その男の勝利

 思いのほか仕事がはかどり、昼間の三時ころ後藤と川崎は国道沿いの喫茶に入った。後藤が若いころからある、古い喫茶だった。急に事務所をあけることになった、ついては複合機のメンテナンスをキャンセルしてほしい。そんな電話が彼らに突然の空き時間をもたらした。キャンセルは今日回らなければならない予定の最後だったから、どうにも時間が出来てしまった。正直に会社に帰ってもよかった。けれど会社に帰って報告を書けば仕事が終わってしまう。そんなに仕事を早く終えてしまっては何か押し付けられるかもしれない。そこで後藤の知る喫茶へとっさの判断で車を滑り込ませる。それ以上行くと、誰か顔みしりに会うかもしれない。そんな場所にある喫茶店だった。
 この日は一日中雨で、まるで夕立が朝からずっと続いているような天気だった。おかげで連日の猛暑は影をひそめていたが、駐車場にとめた車から喫茶店に入るほんの少しの距離で雨に濡れてしまう。傘をさしていても、風があって雨が横から吹き付ける。後藤のだぶっとしたスーツのズボンは雨を吸い、濡れたところはこげ茶が黒になった。川崎の細身でストライプのズボンは水を見事にはじいている。二人ともスーツのジャケットは車の後部座席に放ったままだった。喫茶店の入り口の屋根に二人身を寄せ合いながら傘をとじていると、後藤の出はじめたおなかが、川崎の細い体と並んで目立ってしまう。
 後藤は慣れた足取りで店の中を歩き、窓際に並ぶテーブルの一番奥にある喫煙席に座る。川崎も後藤のあとから来て座る。後輩の川崎は時間つぶしなんてやめましょうと後藤に言うが、こんなキャンセルがもし途中で入ったら会社に帰るよりもどこかで時間をつぶしたほうがいいことだってある、などと、まるでそれも研修内容だと言わんばかりに後藤は話した。川崎はそんなことまで引き継がなくてもいいですよね、などと言っている。
 後藤は無言で濡れたズボンのポケットから煙草と鍵束を取り出すと、鍵だけをテーブルに置いた。そしてしわくちゃになった煙草から一本出して口にくわえ、ライターの火を近づける。湿気ていて、思うように火がつかない。
「川崎、灰皿……」後藤が川崎の目の前にある灰皿を指差して言ったその瞬間に、川崎は後藤のほうへ灰皿をさし出している。「……ありがとう」
「いいえ」と川崎。
 二、三回ライターにかざした煙草はようやく火がつく。彼は深く息をついて、煙草の香りとニコチンを楽しむ。体を弛緩させ、後藤は満足げに煙を吐き出した。煙を吐くときは川崎をよける。後藤はよく川崎に向かって無意識に煙を吐いては彼を怒らせた。顔をよけるようになったのは最近だ。
 川崎は煙草を吸わない。後藤より十以上年下の彼は髪を短く刈っていて、前髪を立てている。職業柄、髪は黒いままだ。湿気が多く重い雲に覆われた今日も、頭髪の周囲はからっとした風が吹いていそうな男だと後藤は思う。眉は嫌みのない程度に整えられ、髭はそり残しがなく毛穴も目立たない。肌の油分は適切にコントロールされているのか、顔のてかりも少ない。太っていないが、とはいえ痩せているわけではない。男性的な筋肉を適切に残した細身の体をしていて、その胸囲にぴったりあった白いシャツを着ている。ネクタイの結び目は小さく、幅も細めのものをよくつけている。
 川崎は控え目に伸びをすると、メニューを開いて見た。
「後藤さん。コーヒー、ホットでいいですか?」
「あ、うん。たのむ」
 川崎は体を横に倒して厨房のほうを眺める。奥まった喫煙席から店の中央にある厨房は少し見えづらかった。注文をしようと川崎は店員を探すが、手の空いているものはいなかった。平日で雨にもかかわらず禁煙席では婦人らが集まっていて、店員が忙しそうにしていた。駐車場は広いが店は小さく、ここは元来店員も多くなかった。川崎がしばし様子を見ていると、奥から一人若い女性の店員が出てきた。川崎はその女性に手を伸ばして合図する。女性店員は笑顔を返したので川崎は合図した手を戻した。その女性店員は一度奥に戻っていった。川崎は彼女が再び姿を見せるだろうと待つが、その女性店員はなかなか表に出てこなかった。
「あれ? いま店員呼んだよね」と後藤が後ろを振り返って川崎と一緒に厨房のほうを見る。
「呼びましたけど、向こうの禁煙席が賑やかですから」
「確かに、珍しく忙しそうだな。いつも人なんかいないのにね」
