまはもう時雨しかCDを買っていないし、ほぼ時雨しか聴いていないけれど、ライブには行けていないし(これは単純にライブの日程とわたしの都合があわないためもある)、グッズにも手をのばしていない。インタビュー記事が載っている雑誌も、立ち読みするくらい。でも、十年以上聴きつづけているけれど、ぜんぜん飽きないし、何十回、何百回と聴いた曲でも新鮮な気持ちになったりするし、聴くたびに好きだなってしみじみ感じ入ってる。
 逆に、ある男性声優さんにハマっていたときは、それこそなんでも買い漁ったし(金額問わず)、イベントにも足しげく通ったのに、長くはつづかなかった。某アイドル事務所にしても、当時のわたしにしては長かった方だし、いまも応援しているけれど、ファンと呼べる立場にはいない。
 さいきん、じぶんのその、熱しやすく冷めやすい性質を、改めてあまりよろしくないなぁと思った瞬間があった。
 なんせ熱しやすいため、好きになったらなんでもほしくなってしまうのだ。大人買いをして、満足して、でも、ちょっとしたことがあって、急激に冷めてしまった。それは、失望にも似たものなのだけれど、失望は、独りよがりだと思うので、相手がどうこうではなく、わたしの個人的な理由なのだと割り切った。
 日々の暮らしのため、たいせつなだれかのため、そして、じぶんのために、わたしは、心穏やかでありたい。
 もうだめだ、と思ったものは、だいたいもう、だめだ。無理に好きでいようとすると、それが重荷になる。それらを排除して、ほんとうに好きなものだけを残していきたい。こういうのを偏愛を呼ぶのかはわからないけれど、わたし、というにんげんには、それが合っているみたいだ。

一直線に好き

一直線に好き

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
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CC BY-NC-ND
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