ぼくは太宰先生の文学がキライなんです

 ある種の太宰ファン、かれらは、はや太宰治を愛さない。
 津島修治を愛するのである。
 思春期のはしかをこじらせ、べつの病状へ移行してしまったひとびと、実はぼくもその一人だ、ぼくたちははや、太宰治が嘘ばかりつくことを知っている。「遺書だって嘘ばっかり。でも、楽しかったわ」、こいつが、かれの死を受けた際、奥さんが吐き棄てた言葉であるらしい(痺れるくらいかっこいい)。
 二枚目の化粧をして、三枚目の芸人さながらの振る舞いをし、おそらくや、思ってもないことを主張する。情緒的な共感・憐みにふりまわれて、なんとか生きづらそうなファンを励まそうと、弱さを赦し、それは優しさだと指摘して、エゴイストになろう、欲望実現のために戦闘しよう、そう偽装(つく)ったイケボで呻いてみせた太宰治、しかしぼくらは知っている、かれはだれよりもわが弱さとエゴをにくみ、自己欺瞞をえぐって己と対峙・格闘して、そして、かれの考えるほんとうの意味で優しくなりたかった人間であると。仮面の向こうの、東北弁混じりの、甘えたようなイントネーションの素顔の声、それが、ぼくらには聞こえてしまうのである。
 信じてくれるだろうか?
 かれの悩みをだれよりも理解しているのは、実は、ぼくなんだ。
 全集? 読み切らず、箪笥の上にタワーのように積み上げて、割と放置しがちだ。半分くらいしか読んでいない。愛読作品をくりかえしは読む。だが、ぼくはだれよりもかれの理解者だ、なぜって…。そう考える理由は、あなたと一緒だ。それを問うのは、ナンセンスである。
 ぼくの最も好きな作品は「駆け込み訴え」だ、やはり、他のファンとは、ちょっとちがうのである。「人間失格」を最愛の作品に挙げるような、太宰治をまるっと「好き」だといえる、純粋な愛読者たちといっしょにしないで欲しい。ぼくは太宰治の文学なんて好きじゃないのだ。キライなんです。ちなみにぼくは「人間失格」を、不登校の時に八回読んだ。やっぱり、いいよね。ちなみに、「女生徒」が二番かな。「みんな知ってるやつばっか挙げてるじゃねえか」という声が聞こえたから、(地の文の注釈こそは、自意識過剰な人間の文章の特徴である)、三番目は文庫に入っていない、「風の便り」だと書いておこう。玄人、玄人。かれが、自分の欠点を可能な限り識りつくしていたことを知れる、佳い作品だ。自己欺瞞、こいつはおそらく、生き抜くのに必要なものである。自己批判は、気をつけてしなければいけない、ぼくらは、自画像に轢き殺されることだってあるように思う。
 この「駆け込み訴え」という作品は、あなたも知っているように、ユダはキリストを愛していたという設定であり、ユダの裏切り・告発の独白を、聴者が書きとったという形式をとっている。
 この作品に満ちているユダの感情は真実のそれだ、血と肉の痛みがある。かれを愛している、かれのようになりたい、かれのように生きたい、しかしかれは自分を愛してくれない、かれのようにはなれない、かれのように生きることができない、だから裏切り、そして、他者の手によって殺させる。
 この「かれ」に、仮にかれの憧れていた(にくんでいた?)キリスト教らしく、「アガペー(の体現者)」を代入してみよう。しっくりこないだろうか? そう、かれは無償の愛に憧れ、それゆえに自分のエゴを責め立てていて、批判し明るめ、気付いたら芥川と並ぶくらいの人間通の小説を書き、しかしそれに届かないことに悩みくるしみ、ついにそれへの憧憬を、悪友・坂口安吾の傑作、「夜長姫と耳男」のぞっとおそろしいラストさながら、殺そうとしたのだ(好きなものは、呪うか殺すか争うかしなければならないのよ)。これが、ぼくの解釈である。
 そしてぼくのこの解釈は、いかにも太宰ファンのすることらしく、ぼくじしんを、かってに投影したそれなのである。