 後藤はそう言うと体を戻し、二本目の煙草に火をつけた。濡れたからだが強めに効いた冷房で冷やされ、後藤は少し寒気を感じる。
「ちょっと冷房強いね。濡れたからそう感じるのかな」
「そうです? 冷え症なんですか、後藤さん。ジャケットとってきますよ、車から」
「いいや大丈夫。そこまではない」
「後藤さん、この店によく来るんですか」
「ああ。この町じゃあ、コーヒー出すところもここだけだから」
「休みの日とかもですか」
「暇な時はね」
「ここで何するんですか、いつも」
「小説を読む」
「ほんとですか。意外です。後藤さんが小説読むなんて」
「嘘に気まっとるだろ」
「ですよね」といって川崎は笑う。
「『ですよね』と納得されるのも、なんかあれだな」
「すいません」
「まあ、べつにいいけどさ」
 二人が話していると、若い女性店員が水の入ったグラスをトレイに載せて持ってきた。彼女は水の入ったグラスをテーブルに置いていく。
 後藤は何気なく彼女の手を見ていたが、その一連の動作が少々ぎこちないことに気がついた。グラスの氷が大きく揺れ、テーブルに着くときの音が少し大きく響いた。接客に慣れない新人店員のような所作に、思わず新しい人間を雇ったのかと思い女性の顔を見るものの、そうではなく、その顔は後藤が幾度となく見たことのある店員だった。後藤はその女性の名前までは知らない。ただ顔を知っているだけだった。後藤は改めて店員の手つきをそっと見る。どこかたどたどしい様子だった。後藤は店員に対する違和感を消せず川崎を見るが、川崎は彼女を見ながら笑顔でホットコーヒーとアイスコーヒーを注文した。女性店員は注文を聞くとすぐに戻っていった。
「あの店員さん、何か動作がぎこちなかったように思うんだけど。具合が悪いのかな」後藤は川崎に言う。
「後藤さん。あの女性は前もそうでしたよ」
「前も? 前?」
「梅雨のまっただなかに後藤さんと一緒にここに来たじゃないですか。ちょうど今日みたいな天気の日ですよ」
「ああ。先月?」
「後藤さん今、忘れてましたね。まあいいですけど、その時もあの女性がいましたよ。手が変に震えていたから、大丈夫かなあと思ったんです。それでよく覚えています」
「前からか。そうか。気付かなかったなあ」
「自分、あのとき初めてこの店に入ったんです。初めてって言うのと、若いのに手の震える店員が重なってよく記憶に残ってます。不思議な店員だなと。見た感じ新人さんじゃないですしね」
「そう。俺、あの子がいるとき何度も店に来ているんだけれどな」
「気付かなかったんです?」
「うん、気づかない。俺のところに来なかったんじゃないかな」
「そうですか? 後藤さんが気付かないだけですよ」
「まさか。彼女が注文を取りに来たら覚えていると思うんだけれど」
「へえ、そうなんです?」
 後藤は少し不安そうな顔になる。
「俺は観察眼に欠けるのかな」
「きっとそうですよ。それだから後藤さん、その年で女性に縁がないんですよ。もう三十代も終わるんでしょう」
「女性に縁がないなんて、出まかせ言うな」
「じゃあるんですか」
「うるさい、生意気な」
 後藤はわざと煙を川崎に吹き掛ける。川崎は笑って体をのけぞる。
「でも、後藤さん。あの子は一度見たら忘れませんよ。ちょっと変だけど可愛いですよね。自分、結婚してなかったらチェックリストに入れてますよ、きっと」
「なんのリストだよ。結局可愛いから覚えていたんだろう」
「まあそうすね」川崎はへらへら笑った。
「なにが『そうすね』だ」
「でも、後藤さんもそうなんじゃないですか」
「俺? 俺は違うよ」
「後藤さんがよく店の店員を覚えているなと思って。きっと何か印象が強かったんでしょう」
「ここの店員なんて限られてるからな。よく来てりゃあ、覚えるだろう」
「よく来るのも、きっとあの子に会うためでしょう」
「違うよ。俺とお前を同じにするな」
