家出

お母さんへ

このままお母さんといたら、もっとひどいこと言ってしまいそうだったから、ちょっと頭を冷やしてきます。行先は決めてあるので、心配しないでください。芽衣


                                

久しぶりに電車に乗って、わたしはおばあちゃんの家へ向かった。大きなビルが立ち並ぶ街中から、だんだんビルが減っていって最後には森や少しの家しか見えなくなった。菜の花と桜が川辺にきれいに咲いている。
駅に着くと、おばあちゃんが駅の外で待っていた。
「おーい!」手を振ったけれど、おばあちゃんは気づかない。仕方がないので、小走りで、駅の外へと向かった。
「おばあちゃん、ただいま」
やっとわたしの姿に気づいてくれたおばあちゃんに向かってお辞儀をする。
「帰ろうか」
おばあちゃんは笑いもせず、かといって怒りもせずただ、そう一言だけ言うと、歩き出した。

夕焼けに染まった川が静かに流れている。わたしの街にあるような大きな川じゃなくて、チョロチョロと流れるような小さな川。その川の上に架かっている小さな橋を渡って、おばあちゃん家まで歩いた。排気ガスの臭いや人混みがないこの場所をとてもすてきな場所だと思うこともあるし、ショッピングモールや遊園地のないこの場所をすごく退屈な場所だと思うこともある。


家に着くとわたしはまず、仏壇の前に行ってお参りをした。
線香に火をともすと、懐かしいにおいが鼻につん、とついて、ふいに泣きそうになる。チーン、という音が体の中まで響き渡った。あぁ、やっぱりここに来てよかった。心が少しだけ落ちいたような気がする。
よいしょ、と仏壇の前から腰をあげた時ドアの少し上に一年中つけてある風鈴がチリン、と鳴った。……おじいちゃんが帰って来た。
「おかえり、おじいちゃん」
わたしはなるべく明るく言った。責められそうな気がしたから。
でも、おじいちゃんはちょっとわたしを見ただけで、すぐに部屋へ行ってしまった。おじいちゃんはいつもそうだ。無愛想でまるでわたしがいてもいなくても変わらないって感じに扱う。別に、きらいって訳じゃない。でも、どっちかっていうと、苦手だ。


「夕食の準備手伝ってくれんかな、芽衣」
おばあちゃんが台所からわたしを呼んだ。
「何、すればいい?」
腕まくりをしながらおばあちゃんに尋ねる。
「じゃあ、お皿を出して、テーブルに並べて」
わたしは言われた通りテーブルに並べた。

食事の間、わたしたちは無言だった。沈黙にならないためだけに点けられたテレビから、芸人の笑い声だけが虚しく響く。
「おじいちゃん、おばあちゃん、急に来ちゃったりしてごめん」
この空気に耐えられきれなくなって、なんとなく謝った。沈黙がわたしを責めているようだった。
「別に、いいんよ」
おばあちゃんは優しく、でも少し突き放したようにそう言った。
おじいちゃんは相変わらずわたしの目も見ようとせず、ただご飯を食べ続けていた。
ふたりとも、わたしがここに来た事を快く思っていない気がする。おばあちゃんもおじいちゃんも顔に出さないから分からないんだけど、なんとなく。
なぜ、おばあちゃん家だったか?それは多分、一番迷惑のかかる人が少ない、と直感的に思ったからだと思う。別に行先なんてどうでもよかった。ただ、お母さんが困ればいいんだ。そんなことしか考えることができなかった。
……お母さんなんて、大嫌い。
心の中でつぶやいて、その言葉をかみ砕くようにご飯を食べた。



事の発端はわたしがクラシックバレエをやめたことだった。
12年間習っていたバレエを突然やめた。理由はたくさんあった。勉強との両立ができなくなったとか、もっと時間がほしかったとか、やりたいことがあったとか、もう、たくさんの「やめたい理由たち」が一気に押し寄せてわたしはそれに負けてしまった。
「どうして、こんないきなりやめるの?」
周りの人たちはみんなそう聞いたけど、上手く理由を答えることはできなかった。
理由がたくさんありすぎて。自分でも分からなくなりそうだった。ただ、「どうして?」そうやって言われる度、心が締めつけられるように痛かった。

最初、お母さんは何も言わずわたしがバレエに行かないのをただ見つめていた。だから、わたしは勘違いをしていた。お母さんは、バレエをやめたことに一つの文句も何もないのだと。だけど……それは違ったのだ。

