原発の儚 1️⃣~4️⃣
原発の儚
1️⃣ 個別訪問
一九六一年の盛夏の夕刻である。
F町の町長選挙の熾烈な中盤である。ある原発作業員が住むアパートの一室だ。
「毎度の事だが、今回はとりわけ激烈だな」「まさに死闘だな。戦前の下馬評では、現職再選説が大半だったんだが」「ここに来て、対立候補優勢で間違いないっていう話しもあるが。いったいどうなってるんだ」
小太りの鼻髭の男がオンザロックを作りながら割り込んで、「全くだ。幹部連中の態度も異様だ」
楢葉と呼ばれたやさ面にサングラスの、やはり四〇半ばの男が、「怪文書が出回っていた。反町長派が配ったんだろう」テーブルにその怪文書が置かれている。
《表面》
-原発利権の亡者-
現職町長61歳。元進歩党県会議員。35歳で初当選。当時は原発反対の急先鋒。55で町長当選後に驚愕変身。原発推進のリーダーに。原発利権漁りの数々。
《裏面》
-女達を食い物に-
巨根。性豪。浮き名数知れず。強姦疑惑?
妻の真の死因は?
淫乱後妻の不行跡の数々。
「いつもの有り様だが、今回は特に酷いな」「俺達には、その方が都合がいいんじゃないか?ここらじゃ選挙はお祭りだ。上から命じられた通りに、やる事をやりゃ、色々ついてくるからな」「原発様々。仕事は安泰っていうわけか」
「それにしても、今日はやけに暑かったなあ」「五〇軒ばかり。みっちりと個別訪問させられたよ」
「俺もだ。でもな。悪いことばかりじゃないぞ」と、髭が思い出し笑いをした。「何かあったのか?」「聞きたいか?」「もったいぶるなよ」
「鬼部落の奥まった一軒家に行ったんだ。庭から入ると、廊下が網戸になっていて。テレビの音がする。だが、声をかけても反応がない。すると、やがて、目が馴れたら、女が昼寝の最中なんだ」「ほう」「こっちに足を向けてな。スカートがめくれて…。青いパンティから陰毛がはみ出ててな。丸見えよ」「幾つくらいの女だ?」「四〇くらいだな」「それで?」「一緒に回っていた課長に呼ばれて。中断だよ。いいところだったのに」
髭は原発作業員だ。サングラスは電気工で、やはり、原発構内で働いている。二人は、もう一人のタクシー運転手を待っている。
🎆 落雷
電気工の楢葉は、ある出来事を思い起こしていた。
男は一週間前に、落雷で停電した、鬼部落の復旧作業に駆り出されていた。鬼神社という小さな社の近くの現場に着いた時には、既に雨はあがっていた。
落雷で破損したトランスの交換を終えた電柱の上の楢葉は、ある光景に目が釘付けになった。
ある家の風呂場が丸見えなのだ。そこで豊満な女がシャワーを浴び始めたのである。
電柱から降りると、通りかかった農夫の老人が通電の礼を言う。楢葉が業務を装ってその家の内情を尋ねると、数年前に夫を交通事故で亡くした四〇位の女の独り暮らしで、街のスーパーに勤めていると言う。
翌日の昼に、楢葉がスーパーに行くと、女はレジにいた。楢葉が煙草とウィスキー、弁当を差し出して、思い付いた風に顔を近づけて、ある商品の置き場所を聞いた。
鬼沢という名札をつけた女が、やはり潜めた声で離れた棚を指差した。その商品を持ってレジに戻り、「これでなきゃ駄目なんだ」と、言うと、「高いだけはありますよね」と、返して、「今日お使いになるの?」と、囁いた。「念のためだよ」「奥さま?」「一人だ」「私もだわ」
その日の日付も変わる頃、楢葉は女の家の庭に忍び込んで、馴れた仕草で、音もなく二階のベランダによじ登った。
蒸しかえって風はない。南に面した引き戸は案の定、網戸一枚だ。
一間だけの屋内に忍び込むと、満月の明かりの中で、ベットにあの女が浴衣で横たわっていた。更に近付いて確かめても、間違いなく熟睡している。
三面鏡の前に椅子を見つけた男が、ベットの脇に運んだ。
その時に壁に架かった一枚の絵に気付いた。裸の死体が山積みになっている。その前で、真裸の臨月の妊婦が、ナチスの将校と性交をしているのだ。銅板画だ。こんな絵をを見たのは初めてだった。なぜ、こんな絵がここに架かっているのか。