 そう言って後藤は背もたれをつかむ格好で体をよじり、後ろを向いて厨房のほうを見る。注文を取りに来た女性店員は忙しく動き回っていて、後ろに束ねた髪が動きに合わせて揺れている。背筋がすっと伸びていてすがすがしかった。一つコーヒーを淹れると彼女はそれをトレイに置いて運んだ。後藤のほうへと歩いてくる。彼女の動きを追うと、視界にダークスーツを着た男が目に入る。テーブルひとつおいて、後藤の後ろにひとり座る男性だ。ケーキの食べかけがテーブルに置かれている。女性店員が向かうのはその男だった。彼女がトレイの上のコーヒーをテーブルに置く。その動きはとてもなめらかでちゅうちょのないものだった。ソーサーの上に添えられたティースプーンがずれることもなかった。その男の前に熱いコーヒーがとても自然に差し出される。代わりに空のコーヒーカップが下げられる。彼女は小さな会釈をして男のもとを立ち去った。会釈のあとにした笑顔は、その場に彼女の余韻を残したようだった。後藤は彼女のしぐさを見てしまうと体を戻したが、大きな違和が残っていた。ダークスーツの男にコーヒーを差し出すときの様子は、後藤らの席に来た時と違った。
 川崎もその様子を見ていた。二人は思わず顔を見合わせる。
「後藤さん、彼女はきっと後藤さんが苦手なんですよ」と川崎が口を開く。
「え、俺なの」
「だって、いまの見てたでしょう」と川崎は後藤にしか見えないようにしてダークスーツの男のほうを指差した。「どうしてこのテーブルに来た時とは愛想の出し方があんなに違うんですか。あっちでは愛想全開でしたよ。俺たちには出し渋っていました」
「たしかにそうだな」
「彼女ここへ来た時小さな会釈しました?」
「した、いや、しなかったんじゃないかな」
「しなかったですよ。またうろ覚えで言ったでしょう」
 後藤は川崎から目線をはずして首筋をぽりぽりかく。川崎は小さくため息をつく。
「それにあの男のところでは動きがよかった。潤滑油を新しくした感じ」後藤が続ける。
「潤滑油って、まあそうですよね。自転車のチェーンに油をさした後の漕ぎ味のなめらかさというか」
「うーん」
「うーんって。せっかく後藤さんのたとえに乗ろうとしたのに」
 川崎は頬杖をついて雨の打ちつける窓ガラスを眺めはじめた。しばらく彼はそのままでいたが、突然頬杖を解いて後藤を見る。後藤は何かと思う。
「後藤さん、彼女は煙草が嫌いなんですよ。煙草」川崎は得意げにその発見を述べた。
「なるほど」
「煙に耐えられないんです、きっと。いがらっぽいし匂いはきついし。それに副流煙は主流煙よりも発がん性が高いんですよ」
「知ってる」
「だから彼女は近づきたくない。客の吸ってる煙草のせいでがんになりたくなんかない。そうです。きっと煙草です」
「だからなんで『俺が』理由なんだ。このテーブルには俺だけじゃなくお前もいるだろう」
「後藤さんに決まってるじゃないですか。自分なわけがないでしょう」そういう川崎の眼はすこしまじめになる。
「何の根拠があってだ」
 川崎は後藤の話を聞かずに話し続ける。
「いや、ああいうダークスーツを着たいかにも出来そうなサラリーマンが好きなんすよ、きっと。先輩も見習ったらどうです。もっと体絞って、細身のスーツを着てですね、髪の毛は少し染めてみるのもいいですよ。印象軽くなりますから……」
 川崎のいう格好のいい理想像はいつも彼自身のことだったので、後藤は川崎の話を聞く気がすぐにうせた。話を続ける川崎を無視するように、後藤は再び先程の女性店員の顔を見ようと後ろに体をよじった。体をへそあたりで回転させ方向を変えると、腹の贅肉が邪魔をする。
 女性店員はさっきと同じようにカウンターの周囲を慌ただしく動き回っている。彼女は高校生のようにも見えたがそれは若く見積もればの話で、おそらく二十歳前後かと思われた。彼女の前髪は額を隠すほどの長さだが、斜めにそろえて綺麗にピンでとめてある。後ろ髪は一つにまとめてある。気のせいかと思うほどに色を茶色で染めてあるようだった。背は高くもなく低くもない。ひときわ美人というわけでもなく、かといって美人ではないと否定することもはばかられた。彼女がもし近所のスーパーでレジ打ちをしていたとしても、それを彼女だと気づかないかもしれないと後藤は思う。それほどに主張の薄い女性だった。そんな平均の中の平均でこれという瑕疵のない容貌は、ただ、それがゆえに、奇妙な魅力を備えた女性ではあった。それは少し不思議な美しさだった。際立って美しくないことが、後藤には美しく思えた。たしかに川崎の言う通り、後藤も一時的に何らかのリストに加えるべきかもしれない。彼はそう考えないわけにはいかない気がした。
