くすぶり女子の教訓

わたしがくすぶっていたのは、主に高校生~大学生のころです。そのころの悲壮感がただよいつつもおかしいエピソードをつづりたいと思います。

春の試練

 あれは、大学2年生の春だったと思う。
 大学生になって2回目の健康診断があった。

 健康診断は、高校生のころから苦手だった。
 小学生のころは3,4年生くらいまでぽちゃぽちゃしていたが、5,6年生になると身長が伸びて細身の体型になった。中学生になると、体重が増えたが成長期だし、気にしていなかった。中学卒業のころになると、肥満度0くらいの体型になっていた。数字的には健康的だが、ちょっとぽっちゃりしている。しかし、友だちと遊んでいるとき、笑いながらいっしょに食べるお菓子やごはんはおいしく、ぎりぎりぽっちゃりしている体型のことは、ぎりぎり気にしていなかった。体重が増えるのはこれくらいで止まってほしいな、とは少し思っていた。

 願いもむなしく、高校生になっても体重はじわじわ増えていった。身長もじわじわ伸びてくれるならまだいいのだが、身長は中学2年生のころで止まってしまったようだ。
 じわじわ増えていく体重にじわじわ焦りながらも、食べ盛りだったので、3食もりもり食べて、おやつも食べていた。恋人もおらず、色気より食い気だったのだ。服を買うときなど、自分の体型をすこしは気にしていたが、普段の生活でぽっちゃり気味なことは問題なかった。

 問題だったのは、年に1回の健康診断のときと、体育の時間である。
 健康診断は言うまでもない、小数点第2位まで正確にはかれる体重計で自分の体重を見せつけられるのが苦痛だった。
 もうひとつの体育の時間であるが、これは、準備運動のときである。わたしが通っていた高校はなぜか体育に力をいれており(非行防止か?)準備運動からかなりの運動量だった。屋外の場合は400mのグラウンドを2周、屋内の場合は体育館を10周というアップをしてから、高校オリジナルの体操(週ごとに当番がまわってきて、みんなの前で見本となる)をしたのち、2人ペアとなってのストレッチがある。このストレッチが問題だったのだ。
 2人ペアとなってのストレッチは、ゆっくり押し合って柔軟をしたり、相手に足首を持ってもらって手押し車をしたりする。その中に、相手をおんぶしてなにか動きをするというメニューがあった。ペアは、身長順でならんでつくる。わたしはぽっちゃりしていたが身長は低かったため、前のほうに並ぶことになる。すると、背は同じくらいだが、明らかに重さがちがう乙女と組むこともありうる。わたしがよく組んでいたのはMさんという、細身の美人さんだった。
 Mさんは、色白で美人で勉学もおできになり小柄であった。たぶん30㎏台であろう。対するわたしは、155㎝、当時53㎏だった。その差推定でも13㎏以上はある。ああ神様、なにゆえMさんはわたしを持ち上げなければいけないのでしょうか…。Mさんが細すぎたため、わたしはゆううつであった。しかしMさんは美人の上に人柄もよく、わたしが「ごめんね、重いよ…」と非常に恐縮しながら背中に身をあずけると「全然大丈夫だよ~。よっと!」と、いやな顔ひとつせずわたしをおんぶしてくれた。しかし、ゆううつさは変わらない。そーっと背中に乗ってみても、重さは変わらない。体育の運動量そのものもきつかったが、体型関係なく組まされたペアでのストレッチもつらかったと記憶している。

 そして大学入学である。
 大学は、朝いちばんの電車に乗れば自宅から通えない距離でもなかったが、大学の近くにひとり暮らしさせてもらっていた。
 引っ越し直後はとてもさびしく、自分ひとりしかいない空間でわんわん泣いた。が、ひとしきり泣くと「おいしいもの食べよう」と、すぐ気持ちを切りかえられたわたしであった。大学入学直後にあった健康診断では、体重は53㎏だったと記憶している。

 そして大学2年生の春の健康診断のときが来た。
 ひとり暮らしのアパートにも体重計はあったので、現在の体重をまったく把握していないわけではなかった。しかし、その体重計というのが、昔ながらの温泉施設にあるような目盛りではかるものだった。目盛り式のものはデジタル式に比べて数値があいまいである。わたしはそのあいまいさに甘んじていた。

 健康診断は、用紙をもらったら、スタンプラリーのように自分でまわる仕組みだった。教室ごとに視力や聴力、血圧などに分かれていて、空いていそうなところからまわった。

 最後に身長・体重をはかる部屋に行ったのだが、混んでいて、かなり行列ができていた。そこへおとなしく並ぶ。
 わたしの前に並んでいる、たぶん新入生だろうか、若さにまかせて髪を金色に染め、短いスカートから細い脚を出し、濃いお化粧をしてきつい香水のにおいをふりまいている女子ふたりがキャッキャッと話している。彼とすごした甘い夜(昼かもしれないが)のことをお互いに語り合っている。「公衆の面前でハレンチな…!」と、心の中でにらみながらも、気になるので聞き耳を立てていた。

 そうしているうちに、順番がまわってきた。
 「あさか いおです」用紙を提出する。
 まずは身長をはかった。155㎝。変わりなし。
 次は体重だ。おそるおそる乗った体重計はBMIや体脂肪率もはかれる機能がついており、昭和な体重計に慣れすぎたわたしにはハードルが高かった。しかし、下りるわけにはいかない。

 57㎏、BMI25.3、体脂肪率32%というのがそのときたたき出した数字である。
 愛用のあいまいな体重計では55㎏は超えていなかったので、体重にもおどろいたのだが、それよりも体脂肪率におどろいた。32%って…!!高校生のころはかったときは、たしか26%くらいだった。予想より低かったので、ぽっちゃりしていても、体脂肪率とは関係ない、と身勝手な考えを持ってしまっていたことがくやまれる。
 なにかを勝負しに健康診断に行ったわけではないのだが、惨敗した気分の帰り道であった。

【今回の教訓】
昭和な体重計を使い、身勝手な論理を持つのは危険。

かわいい子にやさしい教官に内心ブーイング

 今年はわたしの愛車「あきひさ号」の車検の年である。「あきひさ号」は、わたしの好きなある人の名前から命名した。
 あきひさ号。都会に越したため、無情にも連れてこられなかったが、思い入れのある大事な赤い車だ。免許とりたてのころは、自分の運転によって車が動くだけでおどろいて、ウインカーランプを出すたび「大人になったものだなあ」と感心していた。
 あきひさ号に乗って、たくさんのお出かけをした。と言いたいところだが、わたしは運転が苦手なため、あきひさ号はもっぱら通勤車両だった。お出かけのときは、家族や友だちの車にほくほくと乗っていた。そのため、7年目にして、あきひさ号の走行距離は3万㎞台である。しかし、だからと言ってあきひさ号への愛着度が薄れるわけではない。

 運転免許をとったのは、大学1年生の春休みである。長い休み、わたしは家族のもとへ帰っていた。
 母の車がマニュアル車だったので、マニュアル車コースに挑んだわたし。自分の操縦能力にいささか不安はあったが、ひと昔前はみんなマニュアル車で免許をとっていたんだし、できるだろう、と楽観的だった。

 いざ教習がはじまってみると、学科は話をよく聞けばわかるのでいいのだが、実技が壊滅的だった。
 マニュアル車は両手両足それぞれに別の動きを要求する。右手はハンドル、左手はシフトレバー、右足はアクセル、左足はクラッチ。高校の音楽のとき、ドラムセットをすこし叩いたのだが、まったく歯が立たなかったことを思い出した。せめて両手はハンドルをがっちりにぎっていたいのだが、シフトレバーを操作しなければならない。停止している状態からなんとか動き出すと、もうそのまま1速で進んでいきたいが「はい、2速!」「3速!」と声がかかる。シフトレバーに気をとられると、ハンドルをにぎる手がおぼつかなくなり、よろよろしてしまう。となりで指導する教官がこわそうなおじいさんだったときは「どっちっぺた行ってんだっや!!(方言)」とものすごく怒られた。まだ乗車3回目だったのに…。

 おじいさんに叱り飛ばされ、すっかり落ち込んだわたしは、マニュアル車コースを早々にあきらめた。最初から無理しなければ…と、我ながら思ったが、最初はもっとできると思っていたのだ。

 オートマ車限定コースにしてからは、目立った失敗もなく、順調に進んだ。オートマ車をはじめて運転したとき、アクセルを踏まなくてもじわじわずっと進んでいくことにおどろいた。この特性を、わすれないようにしよう、と思った。

 自動車学校では、同級生は見なかったが、ひとつ年下の顔と名前を知っているだけの人はちらほらいた。
 教習のわずかな休み時間に友人ふたりときゃぴきゃぴ恋愛話に花を咲かせていたAさんの姿が印象的である。Aさんは名前からして派手で、気が強そうで、実際にそのとおりであった。ピアノが上手なところはすごいな、と思っていた。
「Aって~。彼ピとめっちゃ付き合い長いよね~」友人1が言う。Aには、中学生のころから付き合うひとつ年上の彼氏がいるのだ。めでたく今年交際4年めだそう。
「え~、めっちゃうらやましいんだけど~。彼、やさしいんでしょう~?長続きする秘訣ってなあに~?」友人2がきく。
「えー♡ たしかに、うちの彼ピはやさしいよ~♡ 学校に迎えに来てくれて、いつもいっしょに帰るし!」
Aさんは、野球部の彼のそばにいるため、進学した高校はちがうが、野球部のマネージャーをしているとのこと。試合のときは自分の学校そっちのけで彼のいる学校の応援をするのかしら…と想像する。彼氏、Aさんの尻にしかれてないかしら…といらない心配もした。
 彼氏がいたことのない大学生の身としては、4年間も好きな人と付き合うなんてどんな感じなんだろうと、それはもうほとんど少女漫画の世界であった(Aさんは今の彼のことがすごく好きで、猛アタックして付き合うようになったそう)。
 数年後、Aさんの元彼氏は、別の人と結婚したそうである。
 このままこのふたりは結婚するのかなあと思ったが、そうはいかないことがこの世の中には多いらしい。Aさんは落ち込んだだろうか。しかし、学生時代に大好きな人と恋愛できたというのはかけがえのない財産だと思うのだ。わたしにはげまされる筋合いはないと思うが、Aさんが元気でいることをねがう。