男がウィスキーの携帯ボトルのキャップを外していると、女が呻いて寝返りを打って、太股が露になった。
ウィスキーが乾いた喉に染み通った。浴衣の裾を密やかに捲りあげる。陰毛が覗いた。パンティを着けていないのだ。更に捲る。下半身ががすっかり姿を現した。
繁茂が臍まで延びている。
浴衣の胸元が弛んでいる。息を殺した男が、更に浴衣の胸元を広げると、乳房がこぼれた。豊かな息づかいが、黄金色の月明かりに照り返っている。
男が煙草に火を点けた。ゆっくりと煙を吐いた。その時、稲妻が煌めき、村な少し遅れて雷が鳴った。間もなく、雨が激しく叩きつけ始めた。
いつの間に目覚めていたのか、やがて、女が、「夜這いみたいね?」「盆踊りの夜だもの」「避妊具なんて要らなかったのに」と、言った。
2️⃣ 黎子
状況は一九四四年の盛夏に遡る。あのスーパーに勤める女、黎子レイコがニ五歳だった頃である。二歳になる娘がいる。
一九四四年の梅雨に入る頃に、ニ年の兵役を勤めて帰還した夫の浪江は、傷痍軍人に成り果てていた。脊髄に損傷を受けて、片足を無様に引きずるのである。浪江は、大陸の戦闘で負傷したと呟いたきり、口をつぐんだ。
浪江と黎子の生活が、再び、始まったが、浪江は働こうとはしなかった。身体もそうだが、むしろ、神経を病んでいるのかと、黎子は疑ったりした。
黎子は瓦職人の娘だったが、父は早くに病没していて、義母も二年前に脳溢血で呆気なく死んだ。三つ上の義姉は某所に嫁いでいるが、幼い時分から不仲だったから、行き来はない。
黎子は国民学校を卒業すると、他県の紡績工場で働いた。即ち、黎子は、『宗派の儚』の、あの夏達とは同僚なのであった。彼女達が暮らした女の園、寮の出来事は、『宗派の儚』に詳細に記述したから、読者諸兄はご存じであろう。黎子もまた、夏達の洗礼を受けていたのであろうか。
黎子は義母の薦めで見合いをした浪江と、三年前に結婚したのである。
浪江は町工場の工員だったが倒産して、今は跡形もない。
結婚してからも、黎子は働きづめだった。一年前からは街の商店に勤めている。
二人の新しい暮らし、とりわけて、閨房はどうだったのか。戦場から、しかも、酷く負傷しての帰還であり、若い夫婦の再出発の場面だから、描写は必然で、すべきなのだろうが、古稀を過ぎた筆者には、書く気力も失せているのである。こうした有り様なのだから、後は、読者諸兄の想念に任せるしかないのである。そもそもが、軟弱に成り果てた今日の小説作法なのだから、その方が好都合かも知れないではないか。
🎆 奥宗オウス
あの忌まわしい盛夏の敗戦から遅れて数ヶ月、四五年の晩秋に引き揚げて来た、部下の奥崇オウスが、その足で命の恩人の浪江を訪ねて来た。
奇跡のような再開を一、二杯のコップ酒で確認すると、「積もる話は…。お前、取り合えず湯を浴びろ。臭くて堪らん」と、浪江が笑った。街外れの農家の寂れた借家だが、五右衛門風呂がついていた。
夜来から気狂いしたかの様に、酷く蒸し暑い昼下がりで、ついさっき、浪江が行水をしたばかりだったのだ。
奥崇が水ともつかぬ温い湯に浸かっていると、歪んだ音を立てて引き戸が開いて、浪江の妻が現れた。
「背中を流すようにいいつかりました」と、目を伏せた女が呟くように言った。
挨拶もそこそこだった戦友の妻は、改めて視線を送ると、豊満な肢体にふくよかな狸顔なのである。迷わずに、奥崇は礼を言いながら、湯船を跨いだ。
男が長身で頑健な広い背中を見せると、黎子が石鹸を泡立て始める。
「浪江がお世話になりました」「とんでもない。上等兵は、いや、ご主人は命の恩人なんです」「あの人は大陸のことは何も話してくれないものですから」「私だって、そうです。話そうにも、余りに…。御門のためにした、正義の聖戦と思い込んでいましたが。まあ、一晩開ければ、民主主義の世になって。現人神といわれた御門が、人間宣言をした、今だから言えますが。大陸や半島の植民地は、悲惨や残酷、生き地獄の有り様でしたからね」