お母さんが急に「バレエ、やっぱり行きなさい。」そう言いだしたのはバレエに行かなくなって、もう半年以上経ってからだった。
はじめ、その言葉を聞いた時、わたしは自分の耳を疑った。
お母さん、それ本気で言ってるの?わたし、もうバレエやめるっていったよね?どうして今さらそんなこと言いだすの?
疑問だらけだった。だいたい、やめてから半年も経っているのに行けるわけない。
「いやだ。絶対に行きたくない」
普段、あまり反抗なんてしないけど、この時ばかりは大声で反発した。
「行きなさい」
お母さんはそう、静かにでも、嫌と言わせないような声で言った。
「どうして?どうして、今さらそんな風に言うの?」
つい、泣きそうになりながらお母さんに尋ねる。
「あなたの生活がだらしないからでしょ。その、たるんだ体をどうにかするためにもバレエに行きなさい。それに、このままじゃ、絶対に後悔するよ」
わたしの生活がだらしない?手伝いだってちゃんとしてるし、勉強もそれなりにしてるじゃない。どうしたらいいの?涙が頬をつたって床に落ちた。
心の中ではたくさん言いたいことがあるのにどうしても声にならなかった。心当たりがあったからかもしれない。確かに多少の後悔はあった。12年。その期間が長いのか短いのかは分からないけど、それでもわたしの人生のほとんどをバレエに費やしてきた。 気づいた時には踊っていた。記憶の中にバレエのない日々など一度もない。それなのに、後悔が全くないわけがない。ただ、後悔をしているということを誰にもばれたくなかった。ばれてしまって「じゃあ、やめなかったら良かったのに」そう言われるのが怖かった。

「……お母さんはわたしの事、何も分かってないよ」
やっと出た言葉はあまりに情けなさ過ぎてお母さんの心には逆効果だったようだ。いきなり、わたしの顔の方へお母さんの手が飛んできた。
――パチン、という鋭い音が部屋中に響き渡った。
一瞬何が起こったのか分からなかった。けれど、頬の痛みとともに涙がまたあふれてきて、
「あぁ今、わたしはぶたれたんだ」と理解した。
痛かった。ぶたれた頬よりも心が。どうして、どうして、どうして…。
わたしはどうしてぶたれたの?言葉に出すことのできない疑問を心の中で問い続けた。
「お母さんの言うことをちゃんと聞きなさい」
お母さんの顔が涙のせいで歪んで見えた。その顔を見たら、もう何も言えなかった。
二人の間に沈黙が流れる。カチ、カチ、時計が時を刻む音だけが静かに響いた。

「わたし……お母さんのこと大嫌い……」
言った瞬間、お母さんはふっと悲しい表情を見せた。普段、絶対に見せないようなそんな表情。でも、わたしには「あぁちょっと言い過ぎたかな」なんて思うことなんて到底できなかった。けれどそう言ってしまったあと、どうしてもお母さんの顔を見ることが出来なくて急いで自分の部屋へと向かった。

それから1時間後。わたしは置手紙をして、誰にも見つからない様に家を出た。


――夕食を食べ終わった後、わたしはお風呂に入って寝る準備にかかった。
「おばあちゃん、わたし、間違ってないかな……」
布団を敷きながらつぶやいた。聞こえていなければそれでもいいと思った。
「ん?いきなり、どうしたん?」
おばあちゃんが、布団を敷く手を止めて、わたしの方を見た。
「家、飛び出してきちゃったこと、間違いだったんかなって」
「うーん……どうやろね。それは、自分で考えることやけんねー」
「……」
ふと、窓を見た。窓の外に見えるのは月だけ。そしてその月さえ雲がかかって見えなくなりそうだ。月がとても頼りなく見える。
「でも、このままじゃいけないよね」
自分自身に対しての言葉だった。このままじゃいけない。多分、そのことはずっと前から気づいていた。多少の後悔がある、と気づいた時くらいから。
「そやね」
おばあちゃんに対しての質問じゃなかったけど、返事をしてくれた。そして、シーツのしわをシャッ、シャッ、と伸ばすのを止めた。
「ばあちゃんね、昔、間違ったことあるんよ」
窓の外の月を眺めながらおばあちゃんはそうつぶやいた。後悔とか苦しさとかそんな感じじゃなくて、もっと深くて柔らかい感じで。
「もう、何十年も前なんやけどね、ばあちゃん、芽衣のお母さんのこと捨てたんよ」
そう言うとおばあちゃんは部屋の電気を消して、布団に入った。わたしもそれにつられて布団に入る。
「捨てたっていってもほん数日間なんやけどね。おじいちゃんと喧嘩して家を飛び出してしまったんよ。3歳のお母さんを置いて。育児とか家事とかで疲れてんのにおじいちゃん、いっつも夜、帰ってくるのが遅くてね。そのことで毎晩喧嘩してた。その日もまたいつものように喧嘩して、とうとう耐えきれなくなったんよ。気が付いたら飛び出しちょった。そのあと、ちゃんと家に帰ったんやけど、その時のお母さんの顔は忘れられん……。なんとも言えん、悲しそうな顔して泣いちょった。ばあちゃんね、その顔見て、あぁ間違ったことしたなぁって思ったんよ。ほんと、大変なことをしてしまったって」
おばあちゃんが話してる間わたしはずっと目を閉じていた。話と一緒に頭の中でトロワのアダジオの曲が流れていた。大好きな曲だった。でも、わたしはipodからすぐにその曲を消去してしまった。
「あんね、多分、お母さんも間違ったんよ。間違うことはだれでもあるけん」
それ以降、おばあちゃんはもう何も言わなかった。
目を開けてみた。
暗闇の中で周りの世界が歪んで見える。わたしは、わたしは、どうするべきなのだろう?おばあちゃんは、どうすれば良いと言っているのだろう?もう一度、窓から月を見る。まだ雲がかかったままだ。
「……おばあちゃん、わたし、明日家に帰るよ」
そうした方がいい気がした。おばあちゃんはきっとそうするべきだと言っているのだろう。
「うん」
短い返事が聞こえた。その返事は多分、肯定の意味を表すのだろう。そうしたほうがよい、という。
「おやすみ」
そう言うとわたしは布団をかぶり、もう一度目を閉じた。