 あと、自動車学校でのくすぶりで特筆すべきことは、原付の実習である。
 大きくなってからの自転車の運転でもふらふらと危ういことがあるので、原付は不安だった。スピードは時速40㎞ほど出るらしい。
 原付実習は3人一組で行われた。わたし以外の二人は背が高くて細い。まず、ヘルメットとひじあて、ひざあてをつける。ひじあてとひざあては問題なかったのだが、ヘルメットが小さかった。ほかの二人はガポガポしているので、あごあてをキューっとしめられている。わたしは自力であごあてのひもを最大限に伸ばした。そして実際に乗ってみる。わたしは3番手だった。いざまたがると、エンジン音がこわい。「すこしずつ手首をひねってね~」とおじちゃんの教官に言われる。やってみると、すこしひねっただけでも「ブーン!」と進んでいく。おじちゃん教官がいっしょにハンドルをにぎっていてくれたからいいものの、わたしひとりだったらひっくり返るかもしれない。おそろしや、と原付実習はおわった。

 その後、路上での実技試験に合格、免許センターでの学科試験にも合格して、めでたく運転免許を手にすることができた。

【今回の教訓】わたしを𠮟り飛ばしたおじいさん教官は、聞くところによると、人によって態度を変えるらしい。人によって態度を変える人にふりまわされない(マニュアル車コースあきらめたけど)。

姉の料理スキル

 大学生になり、ひとり暮らしをはじめるときに母が渡してくれたレシピ帳がある。
 筑前煮。麻婆春雨。酸辣湯。茶碗蒸し。カブときゅうりの漬物。お刺身サラダ。天津飯。
 それまで料理をほぼやってこなかったわたしでもつくれるように、いろいろなレシピを書いてくれた。おいしそう、と思いつつ、アパートのすぐ近くにはおばあちゃんがやっている(たまに息子さんも手伝っていた)小さなお総菜屋さんがあり、そこのお世話になることが多かった。
 母のくれたレシピ帳が活躍するようになったのは、結婚して毎日料理をつくるようになってからだ。わたしのこれまでの悲惨な料理しか知らない妹は、結婚してからのわたしの料理を食べて「お母さん…結婚ってすごいわね」と母に報告したそうである。

 我が妹が「伝説」と断言するかつての料理がいくつかある。
 まず最初は、なめこスープだ。
 あれは、高校2年生の夏休みだった。夏ならやせやすいだろうと、ダイエットしていた。わたしの選んだ方法は、スープダイエットだ。1日1食野菜スープにすれば、あとの食事は好きに食べてもいい、というものである。スープは一度にどかんと作れば手間は減るし、あとの2食は好きに食べられるというのがいいなあと思ってこのダイエット法に決めた。そして、挫折しないように、夏休みのお昼ごはんをいっしょに食べる妹を巻き添えにした。いい迷惑である。
 ダイエット野菜スープは、いろいろ野菜が入っていて体によさそうで、味がうすい。うすいゆえにダイエット効果があるのだろうが、食べ盛りが好む味ではなく、苦痛だった。しかし、1回めのスープはまだよくできたほうだったとあとになって思う。
 2回めに作るとき「キノコ類を入れてもよい。キノコはヘルシーで栄養豊富」という記述を思い出した。キノコかあ…。スーパーに行き、なめこを手に取る。なぜなめこに決めたのかは、おぼえていない。キノコの中でもなめこがいいらしいという中途半端な知識があったのかもしれない。
 うちへ帰って、大きな鍋でスープをつくる。あとで聞くところによると、その姿はあやしい薬をつくる魔女のようだったという。できあがりの味の不穏さは調理過程からだだもれていた。
 昆布のだしといろいろな野菜の味、コンソメと塩によるごくうすい味つけ、そこへなめこのぬめりが加わった。それまでもおいしそうに食べてはいなかった妹だが、なめこが加わったスープは、あまりのまずさにさめざめと涙を流していた。ダイエットの道連れにして、まずさ極まる料理で泣かせるとは、とんでもない姉である。
 なめこ入りのスープはたしかに涙したくなる味で、夏という季節に激マズのほかほかスープという組み合わせもかなしくなってきた。
 とはいえ、このまま残しては食材がもったいない。仕事から帰ってきた母に助言を求めた。すると「カレーにしたら?」との名案が出た。カレーだ。このくさみを消せるのはカレーしかいない。絶対的信頼をもってカレールーを溶いたのだが、カレーをもってしてもこのまずさを払拭できるほどの威力はなく、妹はふたたび無口になったのであった。
 当然ながらダイエットは失敗し、妹はめでたく通常のお昼ごはんにもどれた。

 次の伝説は、みそ弁当だ。
 大学生のころ、学校に持っていくお弁当にこまり、ごはんにみそをぬりたくっただけのお弁当をつくったことがある。しかも、2段のお弁当箱を2段ともみそごはんにした。2段のお弁当箱を1段しか使わないのはわるいかなあ、という変な律義さがあった。大学には学食も売店もあるのだが、学食は混んでいるし、売店も小さいのでパンやおむすびはすぐになくなってしまう。ふだんお総菜屋さんにばかりたよっているから、たまには自分でつくろうという気持ちもあった。完成したのは、料理ができない人の極みのようなお弁当だ。
 類似品としてきんぴらごぼう弁当がある。こちらは、1段目がごはん、2段目がきんぴらごぼうだ。きんぴらごぼうは手づくりなため、みそ弁当よりランクが上である。少々便秘だったので「ごぼうはいい」という安直な考えからきんぴらごぼうを大量につくった。

 そして、りんご弁当だ。
 これは、りんごを持って行っただけのお弁当である(それはお弁当なのか?)。「1日1個のりんごは医者いらず」と、丸ごと持ってきたりんごに勇ましくかじりついていた。昼休み、まだ人の集まっていない教室で食べていた。りんごは、八百屋さんで買ったものだ。友人や恋人はいなかったわたしだが、住んでいた町のお店の人からかわいがってもらったことを今でもあたたかく思い出す。
 りんごのみのお弁当になったのは、たぶん起きたのが遅かったのだろう。なにも持って行かず、なにも食べられないよりはいいだろうと持って行った。
 りんごにかじりついてしばらくすると、上級生女子が2人入ってきた。「りんごを野生児のごとく食べているときに…!まあいい。気にせず食べ続けよう」彼女たちも、人気のない教室でりんごをゴリラみたいに食べている不気味な人なんて、まったく気にしていなかった。
 彼女たちは恋の話に花を咲かせはじめる。聞いていると、2人のうち1人が彼氏と上手くいっていないらしい。悲壮感がただよいはじめ、泣き出してしまう。友人は、その背中をさする。
 わたしは、猛然とりんごを食べながら「恋のなやみがあるだけいいじゃないか!恋人がいないと、そんななやみもないぜ!」と、熱い気持ちになっていた。それがいけなかったのだろうか、りんごにかじりつくのと同時に、ぶほっとおならが出た。その瞬間、教室は静けさに支配された。

 今も、料理は決して上手ではないが、もっと料理ができなかったころの自分は、我ながらすごいなと思う。あのころの自分に、未来のわたしは揚げものもできるようになると言っても信じないだろう。
 激マズスープに涙した妹は「結婚相手にも飲ませてちょうだい!」と約束を迫った。「おねえちゃんのつくるどんな料理にもたえられる人じゃないと!」

【今回の教訓】妹は姉がつくったまずい料理の数々をいつまでもおぼえている。

お酒の力を借りた最初のできごと 前編

 わたしが育った町の成人式は5月だ。雪が降る地域なので、成人の日がある1月ではなく、5月に開かれる。

 成人式は、出身中学校ごとにまとまって座り、記念写真を撮る。中学生のころは部活以外にいい思い出がない。1年生のころはそれほどではなかったものの、学年が上がるにつれて明確になっていくスクールカーストがほとほと嫌だった。わたしは言うまでもなく地味なグループに属していた。今思うと、地味ってなんだ。相対的に見て地味かもしれないが、余計なお世話だろう。ただ仲のいい人といっしょにいるだけなのに、派手なグループの人たちとは一線を画され、あざ笑われる。成人式で彼らの姿を見れば、当時のいろいろな思いがこみ上げてくるのは絶対だったが、成人式は人生で1回だ。記念すべき会には出席すべきだ。わたしは出席に丸をして、往復はがきを出した。

 成人式は、女子は振袖の人がほとんどだ。母はずいぶん直前になっても「振袖着ていいんだよ」と言ってくれたが、わたしはうなずけなかった。成人式にあたる年は大学2年生で、高校生から引き続き絶賛くすぶっている最中だった。友だちがいない、恋人もいない、勉強もついていけない、と弱音を吐くばかりで何も努力していなかった。そんな自分が我ながらきらいで、不機嫌にぶーたれている顔に晴れやかな着物なんてもったいないと思った。だから振袖は辞退したのだった。
 振袖を選ばなかったが、成人式には上品でかわいらしいワンピースにジャケットをはおり、父が買ってくれたネックレスをつけて出たのだから、振袖を着なかったことになんの後悔もしていない。

 式当日になり、両親に送ってもらって会場に行った。友だち同士で集まって盛り上がっている人たちのすき間をくぐりぬけてホールに入り、中学校ごとに指定されている席がどこか確認して、その最前列に座った。派手でやかましい人たちは後方へ集まる。距離をとりたかったのでそこを選んだ。大方の人がわいわいずっと話していて席になかなかつかないなか、すぐにホールに入ってすとんと一番前の席に座ったわたしはいさぎよかったという(父談)。
 集まった人が全員席についても、わたしは最前列だし、きょろきょろもしなかったから、誰が来ているかなんてほとんどわからない。いい席に座ったものだと悠々としていた。