「でも、奥さん。戦争は戦場ばかりではなかったんです」黎子の手が、男の首筋辺りで止まった。
「勿論、銃後の奥さんや、ご婦人達がご苦労されたのは、承知の上ですが」「驚いたのは、ある小説の話です。聞きたいですか?」女が頷く気配を察して、「一〇日ばかり前です。漸くたどり着いたばかりの首府の闇市は、戸惑うばかりの賑わいで。確かに貧しいには違いないが、顔色などは、つい、三月ばかり前まで戦渦の只中にいたとは、信じられないくらいに晴れ晴れとしていましたよ」「私などは、母国に帰還したとも思えずに、幻影に紛れ込んだ亡者の気分で…」「それでも、長らく飢えた腹を久し振りに満たして、雑踏を歩いていると。書店、と言っても、数個の木箱に古本を並べたばかりの露店ですが…」「こう見えても、私は中途で入隊はしましたが、哲学の学徒でして。眺めていると、『御門の儚』という真っ赤な装丁の一冊に目が止まった。だが、著者名がないんです」「初老の主人に聞くと、戦中に地下出版された綺談だと言うんです」
「首府では、ふとした縁があって、青柳という侠客の事務所に寄宿していたんですが。帰って、早速読み始めると…」男の話が止まったから、手を休めた女も息をつめた。 「私などは初めて読む類い稀な綺談で。大陸の植民地に派遣された我が軍の、異様な場面なんです。いわば、私達の事が書いてあるんだ」「こんなところに、私達以上に、しかも、私などは信じて疑わなかったあの御門制と、決然と対峙していた作家がいたんだ。実に驚きましたよ」女の手は動かない。
3️⃣ 綺談『御門の儚』
以下は、奥崇が首府の闇市で買い求めた、『御門の儚』のごく一部を抜粋したものである。
御門軍の伊勢大尉が率いる大陸第一部隊(注1)、別称「雷イカズチ隊」は、要衝の西京を難なく陥落させた。大陸正規軍は早々と退却、遁走していたからである。だが、伊勢にはゲリラの一群が大衆に紛れて、反攻を企んでいるという諜報がコダマ機関から届いていた。
伊勢は一部の青年将校の反対を押しきって、壮絶なゲリラ狩りを敢行した。女子供を含む一般市民を悉く出頭させて尋問し、些かでも不審があれば拷問にかけたのである。
とりわけ、コダマ機関から通報のあった者の縁者は凄惨を極めた。これは一兵卒として従軍していた筆者の知己が、あるルートを通じて密かに漏らした、戦争犯罪とも指弾すべき、御門軍の世にも憚る蛮行である。
正面に鎮座した伊勢が副官に囁くと、幾人かの伝言を経て、歴戦の古年兵に命令が伝えられた。その中年太りの禿げ頭の男の眼前には、現地人の母子が地べたに座らされているのである。
母親は四〇辺り。息子は一六、七。いかにも童顔だ。父親と兄はゲリラの一員だが、危機を察して既に遁走していた。逃げ遅れた母子も、勿論、通じてはいたが、決して口を割らないのだった。
古年兵が母親を引き立てて衣服を剥いだ。もう一人が少年も丸裸にしてしまう。
二人のこめかみに、それぞれ銃口が突きつけられている。やがて、母親が息子の股間にまとわりついたのである。
さて、読者諸兄は武田泰淳の『汝の母を!』をご存じだろうか。この『御門の儚』は、その以前に書かれたものと、筆者は認識しているが、真偽のほどは定かではない。
(注1)
この伊勢は『柴萬と磐城の儚』に登場した、あの伊勢と同一人物である。
(注2)
いま、読みつぎたいもの第5回 : 武田泰淳「汝の母を!」 http://www.labornetjp.org/news/2016/0201matu
(注3・参考文献)
寓話『柴萬と磐城の儚』
🎆 花畑
奥崇が枯れた息を吐いて、「もう、これ以上は話せない」「あの時代に、あの作家は国家と、御門と、熾烈に戦っていたんです。特務に逮捕されれば獄門死の筈だ。我々と同じ様に命を賭していたんだ。あらゆるところが戦争だったんだと、痛感しました」と、切れ切れに言った。黎子の手は男の肩に留まったままだ。
我にたち戻ると、蝉時雨が、再び、喧騒なばかりの、異様に気だるい昼下がりなのである。
