十七才の標本
愛してるが宙ぶらりんになったとき世界のはんぶんを君にあげたいという壮大で馬鹿げた夢は潰える。誰かに「さよなら」を告げられたあとの喪失感というのはその誰かが誰であっても生まれるものらしい。僕はどうか君だけが悲しみに暮れないよう、日々を穏やかに過ごせるよう毎夜祈っていることを君にだけはひた隠しにしている。蝶の標本をつくった十七才の初夏の、生物室でのあの瞬間は額縁に入れられた絵画となって僕の心に飾られているが、際立っているのは昆虫針を刺したときに見せた君の表情である。すでに死んでいる蝶が感じるはずのない痛みが君に伝い、実際に針を突き刺されたかのように痛々しく歪めた顔に僕は身震いした。明らかに寒気や恐怖によるものではないことに戸惑った。留め針で翅を刺しているあいだの君はもう苦痛には満ちておらず、様々な器官の詰まった胴体というのは人間も昆虫も構造は異なれ、薄っぺらな神経の通っていない単なる装飾品ではなく生命を司るそれであることで、すべての機能はとっくに停止していると頭では理解していながらも思考では処理できないものが無意識に現れたのかもしれない。例えば殺人事件の真相を克明に書き綴ったミステリー小説の、殺人現場の様子を容易くイメージさせる文章表現にまるで自分が物語の登場人物となりかわり、その現場を間近で目撃しているような錯覚に陥ったときの生々しさ。標本箱に並べられるシジミチョウ。校舎のなかでも陽射しの少ない位置にある生物室の冷たい空気。君の横顔。意外と睫毛が長いことに気づきながら行う、儀式めいた蝶の展翅。
いまはもう失われてしまった好奇心を呼び覚ますように、インターネットの通販で買った蝶の標本箱のガラス蓋の表面を人差し指で撫でる。
君とつくった標本は捨てた。
もっと未練たらしく持ち続けているかと思ったが、自分でも拍子抜けするほどあっさりと捨てられた。通販で買った標本箱の蝶は君が好きな青い翅のものばかりを集めたものだ。世界のどこかにいるはずの君のことを僕は好きなままで、これからも途方もなく好きでいるのだろうと想うと何だか可笑しかった。可笑しかったから声を上げて笑いたかったのだけれど、出てくるのは声ではなく涙だった。
十七才の標本