 式がおわり、記念撮影の時間が近づいてくる。今度はだんだん心臓がばくばくしてきた。まあ、わたしに会ってわたしを思い出す人はあまりいないだろうからそんなに緊張しなくていいのだが、やはり嫌な思いをした人と近い距離になると思うと変な汗が出てくる。
 撮影場所には段が組まれていた。誰がどこに立つか時間を食うかと思ったが、そんなことはなかった。学年でいちばん美人と言われモテモテで、成人式当時雑誌の読者モデルをしていたというKさんが前列のど真ん中にすぐ決まり、あとはKさんをかこむようにとりまきの人たちが配置された。わたしは空いていた前列のはじっこにひっそりと収まり、無事写真撮影がおわった。
 社会人になって中学の同級生と遊んだとき、その記念写真を見ようということになり、なつかしいね~と言いながらお菓子をぼりぼり食べていたのだが、ふたりともどうしてもわからない人がいた。卒業アルバムも開いてみるのだが、一致しそうな顔がない。「あれー、誰だろう、この人?もしかして、ちがう中学だったけどまちがえちゃったのかなあ」と盛り上がった、という思い出がある。(つづく)

お酒の力を借りた最初のできごと 中編

 成人式は午前中におわり、夕方からは中学校の同窓会がある。
 式に出席した同じ部活の友だちのうち同窓会に出席する人はひとりもいなかったけど、わたしは参加した。同じ部活の子に「同窓会、出る?」と前もって聞くこともせず、なかば意地のようなもので出席を決めていた。同窓会に集まる人はだいたい派手でキャピキャピしている、過去も現在も打ち解けられない人ばかりだろうが、だからこそこの会に出ることで、ほかでは身につかない度胸がつくと思ったのだ。

 同窓会の会場は、父と母が結婚式を挙げたところだった。
 その会場は前はホテルもやっていて、結婚式前日、母は泊まった。すると、見事にダニに食われまくったらしい。結婚式の最中は気が張っていて、かゆみから気が散っていたのだが、式がおわった途端猛烈にかゆくなり、それは大変だったそうだ。すぐに新婚旅行に行くことになっていて、行き先は北海道だったのだが、飛行機の中で人目をはばからず太ももをぼりぼりとかいた。母は肌が弱いほうなので、いかに悲惨な状況かとてもよくわかる。そのときかきむしってできた傷あとは、今も残るものがある。

 会場へは母に送ってもらって行ったのだが、そのときの心臓の爆音たるや、いまだにそれ以上のものはない。目も焦点があっていなかった。しかし、これに出たら強くなれる気がして、ふるえながら会場へ入り、部屋を探した。
 自分の中学校の部屋へ行くと、わたしが最後に来た人で、みんなわいわいとにぎやかだった。入り口で会費を払う。「ああ~、いおちゃん?」気だるい表情でお金を受け取り、名簿に丸をする金髪おだんご。「…はて、誰だったかしら」と、心の中でつぶやくと「おーい、Rちゃん!」と呼ばれるのを聞いて、わかった。小柄でバスケ部で、笑うとえくぼがかわいくて、派手なグループにいるけど高圧的でなく、比較的話しやすい子だった。今は、髪を金色に染めて、小柄なのは変わらないが、中学生のときのニコニコさはない。
 席はくじ引きで決まっていて、ちょっと安心した。ものすごく苦手な人が隣というのは嫌なのだが、自由な席で、自分でどこに座るか決めなくてはならないのも困る。まあ、いちばん最後に行ったので、どこに座るもなにもないのかもしれないが…。

 「失礼しまーす…」と小さく言って席についた。わたしのテーブルはほとんど男子で、かえってよかった。さして親しくないのなら、女子より男子といるほうが気が楽だ。わたしの隣は、小学校のときはちょっとしゃべることもあった元気のいい男子だった。2月29日生まれというのがちょっとした自慢で、小学生のとき「おれ、うでに脂がかたまってるんだ」とさわらせてくれたことがある。スポーツが得意で、ムキムキの腹筋を見たこともあった。20歳のその子は、髪を長めにしてセットしていて、ピアスがいくつもついていて、ワイルドな感じだった。
 もう片方の隣も小学校からいっしょの男子だった。メガネをかけ、やさしそうな感じである。友だちと遊んでいると、その場にいない人のかげぐちがはじまりそうになり、その子がうまい具合に回避させたという話をきいたことがある。小学校低学年のとき、わたしはこの男子に「なにをかんがえているのか、わからない」と言われたことがあるが、基本的にたぶんいい人である。おもしろいことが好きで、自身もおもしろく、変なことをしていた記憶がある。

 同じテーブルの人でビールを注ぎあい、先生のお祝いの言葉があり、乾杯となった。
 「かんぱーい!」ヒューヒュー、パチパチパチ…まわりの人がジョッキを片手におしゃべりの花を咲かせる中、ビールに集中する女子がいた。わたしである。
 今回の任務(?)は同窓会に参加することであり、それはもうこの部屋に入って席についた時点で果たせている。こりゃめでたい、とばかりにごくごく飲んだ。わたしはお酒を飲みはじめたときからビールが好きだった。ビールをおいしいと思うようになったらお酒を飲もうと決めていて、甘いお酒なら飲めるというお子様な時代は、甘いお酒も飲まなかった。お酒は、ビールや日本酒がおいしいと思えてから飲むものだという昭和のお父さんのような考えの未成年だった。さいわいにも、高校生のときには苦いとしか思わなかったビールが、大学生になってちょっとたつとおいしく感じられて(くすぶっているので、新入生歓迎会のような華やかな席でかっこいい先輩からお酒を教わったのではない。おうちでちびちびと飲んでいるうちに、おいしいと思うようになった)成人式のときにはごくごく飲むようになっていた。
 話す人はいないし、ひとりのわたしに同情して話しかけられても困るし、自分の席は確保されていたものの自分の居場所がなかったので、お酒を相手とした。ビールをがばがば飲んだのだ。瓶ビールだったので、誰かに注いでもらわないとふつうだったら飲みにくいのだが「特殊な状況なので手酌もよし」と自分にゴーサインを出し、どんどん飲んだ。すこし酔うと、落ち着いてきた。

 何度めかの手酌のとき「ああ、女の子が手酌なんて、気づかなくてごめんね」と、注いでくれた人がいる。メガネをかけてやさしそうな隣の男子である。彼と話したことはほとんどなく、わたしは同窓会の最中ずっと重たい空気を出していたはずなのに、ほかの人と話すのと変わりなくニコニコと笑って「あさか、よく飲むな~!」とビールを注いで、中学の思い出話をしてくれた。
 彼と話したことをきっかけに、彼のまわりの人とも話した。お父さんがお医者さんで、勉強がよくできたKくんは、一浪して入学した大学で医学を学んでいるそうだ。精神科の医師になりたいという。中学生までの彼はとっつきにくく、エキセントリックな言動で、ときおり意味もなくニヤリと笑うのが不気味だった。彼は、大学入試のとき第1志望の学校に不合格となり、しばらく引きこもりとなった。今まで勉強勉強と自分を押さえつけてきた母親にはじめて反抗した。大きなできごとを乗り越えた彼はつきものが落ちたようにすっきりして、自分でも「俺、変わったでしょ?」と笑っていた。20歳の彼は、とっつきにくい感じは消えて、個性的なカラフルなフレームのメガネをかけている白シャツのさわやかな青年になっていた。
 お母さんに超溺愛されている一人息子Hくんの姿もあった。彼のお母さんは某ねこのキャラクターとピンク色の熱狂的なファンで、授業参観には全身ピンク色でかためて、壁際から愛する息子Hくんに手をふっていた。Hくんの誕生日にはお赤飯を持って学校に来た。目を丸くする担任の先生に「今日はHくんの誕生日ですから」とほほえみ、先生のぶんのお赤飯を渡した。愛する息子を事故の危険から遠ざけたかったのか、Hくんは小学6年生になっても自転車に乗れず、3年生から年に1回ある自転車教室は毎回見学していた。Hくんも小学生までは母親のあふれすぎる愛を素直に受け取っていた。しかし、中学生2年生の職場体験についてきた母親についに言った。「もう、はずかしいから、ついてこないでくれ」
 20歳になったHくんは、あまり変わっていなかった。中学生のHくんがちょっとおじさんになった感じだ。しかし、話していることは派手だった。「いい女を見つけようと思ってさ」いつの間にそんなキザなことを考えるようになったんだ。自分のことを棚に上げるが、Hくんにそんなセリフは似合わない。Hくんは過剰すぎる母親の愛を自分でやめてくれと言うことはできたが、長年暗示にかけられてきたのか自分のことをとても性格がよく、容姿もかっこいいと信じている。性格は母親に頼りきりだったせいで自分の力で何かをやるという力に乏しいし、容姿は勤続10年のサラリーマンといった感じで若さに欠ける。Hくんが見つけたいい女が、今のHくんを好きになる可能性は限りなく0だろう。帰ってから父にHくんのことを話すと「まずは自分をみがかなきゃだめよ」とたばこの煙をふーっとはいた。(つづく)

お酒の力を借りた最初のできごと 後編

 小学4年生、10歳のとき学校で2分の1成人式があった。10歳までの写真を集めたアルバムをつくったり、親から手紙を書いてもらったり、20歳の自分にあてた手紙を書いたり、と準備して、小さなパーティーが行われた。20歳の自分への手紙は密閉容器に入れて、みんなで木の下にうめた。そしてそれは、同窓会で配られた。手紙が配られていると知って、わたしは同窓会会場へ行くときくらい心臓がばくばくしていた。手紙が楽しみだったのではない。手紙を配っているのがわたしがずっと好きだった人だからだ。どうしよう、どうしよう。近くで見てみたいけど、今の見た目も中身もくすぶっている自分を見られたくない。手紙がほしいけど、ほしくない。みじかい時間、相反する思いで悶々としていると「はい、いおちゃん」と手紙があっさり渡された。好きだった人からではない。幹事をしている女の子から渡された。あ、あれ…。直接渡されないでほっとしたような、ほかの人はその男子が配っていたのに変だなと思うのと、微妙な気持ちだった。
 