「その本は?」「リュックサックに入ってますよ」「後で読ませて貰いませんか?」「いいですけど。でも、いいのかな?」
女が、また、奥崇の裸を洗い始めて、暫く蝉時雨ばかりが騒いでいたが、やがて、耐えきれないように手を止めて、「あなたもいたんですか?」と、黎子が絞り出すと、「どこに?」「その小説は実話なんでしょ?」と、また、女が切なく絞り出した。「いた」と、男の声も乾いている。
幾らか間があって、「浪江は?」と、女。男は答えない。女が、再び、男の背中を擦り始めた。そして、「いたんですね?」と、せがむと、喋る筈もない男の背中が、肯定していたのであった。
それから、浪江と奥崇は、黎子が腕を振るった惣菜で、何事もなかった如くに痛飲した。
夜中に尿意を催した奥崇が、外の便所に立った。済まして、見上げると黄金の満月である。
目の前には、ダリアやグラジオラスの原色の花花が咲き誇って、緩やかな風が艶やかな香りを噴霧している。
ふと、妙な香りに男は気付いた。肉の香りだ。見回すと花畑の外れに人影があって、あの黎子だったのである。
女は茫茫と何かを見ている。近寄って声をかけると、驚いた風に顔を向けた。
「随分と大きな月だ」「落ちてきそうだわ」女の声は昼間の話し具合からは、雲泥の程に変化している。
「大陸の月は、もっと大きいですよ」黎子が大きな瞳で奥崇を見返した。
奥崇は、その眼が濡れているのではないかと、疑いながら、「竹取り物語の大本は大陸の話じゃないかと、思いましたよ」「宝物を探させる説話もそうですが。手を伸ばせば届くような月なんだ。これなら、あのかぐや姫も、巨大な梯子でもあれば、容易にあの月と行き来できるだろうと、感じたものです」
「大陸は何もかもが大きいんです」「この国の蛮勇ばかりの軍隊などは、懐深く飲み込まれてしまって。勝っているのか、逆に包囲されているのかさえわからない。どこから狙われているかも知れない恐怖で、いつも気の休まることがなかった。あんなに広大な大陸なのに、我が御門軍だけが、狭隘な空間に押し込められているような気分で。発狂する者すらいた程です」
「銃後もそうでしたよ。お上はもとより、隣組で監視しあって。いちいちの発言はおろか、視線や息のやり取りまで気を遣って」と、黎子が囁く。「ある時などは、店の主人と歩いていたら、すれ違った軍人さんに、もっと離れろと、怒鳴られたんですよ」「そうでしたか。苦労を掛けました」「あなたにそう言われても…」二人は意外と明るく笑った。「あんな陳腐な玉音より、一言だけでいいから、謝って欲しかったわ」
気丈な質なんだと感じながら、男が、「絢爛な花花だ」「戦争が終わって、反動みたいに植えたんです。戦時中はみんな芋畑だったのよ。こればっかりでは、親子二人でも困るくらいなのに。あの時節は、買い出しも来て。断ると罵られもしたんだわ」男は、次第にこの女と情が通うような気がしてきた。
4️⃣ 蟷螂
奥崇には妻があった。戦死した兄の妻だった女である。いわゆる逆縁だ。子供はいない。
僅かばかりの資産を絶やさずに成り立たせるための、接ぎ木の様な急こしらえの縁組みであった。奥崇は、些かも特別な関心など抱いた事のなかった兄嫁だった。だから、この狐顔の女には、幾度、閨房を共にしても、特別な情愛は抱けなかったのである。
妻は極貧な農家の出なのに、農作業が得てではなかった。非力とか不器用というより、心底は労働が嫌いなのだと、奥崇は悟った。そう思い至ると、尚更、気が遠退くのである。
敗戦を知ってからは、大陸軍に投降して、国土再建に協力する者もいたから、奥崇も帰国などせずに、そうしようかと迷ったくらいだったのである。
だから、戦地から引き上げても、ぐずぐずと首府に長逗留をしたのだった。その挙げ句にも、家には戻らずに、この浪江の元に直行したのだし、再び、この地に長逗留も悪くはないなどと、思い始めてすらいたのであった。