 後藤の視界には女性店員だけではなく、後ろに座るダークスーツの男も入っている。その男も彼女のほうを見ている。後藤の視線は自然と男に向く。その男が女性店員をなぜ観察しているか後藤は気になっていた。するとダークスーツの男は姿勢を直して後藤のほうを見た。明らかにダークスーツの視線は後藤に向けられていたので、後藤は慌てて川崎のほうを向きなおした。その男の一瞥は後藤に敵対心を煽る鋭さを持っていた。それも後藤を見下したような視線だった。自身の弱みを握られたような気がして、後藤はすぐに視線を彼女からはずし姿勢を戻したのだった。後藤はすこし情けなく感じた。
 自身のかっこよさについて長々と続けていた川崎は後藤の顔を見て「後藤さん。見過ぎですよ」と言った。後藤はグラスの水を飲み、うつむき加減で三本目の煙草に火をつけた。
「うしろのダークスーツの人、ちょっと怪しいよね」
「言い訳ですか」
「いいや、言い訳じゃなくて。この町でスーツ着て仕事する人間は役所関係くらいだよ。けど、あの人は役所にも見かけない」
「そう言われるとですね。こんな田舎町であんなにしっかりしたスーツを着る職業ないですもんね。あとは今日の自分たちくらいですよね。あの男は顔も見たことないし、外の人間でしょうか」
「あの男も彼女のこと見てる」
「きっと後藤さんと同類なんですよ。ただあの男には負けると思います」
「負ける?」
「ええ。後藤さんは残念ながらあの店員さんには選ばれないです。あの男なら確実に選ばれますね。あの男、ライバルですよ。後藤さん」
「待て。俺はそんな勝負してないし、あんな得体のしれない風貌はしてない」
「確かにですね。後藤さんはどこからみても中年のおやじといったところで、得体は知れていますもんね。少なくとも警戒はされないと思います」そしてまた川崎は後藤を隠れ蓑にしてダークスーツの男を指差す。「ただ、そんなに彼女に振り向いてもらいたいなら、後藤さんはきっとあの男の格好に学ばないといけませんよ。自分はそう思います」
「なんたってあんな格好しなければならない」
「後藤さんにあんな格好似合わないと思います。体型もありますし」
「はあ」
「でもですよ、後藤さんもちょっといじると第一印象きっとよくなりますよ。後藤さんは後藤さんらしい感じってのがありますからね、それを求めるべきだとは思います。そういう意味であの男には学ぶべきですよ。あの男はあの男らしい雰囲気を自分で分かっている。自分はそう思いますよ。ライバルって言ったのは、くだらない意味でも何でもありません。真面目な話です。自分はあの男の服装、あれでいて好きですよ。いいと思うんですけど。後藤さんも行き先の女子職員に持てるようになりますよきっと」
 後藤はやけに真面目に話す川崎を見て、次の言葉が見当たらなかった。
 川崎は少し体を斜めにすると、悟られぬように遠慮がちにダークスーツの男を見た。男は下を向いて本を読んでいた。細い金属フレームの楕円形のメガネをしていて、顔は四角くえらの張った強固なつくりをしていた。メガネがずれるのか、左の中指で時折メガネのブリッジを下から押して上げたりした。
 男は深みのある黒のスーツ姿で、ジャケットをはおっている。その下には涼しげなブルーのボタンダウンシャツ、ネクタイはせず一番上のボタンだけ外してある。シャツやジャケットはきちんと採寸してあるのか服に無駄なだぶつきがなく、それが整った印象を与えていた。彼の着ている服は馴染みのテーラーが仕立てたものでないだろうか。川崎はそう考えると少し興奮した。川崎はいつか自分の服を仕立ててもらいたいと思い、そんなスーツで歩く男に憧れた。営業でも、スーツだけはこだわりを持つようにしていた。
 男の背は平均以上と思われ、体格はよく、すこし目につくようにあえて体を鍛えてある。首回りも太くしっかりしていて、一番上のボタンを外したシャツでも貧相に見えない。髪の毛はきれいにデザインされた坊主頭だった。野暮ったさが一つもない。男の所作も、そのひとつひとつが繊細だった。コーヒーカップをソーサーに戻すとき、男は音を全く立てなかった。カップを持つ指は細く、肌は思いのほか白かった。川崎は男がデスクワーク中心の生活なのかと推測したが、実際どんな人間か全く分からなかった。その謎めいた雰囲気も、この男が人を惹きつける理由かもしれないと川崎は思う。そして目の前の後藤を見る。川崎はため息をつく。
「どうしたの川崎。ため息なんか」
「後藤さん、やっぱりそのスーツはないっすよ。いまどき」
