傀儡

最後の記憶は、私の主治医が、白いシーツの上に仰向けに眠る私の腕に、注射器の針を押し込むように刺した事だ。そこからずっと重くなって視界がぼやけ始めて、もう私はそれを耐えることは出来ずに、深く深く堕ちた。そうして現在にいたるのだ。それも最早、記憶としては本当に正しいのかは解らない。その記憶は自分では自分のモノだとは証明出来ずに、他人からの発言からそう得るしかないのだ。ただ、私の記憶を教えた他人は私に本当のこと教えたとは限らず、よってこの問題は解決できるはずはないのだ。



 毎日は、繰り返し行われるのだがそれはあくまで、自分がその生活サイクルを確定してしまった為に起きる現象であって、必ずしもその生活サイクルを乱してはいけない規則ではない。ただ身体の調子を整える為や長年培った癖で確立するだけであって、私の生活はそのサイクルを確立しているわけではない。例えば、昨日の生活サイクルだ。午前二時に起きて、そこから着替えや間食を食べ、仕事場に向かい、熟す。そうして午前十時に帰宅した。これが午前だろうが午後だろうが、一時だろうが十二時だろうが関係はない。
「時間か。」
 今日は午前一時に目が覚めた。覚めてと言うとごく自然に目が覚めたように聞こえる。ただ私の場合はその時間に目覚めるようにプログラムを予めセットしておき、予定時刻に目が覚める。一見、目覚まし時計と変わらないが、確かに変わりはしない。その時計が個体としてあるかどうかであって、現にここにそのような物はなく、あるのはベットとシーツと自分の身体だけである。兎にも角にも確定された時間に目が覚めるこの身体に肩こりや首こり、寝違いや二日酔いなどが起きる事はなく、便利な身体であることは変わりはない。ハンガーに掛けられたいつも着る制服に慣れた手つきで、これは生活サイクルとして確立されているのだが、それをスムーズにハンガーから外して袖に右腕から通した。次に一緒にハンガーに掛けられたズボンをこれまた右足から、右足左足と通すと腰まで引き上げる。ホックを閉めベルトをぎゅっと絞めると身支度は完成だ。冷蔵庫の中にある牛乳を見るだけで顔を歪めてしまうのだが、しかし思わず手が伸びてしまう。身体は欲しないのだがどうやら脳は欲してしまうのだろう。暗い殺風景な部屋のカギを閉めると、廊下の直進した突き当りにあるエレベーターに乗り込む。
「自殺だとさ。」
 エレベーター内の開閉ボタン前に黒いコートの男が立っている。歳はまだ三十に達していない。目を合わそうとはせず、開閉ボタンの《開》を押し続ける。エレベーター内に入ると、男は扉を閉めた。シャフト内のロープが大きな籠をゆっくりとおろし始めた。十二,十一と階が徐々に下がっていく。
「死亡したのはアキヤマ・シュウジ、二十一歳。自宅団地の近辺の大学に通う四年生だ。」
 コートのポケットから携帯端末を取り出し、画像を見せる。タンクトップの男が腕や脚を拉げた状態で道路に転げ落ちている。その傍らではバンパーやらドア部が大きく凹み、道路のわきに生える低木に頭から突っ込むトラックがあった。それをまたポケットにしまうとまた話し始める。
「アキヤマは跨道橋から飛び降り、向かってきたトラックと衝突。約二〇メートル吹き飛ばされたようだ。」
「トラックと接触しても肉体の原形が残っている。それに飛散している血液の量も少ない。トラックの運転手はアキヤマが落ちてくることに気が付いてブレーキを踏んだのか?」
「いや、踏んでいない。ブレーキ痕はなく、ただ単に直進中にアキヤマが落ちてきたんだろう。それに…。」
 男は少し俯いた。それから溜息混じりの言葉を発した。

「彼は、アキヤマは、君と《同じ》なんだ。」

 グラッと身体が揺れた気がしたが、表情は変えていなかったはず。ゆっくりと目の前の扉が左右に開き始めた。車道のこちら側のガードレールの真横に黒いワンボックスカーが停車していた。
「問題は、私がどう行動するかだろう。心が動かないとは言わない、ただ仕事だと割り切ることは出来るさ。そうだろう、桐谷?」
桐谷は少し戸惑っていた。