 同窓会の一次会は2時間くらいでお開きとなった。
「二次会に行く人はこっちに集まってー!帰る人はバスに乗ってー」幹事が呼びかけていた。長かったような短かったような同窓会はおわった。中学生のとき苦手だった派手なグループの人たちは、20歳になって遠くから見ているだけでも苦手だったが、それだけではない同窓会だった。あまり話したことがなかった人と話せたり、そりゃあ20歳になっているのだから人とあたりさわりなく話す力がまわりの人にはついていたのかもしれないが、誰とも話せないかもしれないと思っていたわたしは誰かと話せただけでうれしかった。

 同窓会に出席しなかった友だちが居酒屋に集まることになっていて、それに誘われた。
 居酒屋につくと、先に集まっていた友だちは飲みはじめていて「おつかれ~」とリラックスした雰囲気でむかえてくれた。「いおちゃん、同窓会出たんだよね?すごいなあ。わたしは絶対やだ」とスパークリングワインをごくごく飲みながらRちゃんがメニューを渡してくれた。「仲のよかった人とは会いたいけど、苦手なやつらばっかり出ただろうからなあ」Rちゃんは枝豆をもりもり食べる。たしかにそうだけど、話せてよかったと思う人もいたよ、と思ったが心の中でつぶやくだけにした。中学の同級生に本当に会いたくない友だちもいるだろうし、みんなはもうほかの話題で盛り上がっていて蒸し返すこともなかったからだ。
 ココアに生クリームがのったデザートのようなお酒を飲んでいるSちゃんは、成人式で再会したずっと好きだった人がさらにかっこよくなっていて、また好きになった、と目をハートにして話していた。「いおちゃんはどう?」と聞かれたが、どうもこうもない。わたしは遠くから人のかげにかくれた姿をちらりと見ただけだった。おまけに手紙はわたしだけほかの人から渡された。
 小柄で大人っぽい雰囲気のあるⅯちゃんは、幼稚園から中学校までいっしょだった男子に(中編に出てくるメガネをかけたやさしげな男子。わたしにビールを注いでくれた)「久しぶりに会って、より好きになった。デートしてほしい」と再度告白されたらしい。Ⅿちゃんは小学生や中学生でもアタックされている(表現が古いか?)。「好意は受けとるけど、あいつはなーんかちがうんだよね。恋人として見れないっていうか…。おごってくれるだろうから、デートは行くけど」と物憂げな表情でフライドポテトにケチャップをつけた。
 それぞれのドラマがあったのだなあと思う。同窓会の緊張から解放され、話しやすい友だちと久しぶりに会ってお酒が飲めることに安心して、わたしはここでもビールやハイボールをぐびぐび飲んだ。要するにわたしは、緊張したときも、弛緩したときもお酒を飲むということだ。

 今はまだ人が大勢で集まれない状況で、幹事が学年みんなに声をかけて集まるような大々的な同窓会はしばらくないだろう。もしかしたら、最初で最後の同窓会だったかもしれない。冷や汗ダラダラで、うがうが弱音を言った行きの車中だったが、やはり貴重な経験だったと思うし、行ってよかったと思う。

【今回の教訓】
お酒は緊張した人に力をかしてくれるが、かりたぶんだけ返さなくてはならない(二日酔い)。

ふりかえってみたら、あれは輝く1ページ

 旅行したいけれど、なかなかできない今の世の中。テレビ番組や本で旅行気分を味わっています。最近気に入って見ているコメディ調の刑事ドラマは、遠くで事件が起こると主人公の刑事さんは心なしかるんるんと出かけていく。そして「今度、Ⅿさん(夫の名前)といっしょに来たいわ~!」とすがすがしい空気をめいっぱい吸いこむ。緑豊かな田舎の風景に、事件はどうしましたかと言いたくなるくらいのびのびする。刑事さんの絶妙なコミカルさと、ちょっと旅行気分になれるのが好きで、週に1回の放送を楽しみにしている。

 なんの心配もなく旅行ができるのはまだ先かもしれないけれど、思い出をたぐれば気持ちだけでも旅先である。
 今回たぐってくる思い出は、高校のクラス旅行だ。わたしたちの高校は2年生のときにクラスごとの旅行がある。1~6組まであり、1~5組までは行き先を自由に決められる。6組は理数コースで、このクラスは毎年行き先が北海道に決まっている。ほかのクラスは旅行に学習の要素はないのだが、6組だけは北海道に学習旅行をする。その高校がスーパーサイエンスハイスクールだったからだろうか。6組の面々は旅行の時期になると、6組に入ったことはくやんでいた(もちろんなかには学習旅行を心待ちにする優秀な生徒もいただろうが)。

 わたしは普通コースに入学したのでクラス旅行だった。行き先は大阪・神戸で、行きは新幹線、帰りは飛行機だった。
 旅行は2泊3日で、2日めはグループごとの自由行動だ。グループはクラス内で自由に組む。わたしはいちおう仲よくしていた友だちのグループに入った。いちおうという言い方なのは、そのときは失礼ながら、もっとかわいい人たちと仲よしになりたいと思っていたからだ。彼女たちとの友好をあまり深めてこなかった。もっと彼女たちと仲よくすればよかったと思う。当時は自分のことを棚に上げ(なんだかわたしは自分を棚に上げてばかりですね)こんなあんまりかわいくない人たちといっしょにいたら、わたしもみんなにさけられちゃう、とさえ思っていた。でも、わたしはクラスにほかに話せる人もおらず彼女たちがいなかったらもっとこまった状況になっていたのだ。彼女たちは、わたしが引き気味な態度であることに気づいていたのかもしれない。でも、彼女たちはやさしかったし笑顔だったし、わたしだってほんとうはいっしょにいてたのしかったのだ。当時はまわりの目が気になって、自分の気持ちにおろそかだったと思う。だから、ほんとうはたのしかった彼女たちとの自由行動を書きたい。

 メンバーは5人。まずは、グループのリーダーに即決したAちゃん。彼女は4人きょうだいのいちばん上で、世話好きだ。長女ながら実に頼りないわたしは、よくAちゃんのお世話になり、ノートを写させてもらったりわからないところを教えてもらったりしていた。字がきれいでノートはとても見やすく、人に教えるのも上手なのに肝心の成績がいまいちなのは謎だった。毛量の多いポニーテールが特徴である。
 次はYちゃん。『ぽくぽく日記』に出てくる「急に走り出したくなるときってない?」と美少女風にふりむき、15歳年上のお兄さんをわたしの恋人にどうかとおすすめした人である。チャームポイントは縮毛矯正をかけた黒髪ロングヘア。おしゃれが好きで、クラス旅行は連日凝った衣装を着ていた。
 次はSちゃん。Yちゃんとは小学校からいっしょである。ショートカットが似合う小柄な女の子だ。Yちゃんの乙女チックすぎる発言をぴしゃりと否定するクールさもある。
 次はNさん。Nさんとわたしは小学校からの同級生だ。Nさんは孤高の人っぽく、ひとりで行動することはなにもこわくなく、むしろ人に合わせることが苦手だ。水泳が得意で、プールで毎日のように泳いでいるので染めていないにも関わらず髪が年中茶色い。
 そしてわたし。いろいろと自分を棚に上げるふとどきものだが、このグループだけで行動する2日めはほかの日より心が休まっていた。

 2日め、朝ごはんを食べて自由行動開始。どこかへむかうために電車に乗った(目的地はわすれてしまった)。
 電車は乗りなれた地元の普通列車しかわからない。でも大丈夫。リーダーである世話好きで張りきり屋のAちゃんが、しっかりと調べてくれてあるので、あとの者はついていくだけでいい。Nさんが「いおちゃん、これよかったら」と、しょうゆ味のあめ玉をくれた。なかなか選ばないフレーバーだ。ありがとう、とさっそく食べたのだが酔いそうな味だったので、失礼ながらごめんなさいとそっとティッシュにくるんだ。
 お昼ごはんの時間帯になり、一行はうどん屋さんに入った。わたしはきつねうどんを食べたのだが、だしがきいた関西味でおいしかった。うどん屋さんで「修学旅行生?」と聞かれた。Aちゃんがはきはき答えるなか、のこりの人はうどんをすすっていた。
 お土産物屋さんが連なる道で、中華風な店を見つけた。中華風な雑貨や服がある。ショーウインドウからチャイナドレスをひとめ見たYちゃんは「入りたい!」と鼻息をあらくした。Yちゃんのおしゃれセンサーは旅行中も絶好調だ。中に入ると、色とりどりのチャイナドレスがある。そして「冷やかしでの試着お断りです」との注意書きがあった。Yちゃんはどの色が似合うか迷っている。「これもいいしー、これもすてき」「Yちゃんに似合うの、わたしも探してあげる!」Aちゃんも大はりきりだ。結果、王道の赤のチャイナドレスに決め、店員さんのもとへ進む。「これ、試着したいんですけど」Yちゃんの目の本気度を見れば、冷やかしなんかでないことは店員さんもすぐわかったであろう。赤のチャイナドレスを着たYちゃんは試着室からそろそろと出てきて「どうかな…?」とおずおずと意見を求めた。情熱の赤、いさぎよくスパーっと入ったスリット、これ以上ないくらい体のラインを浮き彫りにするフィット感。われわれがほめたたえたことは言うまでもないだろう。Yちゃんに対して普段は辛口なSちゃんも、旅の高揚感からか「いいじゃんー!」と太鼓判を押した。わたしは、どこで着るんだろうと余計な心配をした。成人式のあとの同窓会で着てきたらインパクトすごいな…とも思った。ちなみにYちゃんが同窓会で着てきたのは、中世の貴婦人のような形のスモーキーピンクのロングドレスだった。帽子やかばんなどの小物も完璧で、ここは舞踏会かと思った。あっぱれ。
 夜になり、夜景のきれいな場所へ行った。かわいい雑貨屋さんや洋菓子屋さんもそばにあり、時間を決めて自由行動することにした。お店をゆっくり見てすてきなお土産を買い、みたされた気持ちで外に出た。集まるまでにもうすこし時間がある。夜景を見ながらみんなを待とうとベンチにすわった。橋や建物がはなつ色とりどりの光がまぶしいくらいだ。高校の三大イベントに数えられるであろうクラス旅行。思いをよせる人に急接近してどきどきしたり、恋人同士は宿泊先のホテルで秘密のあいびきをしたり(言い回しが古い)クラスメイトとしか思っていなかった男子や女子を旅行中のとあるできごとにより意識するようになったり、そういう甘酸っぱい世界がわたしのすぐそばで広がっているのであろう。うらやましい…。神様、わたしにもそんなわかりやすい青春の1ページをください…。きれいな夜景を見ながら遠い目をしているとNさんがやってきた。ふたりで青春のなやみを打ち明けあったり、乙女な恋心を暴露しあったり、とそんな女子高生らしい会話はなく、というかとくになにも話さずにふたりでただ夜景を見ていた。そのうちにAちゃん、Yちゃん、Sちゃんがわいわい話しながらたのしそうにやってきた。「おっまたせー!」Aちゃんの元気のいい声で現実にもどり、みんなでまた歩き出した。
 晩ごはんはなぜかファミリーレストランで食べた。お好み焼き屋さんとかたこ焼き屋さんとか旅らしいごはんがあっただろうに、なぜファミリーレストランに決まったのかはおぼえていない。しかもわたしはそこで今まで食べたことのないトマトリゾットなるものをたのみ、ほかのものにすればよかったわ…と、さらに微妙な気持ちになった。