「そうなの」
「『そうなの』って。こればかりはお世辞とかなしにそうっすよ。俺の親父が着るような感じですもん」
「損してるかな」
「いろいろ損してます。勝ち目なしです」
「ほんとに」
 川崎がダークスーツの男から得た教訓を偉そうに後藤に話し、何が学べるかを長々二人で話し合っても、まだ注文したものはこなかった。時間は思うように過ぎなかった。無為な時間は過ぎるのが遅い。後藤は外に目をやる。雨はやむ気配を見せなかった。店員を呼び催促することは二人とも考えなかった。二人は勝手に仕事を終えている気分でいたので時間に追われることもなく、ほどほどに疲れていて呼ぶのは面倒ですらあった。店の中いっぱいに婦人らの賑やかな会話が広がり、BGMはオルゴール調のビートルズを控え目な音量で流している。後藤はそのオルゴールを聞きながら、窓ガラスの上を雨粒の筋が流れ落ちるのを観察して辛抱強く暇をつぶした。川崎もはじめは後藤と同じ姿勢で窓ガラスを眺めていたが、彼は後藤と自分を見比べて、同じ所作をしている事に気づいて外を眺めるのをやめた。川崎は右手の手のひらをぺたっとテーブルにつけて指を開き、一本ずつ親指から順に上げる遊びをはじめた。親指から中指は簡単に上がったが、薬指をいつもうまく上げることが出来なかった。薬指を上げると必ず中指も一緒に持ちあがった。けれど中指を上げたときに薬指はついてこないのだった。後藤はそんな川崎の指遊びを見て笑った。川崎が、後藤さんもやって見てくださいよ、薬指は難しいです、などと誘ってきた。おまけに、後藤さんはきっと無理です、と川崎が言うので、後藤もやってみた。すると川崎と同じく薬指がうまく上がらなかった。それも薬指が他の指を巻きこんで上がってしまうということではなく、薬指それ自体が全く動かなかった。後藤の薬指は主人の言うことを一切聞かなかったのだ。川崎は後藤のその様子をおもしろがって、後藤の手の薬指をぐいと持ち上げて、こうですよ後藤さん、と勝ち誇って言った。後藤は手を引っ込めて遊ぶのをやめ、もう年だから動かないのだと言った。川崎は痛快に笑いだし、また言い訳ですね、と後藤に言う。後藤は苦々しく笑うだけだった。いたたまれなくなった後藤は煙草を取り出し火をつけようとしたが、灰皿の煙草の本数を見て吸うのをためらった。
「来ましたよ」
 川崎が再び体を斜めにして、今度は厨房のほうへと視線を投げる。後藤もくるっと反対を向く。長く見ているとダークスーツの男と視線が交錯しそうたっだ。それが嫌で、後藤はちらちらその男のことを注意しなければならなかった。ダークスーツの男は、後藤と同じく横を通っていく女性店員を見ている。後藤はその男の視線を訝しがりながらも、その男に共感を覚つつあるのを自身に感じ、思わずそれを否定したくなる。
 後藤が体を元に戻すのと同時に彼女がテーブル横に立っている。
「大変お待たせしました」
 その女性店員は待っていた時間の長さを具体的に知っている様子で言い添え、ホットコーヒーを後藤の前に置いた。彼女の手はコーヒーカップの乗ったソーサーを持っていたが、カップがかたかたと鳴ったりはせず後藤は安心した。彼女は角砂糖の入った小さなステンレス容器と、シロップの入ったままごとのように小さな白い陶器のポットを置いた。そこには奇妙さも何かしらの疑念もなかったし、ごく普通な動きだった。実に滑らかな動作だった。
 つづいて彼女は、川崎にアイスコーヒーを出そうとコルクコースターを彼に差し出した。その時、微細なふるえが彼女の手先に一気に生じたのだった。彼女の手は誰が見ても細かく震えていた。後藤は目の前の彼女の変容に驚いた。後藤が川崎を見ると、川崎はにわかに信じられないといった顔をして女性店員の手を見ていた。川崎の目には動転する様子がはっきり見て取れるのだった。彼女の震えは後藤にではなく、川崎に対してだった。それはもうはっきりと川崎に対して恐れがあるようだった。理由は分からなかった。彼女は川崎のほうの足をなぜか少しだけ後ずさりさせ、ぎこちなさを無理に隠すような遅い動作で紙に包まれたストローを置いた。トレイには川崎に運ぶアイスコーヒーが載せてあった。グラスは細長い円柱で背が高く、黒々とした液体は氷で冷やされている。グラスの外側はびっしりと結露していた。彼女は手を静かにトレイのグラスに運び、水滴のびっしり付いたグラスを持った。彼女はずいぶん深々とグラスを持ったので、後藤には彼女がそのグラスをしゃにむに握りしめているように見えた。握った手から水滴が玉になって流れる。彼女はそのグラスを奇妙な緩慢さでトレイから持ち上げ川崎の前へ運んでいく。