 私たちの仕事は事件現場の鑑識ではなく、死亡した者の近辺・及び内面の調査であってそれ以上でもそれ以下でもない。現場は鑑識が私たちより素早く的確に最善の結果を残す為に、その状況下で最も最適と考えた行動をとる。私たちはそれを元に解決に導くのだが、その為にまずすべきは彼の生活サイクルを知るのが最短だと判断した。
 現場から徒歩五分辺りに自宅があった。三〇階建てのマンションはまだ建てられてからそう立ってないらしく、罅や錆も無く、清潔感に溢れていた。アキヤマの部屋を調べ上げ、鍵の掛かっている扉を無理やりこじ開けると、さすがに私も少しばかり恐怖を覚えた。
「何だこれは・・・。」
 私よりも桐谷はずっと驚いているようで、口が開いたままであった。靴が無造作に置かれた玄関に、大量のコピー用紙が落ちていて、それが室内にも床が見えないくらい一杯に埋め尽くしている。ただ真っ白な紙ではなく、一枚一枚に同じ言葉が書かれているのだ。部屋の中に進むと、紙は床だけではなく壁にも天井にも貼り付けられ、異様、その一言で片づけられる程の光景だった。
「『私の記憶は本当に私のモノなのか。』、一体なんだこいつは・・・。」
 桐谷は一枚手に取ると、目をこれまでかと云うくらい大きく見開いている。
「とにかく、部屋の中を調べなければ何も始まらない。桐谷、鑑識に荒らされる前に何か手がかりを探さなければ。」
「それは承知だ。」
 部屋は五畳の居間に台所、風呂、トイレが付いている。工業系を先行しているのか部屋の本棚には機械関係の参考書が大量に並べられて、どれも綺麗に保管され埃一つ付いていない。机の上にはデスクトップ型のパソコンがスリープ状態で置かれていた。省電力設定をされていたらしく、画面は黒く、ランプだけが緑色に点滅していた。マウスを動かすと画面がパッと明るくなった。いくつものウィンドウが開かれ、その中でも一際大きく開かれていたのがある。ワードに明朝体で大きく書かれた文字。
「そっちもか。」
 気が付くと桐谷が背後からディスプレイを覗いていた。

『私の記憶は本当に私のモノなのか。』

「こいつは自分の記憶に対して恐怖心を覚えていた、そう推測できるな。君はどう思う?」
「・・・、 あぁ。だがそれだけで自殺に繋がるとは考えにくいな。彼は工業系の人間だ。文学系の人間に比べれば考え方は現実的で生やら死やらに考え込むとは思えない。だが、ある意味では一番、生と死に敏感なのかもしれないな。」
「どういうことだ?」
「私が、そうだからだ。」
桐谷は私の肩を掴んだ。瞳をかっと開ききって大きく口をあける。
「やめろ、深追いするな。あかの他人に干渉するな。君は、そっち側には行っちゃいけない。」
 肩の手を振り払うと、振り返って再びマウスを操る。
「桐谷、お前にはわからないだろう。自分の記憶に対して疑心暗鬼になる私たちの心情が。それは母親に捨てられる事よりも遥かに恐ろしい事なんだ。自分が本当に自分なのか疑い始めたら、もう戻れない。毎日別の生活サイクルを刻んだとしても決して、その考えは毎日同じように自分の心に訴えかけてくる。」
「この件からは離れよう。アキヤマと君は似すぎている。このままじゃ、君は・・・。」
「どうなるんだ?」
 桐谷は連絡しようとしていたのか握りしめていた携帯端末を、また俯きながらポケットにしまった。
「アキヤマと同じ道を辿る。」
「自殺、するのか。」
「それより恐ろしい。君は君でなくなってしまうのが、俺はとてつもなく怖いんだ。」
 桐谷はコピー用紙をくしゃくしゃに握りしめた。そうして聞こえるか聞こえないかわからないくらい小さな小声でぶつぶつと何か言い出した。
「人は脳によって脊椎神経から各臓器や四肢・感覚にまで神経を巡らせ、生命活動を維持する。それは細胞レベルの細かな作業まで脳がすべてを制御してると言っても過言じゃない。だが君はその肝心な脳は頭の中にあるのだが、それを収める容器はまるで俺たちとは違う。細胞で構成された俺たちとは明らかに違うんだ。」
「私が私である事に変わりはない。」
「そうだ、君は君であって、決して人じゃないわけじゃない。ただ、肉体は一つ一つ細胞で構成されたものじゃなく、人間工学に基づいて設計された〝機械″なんだ。それは君が一番良く知ってるじゃないか。」
 桐谷は声を荒げた。その時私は恐ろしく、しかも冷え切った目で桐谷を見ていた。彼を軽蔑していた訳ではなく、ただ単に彼の発言があまりにも今の心情にはまっていたからだ。
「桐谷、お前は知っているのか?私がどうしてこうなったのか。」
 桐谷は黙っている。