 おおくのひとが共感し得る平凡な心理を、非凡なまでに追究し(この平凡への非凡は、小説の普遍性を生むようにおもう)、しかも各々の読者が、わが憧れや苦しみを代入して読解することができる、この、Xの余地が広いことだって、「かれの最大の理解者は自分だ」という感情を与えているのではないか。かれは、あざといのだ。たぶん、売れたかったひとだ。どこまでも計算高く、したたかで、やはり、ぼくはかれがキライだ。
 そして、かれは結局、無償の愛への憧れを、絞め殺すことができなかったんだとおもう。かれも愛読したと推測されるけれど、ランボオは「地獄の季節」でこう書いた、「俺は地上のありとあらゆる望みを絞殺し、俺の精神の内に悶絶させてしまったのだ」、太宰は、ここまでニヒリストになり切れなかったんじゃないか。かれは、森鴎外の墓の近くに埋めて欲しいと遺書に書いた、古い日本の価値観を攻撃し反抗していたけれど、けっきょく、旧日本的な美学、「奉仕」に憧れつづけていたのだとぼくは推測する。
 かれがこう言ったことをご存じだろう。
「罪を犯して、罪悪感を持ったひとは優しい」。
 とんでもない言葉だとぼくは思った、太宰をキライになろうキライになろうと努力していた当時のぼくには、(ちなみにその頃も、太宰の最大の理解者はぼくだとおもっていた)、ひとの生を狂わせる、一時的に楽にさせるだけの欺瞞のようにしかおもわれなかった。
 しかし、これは一面的にいうと、間違っていないのではないか。
 無償の愛、これはリターンを求めないから、無償といえるはずである。しかし、われわれ太宰文学愛読者の多くのように(わが同胞よ!)、自分の心への凝視が趣味の人間は気がつくと思うけれど、優しさというのは、感情の話でいうと、それが道徳法則への尊敬によるものだとしても、けっきょく、「自分の為」に往きつくのである。ぼくは無償じゃなくていいので、ほんとうの意味の優しさ、そして道徳を獲得する予定である。いつになるやら。
 しかし罪悪感をもって罪滅ぼしをする態度、これは、「リターンを求めない」と、いえないことはない。借金返済の心のうごきだからである。もう、受けとっているのである。安堵、自負、このくらいをしか、報酬がない。それだってリターンともいえるけれど、これらの感情は、他者の何かを損なわせる悪の現象を、かぎりなく起こしづらい。つまり、罪滅ぼしは、無償の愛のうごきに、うごきとしてなんだか似ているのである。
 そして、あらゆる人間は、きっと何かから、何かを与えられている。

 ぼくは太宰先生の文学がキライなんです。
「おじさんのツンデレに需要なんてないよ、美男の太宰と違って不器量なのに」、たとえそんな声が上がったとしても、ぼくはそれを気にも掛けない。とるに足らないのだ。(ああ頭で鳴りまくってる、弁解したい、注釈つけたい、しかしそれも仕方がない、ぼくは太宰治の理解者だから)。
 ぼくは太宰治が半分好きで、半分キライで、つまり、半分キライになるまで、かれのことをいつも考えている。あなたに対してマウントを取ろう、こんなことを言うやつが、一番太宰治を好きなのだ。果ては津島修治がまるっと好きだとか、ビョーキみたいことを言いだすのである。
 ぼくは夜な夜なかれのくるしみを想って涙を流し、かれの姿、声を想像し、会ってみたい、会ってみたい、そう渇望して、かれに泣きつき、かれが身を抱きすくめて、坂口安吾の「不良少年とキリスト」さながら、殴るように、かれの生と道徳的努力を肯定したいとおもっている。その時、ぼくはきっとぺこぱの松陰寺さんになる。「人間、合格」

ぼくは太宰先生の文学がキライなんです

ぼくは太宰先生の文学がキライなんです

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-02-27

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