 そのようにして彼女がグラスを持ち上げ、川崎の前に運ぼうとした時、彼女は手を滑らせたのだった。手を滑らせるその時だけ、彼女の動きは不自然さが消えているようだった。グラスは自然に彼女の手から落ちていき、まるで運命に従順なようすで滑り落ちて宙に舞う。落ちながらグラスはテーブルの角にぶつかり、黒い液体は塊になって四方へ溢れいく。テーブルや床、川崎の膝の上に黒い液体はこぼれ落ち、飛び散る。氷がぼとぼと床に落ち、木目調の床をさーっと滑る。グラスの割れる音がして、女性店員の小さく短い叫び声が店内を切り裂いた。その悲鳴は夫人らの会話を止め、店の中のあらゆる音を消え去ってしまったと後藤には思われた。店内のBGMはその時も鳴っていたはずだが、グラスが割れ女性店員の悲鳴がしたとき、それは誰の耳にも聞こえてはいなかった。店から音が一瞬消えた。そして直後にその消音を破ったのは悲鳴と同じ店員の声だった。気づくと店には彼女の泣きいるような謝罪の連呼がただただ響いていた。彼女の声とともに音が戻り、店内は何が起こったのか次第に理解していった。

 川崎は自分の真っ白なタイトシャツに黒々としたコーヒーがこぼれているのをじっと観察していた。まるで何かの実験を見つめる人のようだった。彼は自分のシャツに大きな染みが出来ているのを不思議そうに眺めた。テーブルの上に広がったコーヒーだまりが水滴になってズボンの上に垂れる。彼はそれをよけることなく呆然として座っていた。しばらく状況を見つめてようやく、川崎は何が起こったのか理解したようだった。彼は状況の理解とともに形相をはっきりと変えた。後藤はその変化に息をのんだ。川崎は眉間にしわを寄せ、硬く唇を閉じて奥歯を食いしばり、目をかっと見開いていた。そして聞こえないほど小さな声で「何をするんだ」と言った。川崎の声は震えていて、彼の革靴はテーブルの下でがたがたと鳴っていた。彼は眼の焦点をしっかりと何かに合わせていたが、それが何なのか後藤には分からなかった。ただ空を凝視するようなありさまで、目の血走り方が異様だった。
 夫人らのところにいたもう一人の女性の老店員がすばやく清掃具を持ってきてテーブルを拭き、川崎のズボンにこぼれ続けるアイスコーヒーの水滴を止めた。事故に手なれた老店員を横目に、若い女性店員は動揺を隠せなかった。
「本当にすいません、替えのお洋服を、あの、汚れてしまったので、それで、奥で準備いたしますので、こちらへお願いできますか」女性店員はたどたどしく話した。「お怪我ありませんか。ガラスが飛んでいますから」
 その言葉にもかかわらず、川崎の表情は変化しなかった。彼女の話している途中で、川崎はそれをさえぎり、音をたてて立ち上がった。
「君!」川崎は話しかけていた女性店員を怒鳴り上げた。
「はい」彼女は思わずトレイを前に抱えこんで川崎を見上げた。彼女の顔は硬くこわばっていた。口は意味もなくうっすらと開いたままで、言葉は一切を奪われてしまったようだった。川崎の一声で店は再び音を失い、客の視線は川崎と女性店員に集まった。
「一体何をしてくれるんだね」川崎はいかにも紳士ぶった口調で怒鳴りはじめた。「まったく何を考えて仕事をしているんだ? 君。え? 何とか言ったらどうだね。客が聞いているんだ。君は今何をしたんだ。何も言えないのか? 君に言っているんだ俺は。き・み・に・だよ。聞こえないのか。これをどうしてくれるんだ。この染みを」川崎は白いシャツの汚れている部分を両手で広げて見せ、彼女に押し付けた。若い女性店員は唇をわずかに震わせるだけで何も言わなかった。それを見た老店員はガラス片の片づけを中断して川崎に頭を下げた。
「ほんとうに、申し訳ありませんでし――」
 老婆が言うや否や、川崎はその肩を突き飛ばした。その老婆は言葉を言い終わらせることが出来なかった。
「なぜ関係のないあなたが出てくるんだ」川崎はすっかり床に倒れた老店員を見下げて言うと「俺はこっちと話をしているんだ」と言って若い店員を指さした。川崎の指先は若い女性店員の目を突くかと思われた。川崎がろくに若い店員のほうを見ずに指を突き出したからだった。若い女性店員の横で老店員は何もなかったように立ちあがり、謝罪の言葉をつづけた。後藤は店員が繰り返し頭を下げる姿を見ていられなかった。
