呼吸を忘れた
ゆりかご
目覚めたら真夜中に放り出されていた少しだけ海の底に似ている冷たさに震える指。君が見た記憶の断片にライターで火を点けたとき母親の面を被った誰かに触れられた皮膚がちりちりと痛んだ。肉の裏側に潜む何かが次第に黒い滲みをつくってゆくのただ眺めている頃の人間としての営みを忘却しはじめていると気づいた瞬間に死にたくなるやつ。絵画のなかのクジラはやさしい。僕のからだがいつか君のものになる日。胃。肺。骨。血液の一滴すらも。揺蕩う。
始まる前に終わる
もう幾つかの生命が土壌となり形成した星で私と君は無様に肉体だけを重ねて精神だとか心なんてものは一度も触れ合うことはなかった。朝の白々しさに吐き気を覚える土曜日は気まぐれにつけたテレビの囁きにも似た音量さえ煩わしくコーヒーを淹れるために沸かした電気ケトルの表面の温もりが妙に心地よかった。君が時々いたずらみたいに吸っていた煙草の吸い殻をダストボックスに流し込む瞬間は清々しくも虚しくもありつまりは明確に空白だった。恋と愛なんてものが私と君のあいだに存在していたとしてその存在をみとめる私を君が馬鹿にしたように嘲笑う想像は容易く恐らく一生交叉することのない平行線のまま私たちは死ぬ。
僕の一等星
やわらかな春を踏み躙る知らない誰かの足音が甲高い奇声のように鳴り響く街の隙間で安らかな眠りを求めている君の瞳のなかの星が永遠に硬質なものとして光ってればいい。もうすぐ終わる冬の脆弱化してゆくばかりの透明な肉体をそっと支える掌には何も残らないで高層ビルからの人体の落下速度が克明に記録される世界では昨夜の夢だけが独りよがりの想像に寄り添う。真夜中のハムエッグ。喫茶店で注文する時の妙な高揚感。時代遅れなラブホテルの部屋で観た比較的あたらしめの流行りの映画のどこかちゃちな感じ。つめたいシーツを泳ぐ君だけに反応するサーモグラフィー。僕だけが信者。
呼吸を忘れた