 桐谷の返事を待たずして語りだした。
「人であった頃の最後の記憶は、瀕死の私の左腕に主治医が何か話掛けながら注射器を刺した事だ。そこから何もわからなくなって、気が付いたら目が覚めていた。麻酔を掛けられた肉体から脳だけを取り出して機械の肉体に入れ替えたんだ。その時から私はずっとこう思ってきた。実はこの脳でさえ造られたもので、記憶さえも造られたものじゃないのかと。何せ、移植中は何も解らないのだからな。これは肉体を機械化された私やアキヤマにしかわからない謎なんだ。こんな恐怖心を抱きながら毎日を送っている、それがお前に解るのか?そうなれば自殺する事も解らなくはない。」
「駄目だ、だから今の君は流されている。やはりこの件からは…。」
 桐谷が腕を掴むのと同時に私はその手を払いのけた。
「人の心は!」
 感情的に言葉をぶつけた。
「誰にも止められない。心が命じたことは誰も止めることができないんだ!」
 そこからは簡単だ。自分の感情の赴くままに行動すればよいのだと確信したからだ。それは肉体が生身だろうが機械だろうが関係なく、心がその行く末を決める。機械の肉体から解放されることがアキヤマと私が共に疑った記憶から逃れる方法だと解ったのだ。桐谷を押しのけ、部屋を出る。エレベーターに飛び乗るとすぐに《閉》ボタンを押す。追いかけてきた彼の顔は酷くしおらしかった、そのことは《今でもはっきり覚えている》。そうして、心の命じるままに屋上へと向かった。近代化された都心部にはネオンが光り輝いて、それが昼間より眩しく、黒い空を照らしている。ビルの端に来ると眼下に広がる地面は恐ろしく魅力的に、私を誘惑していると感じずにいられなかった。そのもとに早く行きたい、そう胸が躍り、共に呼吸も荒くなる。一歩、また一歩。ゆっくりだが着実に近づいてゆく自由。そこに私は生まれて初めて、記憶や存在に怯えない瞬間を手に入れたのだ。
「やめろ、それが記憶から怯えない唯一の方法なわけじゃない!」
 彼は、肩を上下に動かしながら、私の自由と同じように一歩、また一歩と近づいてくる。そうして、ほんの三メートルばかりの距離ですっと立ち止まり、一段高い私を見上げたのだ。
「君が君であって、記憶が君のモノであることは、この俺が証明している。君は君である、それ以外にもそれ以上でもないんだ。」
 彼の瞳は瞬きすらしなかった。その額を酷く愛おしく感じている。そっと触れる。暖かい。生きている証拠だ。
「この暖かさ、とても愛おしい。」
 彼の胸を突き飛ばした。

「その暖かさは、私には何故ない。この肉体は機械であって、それ以上にそれ以下でもない。」

その直後に私の身体が宙に浮いた。彼は私の名前を叫び続けていた。その声を私は、《今でもはっきり覚えている》。

傀儡

人の記憶って、案外ふわふわしたものです。それがわかって欲しかったのです。
読んでいただき、ありがとうございます。

傀儡

自分自身の記憶に疑いを持つ「私」は、自分と同じ悩みを持ち自殺した死体に共感を覚える。周辺を調べる内に「私」は自分自身の記憶だけではなく、自分自身の存在すら疑い始める。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-23

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