「川崎。彼女に悪気があるわけじゃないし、それくらいお前も分かるだろう。ちょっとしたミスなんだ。それに店員突き飛ばすのはやりすぎだ。お前こそ一言謝ったらどうだ」後藤は川崎の前に立ち、なるだけいつもの口調を思い出しながら話した。後藤は意識的に声が高ぶるのを押さえなければならなかった。だが川崎は後藤の言うことを聞いていなかった。
「なんなんだ、この店は。ったくよ。この俺の服を汚すようなことしかできねえのか、ここの女どもは」
「川崎!」後藤は川崎の怒声を聞いた時、テーブルを叩いて怒鳴っていた。「お前いい加減にしろ。店員に謝れ」そう後藤が言うも、川崎は「なんで俺が謝らなきゃいけないんすか」と言った。後藤は二人の店員に「すいません」といって頭を下げた。若い店員は顔が蒼白になりながら後藤と川崎を見ていた。老店員はこうべを垂れたまま動かない。
「川崎、帰ろう」後藤が川崎の腕に触れる引っ張ろうとすると、川崎は力任せに後藤の手を振り離し「なんだこの店は」と言い捨て店から出ていった。川崎はテーブルに置き放たれていた車のカギをわしづかむと女性店員と老店員を乱暴に押しのけ、ドア近くに並べてあった椅子をひととおり蹴りたいだけ蹴飛ばした挙句出ていったのだった。椅子はレジスターの乗ったカウンターにぶつかり、カウンターがぐらついた。その上に乗っていたレジスターが危うく落下するかと思われた。
 強い雨が打ちつける大きなガラス窓の向こうに、後藤と川崎が乗っていた車のテールランプがぼんやりと浮かんだ。車は駐車場から出ていった。川崎は車でどこかに消えた。
 後藤は頭をぽりぽりかいて、ため息をついた。店内には店長が客の夫人らに騒動を詫びる声がして、老店員のガラスの破片を片付ける音が響いている。後藤は老店員に川崎の悪態を謝った。老店員はどんだ客だまったくといい、そこ邪魔だほら、と後藤を追い払うようにしてほうきで床を掃いた。老店員は後藤と顔を合せなかった。後藤は気まずくて、邪魔にならぬところに突っ立っているしかなかった。老店員がその場を離れるとき、若い店員に向かって、あんたいつまでめそめそしてる、と何の感情もなく言った。

 後藤は川崎が怒鳴りつけたその若い女性店員を見た。彼女は床に足が生えたように動けずにいた。一つにまとめられた後ろ髪が少しも動かない。動揺と混乱を抑え込もうとしているのか、呼吸がぎこちなかった。後藤はその女性の前にまわった。後藤はまっすぐに彼女を見ることが出来た。彼女の目は潤んでいたけれど、涙の流れるほどではなかった。ただ彼女の眼の焦点がどこにあるのか、それが後藤にはよく分からなかった。こうして正面から対面していても彼女の視線はどこか後藤の背後に向けられているようで、彼はすこし慌てた。
 後藤は彼女を近くのテーブルに座るよう促した。彼女は戸惑いを見せたが、素直に座った。理不尽に怒鳴られたためか、後藤には彼女が憔悴しているように見えた。店長はどうかお気になさらずと後藤に言ったが、彼も川崎の暴挙で申し訳なく、後藤は改めて自分で注文したコーヒーを彼女の前に置いた。
「本当にすいません。取り乱してしまって」
 彼女はうつむいていた顔をあげ、後藤に言った。彼女は自分の前に置かれたコーヒーを困惑して眺めては、後藤の顔を見ている。
「こちらこそ、あんなことをしてしまって。彼は私の部下なんです。きつく言っておきます」
「いいえ。私こそ、とんでもないことをしてしまいました。あの方にも改めて、申し訳ないことをしたと伝えていただけませんか」彼女は目じりをしばし拭って言った。
「君も確かにミスをしたが、彼もあれほど怒鳴ることではなかった。まったく、あの男がやり過ぎなくらいだ。本当に申し訳ないことをした。あの男の連れに言われたくもないだろうが、コーヒーでもどうぞ。落ち着くといいのだけれど」
「ありがとうございます」そう言いながら、若い女性店員は時々後藤から視線を外した。
「それに、これからおじさん相手の接客に困ったりしないだろうか。これがきっかけで接客に変な硬さが出てしまったりしなければいいんだが。それが心配で」
「いえ、だいじょうぶです」