 旅行からあまり時間がたっていないときは、しけしけメンツのしけしけ旅行だと思っていた。
 しけしけなんかじゃなかったことがわかったのは、大学を卒業して社会でいい感じにもまれてからだ。わたしは、まわりの人と自分を、そして自分の友だちを比べ、地味なことをはずかしく思っていた。そればかりで、彼女たちのよさを見ていなかった。Aちゃんは世話好きで口うるさいところもあったけどいつも親身になってくれたし、おしゃれが好きなYちゃんとは街へ買いものに言ったらたのしかったかもしれない。Sちゃんは写真部と演劇部を兼部していて、作品を見てみたかった。Nさんのじわじわとおもしろい発言は味わい深かった。
 もう一度仲よくしたいと思うときには、彼女たちはそばにいない。けれど、今のわたしの心をあたためてくれている。高校生のころは少女マンがで描かれるような恋模様もりだくさんな旅行にあこがれていたが、わたしが経験したこの旅行だって唯一無二のまぶしいものだと今のわたしは思うのだ。

【今回の教訓】
自分が自分のままでいられる人を大切に。

今さらながら、就職活動は、自分の人生を考えることだった。

 住んでいるところの最寄り駅の近くには有名な私立大学がある。お店も車も人も多い街のまんなかにポンと建っていて、都会だなあと思った。門はとても大きくて、カフェオレみたいな茶色と白の洋風なつくりだ。
 駅のあたりを歩いていると大学生らしき若者とすれ違うことも多い。大学の近くの飲食店がみっちりとならぶ商店街では、就活生にむけた合同説明会のポスターが掲示板に貼られている。リクルートスーツを着た人もよく見る。でも、彼らが大学何年生なのか、就職活動はいつからはじまるのかわからない。わたしがろくに就職活動をしてこなかったからである。

 大学3年生くらいになると、ほとんどの人がじわじわと就職にむけて動きはじめていたが、わたしはどこを吹く風だった。なにかあてがあったわけではない。就職せずにやりたいことがあったわけでもない。就職活動ってめんどうそうだ、みんなしておそろいみたいなリクルートスーツが着たくない、というあほみたいな理由で就職活動をはじめず、自分の将来を考えることから目をそむけてきた。
 しかし、4年生にもなるとさすがに就職活動をやらないとまずいかな、との思いも頭をかすめる。さらに、今までさんざん怠惰に生活してきたことのツケで、単位がギリギリたりるかギリギリたりないかのせとぎわになり、二重に苦しい状況になっていた(自業自得)。

 わたしもなにかはじめなければ…と思いながら、なにもはじめずに4年生の後半になっていたのだからおどろきだ。同学年の人たちは続々と内定をもらい、大学生活にラストスパートをかけている。彼らはスーツがなじんでいるし、顔つきにも責任感と社会性がある。それにひきかえわたしは…としずんでいる余裕すらのこされておらず、今すぐに動き出さなければならない状況だった。
 しかし、それまで就職活動の就の字もない大学生活を送っていたので、なにから手をつけていいのかわからない。わからないが、わからない…とひざをかかえているひまはない。とりあえず、合同企業説明会とやらに出てみることにした。

 説明会の日、会場となっている学内の体育館へ行くと、さまざまな業種のさまざまな企業が小さいブースをつくっていて、それがみっちりと集まっている。これが、合同企業説明会か…。わたしはこれがはじめての参加だった。
 興味のある企業のところへ行って、お話をきき、質問があれば質問もできる。そのシステムはわかっているのだが、初参戦でどこへ行ったらいいかわからず、うろうろしてしまう。興味のあるところに行けばいいのだが、自分の興味さえわからないという情けなさだった。でも、こんなわたしを見すてずにお世話してくださる就職サポート課の方々のためにも、どこかしらきいてまわりましょう、と意思をかためた。

 わたしは混んでいるところが苦手で、説明会でもそれを第一に考えた。それが、ことの原因である。

 最初にお話をうかがったのは、パチンコ屋さんである。
 近くに学生の姿はなく、担当の人はぽつりぽつりと話しながら気だるい雰囲気をふりまいている。「…すみません、お話をうかがってもよろしいですか?」わたしはおそるおそる声をかけた。細身で小柄で若干髪が後退している男性と、スカート丈が短めなスーツに金色の髪の毛のお姉さんがわたしを見上げる。「ああ、はい、どうぞどうぞ~。こちらにおかけください」念のため書いておきたいのだが、パチンコ屋さんに勤めたかったわけではない。ほかの学生の熱気に押され、うろうろするばかりだったので、こりゃいかん、どこかしらに行かなければ、と思ったのである。パチンコ屋さんは空いていたし、パチンコ屋さんに勤める人のお話をきくチャンスはあまりないので、決めたのだ。
 金髪のお姉さんが会社のことや仕事内容などをお話ししてくださった。「以上ですが、なにか質問はありませんか?」ときかれたので、わたしは考えた。質問がないか、ときかれた場合は、よっぽど質問がないのでない限り、なにかしらはきいたほうがいい。応募したいわけではないが、積極性をやしなわねば。「お店で、このお客さん明らかに損しているな、もうやめたほうがいいんじゃないかな、というときには『もうおやめになったほうがいいですよ』などと声をかけることはありますか」お姉さんは、となりの男性のほうを向き、こまったように笑ったあと、わたしのほうに向きなおして「それは、言わないですね」とほほえんだ。

 ありがとうございました、とパチンコ屋さんをあとにすると、自分の質問のおかしさに後悔した。商売なんだもの、損させないともうかれない。「やめたほうがいいですよ」なんて忠告する人は、最初からパチンコ屋さんでは勤めない。

 次に足をとめたのは、なんと消防署である。
 わたしの文章を読んだことのある方ならわかっていただけると思うが、わたしは絶望的に運動音痴である(水泳以外)。球技はボールにもてあそばれてあたりまえ、とりそこねたバスケットボールで指を骨折、マット運動はもってのほか、陸上競技は砂にまみれておわり、とび箱はいつも気持ちだけが向こう側へ着地する。そんなわたしが消防署…。すばらしく運動音痴であり、正義感や使命感は皆無であるわたし。しかし、くりかえしになるが、消防署は空いていたのだ。消防署に勤める気はないが(勤められません)お話をきくチャンスはあまりない。ここに、行ってみましょう(そういうイベントではないのだが…)。

 消防署の方は、わたしが近づくと「なぜ…?」とおどろいた表情が全開だった。無理もないでしょう、見るからに動きがとろそうな女子学生がぽてぽてとやってきたら、マッスル系のお仕事の方はみんなおどろきます。なめんじゃねぇ、とさえ思っていたかもしれない。
 しかし、みんなの暮らしを守る消防士、わたしにもひと通り説明をしてくださった。これは、さすがのわたしも場違い感をひしひしを感じた。本気で消防士になりたい人が来るべきだった…。
 最後に質問タイムになったので、いちおうきいてみた。「運動音痴な人は、なれないですよね?」あきらめの笑顔で「はい」が答えだった。我ながら、おそれを知らないってこわい…。こんなとんちんかんな学生が来るとは、予想していただろうか。

 最後はクリーニング店とドーナツ屋を経営する企業のお話をきいた。唯一のとんちんかんじゃない選択だった。
 その企業について下調べはしていなかったので(どこの企業についてもしていない不出来さ)お話をほうほう、と一生懸命きくだけだったのだが、話している方の目を見たり、メモをしたり、質問をしたりしたところ「やる気があっていい」と言われた。

 この説明会で得たことは、かなりおくれてのスタートだがわたしも就職活動をはじめた、というぼんやりとした自覚だろうか。しかし、あたりまえのことだが、説明会に出ただけでは就職はできない。それもわからないくらいの、こんにゃく頭だったのだ。ぼんやりとした自覚も、単位不足の問題と重なり、さらにぼんやりとしていったのである。
 そんなわたしを、ゼミの先生がお知り合いのいる保育園を紹介してくださり、その保育園がわたしを受け入れてくださった。職員というより園児なわたしは、先生方や子どもたちからほんとうにたくさんの大切なことを教えていただいた。つらかったことも多く、思い出したくないこともたくさんあるのだが、今のわたしがあるのは、保育園で働いた時間があったからだとつよく思うのだ。