その時に、黄金の月の彼方で雷鳴が轟いた。「この時節は、いつもの雷なの」「海の模様と、高い気温が混濁すると起きるんだって、誰かが言っていたけど」「家に入りましょうか?」と、男が水を向けると、「雨になるまでには、未だ、小一時間はあるわ」女が毅然と退けた。
男は、ふと、「ご主人は?」「あの人は一度寝たら、それっきり。脊髄が犯されたせいなのかしら。あちこちの神経が壊れてしまったみたいで。昼間の生活は随分と体を蝕むみたいで」
南からの風がいっそう生暖かくなった。「あれだって…」と、言いかけて、女が口ごもった。
女の視線の先に男が目をやると、一メートルもあるダリアの大振りの葉の上で、二匹の蟷螂が絡み合っているのである。
二人が息を殺して見ていると、遂には一匹が相手の頭を食い始めた。「あれが雌だわ」「食った方?」男が蟷螂の交尾を見るのは初めてではない。頷きながら女が、「あれでも、未だ、してるのよ」と、呟いて「しながら食われてしまうんだわ」と、言った。
🎆 不信
妖艶な生殖と惨殺を終えた雌の蟷螂が去って、黄金の月明かりと二人だけが残された。
月の裏側に稲光が走って、拍子を外したような雷鳴が後を追ってくる。
「あの時だって」と、女が話を継いだ。「風呂の話だわ」女は月を仰いでいる。「いくら戦友だって、初めて会う妻に、裸の背中を流させるかしら?」奥崇には返答が見つからない。「私の操を、あの人は信じているのかしら?」沈黙と女の独白が交錯している。
「戦場にいた人だもの。獣と変わらないでしょ?」「戦争が人間を変えてしまうんだわ」「でも、兵士が悪いんじゃないわ。みんな御門のせいなんだわ。まして、あなたを非難しているんじゃないの。あなたはあの通りの紳士だったんだもの。そうだったでしょ?」男が唾を呑んだ。
女も深く息を吸って、「風呂から戻った後に、あの人が、どうだった、って、聞いたのよ」と、吐き出した。「疑っているんですか?」女が頭を振った。再び、息を吸って、「期待してるんだわ」また、頭を振って、「むしろ、強いているんだわ」と、一気に吐き出した。
稲光と殆ど同時に、雷鳴が轟いて、空一面が怪しく輝いた。裏手の小山から、おびただしい羽音が飛び立って、聞いたこともない獣の叫び声が天空を切り裂いた。
やがて、我に帰ると、女が腕の中にいるのである。黄金の輝きが薄れて、黒雲が月にかかり始めていた。雷鳴が近づいている。
長くて静かな抱擁が解けて、「あの人は不全なの。脊髄のせいなのか、あなたが話してくれた小説の様な光景を見たからなのか、何もわからない」「私は幼子もいるし。長く留守にした夫の不全など、拘りも…。ないのかしら?どうなのかしら?」「でも、招集前は存外に淡白だったあの人が、今となっては、閨が最大の命題になってしまったの。男の人ってそうなのかしら?」奥崇には答えようもない。
「何をするでもなく、妄想の世界に耽溺してしまって。奥に籠って、密かに何かを書いているみたいだけど。ひょっとしたら、狂ってしまったんじゃないかって…」「このままだったら、私までが、あの人の狂気の世界に引きずられて。我を失いそうなんだもの」
浪江が黎子と奥崇の不義を望んでいて、三人での共同生活すら幻想していると、黎子は言うのである。驚くべきは、幼子の種を疑っているとも言うのだ。
慌ただしかった出征と妻との閨房の記憶が、奥崇の勘定では符合しないのである。浪江は妻に不義を半ば強要しながら、過去の不義を疑っているのだ。狂気の沙汰なのか。不全がなす男の、雄の哀れな本性のなす所業なのか。奥崇には図りようもない、初めて知る浪江の現実なのであった。
だが、浪江が望んだ黎子と奥崇の不義は、実行されつつあった。そして、浪江が拘泥し悶着の限りを尽くしている、幼子の真実の父親は誰なのか。浪江が言う通り、黎子の不義の娘なのか。黎子が否定する如くに、出征間際の二人の閨で受胎したものなのか。
事実はどうだったのか。古今東西、永遠の謎なのである。仮に、その時にこの豊満な女が密通を図っていたとしても、子種が誰かなど、愉悦が錯綜する日々にあっては、女にすらわからないのだ。
(続く)
原発の儚 1️⃣~4️⃣