 差し出されたコーヒーを彼女は再び見て、困惑したふうに後藤を見た。後藤は何も言わず、手で進めるそぶりをする。彼女はそうする後藤のほうを向いて顔を上げたが、しかしその視線は、後藤からすればやはり定まっていないように見えた。どこか後藤の背中の後ろを見ているようでもあったが、けれど後藤の体をよけてその先にあるものを確認するそぶりをみせるでもない。後藤は思わず後ろを振り向いたのだが、そこには何もなかった。後藤が姿勢を戻すと、彼女はいつのまにかコーヒーに口をつけていた。
 彼女がカップを両手で支えそれを口元に運んでいる姿を後藤が見たのは、ものの三秒ほどだった。後藤が振り向きなおってすぐ彼女はコーヒーカップを置いた。カップを覗き込んで顔を伏せたような姿勢になると、彼女のまつ毛は長く見え、鼻の筋はまっすぐ凛としていた。すぼまった口は小さくかわいらしいかたちだった。
 彼女はカップの縁についた口紅のあとをさりげなく気にして、それをソーサーの上に置いたのだった。コーヒーは小さなカップに半分以上残っていた。そして今度は彼女はしっかり後藤の目を見た。
「なんだか良くしてもらって、申し訳ありません。おかげでだいぶん落ち着きました。ありがとうございました」そう言い終わると彼女は笑顔を浮かべた。そうしてまた彼女はちらちらと後藤から視線を外したが、後藤にとってそれはほとんど気にならなかった。彼女の浮かべたのは作為のない笑顔で、いかにもその感じが彼女らしいのだろうと後藤は感じた。彼はそれで充分だった。彼女が後藤から視線を外していたのだとしても、それは後藤の知るところではなかった。関係がなかった。後藤が彼女の笑顔をしっかり見たのはこれがはじめてだったが、この笑顔は彼女にふさわしく思われた。後藤はその笑顔に立ち会えたことにうれしさを感じ始めていた。それは適切にわきまえられた笑顔だった。下品で派手な笑顔でもなく、かといって妙に恥ずかしがってぎこちない笑顔でもなかった。笑顔にも中庸さがあるのだと、後藤には思われた。
 彼女の素肌の透き通るような感じ、そして肌つやのよさは、とても健康さを感じさせた。具合が悪いとか、そう言うこともないように見える。失われていた血色が戻りはじめていた。頬も赤みがもどって、後藤にはやはりそれが本来の彼女の表情であろうと思われるのだった。
 後藤はいかにも帰るべき時だと感じた。これ以上することはないし、彼は満足していた。川崎の理不尽さを少しでも拭えたかもしれなかった。それに、川崎が見ないものを彼は見た。
「だいじょうぶそうだ。それでは帰ります」と後藤は言って立ちあがった。
「今日はすいませんでした」彼女も立ち上がる。姿勢がとてもいい。
「いいえ。ところで私はまた来ても構わないのでしょうか」
「ええ。こんな店でよろしければ、いつでもお待ちしています」
「ありがとう」
 後藤は店内を歩き、レジへと行く。彼は目立たぬように手のひらをぐっと握りしめる。勝利の瞬間だった。また俺はこの店に来ることが出来る。そう考えただけで、後藤は川崎に勝ったと感じる。またあの笑顔に会える。そう思うだけで満ち足りる。ダークスーツの男の横を通り過ぎる時、彼は喜びのこぶしを高々と揚げたい気分だった。蹴り飛ばされた椅子はもとの通りに並べられていた。川崎はさぞ悔しかったのだろうと思う。
 帰り際、女性店員はわざわざ出入り口のドアに立つ後藤のもとへ現れた。レジを打った店長もそのまま後藤の出ていくのについてきた。店長とその若い女性店員、そして後藤は双方が謝罪しあう形になった。一通りどちらの気も済むまで頭を下げ合うと、後藤は最後にひとつ丁寧な礼をして椅子など不都合があったら連絡をして欲しいと名刺を渡した。
 彼は店を出た。車はなかった。まだ雨が降っていたが、彼はタクシーを呼ぶことなく傘をさして徒歩で帰った。彼女は俺に微笑んだ。それは後藤の胸をいっぱいにした。彼の革靴は楽しげに水溜りを鳴らした。

 川崎とともに受けるどんな処分も、この後藤には効かないかもしれない。

その男の勝利

その男の勝利

二人の男が喫茶店で争ったこと、その勝利とは。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-24

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