【今回の教訓】
自分の未来は「空いている」で決めない。

球技大会は恋の予感

 高校生のころから使っているいちご柄のお弁当つつみがある。白地に赤でいちごが描かれていて、お気に入りの1枚である。
 このお弁当つつみで母のつくってくれた(大学生のとき自分でつくったみそ弁当などもつつんだかもしれない)たくさんのお弁当をつつんできたが、その中でも印象深いのが、高校2年生の球技大会の日の豚丼弁当である。

 わたしが通っていた高校は体育にやたらと力を入れている学校だった(『くすぶり女子』春の試練に書いております)。年に1回行われる球技大会の熱の入りようの相当なものだった。
 わたしは普段の体育の授業の厳しさにもふるえていたが、球技大会にはさらにおびえていた。謙遜一切なしで、わたしは超絶運動音痴だからだ。球技大会というと、クラス対抗の団体戦なので、わたしの実力がみなさまに大いに影響するのがとてつもなく申し訳ない。その高校は、市内のほかの高校に比べて、まだいじめが少ない学校なので、わたしがはてしなく球技ができないからといって村八分状態になることはないが「大丈夫だよ~。ファイト!」の奥にひそむ本音はわからない。

 いくら運動が、とくに球技が苦手でも球技大会は全員参加である。バスケットボール、バレーボール、卓球、バドミントン、このいずれかを選ばなくてはならない。
 ひとりでたたかえる球技はなく(バドミントン・卓球はダブルスのみ)どれを選んでもまわりに迷惑をかけてしまう(ひとりでたたかうスポーツがあったとしてもクラス対抗なので結果的に迷惑をかけるのだが)。だとしたら、せめてボールがあたっても痛さの少ない卓球がいい。バスケットボールは体育の時間にパスを取り損ねて指を骨折したことがあるからいやだし、バレーボールはかたい球が常に空中を飛ぶのがこわいし、バドミントンはサーブすらできない。しかし、球技大会に勝利するためのクラスの戦略で、卓球とバドミントンには経験者をまわすことになった。バスケットボールか、バレーボールか。クラス公認ハイパー運動音痴なわたしをどちらに入れるか、球技大会に燃えるクラスメイトはなやんでいた。結果、バレーボールに決まった。ああ…。いくら球をさわりたくなくても、絶対にサーブをする順番がまわってくるバレーボールですか…。わたしは落胆したが、バスケットボールよりはましだし、ダブルスの卓球やバドミントンをやるとすれば、バレーボールやバスケットボールをやる以上にクラスに被害があるだろう。

 バレーボールに関するわたしの知識は、6人制、3回で返す、ポジションがぐるぐるまわる、サーブの順番が絶対にまわってくる、これくらいだ。球を全部まわりの人にひろってもらって、じゃまにならないように臨機応変に移動するだけで試合がおわればいいのだが、サーブは絶対にしなければいけないので、わたしがサーブのときは確実に失点する。それに、相手チームはわたしをねらって球を打ってくるだろう。
 そこで、昼休みに特訓が行われることになった。チームの戦略は、上手い人が声を出し合ってボールをひろい、返す、いおちゃんの役目はサーブを1球でも相手のコートに入れること、と決まった。中・高とバレーボールをやっている人、中学でバレーボール部だったのでできる人、ずっとテニス一筋だけどバレーボールも得意な人、美術部でバレーボールができる人、帰宅部で球技はどれもそこそこできる人、水泳以外のスポーツは全滅で球技はとくに苦手な人(わたし)といったメンバーで、とびぬけてできない人がわたししかいなかった。それゆえ、メンバーは勝利にむけて気合が入る。わたしも、バレーボールは苦手だしやりたくないが、メンバーの方々がいい人ばかりだったので、迷惑は最小限におさえたい。わたしなりに一生懸命にサーブ練習をするのだがボールはあさっての方向に力なく転がり、手首が内出血であつくなるばかりだった。「大丈夫、大丈夫!いおの近くに来たボールは、全部あたしがとるから!」テニス一筋でバレーボールも得意なKさんが元気よくはげましてくれた。Kさんは(『ぽくぽく日記』に出てきたうるわしのKさんとは別人です)身長が高くて細身ですらっとしていて、性格はさばさばと明るく友だちも多い。少々しめっぽいわたしに対しても、仲のいい人と接するときと同じようなフレンドリーさで話してくれる。その姿は宝塚の男役のようにかがやいていた。

 バレーボールがもともとできるわたしのまわりのメンバーたちは、さらに腕前を上げて球技大会の日をむかえた。わたしはといえば、サーブは打ったところ勝負といった感じの仕上がりだ。つまり、ご指導のかいもなく、進歩していない。
 試合がはじまり、飛んでくるボールをじゃまにならないようによけつづけ、サーブの順番がきたらわたしなりにせいいっぱい打つ。ほかのクラスとはじめて試合をして気がついたのだが、わたしたちのチームはわたし以外は経験者やスポーツが得意な人なので、どうやら強いらしい。サーブだけでもどんどん点数をとっていったし、わたしの位置をねらってボールが打たれてもみんなが声を出し合ってとるので弱点が弱点にならない。点を重ねて、トーナメントを勝ち上がって、気がついたら決勝戦まできていた。「よーし、このままがんばっていこうぜ!!」みんなで円陣を組んだ。
 しかし、決勝戦では動けない人がひとりいるだけで差が出た。わたしのサーブの失点と、わたしがとるしかない位置に飛んできたボールがとれないことでどんどん点がひらき、負けてしまった。あまりにもわたしのせいすぎて、試合終了と同時にうつむいて動けなかった。

 でもKさんが「どんまい、どんまい!あたしたち、がんばったじゃん!あとちょっとだったぜ~」と肩をだいてくれた。わたしがどきどきしたのは言うまでもない。いやいや、そんなことじゃなく、あんなに明らかにわたしのせいなのに、だれか少しでもバレーボールができる人がわたしの代わりにいれば結果は変わったのに、Kさんは負けをあっさり受け入れてカラッとしていた。それはほかのメンバーも同じで「おしかったね~。でも、たのしかった!」とさわやかだった。
 このあとすぐにお昼の時間だった。教室にいったんもどったメンバーたちは「お昼のあとにあるバスケの決勝、いい席で応援しようよ!」「男バレも見たいなぁ」とにぎやかに話している。もう、決勝までいって負けたことは誰も気にしていないようだ。でも、その事実は張本人には重くのしかかる。運動、苦手なのはしょうがないけど、やる気のあるまわりの人に迷惑をかけるのはやっぱりつらいよなぁ…。
 みんなはお昼ごはんをぱくぱく食べていたが、わたしは食欲がわかず…とつづくのが普通だ。でも、Kさんのはげましや、メンバーのみなさんの完全燃焼したから後悔していないという空気にすくわれ、わたしのせいで負けてごめんなさいと申し訳なく思いつつも、わたしだってわたしなりにがんばったし(わたしにしてみればコート内に立っているだけで満点)結果はともかく無事に競技をおえることができたのではればれとした気持ちで、おなかもいつも通り空いていた。
 そのときのお弁当が豚丼で、いちご柄のお弁当つつみにくるまれていた。試合では直立しているか、ボールをよけるか、サーブをしそこなうか、だったが、それも気がはって体力が使われる。縦横無尽に走って、ボールを巧みにあやつるみなさんと同じくおなかが空くのですよ。わたしは豚丼をもりもりとかきこんだ。「どんぶりか~、うまそうじゃん!」Kさんの明るい声に安堵する。球技大会の日の豚丼は、わすれられない豚丼である。

【今回の教訓】
わたしが打つしかない球がある。

ナイスバディであっても、なくても。

 なかなか出かけられない今、育った町や旅行した県や行ってみたい場所を心に思い描く。その景色には、ひとり暮らしをしていた(させてもらっていた)町もある。

 住んでいたアパートの近くには、とてもお世話になっていたお総菜屋さん兼魚屋さん兼お肉屋さんがあった。そのとなりには100円ショップとドラッグストアが建っていて、道をはさむとコンビニやうどん屋さんや新しくできたジェラート屋さんもあった。アパートから徒歩5分くらいのところには本屋さんがあって、休みの日お昼寝をしたあとなんだかさみしい気持ちに支配されそうになると、よく立ち読みに行っていた。15分ほど歩くとスーパーや喫茶店やお洋服屋さんや雑貨屋さんやファストフード店が入った大きめの建物があって、かわいいものやおいしそうなものをながめたものだった。

 その、いろいろなお店が入った建物のなかに下着屋さんも入っていた。ナイスバディなマネキンが着けているかわいらしかったり、色っぽかったりする下着は魅力的だった。しかし、ナイスバディなマネキンや実際にナイスバディな人が着けるから魅力的なのであって、ナイスなバディも色っぽさも持ち合わせていないわたしが着ても意味がないと思い、いつも通りすぎるだけだった。
 でも、あるときなぜか、すてきな下着を着けてみたいという気分になった。付き合う人ができたとか好きな人ができたとか、そんな明確な理由があったわけではない。それまで身に着けていた1000円ブラジャーがゆるゆるになってきたこともあるし、1000円ブラジャーのホールド力に不信感をいだいてきたこともある。高いホールド能力で支えてもらうだけの豊かなバストではないのだが、いくら貧乳でもたるんだおちちは二度ともとには戻らないと聞く。そういう思いがぼややーんと潜在的にあって、ある日、表に出てきたのかもしれない。