朝起きると、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。そうだ。家出してきたんだった。
「おはよう」
おばあちゃんは台所でもう食事の支度をしていた。
「顔、洗ってきなさい。ご飯、もう少しで出来あがるから」
敢えて、なのかは分からないけど、「今日、帰るんでしょ?」なんていうことは聞いてこなかった。
顔を洗った後、電車の時刻表をそっと開いて、一日にほんの数本しかない電車の時間を調べた。11時45分。これに乗って帰ろう。
「帰るんか」
おじいちゃんがどうでもよさそうに聞いた。
「うん。12時前の電車に乗って帰るから、駅まで連れてってもらえる?」
「そうか」
いつもと同じ無愛想な感じでつぶやいた。
「まぁ、気をつけて帰れ、芽衣」
おじいちゃんはそう言って、パッとどこかへ行ってしまった。おじいちゃん、分かりやすいなぁ。心の中で小さく笑った。


「1日だったけど、ありがとう」
駅のホームでわたしは2人に向かってお辞儀をした。ホームには私たち以外に電車を待つ人はいなくて、わたしの声はえらく響いた。
「いいんよ。また、帰っておいで」
おばあちゃんが微笑んだ。思わず涙がこぼれそうになる。まだ、ここにいたい。けれど、やっぱり帰らないといけないのだろう。ここに立ち止まったままでは何も進まないのだから。

カーン、カーン、電車がホームに向かってきた。
「わたしも、間違ってた。多分、もっとしっかりお母さんと向き合うべきだったんだと思う。でも、わたし、逃げてしまった。もう一度、向き合ってみるよ」
電車の音にかき消されない様に大声で喋った。
「また、帰っておいで」
おばあちゃんがそう言って頷いた。
「またね」
最後におじいちゃんと握手して、電車に乗った。おじいちゃんの手はごつごつして、がさがさだったけど、なんとなく安心できる手だった。


電車から見える景色は森や畑ばかりの田舎の景色からだんだんと大きなビルが立ち並ぶ町の景色へと変わっていった。
電車から降りると、さっきまでとは全然違う臭いが鼻をくすぶる。よし、帰ろう。そう思って、歩き出した時、ケータイの着信音が鳴った。
「もしもし」
「芽衣……何時に帰ってくるの」
お母さんからだった。
「もう、駅。今から、帰るから」
謝ろう、とは思えなかった。まだ、まだ無理だ。
「待ってるから。帰っておいで」
そう聞こえた後、ケータイからツーツーという音が鳴り始めた。

まだ無理だけど……とりあえず、帰ろう。そして、向き合ってみよう。
これからも間違うことはたくさんあると思う。生きている限り、人は間違う。きっと誰でも。でもその間違いと向き合わなければ、前には進めない気がする。


あ、と思って空を見上げた。決して綺麗とは言えない夕焼けが空いっぱいに広がっている。でも……嫌いじゃないよ。誰にも聞こえないような小さな声でわたしは呟いた。
さぁ、帰ろっかな。
肩から落ちかけていた鞄をしっかりと持ち上げた。
                

家出

読んでくださってありがとうございました。
どうだったでしょうか?
またこれからもよろしくお願いします!!

家出

「……お母さんなんて、大嫌い」 家出をして向かった先はおばあちゃんの家だった。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-23

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