 それまでサイズをはかったことがなく、たぶんこれくらいだろうのサイズのものを買っていたので、店員さんにはかってもらった。はかってもらうときって、メジャーがとても冷たいですよね…。人肌のぬくもりのあるメジャーがあったら売れるかしら…と思いましたが、はだかではかってもらうことってあんまりないですかね。
 サイズがわかったので、これがいいかしらと決めておいたブラジャーの自分のサイズのものをとってきて試着してみる。やはり1000円のものとはちがい、わたしの貧乳も心なしかサイズアップした。これを買うことにいたしましょうと試着室のカーテンを開けると「おそろいのショーツはいかがですか」とお姉さんがたずねる。わたしはブラジャーだけでよかったので「これだけで大丈夫です」というと「でも、それではコーディネイトしにくいですよ」とさらにすすめてくる。下着でコーディネイト…。そんなことは考えたことがなかった。お洋服を買うときは、似合うかやかわいさも大事だが、それよりも腰が出ないかを重視して、おなかが冷えないようにあったかパンツを愛用しているという色気のなさのわたしである。「ああ、ほんとうに、これだけで大丈夫です」とこたえると「そうですか」とお姉さんはちょっとあわれむ表情でブラジャーのみをレジへ持って行った。

 ときは流れ、今は下着がそろっていることもある。生理前後など、おなかをあたためたいときはへそまでパンツである。寝るときはいつもはらまき、服は腰が出ないものをあたたかく着て、あったかパンツ愛用なのは変わらない。

 おととしあたりから着ている下着は、色の選択肢はあまりないが、しっかりしていてへこたれないので、とても信頼している。
 買うときにサイズをあらためてはかってもらったのだが、その下着屋さんでぴっちりはかってもらったら実は2サイズも上だったがいるので「わたしももしかしてCカップかもしれない…!」と胸が高鳴ったが、結果は安定のAカップだった。

 ちなみにわたしの母は胸があるほうである。小学生くらいまでは「大きくなれば、わたしもあれくらいの大きさになるのか~」とぽやーっと思っていたが、中学生になっても高校生になってもふえるのは体重だけだった。
 付き合っているころ、夫に「今さらだけど、貧乳でごめんね~」と冗談であやまると「なんでそんなこというの…!そんなこといういおちゃん、いや!!」と強い拒否反応を示した。妹に話したところ「そりゃ、よっぽど貧乳を気にしているな。今まで気にしないようにしていたのに、ふれられてしまったから…」との見解である。

【今回の教訓】
下着屋さんのマネキンにはモデルもかなわない(はず)。落胆せず、すてきな下着で心おどる。

ビールと夜風が彩るお祭り

 2年前の初夏、3日間ある育った町のお祭りの3日めが悪天候のため中止になった。大雨と強風だった。
 そのお祭りは駅を少し進んだところにあるお堂にまつられている神様に由来するらしい。町の商店街に露店がひしめき合う。今はほとんど食べものの屋台だが、わたしが中学生くらいまでは金魚すくいやカメすくい、アイドルやキャラクターのくじにおめんにふうせんといった屋台も多かった。ガラス細工のお店もあって、陽の光や夜の明かりに照らされて輝く様子がとてもきれいだった。
 今はほとんど食べもの屋さんだよねぇなんてぼやきながらも、大人になって、ビールをごくごくっと飲んでから歩くお祭りもたのしかった。数年前、屋台に面している道からすこし引っこんでビールを飲んでいると、はしゃぎすぎた小学生男子がもどしていた。まわりの友だちが心配そうにかこんでいる。彼の気持ちはよくわかる。年に一度の大きなお祭りだから、体がついていかないほど興奮してしまうのだ。それは大人も同じで「これ去年も見たよな~」などと冷めたトーンでつぶやく人も、内心では「ひゃっほーう!」と浮かれているはずだ。
 そんなみんなが待ち遠しく思うお祭りの3日めが中止になった。翌日の新聞によると、中止になったのははじめてのことだという。毎年3日間続いてきた歴史の長さと、悪天候で中止という偶然の不運にしばらく頭がぼうっとした。でも、来年もあるよねと気持ちを前向きにした。
 しかし、その「来年」は世界中でかのウイルスが大流行して、お祭りはまたも中止となってしまった。このお祭りで1年を感じていたといっても過言ではないわたしはかなりショックだった。1年後の今も流行がおさまらず、今年も中止が決まったそうだ。
 
 前向きになろう、明るくいようと思っても、なかなか心は動いてくれない。無理はないだろう。これだけ毎日ニュースで取り上げられれば、いやでも不安があおられる。
 そんな今、なんの力も持たないかもしれないけれど、わたしの文章を読んでくださっている方が、お祭りでのくすぶりエピソードで気をゆるめてくださったらうれしいと思ってつづります。

 高校1年生のとき、部活で同学年だった全員で連れ立って歩いた。高校は屋台が並んでいる通りに近く、部活がおわったあとみんなで行ってみようということになったのだ。
 吹奏楽部だったのだが、10人くらいの新1年生が入部した。
 新入部員の中には男子が2人いた。そのうちのひとりJくんが、Aちゃんという女の子と好きなアニメの話題で意気投合し、付き合っていた。ふたりの熱愛ぶりは今もありありと目に浮かぶほどだ。
 まわりの視線を一切気にせず、ねこのまねをし続けるふたり。合奏の最中もアイコンタクトを頻繁にとりあうふたり(ウインク含む)。お弁当をおたがいに食べさせあうふたり。うしろから相手の肩をたたき、ふりかえったときほっぺたをつんとさわり、じゃれ合うふたり。
 まわりの部員たちは、彼らのあまりのラブラブぶりにあきれるのを通り越して、尊敬さえしていた。
 お祭りは、彼らは個別で行ったほうがいいのではないかと同学年のみんなが思ったが「みんなで行くお祭りも、わたしたちの大切な思い出」と彼女がいったので、全員で行くことになったのだった。
 露店が出ている道を歩くと「Aたん、歩きにくくない?」「大丈夫だよ、Jたん、ありがとう♡あ、わたしレインボーアイスが食べたいな」などとラブオーラをすぐさま出して、ほかの部員たちの存在をシャットアウトした。こんなにふたりの世界にいるのに、みんなで行くことにこだわる理由はあったのだろうか…。

 高校2年生のときは、家が近くのYちゃんといっしょに出かけた。
 Yちゃんは小学校と中学校がいっしょだった。小柄でメガネをかけていて、絵を描くことと工作が得意な泣き虫さんである。
 Yちゃんとは、小学6年生のときもいっしょにお祭りに行った。そのときは、ほかに2人いて、全員で4人だった。小学生までは6時の鐘が鳴ったら帰らなくてはならないのだが、だれかがなにかをなくしたのか、6時をすぎてもまだお祭り会場にいたことがあった。お母さんに叱られる可能性の高さを感じたYちゃんは「お母さんにおこられるーーー!はやく帰んなきゃーーー!!」と絶叫しながら露店の続く道をひとりで突っ走って帰っていった。そのあまりのスピードにほかの3人はただのこされただけだった。
 高校生にもなると、おしゃれな人は化粧をはじめて大人びた印象になるが、わたしたちふたりは化粧なんてまだまだしていなかったし、服装も小学生のころとあまり変わりがない。そのせいだろうか。きれいだなぁと立ち止まったトンボ玉のお店でアクセサリーをながめているとお店のお兄さんに「きれいだろうけど、高いからねぇ。よーく考えてから、また来てね」といわれた。これは、完全に小学生だと思われている…。苦笑いをして、青いトンボ玉のついたヘアゴムを手にとる。「これください。わたし、いちおう高校2年生なんですよ」お兄さんの反応はおぼえていない。
 お祭りでの話ではないが、Yちゃんが幼く見られたときも印象深い。
 中学生のとき、いっしょに図書館に行った。Yちゃんの貸し出しカードの期限が切れていて、更新することにしたのだが、受付のお姉さんに「住所と電話番号を書いてください」といわれたYちゃんは緊張のせいか思い出せなくなってしまった。凍り付くYちゃん。「ねぇー!うちの住所ってなんだっけー!?」と小声で聞かれたが、もちろんわからない。書けないことに気がついたお姉さんは「まぁ、今回だけは書かなくてもいいですよ。次はちゃんとおうちのこと書けるようにしてくださいね」といって、カードを更新してくれた。
 カードを受け取ったYちゃんは早足でその場を去り「どうしよう!わたし、絶対小学生だと思われた!どうしよう!」と半分パニックになっていた。そんなYちゃんを見ながら「それはしかたないだろう…」と冷たいわたしだった。

 社会人になってからは、職場の人と行ったこともある。
 お祭りの2日めで、その日は当時付き合っていた人と行く約束をしていた。その人とは付き合って2年くらいで、ちょっと合わないなと感じるところもあったが(カニについての価値観、カニ観など)いっしょに行くのをたのしみにしていた。
 その日は平日で、仕事が無事おわることを祈りながらすごしていた。当時勤めていたのは保育園で、保育園では何事もなく1日がおわることが少ない。でも、その日はだれかがけがをすることもなく、けんかがおこることもなく、よかったーーー!と安堵していた。
 就業時間まで少し時間があった。泥遊び用の下着や服に記名しておいてくださいといわれていたので、それをやることにした。園では、泥遊びが取り入れられることになり、専用の下着を園で大量に買った。服は、汚れてもいい服を各家庭から持ってきていただいた。その下着や服に油性ペンで大きく「泥」と書くのだ。園にはふつうの着替え(子どもの私物)も常に置いてあるので、洗濯したときにごちゃごちゃにならないようにするためである。
 下着や服に「泥」と大きく書くのは、なにやら背徳的な気分だ。パンツに書くときはよくわかるように股間部分に書いた(今思えば、おしり部分でも十分わかるだろうと思う)。股間部分に大きく「泥」と主張するパンツをみんなではいて泥遊びするというシュールな光景を思い浮かべた。
 持ってきていただいた服に「泥」と書くときは少し緊張した。汚れてもいい服とはいえ、園の服ではないからだ。どきどきしながらも、リズミカルに「泥」と書いていくうちにハイな気分になり、この調子ではやく仕事をおわらせようとペンを持つ手に力がみなぎった。
 何枚の服に「泥」を書きおえたときだっただろうか。
 これ、きのうあたりに○○くんが着てた服だよねとうっすら思いはじめた。
 そういえば、これもつい最近見た服のような気がする。机に広げたズボンを見つめる。
 胸の鼓動が急激に速くなる。これは、まさか…。とても嫌な予感がした。
 職員室に行って、まだ「泥」と書いていない服を見せて「これ、泥遊び用の服じゃないですよね?」わたしは、声も手もふるえていただろう。
「ああー、そうですねぇ。きのう洗濯したうちのクラスのだわ」その瞬間、泣きくずれてしまった。泥遊び用の服とそうでないふつうの服がたたまれたときに入りまじり、わたしはその服に黙々と「泥」と書いていたのだ。しかも、油性の太い黒のペンである。汚れが落ちる希望がほとんどない。
 わたしは泣きながら、ほかの先生と服を洗った。でも、でかでかと書いた黒い文字はうっすらともしてくれない。結局、親御さんがお迎えに来られたときに直接あやまった。
 ああ、わたしが余計なことをしなければ…と後悔した。少し時間があるからと手をつけた仕事でこんなことになってしまうとは…。
 穴があったらすすんで落ちるくらい落胆していたわたしを、明るくて子どもからも人気で、仕事もできてムードメーカーな主任の先生が「そーんがに気にしなくてもだいじょぶだこってーーー!(方言)園に持ってくる服は、少なくともお出かけ着じゃないんだからさ!」とはげましてくれた。そして、わたしをなぐさめるために職員室にいた予定の空いている人たちでお祭りに行くことになった。付き合っていた人との約束をわすれたわけではないが、こんなことになってしまった以上、いっしょに行く気力はもうない。電話越しで彼は「ええー、なんでだよ?泥のパンツって、なんだよそれ?」と不機嫌な声を出していた。
 職場の人と歩くお祭りは新鮮で、わたしは少しだけ元気になった。明日も親御さんにあやまらなければならないことを考えるとゆううつだったが「命にかかわることじゃないんだし」とポテトをほおばった。
 これが、伝説の「泥パンツ事件」である。

 今度このお祭りに行けるのはいつだろう。来年は、今より状況はよくなっているのだろうか。
 先のことはだれにもわからない。でもほんとうは、明日のことだって、すぐ先の、1秒先のことだってわからないのだ。
 だから、不安やかなしみで心をうめつくすのではなく、日々起こるちょっとしたうれしいことやたのしいことで毎日をカラフルにしたい。
 お祭りで人がみちみちになる日常は遠いのかもしれないけれど、その日常がもどるまでも笑っていたい。だから、わたしは文章を書きたいのだろう。『くすぶり女子の教訓』も『ぽくぽく日記』も、これからもよろしくお願いいたします。

【今回の教訓】
お祭りの夜にハプニングはつきもの(AちゃんとJくんについては想定内だったけど)。

できたこともあるという確かな記憶。

「球技大会は恋の予感」にて、わたしがいかに球技、ひいては運動が苦手であるか書いた。
 運動全般が苦手であるわたしがとくに苦手とするのは、団体で行う球技とマット運動ととび箱だ。今回は、マット運動ととび箱でのくすぶりをふりかえってみたいと思う。

 まずは、マット運動だが、前転と、がんばって後転ができるくらいの実力である。しかし、前転と後転という基本の技も、正しいフォームでやろうとするとけっこうむずかしいので、実はなにもできていなかったかもしれない。
 マット運動は、回転にすぐ酔ってしまうのと、首をいためないかが気がかりで、体育の時間はいやな汗をかきっぱなしだった。
 中学2年生のころの話である。
 マット運動の単元のしめくくりとして、テストが行われることになった。自分ができる技を5つ組み合わせて、長いマットの上で披露する。
 テストがあることですでに十分ゆううつだが、5つの技というのがさらにわたしを悩ませた。前転、後転、開脚前転、開脚後転。やっとできるのがこれら4つで、ひとつたりない。そして、そのひとつは、どうしても倒立系の技を選ばなくてはならない。倒立系の技をひとつ以上入れることがテストの決まりだからだ。
 わたしは、体育教師をにくにくしく思った。ふだんあれだけわたしのできない姿を見ているでしょうに…。
 でも、テストは来るのだから、できるかぎり練習してみましょう。体育教師の無意味な威圧感に屈するまいと、回転でよろよろしながら決意した。

 5つめの技は倒立前転に決めた。倒立前転しか選ぶことができないと言ったほうが正しいのかもしれない。倒立系の技のなかでは、倒立前転がいちばん難易度が低いからだ。
 壁倒立ができれば、まだできる見込みがあるが、壁倒立はできない。じわりじわりと壁を足でのぼっていくことはできるが(これができてもなんの練習にもならない)壁に向かって倒立をするのは恐怖心があってできない。
 まわりを見ると、みんなバンバンと壁倒立をしていて、あせる。友だちに、両方から支えてあげるからとスタンバイされても、こわいのと、いまいち信用できないのとで(失礼)思い切って脚を蹴り上げることができない。学校での倒立の練習ははかどらなかった。

 だから、母に付き合ってもらって、家で倒立の練習をした。寝室で、倒れても痛くないようにふとんを敷きつめた。
「いおちゃん、目!目線でバランスがとれるの!むこうを見ない、下を見るのよ!」
 母はわたしより運動ができる。学生のころは、倒立前転もできたし逆上がりもできたし持久力もある。母指導のもと、わたしは着実に上達した。壁に対してはこわくてできないが、学校でも、誰かがひとり支えてくれれば、なんとか倒立の姿勢になることができた。

 テストまでの時間では、そこまでが限界だった。
 テストのときは、介助者をつけることはできないので、倒立前転は脚がすこし上がったくらいの前転という出来だった。テストの点数はわるかっただろうし、実際通知表では2をとった。
 でも、脚を蹴り上げて、倒立したときの体の感覚や景色はわすれられない。

 とび箱でのできごとは、小学5年生のときである。
 5年生のときの担任の先生は、水曜日の放課後に「かがやきタイム」という時間をつくった。子どもたちそれぞれの苦手なことを先生が教えてくれるという時間だった。苦手なことは、たしか自分たちが申告するのではなく、先生が判断していた。
 わたしの苦手は「とび箱」となり、ある水曜日に同じくとび箱が苦手なMちゃんといっしょに特訓した。
 Mちゃんもそうだったのだが、低いとび箱が横に置かれていれば、跳ぶことができた。問題はたてに置かれたときで、これはどんなに低くても跳べない。
 先生は手をつくべき位置にテープをはって、とび箱の横でかけ声を出しながら教えてくれた。とび箱は、手をつく位置と体重の移動、ついた手を押し出すことができれば跳べると教わった。
 小1時間練習すると、たての4段も楽々跳べるようになり、Mちゃんとよろこんだものである。

 これでとび箱はOKと調子にのったが、もともとは運動音痴なので、かがやきタイムから時間がたつと、まんなかあたりに着地するというもとの状態にもどっていた。
 あああ~と残念に思ったが、あのときはたしかに跳べたのだ。リズムよく踏み切って、とび箱の向こう側に行けたときの感覚はわすれられない。

 運動が得意な人は、体の感覚の記憶力がいいそうだ。ここをこう動かせばこうできるということを、すぐつかむことができるということだろうか。
 ほんのすこしできるようになっても、ちょっと時間をおくとすぐにできなくなってしまうわたしは、たしかに感覚の記憶力がわるい。
 でも「ああ、できた!うれしい!」という感情は、これからも薄れることはないだろう。

 ちなみに、かがやきタイムをつくった5年生のときの担任K先生は、背はそんなに高くないが、サラサラでこげ茶の髪になかなか整った顔立ちだった。バスケットクラブの指導もしていて、シュートを打つ姿はさわやかであった。男子には少々きびしく、わるいことをした人には容赦なく蹴りをいれていた。野菜嫌いなクラスメイトに対しては有名なあの曲で「野菜をください」という替え歌をつくり、からかっていた。K先生は漬物が苦手で、浅漬けや福神漬けが出ると、今度は子どもたちから「漬物をください」を歌われていた。
 MちゃんはK先生のファンのようで、かがやきタイムをよろこんでいた。男子を叱り、こわい目で蹴っているときも「かっこいい~」と目がハートになっていたので、わたしはMちゃんの将来を心配した。

 とび箱のときの中学校のI先生は、独自のファッションを貫く先生だった。
 学生時代はバレーボールをしていたそうで、そのころのジャージなのか、色合いといいサイズ感といい昭和がただようジャージをいつも着ていた。妙に発色がよかったり、二の腕や太もものあたりが少々ダボついている感じである。
 夏は太ももを堂々と出した短パン(駅伝のユニフォームくらい)冬は足首がすぼまった長ズボンで、オールシーズンズボンのウエストについているヒモをきゅっと蝶結びにしていた。そして、それをズボンから出している。年頃は40代~50代、背はわりと高くほどよく筋肉がついた体型で、短髪でメガネをかけている。
 I先生は、わたしが2年生のころまでは女子バレーボール部の顧問だったのだが、3年生になったときに男子バスケットボール部の顧問になった。男子バスケットボール部は、他校に練習試合に行くと毎回のように顧問について聞かれたそうだ。
「あれ、お前らの顧問?」
「…ああ」
「なんか、すげぇな…」
 そんな感じで試合がはじまったそうである。

【今回の教訓】
運動音痴のわたしを支えてくれているたくさんの方々に感謝。

くすぶり女子の教訓

くすぶり女子の教訓

過去のわたしの、無様でどうしようもなく、しかしそっと笑えてためになる(?)エピソードの数々をつづろうと思います。過去の自分に伝えたい。そのくすぶりはのちのちネタになるので、安心してくすぶってくれ、と。 マット運動・とび箱編書きました。よろしければ、ご覧ください。

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更新日
登録日
2021-02-22

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